経済学思想批判

「西洋思想としての経済学」批判

――経済学革命:生命言語説による西洋経済学批判と縮小社会の経済――

                     人間存在研究所 研究員 山田 武

はじめに

 今日、経済学は、グローバル経済の荒波の中で、その存在意義が問い直されています。

 文明の転換期である縮小社会(脱拡大成長社会)への今日的移行過程において、修正されているとは言え、従来の自由放任、優勝劣敗、成長拡大の主流経済学が、その役割を終えて新しい人間と社会の価値観にもとづく経済学を必要としています。

 今までの主流経済学は、「見えざる手」による自由主義・楽観主義・予定調和(歴史決定論)により、需給均衡、資源の効率的分配、等価交換の神話という詐欺的論法がまかり通ってきました。そして、その実態は、強者支配、弱者搾取、格差拡大のために、宗教や民族主義を利用してあからさまな階級闘争や植民地支配、全体主義(ファシズム)をもたらし、20世紀には二度の世界大戦を引き起こしました。大戦後は民主主義の進展とともに福祉政策(民主社会主義)が普及し、植民地の独立が進み、便利で快適な生活が世界的に常識化してきました。

 しかし、20世紀の後半には、科学技術の進展と大量生産・大量消費のグローバル化が進むとともに、資源・エネルギー、地球環境問題が進行し、「成長の限界」が明らかになってきました。経済学の前提であり様々の矛盾・格差・対立を内包していた「成長神話」が崩壊し、途上国の社会福祉が十分実現しないままに貧困や格差や民族対立が露呈し、閉塞状態が生じてきたのです。

 そこで、経済学を支えてきた人間観や社会観のイデオロギー性と、西洋的限界を明らかにし、来るべき縮小社会の経済学を模索してみます。

[Ⅰ] 西洋経済思想の再検討

(1)経済学思想の限界

① 経済学思想の背景(西洋近代社会の展開)

・思想的背景:社会契約説と市民革命、重商主義と重農主義から産業資本に有利な自由放任主義へ

自然法による啓蒙思想と重農主義・個人主義と財産権・形式的自由平等

・経済的背景:植民地支配・交易、毛・綿織物工業(マニュファクチュア)の発展⇒産業革命・資本主義確立

・資本主義とは:商品の生産や交換(市場取引)を通じて、資本・利潤・冨の増大をめざす経済活動


② 市民的社会契約による市場的利益追求へ(資本主義の発展・市場の欠陥・強者支配)

・自由競争と形式的平等:社会契約=理性信仰による「利己的互恵」の市場経済の法則性追求へ

・実質的不平等:形式的平等・互恵の合意(契約自由)⇒利他心よりも利己的経済活動の優位、格差

・資本主義とは:利益の最大化を求める資本主義は、市場で「安く買い高く売る」商業資本の原理

に加えて、産業革命後の工場等で「安く大量に生産する」産業資本の原理によって確立する。

・「個人的悪徳は公共的利益」:『蜜蜂の寓話』(マンデヴィル)⇒ 蜜蜂は働き者、浪費や奢侈の推奨


③ 社会的冨の分配法則と経済法則解明の限界(交換過程の欠落を吟味の必要)

・重農主義:ケネー『経済表』(1758) 諸階級への冨の分配⇒ 交換の観点の欠如(自然法思想)

・古典経済学:スミス『国富論』(1776) 冨の分配と調和(見えざる手)、労働価値説の限界

・マルクス経済学:『資本論』(1857) 労働価値説・等価交換・剰余価値説の誤り(利潤は不等価交換)

唯物史観⇒資本制生産様式の発展・崩壊における歴史決定論の誤り、意識的主体性欠如

―人間の意識は、社会に規定されつつ、自ら意識を創造的に規定して行動する(生命言語説) ―


④「市場の欠陥」を隠し自己調整・均衡を装う(成長・発展・拡大を前提とした経済学)

・「見えざる手」による調和:「供給はそれ自らの需要を生む」セイの法則、マネタリズム

・需要供給の一般均衡論:「生産物の需給と価格は均衡状態を目指す」新古典派、格差の均衡・固定

・利己的互恵主義の限界:情報・条件の非対称性、市場競争は、調和的ではなく、強者支配的である。

・欲望・需要の拡大と限界:量的経済成長(拡大)は、環境・資源の有限性から目をそらし刹那主義・

享楽主義による地球環境破壊と資源争奪・格差争乱の道につながる。


⑤ 市場原理の欠陥と国家の機能(西洋的な楽観的合理主義「見えざる手」)

・等価交換の欺瞞性:互恵的交換は、情報・立場・条件・利得の非対称性によって格差を生じる。

・交換便宜性の欠陥:貨幣と価格による交換便宜性は、不等価交換を隠蔽し格差を助長する。

・交換と分配の正義:市場の正義と国家の正義の統一としての市民倫理(交換の正義・公正の重視)

・労働の価値と価格・貨幣・利子理論の再検討:人間労働や物的資源の正当な評価、実体経済の重視

市場の価値評価(価格)における情報の非対称(差異)性と格差固定の調整、情報の透明化

★ 合理的経済人による市場取引の等価性は、経済学理論が想定した神話ないし欺瞞にすぎない。

★ 冨の再分配は、民主的利害調整(福祉政策)を行うが、交換的正義の欠落が道徳的退廃を招く。

★ 企業経営は、一般商品を「安く買い安く造って高く売る」ために労働力を有効に使いこなすこと。

★ 企業利潤の源泉は、商品交換に潜む不等価性(欺瞞性)にもとづく(主流経済学批判)。

(2)西洋的成長(拡大)経済学の成立(アダム・スミス)

・労働価値説の誤り:自然価格(交換価値)の想定⇒ 商品価値(価格)は、交換判断の成立結果に過ぎない。

(交換価値・価格は、交換という社会的判断の結果であり、投下労働量は判断材料の一つ)

・見えざる手・自由放任:西洋中心の楽観的経済発展時代の発想。調和なき帝国主義戦争の時代へ

・「利己的互恵主義」の欺瞞性:商品交換は、非対称的互恵性によって欺瞞を避けられない。

★「私の欲しいものをください、そうすればあなたの望むこれをあげましょう、というのが、すべてのこういう申し出[互恵取引]の意味なのであって、こういうふうにして、われわれは、自分たちの必要としている他人の好意の大部分を互いに受け取り合うのである。」(『国富論』玉野井 他訳 中央公論社p82)

「自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばある。/社会のためにと称して商売をしている徒輩が、社会のためにいい事をたくさんしたというような話は、いまだかって聞いたことがない。」(同上p388)

★ どこに欺瞞があるか? スミスは、中産階級の道徳性を信じた(『道徳感情論』)が、現実の経済活動においては道徳的制約を解き放つことになった。しかし、スミス的楽観主義の時代は終わり、世界史は新しい大転換のステージに入っている。われわれの住む大地・地球はあまりにも小さい。生命進化の代表である人類は、社会責任だけでなく地上の生命すべてに対する責任を負っている。

 欺瞞に満ちた強者支配の利己的無責任は許されない。縮小社会では、「三方良し(売手・作手よし、買手・使手よし、世間・自然よし)」という経済倫理が必要。はたしてスミスには、そしてまたユダヤ・キリスト教文明には、このような倫理はあったのだろうか。「市場の欠陥」の基本は「道徳性の欠如」に由来する。市場の欠陥を経済の成長・発展で取り繕うことの限界は明らかである。非道徳的経済学の歴史的社会的責任は大きい。

(3)マルクスの歴史決定論と剰余価値説の誤り

・唯物史観:意識的創造的存在としての人間の主体性(判断)を排除(歴史決定論)、階級闘争一元論

・剰余価値説:「等価交換」による搾取の誤り、交換過程の神秘化(商品A≠商品B、 WIN>win、情報の非対称性等)

・人間抑圧の理論:非人間的で劣悪な労働条件を、労働力(者)の歴史的価値とみなし、労働者の人

間的価値を高めるよりも階級闘争(私益は公益)自体に価値・目的を与えたこと。

★等価交換による剰余価値説とその問題点等置は等価ではない⇒ 商品A≠商品B

①労働価値説:交換価値は投下労働量によって決まり、使用価値は欲望で決まる。

 ☞ 価値の多くは労働によって生産されるが、終局には主観的判断で決まり、交換価値は市場における社会的平均的価値「基準」に過ぎない。

②等価交換説:商品交換は、純粋な形態では等価交換であり、価値を産み増す手段ではない。

 ☞ 商品交換は、交換の結果(等置)を価値・価格の「基準」とし不等価な「価値の移動」を伴う。

③剰余価値説:剰余価値は、生活の必要以上に働く剰余労働により生じ、資本家の利潤となる。

 ☞ 剰余価値は、交換過程(雇用契約)において、労働力を平均的人間以下に評価する不等価交換によって生じる。等価交換であるにもかかわらず搾取が行われるのではなく、不等価交換であるから搾取と詐取による剰余価値の蓄積が可能になる。剰余価値は労働の産物であっても、不等価交換によって資本家のもとに利潤として集積される。

人間抑圧の理論:人間の本質は、言語によって生じる創造的意識(思考能力)にあり、マルクスの考える ような、単なる「生産力と生産関係」によって規定される存在ではない。逆に、人間とは「生産力と生産関係」を規定する言語意識的存在である。唯物史観は、自らが人間の本質に気づかずに、唯物史観によって意識的に人間(労働者)を支配し抑圧してきたのである。

資本の商業的増殖:個別資本の増殖は、社会関係の中で他人の労働力をいかに利用(搾取)するかにかか っている。つまり、産業(生産)資本における価値増殖は、発明発見や技術革新の成果を生産過程で活用するだけでなく(超過利潤)、不等価な売買関係によって得た労働力商品(人間)をどのように使うかに左右される。産業資本の増殖(集積)は、商業利潤(不等価交換)の原理の上に成立する。マルクスは、剰余価値を等価交換で説明することによって、労働力の低賃金と抑圧状態を正当化することになった。いわゆる「流通過程」とは、不等価な分配ではなく、不等価な交換過程であり、交換取引によって強者のもとにより多くの冨が移動・集積されることある。つまり、利潤の源泉は、マルクスの追求した平均的(価値)法則において生じるのではなく、交換における多様な差異性(不等価・非対称性・格差的状況等)によって生じるのである。(註1↓

(4)新古典派経済学、市場原理主義の誤り(定常・仮想静学の限界)

○不等価交換の分析を欠如させた「限界や均衡」理論は、市場原理(見えざる手、自動調節、パレート最適等)を

神秘化し、商品売買の格差性や非対称性、そして強者支配を正当化する。

・ワルラス均衡論:市場の均衡価格は自然的事実 ⇒ 社会的な一時的・平均的事実にすぎない。

価値論:「効用と稀少性」は、価格決定における「効用(利潤)拡大」を隠蔽する。 (註2)

・パレート効率性:市場需給競争を通じた資源の効率的配分 ⇒ 効率性格差の拡大を成長で欺く

・マーシャル均衡論:需給の均衡は「時計の振り子」のように安定的である(時間・空間や条件の固定)⇒

「正常な需給均衡」という仮想理論は、強者支配(格差社会)の現実を肯定する。 (註3)

・ハイエク新自由主義:強者支配の「自生的秩序」を合理化し、人間の善性と創造性を排除する。

☞ 新古典派に共通の限界は、科学(数学的構成)を装って、社会問題を隠蔽し逃避すること

☞ 商品の社会的平均的価値(価格)は、交換の成立(結果)によって決まる社会的便宜的交換比率であり、特定の物や貨幣証券の数量で表現される。交換の成立は、労働や費用、効用や希少性、そして「交換を通じて得られる利益(商業利潤)」等を勘案して、競争的取引によって行われる。市場の均衡は、一時的なものであり、時間・空間の差異、情報の非対称性、当事者の営利欲などによって常に変動し、新古典派の前提としての合理的経済人による完全競争は存在しない。

(5)ケインズ経済学と金融財政政策

・古典経済学批判:セー法則(供給・成長が需要・均衡をもたらす)の克服、自由放任の調整、自然法思想(決定論)の克服

・有効需要の創出:国家財政による市場への関与⇒市場経済の調整(経済計画)、資源の再分配

・福祉国家論:社会民主主義、フェビアン主義⇒ 近代ヒューマニズム(人権思想)と共同体意識

・国家金融資本主義:マネタリズム(フリードマン)弱肉強食・自己責任の強化、投機利益主義(貨幣商品の供給による経済操作)

(6)『聖なる経済学』の可能性

長所・積極面;①文明の転換点への危機意識 ②人類社会の相互依存性 ③価値の交換・移動における透明性の確保 ④過剰生産・消費による感謝と尊敬、美と機能の統一喪失 ⑤私的所有欲増大の問題点を明示 ⑥マネー(市場)経済の縮小と贈与(互恵)経済の拡大

短所・疑問点:①生命の所与性への疑問 ②「感謝と贈与」は人間本性か ③未開社会の贈与の意味、ユートピアは存在したか ④「分離」が諸悪の根源か?(言語による分離から創造的統合へ) ⑤マネー悪玉論は有効か?(マネーの活用と限界―世界マネーの公正な管理の必要)

総合的評価:性善説にもとづく経済学として今日の資本主義の欠陥を明らかにしている点は評価できるが、人間存在の本質と資本主義の分析が不十分で、未来の経済学として確立できない。

※参照⇒ 『聖なる経済学』の可能性(その1 その2

(7)縮小社会の経済―新しい社会契約または道徳的社会主義

・市場の欠陥の理解:情報と立場の非対称性が交換の不透明性を生み、市場に活力と混乱を与える

・交換的正義と分配的正義の統一:市場(不等価交換)の透明化、国家・世界政府による世界市場の管理

・互恵互助、共存共栄の経済:交換と投資の透明化と欺瞞性の排除、分かち合い市場道徳の確立

・企業経営の在り方:経営の連帯責任、透明性の確保、社会的責任、相互扶助、信賞必罰、公正と正義

・世界政府とグローバル経済:覇権主義抑制の国際ルールと秩序の確立が、次世代への責任(持続的生存)

「宇宙船地球号」「Only one earth」「Think globally, act locally」「持続と共生の世界連邦」

・新社会契約:諸個人の社会的責任の自覚と連帯、国家・政府との契約だけでなく市民間の契約を

(参照⇒https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai

★ 市場の欠陥性 (A's win≠B's win、WIN>win, A≠B)

市場の欠陥性の理解は、欧米の主流経済学とりわけ新自由主義(市場原理主義)の理論的根拠となっている新古典派経済学の批判・克服と、今日においても幽霊のように抑圧と貧困の世界をさまよっているマルクス主義経済学の批判・克服にとってきわめて重要です。

市場の交換の成立(商品A=商品B)は、市民社会の契約が形式的な自由・平等の人格関係によって行われ、表面的には当事者間の納得と同意によるwin winの関係とされています。そして、こうして成立した交換関係は、マルクス経済学を含む経済学では、社会的平均的に正義と公正にもとづくものとして公認されます。

しかし実際の交換(契約)関係においては、契約当事者間の立場の違い(差異)によって交渉力や情報力等の力関係の差異が生じ、必ずしもwin winの関係にはならずwin loss(win winにおける格差・不等価、勝者と敗者、A's win≠B's win、WIN>win)の関係が生じ常態化します。これは市場競争によって需給均衡化されても、あくまでも強者による支配・均衡の永続化であって、独占・不公正価格や低賃金にみられる典型例のように独占的利益や社会的格差拡大(階級対立)さらに覇権(帝国)主義的戦争という社会的緊張(矛盾)を産み出す根源になっています。

市場による資源の効率的配分は、情報の透明性や当事者間の対等な力関係があれば、合理的な有効性を持つでしょう。しかし、現実の資本主義社会では生産手段や資産の歴史的に形成された格差があり、市場の力関係は当然に公平公正なものとは言えません。そのことを隠し騙すために様々の欺瞞があり、また公正を維持するための慣習や法制度のしくみもあります。しかし、市場の公正と正義は、根本的には歴史的・地理的不公正・不平等を前提とする限り実現は困難であり、その欠陥性を克服することはできないのです。ただ、市場の欠陥性の理解、不等価性の理解が現状の社会改善や縮小社会の平和的移行にとって必要不可欠なものになるでしょう。

★ 「経済学の目的」の革新 (J.S.ミルの限界)

古典経済学を大成したといわれるJ.S.ミルは、『経済学原理』において「定常状態」の経済について今日的視点を提案しながら、経済学的合理性の適用範囲を次のように限界づけています。「経済学の目的からいえば、こ[地球の限界]のような観念的な限度が実際的限度となってあらわれうる時期を考慮する必要はないのである。」(『経済学原理 第三編第二章二』末永訳p35)しかし、21世紀の今日、地球的な「成長の限界」が明らかになって、グローバル経済が実態的に縮小化せざるを得ない状況では、地球の限界は、ミルの時代とは異なり「実際的限度」となっています。だからこそ、「市場の欠陥」を前提とした新しい経済学が必要なのであり、そのために西洋で確立した合理主義的認識論にもとづく「人間存在と西洋思想」の批判が求められるのです。

ただ古典経済学の共通の欠陥は、「利潤の源泉」に関するJ.S.ミルの次の表現にも表れています。「利潤が生ずるのは、交換における付随的事項からではなくて、労働の生産力からであり、一国の一般的利潤は、いつの場合も、その労働の生産力が、交換か行われると否とにかかわらず、つくるところのものである。」(同上第二編第十五章五)個別企業の利潤から、「一国の一般的利潤」にすりかえるのは、マルクス『資本論』の手法と同じく欺瞞に過ぎません。「貧困と格差」の問題は、利潤を誰がどのように獲得・所有・蓄積するかということであって、一国の利潤(資本・冨)の蓄積が、労働の生産力によることとは次元が違うのです。

☆★ 自由主義経済学は、経済成長の名の下に「強きを助け弱きを挫く」ばかりでなく、地球環境を破壊し資源を食い尽くして、地上の生命と人類の生存を危うくする経済学である。

☆★ 格差拡大の根源は、自然の不平等を相互利益に高めるとして、自由な交換(市場)による商品売買を等価交換であると欺き、自由競争のもとで勝者の支配を合理化する経済学全般の欺瞞性とそれを利用する強欲な人間の利己的権力欲にある。

[Ⅱ] 人間存在と西洋思想批判――資本主義・市場経済の解明の前提

現代世界を支配する産業資本主義は、西洋近代の政治的経済的成長・発展・拡大を背景に、とくにイギリスの産業革命によって確立し急速に世界に広がりました。しかしなぜ、東洋の中国やインド、また西アジアで資本主義が発展しなかったのか。資本主義の西洋的特殊性とは何か。このことは人類社会の閉塞状況が現実のものとなって(成長の限界・社会の縮小として)、一考する余地があると思われます。

なぜなら、産業革命(その前提となる市民革命・個人主義)がイギリスにおいてはじめて成立した理由の説明は、「西洋」の枠内で説明されていますが、なぜそれが東洋において起こらなかったかの説明は十分になされていません。われわれは、東洋的合理主義と異なり、近代の科学技術と個人主義(自由・平等)を創出した「西洋的合理主義」にその根源を求めます。そしてそのために、人間存在の本質である言語と言語的認識論――人間にとって知識(価値の認識)とは何か――の解明が必要と考えます。

(1)生命言語説とは――西洋思想批判の前提となる認識論

①人類は、生命(高等動物)が、認識と伝達の手段としての言語(記号)を獲得することによって誕生した。

②言語による認識(思考)は、生命活動(生命恒常性の維持)の原則である刺激・反応・学習性を超えて、人間的・知的世界の拡大をもたらした。

③人間は言語によって自らを意味づけ合理化する知識的存在である。人間の知識は、言語によって主観的に構成され、社会の中で客観化(平均化)される。客観的知識は、社会的に検証されることによって科学的知識となる。生命の知識は、基本的に生きるための知識であるが、自他を欺き生命に災厄をもたらす知識ともなる。

(2)人間存在の在り方――生命の代表としての人類的自覚

①生命(細胞)の誕生は、地球という特殊な環境における特殊な存在(生化学的反応)の出現である。

②生命を価値的に捉えれば、生命とは、神や自然の被造物(贈与物)ではなく、自らの存在様式を持続する主体的な力であり、「人(生命)は、生き続けなければならない」という言語的表現が知識の前提となる。

③生命を、神(天)や自然(宇宙)の被造物とする考え(解釈)は、依存的神秘思想を生じ自己の主体的形成や自律的努力を疎外する。しかし、①、②を前提とする限り、運や天命・神慮等の非科学的表現によって、人間存在や行動を合理化(言語化)することは否定されない。(言語化の意味の自覚)

(3)西洋思想批判とは――言語論による西洋合理主義批判

① 合理主義批判:精神(心理)分析の非科学性、無意識の神秘化、欲望・感情を言語が自己疎外

② 自然法思想の決定論:社会契約説⇒ 天賦人権論(自由・平等・所有)と革命権(民主主義)

西洋思想の本質:合理主義またはロゴス主義⇒ 人間と自然の世界は、ロゴスすなわち言語によ って論理的に捉えた秩序(法則・ロゴス)として認識・表現される。

④ 西洋思想の限界:人間存在すなわち精神(マインド・心)的・肉体(物質)的存在を、与えられたもの(受 動態)として捉える。これは与える物としての神の存在を前提としてきた。

⑤ 西洋思想の克服:民主主義の基礎となる近代人権思想としての自由・平等・幸福追求(社会権) は、 与えられた(天賦)ものとしてではなく、人類が獲得・創造したものとして再構成する必要がある。

(参照⇒http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page6.html

(4)社会科学と政治道徳

①人間の言語的本性:創造的認識と社会換関係によって生活の安定・向上と発展・拡大を目指す

②西洋思想と自然法思想:人間社会を支配する合理的自然法則の認識が理想的生き方もたらす

③個人主義と社会契約論:生命・自由・財産の自然権を保障するための社会契約と国家への信託

④社会契約論の限界:人間は生来的に自由・平等ではなく、認識と合理的行動の限界がある

⑤政治と国家の役割:民主主義と利害の調整、情報の透明化と契約の確認、分配的正義の実現

⑥経済・市民社会の道徳化:交換的正義の実現、自律的倫理・イデオロギーの再生・創造、世界連邦

【註1】マルクス価値論批判

流通する価値の総額は、その分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の一フアージング貨を一ギニーで売っても、それで一国の責金属量をふやしたことにはならないようなものである。一国の資本家階級の全体が自分で自分からたまし取ることはできないのである。要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局はやはり同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれぱ剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである。

こういうことからも、資本の基本形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれわれが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本と高利貸し資本とをさしあたりはまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるであろう。

本来の商業資本では、形態G―W―G’、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。他方、商業資本の全運動は流通部画のなかで行なわれる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば、不可能なものとして現われ、したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的に割りこむ商人によってこれらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。この意昧で、フランクリンは、『戦争は略奪であり、商業は詐取である』と言うのである。商業資本の価値増殖が、単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきたとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提になっているここでは、まだまったく欠けているのである。」(『資本論』第四章第二節 全集 岡崎訳[下線は引用者による])

☞ 前段の「剰余価値の創造」は、たしかに「流通または商品交換」によって行われるのではなく、労働者の労働力(商品の使用)によって行われる。しかし、労働者の創造した新たな価値(冨)が誰の所有になるかは、流通・交換の過程で行われる。問題にされるべきなのは、「一国の資本家階級の全体」の剰余価値(利潤・冨)ではなく、個々の資本家のもとにどのようにして冨が集積されるのかということである。だから、個々の資本家や個々の労働者相互の所得の格差は、「分配の変化」の問題よりも、個々の人間間の労働力を含む商品の不等価な交換(取引・売買契約)に依存しているのである。

つまり「剰余価値=利潤」すなわち利益の獲得や冨の集積は、(労働者たちによって)生産された冨が誰の手にどのようにしてどれだけ移動・収奪されるか、ということであって、これは生産過程によるのではなく交換過程(労働契約)によって得られるのである。マルクスのように低賃金を等価と見なして合法則化すれば、それは労働力の価値を不当に貶めていることになる。

商業資本の価値増殖を説明するのに、「長い列の中間項」は必要ない。資本の集積・増殖は、個人(使用者、経営者)の労働能力を超えて、社会関係の中で他人の労働力をいかに利用(使用、搾取)するかにかかっている。産業資本(の利潤)においても、その増殖は個人の発明発見や技術革新の成果だけでなく、それらを他の個人(社員、労働者)をどのように使い使わせるかにかかっている。

マルクス(等)が「労働能力の価値は賃金の最低限に等しい」(『剰余価値学説史』)というのはナンセンスである。労働能力の価値は、ある時代の人間的平均以下の価値、しかも肉体的生存に不可欠の生活手段の価値に抑えられている。その価値をマルクスは労働者にとっての合理的な価値とみなすのである。だから、彼が次のように言うのは、決して彼自身が「粗雑」なのではなく、全くの事実誤認であり、また「安っぽい感傷」で嘆くのでもない。彼は自分では自覚していないが、人間としての労働者を不当に貶め抑圧しているのである。

労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、・・・肉体的[生存]に欠くことのできない生活手段の価値である。・・・このように事柄の本質から出てくる労働力の価値既定を、粗雑だとして・・・嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。」(『資本論』第四章第三節 全集 岡崎訳)

☞ 本当に「非常に安っぽい感傷」なのだろうか?労働者にとって、抑圧され使い捨てられる低賃金が、本当に労働力の価値なのだろうか?マルクスの労働価値説と等価交換説では、労働者の格差賃金や劣悪な労働条件を説明できない。この実態への非難を「安っぽい感傷」という表現で切り捨てることはできない。一般的に労働市場における労働力商品の価格(賃金)は、不等価で不正義な人間抑圧的低賃金なのである。だからこそ労働組合は、商品交換の不等価性を排除し、交換的正義を実現するために、賃金等の労働条件の改善を求めて戦うのである。

【註2】ワルラス価値論批判

「小麦1ヘクトリットルは24フランの価値がある。まず第一に、この事実は自然的事実の性質をもっていることを注意しよう。銀であらわした小麦のこの価値すなわちこの小麦の価格は、売り手の意志から生じたものででもなく、買い手の意志から生じたものでもなく、またこの二人の意志の合致から生じたものでもない。売り手はもっと高く売りたいのであるがそうすることができない。なぜなら、小麦はこれ以上の価値がないからであり、また売り手がこの価格で売ることを欲しなければ、買い手はこの価格で売ろうとしている他の幾人かの売り手を見いだし得るからである。」(レオン・ワルラス『純粋経済学要論』久武雅夫訳 岩波書店 p36 下線は引用者による)

☞ ワルラスの主張には、基本的な事実誤認がある。小麦1HLは、24フランの価値があるというのは自然的な事実ではなく、社会的な、それゆえに一時的または平均的な事実である。ワルラスが「自然的」というのは、自然科学的というのを含意している。「24フランの価値がある」というのは、交換価値(価格)の変動性を留保して、まず理念的な均衡価格の存在を強調したいがための一方的な思い込みである。「小麦はこれ以上の価値がないから」24フランなのではなく、需給関係の一時的な結果にすぎない。そのような結果を、社会的定在とみなしたいのはわかるが、それは労働価値説と同じような思い込みにすぎない。しかもワルラスも認めるように、買い手も売り手も個々には「24フラン」が適正な均衡価格とみなしているとは限らないから、変動こそが自然的事実と言えるのである。ワルラスのいう「他の幾人かの売り手を見いだし得る」という可能性もまた「ワルラス(限定・純粋)市場」における思い込みにすぎない。

商品価格は基本的に市場における従属変数であり、無数の社会的交換の結果なのである。結果は次の交換の価値判断の材料にはなるが、独立変数ではありえない。重要なのは需給量でも結果としての価格でもなく、商品を所有し交換の主体となる人間の価値判断(どのような効用を意図しているか)なのである。儲けるために売ろうとする商品には、様々なバイアス(不正、独占、偽装等)がかかって取引価格が決定する。つまり、交換過程には、単に物やサービスの価値ばかりではなく、交換者の致富欲や支配欲が含まれているのである。独占価格や労働賃金はその典型例である。

「交換価値は、自由に放任せられる限り、自由競争の支配を受ける市場において自然に発生する。①交換者は、買手としては互いにより高く需要しようとし、②売手としては互いにより安く供給しようとする。これらのせり合いから、あるいは上向きのあるいは下向きのあるいは静止する、商品の交換価値が生れる。 ①Comme acheteurs, les échangeurs demandent à l'enchère, ②comme vendeurs, ils offrent au rabais, et leur concours amène ainsi une certaine valeur d'échange des marchandises tantôt ascendante, tantôt descendante et tantôt stationnaire. ・・・・・・・・・・③私は常に競争の点から見て完全に組織された市場を仮定する。これは、純粋力学で最初に摩擦のない機械を仮定するのと同様である 」(同上p44)

☞ 一般に商業利潤は、より安く買い、より高く売ることによって得られる。ワルラスの場合、完全競争を前提として、①のように買手が高く買い求めようとするのは、本当は少ない商品を安く買いたいが、どうしても欲しい場合は、競争上高い値を付ける必要があるからであると思われる。また②のように、本当は高く供給し利潤を多く確保したいが、販売競争に勝つために安く供給しているに過ぎない。しかしこれらの前提は、一般的な不完全競争のもとでは一面的な真理にとどまり、情報の非対称性(つまり費用情報の隠蔽や詐欺的宣伝等)によって非現実的前提となっている。つまり、交換価値・価格の等価性という前提は、現実の不完全競争のもとでは成立していないのである。

本来、商業資本における買手は、本当は少ない商品を安く買って多くの利益を得たいが、どうしても欲しい場合は高い値を付ける。売手になると、本当は多くの商品を高く売って多くの利益を得たいが、どうしても売りたい場合は安く売ろうとする。ワルラスの完全競争による交換過程の理解は、交換者の本音(意図・事実)を反映していない。市場では、多い商品少ない商品、費用をかけた商品、安上がりの商品、欲しい商品、不要な商品等々色々あるが、それらの商品の価格は、秘密や不確実性の多い情報競争の中で行われた取引結果に過ぎない。つまり、新古典派経済学は、「市場の欠陥」の中で行われる交換価値には、需給均衡による等価交換の保証がないにもかかわらず、完全競争の前提による数学的処理を可能にして、現実の不公正取引を隠蔽するために考案された経済学と言えるのである。

③の方法論に関しては、人間の経済学を純粋力学と同様に考えることは、M.ウェーバーの言う「理念型」の必要性を了解しても誤りである。なぜなら、商品取引の行われる市場では、結果としての交換価値・価格は完全競争のもとで行われているのではなく、不完全競争(交換当事者間の力関係、情報の非対称性、時間的・空間的差異等)のもとで行われ、その不完全さは不断の価格の変動によって確認できるからである。摩擦なき機械の想定は可能でも、人間の交換条件の多様さを「合理的経済人」という概念でくくることは人間の無知に由来しているだけでなく、人間存在自体を、つまり経済活動の全体を西洋的偏見で歪めて、現実を隠蔽することにつながってしまうのである。

【註3】A.マーシャルの格差容認と社会福祉観

「たとえ創造性はそれ程でないとしても、高度の精神的な緊張を必要とする重要な仕事に従事している人々が、彼らの生活の条件として、ある大きさの富を要求する正当な権利を持っていることも、疑いのないことである。しかし、にもかかわらずますます明瞭となりつつあることは、わが国やその他の西欧のすべての国が、全国民の生活の質の向上のために、物質的な富の一層大きな犠牲を負担できる余裕を、すでに現在において持っているということである。このような問題が、国民的な義務であるよりはむしろ全世界的な義務として扱われる時が来るかも知れない。しかしそのような時代はまだ視野のうちにはない。現世代や次世代の現実的な目的のためには、各国民は主として自国の資力でやってゆかなければならない。自分の重荷は自分で負わなければならない。」(『産業と商業』 永沢越郎p7)

☞ マーシャルは貧民や労働者に深い同情を寄せたが、経済学上は格差について理性的な姿勢でこれを肯定した。また富裕者の冨の獲得の努力に合理的正当性を見いだし、貧困に対し上から目線で福祉政策を容認している。まず自助努力は、正しいのか?

企業家、・経営者の「ある大きさの冨」実は「莫大な報酬」は、正当な労働による「正当な権利」と言えるのか。この点こそ科学的な検討が必要である。つまり、「高度の精神的な緊張を必要とする重要な仕事」とは、一般商品の生産売買における企画管理や利益追求の仕事ばかりではなく、労働力商品として雇用した従業員・労働者を、いかにその人間的価値以下の賃金で使用し、賃金以上に労働させて利益を極大化することにつとめるという仕事なのである。これこそ産業資本主義確立以降の労働力市場の不等価交換の事実ではなかったのだろうか。マルクスを含めて今日までの殆どすべての経済学者たちは、労働力商品を最適例として、商品市場における交換の不等価性を常に隠蔽してきたのである。

またマーシャルの言う「全国民の生活の質の向上のために」為すべきこと(国民福祉の充実)は、「犠牲 sacrifices」ではなく「義務」とするのが正義に適う道ではないだろうか。彼は科学的であることを目指しつつ貧民に対する博愛心を持っていたが、それはあくまでも現状を肯定する強者の立場から経済を分析する学者の冷めた心であった。現状の差別と格差を容認し、改革への道を閉ざして「自分の重荷は自分で負わなければならない」と言うのである。

☞ マーシャルは貧民や労働者に深い同情を寄せたが、経済学上は格差について理性的な姿勢でこれを肯定した。また富裕者の冨の獲得の努力に合理的正当性を見いだし、貧困に対し上から目線で福祉政策を容認している。まず自助努力は、正しいのか?

企業家、・経営者の「ある大きさの冨」実は「莫大な報酬」は、正当な労働による「正当な権利」と言えるのか。この点こそ科学的な検討が必要である。つまり、「高度の精神的な緊張を必要とする重要な仕事」とは、一般商品の生産売買における企画管理や利益追求の仕事ばかりではなく、労働力商品として雇用した従業員・労働者を、いかにその人間的価値以下の賃金で使用し、賃金以上に労働させて利益を極大化することにつとめるという仕事なのである。これこそ産業資本主義確立以降の労働力市場の不等価交換の事実ではなかったのだろうか。マルクスを含めて今日までの殆どすべての経済学者たちは、労働力商品を最適例として、商品市場における交換の不等価性を常に隠蔽してきたのである。

またマーシャルの言う「全国民の生活の質の向上のために」為すべきこと(国民福祉の充実)は、「犠牲 sacrifices」ではなく「義務」とするのが正義に適う道ではないだろうか。彼は科学的であることを目指しつつ貧民に対する博愛心を持っていたが、それはあくまでも現状を肯定する強者の立場から経済を分析する学者の冷めた心であった。現状の差別と格差を容認し、改革への道を閉ざして「自分の重荷は自分で負わなければならない」と言うのである。

参照>

経済学的人間観の批判⇒

https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai/keizainingen

新古典派経済学批判⇒

https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai/keizainingen/sinkoten_no

◇ 資本主義または市場経済は「自生的」か「創造的」か (ハイエク批判

人類社会が一般的に自生的であるか創造的であるかを論じることは生産的ではない。しかし明確にしなければいけないことは、どちらに傾斜することも誤りであり危険であり、人間とその歴史理解を歪めることになる。

私は人類が創造的であることを強調している。しかしこれは西洋思想が、文法の受動態や聖書の神的言語観によって人間の認識論的被造物性を強調してきたこと、それによって思想的な誤りと限界を示すことを明確にするためである。しかし、人間言語の創造的な特質を自生的なものと捉えれば両者の対立は氷解する。つまり、人間の創造性は、言語の自生的進化性によって今日の経済的政治的な成長・発展・拡大をしてきたということができるのである。

ハイエクが自生的成長を推奨するとき、スミス以来の伝統である主流経済学の自由放任、調和均衡を前提にして社会主義とケインズ経済学を批判しているのであるが、これは弱肉強食のもとで成立してきた自由放任の市場経済によって成立してきた、強者支配の経済支配体制を全面的に擁護するために導き出されたものである。いわゆる資本主義の強欲さを正当化し強者による経済成長の推進によって弱者にも「お零れ」にあずかれるというトリクルダウン理論もここから来ているのである。

しかし、このまやかしの理論も、「成長の限界」が認識されるようになってから行き詰まってしまった。経済的人間の限界、市場の限界、経済成長の限界、そして人間の限界とその本質の理解への再検討が経済学の分野でも生じてきたのである。経済学は正しかったのか、市場は本当に合理的であったのかと。

★ 西洋では、古来より、世界と人間の存在を説明するのに、神を必要としました。ニーチェは「神は死んだ」と言って、超人に救いを求めました。しかし、人間は、自らの存在を意味づけ、人生苦を軽減するために神を造ったのであり、神は死んだのでなく、必要性が低下したと考えるべきです。仏教の始祖ブッダは、幸福になるのに神を必要としませんでした。彼はインド哲学の伝統の中で、神に人生の説明を求めるのではなく、人間自身の努力が人生苦の克服を可能にすると考えました。

今日人間は、自らの存在の真実と意味を科学的に知ることができ、世界の説明と人生苦を克服するために、神や超人を必要としなくなりました。しかし、地球環境を修復不可能なほどに破壊した人間は、もはや過去の牧歌的で野心的な自由放任の世界に戻ることはできません。人間自身の知識と知恵によって、この有限な地球を常に意識しながら、ともに思いやりと分かち合いの精神で、手を携えて生きていかねばならないのです。

諸個人や諸民族の共存共栄を阻む利己的な経済は、すべての人間から持続的幸福の可能性を奪ってしまいます。今この人類的危機の時代に、この地上に生きる生命と人間が幸福を持続させるために必要なのは、生命としての人間と人間の社会生活に関する正しい知識と知恵を獲得することです。その際、まずわれわれが知るべきことは、言語によって特徴づけられる認識論(ものの見方や考え方)と行動論(主観的な欲望・感情と知識に動かされがちな人間行動)、そして物質的生活と利害の絡む政治・経済等の社会科学的知識です。

そのような共通の普遍的知識の裏付けとともに、個性豊かな自己実現と社会の多様なつながりがあります。あたかも好みの食事は異なっても身体のエネルギー代謝は万人が同じであるように・・・。人々の幸福や安らぎの形は変わってもその心理的反応は同じであるように・・・。そして、そのようにしてそれぞれの個性に応じた努力が、すべての人々の幸福を実現することができるのです。

(※ 「縮小社会研究会」へ論説として投稿 ☞ ここ人間存在 Q&A

※ 参照⇒ 「西洋思想批判人間と社会 Q&A2

◇ 西洋合理主義によって増幅・助長された近代西洋の対立構造(弁証法、科学的認識、利己的互恵市場、進歩主義的生存競争、二元論的宗教)を越えて、人間的無意識(欲望・感情)と社会経済の暴走を抑制・コントロールできるのは、合理主義を生み出した言語・知識の力による以外ない。人間の経済活動(ミクロ・マクロ経済)の調整・コントロールも言語の意義の理解、すなわち人間と社会についての本質的理解が前提となる。そしてそのためには、まず、言語の伝達的機能だけでなく認識論的機能について理解する必要がある。⇒ 言語とは何か