人間・言語・西洋

言葉とは何か―生命言語説の展開―

西洋思想の批判から見える世界

■ ある会合で生命言語説について、次のような質問がありました。生命言語説にとって基本的な疑問なので、簡単に説明しておきます。

【質問】

① 言葉とは何か : なんとなく使っている言葉の中にどんな秘密があるのか?

② 西洋思想の批判からどのようなことが分かるか : 言葉の役割に西洋と東洋のちがいがあるのか? だとしたら、それは具体的にどんなことか?

③ 言葉はどこから生まれるか : 言葉を使うときに何かを考えるけれども、それは心の働き でしょうか?

④ 言葉は人間にとって必須のものか : 言葉のない生活って考えられますか? 手話は言葉なのでしょうか?

⑤「言葉にできないほど」といった表現があるのですが、それは何を意味しているのですか?

【解答例】

①⇒どんな秘密があるのか?

言葉の中に生命とその生き方の秘密があります。言葉は一般には意思の伝達を行う道具とされています。しかしそれだけでなく、人間は、言葉によって自分がどのような環境・状態の中にいるのか、またどう行動し生きていくべきかを(言葉の知識・情報によって)意味づけ方向づけるからです。

人間は言葉によって、何(誰)がどのようにあり(what/who how)、どうすればよいのか(how, which)、また、なぜ(why)そうなるかという高度な創造的思考ができるのです。人間は、言葉によって知識と情報を集め、人間自身の世界(文化)を創造するのです。そのことが理解できれば言葉の秘密の大半は秘密ではなくなります。

②⇒西洋と東洋の言葉の役割の違い?(高難度)

両者の自己理解の仕方(自分の意味づけ)の違いがわかります。西洋的な自己理解では、言葉によって自己を対象化し、客観的に合理化して理性的に自己と世界・自然を支配するものと考えます。それに対して、東洋では、対象を自己と一体化して捉えます。つまり、西洋では、本来生物学的には身体(欲求・感情 ≒ 無意識)と自己(対象化された言語的・理性的自己)は一体化しているのですが、これらを分離して、理性によって身体を支配しようと考えます。しかし、東洋では、両者をできるだけ一体化して、世界(宇宙)全体の中に位置づけそこに安心立命を求めようとします。

具体的には、西洋的合理主義の根源に文法上の特徴があります。主語の明確化、他動詞と再帰動詞による対象の客観化、受動態(be動詞+過去分詞)による存在の明確化、関係詞による論理化は、言葉(論理・ロゴス≒認識・言語化の結果)を存在と見なす西洋的思考様式の特徴と言えます。

次の『ヨハネによる福音書』冒頭の表現は、西洋的言語観の根底にあり、言語の解明の制約になっています。「初めに言(コトバ)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」

このギリシア的・キリスト教的言語観は全く正しくなく、言葉は生命としての人間が進化の過程で獲得したものであり、「神」という言葉(存在)を創造することによって自らの存在を意味づけてきたのです。「言葉に命がある」のは、「言葉が神である」からではなく、人間の言葉に神を創る想像力があるからです。言葉が偽りの光(言葉=神)を克服し、言葉の秘密を解明したとき、始めて普遍的人間観が確立し人類の共通理解と今日の閉塞状況の打開が期待できるのです。

③⇒言葉はどこから生まれるか、また心の働きとの関係は?

すべての生命の生存(適応)様式は、外界・環境をどう処理し、個体と種の永続的生存を図るかということです。「どこから生まれるか」と言う設問の答えは、この生命の生存様式のねらい(生命の意図)から進化して生じてきます。言葉は高等動物の音声反応から生じたものですが、単に音声刺激による伝達のための直接的外的反応でなく、反応・行動から独立的に内言化した内的反応(の可能性)によって進化してきました。

つまり、特定の対象(食料や自然現象等)や状況(安全性・危険性等)を音声信号(言語)化することによって、直接に知覚していない(直示的)状態や、想像的状態を言葉で表現できるようになったのです。ここから人間の複雑な(complex)心が形成されてきます。

心は欲求と感情という無意識的領域と、言葉による自己と世界の意識可能領域によって構成されています。しかし、欲求や感情は多くの場合に、言葉による修飾や意味づけ・合理化がおこなわれますが、意味づけできない場合(欲求不満が継続し、防衛機制に失敗する場合)に、深刻な病的状態(神経症等の精神疾患)が生じます。

④⇒人間にとって必須のものか、手話は言葉か?

言葉は人間の本質―言葉のない生活は動物的な生活になります。

手話は単なる手まねの動作ではなく、言葉によって構成された論理的記号なので音声言語の役割を十分果たします。人間は大脳の発達によって、基本的に外的刺激や反応から独立して大脳皮質のみで思考・想像ができるので、不自由ですが手話でも音声言語と変わりはありません。

⑤「言葉にできないほど」の意味は?

言葉は,欲求と感情の生理反応的働きに左右されます。不安や強迫などの否定的感情に代表される無意識の認識と行動は、言葉の操作力・支配力を遙かに超えています。しかし、人間はこの生理的限界を超えようと様々の挑戦・工夫をしてきました。言葉を越え、言葉によって人間と世界を支配しようとしてきました。宗教や道徳はその現れの結果です。「言葉にできないほど」の意味は、言葉で表現もコントロールもできないほどの大きな感情的・生理的・身体的反応(喜怒哀楽、恐怖、驚き、痛み等)を伴う場合の表現と思われます。

【補足】

「私は想像しがちだが,もしも知識の道具としての言語の不完全がもっと徹底的に考

量されたら,世をあれほど騒がせた論争の多くは独りでになくなり,真知への道は,そ

しておそらくは平和への道も,いまより大いに開けるだろう。」

(ロック.J『人間知性論』大槻春彦訳)


「動物は感じ、また見る。人間はそのほかに考えるのであり、認識するのである。欲

するということは人間にも動物にも共通だ。動物は自分の感覚と気分を身振りや声で

他に伝える。人間は自分の思想を言葉によって他の人に伝える。しかしまた言葉によ

って隠しもするのである。言葉こそが人間の理性の最初の産物であり、またその欠く

べからざる道具でもある。そこでギリシア語では、「理性」と「言葉」とが同じ「ロゴス」と

いう言葉で言い表されているのである。」

(ショウペンハウエル、A.『意志と表象としての世界』斉藤信治訳)


「言葉の創造的な力については、人間は常にそれを感じてきたし、詩人達もしばしば

それを歌ってきた。言葉は、空想的現実を作り出し、活力なきものに生命を与え、ま

だ起こらぬことを知らせ、すでに消え去ったものを現代によみがえらせる。あれほど多

くの神話が、世の始めに何ものかが無から生じ得たことを説明するため、天地創造の

原理として、この実体なくして至上の本質である言葉を据えたのもこのためである。

確かに、これ以上に高い能力はない。考えてみればわかるが、人間のすべての能

力は、例外なくここに発するのである。言語をまって始めて社会なるものが可能とな

る。個人が成り立つのもまた言語によってである。子どもの自意識の目覚めは常にこ

とばの学習と時を同じくし、これによって子どもは、個人として少しずつ社会の中に入り

込んでいくのである。」

(バンヴェニスト,E.『一般言語学の諸問題』岸本通夫監訳 みすず書房)