人間とは何か(Q&A)2

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Q.マルクスの労働観の誤りまたは限界とはどのようなものでしょう?

A.マルクスは、労働が人間と自然との物質代謝を支えるものであり、自然に働きかけかつこれを変化させることによって、合目的的な意志(生産と再生産)を実現させるものであり、そこで使用される労働・生産手段(生産力の支え)は人類の歴史的発展段階を規定している、と考えます。このこと自体は正しいのですが、問題は「合目的な意志」と「労働手段と社会の発展」がどのような人間的要因によってなされるかということです。

 この考察がなければ結局、「人間の意識がその存在を規定するのでなく、その社会的存在が意識を規定する」という「唯物論的認識論と歴史決定論の誤り」を理解できなくしてしまいます。マルクスは、人間の本質を「労働(生産)」という自己対象的活動にあるとして、「言語に由来する意識的創造的活動」を、社会的(物質的)活動に従属させてしまいました。人間の意識は、歴史決定論的に社会的に規定される(反映論:マルクスの場合)だけでなく、現在と未来を創造的に変革することができるのです。

 マルクスの労働(生産)中心の唯物論は、人間性の本質である言語的意識性を、歴史的発展過程に従属させることによって、人間性そのものを抑圧的(労働は本来抑圧的・強制的・手段的側面をもつ)にしているのです。⇒マルクス批判


Q.『資本論』の端的な誤りとは何でしょうか?またその誤りの原因は何でしょうか?

A. 『資本論』は、商品交換の分析から始まります。この分析は、A.スミスをはじめとする古典派経済学の考えのる市場の等価交換原則、すなわち商品A=商品Bを前提としています。しかし現実の市場における商品交換(等置)は、必ずしも商品A=商品Bではありません(商品A≠商品B、完全競争市場などはあり得ない)。むしろ取引(等置)が成立しても、交換当事者間の力関係や情報の非対称性などによって、労働力商品(賃金)のように商品A>商品B(winA>winB)となる場合が多いのです。この商品の等価交換という端的な誤りを前提として資本家の搾取する剰余価値(利潤)が規定されているというのが マルクスの『資本論』なのです。

 この誤りの原因は、市場への過度な信頼、すなわち市場参加者がすべて自由で平等な合理的経済人であるという前提にあります。ところが現実の市場は、弱肉強食の交換関係であり、価格による需給の調整といっても、結局強者の利益と論理が優先します。独占的価格や低賃金は、法的規制がなければほとんど常に強者の利益につながります。『資本論』では、弱肉強食の論理を階級闘争(社会主義革命)によって逆転しようとしたのでしょうが、所詮前提が誤っているのですから革命が成功するはずもないのです。⇒『資本論』批判


Q.『資本論』は人間抑圧の理論と批判されていますが、その根拠は何でしょうか?

A.われわれはマルクスの『資本論』を、解放と抑圧の理論と考えています。「解放の理論」とは、労働者の搾取や抑圧の状況を、階級闘争理論によって解放しようとしたことです。解放の理論としては、労働者の貧困や搾取の状態を、民主主義の発展や連帯・福祉の政策によってかなり改善しました。他方で「抑圧の理論」としては、20世紀にマルクス・レーニン主義的社会主義の成立によって一党(プロレタリア・労働者政党)独裁の体制が成立し、階級闘争理論は反対者の抑圧や粛正という反民主的・反人権的政治状況をもたらしました。

 ここで、『資本論』に関して「抑圧の理論」と言っているのは二つの理由があります。

 一つは、『資本論』の弁証法(対立的論理を克服する論法)で基軸になっている労働概念は、人間にとっては自己を実現するものではなく、生存の欲望を満たすための苦痛であるという抑圧的側面があることです。人間が労働するのは生きるため、欲望を満たすためであって、労働自体が人間存在(社会的生存)の本質ではないのです。労働が生存を支え豊かな生活のための必要条件であることは当然で、労働の成果や労働自体が喜びや快楽をもたらすことは事実です。労働することは楽しいし、楽しくあるべきであるのは言うまでもありません。しかし、労働による生産活動は災害や事故への対処も含み、自然を相手にするか、機械を相手にするか、人間を相手にするかに関わらず、必ずしも思いどおりには実現できないからです。その事実をふまえずに、労働の必然性(必要性)が、神や支配者の命令や科学的理論であるかのようにを決めつけ、一方的に強制労働させられ、搾取される可能性が『資本論』には含まれているのです。階級闘争による労働の弁証法的解放理論の危険性は、理論崇拝を伴って『資本論』に組み込まれ人間性を陰に陽に抑圧してしまうのです。

 二つには、『資本論』の基礎の一つであり資本主義における搾取や低賃金、格差の拡大の根源(源泉)を解明したとされている「剰余価値説」に含まれている誤った見解です。つまり、『資本論』では、「発達した商品生産の社会」(商業利潤でなく産業利潤の支配する商品市場社会)における商品の交換は、等価物の交換を基本にしているという経済学全般が陥っている基本的な誤りをマルクスも踏襲していることに起因する人間性の抑圧です。『資本論』の搾取理論は、「剰余価値説」という表現で有名です。これは商品社会が等価交換であるということを前提に、労働力商品の所有者である自由な労働者が、等価のうちに売買され低賃金で酷使されているのに、なぜ秘密のうちに剰余価値として搾取され、資本家(マルクスにとっては単に「資本」)の利潤を増大させているのかを解明する過程で「発見した」とされているものです(エンゲルス『空想から科学へ』)。 等価交換の是非については、『資本論』の中でコンディヤックの不等価交換論の批判を通じて、等価交換の正当性を主張しています(第2編第4章第2節一般定式の矛盾)が説得力はありません(剰余価値は流通過程で生産されないが、不等価的に強者のもとへ交換・流通・移動する)。にもかかわらず、マルクスだけでなくスミスに始まる経済学全般が、市場の合理性を強調するために交換当事者間で交換が成立すればwin winの等価が成立したと主張するのは科学的検証に耐えるものではありません(新古典派のメンガーは主観価値説で不等価交換を主張した)。

 そればかりかマルクスは、労働者の低賃金を、労働者の再生産に必要な社会的平均賃銀に求めていますが、この理解こそマルクスの「剰余価値説」の人間抑圧性を示しています。おわかりでしょうか。マルクスは労働者の低賃金を、資本家階級を含めた人間全般の平均的欲望を無視して、抑圧された労働者階級だけの生活を支えられる最低平均賃金(生活必需品の価値)に矮小化し、労働者の低賃金を合法則化(正当化)しているのです。つまり、マルクス理論は、労働者(労働力商品)の価値を不当におとしめ、労働者の生活向上のためよりも、「賃金制度の究極的廃止」という空想的イデオロギー実現のための手段としているのです(マルクス『賃金・価格および利潤』とくに「六 価値と労働」以降および末尾を参照)。


Q.「市場の欠陥」とは何でしょうか。「市場の長所」や「市場の失敗」と比較してどのような意味を持つのでしょうか。

A.商品交換社会の経済活動の中心にある「市場の欠陥」の根源は、主流の経済学の根柢の思想にみられる「利己的互恵(公益)主義」という考え方にあります。ここで言う「利己的互恵(公益)主義」とは、A.スミス(1723~1790年)の予定調和(自由放任)的発想を、B.マンデヴィル(1670 ~1733)の『蜂の寓話』に出てくる「私悪は公益」とを合わせて端的に表現したものす。スミスの「自由放任」や「予定調和(見えざる手)」の発想は、今日の主流経済学の基調でもありますが、基本的に弱肉強食と経済の拡大成長による社会発展の時代的産物です。

 この思想は、イギリスが産業革命を経て資本主義を確立し、植民地争奪戦争に勝利して保護貿易主義から脱皮しようとした頃の自由放任時代の有産階級の雰囲気をよく表しています。今日では、福祉国家論や混合経済論も台頭していますが、主流の経済学(新古典派・新自由主義経済学)においては、巨大企業を抱えるアメリカをその代表とする先進大国の支配的イデオロギーになっています。

 利己的互恵主義の人間・社会観においては、市場原理主義が原則であり市場の正当性・公平性・相互性・等価性・均衡性・効率性が前提とされます。だから、景気変動からの逸脱(恐慌)や独占・寡占、失業や公害、貧富・地域の格差等の社会矛盾が発生しても、それらは「市場の失敗」として扱われます。つまり「市場の失敗」とは、自由放任の市場原理主義を正当・公正・最善であることを前提として、むしろ「利己的互恵主義」の逸脱として使われ、できるだけ「政府の干渉」を排除するためのイデオロギーとして利用されているのです。

 したがって、経済活動の生産・流通(交換)・消費の過程で重要な位置を占める市場(流通過程)は、どのようなものであるか、はたして人間は市場でどこまで経済合理的に活動しているものなのかの吟味が必要になるのです。市場の経済合理性の一つである「需要供給の関係」を見てみると、いかにも価格の変動と需要供給の関係が整合的であるように見えますが、実を言うと、需給曲線は需要供給の相互間に「完全競争」が前提されますが、現実の市場に完全競争などあり得ません。商品をめぐる情報非対称性や交渉力・力関係、生産販売の形態など多様な要因が市場に存在するのが現実なのです。

 すると市場では、勝者は強者であり、敗者は弱者として固定する傾向が生じます。勝者の総取り、独占的利益の永続化がめざされます。つまり「利己的公益主義」における「公益」とは名ばかりで、現実には格差の拡大・固定化、貧困・失業等の社会問題が頻発することになります。それでも「トリクルダウン(したたり落ちる)」のように、経済の拡大成長が起これば矛盾も緩和されるでしょうが、今日のように資源エネルギー問題や環境問題、途上国の貧困などによって「成長の限界」が明確かつ深刻になるとになると、もはや主流経済学の欺瞞性が明らかになります。 ⇒ スミスの道徳経済論批判


Q.人間にとって資本主義社会(現代社会)とはどのようなものでしょうか。

A.資本主義社会をどのようなものとしてとらえるかは、現代社会の諸問題をどのように解決するか、また 将来の人類社会をどのように構想していくかという問題にもなり、とても重要な問題です。

「人類社会がどのようにあるべきか?」について構想することは、自生的秩序である資本主義を否定し人間の尊厳の基本である「自由」を抑圧するものであるというハイエク新自由主義の立場からは批判があるかもしれない。また、階級闘争による社会発展を科学的社会主義と称するマルクス主義の立場からは、プチブル(小市民・個人主義)的な妄想と揶揄(ヤユ)されることにもなるだろう。しかし、商品交換を等価であるとして正義の基本におくアダム・スミス以来の経済学的誤りの克服は、人類社会の今日的課題を解決するためには、避けて通れない問題である。

このHPサイトでは、すでに次のページでその概略を述べています。☞市場の欠陥性とは」 「西洋思想としての経済学批判」


◇win win(相互利益)の交換関係は、等価交換とは限らない。功利主義的なスミス的経済学は、人間を腐敗させる。

――格差と搾取の根源は、不等価交換である。等価交換を前提とした『資本論』は、人間を抑圧する。

――マルクス的社会主義では、今日の資本主義の諸問題を解決できない。


◇ 人間の本質は言語である―生命言語説は、西洋の合理主義を、東洋思想によって人類的合理主義に変革する。

――人間がめざすべき経済社会は、道徳的資本主義または道徳的社会主義である。

――生命と人間存在は、調和と均衡によってその永続性が保障される。

                                       「人間とは何か(Q&A)3