生命の適応と進化



 生命の適応と進化 

人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判―』(2001)より「生命とは何か」の続き


(1) 個体存続の限界とその克服                   

     ・→生命の適応と種の進化の意味とは何か。

 ①老化と個体死 ②生殖・増殖について ③性――接合・受精      

     ・生命にとって生殖の必然性とは何か。

(2)種の進化                                    

     ・なぜ細胞は分裂し増殖するのか─個体維持の方策

 ①ダーウィン説の検討

  a種の起原について b自然選択と生存闘争について           

     ・→認識論にとっての進化論検討の意義は何か。

  c自然選択のイデオロギー性について                    

     ・進化にとって生命の主体性とは何か。

 ②総合説(新ダーウィニズム)の検討                     

     ・自然選択という外的要因だけが進化の要因か。

  a突然変異の偶然性について b突然変異と方向性について      

     ・適応進化には方向性はあるか。

  c様々な遺伝と進化                               

     ・個体変異の有利性はどのように決定されるか

 ③進化論で大切なこと                              

     ・適応や進化の方向性はどのようなものか。

(3)生命と進化についてのまとめ



1)個体存続の限界とその克服

 生命が,原始地球の特殊な環境条件の中で,その生化学的な生存様式を維持することは容易なことではなかった。生命が誕生し生存しうる条件は,広い海洋全体ではなく,ある限られた特殊な環境――すなわち干潟,熱水噴出孔など種々の有機物質が混在し,化学反応の起こりやすい環境の「原始スープ」であったと考えられている。しかしそのような環境は,多様な地球環境の一部であり,原始生命は常に環境の変化を避けられない。

 また,原始生命の細胞内の代謝の限界すなわち老化の現象と,細胞分裂の限界すなわち増殖可能な最適環境の制約にも対応しなければならない。従って,原始生命は,絶えず外的環境の変化に適応しつつ,内的環境を変え自己を更新しなければならない。そして, 誕生の当初から,核酸を中心とした自己複製を通じて自らを更新し,環境に適応してきた生命は,核酸とタンパク質を中心とするフィードバックサイクル機構を維持するために,この自己更新の能力を最大限活用する。

 ここに生命の進化――より正確には,生存様式の多様化の必然性がある。すなわち

 ①原始生命は,環境の変化と多様性に対して柔軟に適応する。

 ②原始生命は,自己複製と接合を通じた遺伝子変異によって適応する。

 こうして原始生命は,安定的フィードバック機構を更新・増殖させ,生命の多様性を今日の状態にまで進化させたのである。

 そこで次に,(1)老化と個体死,(2)増殖,(3)接合・受精ついて簡潔にまとめ,進化と適応の問題を考えてみよう。


① 老化と個体死

 細胞の老化と個体死は避けられない。ただし,これを一般化するには注釈を要する。すなわち,原核細胞の細菌類と真核生物の酵母菌以下の生命は,細胞分裂によって,老化と個体死を防いでいる。また厳密に言えば,生殖細胞である卵母細胞は,分裂はするが細胞死はなく,遺伝子と共に個体死を免れている。そこでここでは,論を簡単にするために,分裂の限界をもち生殖のための小核が分化している原生生物のゾウリムシ以上の生物を前提として考える。

 さて老化と個体死の原因としては諸説あるが,ここでは1)生化学反応の阻害と2)遺伝子情報の二つを考えてみる。

 まず前者は,細胞質内における老廃物や有毒物質の蓄積による生化学反応の阻害,つまり物質代謝とフィードバック反応の停滞の進行である。細胞は内部環境の恒常性を保つための代謝機能を備えているが万能ではない。例えば活性酸素や尿素は生化学反応で生成され,通常は排泄されるか無毒化されるが,細胞内に有毒物質が蓄積される場合が起こってくる。活性酸素であればスーパーオキサイドや過酸化水素がこれであり,その高い反応性のため,タンパク質・DNA・細胞膜を構成している脂質に障害を及ぼす。もちろんこれを無毒化して排出する酵素のスーパーオキサイドディスムターゼがあるが完全ではない。

 また海水や地下水中に微量に含まれる重金属は,生化学物質の構成要素であるが,有毒物質でもある。原始細胞は,実験室の培養装置のような限定された環境でなく,有害物質も多い環境で生存している。細胞には有害物質を避け,障害を修復する機能があるが,これも完全ではない。従って,老化や個体死は,不可避的に起こる内的外的環境の悪化に対応しきれない,生命現象の限界を示している。その意味では生命は死を免れない,死すべき存在なのである。(細菌や酵母は,分裂を通じて不死身であるが,分裂は細胞の内的外的生存条件を変えることによって,細胞の恒常性を維持する――すなわち,細胞の肥大化を防ぎ[体積の増加は代謝効率を悪化させる],活性化させることによって代謝を促進し,老化を防いでいる。)

 ついで近年注目されてきたのが,遺伝子DNAを原因とする老化と個体死である。これは,原生生物のゾウリムシよりも高等な生物の遺伝子情報の中に,老化と個体死がプログラムされている場合であり,寿命ともいわれる(高木由臣『生命の寿命と細胞の寿命』平凡社 1993)。この場合は遺伝子に偶然的に起こるエラーではなく(遺伝子変異や翻訳ミスの蓄積も老化と個体死の原因の一つと考えられている),個体の「若返り」と「適応」能力を増加させた生命進化の結果であると考えられる。従って,老化と個体死は,生命存続と矛盾しない。むしろ,内的外的環境の変化を克服し,永続化させる生命の存在形態として進化したものといえる。

 このように,生命は,今日まで適応と進化を重ねながら生存を持続している。この生命の強さは,若返りと生存形態の変化・適応能力を増加させる接合と受精,すなわち性の働きである。性について述べる前に,性と密接に関連している生殖ないし増殖についてまずみておこう。


② 生殖・増殖について

 原始生命は,本質的には自己複製可能なフィードバック的反応系として誕生した。細胞の複製・分裂は,必然的に増殖を伴う。下等生物とされる細菌類など単細胞生物の増殖(増加)は,数十分に1回,2分裂する。環境条件さえよければ,飽和状態になるまで増殖することができる。高等生物においても,生活条件が許せば計算上は短い年月で地球を飽和状態にしてしまうであろう。

 しかし,生命存在の本質は,第1義的には増殖することではない。原始生命の誕生時から,不完全なもの偶然的なものとして存在した生命は,常に個体死を避けられない。細胞の肥大化には限度があるし,有毒物質の蓄積や老化さらには環境の悪化も必然的である。生命は,滅亡することを避けたいならば現状にとどまることを許されず,新たに生命力を補給して,個体数を増加し,環境に合わせて多様化と適応能力を増大させなければならない。

 この原則は,「内的環境の維持と外的環境に対する適応」の両者について当てはまる。

個体死は,老化と死つまり内的環境の限界と,外的環境の不安定性および危険性によって運命づけられている。つまり,生命が生存し続けるためには,増殖は避けられないのであり,その条件は生命誕生の当初からRNAないしDNAという高分子情報物質が担っているのである。

 なぜ細胞は分裂し増殖するのか。それは増殖自体を目的とするのではなく,内的環境の悪化による老化を防ぎ,多様に変化する環境のなかで生存を維持するためなのである。例えば,細菌類にあって分裂は,細胞の内的状態の変化(ないし若返り)と外的環境に対する分散的適応(危険の分散と最適環境の分散)なのである。また前にも例示したアメーバでは,実験的に細胞の一部を切り取りながら生存させると,細胞分裂は起こらず生存し続けるが,これは分裂・増殖が生命の第1義的な本質でないことを端的に示している。

 生命の増殖は,生命にとって本質的な限界,すなわち内的環境の維持の限界と外的環境に対する適応の限界を乗り越える手段として,生命誕生の当初から生命機能の一環をなしていたのである。

 しかし同じ個体の分裂増殖には限界がある。細菌は何代か分裂を繰り返すと,分裂自体による環境の変化によって分裂をやめざるを得ない。環境の必然的な変化(悪化)と突然変異による有害な遺伝子や細胞質の変化の作用によって分裂が抑制されるのである。そこで細菌は接合することによって多様化を生み出し新たな細胞となって,文字通り若返るのである。これは生命が適応の可能性を広げる重要な条件である。

 ところで後に進化とは何かを論ずるときに避けて通れないのは,「増殖」の意味についてである。ネオダーウィニズムでは,遺伝子の増殖を生物の目的と考える立場がある。例えばドーキンスの「利己的遺伝子」(Dawkins,R.1976)の考え方はその極端な例である。「生物個体はそのすべての遺伝子を増殖させるようにはたらく。」または,より彼らしく「遺伝子は累代の生物個体に自らを増殖せしめるようにはたらく。」というのは彼の立場をよく表している。もちろんダーウィンは,それほど極端ではないが,生存闘争とからめて次のように述べている。

 「生存闘争は,あらゆる生物が高率で増加する傾向をもつことの不可避的な結果である。すべての生物はその本来の寿命の間に多数の卵あるいは種子を生ずるものであるが,一生のある時期に,ある季節あるいはある年に,滅びねばならない。もしそうでなければ,幾何学的増加の原則によって,その個体数はたちまち法外に増大し,どんな国でもそれを収容できなくなる。このように生存の可能な以上に多くの個体が生まれるので,あらゆる場合に,ある個体と同種の他の個体との,あるいは違った種の個体との,さらにまた生活の物理的条件との,生存闘争が当然生じることになる。これはマルサスの学説を全動植物界に対し何倍もの力で適用したものである。」

           (ダーウィン,C. 邦訳上 p89 下線は引用者)


 引用が長くなったが,ダーウィンは生物の増加を「傾向」と見なしている。そこから彼は進化の要因を生存闘争におき,最適者の生存という進化の道筋を明らかにしようとする。ここには進化が,環境の多様性に対する生命の多様化・複雑化による(調和的)適応という観点が欠落し,生存闘争が強調されている。K.ローレンツが,ユクスキュルの言葉を借りていうように「アメーバは馬と同じくらいうまく適応している」(Lorenz,K, 1976 邦訳 P39 )のであって,生態系全体の調和を維持する構造と進化との関連が見逃されている。

 生殖は,性とは直接関係はない。性は増殖を伴うが,これは生殖細胞が減数分裂して作る半数体の卵や精子が増加しているのであって,その結果として受精した卵が増加するのである。性には生殖とは異なる重要な役割がある。それを以下に述べよう。


③ 性――接合・受精

 単細胞生物では,環境の変化(例えば栄養状態の悪化等)があると,細胞同士が接合し,遺伝子の交換によって新遺伝子が形成され,接合の刺激が細胞分裂と若返りに影響を与える。性をもつ多細胞生物では,減数分裂をおこなうとき相同染色体が交叉し,遺伝子DNAが多様化され,受精によってさらに多様化と若返りが進み適応可能性が増加する。性による多様化は,種の存続にとって極めて有利に働く。

 しかし,接合や受精では,遺伝子DNAの交換ないし結合,さらに減数分裂時における染色体の交叉による多様な新遺伝子の形成だけが指摘されるがこれは正しくない。接合や受精によって新しい個体が発生するときに,発生に影響を与えるのはDNAだけでない。

 例えば多細胞動物の受精において精子が卵子に進入する点が,細胞分裂における極の位置を決定し発生の出発点になるのは,DNAの作用でなく精子細胞自体の作用である。また接合や受精で細胞質が果たす役割について不明なことが多いが,細胞質は原始生命以来連続的で,DNAの情報を引き出す役割を果たしている。

 アフリカツメガエルの例では,核を殺した未受精卵に正常な精子を受精させても,正常な未受精卵に核を殺した精子を受精させても,神経胚期までは正常な発生が行われる。これは,一方の配偶子の核だけでは,必要なタンパク質のすべてを合成できないため発生は止まるが,ある程度の細胞分裂は,一方の遺伝子DNAがなくても遺伝子の周辺物質だけで可能であることを示している。

 またカエルの発生初期において,胞胚期までのタンパク質合成には,受精前の卵で合成されていたRNAが使われていることがわかっている。これは細胞分裂が,DNA→RNA→タンパク質のセントラルドグマでなく,RNA→DNA→RNA→タンパク質が正しいことを示している。

 さらに遺伝子レベルでの発生の分析が進んでいるショウジョウバエでは,ピコイドmRNAが母性因子として卵細胞前端の細胞質中に局在しており,受精産卵と共にmRNAのタンパク質への翻訳を開始し,その結果製造されたピコイドタンパク質がDNAに働きかけることによって遺伝子発現を促進すると考えられている。

 ここで指摘したいことは,遺伝子DNAは単なる生命情報の担い手であるということである。つまり遺伝子DNAの情報の発現は,DNAの周辺物質(細胞質や染色体)に含まれるRNAの影響下にあるということである(他に遺伝子の発現を促す有力な物質に,環境の影響を受けるホルモンがある)。しかしもちろん接合や受精によって遺伝子DNAの情報が変われば,新遺伝子の情報によって生命の生存様式が変わるのは言うまでもない。

 以上のことを前提としたうえで,接合と受精という有性生殖の意味を考えてみよう。

 接合・受精には,若返りと進化という生命適応の2つの利益がある。前者の若返りについては,遺伝子の更新と有害遺伝子の排除,細胞質の融合による活性化が考えられる。「一般に有性生殖で若返りが起こるのは,それまでに蓄積した有害な突然変異遺伝子を,組み換えによって排除できるからとみなされている。」(高木 1993p215)

 後者の進化については次の項で検討するが,遺伝子の交換ないし交叉・合体が新しい形質を発現させ,適応の可能性を増大させることは疑問の余地がない。また小進化といわれる種内変異を発現させることも明らかである。問題は,交配しても子孫を残すことのできない新種ができる大進化についてである。これを適応との関係で考察してみよう。


(2)種の進化

① ダーウィン説の検討

 まずはじめに,なぜ認識論の確立とそれに伴う西洋思想の批判に,進化論が論じられねばならないかをまとめておこう。それは西洋思想が,根底において,人間や世界は観念的ななにものか(思考の産物ないし結果)に突き動かされるものとして描いているが,これを批判する根拠が生物学にあるからである。わたくしは,かってマルクスを含めた西洋哲学が,思考の産物に支配されていることを批判することによって,人間の主体性を確立しようとする試論の中で,これを分析しておいた。今回この分析をさらにすすめ,人間にとっての新たな認識論――人間の認識や思考の意味を追求する――の確立を図るために,生物学の難問にも触れざるをえないのである。結論的に言えば,生命,動物,人間の主体的活動ないし主体的行動原理や生存のための傾向性ないし方向性(さらに言えば目的性,何のために生命活動があるのか)を明確にするために,生物学とりわけ進化論の解明が必要なのである。認識論は基本的に生命の生存様式ないし行動様式に依拠しているのである。つまり,生存するための認識とは何かを明確にしようとするのである。


a 種の起原について

 種とは何か――はダーウィンにおいて明確ではない(今日でも学者のなかに種と変種そして亜種について議論がある)。当時からの一般的見解として,交配して稔性のあるもの(子孫を残し繁殖できる)が同種であり,例えば犬と狼は同種に属し亜種とされ,コリーとブルドッグ,ダルマシアなどは同種で変種とされる。これに対し稔性がないか一代限りで繁殖しないものは異種とされる。例えば雄ロバと雌馬を交雑したラバやライオンと虎を交雑したライガーは一代限りで繁殖しないので異種である。

 ダーウィンの植物の例によれば,交雑しても稔性のあるものもあるし,変種交配でも不稔のものもある。従って,ダーウィンにとって種の定義は重要なものではなく,種の起原は,亜種の起原と同次元で理解される連続的なものである。

 「私は,分類学者にはあまり興味をもたれない個体的差異を,博物学の本に記録する価値をかろうじてもつと考えられるような軽微な変種への第一歩であるとして,われわれにとって高度の重要性をもつものと見なすのである。また私は,それよりいくらかでも著名で永続的な変種を,さらにいっそう顕著で永続的な変種にみちびく段階とみなし,この後者は亜種に,ついで種にみちびく段階であるとみなす。差異のある段階から他のもっと高度の段階への推移は,たんに二つのちがった地域でちがった物理的条件が長く続けて作用したことに帰せられる場合もあるかもしれない。しかし,私はこの見解をあまり信頼していない。私は変種がその祖先とごくわずかしかちがっていない状態からもっとずっとちがった状態に推移していくことを,自然選択が構造の差異をある一定の方向に集積していく作用に帰するのである。」(下線部は引用者)

                 (ダーウィン,C. 邦訳上 P74)


 つまり,いわゆる小進化――種内変異すなわち交配可能な個体変異を,ダーウィンは進化の第一歩と考え,この有利な変異が累積して生存闘争に打ち勝ち,大進化すなわち交雑しても不稔である新種に進化するとみなすのである。ダーウィンにとって,種内の微妙な変化は小進化であり,これが蓄積され自然選択を受けて,新種の形成になると考える。

 しかし,反ダーウィン主義者である今西錦司によれば,小進化とされる種内変異は単なる個体変異であり,結果として品種改良は進んでも,それが人為的または自然的に隔離されなければ,元の種の中に逆戻りしてしまうから,進化とは言えないことになる。したがって『種の起原』は,実際には種の起原の原則を述べたものでなく,種の起原の一つの可能性を述べたものに過ぎない。

 このことを今西は次のように述べている。

 「ダーウィンの著書の表題は『種の起原』ということになっているけれども,彼がそのなかで提唱した進化論,すなわち自然淘汰説は,種や亜種の形成にはほとんど役に立っていない。・・・・こういう見地からすると,たとえ環境条件の持続的な影響とはいえ,洞窟内にみられる生物の眼の退化や白化現象なども,みな小進化として一括してよいであろう。・・・・大進化というのは,その進化を通じて,すくなくとも目や科を代表するような,新しい種が作り出されるのでなければならない。」 

                  (今西『ダーウィン論』P109)


 また,従来総合説でダーウィン説の典型的実証例とされた,イギリスにおける工業暗化したオオシモフリエダシャクガや抗生物質に対する耐性菌の出現は,いずれも新種の形成ではないから,大進化の例とは言えない。これらは「可逆的な適応」(中川・佐川著『進化論が変わる』P141)の例であり,進化の可能性を示しているに過ぎない。

 つまりダーウィンは,進化を軽微な変種(個体的差異)から亜種,そして種の変化と連続的に考えているから変種と種の断絶を認めていない,ないし認めたくなかったのである。もしこれを認めれば,彼の中心思想である自然選択は整合性を欠くものとなったのである。なぜなら次にも述べるように変種と種(小進化と大進化)の断絶を認めれば,自然が,有利な変異を不断に,しかも連続的に選択しているという自然選択説にとって都合が悪くなるからである。

 このことはまたダーウィンが物理的環境条件の変化(特に大進化を誘発する環境の激変)を軽視する意図を明白にしていることとも関係がある。これは上記の引用文中「差異のある段階から他のもっと高度の段階への推移は,たんに二つのちがった地域でちがった物理的条件が長く続けて作用したことに帰せられる場合もあるかもしれない。しかし,私はこの見解をあまり信頼していない。」にあらわれているが,その他にも数カ所で指摘している。

 「生物の変化のあらゆる原因のうちで最も重要なものは,物理的条件の変化,しかもたぶんその突然の変化とはほとんど関係のないもの,つまり生物と生物の相互関係――ある生物の改良が他の諸生物の改良あるいは絶滅をまねく――である。」

                (ダーウィン,C.邦訳 下P259)

 このような見解(ただし改訂版では変異を起こす生活条件の変化を重視するようになっている)は,微細な個体的変異(小進化)が進化(大進化)につながるという「ダーウィン進化論」を説明し,「自然は飛躍しない」という格言によって創造説を批判する(『進化論』第6章)。その限りでは正しい。しかし今日の地質学の進歩から見ると,地質学的大変化(生命が誕生して以降何度か訪れた氷河期や彗星の衝突,火山の大噴火や地殻の変動等)が,大進化に与えた影響は,個体的変異の累積を超えてはるかに大きい。その典型例としては,約65000万年前に絶滅した恐竜があげられる。

 結局ダーウィンは,「神の創造による種の起原――創造説」の批判には成功したかもしれないが,「生存闘争を中心とした自然選択による種の起原」の本質には迫れなかった。その理由として,一つには彼が大進化の結果である種を,小進化である変種と明確に区別しなかったこと,そして大進化の解明こそが「種の起原」であるにもかかわらず,単純に小進化の累積の結果が大進化であると考えたこと。二つには個体的変異の原因と人為選択ないし品種改良の意味について無知であった(メンデルの法則や突然変異の知識の欠如)こと。三つには生存闘争という時代的イデオロギーに影響され過ぎたことなどがある。

 とくに三つめの生存闘争を中心とする自然選択とそのイデオロギー性について次に述べてみよう。


b 自然選択と生存闘争について

 ダーウィンは,『種の起原』の序言で「私は<自然選択>が変化の,重要な方途ではあるが唯一のものではなかったことをも確信しているのである」と述べているように,自然選択万能論ではない。しかし自然選択説が,自然(ないし環境)に対する,生命の主体性(方向性ないし傾向性)を無視している点は重要である。今日の総合説では,「獲得形質は遺伝しない」ことを前提として,生命の機能や行動様式における適応的変化(獲得形質)は,遺伝子へ影響することがないとして退けている。しかし,総合説論者であるG.G.シンプソンも,形態学的に否定することのできない定向進化ないし進化の方向性を認めている。これは進化が,シンプソンが考えるような自然選択の結果だけによるのではなく,生命の主体性,適応や行動の方向性を意味するものと言うべきものなのである。

 「生命の歴史は,厳密にはランダムでも定向的でもなく,この両者が不可思議に混合したものであり,ある場合には一方が優勢を示し,またある場合には他方が優勢を示し,しかもどの特定動物群の進化をとっても,両者がともに普遍的に存在しかつ緊密に結合している。進化における定向的な要素とは,正に適応性であって,一定計画によって目標に向かう生命に内在する傾向のようなものではない。」             (シンプソン,G.G. 邦訳P225)


 シンプソンが述べているように,進化に計画性があるわけではないが,適応の定向性があることが重要である。シンプソンは適応の定向性を,自然選択で説明可能であると考える。しかし私は適応すなわち変異の有利性は,自然選択という説明放棄ともおもえる概念で述べるのではなく、「有利性の根拠(選択の基準)」を明らかにすることによって説明するべきと考える。

 つまり生命の目指す方向性とは「個体維持と種族維持」であり,さらに認識論との関連で動物  について言えば「欲求の充足」である。動物における変異の有利性すなわち進化の方向性とは,いかに生態学的に調和のとれた「欲求の充足」が行われるかということになる。そしていかに有利な欲求の充足が行われるかは,自然による選択だけでなく,動物の主体的な方向的選択(例えば大進化における神経系の発達や草原において早く走る欲求を実現する草食動物の蹄の進化)にもよるのである。

 私は,上記の観点から,ダーウィンの自然選択から生存闘争を切り離し,自然選択説における主体性排除の機械論を批判する立場を明確にしたい。そこでマルサス主義に自然選択と生存闘争を関連させてまとめたダーウィンの次の文を見ていただきたい。

 「この生存のための闘争によって,変異はいかに軽微なものであっても,またどんな原因から生じたものでも,利益になるものであったら他の生物および外的自然に対する無限に複雑な関係において,その個体を保存させるようにはたらき,そして一般に子孫にうけつがれていくであろう。子孫もまた,これと同様に,生存の機会をより恵まれやすくなる。というのは,どの種でも周期的に多数の子が生まれるが,そのうち少数のものだけが存続していかれるからである。どんな軽微な変異も有用であれば保存されていくというこの原理を,それと人間の選択の力との関係をあらわすために,私は<自然選択>という語でよぶことにした。」

                  (ダーウィン 邦訳 上P86ー87)

 本来,生活のための闘争は,生存すること(摂食,安全,生殖など)自体の困難性から生ずるものである。しかしダーウィンのマルサス主義にもとづく生存闘争は,同種間ないし異種間の闘争を重視している。物理的環境を軽視しているのは前に述べた。彼にとって「生存闘争は,あらゆる生物が高率で増加する傾向をもつことの不可避的な結果である。」(前出 上P89)しかし生物の増加・増殖については,前節でも述べたように,生物は高率な増加を目的にはしていない。ほとんどの植物や昆虫,魚類など卵性の動物が多くの子孫を残すように見えるのは,物理的自然条件の厳しさからくる有限な食糧,外敵からの危険,病気など生活条件の厳しさの反映であって,「生物と生物の相互関係」に限定されるべきものではない。

 今西説の中心をなす「棲み分け理論」でも言われるように,生物相互の関係は生存闘争もあるが,共存共栄も事実なのである。後者の多くの具体例(細菌から人類にいたるまで)はよく知られているのでここでとりあげる必要はないと思う。ただ補足しておくと,一定の地域における生態系が均衡であることは,その環境の条件が不変であれば,弱肉強食はあっても,共存・共栄が維持されているのが通常である。

 また生物の増加の傾向は,恵まれた環境の存在を前提としている。しかし恵まれた環境は一時的にあっても永続的にはありえない。それは地球という有限で特殊な環境と生命存在そのものの本質に属している。生命には,生存の障害になる様々の要因が存在している。それらは物理的環境そのもの有限性(地形,気候の変化と災害)であり,個々の生命と生態系全体における病気,争い,過増殖等である。このように存在の有限性に対して生存闘争があるのであって,単なる「高率に増加する傾向」に集約されて生存闘争があるのではない。

 また生存闘争は厳然たる事実であるとしても,それと同程度に,あるいはそれ以上に,上にも述べたような生命の協調・互助も存在する。一般的には,個体維持以上に種族維持(一族,仲間の意味が強いが)は重要であり,特殊的には共生にみられる異種の助け合いがあり生態系全体から見ると棲み分けがある。ダーウィンの生存闘争観は,大進化にとっては中心的要因でないばかりか,自然や生命に対する偏った見方であるといえる。

 次に「有利な変異」が,自然選択によって保存され繁殖することについて,何が有利かについて検討されなければ,選択の基準がなく,説明として,また科学的な法則として確立するには不十分である。有利な変異の選択は,ダーウィン主義にあっては,直接競争ないし闘争と結びつく。しかし進化には共存共栄が事実として存在し,また大進化において,競争者のいない新しい環境への「適応放散」の場合,他の生物との競争は関係ない。

 つまり有利性による自然選択が,ダーウィンの場合有利性の検討がないために,生存闘争としか結合しないことが問題なのである。生物の進化が起こるとき,新しい環境への適応,ないし他の生命全体との「棲み分け」すなわち新しい生態系が成立することになるのである。例えば,海中生活から陸上に進出した,植物や昆虫・両生類にとって他の個体との競争はありえない。生存可能な変異であれば,生物間の変異の優劣から生じる闘争なしに新種として成立しうるのである。

 この点の指摘によって,シンプソンの修正主義すなわち総合説がより説得力あるものとなったのである。

「新しい重要な生物が生ずるのは,一般的にみてすでに獲得した生存様式の有力なる後継者としてではなく,新しい生存様式の中に拡大し,かつついにはそれを満たすグループとしてである。」                     (シンプソン,G.G. 1967 邦訳P118)

「このような新生存圏への侵入や不断の新生存圏創造がが行われるにつれて,そのあらゆる変化に適応する生物がこの生存圏に充満していき,その結果世界の生命物質の総量は拡大していった。」                           (同上 p119)

 ダーウィンには,J.H.ハックスリによる「リンゴ樽のたとえ」すなわち「樽の中の隙間に砂や水を満たすこと」のような進化の発想はほとんどなかったといってよい。もっぱら時代的制約から,「生物対生物の関係があらゆる関係のうちで最も重要である」(『種の起原』下p94)として,「種および種群ぜんぶの絶滅は,生物界の歴史でひじょうに目立った役割を演じているが,これは自然選択の原則によればほとんど不可避のことになる。古い種類は新しい改良された種類によって,その地位を奪われていくからである。」(『種の起原』下p245)と述べているように,自然選択とは生物間闘争中心主義と言ってもよいのである。そして今日にあっては,このようなダーウィン主義の限界は,生態学や古生物学,地質学的知識の増加によってそのイデオロギー性が明らかとなっているのである。


c 自然選択のイデオロギー性について

 結局ダーウィンの問題意識は,当時博物学者にとっては常識となりつつあった創造説批判,すなわち生物の進化による多様化を実証しようとしたものである。しかしその理論的背景には,自由放任や自由競争の原理という19世紀の社会的風潮があり,それを生物界全体に適用して,種の起原を自然選択,生存闘争というイデオロギー的概念で解明しようとしたものである。

 それは『種の起原』の表題『自然選択の方途による,すなわち(または)生存闘争において有利な(勝ちのこる)レース(品種)の存続すること(保存)による,種の起原について(On the Origin of Species by Means of Natural Selection ,or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life.)』からも明らかである。彼にとって何よりも「有利な品種の保存」すなわち「優勝劣敗・最適者生存」が種の起源なのである。

 ここで自然選択と生存闘争の『種の起原』における限界についてまとめておこう。ダーウィンは,綿密で慎重な人物なので,一概にはいえないが,彼の理論の中心部分とその限界を3点にまとめてみる。

1)人為選択(純系の選抜と隔離)によって,変種の形成(品種改良・小進化)はおこなわれるという推論。―→しかし,変種の形成によっては,祖先と不可逆で不稔性をもつ新種の形成(大進化)にはいたらない。

2)自然選択は,生物間競争が最も重要であり,微細でも有利な形質が,生存闘争によって選択され,変種の形成(小進化)から新種の形成(大進化)に漸進的に進むという推論。―→しかしこれは,変種の形成までは実証できても,長い年月をかけた新種の形成の実証は不可能である。

3)生物は,種の維持存続に必要な以上の子ども(種子)を産出することによって同種間の生存闘争が起こり,そのうちの最適者(有利な形質の保持者)が生存するという推論。―→これは結果として正しい。しかし最適者の基準が,自然選択の複雑性によって明確にできないため,同種間の生存闘争は運に左右されることにもなる。また同種間闘争の強調によって環境に対する最適性が軽視されることも起こってくる。例えば耐性菌の場合は抗生物質という悪い環境に対する闘争であるし,イギリスの産業革命後に見られた工業暗化のガは,外敵に対する闘争の一形態(安全保持)であって,同種間の闘争ではない。またキリンの首の長さは残された樹上の木の葉という自然環境に対する有利性の闘争である。つまりこれらは環境に対する生存闘争であって,同種間闘争の強調はマルサス主義にもとづく恣意的なものに過ぎないだけでなく,種族の維持共存や異種間の共存共栄,さらに同種を除いた自然環境の影響の軽視に結びついているのである。

 次にイデオロギー的に重要なことを略述しておこう。

 ダーウィン主義にみられる物理的環境の軽視と生命の主体性の無視,これは前項でも述べたが,このことによってダーウィンが新種形成すなわち大進化を,小進化から明確に区別できなかった理由が分かる。つまり,生命の有利な変異は,単なる偶然の産物とは断定できない,生命の主体的な自己変容と環境選択の結果も考える必要がある。ダーウィンの考える自然選択のみによっては,新種の形成に結びつかないということである。自然選択・生存闘争は変種や新種の形成にとって一面的であると言わざるをえない。そこで,次の二つの傾向を統一する必要性がある。

Ⅰ)自然選択による進化:偶然的に生じた有利な個体変異は,生存闘争(競争)による自然選択によって有利性を拡大し,変種や新種を形成する。

Ⅱ)生命選択による進化:生命が,生存の傾性ないし方向性を,環境に対して有利に変えることによって,新しい生存領域や生存様式を獲得することで無競争的に新種を形成する。

 前者については,ダーウィン主義がそのまま当てはまる。この場合,自然選択による変異の有利性は,他の生物に対する相対的有利性である。これに対し,後者については,定向的突然変異といえる。有利性の基準は新しい環境への積極的な適応である。従ってこの場合の有利性は,競争者のいない新しい環境での絶対的有利性である。例えば,海中生活から陸上生活への進化,すなわち魚類から両生類・爬虫類そして鳥類・哺乳類への進化,そして神経系における刺激受容と反応回路の発達,さらに生物の共存・共栄をはかる「棲み分け」もこれにあたる。

 このように生命の進化つまり生存様式の多様化は,環境と生命の両者の関係性において成立するということ,すなわち生命は,地球の特殊な環境の中で,偶然的な化学反応として誕生したが,誕生した生命は生存様式を多様に維持存続させる能力をもち,その結果として進化があるということである。つまり,生命がその生存様式を変化させ定着させるのは,外的自然環境だけでなく,内的自然(生命自体)にも,個体と種族の維持のための変化能力を有して始めて可能なのである。この点で,J.モノーは,突然変異の偶然性を絶対的なものとしつつ,「淘汰の圧力を方向づけるものとしての行動」の存在を重視している。

 「生物が受ける淘汰の圧力の性質と方向を決定している少なくとも一つのことは,生物が《選択する》この特異的相互作用なのである。新しい突然変異が直面する淘汰の《初期条件》の中には,外的環境と,合目的的装置の構造・性能全体が,分離できない形で同時に含まれているといってよい。」                   (モノー,J.邦訳 p146)


② 総合説(新ダーウィニズム)の検討

 ダーウィンの自然選択説は,創造説を否定し,生物の種の進化ないし多様性を説明するのには十分な理論であった。しかし上記に述べたような様々な限界も指摘され,ダーウィン自身も万能ではないことを認めていた。その限界を打破して,今日の総合説を確立する役割を担ったのがメンデルの遺伝の法則とド=フリースによる突然変異の発見,および分子生物学の発展である(しかし分子生物学はのちにダーウィン説を揺るがすことにもなる)。

 総合説の特徴は,ダーウィンのように獲得形質の遺伝を認めたり,生物間の生存闘争を中心とする単純な自然選択ではない。獲得形質の遺伝は確証されないとして全面否定するが,ランダムな突然変異と自然選択を中心として,隔離や遺伝的浮動,交雑などの要因を総合したもので進化総合説と言われる。

 いずれにせよ我々の批判の要点は,ダーウィン説批判とも共通している。つまり生命の適応的自己変異や主体的環境選択性,すなわち生物自体の進化の方向性を無視する傾向にたいする批判である。今日の総合説は,生命を遺伝子を含む細胞全体としてとらえず,逆に細胞は遺伝子DNAに対して従属的であると考える,遺伝子中心主義の傾向がある。とりわけドーキンスにみられる「利己的遺伝子」論は,細胞や個体を遺伝子の単なる乗り物とみなしたり,E.O.ウィルソンにみられる自然選択万能論では,生命の生存や進化に目標を認めない。

 「問題の全体を整理する一つの方法は,『自己複製子』と『ヴィークル(乗り物)』という用語を使うことである。自然選択の根本的な単位で,生存に成功あるいは失敗する基本的なもの,そして,ときどきランダムな突然変異をともないながら同一のコピーの系列を形成するものが,自己複製子と呼ばれる。DNA分子は自己複製子である。自己複製子は一般に,・・・・巨大な共同の生存機械,すなわちヴィークルのなかに寄り集まる。われわれが一番よく知っているヴィークルは,われわれ自身のような個体の体である。」

        (Dawkins,R.1976.『利己的な遺伝子』邦訳P406)

「自然選択こそは,編集者にして主な原動力,創造力である。進化は何らかの先見に導かれているわけでもなく,はるかな目標に向かうわけでもない。」

              (ウィルソン, E.O.邦訳 P125)


 確かに,生命には「はるかな目標」があるわけではない。しかし,単純で最も重要な目標は,多様な環境に対して生存を維持しつづけることである。生命の起源の生化学的解明を試みたオパーリンは,弁証法的唯物論や自然選択説に惑わされてはいるが,生命の《合目的性》についてこう述べている。

「普遍的な適応性,あるいは比喩的にいうなら生物の体制の《合目的性》は,客観的な自明な事実であり,思慮深い自然研究者なら一人としてこれを見逃すはずはないのである。」                            (オパーリン A.И.p14)


 生命とは,遺伝子を含む細胞ないし個体であり,また生命には生存の維持すなわち個体維持と種族維持という基本的な目標(フィードバック的生化学反応の維持)があり,進化はその目標の実現を多様な様式で可能にするものなのである。

 ここでは当然ながら筆者のような門外漢が全面的な批判を展開することはできない。あくまでも生命論としてまた言語論や認識論の確立という目的のために進化論を検討している。そこで認識論的に重要と思われる以下の3点について論じてみる。


a 突然変異の偶然性について

 ダーウィンの進化論は,個体変異(個体差)の事実を前提として,自然選択による有利な変異の蓄積が進化であるとしていた。そして,有利又は不利な変異が起こるのは「偶然的」であり,自然選択によって有利なものの子孫が繁殖し,不利なものは子孫を残さず絶滅すると考えた。

 総合説においては,遺伝の法則による個体変異の蓄積は重視されず,「突然変異」が重視される。ここで両者が共通しているのは,変異は「偶然的」に起こるということと,有利な変異をもつ個体は「自然選択」によって子孫を増やすということである。

 しかし今西錦司を中心とする反ダーウィニズムでは,進化の推進力は,種の集団としての定向的な変異であり,「もし種がこの天変地異を切り抜けて生きのびていくため,代わることが必要だったならば,どの個体もが同じように変わった子どもを残したであろう。」(『ダーウィン論』 P71)と考える。今西にはこの論理のメカニズムの説明がないが,自然選択の必要のない集団的突然変異を考えており,当然,変異に一定の方向性を想定している。従って,個々の遺伝子に,偶然的に突然変異が起こると考える総合説と著しい違いがある。

 総合説の立場をとりながら,自然選択から中立である突然変異の存在を明らかにした木村資生は,突然変異に方向性のないことを次のように述べている。

 「突然変異の性質のうちで,進化との関連においてとくに重要なのは,それが分子以下のレベルにおける偶然的な事象であり,生物体が異なった環境にさらされたとき,それに適応するような突然変異がとくに方向性をもって誘発されるようなことはないという点である。」  

             (木村『生物進化を考える』P110)


 このように遺伝子の突然変異に方向性はなく,自然が方向性を選択するという総合説の考え方と,変異に方向性があり,環境の変化を遺伝子変異にとりこめる(獲得形質の遺伝)という反総合説の考え方は,「偶然性」と「方向性」において対立している。偶然説は,自然選択と一体で論じられ,分子生物学や集団遺伝学ではほぼ総合説をとっている。しかし分子生物学の中から,遺伝子DNAが,他の遺伝子やウィルスの影響を受けて変異したり,DNAとともに形質を変える場合があることが分かってきた。すなわちレトロウィルスやトランスポゾン,ポリジーンによる遺伝子や形質の変異の作用である。これを簡単に説明しておこう。

<レトロウィルス>

 宿主細胞に侵入したレトロウィルスの遺伝子RNAは,逆転写酵素の働きによってDNAとなり,さらに核の中に入って宿主細胞のDNAの中に取り込まれる。

<トランスポゾン>

 「動く遺伝子」といわれ,ある生物の遺伝子から別の生物の遺伝子へと移動することのできる小さな遺伝子。抗生物質に対する耐性遺伝子やショウジョウバエの「コピア」などで研究が進んでいる。

<ポリジーン>

 「量遺伝子」といわれ,染色体中に多量に含まれる微小遺伝子。生物の形質を量的に支配し,小さな連続的変異を生じさせる。DNAと同じように遺伝し,環境の影響を受けるため,DNAとの関連が注目される。

 これらの物質についての詳細な解明は,これからの研究に待たねばならない。しかし少なくとも遺伝子DNAの突然変異は偶然的に生じるということは否定されたこと,またDNAだけが表現形質を支配するものではないことは明らかになったといえる。


b 突然変異と方向性について

 進化が方向性をもつことは,古生物学の立場から化石によって明らかになっている。G.G.シンプソンは馬の進化について次のように述べている。

 「この経過(ウマの進化史)が決してランダムなものとは考えられないという事実も依然としてのこる。これら一連の変化は,たとえこれまで通常説明されてきたほど規則正しいものではなかったとしても,方向性と指向性をもっている。このほか数百,あるいは数千の場合においても,何らかの方向性のあることは明らかである。」

                (シンプソン,G.G.邦訳 P136)


 しかし,このような進化の方向性が,偶然的な突然変異を方向づける自然選択によるのか,また適応的な獲得形質の遺伝によるのか,さらに二つ目として,多様な環境に対して生物が本来もつ生化学的反応様式の方向的累積によるのかは断定できない。シンプソンを含めた総合説では,偶然的でランダムな変異のうち有利なものが自然選択を受けたことになる。また獲得形質の遺伝の立場からは,環境への有利な適応が遺伝することになる。

 さらに三つ目の仮説として想定できるものは,生物の生化学的反応様式の中に,適応進化の方向性が存在しているということである。生命は多様な環境に適応するように,多様な変化の可能性をもつが,それは決して偶然的でランダムなものではなく,生化学法則とそこから生じる生命の反応様式(生命法則)に従っていなければならない。だからショウジョウバエの触角に足が生じる突然変異は,生化学的に生存が可能であっても全体として生命法則には合致しないから繁殖はしないのである。

 それでは生物にとって適応進化の方向性とは何かというと,基本的には個体と種の維持であり,そのための物質代謝や安全保持,生殖である。具体的には,単細胞生物では各種の走性や摂食,分裂・接合等があり,植物では,屈光性・屈地性等の傾性や生殖がある。とくに動物では,刺激を受容し的確に反応する行動様式や行動の動因となる欲求を充足するための合理的方向性がある。動物の欲求や刺激反応性については,認識論の基本になるので次章以下で論じることになる。


c 様々な遺伝と進化

 いずれの説をとるにせよ,決定的な証明が困難である以上(大進化は何万年もの時間を必要とするため,これを実証するのは不可能である),少ない事実をもとにして解釈せざるをえない。だから進化論は本質的に思想的哲学的にならざるをえないのである。しかし今日では,遺伝子のさまざまな変異の可能性が解明されようとしており,一つの説に拘泥する段階ではないと思われる。

 分子生物学の発展は,遺伝子レベルでの遺伝と進化の仕組みを明らかにしつつある。主遺伝子であるDNAがレトロウィルスやトランスポゾンの影響を受けたり,ポリジーンといわれる微細な遺伝子が表現形質に影響を与えることも分かってきた。また細菌の染色体に存在し「プラスミド」と呼ばれる遺伝子のかけらは,抗生物質等に対する耐性遺伝子をもち,他の細菌や酵母にも移動をすることが分かってきた。

 このように生命は様々な物質と仕組みで環境に適応し,遺伝と進化を精妙にコントロールしている。しかし遺伝子と表現形質との関係やDNAのセントラルドグマに代わる遺伝子発現の仕組みなど,発生の問題については明確にされたわけではない。

 そこで進化論を恣意的に悪用しないこと


(3)進化論で大切なこと

 生活様式を決めるのは,環境か生命の主体性か,の二者択一では問題は解決しない。環境から生まれた生命は,環境からのはたらきを受けるとともに,環境に対して働きかける。そのような生命活動が順調に行われいる状態が,適応である。そして生命は環境との関係で様々な適応形態をとっている。そのような適応形態の変化が進化そのものである。

 環境は多様で絶えず変化している。生命の生存形態は基本的な機能はそれぞれ安定的であるが,同時に環境の変化に適応するために有性生殖によって同種内の多様性(個性)を維持している。その意味では生命は常に小進化(変化)の過程にある。そして種は安定的であるが,環境の大きな変化に対しては,より有利な適応形態に変化して新しい種を形成してきた。

 進化の中で常にいわれてきたのは,有利な形質の獲得ないし拡大についてである。ダーウィンは有利性を同種内の生存競争に適用したが,進化にとってこれは一面的であった。競争のない新たな生存環境の獲得や他の生命との共生・共存(棲み分け)もまた有利な形質である。

 個体変異の有利性は,どこで証明されるか――有利性の基準は何か。この問いに対して,自然選択の結果(子孫の繁殖)だけで答えようとするのは,思考の怠慢である。結果の原因はより綿密に追求されねばならない。そこでダーウィン説のまとめで検討したと同様に,二種の有利性を想定してみる。

 Ⅰ)一定の同種集団と環境領域の内部における生物間の生存競争によって有利性が決まる。

 Ⅱ)新たな生存領域の拡大や共存共栄をはかる生存様式への自己変容で有利性が決まる。

 Ⅰ),Ⅱ)は,前の説明に準じることができる。つまり,Ⅰは自然選択にもとづくダーウィン主義の核心部分であり,相対的な有利性である。Ⅱは変異における生物のもつ方向性を重視したもので,新たな生存環境に適応する大進化や棲み分けにみられるように生物間の競争を必要としないものである。しかしここで二つに分類したのは,両者の二者択一を求めるためではない。前に分類したⅠ)自然選択とⅡ)生命選択のどちらが正しいか,突然変異が偶然的であるか否か,また方向性をもつか否か,生存闘争(競争)があったかなかったか――という想定や判断は,進化を論ずる場合ふさわしくない。人間が二者択一を決定できないほどに進化は複雑で,生命の存在は神秘性を有している。

 生命は,生命固有の共通の生存様式(方向性)をもち,遺伝子を含めて偶然的に適応変化することはあっても,生命の共通性の上にそれぞれの種に応じて多様な生存様式をもっている。従って,進化した形質(例えば草食動物の蹄)は,自然選択によって結果として有利であった(草原での走行に有利)というだけでは,進化の要因(肉食動物と違い走行以外に爪を必要としない)の説明として不十分である(蹄が走行に有利とは限らない)。

 また神経系の発達は,動物の生存にとって有利であるが,未発達な動物(例えばミミズ)の生存が不利かというと,単純な神経系であっても,その生存環境(有機物を含んだ土の中)にあった有利な神経系をもっているのである。生命は現在の科学研究では,「利己的遺伝子」のような単純な説明を拒否しているのである。

 分子生物学は,生命観や進化論の発展に大きな役割を果たした。しかし現時点では,進化の総合説は,総合という名称をもちながら生命の主体性を無視し,DNA還元主義をとっているため理論的には閉塞状態にあると思われる。これを打破する一つの見方として,構造生物学が提唱されている。構造主義生物学を提唱する池田清彦は,DNAと形質との関係を次のように述べている。

「世代をこえて生ずるDNAの変化を生物の形質変化と等置することはできない。たとえDNAのなかに形態形成の情報がすべて封緘されていたとしても,情報はシステムがなければ作動しない。システムもまた情報が作るのだとネオダーウィニストはいうかもしれない。しかしこの話は論理的には破綻している。DNAは物質であり,システムはDNAを一要素とする関係性である。すべての要素をDNAがつくれぬ以上,いかに頑迷な要素還元主義者といえ,このシステムもまたDNAがつくるのだといいなすことはできまい。」

                    (池田 P110ー111)

 進化論は,遺伝子DNAのみで論じつくせるものではない。生命の中で遺伝子の役割は何かという問題設定や生命とは何かという,より根本的な問題と結合しなければならない。そこで以下にDNAについてまとめておく。


 《DNAについて》 生命は,単細胞生物から複雑な植物・動物まで共通の蛋白質形成情報をもつ。ヒトは30億文字分のDNA情報,これは平凡社の大百科事典の約25セット分,数万種の蛋白質を指定する。1個の蛋白質形成には300~1万のDNA文字配列が必要である。

 特定の蛋白質の形成を促すのは,発生や成長,様々の活動を統制するにおける誘導体やホルモンつまり特定のタンパク質の作用による。これらが細胞核内のRNAを活性化させ,特定の遺伝子DNAに働きかけて特定の蛋白質の合成をおこなう。つまりRNA→DNA→RNA→蛋白質合成→化学反応の触媒→細胞の変化→RNAとなってフィードバックされ,生命の様々の活動がコントロールされているのである。

 例えば,前にもあげた例であるが,カエルの受精後の初期発生は,DNAのコントロールによるのではない。胞胚期までは,RNAは合成されないが,タンパク質は合成される。この期間のタンパク質合成に必要なRNAは,受精前の卵ですでに合成されているのである。したがって,受精卵をRNA合成阻害剤で処理しても胞胚期までは正常に発生し,そこで発生は停止する。

 この点で重要なのは,DNAが生命活動の支配や命令をするのではないということである。一般には,DNAが生命の発生・活動・遺伝を支配しているとされ,極端には「利己的遺伝子」という表現さえ使われる。しかしこれは正しくない。DNAは単なる設計図であり,それをどのように読み取るか,遺伝子情報がどのように発現するかは,まだよく分かっていないのである。設計図はあくまでも設計図であり,どうそれを読み取るかは別のメカニズムすなわち環境や発生の順序やフィードバック機構の中に組み込まれているのである。

 つまり蛋白質合成の仕組みは分かりやすいが,それがどのように生命機能や構造を形成しコントロールしているかはよく分かっていない。最近ではRNAによるDNAの逆転写や,動く遺伝子トランスポゾン,染色体に含まれるポリジーンの働きなどが注目されている。DNAは明らかに生命コントロールの情報を満載しているが,その情報をコントロールするのは,生命のシステム(構造)の全体性なのである。


<生命と進化についてのまとめ>

 生命の存在は,限定された地球環境のなかで,自然環境から独立に,多種類の特異的な蛋白質を基本的構成要素および制御機構として物理化学的反応を行い,エネルギー代謝を永続させんとする有機体である。そのエネルギー代謝を中心とする反応は,DNAの設計図に基づいて作られた蛋白質(酵素,ホルモン)によって制御され,外界からエネルギーを取り込み,自己をフィードバック的に維持し複製する生化学反応である。

 この有機的生命体は,環境の多様性に対して多様な存在形態をもち,環境への適応様式を進化させてきた。そして,多様性にもかかわらず,地上のすべての生命が相互依存をしており,共通の祖先をもつだろうと考えられている。

 生命は,自動制御の機械に擬せられるが,それは正しいであろうか。近年の分子生物学の発展から,生命を分子機械と定義する学者も多い。確かに生命現象は,分子化学反応によって説明がつく場合が多い。しかしコンピュータに代表される自動制御機械は,あくまでも人間の所産であり,生命の自動制御機構と比較すると越えがたい壁がある。それは機械を想定し作る人間には,自然現象のすべてを確定することは不可能であるが,生命現象は自然現象の空間時間のすべてによって規定されているということである。分子生物学による自動制御の分析は,あくまで生命現象の一部にすぎない。

 また機械との大きな違いは,機械の支持組織と反応は区別されるのに対し,生命の支持組織はそれ自体が化学反応物質であり,それゆえに機械には見られない柔軟性,融通性をもつのである。例えば大腸菌の運動は,ロボットの運動と違ってエネルギーの消費が,細胞内のあらゆる組織で化学反応としておこなわれるのである。同じように多細胞生物では,分化した細胞のすべてが代謝活動をしている。

 進化の意味は,共通の祖先,共通の生存形態を維持しながら,多様な環境と環境の変化に適応し,その生存形態を多様に変化させてきた生命の柔軟な適応性にある。適応性は,生体と環境との相互関係によって規定され,原始地球の特殊な環境に生命が誕生していらい,環境に対して生命状態(エネルギー代謝を持続するフィードバック的化学反応形態)の維持を図ってきた生命の柔軟性,可変性のことである。

 遺伝子DNAの有利な突然変異が,自然選択によって生命の形質を進化させるという総合説は証明されてはいない。しかし生命の主体性,適応の意味を考える上で重要である。生命の誕生は物理的環境と高分子化合物の反応が決定した。しかし生命は環境に対し自らを変える。遺伝子DNAの変異は,細胞質や他の遺伝子と全く独立に起こるとは限らないことが明らかになってきた。進化を規定する遺伝子DNAの方向性のある突然変異を考えることは,何ら不思議ではなくなっている。

 生命の生存形態(種)の安定性は,環境との関係の安定性によって保障されているが,環境の急激な変化に適応するには限界があり,生存形態を変える必要があった。この限界を越えて生存形態を変化させ進化してきたのが,現在1000万に達する生物種である。

進化の頂点にある人間は,他の生命形態を破滅させる権利をもたない。人間の自然への認識は,自然全体の保護・共生が優先されねばならない。自然による外的強制でなく,人間自身の生命認識の普遍化による自己抑制である。自然は,西洋思想がとらえるような支配の対象ではなく,保護・共生の対象でなければならない。

人間にとっての便利さ豊かさは,自然保護を前提としなければならず,生命にとっての真の進化の頂点としての人間は,進化を滅亡・破壊のためでなく,地上の生命の存続のために役立てなければならない。これは30億年の生命形態が求める人間への要請である。

以上のことを前提として,次に進化の頂点に立つ人間の本質的な機能である言葉のもつ意味,そして言葉と認識の問題の解明の基礎となる,人間の欲求と行動についてみていこう。人間の言葉と認識は,欲求の充足をめざして人間の行動様式とともに進化してきたものであるから


※参照  <三種類の突然変異について> 

―突然変異は生化学反応の法則による必然的反応、生命は適応的突然変異を主体的に選択する―

―進化の総合説の欠陥は、生命自体が適応的突然変異の選択主体であることを排除したこと―

―偶然的突然変異の適応性(生存と繁殖)を選択するのは、競争的自然ではなく生命自体の適応性である。生命の適応性は、生化学反応を継続できる生細胞の恒常性維持環境である。―


  生物進化学において突然変異は、生命(細胞)内外の環境変化や化学結合のミス(であっても法則的反応である)や分子の置換、欠失、付加などに伴ってDNAやRNA、または染色体等に(個体にとっては)偶然的に起こる生化学反応であり、それによってタンパク質製造の設計図と触媒の働きを変質させると考えられます。一般に化学反応は安定的な物質でさえ、光や熱、放射線や無数の化学物質(誘導物質、触媒等)の偶然的な(無数の物理化学的)影響を受けて、上記のような多様な反応(変異)を起こします。さらに、生殖細胞における突然変異や発生における表現形質に直接影響を与える遺伝子発現は、まだ十分にそのメカニズムが解明されていませんが、遺伝子DNAをエピジェネチック(後成的)に制御することが知られています。これは獲得形質を子孫へ遺伝するのを可能とすると言われていますが、DNA本体を変異させるとはされていません。しかし、生化学反応そのものは、法則的に起こるものであり、原因のわからない(ミスや置換、欠失等とされるような)突然変異であっても、化学反応の一種、つまり偶然的突然変異も科学的必然性によるということが言えます(量子化学的説明が必要かもしれません)。


 いずれにせよ、生命にとっての突然変異(mutation)には三種類あり、「適応的変異adaptable mutation、不適応的変異、中立的変異」に分類できます。適応的というのは自然選択説で言う「生存に有利な変異favourable variations 」ではなく、危険な生存環境に自らを適合させる(変異する)ことで、水中から陸上へ、温暖から寒冷にあわせたり、獲物を捕らえたり逃避できる無限に多様な変異を主体的に(試行錯誤的に)選択することです。また突然変異には、DNAやRNA等の高分子化合物に起こる生化学的変異と細胞分裂時の固体の形質に生じる表現型変異があります。栄養素の欠如や毒物の摂取は、高分子化合物や遺伝子の発現に障害を与え、病気として発症する場合があります。また個体の形質の変異は、獲得形質として遺伝的(発生的)に子孫に影響をもたらすことがあります。いずれも変異による不適応的な症状は、個体の生存や子孫を残すことを困難にすることになります。(ダーウィンは変異を、favourable variations と injurious variationsとvariations neither useful nor injurious―有利、有害、中立に三分類する。『種の起源』第四章)


 適応的変異は、環境に適応し子孫を存続させることができますが、不適応的変異は個体と種にとっての病気であり、子孫を存続させないことがあります。遺伝子や固体における中立的変異は、両性の接合による遺伝子変異と共に、生命の存続に影響せず、種内の多様な個性的生存様式をもたらします。遺伝子DNAにおける突然変異は、反応エラーとして修正される場合もありますが、多くの反応エラーは個体の生存に影響を与えず、新種の形成にも至りません。動物や植物の品種改良(育種)における人為選択は、生命の主体的選択を人間の好みに応じて増幅させますが、保護や管理が不十分であれば先祖帰りをしたり、子孫を増やすことができません。ダーウィンの反論第三版1861


 自然選択説では、生存に有利な突然変異(の累積した個体)が生存競争の厳しさに打ち勝って繁殖し、新種の起源になりうると説きます。しかし、適応選択説(生命選択説・主体的選択説)は、環境との調和やバランスをとる適応的な選択で、個体や種、生態系のバランスをとって多様な個体や種の永続的生存をめざすと考えます。自然の多様な変化は、生命の存続にとって個体死や種の絶滅という過酷な面もありますが、生命を育み種を永続させる恵みと優しさを併せ持ち、そのために、生命は自然環境の不安定や弱肉強食に適応しながら、多様な個体と種による生態系のバランスを保っているのです。生命(個体と種)に生存と生殖に有利な突然変異(適応的変異)が起こるとしても、その有利さは、適応の有利さであって、競争の有利さだけではなく、棲み分けや共生・互助の有利さでもあるのです。つまり、生命の進化(多様化)は、無限の多様性に対しての個体や種の「優位性」ではなく、有限的(弱者と見える)生存様式であるとしても永続的生存のためのバランスのとれた「調和性」こそ適応的生存とみなせるのです。(マルサス・ダーウィン流の生命の幾何級数的増殖(増加)とされるのは、生存の有限性・困難性を補償するための生命の戦略であって、増殖性が目的ではなく永続性が目的である。増殖性は永続性を意味しない。今日生存している古細菌等の原始生命体やシーラカンス等の古代生物は、増殖的有利性よりも適応的永続性の結果である。)


 以上のように、突然変異は、DNAの複製ミスであっても偶然的なものではなく、自然法則に基づく必然性を持っており、「偶然性を強調する」のは人間の認識の有限性を認めている(ミスや偶然に見えるだけ)に過ぎないのです。このような自然選択(適応選択の主体を自然という造物主にありとみなす)という理解の混乱は、東洋思想と親和性を持つ量子生物学の知見の蓄積によってやがて解明されると思われます。しかし、今日生物学の主流を占める総合進化説(ダーウィン流の自然選択説、ネオダーウィニズム)では、突然変異に「適応的(主体的)な必然性」があることを認めていません。これは、それぞれ立場は違って個性的ではあるけれど、総合進化説(自然選択説を中心にした進化説)を正しいと見なす生物学の俊才・大家達、J.ハクスリー、E.マイヤー、E.O.ウィルソン、R.ドーキンス等々に共通の西洋的合理主義(自然法思想・世界は時計仕掛け説)の偏見です。とくにウィルソンの「遺伝子=文化共進化説」とドーキンスの「ミーム説」については、遺伝子中心主義における人間(文化)理解の基本的欠陥(文化における言語論の欠如)をよく示しているので別稿で批判的に論じます。


なお、『種の起源』第三版以降では、「自然選択説批判」に対するダーウィン自身による反論が、以下のように追加されています。


4(冒頭 2節目)

「いく人かの学者は、自然選択という言葉を誤解し、反対している。自然選択が変異をひき起こすと考えている人もいく人かいる。自然選択はたんに変異が生じたとき、その生活条件のなかでその生物に有利なものだけを保存する、ということを意味しているだけである。育種家が人間による選択の強力な効果を主張したとき、誰が反対できるだろうか。といって、まず自然によって与えられる変異が生じなければ、人間は対象とする個体を選びだすことができないのである。また別の人々は、選択ということばは変形した動物自身が意識的に選ぶという意味を含んでいるとして反対し、強力に主張する。意志作用を持っていない植物には自然選択を適用できない!と。たしかに、自然選択ということばは、その文字通りの意味にとれば不自然となる。しかし、様々な元素の選択的親和力などといっている化学者に、かつて反対した者がいるだろうか? ――厳密にいえば、酸が結合する塩基を選択的に選んでいるなどとはいえないはずである。また、私が自然選択を活動的な一つの力、すなわち神として使っているという人たちもいる。しかし、遊星の運動を支配する重力のひきつける力などという学者に、 かつて誰が反論しただろうか?ものごとを比喩的に表現しその内容をわかりやすくする慣習は、だれでも知っていることである。それは、表現を簡潔にするための欠くことのできない方法である。自然ということばを人格として使ってはいけないとなると、同じように表現はむずかしくなる。私が使っている自然ということばは、自然法則の集合的な作用とその結果という意味であり、法則ということばは、人間がたしかめることのできる事物のつながりという意味である。少し理解を深めてもらえば、このような表面的な反論は たちまち忘れ去られてしまうことだろう。」(『ダーウィン入門―われわれはダーウィンを超えたか』ジョージ G シンプソン奥野良之助訳より。強調は引用者による。)原文(第六版)は以下の通り。

Several writers have misapprehended or objected to the term Natural Selection. Some have even imagined that natural selection induces variability, whereas it implies only the preservation of such variations as arise and are beneficial to the being under its conditions of life. No one objects to agriculturists speaking of the potent effects of man's selection; and in this case the individual differences given by nature, which man for some object selects, must of necessity first occur. Others have objected that the term selection implies conscious choice in the animals which become modified; and it has even been urged that, as plants have no volition, natural selection is not applicable to them! In the literal sense of the word, no doubt, natural selection is a false term; but who ever objected to chemists speaking of the elective affinities of the various elements? — and yet an acid cannot strictly be said to elect the base with which it in preference combines. It has been said that I speak of natural selection as an active power or Deity(造物主); but who objects to an author speaking of the attraction of gravity as ruling the movements of the planets? Every one knows what is meant and is implied by such metaphorical expressions; and they are almost necessary for brevity. So again it is difficult to avoid personifying the word Nature; but I mean by nature, only the aggregate action and product of many natural laws, and by laws the sequence of events as ascertained by us. With a little familiarity such superficial objections will be forgotten. 


※ 以上の反論に対し、以下のように指摘することができます。

*「自然によって与えられる変異the individual differences given by nature」における変異の受動的な発想は、西洋思想に固有の自然選択に由来する誤った捉え方で、個体差は環境に対する主体の適応または不適応的変異からも生じている。いわゆる獲得形質は、「自然によって与えられる変異」ではなく、生命主体の適応または不適応的変異に属する。

*酸の化学反応と、生命の生化学反応とは異なる。生化学反応には生命の存続・適応という目的がある。その生存維持の目的にあわせた適応的反応(変異)が起こるのは、生命個体に対する表現形質の変異だけでなく、エピジェネチックな過程を経て遺伝子的にも発生過程で影響を与えるからである。酸と金属の化学反応でさえ多様な物質の反応強度(速度)は異なり、生命にとっては選択的である。

*自然選択を、重力の法則と同列に比較することはできない。重力は客観的な科学的概念であるが、自然選択は、人為選択に準じる(対比する)「最適者生存the Survival of the Fittest.」という価値的概念だからである。生命の生存(生き残り)が可能なのは、最適者のみではなく、最適者である必要もない。『種の起源』の表題はOn the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Lifeであり、「生存に適応的な変異adaptable variations 」ではなく「生存闘争に有利な変異favourable variations 」が、種の起源のための必要条件とされているのである。生命は生存するのに「最適者」である必要はない。ダーウィンが『人間の由来』(1871)において、差別的文明観や優性思想的発想を示している(弟5章)のは、彼の自然選択説に由来している。