「人間とは何か」に関するQ&A 3

人間とは何か(人間と社会とは?)についての(Q&A 3) (下書編集中)

・・・・・・・・・・・・・・・・ ☞ まず( Q&A1) 人間存在研究所 を参照してください。

Q.マーク・トウェインの『人間とは何か』 (岩波文庫)における「人間機械論」の誤りとは何でしょうか。

A.次の文の誤りを見つけて下さい。「人間機械論」を主張する老人の結論的な言葉です。

「そうさ。人間即機械――人間もまた非人格的な機関にすぎん。人間が何ってことは、すべてそのつくりと、そしてまた、遺伝性、生息地、交際関係等々、その上にもたらされる外的力の結果なんだな。つまり、外的諸力によって動かされ、導かれ、そして強制的に左右されるわけだよ――完全にね。みずから創り出すものなんて、なんにもない。考えること一つにしてからだな。」(上記文庫 中野好夫訳 p13)

“Yes. Man the machine—man the impersonal engine. Whatsoever a man is, is due to his make, and to the influences brought to bear upon it by his heredities, his habitat, his associations. He is moved, directed, commanded, by exterior influences—solely. He originates nothing, not even a thought. ”

 まず、人間は単なる機械ではなく、また生命としても創造的な力を持っています。人間は教育や環境・遺伝性の所産である(環境決定論)とともに、自らの言語的問題解決能力(知性・理性)によって、自らと環境を変えていくことができる創造的な存在です。彼が19世紀末の人間であり、ダーウィンの「進化論」を賞賛していたとしても、生命と人間の理解は不十分であり、彼特有の人間不信にもとづくペシミズム(悲観論)は、人間にとって真実ではありません。また彼は創造神の存在を否定する科学的思考を重視したにもかかわらず、人間の言語的認識力の創造性については一貫して否定的であり、この点については人間理解にとって有害であるので、根底的な批判が必要です。

 彼は「選択choice」が「創造(創始)criation, origination」であること(選択的創造または創造的選択)を理解できません。環境(外的影響)の無限の多様性と生命主体の認識能力(心的能力=欲求・感情・言語による選択・判断・創造)の複雑性が解明されていない時代の人物なので、言語的「選択」が、対象の再構成(文の成立・創造)を含み、創造的過程でもあることが分からなかったとしてもやむを得ないかもしれません。

 確かに、解剖学的な意味では人間も機械にたとえることは可能です。しかし、生命という「機械」は、多様な環境条件に適応して自らを創造・進化させてきました。生命細胞は、厳密に言えば、「進化論的創造性」をもってこの地球に誕生し、様々な環境条件に適応した生存形態を獲得(創造)してきたのです。その上に、人類は言語という伝達・認識手段を獲得しました。神々を作り文化や文明を発展させました。今までは知識の不完全のため愚かに見える人間も多く歴史上に登場してきました。

 しかし、これからは違います。人間は機械ではなく創造的存在です。悲観論に陥る必要はありません。この世に生まれ人生を謳歌できる可能性を持つのです。マーク・トウェインが遭遇したような多くの困難も、永続的な幸福により容易に到達できる時代が来るのです。


Q.人間と他の高等動物(例:チンパンジー)との違いは何ですか。

A.人間は、二足歩行・手の自由による大脳の発達と発声の分節化(言語の獲得)によって、認識・思考能力や情報処理・伝達、学習機能が飛躍的に高まり、道具の製作や火の使用、社会組織と行動規範、宗教・文化・芸術・娯楽等が複雑に発展しました。とりわけ人間の創造的・文化的機能は、言語的認識と行動制御のはたらきによるものです。

 チンパンジーも高度な情報処理・記憶伝達能力を持ちますが、直接知覚できる(直示的)対象に対してしか反応(情報処理と行動)を示しません。言語信号という第二信号系を持たないため、知覚を遮れば情報処理ができない(関心を持てない)のです。それに対して人間は、言語信号(内言)のみによって、情報を処理(思考)することができます。だから両者の決定的な違いは、言語の有無にあり、人間の本質は言語であると言うことができます。 参照類人猿と人間の認知能力の違い」


Q.人間の本性は理性ではないのですか?理性と言語の関係を教えてください。

A.理性が人間の本性であることは間違いありませんが、理性という概念が感性(欲望や感情)に対立した価値的意味(理性は感性よりも善であり高級という)を持つので、人間の本性を理性とみなすのは誤解を生じます。理性が優れている人間もいますが、言語的思考力を駆使しながらも感性のまま生きる人間(例:おしゃべり・ウソつき、饒舌家)でも人間であることには変わりありません。理性は、刹那的状況に流されやすい感性を抑制してこそ理性なのです。

 この点、言語を本性とすると、いかに欲望や感情に従って思考・判断・行動しようとしても(例えば、独善的な人が悔しさや怒りにまかせて屁理屈や悪知恵を働かす場合でも)人間ということができます。理性は人間にしか当てはまりませんが、すべての人間に当てはまるとは言えないので、「人間の本性は言語である」とする方が普遍的に当てはまるのです。

「理性と言語の関係」は、理性的思考が必ず言語的におこなわれ、欲望や感情を抑制・コントロールする場合に意志的感情(内言語的・目的意識的に精神・心を統制する持続的感情)のはたらきによって持続的に理性的であることができます。つまり、理性とは、社会的価値の低い欲望や感情に支配されないで、逆に自己自身を統制することができる思考能力のことであり、情欲の強い人では不断の言語的刺激(情報・メッセージ:例えば「隣人に情け深く優しくありなさい。」「よく考えて行動しなさい」「指さし点呼」のような自己への言語的指示)が不可欠となります。

Q.生命が生きるとはどのようなことですか?

A.参照⇒「生命とは何か

Q.生命はどのように自己と環境を制御(コントロール)していますか?

A.参照⇒「認知と行動の原理


Q.心の三要素のうちの「欲求」の目的は、個体と種の維持・存続にあると言われますが、それらは単に肉体的生理的なものであって、「人間の心の動き」とどのように関係しているのですか?

A.個体の維持に関しては、内的恒常性(ホメオスタシス)の維持が体内バランス感覚(視床下部の中枢神経による制御)に現れ、動物においては一定の満足感となって終わりますが、人間においては空腹や安全が充たされても満足できないところが人間の心の特徴(欲求拡大・もっと欲求の習得的肥大・二次的欲求)です。種の維持に対しては、性的関係や育児・教育に関しても社会的な役割や地位(有名大学・大企業、立身出世)が目標とされ、片寄った情報(偏見・習慣・伝統・ビジネス)に支配されてしまっています。人間の心は、マスメディアのもたらす刺激的(扇情的)な言語的情報の氾濫によって、逆に心の安らぎを奪われ、神経症的な症状が生じる原因ともなっています。


Q.言葉には、進化論的な発達段階があったのでしょうか?

A.⇒おそらく、進化論的には、動物の直示的鳴き声⇒初期人類の間示的一語文⇒現生人類の主述構成文となりますが、ネアンデルタール人(旧人)までの段階では一語文(的構成⇒乳児期の発語)であったのが、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階で、構成文が完全に可能になっていたと思われます。構成文の利点は、認識や表現において、対象の直示性が減少し「何がどのようにあるかwhat how why」の解明を通じて創造力が飛躍的に高まったことにあると思われます。(参照 言語の起源


Q.道具や火の製作・使用と言葉の獲得とはどのような関係があるのでしょうか?

A.⇒言葉には、一語文と主述(構成)文があり、後者は助詞・助動詞・形容詞、目的語や節等を加えてさらに複雑にすることができます。進化論的には、動物の直知的鳴き声⇒間知的一語文⇒主述構成文となり、おそらくネアンデルタール人(旧人)までの段階では構成的一語文となり、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階では構成文が完全に可能(文法的)になっていたと思われます。

 道具や火の製作・使用は、目の前の石器や火の(直知的)扱いについてある程度の制御力・操作力が必要となります。同時に言語能力(音声信号の区別と統制)の面でも、一語文ではあっても、生活に欠かせない名詞(火、石、他多数)や動詞(取る、作る、食べる等々)、感嘆詞(yes/no!, わお!)・形容詞等の区別はあり、判断や行動・動作に合わせて(身ぶり言語)無意識的に言葉を連ねて使用したと思われます。そのような状態が長く続いた後、現生人類の段階になって農耕・牧畜がおこなわれるようになると、文法の成立とともに主述構成文が論理的な思考を伴って自然や社会、そして農業生活を秩序づける神話的世界観を生み出したものと思われます。


Q.西洋合理主義の何がダメなのですか?西洋で確立した基本的人権や民主主義の発展は暴力支配や戦争を少なくしましたし、科学技術の進歩・発展は人間の生活を豊かで快適なものにしました。

A.確かにギリシアに起源を持つ西洋合理主義の背景のもとでルネッサンスで花開いたヒューマニズムや科学的精神は、悲惨な歴史的経緯(宗教戦争、農民戦争、植民地戦争、市民革命、階級闘争、帝国主義戦争、世界大戦、民族解放戦争等々)をたどりながらも、人類に多くの光明をもたらしました。しかし、21世紀になる今日、近代西洋で確立し世界に拡大した豊かな物質文明は閉塞状況に陥っています。

 物質的な科学技術文明では大勝利を収めたかに見えますが、それは有限な化石燃料(石炭・石油)に支えられ、弱肉強食の競争原理による貧しい労働者や植民地の犠牲によって成立し、経済の拡大成長を前提としたものでした。今日その経済拡大の前提とそれを支えた人権と民主主義が崩れようとしているのです。

 つまり、今日の地球世界は

①産業革命・技術革新をもたらした再生困難な化石燃料による地球汚染・温暖化と資源の枯渇、

②自由競争市場経済による冨の増大と経済発展がもたらした貧困・格差の拡大とそれを支えた自由放任経済の欺瞞性と制御困難性、

③個人主義的ヒューマニズムにもとづく基本的人権を実現するための、社会契約理論を背景とする大衆民主政治の危機と腐敗・浪費社会、そして

④大衆社会状況では、非科学的な伝統的世界宗教か、あるいは商業主義のマスメディアや貨幣無しには得られない物質的享楽にしか「救いと人生の意味」を見いだせない、さらに

⑤貧困と民族的利害対立を根源とする犯罪や暴力等の戦争状況、

 これら大きく分けて五つの解決困難な問題に直面しています。このような問題状況によって引き起こされる持続可能な社会の破綻と制御不能な戦争の危険性を避ける努力が「国際連合」等でなされていますが、西洋合理主義の理念では、解決困難な閉塞状況にあるということです。

 これら(資源・環境、経済、政治、戦争、学問・文化・教育等)の問題は、社会主義による資本主義の打倒、社会福祉と大きな政府前提とする両者の混合経済、規制撤廃と市場経済の推進を唱える新自由主義、民主主義の徹底と地方分権の推進等々ということで解決できる状態ではありません。

 なぜなら、解決困難な状態が続き、解決への希望が見えずに危機が深まるほど、人間は自己保存の本能がはたらき、西洋合理主義のもとで生まれた天から与えられた楽天的な理性的個人主義(実は利己的互恵主義)や歴史決定論(19世紀までの宗教・哲学・政治経済学等々の西洋思想のほとんどすべて)が、想起・流布・宣伝され混乱と対立に拍車をかけるようになるのです。

 例えば、基本的人権では、自由・平等・所有権が中心的なものですが、人間は生来自由でも平等でもなく、また所有権などは強者である権力者が自己保存のために制度化したものです。不当な政治権力からの自由や平等の権利(正義rights / justice)は必要ですが、社会福祉や個人の持続的な幸福を獲得・維持するためには不断の検証が必要です。

 また所有権について、今日では「公共の福祉」のための限定が付けられる場合が多いのですが、自由市場においては、独占企業の制限はあるものの、無制約な交換的利益(超過利潤・交換的不正義)が得られ格差を拡大することになります。また所得への課税、再分配による格差縮小と社会福祉のための財政政策がおこなわれても、非常に制限的なもの(小さな政府論・分配的不正義)です。社会福祉を推進する社会権的基本権は、民主政治のもとで確立しましたが、経済の拡大成長を前提としたものとして「合理的な」見直しが主張されています。


Q.西洋的合理主義の限界を超える解決法が何かあるのですか?

A.もちろんあります。ただ西洋的合理主義に取って代わるというのではなく、西洋的合理主義の長所とその限界・欠陥を自覚し、合理主義そのものの言語的根拠を明らかにし、東洋的合理主義との融合によって人間的普遍的合理主義(認識論)に発展させようとするものです。そもそも人間の認識は因果的なものですが、その場合 生命言語的な合理主義ないし縁起的合理主義に(一方向的から相互依存的に)発展させることによって解決法を見いだそうとしています。

 それでは「生命言語的な合理主義(認識論)」とは何か?それを説明するには、まず、人間が「言語を獲得した生命」であり、言語はより確実に生き続ける(個体と種の適応・維持・永続)ために進化の過程で獲得されたものであることです。

 その上で、生命(生きること)にとっての言語は、自己の存在する世界を対象化(what)して、その状態や在り方(how)を認識・判断・再構成(創造)し、表現・伝達する手段となります。それだけでなく、言語によって認識した世界をどのように(how)認識・理解・判断し、意味づけ合理化するかによって、行動や生き方(how to live)を方向付けることになります。

 その意味で「人間とは世界や生き方を合理化(意味づけ)する動物(生命)である」と言うことができます。世界を対象化していかに絶対確実なもの(神・仏や純粋理性)として合理化(論理的な表現や意味づけ)しても、自ずと生存・認識手段としての限界があるということです。

 次に、生命言語説にあっては、論理的認識・思考(合理主義)には完全性というものはなく、数学的世界であっても人間的創造物(数を数える・加える、図形を描き定理化する等)として、客観的事実との乖離があることを重視します。また、論理的に構想・創造された世界についての確実性を担保しようとして、「神」「不動の動者」(アリストテレス)を想定しても、それらは人間の創造物に過ぎないのです。

 論理的・合理的に構成・創造された言語的世界の完全性・絶対性・独立性を否定して、世界を人間や生命の生存のために、言語を用いて世界と人間の生き方を合理化(意味づけ)するのが「生命言語的な合理主義(的認識論)」なのです。

 西洋的合理主義の限界に対して、東洋的な「縁起的合理主義」は、生命(人間)の世界認識にとってより適応的・多面的・相依的なものです。その思想的根源は、縁起的認識が重視されたインドの思想的風土にあります。古来インドでは、ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)哲学に見られるように、広大無辺の宇宙(ブラフマン・梵・自然)の中に生命個体(アートマン・我)を位置づけ、個体と宇宙との一体化(梵我一如・不二一元化)をめざそうとしました。またそれに伴って、時間の経過、歴史の発展・記録に関心が少なく、インドの歴史をその起源から時間的な流れとしてとらえることはありませんでした。

東洋(インド)的な 縁起的認識は、バランスと現状持続性、つまり自然との一体化・相互依存性を重視します。西洋的因果的認識は、単線的な目的追求と発展性、つまり自然の合理性と支配(対立性)を重視し、人間の認識能力の相対化(対立よりも融合・調和)が回避されます。それに対し、縁起的因果認識には、始まりと終わりがなく、永遠と無限の調和(無差別一体化・波動性)的運動があります。単線的因果認識には、始まりと終わりがあり、永遠と無限は単なる目的(終わりend)にすぎず、論理的確実性(合理的絶対性)を持とうとします。

 その結果、縁起的認識では、宇宙・自然の中に、生命・人間主体を相対化し永続的一体化(超越性・涅槃性=東洋的絶対者)を求めますが、単線的因果認識では、宇宙・自然を人間の支配するべき対象としてのみ認識し、対象との永続的一体化や融合・調和に親和性・安らぎを認めません(確信が持てなくて不安である)。そして、西洋的絶対者(神・不動の動者)と死すべき人間とは、圧倒的な差別と格差が生じています。

また西洋的な言語的・理性的認識は、因果的認識に片寄りやすく合理的完結性を求めます。それに対し、東洋的な言語的・感性的認識は、縁起的認識を基本にして合理性だけでなく感性的融合的超越性を求めます。人間には両者の認識が必要ですが、生命と人間の本質を見抜くためには、縁起的認識が必要です。生命進化は、発展や進歩ではなく自然環境の多様性に適応した、生存形態の多様化に過ぎないのです。だから生命の実相を見れば、バランス・調和と現状維持・永続性が求められるのです。

 自然や人間を含めた世界の構造は、差異(多様性)と普遍(共通性)をもとに相依性(縁起)の運動によって成立しています。人間の認識は、言語的認識の限界(偏見・固着・独断性)によって、この世界の複雑・多様な実相を二項対立的・弁証法的(円環的・発展的)に単純化してしまう傾向がありますが、この限界を自覚することによって、はじめて生命と人間にとっての真知(明智)に達することができます。

 ちなみに、インド仏教の縁起は、因縁生起の略で、因縁の因は主因、縁は補助因または相互依存性を示します。釈尊は「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」と言い、中国の老荘思想では、因果性や対立性よりも因果・対立の解消と無為性を重視して、因果や差別を越え「無為自然」「万物斉同」「彼是方生」を唱えました。日本では小難しい哲学的認識は発達せず、「なる」に任せる穏やかな自然宗教の段階にとどまっていました。いずれにせよ、西洋と東洋の対立を越え未来においても永続的に真理となる合理的認識論は、西洋的とか東洋的とかの区別を越え、「生命と言語の本質」からのみ説明することができるのです。


Q.貴研究所では、マルクス思想の根本的な批判をされていますが、中国や北朝鮮ではマルクス・レーニン主義を指導理念とした一党独裁国家です。日本の隣人として友好関係を保持するにはどうすればいいのでしょうか。また今後これらの国はどうなるのでしょうか?

A.今までマルクス思想は、個別的項目(剰余価値説等)や事象(独裁国家の問題性等)について批判されては来ましたが、体系的に批判克服された理論はありませんでした(Wikipediaの「マルクス主義批判」参照 )。マルクスの思想は、現代の西洋近代思想に依拠した批判だけで克服できるような相手ではありません。「人間とは何か?」「生命とは何か?」「言語とは何か?」という根源的問題から解明しなければ、現代思想と人類的課題のもつれた糸(閉塞状況)をときほぐすことはできないのです。

 本研究所では、マルクス理論「労働者(被抑圧者)の解放」とともに、「人間抑圧の理論」であると理解しております。前者は積極的・肯定的な意味を持つのですが、後者は西洋思想(とくに哲学・経済学)の限界に由来する唯物弁証法と等価交換経済学の誤りです。両者はともに学者があまり問題としなかった、またはできなかった論点です。というのも弁証法はヘーゲル(1770-1831)、等価交換はアダム・スミス(1723-1790)という両巨人が確立した理論だからです。その批判の詳細は、本研究所の「マルクス批判」でネット検索してご覧下さい。

 つまり、マルクス理論は、まだ十分完全には批判・克服されていないのです。そのため、本来のマルクス主義とは異なる一党独裁体制が今も可能で健在なのです。しかし、「生命言語理論」は、やや難しいところもありますが、人間存在を根源から体系的に明らかにしたもので「西洋思想批判」が根底にあり、西洋的普遍性(人権、個人主義、社会発展等)の基礎のうえに人類的普遍性(物心調和、永続幸福、共存共栄等)の追求を目標にしています。そのためマルクス理論の欠陥性が理解され、人類的な共通の目的――平和共存、環境保全、資源管理、互助互恵などで世界の一体化が進み、世界連邦の必要性が求められるようになれば、開発独裁の必然性もなくなるでしょう。

 その場合の日本の役割は極めて重要です。20世紀後半の最大の課題となった東西対立にもとづくアメリカ一辺倒の政策は、今日では西側の勝利に終わり、平和共存と互助互恵のための東アジア共同体を展望することも可能となり、中国との対立政策は終わらせるべきです。というのも、社会主義中国も「改革開放」の市場経済によって変質し、マルクス理論と現実の乖離は明らかで、東アジアの一員として世界平和の実現を求めているからです。そして平和を求める日本の憲法理念は、世界連邦の建設に向けて強力な役割を果たします。

 日本の戦前の天皇主権にもとづくような帝国主義的絶対思想は、不信と対立を強めますが、今日の平和憲法は平和そのものを追求する憲法です。米中露などの覇権大国間の対立の調停ができるのも日本国憲法の求めるものであり、一方に偏るのは混乱を長期化するものに過ぎません。平和的組織としての国際連合においても、単なる国際間の利害調整機関としてだけでなく、さらに宗教的・思想的・文明的偏狭を越え、人類的普遍性をもった新たな人権と民主主義が求められているのです(現行の「世界人権宣言」作成論争における未解明事項の再検討)。

 しかしその場合の障害になるのが、念仏のように陳腐化してしまったマルクス・レーニン主義思想と途上国にありがちな宗教的民族主義を伴う独裁体制です。過去の独裁体制の多くは暴力を伴う革命によって民主化されましたが、今日の時代に暴力革命は必然ではありません。イスラム教やマルクス主義などの理念による制度は、理念による変革が可能です。理念や教義の存在意義が、「生命言語理論」によって相対化されれば、すなわち人間存在の意義、言語や知識・理念の意義が理解されれば、熟議による相互理解が深まり、人類の平和共存・互助互恵の新たな国際組織と永続的平和への期待が広がるでしょう。

 20世紀に人類が経験した世界大戦の悲惨な経験、とりわけ広島・長崎に投下された核爆弾の惨禍から獲得した徹底的な平和主義は、日本の民族主義を越えてより普遍性を持つものです。全人類が諸個人の人生の意味を自覚し、自らの幸福を求める意識が高まれば、自己中心的意識は弱まり虚栄の欺瞞的経済競争の衝動は、人類の共通の利益のもとに調整が可能になるでしょう。これは希望的観測ではありません。今までの宗教哲学、政治経済、文化・文明に対する誤った知識・イデオロギーが人類的共存の流れを妨害していたのです。日本こそ民族の誇りとして、アジアの隣人や世界に向けて、人間についての真実を語れば、民族的利害やイデオロギーの対立をこえて平和的共存共栄の道が開けるでしょう。

人間とは何か? (Q&A 1) (Q&A 2) 人間の本質は言語である―生命言語説 神は人間言語の所産である