言語とは何か―解明の意義      ――なぜ言語の究明が必要か?――

人間が 生きることは認知し行動することであり,種(家族・隣人・仲間・人類)と共に生きることである。そのために相互の意図を伝達しあうのである。とくに人は、言語によって世界を把握再構成・創造し,自らの意図を伝達し,自らの生き方を選択する。人が生きることは、言語によって対象世界を認知し,生き方を方向づけ,選択判断し、それを表現・実行することである。それゆえ人間は、言語によって自らを意味づけ合理化する存在となる。>

「私は想像しがちだが,もしも知識の道具としての言語の不完全がもっと徹底的に考量されたら, 世をあれほど騒がせた論争の多くは独りでになくなり,真知への道は,そしておそらくは平和へ の道も,いまより大いに開けるだろう。」 (ロック.J『人間知性論三・9-21』大槻春彦訳)

──なぜ言語の究明が必要か──

          参照⇒やさしい人間存在論  言語とは  言語の起源   言語の起源と進 new !

 古来人間は自己の存在がどのようなものであるか、またその存在の意味とは何か について考えてきた。人間とは何か、人間はなぜこの世に生を受け、様々の煩悩・苦楽を経験し、やがて死んでゆくのかと。そして、様々の解答を用意してきた。あるものは、因果関係を超えた超自然的精霊・対象に身をゆだね、あるものは動植物の霊力に依拠し、あるものは現世を永遠の生命になるための仮の世界であると考え、あるものは絶対者としての神の被造物と考え救済を託し、あるものは生命を輪廻転生するものと考え、またあるものは人生を所与のものとして、ただ善く生きることに専念しようとした。

 しかし、科学的認識の方法論を持たなかった過去の人間は、自己の考え(宗教や思想・想念)を万人が了解しうる理論まで高めることはできなかった。人間は自己の存在の不安定性(無常)のために、常に存在の意味を問い、その解答としての自己の思想(人生観・世界観)に(単純な因果関係によって)確実性・絶対性を与えようとする(信念)。しかし、人間は中途半端で曖昧な解答に安住できない存在だから、せめて自己満足できそうな理論や思想に執着することによって安心しようとする。

 科学的思考における理論(法則)の仮説性は、自然科学などの客観的知識については了解しても、人生の意味など主観的知識については、客観的確実性や相互の了解を得るのは極めて困難である。そこに過去の宗教や思想の存続の理由もあるのであるが、今日の宗教や哲学・思想上の混迷は、過去の権威や伝統に依存し、科学的思考に耐えられない人々の認識の怠慢であるともいえる。それでは人間の相互了解の障害になっているのは何であろうか。それは人間の思考や認識そのものを成り立たせ、相互了解の手段でもある「言語」についての認識(言語的認識論)の混乱または無知にある。

 つまり、人間を特徴づけ、思考や意思伝達の手段である「言語」が、人間にとってどのようなものであるかは、未だ明確には了解されていないからである。人間の高度の判断や行動を方向づけるのは知識・思想(価値観・人生観)であるが、知識や思想を構成する要素は「言語」である。人間は言語を用いて「思考」し、その結果として知識を獲得する。言語的思考は、生命の持つ根元的な欲求や感情・意志によって推進され、世界(対象)を言語記号化し、創造的に再構成して、その結果として「知識」を成立させる。「知識」は、感性を通じて経験的に獲得された言語(理性)的構成物である。

 多くの思想家が様々の思想を構想し新たな知識を獲得・創造してきたが、それらの知識そのものの意味や根拠を解明したとは言えなかった。 「知識とは何か」に対する答は、「言語とは何か」に対する答なくしてあり得ない。しかし、西洋哲学は、ギリシア哲学の成立以来これらの問の解明に失敗してきた。それは(感性や欲求・感情を二次的・従属的なものと考えた)認識(言語的思考)の結果としての「言語(ロゴス)」や「知識」を「存在そのもの」と誤解してきたためである。

 このことは、アリストテレスの「そのものが何のゆえにそうあるかは、結局それのロゴスに帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は、究極においてはそれの原因であり原理であるからである。」(『形而上学』)や「はじめにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。ロゴスは神なりき。」という『聖書』の言葉に端的に表れている。

 ソシュールは、「言語記号が結ぶのは、ものと名前ではなくて、概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)である」(『一般言語学講義』)と述べることによって、言語を学問の「対象」にした.。しかし言語は、「対象」の表現記号であり、思考や記憶の手段であり、人間の行動(反応)の一形態であることにまで関心を持たなかった。

 伝統的な西洋的思考においては、言語は対象を支配(把握・begreifen)する理想型(ロゴス・概念・Begriff )であった。つまり、対象は命名(言語記号化)に先立って「ロゴスとして」存在するように見え、命名の結果としての言語は対象そのものの現象形態であり「言語には実体性がある(言語と存在の一致)」というものであった。

西洋思想におけるソシュールの意義は、伝統的言語観を覆し、命名(言語化)を通して、初めて人間が、人間の対象が対象として存在する(認識される)ということを認めたことにある。つまり「対象の存在」は、認識の結果(としての概念ないし所記・意味)であるということを「発見した」のである。彼はこのことを対象と言語の間の「差異の体系・関係論的説明」として提示した。

このことをより哲学的に言えば、「言葉は対象に対する人間主体の興味関心(意味の発生)によって成立する」ということになる。対象は無限であるが、人間の興味関心の結果としての言語的存在は有限なのである。無限の対象と有限な言語(とその概念・意味)の差異や関係性を認識することこそ、言葉の意味を明確にし、人間の相互了解を深めることになる。例えば伝統的な「神・仏」についての非科学的教義も「価値」についての主観的解釈も、ソシュールの構造主義的(科学的)認識方法によって神秘性のベールをとりはらい、生命としての人間存在の意義を明示することを可能にするのである。そして残された我々の課題は、人間存在の構造主義的分析の上に立って、無限の世界に新たな人間存在の構造(生存様式)を創造していくことなのである。

<新しい言語論(生命言語説)はものの見方や生き方を変革します>

言語は、西洋言語学におけるように対象化された言語記号の構造のみを扱う(ソシュール等)のではなく、生命の刺激反応過程を制御し構造化し創造する認識や思考、感情や行動の表出過程として扱うべきものです(生命言語説)。このような言語観・人間観は自己(私・生命)の主体性(自律性)を確立し、神仏の存在を必要とせず、人間相互の共通理解と連帯を促進し、諸個人の幸福と社会の平和に貢献します。人間は言語によって自らを支え、相互理解(または相互不信)を深め、新しい自己と社会と文化(文明)を創造する動物なのです。

※ 時枝誠記の「言語過程説」は、言語主体の役割を基本に据え、伝達手段としての「言語資料ラング」を科学的対象にする(ソシュール)のみでなく、話者と聴者の伝達過程(表現と理解)を分析することによって、言語学の対象を言語の本質に近づけようとした。しかし、対象をどのように表現するか(認識論),また表現することは言語主体にとってどのような意味をもつのか(存在論)を考察することがなかったために、言語主体が言語を手段として情報処理をすること(認識・思考)の意味や、認識・思考過程と行動過程に及ぼす言語の知的・創造的意味(存在の意味づけ・合理化的役割)を見いだすことができなかった。

時枝のソシュール批判は、西洋的人文科学の限界(認識論的限界)を的確に捉えている。彼らは人間的活動の結果としての「言語資料ラング」を、科学的対象とすることはできたが、人間にとっての言語(ランガージュ)の意味を科学の対象にすることができなかった。なぜなら、西洋的思考様式においては、自己(人間存在)を言語的に規定することによって自己の存在を確実なものとしてきたが、その言語を伝達手段以上のものとして相対化することは自己の存在の不安定化を招くことだからである。言語は伝達の手段であるが、伝達するべき内容を認識・吟味するとき(理性的思考)、人間存在そのものを規定することにもなるのである。

「何がwhatどのようにhowあり、どのようにするべきか。なぜwhyそうなのか」を認識・思考・構成するのは、無限の対象を言語記号化できる人間だけがもつ言語構成(思考・理性)の原点なのである。ソシュールの「言語差異論」の限界は、言語主体による認識・表現過程の積極的評価(問題意識)──それは西洋思想の批判につながる──から明らかとなる。つまり言語の特質は、認識の結果としての「差異」にあるのではなく、言語主体が世界を認識し生きていくための、音声記号による「区別・限定・表現」という創造的思考・表現過程なのである。(ここを参照)

日本文化を担う時枝に、なぜソシュール批判が可能であったのか。それは日本文化論の課題でもある。

また「言語論の革新」は、西洋思想の限界を克服することによって、人間存在を「構造から創造へ」また「創造的理性の生成へ」と誘うであろう。

★ 生命は、無限無常の複雑な自然環境(刺激情報)の中に、安全(安心)で単純明解な生存の結論・反応を求めます。人間の言語はそれらを再構成し肥大化させる認識装置となっています。ギリシャを起点とする西洋の認識・思考様式は、世界への合理的解釈によって科学的認識を確立しましたが、その反面では、人間の無意識的な欲求や感情を、自然法や神々の意志に従う理性やロゴス(言語的認識)の支配下に置こうとしました。しかし、フロイトの精神分析によって抑圧から解放された無意識(欲求や感情の世界)は、今日では西洋で誕生した理性やロゴスを利用し、自然環境と人間の築いた文明自体を破壊しようとしています。

 「言語を獲得した生命」である人間には、言語(的認識)によって地球上に誕生した生命と人間の存在意義を理解し、永続的生存への取組を強めるという責務があります。無意識的な欲求と感情にまかせて、生命の故郷地球と人間の築いた文明を破壊する行動を抑制し、平和共存互助互恵にもとづき、万民の永続的幸福を実現する新たな文明社会を築く必要があります。そのために、人間存在研究所では、まずは「汝自身を知れ」の格言から、「人間の本質は言語である」ことを自覚するべきであると提案します。


◇ なぜ言語の究明が進まないのか?

その理由は様々ですが、思想的には宗教的理由と哲学的理由の二つがある。さらに、生物学的理由つまり「自然選択進化論の誤り」という理由を追加して三つになります。

 (1)宗教的理由としては、言語の起源やその機能を究明すれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など全知全能・唯一絶対の創造神を信仰や生き方の支えとしている宗教の存在根拠がなくなるからである。「神」は、人間の生きる意味を言語的に理論づけるために、人間によって創造されたものである、という「生命言語説」の結論によれば、創造神を前提とする宗教は存立根拠を失うことになる。「言語の究明」は、直ちに欧米やイスラムの宗教的信仰や伝統文化に対する挑戦となる。

上記三宗教は、人類史上のあらゆる分野で決定的に重要な役割を果たし、現在もまた世界人口の55%以上を占め、人類の平和と福祉、文化と政治経済に大きな影響を与えている。しかもこれら創造神宗教は、歴史上現在に続く内部的対立も多く、残虐なテロや戦争の直接の原因となってきた。科学の時代とは言え、「神は神の姿に似せて人間をお創りになった」のではなく、「人間が人間存在を意味づけるために神を創った」という事実を述べることは、言語の究明から直接に導けることなので、相応のリスクがある。「神は妄想であるThe God delusion」とドーキンス,R.は述べたが、これは必ずしも正しくない。事実は、死すべき有限な人間が、自らの人生苦を意味づけ安心するために創造した、確信的観念なのであって根拠なき妄想ではない。

 三宗教における信仰の原点とも言える『聖書』の「創世記」には、唯一神ヤハウェによる天地万物の創造、人類やイスラエル民族の起源と神との契約等が述べられており、アブラハム、イサク、ヤコブ等の偉大な預言者が紹介されている。しかしその冒頭での人間の始祖アダムの創造に際して、神と人間の本質である「言葉」については何も述べていない。その結果、言語の起源については「言葉は神とともにある」とされ、その真意は新約聖書『ヨハネによる福音書』の冒頭の言葉「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」に表現されている。

(2)哲学的理由としては、すでに当ページ──なぜ言語の究明が必要か──で説明したように、伝統的な西洋的思考そのものに要因がある。つまり、言語の究明が、合理的確実性を探究してきた西洋思想の根源(哲学的認識論)、すなわち人間存在の根源が覆されることになるからである。言語の究明は、言語を用いた理性的思考(哲学)の絶対性が揺らぎ、学問・知識の基盤(存在根拠)自体を見直す必要に迫られるからである。例えば「知識とは何か?」、「知識にどれほどの確実性があるのか?」、のような根本的な問題である。その結果、現代社会のあらゆる知的部門における閉塞状況が起こっているが、同時に言語の解明によってそれらの問題の解決も全面的に可能になるという展望が開けるのである。

(3)生物学的理由としては、進化論の主流を占めるダーウィンの自然選択説がある。というのも、言語は対象(刺激)を的確に認識して音声記号化し表現・伝達することであるが、この言語的認識(記号化)と反応(表現)の働きは、自然選択による進化によるのではなく、生命の主体的な刺激反応的活動を、より適応的に行うための生命による選択的進化であった。そのためにまず、対象の的確な認知を行うよう対象(what)とその状態(how)、さらにその関係性を区別し再構成する必要があった。それが「一語文から二語文への飛躍」であり、これは「乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す」という表現で示すことができる。

 人間の進化を自然選択(有利な形質の突然変異が競争的選択を通じて子孫に遺伝し進化する)という外的要因におけば、生命の刺激反応的適応の高度な主体的実現である言語(文法)の進化を説明できない。言語の進化は、生命の認知・伝達欲求(好奇心と種族連帯)の高度な生存欲求実現の結果である。(参照;言語の起源について

★ 初めに生命があった。生命は、言葉によって人間となった。人間は言葉と共にあった。かつて、人間は言葉によって神を作り、神によって人間を尊厳なものとし、また悪魔と差別と善悪の基準を作った。 だが、今や人間は、人間存在の真実を知り、地上のすべての生命と人間に「永続的幸福」(仏教的な悟り)をもたらすことができるようになった。人間は、まもなく「生命言語説」によって真実に目覚めるだろう。

★ 言語は意思・情報の伝達手段である。それは正しいが、それだけでは言語の本質が明らかにならない。なぜなら、適応的行動のための意思や情報を正しく伝達するためには、意思情報の内容をわかりやすく的確に表現しなければならない。人間は、自分の意思と情報を正しく伝えるために、言語機能を発達させてきた。言語機能の発達は、複雑な文法を構成して、正しい認識と思考・表現能力を高めてきたのである。つまり、言語は意思・情報の伝達手段であるとともに、意思の内容(知識・情報)をより精緻で明らかにするための認識と表現の手段であり、それらの情報を記憶する手段なのである。

★ 今日まで人間は、人間についての多くの知識を積み重ねてきたが、その知識の根源となる言語の究明によってはじめて、人類にとっての統合的普遍的な新しい歴史をはじめることができる。人類社会は、地球の有限性の自覚によって、またそれ故に、人間性の自覚と相互理解が進み、偏見と差別と格差からもたらされる不幸を最小限にすることができる。


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