仏教を現代化しよう

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仏教の現代化─幸福な未来社会のために─ 重要!!ダーウィン自然選択説批判

◇ 仏教の現代化とは、釈尊(シャカ・ブッダ)の教えを通じて、科学の時代に生きるすべての人間が「幸福に生き、幸福のうちに死んでいける人生」にするための智恵を創造することです。人生は苦しみが多い。しかし、我々はこの苦しみを持続的な快楽・幸福の人生に転化することができます。

・仏教は、釈尊の教えを通じて瞑想・祈りを行い、人生に覚醒し生存の苦しみを克服して、永続的幸福を獲得するための宗教である。

                              今よみがえる「ブッダのことば」

 聖者釈尊の時代の問題意識(輪廻転生・一切皆苦からの解脱)は古くなってしまった。2500年に及ぶ仏教の歴史は、今日では色あせようとしています。科学技術が発達し、自然や人間や社会についての知識も大きく変化しました。生活も豊かで便利となりました。この現代において、いまだに、そしてこれからも変わらないだろう人間存在(人生苦・科学的知識)の根源的課題と、人類が引き起こした地球規模の新たな問題(温暖化・経済成長の限界)に、今のままでは仏教は対応できないでしょう。

 偉大な哲学者にして宗教家であった釈尊は、東洋的な悠久の自然との一体化、人生苦(生存苦)の根本的な解決をめざしました。しかし、仏教が今日までどのような成果をもたらしたのか、そしてこれからどのような有意義な貢献をなし得るのか。「葬式仏教」「仏教の興行化」という批判に限らない深刻な理論的疑問と問題解決の一方法を提案してみましょう。

具体的に述べると、まず

① 釈尊自身が解脱し「生存の素因を断ち切った」と自覚したこと(正覚成道)は、万人が理解し、納得できるものであったのか。

② 解脱、悟り、涅槃の境地の獲得は、四つの真理(四諦)によって説明が尽くされるのか。

③ 彼の生きた時代の文化的社会的背景は、人類に共通の課題であったのか。

④ 仏教思想の本質のうち、科学的認識によって否定されるべきものは何か、

⑤ また将来に継承されるべき知恵があるとすれば、修正あるいは追加の必要なことは何だろうか?。

以上5項目について、仏教の現代化は可能であるという立場から検討を加えてみよう。


① 衆生(シュジョウ、すべての生命)が、生存の苦しみを繰り返すという輪廻転生の思想は虚構であり、そこから生じている解脱の課題は万人には必要ない。生病老死等の人生苦は、人生の定在であり、完全な消滅は生存中にはありえない。人間の求めるべきは,人生苦の徹底的な軽減すなわち持続的幸福の実現である。持続的幸福とは、「現世」において避けることのできない人生苦の課題(四苦八苦)の解決と克服、そして心の平安とそれを支える最小限の経済的安定と世界平和である。

② 人生最大の苦しみである死を、物質的手段によって安楽に迎える方法はあるかも知れない。また他の苦しみを金銭的に解決する方法(功利主義)もあるだろう。しかし、そのような生き方だけでは、言葉と理性と感情を正しく用いて、利害の絡む社会で人間らしい有意義な人生を送ったとは言えないだろう。通常の人間は、社会的な愛情や安心を求め、憎しみや不安から遠ざかろうとする。

しかし他人の欲求や感情を見抜くことに限界のある主観的人間は、自己の意志を正当化し拡大しようと、他人を排斥し支配し屈服させようとする(利己主義・性悪説)。この人間の利己的本性を、仏教的縁起の洞察(集諦:十二縁起説ないし空観)によって克服することはできない。摩擦を避けられない人間関係によって成立する社会(在家)的経済生活は、悟りや涅槃を許さない煩悩の生活である。たとえ出家修行(道諦)によって、煩悩や執着を減少させたとしても、聖者釈尊が到達したと信じたような解脱は困難である(大乗思想の必然性)。

③ 釈尊がいかに偉大であり、奇跡的ともいえる高潔な人格者であるとしても、時代や社会、文化的思想的背景(インドの宗教的背景)を超えることはできない。そのために、釈尊の後継者は、彼の功績や名声を利用して,教義の発展と称し様々の分派をつくり、自らの解脱の在り方を最善であると説いて(大乗諸派等)、救いを求める民衆に布教し対立(小乗の排斥=維摩経)することになったのである。これはキリスト教やイスラム教などすべての偉大な思想家や宗教家の後継者に起こったことであった。後世の教義の発展や分立は、その創始者自身も予想したことであろう(?)が、科学的認識の方法論(客観的知識の獲得法)が確立していない時代にあっては、やむを得ざることであったであろう。

④ そこで、今日の科学的認識によって否定されるべき釈尊(時代)の思想の4つの誤りを明らかにする。

一つは輪廻転生である。

二つには一切皆苦(厭世思想)である。

三つには十二縁起説である。

四つには釈尊時代ではなく大乗仏教の中心思想となる空観(思想)である。

これらの思想の限界性が科学的に究明され、釈尊がめざそうとした諸個人(衆生)の持続的幸福と、それを可能とする社会的条件が地球的規模で実現されなければならない。

⑤ 最後に、悠久の価値を持つ釈尊の叡智は、人生苦の実相の顕現と、心の平安をもたらす持続的幸福の実現可能性とその方法の追究、衆生への相互的な慈悲の実践、そしてそれらの知恵の背景となった諸現象の無常性・縁起性・関係性の洞察である。

そして、修正ないし追加すべきものとしては、在家の経済生活の基礎の上に、出家またはそれに準ずる学問研究機関の設置、社会の意志を統合し利害を調整するものとしての新しい社会契約と政治参加の必要性である。これらの理想は、一部社会福祉政策として実現されている。しかしこれらの政策は、哲学と道徳性が不十分であるため功利的な市場的・競争的均衡(強者支配)によってようやく維持されているにすぎない。

人間が人間存在の意義をみいださず、このままの不安定な均衡のままで物質的な成長発展に解決策を求めることは、地球の限界性を考えると不可能である。今こそ仏教の現代化によって、聖者釈尊の願いを人類のめざすべき理想として再構成しなければならない。

仏教の現代化の中心課題は、「願生浄土」という死後のための現在の救済ではなく、「現世浄土」を実現する物質的・精神的救済でなければならない。「現世浄土」は、人間の善性が持つ仁愛と慈悲にもとづく世界の一体化と永遠平和によって、万民の永続的幸福が可能になったとき実現する。

◇ この世に生まれて良かった。毎日の生活が充実している(日々好日)。この人生が有意義であった。無明の闇を克服し、子どもたちの将来にも明るさが見える。安らかな気持ちでこの世を去ることができる(涅槃寂静)。── と言えるように。・・・・・・合掌

「147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」

「724 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察である。このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」(『スッタニパータ(ブッダのことば)』中村元 訳)

【仏教の心と生命言語説――三毒と心の三要素】

  ――貪瞋痴と欲情言の関連と悟りへの道――

仏教の始祖釈尊(シャクソン = ブッダ)は、悟りの道の実践的探求者であるとともに最高の心理学者でした。彼は弟子達に日常の修行についての教えを説きましたが、その中で人生苦の根本煩悩とされる「貪(ドン)瞋(シン)痴(チ)」(貪欲・怒り・無知)の三毒(サンドク)は、解脱(ゲダツ 悟り)のために克服すべき否定的心の代表的状態でした。

原始仏典である『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳)ではこれを次のように表現しています。

「74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

「271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥を投げすてるように。」

「493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。」

「537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

仏教は、本来、解脱の心の状態を「名称と形態」で成立する個体を越えた清澄平安なものと考えているので、「絶対的観念論」というべきです。釈尊にとって、言語の人間的意義を科学的に理解できる時代ではなかったので、迷妄や妄想、真理や明智などの知識の役割を今日的な意味で正しく捉えてはおられません。しかし、釈尊は、誤った知識(迷妄)または無知(無明)が、煩悩の根本原因または煩悩そのものであるとしていました。 ⇒⇒続きはこちら


■ 仏教現代化のための三要件

 ――仏教(釈尊の教え『スッタ・ニパータ』)から学ぶ科学的な「永続的幸福」の三原則――

 今日の仏教は、信仰として現実に人々に救いをもたらしていることはあっても、科学的な臨床心理学的検証を経ることなくして「永続性」をもたないと思われます。目先(当面)の安心や慰めを得るだけなら、既存の仏教も存在意義はありますが、人間に普遍的で永続性のある人生苦救済の教義としては時代遅れになっています。しかし、釈尊(ゴータマ・ブッダ)の教えには、人々に心の平安をもたらし、無用の苦しみや争いを軽減することができ、現在と未来社会に光明をもたらす真理が含まれています。そのような仏教の真理を現代化すること、すなわち未来にも通じる永続的幸福をもたらす釈尊との共通の知恵を実現するために、仏教から学べる三つの原則を提案します。

(一)心の平安、解脱、悟り等の「永続的幸福」は、すべての人間が得ることのできる精神的快楽として大脳生理的に存在する。(永続的幸福とは「精神的快楽」である)

(二)人間に共通性をもつ「永続的幸福」は、人生の意味についての普遍的知識と知恵の永続性(真理性)によって可能となる。(幸福の永続性は「知識と知恵」が保証する)

(三)人生苦(煩悩)は、生への執着(欲求実現)による快苦の繰り返しから生じ、精神的・知的制御を通じた自己省察(瞑想)によって克服することができる。(人生苦の克服と永続的幸福には智慧と瞑想」が必要である)

  仏教の現代化とは――だれもが本当の幸福をえる方法を明らかにすることです

  金子みすゞと仏教 仏教の現代化 幸福論と宗教批判