人間とは何か(Q&A1)

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Q.人間とは何か?

A.(基本的解答) ★ 人間とは言葉を獲得した生命である。

 人間は、自己と世界(自然と社会)を言語化し、それらすべてを「言語的に意味づける」ことによって生きています。言語的に意味づけるとは、「いつwhen、どこでwhere、何がwhat、どのようにhow、なぜwhy」(5W1H)等の疑問を解明し、空想を含むすべての対象の関係を文法に従って表現することです。言語的表現は、文として知識や法則となり、自然現象の理解と利用を効果的に行い、自己の価値観や行動、そして社会関係の規制を行います。言語の理解は、人間や自然や社会の認識、そしてすべての学問の基礎(認識論:「知識とは何か」という学問)となります。 人間とは何かの疑問に答える生命言語説は、今まで解明できなかった哲学を中心とする学問上のすべての難問(アポリア)を解決します。


Q.人間の「言語の特徴」を簡単に説明するとどうなりますか?

A.言語という音声信号は、伝達するべき情報を正しく構成・表現する必要があります。

 伝達する内容が正確に表現できず、相手に誤解されるようでは生命の危険にさらされる場合もありえます。そこで情報を正しく伝達するには、対象の正確な構成・表現が必要となり、問題の対象(名詞what)とその状態や関係(動詞how)を的確に表現するための約束(文法)が作られました。この人間言語の文法の特徴は、音声表現が行動から独立して大脳内で(内面的・間示的・二次的信号情報として)表現・構成できるということです。

 これに対して、他の動物の情報伝達では、音声信号が認知や行動と直接刺激反応的(直示的・一次的)にしか表現できないことです。人間の言語的思考が創造的であるのは、認知や行動と独立して、対象を内面的に言語操作(内言・独言)し再構成することができるためです。


Q.「人間とは何か」を解明して、どんな意味があるのですか。

A.現代社会の混迷・閉塞状況のすべてを解決できる道筋が明らかになります。

 それがこれからの時代を基礎づけることになる「人間存在論」「生命言語説」です。人間について考えることは、自分自身と自分の生き方について考えることでもあります。この混迷の時代こそ、「人間とは何か?」について考え、この世に生きることの意味をつかんで、俗説や誤解に惑わされない、迷いの少ない人生を送りましょう。


Q.初めての人のための「人間存在論」があるとすれば、どのようなものとなるでしょうか?

A.それにはまず「人間とは何か?」について考える必要があります。

 「人間とは何か?」を明らかにするには、他の動物、特に高等動物との比較や、そもそも「生命とは何か」についての知識も必要です。

 すでにそれらの問については、当研究所のホームページで説明していますが、とりわけ今までの哲学や心理学で解明されていなかったその特徴は、「言語」を人間の「認識や心の解明」に明確に位置づけ、「言語が人間の本質である」とした点です。それによって学校教育や大学の研究で今まで正しいとされていたこと、常識とされていたこと、謎とされていたことが新たに解明され、学問・知識・科学(特に人文科学)の根底を変えることになります。

 例えば、心理学においては、「心の構造」の三要素(欲・情・言)仮説による人間心理の全体像(「生命言語説」)の提案、臨床心理学においては、生命言語説によるカウンセリングの提案と仏教の現代化哲学においては、古代以来の観念論と唯物論の対立の止揚、政治学においては、天賦人権説による社会契約や唯物史観による社会主義の限界性の克服、経済学においてはスミスの古典派経済学における市場原理主義(等価交換)の誤りと経済学への道徳性の導入、宗教学においては、神仏に依存する伝統的宗教の欺瞞性の解明、さらには、成長の限界の先に予想される地球社会の争乱の防止、世界連邦の設立と⑨日本国憲法の改正など、今日の世界の閉塞状況を打開する展望を示しています。でも、人間の未来の生き方につながり、人間知識(科学と哲学、ものの見方や考え方)の基本になる最も大切なことは、⑩言語が人間の本質であることを深く自覚することです。そのためには生物学の生命理解を妨げているダーウィン進化論の克服も必要です。なぜなら、西洋思想の限界から生まれた「自然選択説」では、言語の起源(創造神の起源)を説明できないからです。

 初学者にとっては、いずれも初めは難しいかもしれませんが、現在の教科書的な知識に疑問と不信を抱かれるならば、必ず「生命言語理論」の全体像が明らかとなり、自己の人生における為すべき意義を見いだされることと思います。

◇ 生きることと言語の関係:

 生命には生存の維持・存続という意味(目的)があり、生命として言語を獲得し生命進化の頂点にある人間は、その生命存在の意味(個体と種の存続)を言語的に的確に表現し(「生き続けよう」と)、体現しなければなりません。言語獲得の意義は、生命が環境の状態(刺激・情報)を言語的に認知し、社会的(相互的)に伝達・共有して、言語的思考(理性・ロゴス)によって的確に生存活動を行えるようにするものです。ただ、認知や伝達には誤りや意図的な欺き・嘘があり、道具としての言語は十分慎重に検討して理性的に使うのが望ましいものです。


Q.人間の本質が言葉ということは、どんな人たちが、どのように言っているのですか。

  その説明は貴研究所の見解とどのように違うのですか。

A. 「人間とは何か」「人間の本質とは何か」「言語とは何か」で検索すると、その答えの一部が分かります。

「人間の本質」という言葉の検索で分かるように、ネットに掲載されている著名人は、言葉の使い方があまりよく吟味されていません。「人間の本質」 と「人間性の本質」は根本的に違います。善や悪という価値観は、「人間性」から生じるのであって、「人間」そのものは価値観から中立的なものとしてとらえるべきなのです。

 そこでわれわれは、 「人間とは何か」と「人間はどうあるべきか、どのように生きるべきか」を区別して、まず人間についての科学的に検証可能な知識を求め、ついで人間・人類・私たちは、いかにあるべきか、いかに生きるべきかということ(生き方、在り方、倫理、道徳、価値観)を求めます。その際科学的知識の出発原点は何かというと、それは「人間にとって知識とは何か?」ということになります。

 この問は古来より「認識論」として知られ、哲学上の難問とされてきました。哲学上の様々の立場(大きくは唯物論と観念論の対立)は、すべて知識とは何か、知識を構成する「論理とは何か」という問に帰結します。こうして今まで十分な科学的知識もないままに、世界と人間についての絶対的な判断基準が求められてきたのが、哲学上の論争だったのです。

 唯物論として有名なマルクス主義も、「科学的」という枕詞を付けているものの、彼らの理論「唯物弁証法」や「唯物史観」の知識が、人間の認識にとってどのような意味・制約をもつのか、歴史にどのような役割を果たすのかについての吟味は不十分なために、その理論(に対する信仰)によってスターリン、ポル・ポト等による大虐殺を引き起こしてしまいました。これは観念論を代表するユダヤ教キリスト教イスラム教などの創造神宗教についても同じこと(知識の絶対性に対する信仰と排他的残虐性☞天国や地獄の想定)が言えます。

 しかし、われわれの「生命言語説」では、知識を絶対化しません。というか、絶対化しないことを絶対化します。それは、知識が言語によって成立しているということに起因します。そこから「言語とは何か?」という問が生じます。この問の解明のヒントは、言語は「表現・伝達の手段」であるとともに「認識・思考の手段」であるということです。これは“よおーく”自分の言葉を反省・吟味して考えてみてください。


Q.言語の起源を、生命言語説ではどのように説明しますか?

――言語の起源論争に終止符を打てるでしょうか―― new!

A.乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す

 われわれ言語を獲得した人間が、宇宙や生命や神の存在を含む森羅万象(all what・全対象)を、どのように認識して、それらを言語によってどのように表現・伝達するか?この問いが言語の起源を解明する鍵になります。

 つまり、言語の本質は、①情報や意図の伝達と②それらの内容(意味・概念)を認識・表現することにあります。言語表現の本質は、生命の生存様式(環境刺激・統合・反応様式=刺激反応性)に淵源があり、これを理解しない限り言語の起源の解明には到らないということです。

 まず生命(細胞)は、地球という特殊な環境から、特殊な物理化学反応によって誕生したものであり、無限に多様な外部環境(外界の刺激)に対して、不断にエネルギー代謝と安定・安全の維持を目的とする適応的反応を持続させる必要があります。このため、動物においては積極的に適応的環境を選択し、また維持しようと、自己の属する生存環境を知覚・認識し、適応的な反応行動を取っています。地球環境は多様であり、個々の種は自らの環境に応じた生存様式を持っています。多細胞動物においては神経系を発達させて中枢系で判断・統合し、環境への適応的反応・行動を行っています。

 環境への適応的行動は、個々の個体にとっても種の存続のためにも、社会集団を形成しその集団間の的確な情報伝達は、個体と種の存続の成否を決定します。そのためすべての多細胞動物は、種に応じた知覚・伝達機能を持っています。軟体動物、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類等それぞれの種は、それぞれの外界に応じた知覚機能と神経系を持ち、得られた情報を認識・選択・判断して、直接・間接の接触から、臭い、音、視線、動作、音声など様々な方法を用いて得られた情報と意図を伝達します。それらの知覚・統合・伝達機能の中で人間の言語は、音声を通じて認識内容や意味・概念・知識を相互交流する進化の最高形態です。

 では一体人間の音声言語はどのように進化発展してきたのでしょうか?

生命言語説による言語の起源の捉え方> ・・・・・⇒ ここに続く  言語起源と進化論 重要!!ダーウィン自然選択説批判


Q.人間と他の高等動物(例:チンパンジー)との違いは何ですか?

A.人間は、二足歩行・手の自由による大脳の発達と発声の分節化(言語の獲得)によって、認識・思考能力や情報処理・伝達学習機能が飛躍的に高まり、道具の製作や火の使用、社会組織と行動規範、宗教・文化・芸術・娯楽等が複雑に発展しました。とりわけ人間の創造的機能は、言語的認識と行動制御のはたらきによるものです。

 チンパンジーも高度な情報処理・伝達能力を持ちますが、直接知覚できる(直示的)対象に対してしか反応(情報処理と行動)を示しません。言語信号という第二信号系を持たないため、知覚を遮れば情報処理ができない(関心を持てない=言語の未熟な人間の幼児も同じ)のです。それに対して人間は、言語信号(内言)のみによって、情報を処理(思考)することができます。だから両者の決定的な違いは、言語の有無にあり、人間の本質は言語であると言うことができます。


Q.人間は、他の動物と比べてなぜ賢い(サピエンスsapience)のですか?

A.高等動物は、種の存続のために社会性を発達させて、動作や表情や鳴き声で相互の意思疎通を図ります。

 例えば、仲間との互助・協働・安全や、敵に対する脅威や戦い等のために、仲間や敵という「対象の状態と自己の意図(無限の情報)」の正確な認識・表現・伝達の必要性があります。安全と危険の混在した環境(対象what)をどのように認知・把握し、どのように的確な適応行動をとるか(思考・判断how)は、生死にかかわる問題です。

 人間は、これらのことをより的確に行うために、音声信号としての言語を駆使します。他の動物での音声信号は鳴き声であり、常に行動反応とともにあります(直示的反応)。しかし、人間の音声信号(言語)の特徴は、対象の情報を行動から独立して創造的に再構成し(what, how,why)、相手に情報を伝えることです。対象についての情報は、音声信号(単語)を文法に基づく文として再構成します。

 人間は生後から幼児期を通じて、養育者の会話から自然に単語や文法を学習し、自分の欲求を実現するための生活行動に(直示的に)応用していきます。そのうち、遊び(行動)の中で独り言(外言)が始まり、日常の中で内的に(音声を出さずに)言語的情報処理が行われ(内言)、複雑な状況に応じて様々な文法を駆使した言語的思考・創造へと発展していきます。

 例えば、道具や火を使う場合、他人の行動を模倣しながらも、使用(道具等の制御)が困難になると、言葉を用いて対象と身体の関係を再現・工夫したり、他人に聞いたりします。動物も訓練を通じて身体で芸を学びますが、人間は他人(訓練者)が不在でも、また餌などの直接的誘因が無くても、自らの間接的(創造的)目的を実現するために思考・行動することができます。これができるのは、言語という内的情報処理(思考・記憶)手段があるためであり、他の動物と比べて賢い人(ホモ・サピエンス)といわれる理由なのです。


Q.人間の本性は理性ではないのですか?理性と言語の関係を教えてください。

A.理性が人間の本性であることは間違いありません。しかし、

 理性という概念が感性(欲望や感情)に対立した価値的意味(理性は感性よりも高級)を持つので、人間の本性を理性とみなすのは誤解を生じます。理性が優れている人間もいますが、言語的思考力を駆使して感性と欲望のまま生きる人間(例えば独裁的権力者)でも、人間として価値があることには変わりありません。

 この点、言語を本性とすると、いかに欲望や感情に従って思考・判断・行動しようとしても(例えば、独善的な人が悔しさや怒りにまかせて屁理屈や悪知恵を働かす場合や饒舌家でも)、同じ次元で人間ということができます。理性は人間にしか当てはまりませんが、すべての人間に当てはまるとは言えないので、「人間の本性は言語である」とする方が普遍的に当てはまるのです。

 「理性と言語の関係」は、理性的思考が必ず言語的におこなわれ、欲望や感情をコントロールする場合にも、意志的感情(内言語的・目的意識的に精神・心を統制する持続的感情)のはたらきによって、座禅や瞑想・祈りをする場合のように、持続的に理性的であることができます。つまり、理性とは、社会的価値の低い欲望や感情に支配されないで、逆に自己自身を統制することができる思考能力のことであり、情欲の強い人が自己をコントロールするには、不断の言語的刺激(情報・メッセージ:例えば「隣人に情け深く優しくありなさい。」「よく考えて行動しなさい」のような自己への指示:内言、理性的コントロール)が不可欠となります。


Q.生命が生きるとはどのようなことですか?

A.参照⇒「生命とは何か

 地球という特殊な環境の中で誕生した生命には、「個体と種の維持・存続」という根源的な衝動があります。生命にとって「生命状態を存続させる」ことが生きるということになります。ところが、地球環境は多様であり、必ずしも生命存続にとって安定的なものではありません。そこで生命状態自体も多様な環境に適応するため、多様な存続形態を取ります。生命の進化は決して発展や進歩をめざすものではなく、多様な環境における一つの適応様式なのです。


Q.生命はどのように自己と環境を制御(コントロール)していますか?

A.参照⇒「認知と行動の原理


Q.生命はなぜ適応様式の進化があるのでしょうか

A.生命の生存する地球上の自然環境(風土:地理と気候、海洋)は無限の多様性・複雑性に満ちています。

 個々の生命(種)はこれらの多様な環境の一部にしか適応する能力を持ちません。気温や湿度(水分)、地形等の多様性のすべてに適応する種は存在せず、それぞれの種がそれぞれの環境に適応・生存しているのです。

 つまり、進化とは生命にとって生存環境の多様性に応じた多様性の拡大・適応域の多様化ということに過ぎないのです。だから、進化した高等動物は、適応域の多様性・複雑性に応じて知覚と中枢と運動機能(神経系)を複雑化・精緻化・特異化してきたのです。単細胞、甲殻類、魚類、ダニ、ミミズ、トンボ、ヘビ、恐竜、鳥類、羊、熊、猫、猿、ヒト等々、動物だけでなく植物も、地上に生きる数百万の種は、それぞれ特異で多様な環境に進化・適応したのです。 参照⇒『人間存在論


Q.人間の心とは何でしょうか?「欲求・感情・言語」が、心の三要素とされていますが、「意識と無意識」という捉え方のどこが誤りなのでしょうか?

A.「心の構造」における「意識と無意識」の分類は、心の全容を知るにはほとんど妥当性がなく、むしろ人間の心の理解にとって障害になります。

 つまり、意識とは、単に環境刺激に対する認知・判断・統合による反応としての外的表現です。また、無意識は、動物的な認知・判断による刺激に対する自動的な反応であるか、または、言語的認識能力を持つ人間が、意識化したくない否定的感情を抑圧(防衛機制)して無意識的行動(暴力、いじめ、退行、神経症等)を取る場合があります。

 しかし、心の働き(現象)として意識や無意識という用語を使用することはできますが、心は、基本的には個体と種を存続するための中枢神経系(脳)の働きです。脳内では、生存活動の動因としての欲求と、欲求が実現されているかどうかの基準となる快不快の感情反応がまずあって、それに加えて人間の心にあっては言語的知識が形成され、「欲求・感情・言語」が複雑に絡み合って心を形成しているのです。

 だから、心や行動の一面を「意識・無意識」でとらえることはできますが、それは「心の構造」ではなく、「心の働きの構造」というべきものです。心(の構造)を理解する一助となっても「心の構造」ではないのです。

 参照⇒「フロイト批判生命言語説の立場から無意識を考える」


Q.心の三要素のうちの欲求は、個体と種の維持・存続の動因であると言われますが、それは単に肉体的生理的なものだけでなく、心の動きとどのように関係しているのですか?

A.個体の維持に関しては、内的恒常性(ホメオスタシス)の維持が体内の生理的バランス(視床下部の中枢神経による制御)をとる摂食行動の動因となります。

 摂食行動は、血液中の糖や塩、水分やミネラル濃度等を維持するため食欲等の実現であり、また個体安全欲求が危険からの防衛に現れ、動物においてはそれだけで一定の満足感(快感情)となって終わります。しかし人間においては、空腹や安全が充たされても満足できないという心の特徴(欲求の習得的肥大性)があります。種の維持については、性的関係や育児・教育において、社会的な役割や地位(家族、地域、学校、企業等)が目標とされ、競争や片寄った情報(偏見・欲求の肥大化)に支配されてしまっています。

 人間の心は、マスメディアのもたらす刺激的(扇情的)な情報の氾濫によって、逆に心の安らぎを奪われ、神経症的な症状が生じる原因ともなっています。人間の心は、動物的・生理的欲求の充足だけでなく、言語的に創造(想像)された二次的な欲求の肥大化(もっと美味しい強い安心でありたいという欲求)によって、その実現や抑制・コントロールのために情動や感情も過剰に複雑化しているのです。


Q.言葉には、進化論的な発達段階があったのでしょうか?

A. ⇒おそらく、進化論的には、動物の直示的鳴き声⇒初期人類の間示的一語文⇒現生人類の主述構成文となりますが、ネアンデルタール人(旧人)までの段階では一語文(的構成⇒乳児期の発語)であったのが、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階で、構成文が完全に可能になっていたと思われます。構成文の利点は、認識や表現において、対象の直示性が減少し「何がどのように、なぜあるか?what how why」の解明を通じて創造力が飛躍的に高まったことにあると思われます。 参照⇒言語の起源について


Q.道具や火の製作・使用と言葉の獲得とはどのような関係があるのでしょうか?

A.言葉には、一語文と主述(構成)文があり、後者は助詞・助動詞・形容詞、目的語や節等を加えてさらに複雑にすることができます。

 進化論的には、動物の直示的鳴き声⇒間示的一語文⇒主述構成文(二語文:単純から的確・複雑へ)となり、おそらくネアンデルタール人(旧人)までの段階では構成文も可能となり(化石頭蓋骨から発声機能は不十分)、クロマニョン人(新人・現生人類)の段階で構成文が完全に可能(主述・目的関係性の表現)になっていたと思われます。但し検証は極めて困難で、主述の構成文が可能であったということと、必要性や現実性については不確定といわざるを得ません(幼児の言葉の発達を参考にする:的確に構成された情報伝達の必要性=言語の適応的進化)。 参照⇒言語の起源について

 道具については、チンパンジーの場合、言語とは無関係で、偶然的に習得されたものとしてシロアリ捕獲棒や堅果割石等の道具が知られています。しかしこの場合、道具と使用対象の関係は固定的であって、一つの道具を複数の対象に用いるという応用性がありません。それに対し、猿人(アウストラロピテクス類)の使用した打製石器では、偶然性を超えた合目的的創造性を読み取れ、武器やナイフとしての汎用性が想定されます。猿人の石器製作には、チンパンジーに比べて、手や腕の運動コントロール機能の進化や使用目的に対する想像力(間接的イメージ化)が必要になります。

 猿人は、おそらく動作を交えた一語文的な表現はできたでしょうが、言語として認定するには否定的見解もあります。しかし北京原人等(ホモ・エレクトス類)の火の使用については明らかに、火を永続的にコントロールできたことが知られます。原人の火の使用の場合、火を客観的に対象化することが必要ですが、言語も動作から完全に分離した一語の音声記号として存在できた可能性が高いです(一語文を言語と見なさない場合もあるが、動作と合わせれば多くの情報を客観的に表現できる言語であると言える)。

 旧人であるネアンデルタール人は、大脳が発達しており、道具においては複雑な石器が製造され、埋葬の儀式をした痕跡や装飾品・毛皮が出土しています。そこで、言語については完全な構成文は無理であっても、死者への哀悼や死後の意味を考えたと思われるので、かなりの言語表現能力(動作を介さない名詞・動詞・形容詞等の構成文)があり、集団活動も言語を通じて行われたと考えられます。新人(現生人類)であるクロマニヨン人に至ってはじめて、文節音が明瞭化され、生活に関係のある森羅万象だけでなく、想像力も発達し、言語の複雑な構成と表現が可能になったと考えられます。

★ 言語機能の進化 : ①情報・意図の的確な伝達  ②的確な情報の認識・思考・構成  ③情報の記憶

★ 道具の製作・使用 : 道具のイメージ(使用目的 : 切る・打つ・投げる・刺す・掛ける・釣る・握る等)の構想

自由な両手等を用いた加工、所有の永続性=音声言語によるイメージの確定・記憶


Q.西洋合理主義の何がダメなのですか?西洋で確立した基本的人権や民主主義の発展は暴力支配や戦争を少なくしましたし、科学技術の進歩・発展は人間の生活を豊かで快適なものにしました。

A.確かにギリシアに起源を持つ西洋合理主義の背景のもとで花開いたルネッサンスのヒューマニズムや科学的精神は、悲惨な歴史的経緯(宗教戦争、農民戦争、植民地戦争、市民革命、階級闘争、帝国主義戦争、世界大戦、民族解放戦争等々)をたどりながらも、人類に多くの光明をもたらしました。

 しかし、21世紀になる今日、近代西洋で確立し、世界に拡大した豊かな物質文明は閉塞状況に陥っています。物質的な科学技術文明では大勝利を収めたかに見えますが、それは有限な化石燃料(石炭・石油)に支えられ、弱肉強食の競争原理による貧しい労働者や植民地の犠牲によって成立し、経済の拡大成長を前提としたものでした。今日その経済拡大の前提とそれを支えた人権と民主主義が崩れようとしているのです。

つまり、今日の地球世界は、

① 技術革新による産業革命によってもたらされた、再生困難な化石燃料による地球汚染・温暖化と資源の枯渇、

② 自由競争市場経済による冨の増大と経済発展がもたらした貧困・格差の拡大とそれを支えた自由放任経済の欺瞞性と制御困難性、

③ 個人主義的ヒューマニズムにもとづく基本的人権を実現するための、社会契約理論を背景とする大衆民主政治の危機と腐敗、そして

④ 非科学的な伝統的世界宗教か、あるいは商業主義のマスメディアや貨幣無しには得られない物質的享楽と浪費にしか「救いと人生の意味」を見いだせない大衆社会状況、さらに

⑤ 貧困と民族的利害対立を根源とする犯罪や暴力・テロ等の戦争状況、これら大きく分けて五つの解決困難な問題に直面しています。

 これらの問題状況によって引き起こされる持続可能な社会の破綻と制御不能な戦争の危険性を避ける努力は、「国際連合」やサミット等でなされています。しかし、これらの問題は、自然支配を強調してきた西洋合理主義の理念では、解決困難な閉塞状況にあるのです。

 これら(資源・環境、経済、政治、戦争、学問・文化・教育等)の問題は、社会主義による資本主義(格差)の打倒、社会福祉と大きな政府前提混合経済、規制撤廃と市場経済の推進を唱える新自由主義、民主主義の徹底と地方分権の推進等々の「近代的発展神話」ということで解決できる状態ではありません。なぜなら、解決困難な状態が続き、解決への希望が見えずに危機が深まるほど、人間は目先の自己保存の本能がはたらき、西洋合理主義のもとで生まれ天から与えられたとされる楽天的な理性的個人主義(実は利己的互恵主義・天賦人権主義)や歴史決定論(19世紀までの宗教・哲学・政治経済学等々の西洋思想のほとんどすべて)では、逆に混乱と対立に拍車をかけるだけだからです。

 例えば、基本的人権では、自由・平等・所有権が中心的なものですが、人間は生来自由でも平等でもなく、また所有権などは強者である権力者が自己保存のために制度化したものです。不当な政治権力からの自由や平等の権利(正義rights / justice)は必要ですが、社会福祉や個人の持続的な幸福を獲得・維持するためには、自助・共助・公助の社会的な相互了解と不断の検証が必要です。

 また所有権について、今日では「公共の福祉」のための限定が付けられる場合が多いのですが、自由市場においては、独占企業の制限はあるものの、無制約な交換的利益(超過利潤・交換的不正義)が得られ、格差を拡大することになっています。また所得への課税、再分配による格差縮小と社会福祉のための財政政策がおこなわれても、極めて制限的なもの(小さな政府論・分配的不正義)です。社会福祉を推進する社会権的基本権は、民主政治のもとで確立しましたが、経済の拡大成長を前提としたものとして「合理的な」見直し(公助の在り方)が議論されています。

 以上のような問題は、人間の叡智を尽くした理性的合理主義的解決が必要ですが、しかし、従来の物質的拡大偏重の西洋的合理主義による解決策(天賦人権思想、社会契約説、市場万能経済学)や世界の終末を前提とする世界観(キリスト教等)では、世界的危機を克服する方法はあり得ません。理由は、西洋思想の主流の考え(思想、イデオロギー、倫理、価値観)では、「有限の地球において生存し続ける」という生命の意図と目的を実現できないからです。


Q.西洋的合理主義と東洋的合理主義の違いの根源はどこにあるのでしょうか?

A.西洋的思考様式(ギリシア的伝統)では、言語、思考、理性による論理や枠組み(ロゴス)があって、具体的存在や運動があります(西洋的合理主義)。

 しかし、東洋的思考様式(インド・中国的伝統)では、混沌や無常・無限など論理的枠組みではとらえられない力(仏教、道教、儒教にみられる覚醒解脱や安心立命を求める力)が具体的存在や運動を支配し、言語的意味づけは従属的な位置にあります(東洋的合理主義)。

 例えば、数学的世界(数字・図形、算数・幾何等)は、ピタゴラスの定理のように、人間の認識とは関係なしに存在する真理と見なされており、西洋では絶対確実な存在ですが、東洋では現実を計測し秩序づける手段や職人芸とされます。また相対性理論までの物理法則は、観測的事実を支配する絶対的な自然法則、つまり人間の認識(観測)とは独立に存在する法則(真理)とされました。宇宙の創生ビッグバンの発想も、観測不可能な領域を支配する仮説的法則とされています。

 このような違いは、アインシュタインとタゴール(インドの詩人・哲学者)の有名な対話にも現れています。

 Einstein「証明することはできませんが、ピタゴラスの定理において、真理は人間とは関係なく存在すると私は信じています。」

 Tagore「私たちが真理と呼ぶものは、実在(リアリティ)の主観的な面と客観的な面との間の合理的な調和の中にあるのです。そして、その両面とも、個を超えた人間に属している のです。」(『NHKアインシュタイン・ロマン3』)

 すなわち、アインシュタインの「真理は人間とは関係なく存在する」というのは、タゴールで言うと「客観的な面」として「人間とは関係なく存在する」となりますが、「主観的な面」とは人間の(主観なしには存在しないが主観を超える)「言語を通じた認識能力(構想力)」によって客観的に顕在化(知識化)するのです。タゴールは、それを自覚していなかったとしても、人間に共通する「存在・対象の、言語による創造的構造化(法則化)」(による知識・真理)なのです。

 さらなる説明については、「言語論」と「西洋思想批判」を参照してください。

 ※ アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグの不確定性理論・量子力学の比較・対立も西洋的合理主義の限界を明らかにするために参考になります。


Q.西洋的合理主義の限界を超える解決法が何かあるのですか?

A.もちろんあります。

 ただ西洋的合理主義に取って代わるというのではなく、西洋的合理主義の長所とその限界・欠陥を自覚し、合理主義そのものの言語的根拠を明らかにし、東洋的合理主義との融合によって人間的普遍的合理主義(認識論)に発展させようとするものです。そもそも人間の認識は因果的なもの(生命の刺激反応性による)ですが、その場合 生命言語的な合理主義ないし縁起的合理主義に(一方向的から相互依存的因果関係)発展させることによって解決法を見いだそうとしています。

 それでは「生命言語的な合理主義(認識論)」とは何か?それを説明するには、まず、人間が「言語を獲得した生命」であり、言語はより確実に生き続ける(個体と種の適応・維持)ために進化の過程で獲得されたものであることです。その上で、生命(生きること)にとっての言語は、自己の存在する世界を対象化(what)して、その状態や在り方(how)を認識・判断・再構成(創造)し、表現・伝達する手段となります。それだけでなく、言語によって認識した世界をどのように(how)認識・理解・判断し、意味づけ合理化するかによって、行動や生き方(how to live)を方向付けることになります。

 その意味で「人間とは世界や生き方を合理化する動物(生命)である」と言うことができます。世界を対象化していかに絶対確実なもの(神・仏や純粋理性)として合理化(論理的な表現や意味づけ)しても、自ずと生存・認識手段としての限界があるということです。だから、その限界を自覚した上で、縁起的諸因果にもとづいて自らの生き方を意味づけることから解決の方向性が見えるのです。(その方向性・全体像については、本HPの全体から読み取れます。☞ 人間の心の本質から世界連邦新世界人権宣言へ)

 次に、生命言語説にあっては、論理的認識・思考(合理主義)には完全性というものはなく、数学的世界であっても人間的創造物(数を数える・加える、図形を描き定理化する等)として、客観的事実との乖離があることを重視します。また、論理的に構想・創造された世界についての確実性を担保しようとして、「神」「不動の動者」(アリストテレス)を想定しても、それらは人間の創造物に過ぎないのです。論理的・合理的に構成・創造された言語的世界の完全性・絶対性・独立性を否定して、世界を人間や生命の生存のために、言語を用いて世界と人間の生き方を合理化(意味づけ)するのが「生命言語的な合理主義(的認識論)」なのです。

 西洋的合理主義の限界に対して、東洋的な「縁起的合理主義」は、生命(人間)の世界認識にとってより適応的・多面的・相依的なものです。その思想的根源は、縁起的認識が重視されたインドの思想的風土にあります。古来インドでは、ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)哲学に見られるように、広大無辺の宇宙(ブラフマン・梵・自然)の中に生命個体(アートマン・我)を位置づけ、個体と宇宙との一体化(梵我一如・不二一元化)をめざそうとしました。またそれに伴って、時間の経過、歴史の発展・記録に関心が少なく、インドの歴史をその起源から時間的な流れとしてとらえることはありませんでした。

東洋(インド)的な 縁起的認識は、バランスと現状持続性、つまり自然との一体化・相互依存性を重視します。西洋的因果的認識は、単線的な目的追求と発展性、つまり自然の合理性と支配(対立性)を重視し、人間の認識能力の相対化(対立よりも融合・調和)が回避されます。それに対し、縁起的因果認識には、始まりと終わりがなく、永遠と無限の調和(無差別一体化・波動性)的運動があります。単線的因果認識には、始まりと終わりがあり、永遠と無限は単なる目的(終わりend)にすぎず、論理的確実性(合理的絶対性)を持ちます。

 その結果、縁起的認識では、宇宙・自然の中に、生命・人間主体を相対化し永続的一体化(超越性・涅槃性=東洋的絶対者)を求めますが、単線的因果認識では、宇宙・自然を人間の支配するべき対象としてのみ認識し、対象との永続的一体化や融合・調和に親和性・安らぎを認めません(確信が持てなくて不安である)。そして、西洋的絶対者(神・不動の動者)と死すべき人間とは、圧倒的な差別と格差が生じています。

また西洋的な言語的・理性的認識は、因果的認識に片寄りやすく合理的完結性を求めます。それに対し、東洋的な言語的・感性的認識は、縁起的認識を基本にして合理性だけでなく感性的融合的超越性を求めます。人間には両者の認識が必要ですが、生命と人間の本質を見抜くためには、縁起的認識が必要です。生命進化は、発展や進歩ではなく自然環境の多様性に適応した、生存形態の多様化に過ぎないのです。だから生命の実相を見れば、バランス・調和と現状維持・永続性が求められるのです。

 自然や人間を含めた世界の構造は、差異(多様性)と普遍(共通性)をもとに相依性(縁起)の運動によって成立しています。人間の認識は、言語的認識の限界(偏見・固着・独断性)によって、この世界の複雑・多様な実相を二項対立的・弁証法的(円環的・発展的)に単純化してしまう傾向がありますが、この限界を自覚することによって、はじめて生命と人間にとっての真知(明智)に達することができます。

 ちなみに、インド仏教の縁起は、因縁生起の略で、因縁の因は主因、縁は補助因または相互依存性を示します。釈尊は「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」と言い、中国の老荘思想では、因果性や対立性よりも因果・対立の解消と無為性を重視して、因果や差別を越え「無為自然」「万物斉同」「彼是方生」を唱えました。日本では小難しい哲学的認識は発達せず、「なる」に任せる穏やかな自然宗教の段階にとどまっていました。いずれにせよ、西洋的とか東洋的とかの区別を越え、「生命と言語の本質」から説明するのが、もっとも真理に近いと言うことができるのです。

※参照⇒ 「古典的モデルのように、たがいに一義的に決定しあっている決定要素をもつモデルは、けっして自然に忠実なものとはなりえない。 // いまや新理論によって、古典的モデルは、決定要素間の相互依存関係を再現するためには不適当である。」(シュレーディンガー『量子力学の現状』井上健訳)

 ⇒ 人間の心のなかの因果関係は、欲求と感情と言語(心の三要素)の間の相互依存(相依)関係にある。相依関係とは、「此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という仏教的縁起のことであり、心の三要素は、強弱・敏鈍を伴って認識と行動に多様な個性的様相をもたらす。

 心の中で言語は、知覚し思考し探求し創造して、その結果を表現し伝達する手段となります。つまり、対象と対象の関係性「何がどうあるか、どのような関係(状態)にあるか(what how=主語・述語・目的語)」、さらには対象の存在の在り方・根拠・因果関係(why)や、対象のあるべき姿・あって欲しい状態(意図・目的・願望・予想will, may, can, must)を言語記号化して論理的に明らかにすることなのです。


Q.マルクスの労働観の誤りまたは限界とはどのようなものでしょう?

A.マルクスは、労働が人間と自然との物質代謝を支えるものであり、自然に働きかけかつこれを変化させることによって、合目的的な意志を実現させるものであり、そこで使用される労働手段は人類の歴史的発展段階を規定している、と考えます。このこと自体は正しいのですが、問題は「合目的な意志」と「労働手段と社会の発展」がどのような人間的要因によってなされるかということです。

 この考察がなければ結局、「人間の意識がその存在を規定するのでなく、その社会的存在が意識を規定する」という唯物論的認識論と歴史決定論の誤りを理解できなくしてしまいます。マルクスは、人間の本質を労働という自己対象的活動にあるとして、言語に由来する意識的創造的活動を、社会的(物質的)活動に従属させてしまいました。人間の意識は、歴史決定論的に社会的に規定される(反映論)だけでなく、現在と未来を創造的に変革することができるのです。

 マルクスの労働(生産)中心の唯物論は、人間性の本質である言語的意識性を従属させることによって、人間性そのものを抑圧的にしているのです。⇒マルクス批判


Q.『資本論』の端的な誤りとは何でしょうか?またその誤りの原因は何でしょうか?

A. 『資本論』は、商品交換の分析から始まります。この分析は、A.スミスをはじめとする古典派経済学の考える市場の等価交換原則、すなわち商品A=商品Bを前提としています。

 しかし現実の市場における商品交換(等置)は、商品A=商品Bではありません(商品A≠商品B、完全競争市場などはあり得ない)。むしろ取引(等置)が成立しても、交換当事者間の力関係や情報の非対称性などによって、労働力商品(賃金)のように商品A>商品B(winA>winB)となる場合が多いのです。この等価交換という端的な誤りを前提として資本家の搾取する剰余価値(利潤)が規定されているというのが マルクスの『資本論』なのです。

 この誤りの原因は、市場への過度な信頼、すなわち市場参加者がすべて自由で平等な合理的経済人であるという前提にあります。ところが現実の市場は、弱肉強食の交換関係であり、価格による需給の調整といっても、結局強者の利益と論理が優先します。独占的価格や低賃金は、法的規制がなければ常に強者の利益につながります。『資本論』では、弱肉強食の論理を階級闘争(社会主義革命)によって逆転しようとしたのでしょうが、所詮前提が誤っているのですから革命が成功するはずもないのです。⇒『資本論』批判

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※参考ページ:人間存在論・人間とは」 マルクス批判重要!!ダーウィン自然選択説批判

◇ 人間の本質は言語である―生命言語説 :言語は生命の所産であり、神は人間言語の所産である