ハイエクの「致命的な思いあがり」

ハイエクの「致命的な思いあがり」 (ハイエク批判)

 ハイエクの『致命的な思いあがり』(渡辺幹雄訳 春秋社2009.)という社会主義批判の本を読むと、ハイエク理論こそ無知にもとづく「致命的な思い上がり」があると思われます。どのような点が「思いあがり」であるかというと、人間の考え創造する力(理性)を誤解し、あまりに軽視しているにもかかわらず、自分の無知に対する反省もなく自分の理論を「自生的」という用語で「理性的」に正当化しようとしていることです。幾つか指摘しておきます。

① 彼の言う「自生的」とされる文明や「拡張した秩序(資本主義)」は、すべて「人間の設計や意図」から創造されたものである。人間の創造的能力が、諸文明(道徳的慣行や諸ルール・制度を含む)の発展の根源やそれを成し遂げた人間(人類史)の偉大さを示している。利潤追求を目的とする資本主義の合理的な経営でさえ、「人間の設計や意図」に基づいている。しかし彼は、ただ為す術もなく人間の創造的能力の活用を理性(言語)的能力と考えることを避け、人間の未来の可能性を「見えざる手」ないし「市場の道徳」に委ねてしまっている。

マルクス主義を正しく理解しないで、マルクス的社会主義を批判している。マルクス理論は、社会主義(共産主義)を、階級闘争にもとづく「自生的」な社会発展の結果と考えているのであって、基本的に「設計主義」ではない。マルクス理論は、私有財産制度に由来する階級制度を、階級闘争によって根絶できるとするものであって、ハイエクが批判する中央当局による計画的分配(中央指令経済)の不可能性が問題なのではなく、資源の効率的分配は、生産力の発展と労働者階級の連帯によって「自生的に」(弁証法的必然性によって)可能になるとしている。開発独裁を基軸とするソ連的社会主義の失敗は、必ずしもマルクス的社会主義の失敗ではない。マルクスの誤りは、ハイエクの誤りと同じく市場への過信にあります。

③ 社会主義は本来、理性的(形式的)な自由・平等の個人主義(社会契約説)が、資本主義の発展によって不平等社会を創ったことに対する抵抗(反対)運動として起こった思想です。市民革命の思想であった社会契約説は、産業革命を通じて利己的営利追求の資本主義によって歪められ、労働者を犠牲にする不平等で非道徳的な「社会問題を温存する政治経済体制」を創りました。形式的な自由平等では、社会的自覚や責任は生まれません。社会契約説を修正・克服する思想が、連帯(団結)を重視する社会主義思想の根本です。ハイエクには社会主義の本質やマルクス主義の欠陥(古典派経済学の欠陥)の理解がほとんどありません。旧来の道徳を否定し、人権や社会的公正さえも文明の進化にとって障害になると考えます。「社会」という用語さえ否定する徹底ぶりです。

④ ハイエクは「道徳的伝統は理性の能力にまさる」というけれども、文明社会の道徳的伝統は、ほとんど過去の偉大な思想的指導者(釈尊やイエス等々)の理性的創造によるものです。彼が引用する「道徳のルールは理性の結論ではない」というヒュームの原則は、理性や知識そして言語の意義とそれらを駆使した偉人達の天才的能力についての理解を欠く懐疑主義者の偏見に過ぎません。さらに彼が、「私的所有、貯蓄、交換、誠実、正直、契約」を宗教の伝統的な教義と並ぶ道徳的伝統と述べている(p98)のが、ルターやカルバンの教義であるとすれば、やはり理性の能力の結果とするべきです。多くの伝統は、時代の潮流を理解した指導者の理性的言動が、民衆に理解(強制)され、道徳として伝統化したものなのです。彼には交換や利潤にも道徳的な正・不正があることを理解しません。また社会主義が憎ければ、道徳的判断でさえ理性的であると批判するような一面的批判しかできない幼児的思考傾向があります。

⑤ ハイエクは、文明の進化は「人びとの要求することによっては先導することはできない」し、また「公正ではあり得ない」と言います(p109)。これは人間の善性や偉大な人物の文明に果たした役割を否定するものです。つまり、上で述べたことと重なりますが、文明の進化、拡張的な秩序、発展した資本主義の根源を「市場の道徳」という概念で説明しようとします。しかし道徳自体は、旧来の社会や価値観の混乱の中から預言者や先哲・思想家・宗教家・政治的指導者等によって流布されてきたものであり、「市場の道徳」は、社会道徳の一部である商道徳(交換契約における道徳)に過ぎません。市場の美化のために市場のルールを、文明の進化の道徳(公正)と同一化するべきではありません。むしろ文明と道徳の進化は、人びとのその時代に適した公正さの要求によって先導され、偉人達によってまとめられたものです。旧来の道徳の破壊者(公正よりも自由放任)であるハイエクにとって、社会主義を抹殺するために「公正」という道徳を文明の進化から排除することが重要な課題であったのです。

⑥ 自生的秩序としての市場の欠陥は、人間存在と人間間の関係性そのものの欠陥・短所・限界によって生じている。その欠陥(ハイエクは欠陥と見なさないが)とは、過剰で自己中心的な認識と欲望、さらに利己的優越性と人間支配への願望です。だからそこから生じる人間社会の悲惨―戦争、略奪、圧政、貧困、犯罪等々を克服・抑止するために、人間の有限性を調整・制御することが必要であると同様に、市場の欠陥には、調整が必要なのです。ハイエクはそのような自制や調整そのものを、理性的設計主義的行為として否定します。

つまり競争的交換にもとづく価格の指標によって、市場が混乱を調整すると考えます。彼にあっては、政治が経済的利害を調整するという発想よりも、むしろ経済的混乱の原因は、不当で無知な政治の「設計主義」的介入にあると考えるのです。この意味で社会主義も福祉主義も「設計主義」の典型例となります。しかし、現代国家の財政金融や福祉の制度・政策は、市場の欠陥を是正し、自生的に生じた混乱を合理的設計主義にもとづいて制御しようとするもので、それが歴史の教訓なのです。

⑦ ハイエクの「自生的秩序」という用語は、「毒された言語」であるとしているアニミズムの限界を超えていない。ここで彼が批判するアニミズム的言語とは、スミス、マルクスなどの19世紀以前の予定調和的な経済成長・社会発展を前提とする社会科学用語です。とりわけ彼が槍玉に挙げるのは社会主義につながる「社会的」という用語です。彼は、社会がアニミズム的に発展し、それに人間の意志や設計を関与させることを嫌悪します。資本主義社会が資本家階級という人格的存在によって支配されているとみなせば、逆に労働者階級による被支配の変革が計画可能になるからです。とりわけ「社会正義」という用語は「競争的な市場秩序と衝突」するため「社会の維持」と両立しないと否定します。そしてこのアニミズム的設計思想の生じる不都合をなくすために「社会」という用語自体を抹消しようとします。

 しかし、「自生的秩序」という用語で、市場経済の欠陥を補い隠せるものではありません。現代の地球経済、そして人類の福祉は、アニミズム的成長から生じる諸問題(西洋文明の限界)を、自らの思想的背景(合理主義)によって解決できる状態ではないのです。環境問題、資源エネルギー問題、人口問題、核問題等、人類だけでなく地上のすべての生物の生存を脅かす段階にまで来ているのです。

 ハイエクによって毒された言語である「自生的」では何の解決ももたらしません。彼の「致命的な思いあがり」の象徴である「自生的」こそ一部の成功者、勝利者、強者による欺瞞的な「イタチ言葉」(p179)の典型例と言えます。今日必要なのは、西洋文明がもたらした光と影、すなわち物質的発展・経済成長とその推進的役割を果たした経済学、とりわけ新古典派経済学の根底的批判と「ハイエク的開き直り」を見逃すわけにはいきません。人間は便利で豊かな生活を求めています。それはこれからも続きます。問題はその質的内容です。

 人類文明は、20世紀までの困難で悲惨な経験から、人間の意志と理性と善的努力の成果である平和、人権、民主主義、そして社会的連帯と責任の自覚が必要であることを学びました。これらの知恵の獲得を「自生的」と表現することもできますが、ハイエクの理解に反してこれらは人間の理性による設計主義的創造によります。有限な人間の理性は完全ではありませんので、20世紀の社会主義のように不完全で抑圧的なものもあります。彼はその限界を理解することができなかったために、短絡的に自由放任・弱肉強食の自生的資本主義を擁護することになりました。哀れにも彼自身が、西洋的アニミズムに毒されていることを自覚できなかったのです。

⑨ ハイエクのこの著作『致命的な思いあがり』は、つっこみどころの多い著作です。文明の進歩について述べているにもかかわらず、経済的成長の限界や資源エネルギー環境問題等の地球的課題については殆ど言及されでいません。「拡張された自生的秩序」理論では、人類のおかれた苦境や限界を考えることも克服しようとする意志も理性も働かなかったのでしょう。彼自身が謙虚であれば、人類(彼自身)の限界を考慮することも可能であり、ケインズのように、自生的秩序に対して政治が理性的な介入せざるを得ないことも理解できたでしょう。彼にとっては、地球的未来は常に自生的に成長するのがもっとも調和的と考えたのかもしれません。

 しかし今や地球は成長の限界が自覚されて久しいのです。新古典派の経済学が前提とする「完全競争市場」や、「パレート最適」は空想の産物であることが了解されつつあります。もはやハイエク的期待先行の経済学はまやかしであるどころか人類的危機を隠蔽するものでしかありません。われわれはマルクス的歴史決定論や新古典派経済学のハイエク的歴史放任(自生)論とを超えて、新しい人類的地球共同体を構築していかなければならないのではないでしょうか。

<補足>

「われわれのだれもが、面識のない人びと、その存在についてさえ知らない人びとの役に立っており、ひるがえって、まったく知らない他の人びとのサービスのうえに生きているのである。/ これらすべてが可能であるのは、制度や伝統の大きな枠組み、すなわち経済的、法的、そして道徳的な枠組みのなかに人間がおかれているからである。そこでは、自らつくったのではない、また制作した事物がどう機能するのかを理解しているという意味ではけっして理解していなかった一定の行為ルールに従うことによって、われわれは適合しているのである。」(ハイエク『致命的な思いあがり』邦訳p17)

 ※⇒前半は無条件に正しい。しかし後半で、それが可能なのは、制度や伝統の大きな枠組みのなかに、“単に”人間が“おかれているから”他人とのつながりがあるのではなく、その枠組みを利用できる知識を持っているからこそつながりができるのである。ルールに従うことは自由な人間にとっては、ルールを知った上で自己の理性的意志にもとづいてこうどうしているのである。

「アダム・スミスは、知識や認識の限界を超えて人びとの経済的協同を秩序づける方法を、人間が偶然にも発見したことに気づいた最初の人物であった。おそらく、かれの「見えざる手」は、不可視の、あるいは俯瞰しえないパターンとみなされるべきであったろう。われわれは、総じて無自覚である環境、また意図しない結果をもたらす環境によって、たとえば市場交換における価格メカニズムによって、物事をなすように導かれる。その経済活動において、満たしてくれるニーズも、手にする事物の源泉も知らないのである。」(同上p17)

※⇒商品価格は意図しない結果をもたらす場合も多いが、意図的な結果も多い。いずれの場合も結果としての価格は、次の交換成立(価格)の参考になる。このような価格メカニズムにおいては、「満たしてくれるニーズ」や「手にする事物の源泉」(商品情報)を知ることが交換を有利にする。このような情報の非対称性すなわち他人の無知に乗じて、市場を操作する有能な交換者がより多くの利益を獲得する。この事実を知らなかったのがスミスをはじめとする経済学者、とりわけ新古典派経済学のペテン師達である。

「追求されるすべての目的も、使用されるすべての手段も、だれにも知られておらずまた知られる必要もないが、自生的秩序においてはそれらは考慮に入れられているのである。このような秩序はおのずから形成される。ルールが漸次よく調整され秩序を生みだすようになるのは、人びとがその機能をいっそうよく理解したからではなく、偶然ルールを変え、自らをますます適応的たらしめたグループが繁栄したからである。この進化は直線的ではなく、さまざまな秩序が競いあうアリーナでの連続的な試行錯誤、不断の「実験」の結果であった。もちろん、実験しようとする意図があったわけではない。だが、歴史的偶然によって引きおこされたルールの変化は、遺伝的変異と類似して多少とも実験と同じ効果をもったのである。」(p23-24)

(※)⇒ 再現できないルールの歴史性を、自生的であると断定することはできるが、「知られる必要がない」とか「偶然性」という用語によって、ルール成立の根拠を探求する人間の知的努力を放棄してはならない。我々は人間社会のルールの起源を、「完全に」知ることはできないにしても、合意を得られる程度には知ることができる。

イエスがなぜ神の子であると自覚したのか、なぜ多くの宗教が死後の世界を想定する必要があったのか、なぜ人間を自由平等と規定したのか、なぜ西洋思想では理性の完全性を前提とした議論が行われたのか――これらのことは説得力ある形で実証的に説明可能である。ハイエクは、ルールの変化を「歴史的偶然」と断定することによって、人間の知的営みを放棄するだけでなく、経済社会の利害関係を隠蔽し、現代社会の既得権益・権力支配を合理化し、擁護しようとするのである。

「私が『致命的な思いあがり』と呼ぶものに由来する考え方、すなわち、技能を習得する能力は理性に起因するという考え方を捨てることが大切である。というのも、それはあべこべだからである。すなわち理性は道徳と同じく進化論的な選択過程の産物なのである。しかしながら、道徳はいささか異なる展開に由来するので、理性のほうがより高い批判的な位置にあるとか、理性が裏書きする道徳ルールだけが妥当であるとか、けっして想定すべきではない。」(p26)

(※)⇒ハイエクが 西洋的理性を「設計主義的合理主義」として批判的に捉えることは正しい。しかし、批判することによって理性そのものの本質理解を怠り、探求を放棄するのは正しくない。というか彼には社会主義を批判する手段とするために、理性的思考の探求を放棄してしまったのです。さらに言えば彼もまた西洋思想の限界の中で理性不信に陥ってしまったのでしょう。

 彼のように理性と道徳を比較すること自体、理性を誤って理解する反理性的な態度といえます。というのも、理性は言語と同様(言語的思考として)本来思考の手段だからです。彼の言うように理性は道徳と同じく進化論的な選択過程の産物だとしても、道徳は理性によって合理化(裏書き)されてきたのです。ハイエクもまた伝統的道徳に加えて、貯蓄や所有を道徳に加えています。彼は、「拡張した秩序(近代社会)」を、マルクスの「生産力の発展に裏付けられた社会」と同様豊かな社会としていますが、問題はその過剰な生産力をどのように分配するかという「道徳」なのです。

 道徳は、ハイエクのように個人の立場(私的本能)からのみ理解するのではなく、社会秩序・人間関係そのもの(社会正義)からも検討すべきものです。近代的道徳とは、人権の実現を基調とした社会正義と、社会的な利害の調整(バランス)の問題です。いったい理性によって道徳を吟味することなくして道徳を語る資格があるでしょうか。それこそ思いあがりも甚だしいと言うべきなのです。

「小さなグループ[共同体的社会]はその諸活動において合意された目的やメンバーらの意思によって導かれうるが、同じく「社会」であるところの拡張した秩序[資本主義社会]は、そのメンバーが種々の個人的な目的の追求において行為の類似的ルールを遵守することによって調和的な構造へと形成されるのである。」(同上p169 [ ]内は引用者による)

※⇒資本主義的調和とは、強者支配の調和である。そこでのルールとは、商品交換の力関係や情報の非対称性によって、不等価な交換であっても等価と見なす欺瞞的なルールが当然のこととされる。景気の循環、失業貧困、貧富の格差や戦争でさえも、資源の効率的配分に必要な過程とされる。

◇ 論文「二つの合理主義」について

「いまや、デカルト的合理主義とその末裔が仮定するように文明は理性の産物であるのか、それともそれは逆ではないか、つまり理性は、人間によって意図的につくられたものではなくむしろ進化の過程によって生じてきた文明の産物であるとみなすべきではないか、と問うことによって、ここでの論点を示せるかもしれない。もちろんこれはある程度、「鶏が先か卵が先か」といった種類の問いであって、この二つの現象が絶えず相互作用しあうということはだれも否定しないだろう。しかし、デカルト的合理主義の典型的な見解は、どこまでも最初の解釈を、つまり先に存在している理性が制度を設計する、と主張するものである。「社会契約」論から法は国家のつくりだしたものであるという見方、つまり人間が制度を作ったのだから思いのままに変更することができるのだという見方にいたるまで、近代的考え方にはすべて、この伝統から生まれた発想が広く浸透している。本来の社会理論が占めるべき場所を用意できないのもまた、この見解の特徴である。なぜなら社会理論が扱うさまざまな問題は、個々人の努力がしばしば秩序を、それも、意図や予測と無関係であるのに、人びとが得ようと奮闘努力するものの実現に必要不可欠であると後になって分かるような秩序を、つくりだすという事実から生じるのだからである。」(『ハイエク全集第2期第4巻 』春秋社 2010 p9)

※⇒ そもそも「文明と理性」を、因果関係によって規定しようとするのが誤りである。ハイエクには、多義的な意味を持つ「理性」に対する理解が貧弱である。それは「デカルト的合理主義」という表現でもわかるとおり、ヒューム的懐疑は理解しても、理性や合理主義についてはその根源の理解にいたっていない。デカルトは、自我や精神を身体から独立していると見なす「観念論者」として区別すべきであり、ここで合理主義を持ち出す必要はない。ヒュームを含むイギリスの経験論者も合理主義者であるのだから。むしろ理性を文明と対比させるなら、理性そのものの理解を明確にすべきである。それも十分にできずに、文明と理性を「相互作用」の関係で述べるのは自己の無知をさらけ出しているに等しいことである。

 ハイエクによれば、マルクスもデカルトの末裔にはいるようであるが、どうしてマルクスが「文明は理性の産物である」と考えるのか。マルクスは確信的な唯物論者であって、観念論者ヘーゲルの「歴史理性」と同列に考えること自体、哲学史への曲解に基づいている。ヘーゲルやマルクスの弁証法を合理主義の一形態とするのなら理解できるが、ハイエクの論法では弁証法の理解があるとは思われない。ヘーゲル批判として「先に存在している理性が制度を設計する」というのはその通りであるが、マルクスは逆立ちしたヘーゲルの文明論を、唯物史観として正常化したに過ぎない。ハイエクは、思想史における観念論と唯物論の対立を理解も克服もしていない。

 そもそも、言語の獲得によって得た理性という思考力・創造力なくして世界史における集団(家族・氏族・部族・民族)間の継続的な争いや、それによって成立してくる社会制度(国家)や文明の発展の理解などあり得ない。もしデカルト、ヘーゲル、マルクス等の設計主義的合理主義と名付けた思想家を批判するなら、理性そのものを現代科学(主に心理学)で解明し、西洋思想の根源にあるロゴス(言語)的思考の根源までさかのぼって批判すべきであった。

 さらにこれらの思想家の仲間に、ハイエクが批判する『社会契約論』を著したルソーを入れることなど、ルソーへの無理解を示している。ルソーが設計主義者であることは『社会契約論』からすれば明らかであるが、断じてデカルト的合理主義者ではなく、西洋的合理主義を越えて新たな近代的人間・個人観と社会観を示した人物なのである。人間観で言えば、ハイエク思想自体もルソー的自由(「そのために生まれたと思われる根源的自由の感情」『学問芸術論』)の恩恵を受けている。つまり、彼の言う「偉大な社会」の成立には、封建的絶対主義に対する自由獲得のためのルソーの批判が大きく貢献しているのである(カント哲学や功利主義などへの影響は、ハイエク自身が認めるところであるp22)

《ハイエクの日本国憲法96条改正反対論?》

 ハイエクが生きておれば、彼は日本国憲法96条の改正手続き簡略化(自民党案)に反対していると思われます。しかし、おそらく自民党を支持している日本のハイエク賛同者は、次の引用文を読んでも日本国家と民衆のためにという理由を付けて、96条の改正に賛成するでしょう。彼らは民主主義をさらに改善しようとは思わない(だろう)からです。

「人びとによって支持される長期的な決定や[憲法のような]一般的原則が、一時的な多数派の権力に課す制限を「反民主主義的」と表現するのは、煽動家のみのよくするところである。これらの制限は、国民が権力を与えなければならない人たちにたいして自分を保護するために考えられたものであった[立憲主義]。その制限によってのみ国民は、自分たちがそのもとで生活する秩序の一般的な性格を決定できるのである。一般的な原則を承認することによって、国民は特定の問題に関するかぎり不可避的に手をしばることになる。自分自身にたいして用いられることを望まない乎段を防ぐことによってのみ、多数派は自分が少数派となった場合に、そのような手段が採用されることを先取りして防ぐことができる。事実、長期の原則にまかせるほうが、特定の問題ごとに判決をつづけていってその社会の政治的性格が決定される場合よりも、国民は政治的秩序の一般的性質を支配する能力をもつことができる。たしかに自由社会は、その時々の特定の日的とは無関係に、政府の権力を制限する恒久的手段を必要としている。そして新しいアメリカ国民が自分自身に与えた合衆国憲法は、単に権力の起源の規制だけではなく、自由の条件として、すなわち個人をあらゆる恣意的な強制にたいして守ろうとする条件としての意味を確かにもっていた。」(ハイエク『自由の条件』気賀、古賀訳 春秋社 全集6 p77-71)

《J.ヒース「自生的秩序論」批判》

「資本主義は、自生的秩序ではない。けれども合成の誤謬によって、そう思いたくなる。所有権の法体系をもつことや秩序だった商品取引をすることを誰もが望むのなら、自然にそういう体制になるのではないか?政府の介入など必要なのだろうか?だが結局のところ、政府の介入は絶対に必要だ。市場経済を機能させるのに必要な最小限の条件を固めるためだけにも。校庭でおはじきを交換する二人男の子なら自生的秩序を構成するかもしれないが、資本主義経済システムは高度に人工的な構成体であり、何世紀にもわたって洗練され調整されてきた社会事業の精巧な装置に基礎をおいている。」(J.ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』栗原百代訳NTT出版2012 p50)