幸福の三形態

        願わくは 花の下にて春死なん その如月の 望月の頃   西行法師 

はじめに

「幸福とは何か?」というのは、四大都市文明が成立し、有閑階級(哲学者や宗教家などの思想家)が人生について哲学的に考え始めて以来、今日に至るまで解答の得にくい難問でした。万学の祖とされるアリストテレスも、誰もが幸福を追求するが、知者や一般人の間に異論があることを述べています。彼自身は究極の幸福を、人間の本質を示す理性の活動を生かした観想的生活にあるとしましたが、享楽的生活や政治的生活における幸福も認めていました。ここでは、アリストテレスの「快楽性、卓越性、魂の卓越性」に倣って、幸福を「刹那的幸福」「過程的幸福」「永続的幸福」の三つに分類し、とくに「永続的幸福」について、東洋思想(特に仏教)との対比によって、現代人に受容可能な倫理的幸福論を提案します。


1)【刹那的幸福】transient happinessは、動物的・生理的な基本的欲求を充足させ十分な快楽をもたらす幸福で、食料・衣服・住居を不自由なく獲得し、共同生活の中で喜怒哀楽の感情をコントロールしながら心豊かに生きることができる状態(場合)です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのキリギリスの幸福感に近いものです(楽しめる時に楽しもう)。桜の花を愛でるのも、花の命の短さを詠嘆して言葉にするのも、絵画や音楽で楽しむのも、そのことに快感や安らぎを感じるなら、それらはすべて「刹那的幸福」にあてはまります。

 よく知られているアラン(仏1868-1951)の『幸福論』(1925)は、大衆向けの幸福感を得るためのハウツー本ですが、その時々の不満や不安を克服しようとするもので、人生を楽観的に考えて楽しもうという意味で刹那的幸福論というべきものです。「悲しい思いになってはならない。希望すべきだ。人に本当に与えうるのは、自分のもっている希望だけなのだ。自然を当てにし、未来を明るく考え、生命は必ず勝利すると信じなければならない。(憐れみについて)」(神谷幹夫 訳)とアランは言います。しかし、「悲しみ」や不快や不安など否定的感情は直ちに否定するべきものではなく、人間の自然な感情として捉えて、「悲しみ」などを引き起こす人生苦をかみしめて克服するところにこそ、本当の(過程的、永続的)希望と幸福があるのではないでしょうか。

 願わくは 花の下にて春死なん その如月の 望月の頃

(私が願うのは、桜の花のもとで春死にたいことだ、それも(釈迦入滅の)陰暦の二月十五日の満月の頃に。) 

 冒頭にあげたこの有名な西行(1118-1190)の和歌のような「願いや憧れ」は、どのような幸福にあたるのでしょうか? わたしは「願いや憧れ」などの希望は、基本的には「刹那的幸福」に区分するべきだと考えています。なぜなら、「希望」は、現在実現していないにも関わらず、心の中に心地よい状態を思い描く(想像する)ことによって快感を得るという効用があります。これは「希望」という人間に特有の意志的感情であり、必ずしも永続性を持たないからです。つまり基本的に、夢と希望が並列的に述べられることがあるように、一時的な夢のように単なる空想上の逃避的幸福(夢想に逃げるような幸福)になりやすいからです。

 しかし、夢や希望が一時的(刹那的)なものではなく、目的追求的であるか、または、生涯にわたって求める価値があるものならば、それらは、「過程的幸福」、または「永続的幸福」ということになります。歌人や詩人が、和歌を詠み、作詩を生涯の趣味(生き甲斐)とするならば、その創造的な活動は、社会的に認められればもちろんですが、たとえ自己満足であったとしても、持続性のある「過程的幸福」に当たるでしょう。

 西行の生きた時代は平安末期の末法の世と言われ、飢饉や「源平合戦」にみられるような治安の悪化が続き、仏教的な「諸行無常」の世界観が支配的でした(『方丈記』『平家物語』など)。西行自身は出家することにより、仏道と歌道において大成し、彼の願望も実現したとされ(彼は「望月の頃」2月16日になくなりました)、充実した生涯を送りました。その意味では、仏教に救われ歌道で自己実現して「永続的幸福」を実現した人生であったと思われます。仏教的世界観と感興の美意識が見事に調和しています。このような和歌を楽しむことは、「刹那的幸福」を体験していることになります。

  心なき 身にもあはれはしられけり 鴫立つ澤の 秋の夕ぐれ  

  おもかげの 忘らるまじき別れかな 名残を人の 月にとどめて

  あくがるる こころはさても山桜 散りなむあとや 身にかへるべき

  もろともに われをも具して散りね花 憂き世をいとふ 心ある身ぞ 

例示)

・直接的な欲求充足・快楽感情:美味しい食事、快適な住まい、素敵なファッション、音楽、スポーツ、仲間など、物品や他人を介して快楽や幸福感を得る。また、欲求や感情の求める宗教的幸福(苦しい時の神仏依存)や、他人から与えられ金銭で購入するような娯楽はほとんどこの部類に入ります。「今だけ、金だけ、自分だけ」という新自由主義的発想は、人間にとって刹那的幸福しかないと思わせ、有限な資源の浪費にしか目を向けさせない資本主義的商業主義のイデオロギー(宣伝)の基本であるということができます。創造性のない利己的な一時的浪費と享楽の消極的幸福は、その幸福の持続性を維持することとは、決定的に矛盾します。

・死への態度:生前は自己の死について深く考えず、死に臨んでは幸福感もなく苦しみながら死ぬ。西行のように刹那的幸福を楽しみながら、仏教的な悟りを得ている場合や永遠性への信仰がある場合は死を恐れません。しかし、現世に執着し、死を受け入れられない場合は、寝てる間に死にたい、ぴんぴんころりが望みというような絶望的な態度になりがちになり、人々に疎まれ人生に恨みを抱きながら、臨終を迎えて諦めざるを得なくなりこの世を終えるのが特徴です。

・恋愛と友情:相手に対する思いやりよりも、自分の利害得失が優先する。その時その場の性的快楽や苦楽・幸不幸で離合集散し、相手を利用することで幸福を感じる(支配・虐待・いじめ)ような人間関係が特徴。異性や隣人に対して己の欲せざる所は人に施すなかれ」(『論語』顔淵 )や「何事でも人々からしてほしいと思うことは人々にもそのとおりにせよ」(『マタイ伝』7.12)などという格言よりも、個々人の気質や性格に左右される反応が多い。

・消費性向と満足度:無計画的・衝動的・反道徳的、高所得者の浪費と享楽と欺瞞、低所得者の吝嗇と絶望と愚痴。その場の気まぐれな衝動的欲求が行動を駆り立て、しかも決して満足が続かない。物事の好みや欲望の方向が定まらず、価値の基準が他人指向で自分の定見がなく、流行や宣伝に流されやすい。


2)【過程的幸福】purposive happinessは、人間が欲求実現のためにより快適(安心、満足、美味等々)な目標を定めて創造的に追求する過程で得られる幸福です。イソップ寓話でたとえるなら「アリとキリギリス」のうちのアリの幸福感(目的をめざして苦労にも耐えてその過程も楽しむ)に近いものです。ただこの幸福の目ざす目的は、金銭や財産、健康や長命、娯楽やスポーツを楽しむなどの現世享楽的な目的であって、精神的哲学的宗教的内容のある内面的な心の平安・快楽を目ざすものではありません。文化芸術やスポーツにおいて賞賛や名誉を求めること、立身出世や蓄財を目指して努力することは、言語的創造的存在としてより高い希望や夢を求める多くの人が目指すところです。しかし、「過程的幸福」では、目指すべき興味関心や目標が社会的に評価されなかったり、目標の実現に失敗する場合には、「刹那的幸福」と同様に不幸な状況に陥り、自己責任をとらされることになります。

 過程(目的)的幸福論の代表はラッセル(英1872-1970)の『幸福論』(1930)です。彼は幸福の秘訣について次のように述べています。「あなたの興味をできるだけ幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものでなく、できるかぎり友好的なものにせよ。(幸福はそれでも可能か)」(安藤貞雄 訳)彼は『幸福論』の前半で、まず不幸の原因を、幼年期の抑圧的愛情や教育にありとして、幸福になるためにこの抑圧を克服する必要があると考えます。そして後半で、自分自身の興味や関心を外的な対象(目的)である人(愛情や友情の対象)や物(仕事や趣味)に向けることを勧めます。彼の幸福論は道徳的な目標を理想としますが、一般的には世俗的な財産や地位・名誉、芸術やスポーツにも当てはまり、競争的な状況が「もっともっと」と過程的幸福を煽ります。

例示)

・人生における創造的達成目標の実現過程:名誉や地位、財産、事業や趣味等を持ち、創造的活動(過程)によって幸福(快楽・満足)を得る。確かな目標(人生への希望、夢、信仰、想定される快楽等)を実現する過程で、多少の困難も乗り越えられる。現代社会で推奨されている生き方は、ほとんどこの過程的幸福を目ざしています。生存競争(地位収入名誉等)に勝つことを生涯の目的にすること。貨幣を蓄積して物質的安定を得ることが、生涯の過程的幸福につながります。過程的幸福は、欲求や感情を抑えて常に向上心(言葉の刺激と意志的感情注※)を持ち信念を実現する。

・死への態度:目標・関心が死に優先し、死を達観した人生観。人生への挑戦に成功(または満足)して泰然として死を迎える。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」(『論語』先進)

・恋愛と友情:共に動物的起源を持つが、人間の場合は言葉による刺激(「I love you」、または「 I d'ont love you」などの発話)が双方の幸福感情を決定づけ、信頼(または断絶)が永続化する。

・消費性向と満足度:計画的・理性的・目的的。競争活力・排他的成功志向と虚栄心、または互助互恵・連帯志向とヒューマニズム

 注※ 意志的感情:言語で表現された目的(就職祈願、登頂成功等)が言語刺激となり、行動意欲(元気・勇気・励み等)をもたらす感情。例えば、「頑張れ!」「祈れ!」となどという表現が、勇気や救いの感情を引き起こす人間特有の感情。(参照ここ)  ☞ ワクワク感、期待、希望、夢、努力、訓練。苦痛etc

 

3)【永続的幸福】permanent happinessは、外的環境の変化や流行に囚われない「内面的(内言的)な自己コントロール過程(精神集中、瞑想等)」で、心に生じる生理的欲求(安心、飲食、恋愛)や感情(快不快、好悪、苦楽)を抑制しても、精神的欲求の充足と感情の平安・平静を永続的に獲得できる幸福(感)です。このような幸福は、欲求と感情にまかせて日常生活の中で無自覚的に過ごしているだけでは、残念ながら得られない幸福です。人間は「欲に手足の生えたもの」や「感情の動物」と言われますが、また永続的幸福や安心立命を実現した聖者や賢者になることもできます。

 今では永続的とは言えなくなりましたが、かつては「永続的幸福論」とされたであろう幸福論としては、ヒルティ(独1833-1909)の著したキリスト教の立場からの『幸福論』(1891)があります。彼は次のように言います。「幸福の第一の、絶対に欠くことのできない条件は、[キリスト教的]倫理的世界秩序に対する堅い信仰である。このような秩序なしに、世界はただ偶然によって、…支配され、または人間の策略と暴力によって動かされるものだとすれば、個人の幸福などはもはや問題にならない。(「幸福 二」)」(草間平作 訳[ ]内は引用者による)つまり、神によって創られた人間の始祖アダムとイブは、永遠の生命を与えられ、楽園(エデンの園)での幸福な生活をしていました。しかし、ヘビ(サタン)の誘惑に負けて神を欺き楽園を追放されたため、子孫である罪深い人間たちにとって、地上(現世)での生活が苦難に満ちたものになりました。そのため、人間が救済され天国での永遠の幸福を得るには、神の定めた地上での倫理的世界秩序に従い、神の国を信じる霊的存在として生きる以外にないとされました。そのためにイエスは救世主(キリスト)として父なる神から遣わされたもので、十字架刑によるイエスの贖罪を通じて神への信仰を深めることが個人の永遠の生命と幸福の条件となると考えたものです。

 しかし、「生命言語説」によって言語の機能が解明され、人間は言語によって自己の存在を意味づける動物であることが明らかになっている以上、今日では人間の被造物である神の存在を前提とした幸福観や倫理は、永続性を持たなくなっています。いかにヒルティがこのような科学的洞察を、「傲慢」であると批判しようとも、人生の困難や苦悩は、ヒルティが仏教を批判して「必然の苦難を堪えしのび・・・ただ消極的に待ち望め、と教える(エピクテトス 八の註)」というような仏教理解では、人間存在の有限性を理解しその克服によって、仏教的な心の安らぎという永続的幸福が、人間に残された幸福の最後の選択であるという理解には至らないでしょう。

 一方東洋思想において、インド独立の父であり、ヒンドゥー教の求道者であったガンディーは、日常の政治活動の中で宗教者としてヒンドゥーの教義を実践しました。彼の言動は聖者といわれるのにふさわしいですが、彼の哲学は科学的とは言えません。例えば、彼は『獄中からの手紙』で「すべての外的恐怖は、なんの根拠もない、わたしたち自身の幻想の産物であることがわかります。冨や家族や肉体への執着を捨て去れば、恐怖はわたしたちの心中に巣くうことはありません」(森本達雄訳 岩波文庫p52)と言っています。しかし、彼が「幻想」とみなした「恐怖という感情」は、実は生物学的生存の生理的メカニズムであり、抑制・制御はできても消滅させることはできません。また彼は「神の実在」を信じましたが、それこそ人間固有の言語的幻想に過ぎないものです。とはいうものの、彼は永続的幸福を体得した「偉大な魂(マハトマ)」の所有者でした。

 ガンディーの信奉したヒンドゥー教の教えは、仏教やジャイナ教にも通じるものがあります。この点は、言語を獲得した人間たち(ホモサピエンス)の内の多くが現世における永続的幸福を求めて追求し、様々の着想を得て確立してきた神話や哲学、宗教教義にあらわれています。その中でもシャカ族の尊者(釈尊)である仏陀ブッダ)は、自己省察にもとづいて、科学的臨床的心理学と親和性があり、もっとも深く幸福や心の平安・悟りについての解答を見いだし実践した聖者であろうと思われます。この点はすでに「ブッダのことばと科学」で述べたところです。

 それに対し、インドの貧民の救済に尽くした聖女マザーテレサは、クリスチャンとしての信仰に導かれ、イエスの受難(十字架刑)の意味を正しく実践しました(犠牲となって神に奉仕すること)。しかし、修道女としての人間的内面は、霊的指導者(神父)たちのキリスト教義上の解釈とは異なり、幸福なものでなかったと思われます。「私の魂の中では、神がわたしを望まれず、神が神でなく、神が実在しないというその喪失による激しい痛みを感じます。わたくしはその闇に取り囲まれています。魂を神に引き上げることはできません」(『来て、私の光となれ』里見貞代訳 女子パウロ会2014 p314)という「イエスに宛てた告白の手紙」は、「神の道具」として神と一体になるという宗教的な信仰であっても、現世での幸福を目ざさなければ永続的幸福は期待できないと思われます(来世で永遠の生命を得る確証がない)。

 さらに言えば、貧困は神の業ではなく、貧困を創り出す人間の歴史的社会的な関係やしくみの結果だったのです。聖者(神の子)イエスと聖女マザーテレサは、「神の愛に依存する人間の魂(罪人としての精神)」の救済をめざす究極の聖なる生き方でした。しかし、彼らには歴史的伝統的教義(虚構)の限界の中で、貧しい民衆が自らの存在を自覚し、人間(言語を持つ生命)として、現世での永続的幸福を獲得する希望と歴史的社会的役割(社会福祉の充実)を実現する智恵と勇気の必要性を理解することはできませんでした。(彼女の心の闇の意味は、さらに究明される必要があります。いずれにせよ、20世紀はもはや救世主イエスや聖フランチェスコの時代ではありませんでした。The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice by Christopher Hitchens 参照)

例示)

・精神的・内面的幸福:刹那的・過程的幸福は、主に幸福の対象が物質的・外在的・生成消滅的ですが、三大宗教では、空想的な「死後の永遠の生命」に続く永続的幸福が、経典や教義によって精神的・内面的に保障されるという信仰です。しかし、今日では科学的認識が普遍的認識方法となり、旧来の宗教は空想的・非科学的・不安定的となったため、永続性への確証がありません。今日では科学的(臨床)心理学を基礎にした科学的・普遍的知識(新たな学問体系)とそのための研究・教育が必要となります。永続的幸福の確立には永続的知識(真理)の探求、すなわち人間真理成立の前提となる「知識とは言語である」という生命言語論の理解が必要となるのです。

・死への態度:高等動物は仲間や子どもの死を悲しみます。人間は死を想像(予想)して不安と恐れを抱きます。しかし、永続的幸福は死の不安を乗り越えている心の状態(悟り、涅槃)です。それはまた、生への満足と自然・人間・家族・朋友への感謝の情を表せることでもあります。

・恋愛と友情:民族性や利己主義、ジェンダーを越え、共通の人間性(善性・良心)に由来する人間的連帯感(相互的優しさと思いやり⇒慈悲・仁愛)が必要になります。

・消費性向と満足度:肉体と精神の調和と抑制は、精神による知的作業であり、永続的幸福のためには、永続性のある科学的知識を価値判断の条件にします。そのため、偽善や名誉等の外的虚飾を求めないことに満足を見いだします(仏教経済学、価値観の変更)。

 

■ 永続的幸福とは何か?

 かつて人間は、精神(魂)的存在を永遠の実在と考え、肉体の滅びる死後の世界も、何らかの形で存在しつづけると考える傾向がありました。死後には現世での行為が評価され、善行や信仰の程度によって、「天国・楽園や極楽」での永遠の生命や幸福が得られるか、または、悪事を働いた場合、特に背教に対しては「地獄や冥土」での永遠の苦しみを受けると考えられていました。しかし、科学的思考が普及した現代では、精神の永遠性や死後の世界を信じる人は少なくなりました。今日多くの人は、刹那的幸福か過程的幸福(成功)を求めて、人間にのみ可能な永続的幸福の人生に思いを馳せることができず、自己の安心快適な生活のみを求めています。そこでは主に物質的な豊かさ、便利で快適なことのみが求められています。

 「永続的幸福とは何か?」これは認知や価値判断などの精神活動の内でも、言語的機能(理性・知性)による科学的知識にもとづいて導き出すことが可能です。それによって、誰もが自分の心の中に心の平安や永遠性、慈悲や仁愛のような望ましい意志的感情(「心の平安」のような倫理的言語概念を刺激とする人間特有の肯定的感情反応)として育み形成することができます。そのような倫理的概念は、自己中心的な刹那的幸福(快楽)や過程的幸福を目ざす「希望や野心等」の意志的感情のもとでも可能ですが、もっとも確実に得られるのは、精神集中による思考や創造力をはたらかせる瞑想状態のもとで、利己的利害から自由な永続的幸福を求める知識(言葉)に導かれて実現できるのが一般的です。美観や美味、享楽や性的アピールなどの外的刺激があれば、知覚的誘惑に弱く衝動的になりやすい精神(心)は乱されやすくなります。しかし、一度精神統一の境地や永続的幸福の端緒を体得すれば、外的欲求や感情に心乱されることがあっても、精神的平静の永続性を回復するのは容易になります。つまり、一旦永続的幸福を体得すれば、欲求や感情による外的幸福(快楽)に誘惑されても、知識と経験によってそれらを制御し永続的・内面的・精神的幸福や心の平安を保持しつづけることができるようになるのです。

 永続的幸福を体得するためには、決して出家や修道生活の継続を必要としません。永続的幸福の体得とそれを支える知識があれば、利害得失の絡む社会活動に積極的に参加することが可能です。むしろそれによってさらに人生を豊かにすることができます。しかし、刹那的快楽は甘美で無限の誘惑がありますので、日常的に自己省察は必要となります。やはり既存の宗教行事や研修会におけるように、一定の時間と場所を設けて、相互確認をしながら行う定期的な瞑想や三省が必要です。今日では「民衆のアヘン」である宗教に替わって、営利を求めるマスメディアが、日々民衆の洗脳(愚民化)を行って刹那的幸福を与えているわけですから、持続的循環型(小欲自足)の社会のイデオロギーとしての永続的幸福論はよほど強力でなければならないと思われます。


幸福の三分類のねらい

 すべての生命は、個体的生存と種の存続を全うすることを求めています。つまり生命は、個体を維持し種族を永続させることを目的として生存活動をしており、とくに動物は、食餌の獲得と安全の保持そして種の存続のために、環境の無限の変化を知覚することによって、多くの情報を集め、的確な判断(選択)をして最適の行動をめざします。生命とは、細胞という自律的生化学反応体であり、三十数億年前に地球上に誕生して以来、今日の多様で高度な生存形態をとるにいたるまで、生命体として基本的な構造を継続しています。

 多くの動物の最適の行動とは、環境への適応(順応)によって個体を維持し種を存続(欲求充足)することですが、高等動物にとっては、「快を求め不快を避ける」ことが、行動判断の基準になります。動物の進化の最高形態としての人間にとっては、情動や感情反応が行動判断の基準になり、不断の不快の回避と快楽・快適の追求が、欲求充足を実現することになり、そのとき人間のみが獲得した言語によって判断や行動の意味づけ(合理化)が行われます。人間の心とは、そのような欲求・感情・言語の三要素によって構成されており、欲求が実現されて快楽感情が生起した心の状態を「幸福」ということができます(「心とは」を検索)。

 万学の祖といわれるギリシャの哲人アリストテレスは、幸福こそ人間の最高善であり究極の目的と考え、それは人間の卓越性にもとづく知性(理性)的な「観想的生活」にあると考えました。この境地は常人で実現しがたい神的なものとされましたが、今日から考えると経験的具体性に欠けてはいるものの、精神的な充足感(快楽)を幸福に求めたものと思われます。しかし彼は、幸福な生活形態として享楽的、政治的、観想的生活の三種に分類していることから、享楽を幸福と認めることから、現実的な幸福感覚を肯定していました。

 また明治の文豪幸田露伴は、自著『努力論』で「惜福」「分福」「植福」からなる「幸福三説」を論述しています。幸福を存続するには、高望みせず、人々と分かち合い、将来の幸福の種をまいておくことが必要だと述べおり、これは現実生活に密着した東洋的現実的幸福論であり、また日本的共同体にふさわしい主張であると思われます。

 我々も彼らに習って、幸福を刹那的・過程的・永続的幸福の三形態に分類して下記のように考察をしてみます。そのねらいは、一般的に幸福は、その場の欲求(食欲や娯楽等)に従って「刹那的快楽」を得たり、何かの創造的目的(地位名誉収入や趣味スポーツ等)を実現する場合の人間特有の「過程的快楽」がありますが、さらに宗教的な気づきや信仰、瞑想を伴う精神的快楽(アリストテレスでは観想的幸福)を考慮に入れています。特に「永続的幸福」においては、心(精神)の内部で、言語(信号)によってどのように動物的な欲求・感情を操作・制御し、仏教的な「永続的幸福」である禅定・瞑想を通じた解脱と涅槃寂静の境地を獲得できるものかを、言語心理学的にわかりやすく明らかにします。


幸田露伴『努力論』自序

「人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。・・・・努力はよしや其の效果が無いにせよ、人の性の本然が、人の生命ある間は、おのづからにして人の敢へてせんとするものである。厭ふことは出來ぬものである。」