日本文化の可能性

日本文化論 (パート2) ☞ 日本文化論パート1

 日本人は、いま心の閉塞状態にあり、未来への展望を見失いつつあります。戦後の民主主義的価値観を支えるはずの市民的個人が確立せず、日本的伝統である「甘えと依存」の体質を脱しきれないで、国際的には経済的貢献を評価されても、道義的な国とはみなされていません(エコノミックアニマル)。靖国神社や憲法改正の問題に見られるように、アジア・太平洋戦争(侵略、敗北、犠牲)の反省と責任を曖昧にしたままで、この無謀な戦争を肯定しようとする動きも強まっています。これらは単なる政治問題にとどまらず、日本文化全体の問題です。

 日本人は古来農耕生活の中で、自然を愛し人間の和や情緒を大切にする文化を育ててきました。しかし明治新政府(明治維新1868)による上からの近代化(天皇制を利用した富国強兵・殖産興業政策)の中で、富国強兵の推進や立憲体制の確立を通じて西洋の科学技術や政治経済のしくみを導入し、アジアで唯一成功を収めてきました。そしてその急速な上からの近代化の過程の中で、日本文化の負の側面が突出することにもなりました。その特徴は上からの権威主義に依存し、情緒的で無責任な行動に走りがちなことです。具体的には、帝国主義的競争の時代、日清(1894ー95)・日露(1904ー1905)の戦争に勝ち、台湾・朝鮮を植民地にして世界の一等国になり自信を深めた後、世界恐慌(1929)などの問題を解決するため、財閥の後押しや軍部の暴走によって満州事変(1931)を引き起こして大陸侵略(日中戦争1937など)を推進し、アジア諸国に多くの損害や犠牲を与えました。そのため物量に勝る大国アメリカとの衝突(真珠湾攻撃1941太平洋戦争)となり、辺境での玉砕や沖縄戦、都市への無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下など未曽有の惨禍をもたらし敗戦(1945)となりました。

 無条件降伏後、戦勝国アメリカの連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本にとって「幸運」をもたらす巧妙な占領政策を行いました。日本の文化的伝統を受け継ぐ天皇制を温存した上で、憲法9条に見られる徹底した平和主義を採用し、上からの民主主義を定着させようとしました。しかし冷戦体制の影響を受け日本的な曖昧さが残され、厳しい東西対立や南北問題など錯綜した国際情勢の中で、日本人自身が西洋的文化と十分な対決をせず、西洋的価値である自由・平等主義、民主主義、社会主義を無批判に受け入れ(または反発し)、日本人としての戦前の反省や未来への展望が開けぬまま、アメリカの核の傘に守られて、平和への幻想と経済成長に依存してしまうことになりました。民主主義の成熟には個人の社会的自立が必要ですが、戦後日本の教育も社会も、憲法や教育基本法のめざす民主的道徳の確立よりも経済的豊かさのみを追求してきたのです。

 いまや日本人は、日本民族が他民族侵略と支配の犯罪を起こし、自民族の多大の損害と敗戦という犠牲を払ったことを深く反省し、日本文化と西洋文化を調和的に取り入れた「日本国憲法」(1947)の世界史的意義を深く自覚し、日本文化の長所を伸ばし短所を克服して、平和的民主的国民性を育成しなければなりません。21世紀の現代は、全地球的な環境・資源エネルギー、貧困、民族・宗教対立などの問題が解決されねばならない時代であり、狭い国益や利害の対立をあからさまに強調し、武力で解決する時代ではありません。

 様々な対立の根源にある過去の宗教(神や仏、天国や地獄、悪魔や怨霊)やイデオロギー(西洋的諸概念、マルクス主義、国粋主義等)、生命や心の問題も、科学的な常識で解明でき人類的にも相互了解が可能な段階にきています。また経済・政治的利害対立も、文明による自然破壊をはじめとする全地球的危機を念頭に(Think globally)、開かれた透明な(清き明き)関係を構築すれば、共存共栄のための平和的解決が可能となります。日本文化の受容性と生命力(感性の純粋さ)、自然と和の重視、またそれらを体現した「日本国憲法」こそこれらの今日的な問題の解決に貢献しうると思います。われわれは、歴史に学び反省的思慮を働かせる限り、日本文化に対し十分な誇りと自信を持つことができるのです。

 日本文化には、西洋の分析的、批判的、理性的思考と、そこから生じる主体的個人と民主主義の確立が欠けています。しかし、日本文化の受容的感性(排他的感性ではなく)によって、日本人には、集団の和をもとに、西洋文化の分析的「社会と個人」を肯定的に取り込むことが可能です。その契機となるのが「生命力としての言語」すなわち「言霊(言葉の持つ生命力)」についての自覚なのです。「言霊」は、個人を自然や社会の中に位置づけ、「個人と社会」の安定(誤れば不安定)をもたらします。日本文化は、「言霊の謎」の解明と、それによって得られる人間存在(個体の位置づけ)についての普遍的知識によって、人間関係や生き方についての新たな世界標準を創造することができる可能性をもつのです。

 今日の世界の混迷は、物質的な利害の対立が基調にありますが、世界観や価値観という人間の在り方の混迷(宗教や思想の限界)に依るところが大きいことに異論は少ないと思われます。従って世界標準の価値を創造し確立することが、民主主義の育成や異なる文化や価値観の共生という以上に必要とされるのです。受容し昇華する日本人の能力や、自然と共に生きる日本の文化は、文明の危機が叫ばれる今日の「宇宙船地球号」において、世界平和と人類の永続的幸福への希望を与え、世界の文化や福祉に寄与する可能性をもっています。日本文化の短所である自己完結的自閉性(甘え・諦め・曖昧の集団主義)に安住することなく、感性を重んじる日本文化の善性や徳性(和の精神)を伸ばし、世界的普遍性を創造していくことが日本文化の使命と言えるのではないでしょうか。

◇ 排外的国家主義・偏狭な集団主義(いわゆる右翼思想)の思考様式の限界

 反個人主義・反世界市民主義・反普遍主義・非民主主義・非平和主義。このような人間の普遍性(ヒューマニズム)に対する忌避と日本的偏狭(小心)への逃避。情愛的権威的家族主義への依存と自我確立、個人的社会的自覚の欠如ないし忌避。理性的な個人の自覚にもとづく社会的結合より、感性的な権威主義的発想にもとづく義理人情的結合(個人的・家族的・集団的情念の重視)というのが、日本文化の社会関係が陥りやすい否定的特性である。

 「そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心なるぞ、道には有ける。眞心とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ」「下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひおる物にこそあれ」(本居宣長『玉かつま』)のように、「なぜ」という学問の基本(科学的精神)に答えられない単純な「真心(誠)」は、真実を見抜けず知的退廃を招き、「道」を誤らせる。日本的心情主義は、自然との融和や受容性から生まれ生命の持続性にとって普遍性を持つが、高揚して理性的抑制を欠くと独善的閉鎖的になりやすい。様々な(異なる)立場にある人間への配慮と思いやりを欠き、共に生きる未来社会への展望を持たない思想は永続性を持たない。

 日本的心情主義は、素朴で自然な感情を重んじるが、理性的な自我が十分に確立していないので、集団的権威や権力に依存しやすい。集団に依存することは、他者に対する排他的心情を醸成することにつながる。いわゆる国粋(国柄)主義者が重視する日本的伝統は、日本的なるものの潜在力と可能性を自覚せず、普遍性をさらに豊かなものとすることがないために、日本と世界の未来に貢献できず、混乱と閉塞状況をもたらすのみである。

 日本文化の伝統における限界性を洞察しない国家主義の自己愛的単純さと甘え・知的退廃は、日本の文化的発展と世界平和のためには克服されなければならない課題である。国際性なき愛国心は、単なる幼児的自己中心性の発露に過ぎない。日本の未来を切り開いて行くには、人類文化の普遍性を同時に体現しなければ展望はない。ナショナリズムの偏りは、日本を退嬰的衰弱に向かわせる。そのようないわゆる右翼的言論人の名前を具体的に挙げておこう。愛植生、柿食怪古、櫻子素世空

■ 強者支配と文化破壊のTPPへの、日本の参加に反対します。(2015.10)

アメリカ主導のグローバリズムは、地球環境や固有の文化を破壊し、人類福祉を推進しない。

 現代の世界的諸課題は、国益や階級益だけでは解決できない人類益を必要としています。人類益には、それにふさわしい新しいイデオロギーを必要としますが、TPP推進論者にはそれがありません。

 TPPの前提となる「原則(?)関税撤廃」、すなわち原則自由競争市場は、強者の勝利を完全に保証・保障します。勝利した強者(メジャー企業)は利益の独占をはかり、国民(国際)福祉をめざす現代の正義に敵対しようとします。

 国際市場には、公正な競争のルールと世界(人類)の福祉(富の再分配・調整)を実現する世界政府はありません。強者であり続けようとする超大国アメリカも、国家を越えようとする独占企業にも、人類福祉をめざす意志も計画もありません。国連や世界銀行・IMFも公正な利害調整者とは言えません。

「正義と公正を担保する世界政府」のない現状では、国民国家はその多様な文化と特技を生かし、それぞれの固有の権利とルールを認め、関税でコントロールしながら公正と正義に基づく(互恵、win win の)国際自由市場を工夫すべきなのです。

 人間は本質的に自由ではありませんし、地球には成長の限界があります。有限な人間は、自らを制御して共存共栄を図らなければなりません。TPP推進論者は、過去の高度成長の歪んだ成果にしがみつき、営利獲得の自由競争がすべてを解決できるような幻想を宣伝しています。

 歴史が示すように、自由を強調するものは伝統的価値や文化を破壊しようとします。そして今や、市場競争による破壊や合理化は、欲望の肥大化と人間性の劣化と腐敗を拡大するだけで、新しい公正や正義を生み出せなくなりました。

 自由や創造性は、人間のもつ至高の価値ですが、交換と分配における社会正義と多様で公正なルールを排除する新自由主義(市場原理主義)は、人類福祉にとっての敵です。人間は、経済的・営利的欲求のみによって生きるのではありません。

 環太平洋を、エコノミックアニマルの修羅場にさせてはなりません。現代の閉塞的状況の問題は、帝国主義的格差のグローバル化を克服し、人類的福祉を実現する目標をもつことによってはじめて解決可能になります。

参照 日本文化論⇒ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/bunka.html

◇ 日本人と日本文化の可能性

 日本人の心性の特徴は、島国の閉鎖性のなかで育まれた、稲作農耕民族に特有の温和性と忍従性である。稲作に適した温暖で湿潤な気候は、自然や社会に対して敵対的であるよりも親和的です。

 神道に見られる浄・明・直の精神は、単純で率直な自然と人間への信頼を前提としています。しかし反面、その信頼が裏切られると、直ちに排他的な汚れや怨みの心情に転化し支配されます。 この単純さは、公正な認識を阻んで不都合な真実に盲目となり、片寄った事実を強調して哲学的な根源への探求と自己相対化を不必要なものとします。

 そのため、中国伝来の仏教や儒教思想を容易に受容し、西洋伝来の哲学や科学を取り入れ有効に活用することができました。しかし、それらの受容は一面的自己都合的であり、総合的に普遍化することよりも、自らの依拠する専門的な学派やセクションに固執することとなりました。日本の仏教が祖師崇拝的であり、儒教も単なる教養や非歴史的体制維持的なものとなり、批判的な独自の総合的哲学には発展しませんでした。

 このような閉鎖的な日本的集団主義(地縁・血縁・門閥・学閥・民族主義等)は、克服しえるでしょうか?

 われわれに期待できることは、恵まれた島国文化の単純さのために育まれた、おおらかな受容性や進取な開明性もっている日本人だからこそ、その文化の特性を生かして世界への視野や未来への展望を持つと考えることができないでしょうか。利害が輻輳し混乱した世界秩序に永遠の平和と、有限で不安定な地球環境での生存持続性を高めるために、日本文化の閉鎖性が世界に開かれてこそ、日本人は日本文化の卓越性と人類への貢献を誇れることになるのではないでしょうか。

 短所を長所に転化すること、単純で率直な日本人と日本文化の可能性についての世界的評価が問われているのです。

 われわれ人間存在研究所では、西洋近代思想を超え、日本や東洋思想を融合した人類の永遠平和と永続的幸福をめざす「新しい世界人権宣言」とその普遍性によって世界を統合する「世界連邦」の建設を提案し推進します。