三方良し原理

世界の市場に「三方良しの原理」を――市場価格は量的需給関係だけでなく、相互の質的力関係によっても規定され、市場の調整は強者の独占的支配と格差を招く

――社会的に公正な市場のために、市場の透明性を高め「三方良しの原理」を確立しよう――【三方良し】「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人心得をいったもの。 出典:デジタル大辞泉(小学館) 


 市場は交換の相互利益(win win)や当事者間の信頼性・公正さを前提に成り立つ(等価交換の由来※補足↓)が、利害・損得(競争)が絡むため、信頼性や公正性とともに交換における価値情報の判断・取引のための効率性・利便性が重視される。交換の動因は売買当事者間の利益(欲望)であるが、両者には商品情報(価値評価)に対する非対称性があるため、常に得・得(win win)だけでなく、結果としての得・損(win loss)が内包されている(まれにloss lossがある)。この売買における競争的な「情報(価値)の非対称性」(情報格差・不等価交換)(※1)が、商品交換における利益(一定の行為の費用や報酬以上の超過利潤・商業利潤)の根源である。一般に競争的売買(取引)においては、情報・価値・権力をコントロールできる有利な立場や条件にあるもの(強者・富者・知者)が、より多くの利益を獲得できる。

 「情報の非対称性」には、商品に対する所有者の必要性(欲望度・主観的価値)の差異、当事者双方とその商品価値に対する信頼度(商人や仲買人の情報)が含まれ、需要供給の変動と共に、価値(交換価値、価格、社会的評価)決定は常に変動する。近代的企業的大量取引(商業を取り込んだ産業資本)においては、商品生産・販売者は、商品価値(情報と質量)をコントロールする(商品開発・改良、広告宣伝流行等)ことによって最大利潤を追求する。

 あらゆる商品の平均的市場価値は常に相対的に変動し、それぞれの社会的平均価値(物価、相場)を持つが、貨幣商品、労働力商品、独占的商品、証券商品、公定商品などは特有の平均性と変動性を持つ。とくに労働力商品については、産業革命以降は生産手段(土地、資本)の所有者である使用者(雇用者、資本家、経営者)と無所有の労働者のあいだで、労働者は圧倒的低賃金(劣悪な労働条件)のもとでの売買(雇用)契約を強いられた(明白な不等価交換、搾取)(※2)。しかし、民主主義の進展とともに労働者保護法令が整備され、今日では団体交渉等が保障されていることが多く、労働者の地位は大幅に改善されている。

 それでも、豊かな既得権益を保有する保守的支配層は、政治的多数派の維持形成のためにイデオロギー形態(メディア、宗教、学問、芸能、スポーツ等)を駆使して大衆の懐柔を図っている。なかでも、アダム・スミスの古典派経済学以来(マルクス経済学を含めて)市場交換の形式的合理性(等価交換、自由競争、価格の自動調節機能等)を前提とする経済学の底流は、市場には、本来人間の善性と悪性、快と不快の感情、利己心と利他心など非合理的判断・行動が潜んでいるにも拘わらず、「市場の完全性」や「市場の失敗」(※3)という非現実的な合理的楽観主義にもとづく偏った経済学概念を放棄・克服することができません。彼らには、マンデヴィルの『蜂の寓話――私悪すなわち公益』やスミスの「見えざる手」、ハイエクの「自生的秩序」のように、利己主義や社会悪もまた公益や正義として正当化されてしまうのです。

 しかし、今日の経済学における市場概念は、偏狭な市場概念(典型的にはマルクス主義と新古典派自由主義)に囚われており、これからの人類史的な縮小社会では、形式的な自由と平等に制約されたこのような古い経済学を克服しなければなりません。そして、透明性を高めた互助互恵、相互扶助を基調とした交換社会――すなわち三方良し(買手よし、売手よし、世間よし;Good in three directions―Buyer win,seller win,society win?)の社会が築かれる必要があります。そこでは、欲望と感情にまかせた自由放任の競争原理ではなく、「市場の欠陥」や「情報や価値観の非対称性」を前提としながらも、人間的理性(ロゴス・言葉)と共感性を生かした相互理解がすすめられ、人間性に由来する公正と正義にもとづく交換市場を基礎とした経済秩序が築かれねばならないのです。


<追加説明>

(※1)「情報の非対称性」とは、一般に商品価値の主観的評価(判断基準・需要度に拘わる情報)が、交換の当事者によって相互に異なりまた不透明である(虚偽不正の可能性がある)ため、商品の社会的(交換)価値評価(価格)が、決して安定的なものではなく、ほとんどは本質的に不等価であることを意味します。このような見解は、新古典派に属するウィーン学派の創始者カール・メンガーによっても示唆されていました。しかし、不等価性の研究は、アメリカの理論経済学者ケネス・アローが、1963年に医者と患者との間にある立場の違いからくる情報の非対称性が、医療保険の効率的運用を阻害するという報告に始まります。そして「情報の非対称性」という用語自体は、アメリカの理論経済学者ジョージ・アカロフが1970年に発表した論文『レモン(中古車)市場』 “The Market for Lemons: Quality Uncertainty and the Market Mechanism” で初めて登場しました。(詳細はwikipedia で検索してください)私はこの概念を、交換一般に適用できると考えています。

 商品価格は、商品所有者の双方または一方が商品情報の不十分な理解のまま売買(等置)されることによって決定され、その価格が変動しつつも他の交換の標準(平均価格、均衡価格、相場)とされてしまいます。つまり、商品価格は、商品の需給量だけによって決まるのではなく、市場の交換過程(競り等)で相手の商品価値についての相互の置かれた売買条件を総合して決まるのです。従って、需給量だけでなく需給の質や売買欲求(評価、力関係)も価格決定の要因となり、商品価値の等価性(交換の実現)は、win winであっても、容易に「不等価交換」にむすびつきます。等置(交換)の結果としての商品価格は、本来等価ではなく、「円滑な交換実現のための平均値」としての価格に過ぎないのです。

(※2)労働力商品の「明白な不等価交換」を、マルクス経済学の剰余価値説では認めません。『資本論』においては、労働力商品の価値(労賃)は、労働価値説の立場から「労働者の生活に必要な労働量(必要労働分)」ということであり、「等価交換」として支払われます。しかし、労働力の売買(労働)条件は、歴史的社会的に規定されるとされますが、かつては極めて低賃金で劣悪な抑圧的労働条件でした。この低賃金を『資本論』では「等価交換」として、剰余価値(労働)の搾取は隠蔽されていると考ええます(搾取の隠蔽性)。しかし、事実として搾取は明らかであり、これを隠蔽しているのは労働価値説に囚われて「等価交換」を主張する経済学者達です。社会学者の大澤真幸氏は「必要労働」の概念を「理論的にはかなりあやしげな部分を含んでいる」と述べています(『戦後思想の到達点』p103)。では労働者の生活の必要労働分はどうして決まるのでしょうか?それは『資本論』によれば・・・・続きは私のHP「『資本論』批判」をご覧ください⇒https://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub4.html 。

(※3)「市場の失敗」という概念には経済学上の多くの神話が存在しています。(形式的)自由平等、等価交換、完全競争、効率性、価格自動調節機能、平均化法則、剰余価値説(マルクス経済学)などです。これらは市場で、すべて厳密に(実質的に)行われておれば正しい(かもしれない)という観念なのですが、事実は、財やサービスの交換情報は相互に非対称的であり、人間の認識能力の有限性と多様性のため不確実で不透明なのです。そのため、市場の当事者(需給者、生産者・商人・消費者、市民)は、必ずしも自由平等ではないし、競争は不公正だし、商品知識は不十分だし、需給は不安定だし、格差はあるし等々で、われわれが交換に必要な情報は(日常的になっているので自覚しにくいですが)不公正で欺瞞的なものになりがちです。

 一般に「市場の失敗」は、「市場メカニズムの機能(価格変動を通じた需給バランスの調整均衡や資源の適正分配)」が働かなくなる現象、すなわち「独占・寡占」の価格支配や「外部不経済」とも言われる企業の起こす公害、社会的利益を生じる有用な支出(公共財)等を言いますが、これらはすべて私的利益が優先し反社会的なものです。つまり経済学の常識(元祖アダム・スミス)とは異なり、本来的に私的交換市場(win win)には社会性(世間良しwin win  win)を欠如した欠陥があるのです。近年ではこれら三者に「情報の非対称性」が加えられ、もはや主流の経済学が「等価交換の欺瞞性」と共に「市場の本質的欠陥」、「新旧の古典派経済学の失敗」を認めざるを得ないところまできているのです。

 つまり、市場は、競争による効率性や資源の配分に一時的・部分的には有効ですが、強者(独占・寡占)に有利で、拡大成長がなければその欠陥を(トリクルダウンのように)偽装することができません。市場(財やサービスの交換過程)が不安定で欠陥がある有限な存在であり、その欠陥を補うことなしに放任すれば、格差や恐慌や社会不安、そして衆愚政治とファシズム(または権力主義)を生ぜざるを得ないのです。だから「市場の欠陥」を補い民主社会としての持続的安定性を維持するためには、すべての構成員(市民)が、市場の意義(有限性)とその構成員の人間性の本質(欲望と感情と道徳性:人間存在の意義)を理解し、透明性のある互助互恵の政治経済社会をめざすことです。そのための最もわかりやすい市場の日常的目標が「三方良し」原理なのです。今までの近代西洋由来の個人主義ヒューマニズムにおける「私良しI 'm good(win)」は、経済学においては形式的に「私良し、君良しI 'm good, you're good.(win win)」の建前(表面的なwin winは実質的な win lossを含む)でしたが、縮小社会における社会科学は「私良し、君良し、世間良しI 'm good, you're good, all(society)is good.(win win win)」の原理が求められるのではないでしょうか。

 以上のように経済学における混乱が、市場における「等価交換」や「平均価格」という「観念」の根本的な意義の無理解、すなわち「観念の言語的意味の西洋的転倒」――言語理解の限界のために、経済的唯物論でさえ「観念が事実を支配している」(唯物論の限界)ことが自覚的に理解できていないのです。廣松渉や柄谷行人、見田宗介などの俊秀はマルクス経済学を前提に、その限界を指摘しつつ資本主義克服の道を探求しましたが、「観念(商品物神・意識・知識・言語)的上部構造」の解明や主体性の確立(「人間とは何か?、言語とは何か?」の解明)の失敗によって挫折するのです。  以上


※補足<等価交換の由来>

 経済学の父と言われるアダム・スミスの労働価値説では、等価交換と自然価格と利己主義を以下の引用文のように説明します。マルクスもまた同工異曲です。

 「貨幣または財貨で買われる物は、われわれ自身の苦労によって獲得できる物とちょうど同じように労働によって購買されるのである。その貨幣、またはそれらの財貨は、じっさいこの苦労をわれわれからはぶいてくれる。それらはある一定量の労働の価値を含んでいて、その一定量の労働の価値をわれわれは、そのとき、等しい労働量の価値を含んでいるとみなされるものと交換するのである。」(『世界の名著31国富論』大河内一男他訳第一編第五章 下線は引用者による。以下同じ。)

 「自然価格というのはいわば中心価格であって、そこに向けてすべての商品の価格がたえずひきつけられるものなのである。」(同上 第一編第七章)

 「自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。」(同上第四編第二章)

 新古典派経済学の創始者の一人レオン・ワルラスは次のように言います。

 「交換とは、交換される物体の等価性を意味します。 つまり、私は、一定の価値を持つ物体を取得したり無償で譲渡したりすることを交換とは呼びません。同等ではない他の物体と交換して特定の価値を持つ物体を取得したり譲渡したりすることを交換とは呼びません。 つまり、私にとって、交換される物間の価値の同等性または平等は、定義上、交換の本質であり、魂であり、法則です。」(Léon Walras L'Économie politique et la justice Guillaumin, 1860.グーグル自動翻訳)

 つまり、マルクスを含めたほとんどの経済学者達は、交換が成立すれば単に「そう見なしてもよいではないか」と言うのではなく、「交換される物間の価値の同等性または平等は、定義上、交換の本質であり、魂であり、法則です」と断定するのです。この交換成立の合意をすれば、M氏や私が、いかに「等価交換が成り立つのは、本当に狭い範囲で、ほとんどは不等価交換」と言うように、実質的に不等価であろうと、また、たとえその真の価値が虚偽(偽造品)であろうと、抑圧的であろうと、経済学者たちは、等価交換が成立していると強弁するのです。

 縮小社会の研究者である工学博士のM氏は、次のように言われます。

 「等価交換が成り立つのは、本当に狭い範囲で、ほとんどは不等価交換だと思います。賞味期限の短いものほど安く買い叩かれます。野菜は2,3日、イモは半年、穀物は1年、工業製品は2,3年、株券は会社がつぶれるまで、札は国がつぶれるまで、金は永遠。どちらが勝つかは一目瞭然です。人間も生存がかかると、賃金はいくらでも安く買いたたかれます。」(Tuesday, January 16, 2024 縮小社会研究会W4投稿)

 ところが主流派経済学では、スミス、リカード、マルクス以来、「国内市場における等価交換」という理論から、「国際貿易における不等価交換」という理論との乖離をどのように解釈するかという問題が論じられてきました。マルクス主義者であったアルジリ・エマニュエルEmmanuel, A.は『不等価交換』((1972)Unequal Exchange, MonthlyReview Press, New York.)において中心国と周辺諸国との間における大きな賃金格差があることを解明しようとしました。この問題について多くの議論がされましたが、のちにI・ウォーラースティン(1995)は、「近代世界システムとしての資本主義」を分析して、「国際貿易における不等価交換」を次のように分析しています。

 「資本主義的なシステムにあっては、いったん生じた格差は必ずしだいに拡大・強化され、定着させられていったのである。この過程で特に重要なことは、価格決定に力関係が影響したという事実である。むろん、市場取引において、一方の側が武力を利用するのは、とくに資本主義だけの特徴というわけではない。不等価交換は昔からあるやり方である。史的システムとしての資本主義の際立った特徴というのは、それがこの不等価交換を隠蔽 できる方法を持っていたということである。じっさい、それはあまりにも上手に隠蔽されたので、資本主義というシステムに公然と反対を唱える人々でさえ、この不等価交換のメカニズムを組織的に暴きはじめることができたのは、それが作用し始めて五〇〇年もたってからのことであった。」(『史的システムとしての資本主義』p32川北 稔訳 岩波書店)

 私は、この等価・不等価の問題の混乱は「労働価値説と国内市場における等価交換」という誤った前提によって今日でも経済学を混乱させていると思っています。私見によれば、不等価交換は南北間の国際取引だけでなく、強者と弱者の格差(非対称性)のある国内市場においても当てはまります。このことを次に論じます。(なおある程度詳しく知りたい方は、マルクス経済学者伊藤誠氏の「グローバリゼーションの時代における国際的不等価交換の意義」をネットで検索してご覧ください。)

 さて、「現実の不等価交換」や、「交換の結果を等価という」の指摘は、多くの経済学者の了解事項です。しかし問題は、これらの無数の交換から得られる社会的平均的価値(標準価格、自然価格)の決定をどのように解釈するか、ということなのです。市場での無数の交換を平均的に「商品価格A=商品(貨幣)価格B」(「商品A=商品B」)という等号(等置)で表しますが、これを等価交換原理として、つまり、価値法則として現在や未来の日常的な商品価格を規定しているのかどうか。古典派はもちろん新古典派の経済学も、市場の調整機能を重視して自由放任を自然法則のように強調する立場から、交換の等価性を前提にしています。

 しかしケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)が解明した政府による有効需要の創出政策は、市場の調整能力や市場均衡神話が幻想であることを明らかにしましました。ガルブレイスはこれを次のように明確に指摘しています。

 「『セイの法則』[供給はそれ自ら需要をつくりだす;需要と供給は市場の価格調整で常に一致]を事実上痕跡をとどめぬまでに破壊し、それによって、自動的に復元する経済という幻想にとどめを刺したのは、ジョン・メイナード・ケインズだった。」(ガルブレイス,J.K.『経済学と公共目的』久我豊雄訳 著作集4p31 [ ]内は引用者)

 そして、市場の需給一致の暗黙の前提として「等価交換」の原則が置かれたのです。もし商品供給者(売主)が、交換において商業資本的に利潤追求(超過利潤)をめざせば、商品の情報(価値)は歪められ、市場は公正な価格取引になるとは限らなくなります。そもそも市場は、公正な競争取引をめざしますが、有利な商品知識や質量の条件をもつ交換当事者(強者)が、常に有利な価格を得られるのであって、量的な需要供給の関係だけで価格が均衡するとは限らないのです(労働力商品の低賃金と抑圧性、独占寡占商品の不等価性は市場をも支配している)。