マルクスとハイエク批判

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、

酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そう

すれば両方とも長もちがするであろう。」(『マタイによる福音書』9-17)

◇ 現代社会に災厄をもたらした二人の社会科学者の限界を超える

 現代社会に災厄をもたらしたマルクスとハイエクの二人の社会科学者の限界を超えることが、未来社会への展望を開きます。二人の巨人はともに人類社会は文明の被造物と考え、人間の意識や意図などの主体的努力を二次的なものとしました。しかし人間の意識や意図には、言語の創造的能力―画期的な情報処理能力―があることに気づきませんでした。当研究所への訪問者にはすでに理解されていると思いますが、両者への批判は、西洋的ユダヤ的思想と認識論の限界を 超える生命言語説」によって行われます。そして目指すべきその先は、限界成長社会の検討と新しい社会契約にもとづく道徳的社会主義の提案です。

以上のリード文で当然起こる疑問は幾つかあります。

1、「災厄」とは何事か。

  マルクスやハイエクがどのような災厄をもたらしたのか。

2、「限界を超える」とは何事か。

  人類文明の未来を見通した両巨人の思想など超えられない。

  どのような了見でそのようなことが言えるのか。

3、「文明の被造物」ってどこで言ってるのか?

  勝手な解釈、つまり誤読じゃないの。出典をしっかりね。

4、「人間の意識や意図」をどのように解明するのか。

  マルクスやハイエクの考える意識や意図の何が問題なのか。

5、「言語の創造的能力」とは何か。

  言語は単なる意思伝達の道具だろう。思考や想像は次元が違うぞ。

6、「西洋的ユダヤ的思想と認識論の限界」?何を面妖な。

  社会科学や経済学に、思想や認識論と関係あるのか?

  ユダヤ的限界?差別と偏見だろう。

7、「生命言語説」だって?聞いたことがない。珍説、戯れ言だろう。

  今さら新説など興味ない。もっと単純に考えてよ。ハイさようなら。

8.「限界成長社会」って何? まだあるの? 新古典派経済学の焼き直し?

  もう「限界」なんて訳のわからない言葉はいらないよ。

9.「新しい社会契約」「道徳的社会主義」?どこかで聞いたような・・・・・。

  妄想、机上の空論の類か。まあ好きなように、疲れるよなあ、無視が一番。

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などと言わないで、ゆっくりと考えていきましょう。 重要!!ダーウィン自然選択説批判

 日本人の思考特性は、他人(自然)に甘え、探求(合理性)を諦め、最後には物事を曖昧にしてしまうことです。処世術として生かせる面もありますが、今日世界と日本と人間の直面する困難を克服するには不十分です。「甘えない、諦めない、曖昧にしない」欲求と感情と理性を統合した心(好奇心、意志的感情、思考力)が、わたしたちの直面する問題の解決に欠かせません。

なお解答を早く知りたい方は、マルクスについてはここを、ハイエクについてはここをご覧下さい。

では、上記 1 から順に解答していきましょう。

1,「災厄」とは言っても

 人々の支持を得る思想や行動には光と影があり、この二巨人も影(災厄)ばかりをもたらしたのではなく、当然光(貢献)ももたらしました。すでに起こってしまった過去の歴史に「もし」はありませんが、もしマルクスという巨人が出現しなければ、ハイエクもいなかったでしょう。ハイエクの思想はマルクスに比較するといかにも貧弱です。マルクス嫌いに引き立てられた小巨人というのが適切な表現でしょうか。

 もちろん巨人マルクスが出現しなくても、ハイエクの嫌った社会主義や共産主義の理論と実践は、違った形で発展していたでしょう。しかしそこでのハイエクは、小巨人であるどころか心理学研究でつまずき反福祉によって嘲笑される小人で終わったことでしょう。

 さてそこで彼らのもたらした災厄については、もちろん彼らが手を下したのではなく、かれらの理論を信奉または利用した小人物達によってもたらされたものです。

 まずマルクス理論――後にマルクス・レーニン主義に発展します――がもたらした災厄としては、独裁者スターリンの粛正・強制労働が典型例ですが、カンボジアのポル・ポト政権による大量虐殺で頂点に達します。その他あげれば尽きませんが、中国・朝鮮その他のマルクス主義については、植民地独立に貢献した面も大きいと言えるでしょう。

 次にハイエク理論の災厄としては、①保守的な政治指導者に信奉され、弱肉強食と格差社会を現出させ、民主政治の成熟や世界平和を妨害してきた(イラク侵攻等)ことです。次いで、②現代社会における「成長の限界」(1972)に目を向けず、市場競争こそが人類文明の発展に寄与するという思想を拡大させ、地球環境の破壊を促進させていることです。さらに、③企業の社会的責任(CSR)が言われる中で、新自由主義者らしく労働者を犠牲にする利潤追求を肯定していることです。

 今日マルクス思想の災厄は限られてきましたが、ハイエクの災厄は後戻りできない致命的なものになりつつあります。

2.マルクスとハイエクの限界を超える、

 とは以下の3~7のすべてに関係することです。簡潔に言えば、西洋的思考の限界とそれにもとづく成長発展思想の限界を超えることです。具体的には「生命言語説」による認識論によってマルクス哲学の弁証法的認識論やハイエク哲学における自生的認識論(ヒューム・カントに由来する)を批判・克服すること、さらに経済学では、マルクス・ハイエクに共通したスミスに由来する市場原理主義(等価交換、契約合理主義)の批判、そして人間の意識や意図(主体性)を軽視する社会(文明)進化・発展論つまり歴史(文明)決定論の批判です。

 これらすべてを体系的に論じない限り、今日の閉塞状況を突破する道はありません。体系不信の人が多いようですが、人間や社会、そして人類文明の意義を総合的・体系的に論じない限り、マルクス、ハイエクの批判・克服は不可能です。それを可能にしたのが「生命言語説」なのです。

3.文明の被造物という意味に多少応用が必要ですが考えてください。

 マルクスについては次の引用を根拠にします。「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的にはひっきょうその造出物にほかならないものだからである。」(マルクス『資本論 序文』向坂逸郎訳)

 一言付け加えるならば、人間(個人)は、社会的な造出物であると同時に、未来社会を選択し創造する主体です。階級闘争的戦いを推進するのか、さらに望ましい社会とその主体となる人間を追究するのか、それが選択の分かれ目になります。

 ハイエクについては次の引用文を根拠にします。「人間が文明の創造物であることは、その人間の知識の中にだけでなく、目的や価値の中にもある。すなわち、これらの個々の願望が持続するか、変化するかを終局的に決定するのは、その集団あるいは種族の存続にとってそれらが適しているかどうかによる。もちろん、われわれの価値が進化の産物であると実際に理解しているからといって、それらがどうあるべきかに関する結論をひきだすことができると信じるのは誤りである。しかし、われわれは、こうした価値がわれわれの知性を生みだしてきたと同じ進化の力によって創られ、かつ変えられることを疑うのほ妥当ではない。われわれが知りうるのは、なにが善か、悪かを究極的に決定するものが個々の人間の智恵ではなく、「誤った」信念に固執してきた集団の衰亡によるということだけである。」(ハイエク『自由の条件 第二章7』気賀健三他訳)

 一言付け加えるならば、新自由主義という「誤った」信念によって地球環境の破壊が促進され、途上国の集団が混乱と衰亡に陥るとすれば、成長の限界を隠蔽しなければ成立しない新自由主義の存在が悪であると見なすのは、人間的な良識と的確な判断力(理性)を持つ人間の当然の知恵ではないでしょうか。

 また、「進化の力」という生命主体から離れた外的な力があるのでしょうか。人間の求める価値や目的は、人間の意識や意図、そして知性(思考力・創造力)のような人間の主体的な生命活動(適応活動)の結果ではないのでしょうか。人間の文明や価値は、決して「進化の力によって」受動的に創られたものではないのです。この意味の違いの重大さがわかっていただけるでしょうか。

4、「人間の意識や意図」をどのように解明するのか。

マルクスやハイエクの考える意識や意図の何が問題なのか。

 マルクスは、『経済学批判 序言』で「人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、社会的存在がその意識を規定する」と述べています。この命題の誤りは、動物と区別する人間の本質は、言語によって規定される意識的存在であるにもかかわらず、社会的存在が意識を規定するとしていることです。ヘーゲルが意識(精神)を生活から独立させた誤りを、マルクスが批判したのは正しいのですが、マルクスは逆に二項対立のままでこれを逆転し、「生活が意識を規定する」としてしまったのです(『ドイツ・イデオロギー』)。人間は意識的存在であるからこそ、生活(社会的存在)が意識を規定するだけでなく、意識は現在と未来の生活(未来社会)を規定・創造することもできるのです。→詳しく

ハイエクは、心理学を研究して(1952)行動主義を信じたものの、時代的制約もあって「最新の認知科学」を学べませんでした。その結果次の引用のような致命的な誤りを犯しました。

「私の見解は単純に要約できる。どう行動するかを学習すること[行動学習]は、洞察や理性そして知性の産物であるよりも、その源泉である。人は賢く、合理的に、そして善く生まれるのではなく、そうなることを教えられなくてはならない。道徳をつくったのはその知性ではなく、むしろその道徳に規制された人間の相互作用が、理性とそれに関連する諸能力の成長を可能にするのである。人間は学習すべき伝統――本能と理性のあいだにあるもの――があったから知的になったのである。ひるがえって、この伝統は観察事実を合理的に解釈する能力ではなく、それに応答する習慣から生じたのである。まず第一に、それは人にたいして、なにが起こると期待すべきよりも、むしろ一定の条件[自生的秩序]下でなにをすべきか、あるいはしないべきかを教えるのである。」(『致命的な思いあがり 第1章4』 渡辺幹雄訳 [ ]内は引用者)

 上の引用からわかるように、ハイエクは本能と理性という対立軸の間に、学習すべき伝統すなわち習慣や道徳を置き、これをブラックボックス化して、人間理性(認知・思考能力)では知り得ない「自生的」能力(観察事実に応答する能力)と見なした。そして人間はその「自生的秩序」(資本主義社会もそれにあたる)の下で「受動的に」対応(応答)する術を身につければよい、つまり、理性的認識や解決能力よりも、習慣的・伝統的道徳の行動学習から得られる解決能力(市場競争原理)に従うべきであると考えるのです。既成の道徳を超える、社会主義や福祉主義などのような主体的理性的、設計主義的合理主義など「致命的な思いあがり」と批判するのです。

 彼はいたるところで人間の「無知」を説教していますが、自分自身の無知さには気がつかなかったようです。彼の思い上がりは、マルクスと同様時代的制約と大目に見るにはあまりにも「害悪(災厄)」が大きいのです。かれらの考える「意識や意図」は、社会科学の前提として十分に吟味する必要があったのです。しかし、ほとんどの学者は「意識や意図」とは何なのかという認識論的問いよりも、ハイエクと同じく自生的秩序に身を任せているようです。無知の自覚は大切ですが、思い上がりは善くないですね。三毒追放!

5、「言語の創造的能力」とは何か。言語は単なる意思伝達の道具ではない。

 言語が人間にとってどのようなものであるかは、「生命言語説」によってはじめて体系的に解明されたので、疑問を持つのは当然です。願わくば自分の知的好奇心を働かせて「言語」について探求してください。「生命言語説」以外は、的確に言語の意義を全体的に示したものは存在していません。人間の認識や知識とは何かについて考える哲学的・心理学的認識論(認知理論)は、人間存在とは何かや学問・科学的探求の基本になります。しかし我々の知る限り、未だに世界に確立された理論仮説はありません。

 生命が複雑な環境の中で、どのように環境を認知し行動しているかを考察(何がどう在り、どう反応するか)すれば、認識論的疑問は氷解するのです。しかし、学会での成果をあせる学者にはその基本的な問題意識がほとんど在りません。認識論における言語の意義については、哲学、言語学、心理学、動物行動学などバラバラの研究が行われ、まさに「群盲、巨象をなでる」「木を見て森を見ず」の類なのです。

 さて、「言語の創造的能力」については、生成文法(generative grammar)と言われるチョムスキー文法が解明したように、言語は本来創造的(生成的)なもので、有限の句構造規則を変形して無限の文を生成・創造するというものです。文は意図や主張の表現ですから、表現されたものが理論・知識となります。この理論や知識の哲学的(人間的)意義を、「生命言語説」が明らかにしました。それによってマルクスやハイエクによって理解できなかった理性やイデオロギー、西洋的合理主義の意義や限界が明らかになったのです。詳しくは ここ そこ こちら をご覧下さい。 行動主義言語論と認知主義言語論の統一を図ることが、言語の謎の解明の鍵になります。Do you understand this?

6、「西洋的ユダヤ的思想と認識論の限界」?何を面妖な。

社会科学や経済学に、思想や認識論と関係あるのか?

 マルクスはユダヤ人ですが、ユダヤ教徒ではありません。マルクスにとって宗教は「民衆のアヘン」とする唯物論者です。ハイエクはウィーンのユダヤ人社会と関係が深くてユダヤ人とされたこともありますが、本人はユダヤ人ではないし一神教への嫌悪感をもっていると言っています(『ハイエク、ハイエクを語る』)。であるのに、なぜ「西洋的ユダヤ的思想と認識論の限界」という表現なのでしょうか。それは彼らにある歴史法則性と進化論への信仰(検証省略、読めばわかります)に由来します。ユダヤ教の聖書(『旧約聖書』)には、東洋思想には見られない強い預言者的権威主義が漂っています。聖書を読めばわかるように、そこに見られる基調は創造神を背景にした「人間主体性への不信」です。人間主体性とは、人間個々人の欲望や意志、理性、設計主義への不信です。

 彼らはともに市場の正当性、交換契約の合理性(等価性)を述べ、マルクスは市場の階級闘争後は共産主義の勝利があることを宣明し、ハイエクは市場の競争によって強者の支配する拡張した秩序(豊かな文明)がもたらされると考えます。彼らは、個々の人間の意志を離れ人間の歴史を貫く進化・発展の法則性を信じます。それらの思想の背景には「西洋的ユダヤ的思想」があり、彼らが設計した自らの思想の限界を超えられません。 彼らの人間観の背景は、『創世記』における「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」という創造神の個々の人間を越える言葉があります。 ⇒参照ここ

 また認識論についても、マルクスは弁証法的合理主義の限界を越えられません。ハイエクはデカルト的合理主義を否定するあまり、ヒューム的懐疑主義の限界にとどまりました。それ以上に、市場における強者のための自然選択に身を委ねることを、合理的に選択しました。そして、設計主義すなわちルネサンスにはじまるヒューマニズムや社会契約説、人権思想を実現しようとする社会主義や福祉主義を否定し、「致命的な思いあがり」によって言葉に呪いをかけるのです、預言者モーゼのように。

「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子ども達にもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとってむなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう。」(『申命記』32-46

7、「生命言語説」だって?聞いたことがない。珍説、戯れ言だろう。

今さら新説など興味ない。もっと単純に考えてよ。

 経済学等の社会科学は、まず人間とは何かを考え、その行動原理を明らかにしてから社会のある対象や側面を記述します。つまり人間哲学や倫理観が研究の基準になります。スミスであれば『道徳情操論』における利己心と同情心の調和、マルクスであれば唯物弁証法、ハイエクでは非合理主義的懐疑論等々です。しかしこれらの社会科学者達の人間観や価値観には、時代的な制約や西洋的偏見があります。

 上記3人で言えば、スミスは18世紀イギリス産業革命勃興期に活躍し、マルクスは19世紀資本主義の発展と労働者の貧困という矛盾が激化した時代の克服をめざし、ハイエクは20世紀前半の社会主義ソ連の成立と全体主義ナチスドイツの隆盛への危機感をもつ等それぞれの問題意識が異なります。共通しているのは、彼らがともに「西洋的思考様式の限界」の内で人間の本性を根本において捉えなおし、近代の楽天的な進歩と成長という背景を共有しながら、時代と社会の問題を解明しようとしたことです。

 しかし、21世紀は、地球世界という時代です。西洋(欧米)近代がアジア・アメリカ・アフリカを植民地化することによって繁栄した時代は終わりました。時代は世界の共存共栄を必要としているにもかかわらず、地球の資源を競争的に収奪し、環境を利用(破壊)できる限界を超えているということです(地球温暖化等)。今や人類は生命と人間の本質を解明し、他者を犠牲にして自己のみが繁栄しようとする時代を終わらせなければならないのです。マルクスのように「収奪者が収奪される」(『資本論』)とか、ハイエクのように「他者の利潤に対する制約」(課税?―引用者)を「剥奪の利己的な強要」とみなすような敵対を煽る発想は、もはや時代錯誤と言わざるを得ないのです。

 そこで、地球(生命)的思考の必要となった現代社会において、閉塞状況を打破する哲学的基礎になるのが「生命言語説」なのです。なぜか。それは「生命言語説」が、生命と人間の本質を的確に解明しているからです。生命言語説の前では、今までの西洋哲学や思想の殆どが実際的な意味を失います。まずは生命のこと、人間のことを考えてください。それが自分のこと、自分たちの未来のことを考え、現実を変えより良き未来を創ることになるのです。⇒詳細

8.「限界成長社会」って何?新古典派経済学の焼き直し?

 限界成長社会とは、拡大再生産(経済成長)が可能な社会ではなくて、資源・エネルギーの枯渇による世界経済の成長の限界と地球環境の破壊・気候変動によって、政治経済や社会の混乱、さらに資源の争奪やテロ・内乱・戦争が起こり、人類の平和的生存が脅かされる社会です。対策が不十分だと、このような世界が21世紀中にやって来ることが予想されます。 経済の発展と成長を前提とした経済学は、西洋の社会科学の学問体系とともにその根本から変革する必要があります。「限界成長社会」以外にもポスト資本主義社会とか、成熟社会とか、持続可能社会とか、縮小社会などと表現することがあります。前二者は、成長の抑制を余り顧慮せず、先進国の社会経済の変化を述べているに過ぎません。後二者は成長の限界の必然性を前提に、いかに過渡期に対応していくかを設計しようとしています。「限界成長社会」も後者に属しますが、常に不安定な成長の境界(margin)で、人間(政治)による経済(市場)の運営に配慮するのです。

 いずれの場合も宇宙船地球号の住人の平和の存続と持続可能な社会経済のために、「発展や成長」という考え方自体を見直す必要があるのです。多くの人が望む生活の豊かさ、便利さ、快適さを、多数の人びとの「犠牲」のもとに少数の人だけが享受できるというのは、社会を活性化しますが、それは同時に混乱と破滅を加速化させます。そのような反道徳的な人間の交換関係をこのまま続ければ、持続可能性はあり得ません。

 ここで使っている「限界」とは、限界効用説の場合と同じくlimit ではなくmargin です。これは「ぎりぎり」効用があるかどうか(の境界)を示す言葉です。同じく「限界成長」とは、成長ができるか、生産力の発展が可能か、拡大再生産できるか、それとも、縮小再生産、対立・混乱・滅亡しかないのかの境界、瀬戸際の社会を想定します。いずれにしても人類文明の選択の道は、連帯と分かち合いの道徳的経済社会以外にないのです。

 戦争の種をまくマルクスとハイエクの思想は、未来社会を展望できない過去の異文明の産物なのです。

9.「新しい社会契約」「道徳的社会主義」?どこかで聞いたような・・。

   妄想、机上の空論の類か。まあ好きなように、疲れるよ。

 一般に社会契約とは、近代西洋の啓蒙思想時代に、ロック(17世紀)やルソー(18世紀)によって提唱され市民革命を導いた思想とされています。その特徴は個人の人権と国家の権力の関係を社会契約によって説明したものでした。それはアメリカ独立宣言(1776)に見られるように、国家(政府)は、人間の持つ自由や平等の自然権を確保するために被治者の同意(契約)に基づいて組織され、政府権力を制約するものと考えます。

 この契約では、商品市場における市民的交換関係を規制するもの(民法や商法等)が、個人と国家との関係(法的・形式的・利己的関係)で考えられていても、個人と個人の関係(道徳的・互酬的関係)としては考えられていません。だから取引・交換における自由や平等が、諸個人の責任においてよりも、国法によって規制され守られているとしか考えられていないのです。国法に反しなければ利己的利益を目指して他人を犠牲にしてもよく、また双方の納得のもとで行われた交換は正義であり、さらに国法に反しても露見しなければ問題ないという反道徳的な交換関係が生じるのです。それを強化するのが、弱肉強食や競争原理、進歩発展や経済成長にみられる利己的イデオロギーなのです。

 アダム・スミス(18世紀)においては利己心と利他心は調和的であると考えていました。しかしヘーゲル(19世紀初)は、欲望の体系としての市民社会の経済活動が、矛盾(利害の対立)を含んでいることを見抜き、国家(と家族)の精神性において解決しようとしました。

「人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものでないから、人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し、これを無限的に追い続ける。ところが他方、欠乏や窮乏も同じく限度のないものである。この放埒な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。」(ヘーゲル『法の哲学』藤野、赤澤訳 「世界の名著」§185)

 ヘーゲルは、国家の成員である限り福祉政策の対象とするべきであると述べましたが、市民社会の民主主義(特に労働者の団結)が、国家を凌駕するところまでは見通せませんでした。マルクス(19世紀)も、個々の契約(市場原理)の個別性(不等価性・反道徳性)が、階級闘争の根底を支えていることは見抜けず、20世紀には ロシアという途上国で、革命家レーニンによる想定外の社会主義が成立しました。しかし、人間の本性と市場の有効性を無視した強権的な一党独裁の社会主義は行き詰まり、崩壊しました。その結果マルクス主義そのものも、ハイエクによって「殺される」ことになってしまいました。そのハイエクの批判の底の浅さも、人間とは何か、社会とは何か、契約とは何かという問さえ放棄し、人間の創造性や理性(設計主義)に対する徹底的な否定と懐疑を「理性的に」正当化しようとした「致命的な思いあがり」によって、矛盾と限界を露呈しているのです。

 そこで結論。

・・・・・・・・・・・・・⇒ 続きますが、結論を急がれる方は、ここ①、ここ②、ここ③を参照してください。

① この21世紀は、具体例を挙げるまでもなく、地球的規模で経済成長の限界がますます明確になっています。それにも拘わらず人類は目先の利己的利益や過去の信念に囚われて、争いを繰り返し欲望の抑制と分かち合いの社会経済を求めようとしていません。このような人類史的問題を解決するには、病気を治療するのにその症状と原因を知る必要があるように、問題の根源と解決法を知る必要があります。

 現代社会の物質的繁栄とその行き詰まりは、西洋起源の科学技術と成長発展を善とする思考様式の根本から批判的に克服する必要があります。つまり、人間の本質を明らかにすることによって、西洋思想の根源の積極面と消極面を明らかにし、東洋的英知を取り入れて、成長の限界や縮小社会における人類の共存共栄を図らねばなりません。そのためには「持続(維持)可能な開発(発展)Sustainable Development」という国際的に公認された概念だけでは不可能です。

「持続可能な開発」は、外務省によれば、「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」ということですが、現在と将来の世代の「欲求」についての定義も制約もなく開発をすれば、地球的限界が破壊されるのは明らかです。世界の指導者の意図は、経済的成長や発展そのものが問題の解決を意味するように方向付けています。彼らにとって地球上の資源やエネルギーが、人類共有のものであるという発想を避けようとしています。地球環境問題を考える一つの普遍的基準として認められている「Think Globally, Act Locally」というスローガンがありますが、 Act Locally(地域的に考えよう)という側面は強くても(「環境立国・日本」のように)、地球的、世界市民的共存共栄の発想(「宇宙船地球号」のように)は弱いように思われます。

 なぜそのように、世界市民的自覚がおろそかにされるのか。それは学者や指導的立場にあるもの達が、市民的自覚を恐れるからです。世界や民族の成員を操作(支配)の対象にしたいからです。その根本にはマルクスやハイエクを産み出した西洋的思考の限界があります。端的には、政治経済学に於いて、社会契約を市場や国家を通じた分配的正義だけでなく、人間と人間の関係を道徳的に制御する交換的正義の自覚まで高めることという意志がないからです。これが難しいことは言うまでもありませんが、今までの経済学の限界が明らかになれば、誰もがその原因と解決策を考えざるを得なくなります。その時が地球的危機の克服困難な段階となることを恐れマスが、まだ手遅れとは言えないでしょう。

② マルクスもハイエクも、ともに国家・政府を民主的に再編しようとした近代の社会契約説の限界(市場原理がもたらす災厄)をのりこえ、国家に依存しない市民社会(労働者または強者支配)の自生的秩序の発展を構想しました。彼らの思想は、諸個人の欲求や感情、利己心や支配独占欲の命ずるのにまかせておれば、社会の発展法則や自生的成長によって(「見えざる手」に支えられて)理想社会や均衡が得られると考えました。

 しかし福祉社会を改良主義的に実現することを拒否するマルクス・ハイエク的社会理論では、結局は、物質的に豊かで便利な社会(限界成長社会)となりますが、弱者・敗者の犠牲によって創られ持続する社会であり、個人、社会、国家間の抗争を助長し、社会の混乱と地球環境の破壊を早めるに過ぎません。両者の個人的な責任とは言えないまでも、マルクスにおいては階級闘争によって、ハイエクは強者支配の競争を推進することによって、人間間の対立と経済発展、そしてその結果として自然と人間の破壊を推進してきたのです(ソ連の自然改造や強制収容、アメリカによる温暖化防止の妨害やイラク戦争等々)。

③ 両者に共通する人間性は、愛や慈悲、正義や公正という道徳的感情の欠如または冷淡さです。これは単に彼らが人間と社会事象に対する決定論的な偏見(見えざる手)と合理的理性に対する不信(デカルト、ヘーゲル、社会契約への不信)に依拠しているからというだけではありません。社会を構成する人間に対する無理解を前提としています。

 マルクスにあっては弁証法的唯物論と言われる認識論、ハイエクにあっては 懐疑主義(相対的利己主義)がそれに当たります。詳しく述べられませんが、いずれも自らが生きている主体であり、生きるために理性(言語)を働かせなければならないという生命言語論の立場が欠落しています。つまり、自らは理性的に自らの(言葉である)認識論や哲学的立場によって、自らの欲望や感情をコントロールしながらそのことに気づいていないのです。マルクスの師とも言えるヘーゲルは、絶対精神や概念の自己運動を理性的に設定し、ハイエクの依拠するヒュームは、自己の無知さを認識の限界によって合理化したのです。結局、両者はともに生命と言語論の観点から、理性が何であるかを説明することができなかったのです。

④ そこで新社会契約説・道徳的社会主義では、個々の人間関係・利害関係・交換契約関係を重視します。つまり市民社会の利害の公正な関係と調和あっての国家であること、まずは市民社会の具体的交流・調整・協議を通じて、国家に市民社会の自由平等。社会的生存権(社会福祉)を保障させるとともに、市民相互の正義と公正を自主的道徳的に守ることが求められます。

 重要なのは、心の中で、自己と他者の関係を認識・洞察し、その関係の中に自己の存在の位置づけをすることです。今まで哲学者や思想家は、人間が自らを自然と社会の中に位置づけ、自己を世界の中の一員として自覚させる方策が見つからなかったのです。そのため民主主義がたんなる利己的要求と多数決の原理に矮小化され、社会的責任の自覚や公正さの確立の方策が忌避されてきたのです。

 地球上の全生命に対する人類の繁栄の否定的要因の増大と成長の限界、そして西洋的思考様式の偏見によって闇に閉ざされていた人類の言語的本質が明らかとなって、はじめて哲学や政治経済学などの人文科学の欺瞞性と決別し、共存共栄の新たな人類社会への展望が開けてきたのです。マルクス・ハイエク的な世界観つまり西洋思想の限界を超える条件が整ってきたのです。地球的危機という人類共通の課題が見えてはじめてそれが可能になったのです。

⑤ 結局、結論はやはり ここ をご覧下さい。

 21世紀の今こそマルクス・ハイエクコンプレックスを克服して、主流経済学の欺瞞性――利己主義と自由放任のもたらす社会発展、経済成長、市場の均衡、等価交換等――を明らかにし、近代科学技術と資本主義経済の負の遺産(地球環境破壊、貪欲と浪費、道徳的退廃、貨幣崇拝、格差・貧困の拡大)を是正革新し、正の遺産である経済的豊かさ(便利と快適)を有効に制御・活用するおそらく最後のチャンスです。

 人類は地球的経済成長の限界に直面して、欺瞞と浪費、汚染と破壊、侵略と略奪、情報操作と欲望肥大によって繁栄してきた、利己的利益追求の資本主義的拡大経済から、互助・互恵、分かち合いと友愛の持続的社会に向けて経済を縮小せざるを得ない段階に至っています。しかしこの段階は、すべての人びとが否応なしに人間性の本質を知り、社会参加と連帯、社会的責任と義務の遂行を迫られ、自己理解と修養に努めることによって、地上に生まれたことの幸福を享受できる社会の可能性が開けます。

                            世界連邦への道 をご覧下さい!!