輪廻・縁起・認識論批判

仏教の現代化・普遍化のための輪廻・縁起・認識論批判

◇ 釈尊(シャカ・仏陀)の欲求縁起論の限界

「867世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪(ムサボ)りは、欲望にもとづいて起こる」は正しい。しかし、「<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。」のではない。(引用文は中村元訳『スッタニパータ』から)

「世尊は次のように説いた。「では比丘たちよ、縁起とは何か。比丘たちよ、無明(無知)を縁(条件)として行(形成力)がある。行を縁として識(識知)がある。識を縁として名色(精神的存在と物質的存在)がある。名色を縁として六処(六つの認識の場)がある。六処を縁として触(接触)がある。触を縁として受(感受)がある。受を縁として渇愛(欲望)がある。渇愛を縁として取(固執)がある。取を縁として有(生存)がある。有を縁として生(誕生)がある。生を縁として老死(老いることと死ぬこと)と愁(憂悠)・悲(悲しみ)・苦(苦しみ)・憂(憂悩)・悩(苦悶)が生じる。このようにしてすぺての苦の集まりの生起がある。比丘たちよ、これが生起といわれる。

無明が残るところなく消え去り消滅することにより行の消滅がある。行の消滅により識の消滅がある。識の消滅により名色の消滅がある。名色の消滅により六処の消滅がある。六処の消滅により触の消滅がある。触の消滅により受の消滅がある。受の消滅により渇愛の消滅がある。渇愛の消滅により取の消滅がある。取の消滅により有の消滅がある。有の消滅により生の消滅がある。生の消滅により老死と愁・悲・苦・憂・悩が消滅する。このようにしてこのすべての苦の集まりの消滅がある。」 (『原始仏典Ⅱ 相応部経典第二巻』浪花宣明 訳 春秋社2012 p3-4 下線は引用者により、「十二縁起」を示す )

★ 釈尊の生命観の誤りの根本は、<無明>によって認識と欲望が起こり、生命の生起と老死の苦しみがあるという考え(十二縁起説)である。真実は、逆に、生命を維持しその欲望を充足させるために認識があり、その認識の結果として<無明>や<明知>という言語的知識が成立するというところにある。そして<快><不快>も、縁起説では欲望の原因となっている(上記引用)が、心理的事実としては、逆に、欲望を充足する過程的基準として<快><不快>の感情が反応として起こり、それが新たな認識や行動(欲望充足)の原因となるのである。従って、「新たな認識や行動」は、新たな欲望を生み出すけれども、その根本原因はあくまで起動因としての欲望であって、<快><不快>という感情は大脳中枢における反応なのである。つまり、欲望と快・不快の関係は、欲望が原因となって快を求め不快を避ける認識とその結果としての行動を導くのである。たとえば、食欲が起こり食事が美味しければ(快)、さらに美味しいものをとの欲望が起こり、美味しくなくても(不快)、次回は美味しいものをとの欲望が起こるのである(ともに欲望に執着する)。

「870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起こらない」(『スッタニパータ』)

★ さらに、上記の引用文は、欲望と関係づけ、快を求め不快を避けるように接触(感受)しているという場合は正しい。しかし縁起説としては、「感官」があって「接触」が起こり、物質的存在を「感受」することになっているので、物的存在(環境)と生命主体(欲望)との「相互関係(縁起)」が捨象されてしまう。つまり、多様な環境の中で、生命は個体維持のために、不断に感官による接触をしているのに、「感官による接触が存在しない」ことはあり得ないからである。おそらく釈尊は、「感覚と感情の制御」を指摘されたいのであろうが、現代科学はこの制御を心理分析とカウンセリング、教育と自己省察等々によって可能とするのであろう。また環境との接触の中で、特に不快な事象を感受しなければ、自覚しなくとも<快>の状態であることはいうまでもない。

世界の現象や人間の心(欲望・感情・言語)を、関係性(縁起)として捉えることは正しいが、古代インドの釈尊が捉えた具体的関係性になると「輪廻思想」や「十二縁起説」のように、現代の科学的知見からその誤りを認め克服せざるを得ないのである。

*<十二縁起説>とは 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死


■ 釈尊の縁起認識論と大乗の「空観」の限界

「872 名称と形態に依って感官による接触が起こる。」 (『スッタニパータ』)

★ 「名称と形態」とは、名前(言語記号)と現象(物質的対象)であるが、インド・仏教思想において、言語をどのようにとらえたかは、現代思想として対応できるかどうかの試金石となる。ヴェーダ讃歌においては、言語はヴァーチュという女神であり、宇宙の根本原理の地位に高められている。例えば 「われ(ヴァーチュ)は財宝を集むる支配者なり。賢明にして崇拝すべきもののうちの第一人者なり。 われは、万物を把握しつつ、風のごとく吹きわたる。天のかなたに、地のかなたに。われはかくばかり偉大なるものとなりたり」(『リグ・ヴェーダ讃歌』辻直四郎訳)のように。

しかし、言語が神に祭り上げられて以降(西洋と同じように)、ウパニシャッド哲学においても釈尊においても、言語を認識や論理の根源として、また人間の心を操る力(刺激)として考察するよりも、言語を抽象的対象(記号)や表現手段として平凡に考える傾向があった。釈尊は上記872の見解をいたるところで述べているが、これは言語表現(刺激─単語や文の記号)が直接的知覚や間接的想起をもたらし、物的知的対象への欲望や執着を引き起こすという認識論を述べたものである。釈尊は言語表現(記号)が欲望を喚起することを見抜いていたが、自己自身をも制御することを見抜くことはできなかった。これは後世の仏教そのものの発展を戯論(言葉遊び、空観)の方向へ歪めたが、仏教に限らず人類の自己認識(言語認識)の限界を示すものでもあった。

大乗仏教の「空観」を追求した龍樹の『中論』においても、言語論理の意義(対象の正しい表現─正思・正語)を形而上学的に悪用して、ただ無分別(直観)知を論証するために、対立物を曖昧化し、論敵(有・実在論者)を混乱させるだけの言葉の遊戯(超論理・戯論・詭弁)に陥り、論理実証的に「空」を究めることはできなかった。人間の言語や判断・論理の意義を無視した縁起の分析は、常に内容のない「空論」陥らざるを得ないのである。(参照言語論

『中論』においては、現象の変化や運動が存在せず、認識も成立しない(空)ことを示すために、「帰謬法」を用いる。しかし帰謬法は数学的に厳密な証明としてなら成立するが、背理を恣意的に仮定することが可能な命題においては証明法としては厳密性を欠き言葉の遊戯に陥る。そもそも言語は、対象を認識し表現する手段であり、その表現(概念と命題)は、厳密には主観的なものにすぎず、平均的にしか客観性がないのだから、言語の定義を無視して運動や認識等の不成立(空)等を論証できることなどあり得ない(数学は厳密な公理の上に成立している)。

「唯識」思想は心の構造と働きを追求し、自我(末那識)や無意識(阿頼耶識)の存在を見いだしたが、心(欲求・感情・思考)の動きや無意識を自覚し統御する「言語の働き」を明らかにすることはできなかった。人間の心は、欲求や感情を伴って対象を認識し、それを言語によって再構成し評価する。言語の役割は単に対象を記号化(命名)するだけでなく、自我(主体)と対象の関係を構成(創造)して自らの行動を評価し合理化し方向づけるのである。これが「言語を媒介した人間の認識」の真実であって、今日にあって言語を媒介せずに認識論を確立できることはあり得ないのである。

従って、上で見たように、釈尊が分析した苦の生起と苦からの解放の縁起(集諦と滅諦)は、論理としては成立しても、生命主体の生存欲求と感情(苦楽)の因果関係への分析がなく、言語不在の認識論にもとづいており、科学的事実としては正しくはない。それではどのような持続的・不変的(普遍的)な心の平安・幸福への論理が考えられるであろうか。そのためには「言語を持つ生命としての人間存在」という観点から仏教の限界を超える以外にないと思われる。

726-7 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永い間このように輪廻してきた。しかし明知に達したいける者どもは、再び迷いの生存に戻ることがない。(『スッタニパータ』)

★ 釈尊にとって、無明が苦しみの根源であり、悪である。いかにして無明を脱し、明知に達するか。それを知るためには、まず、人間的知識の根源である言語について知らなければならない。釈尊には、認識について矛盾する二つの見解が併存している。それは「諸行無常 諸法無我」を良く分別して明知(法)を得ることと、分別を執着と煩悩の原因と考えて、これを止滅しようとすることである。その結果(原因とも考えられるが)、知識(法)の相対化が不可能となり、縁起自体を絶対化(空化)することになってしまったのである。

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