ヴェルテウル・シュテック・レヴァーニ
ヴェルテール、またはヴェルテウル・シュテック・レヴァーニ・エルシュティックノーハイト(ユナ・リパライン語:Devani'e valtoal fon devalva xturga velterl、フラッドシャー語:Velteal Shtek Revani elshtiknoheite)は、フラッドシャー人の哲学者である。視野主義的古教法学のアレステーゼ化を通して、サルドムリレーン学派的な認識論を元に思想を組み立てていった。これらの思想は近代的な思想の原点となり、近代市民社会の成立に強い影響を与えた。思想史学ではユナ語の神聖名称に使われているヴェルテール(velterl)で呼ばれることが多い。
経歴
ルティーセ詩学院で伝統的な詩学を学びながら、新クローマ主義の潮流に乗って古典的な哲学の復興を目指した。これによって、ヴェルテールは多岐に渡る近代的思想の基礎を展開し、以降の思想家に多大なる影響を与えることになる。30歳から著書を書き始め、詩学院での講義録などもまとめ始めた。
思想
発展的概念と現状認識
視野主義的古教法学のアレステーゼ化を通して、人間の視野性を元にそれ以前に実在する視野性の生じるところとしての「主体」(cilylista)を見出す。また、フィメノーウル哲学の観点を基礎として、「フィーマスタ」(firmasta)の集合体としての主体とそれ以外の区別が行われる世界を前提とする。フィーマスタのエントロピーの最大化によるアルセウンテン・フィーマへの世界の動き自体が「世界の善的志向性」(unde’d ple lartenezza)を持つ。しかし、人間の世界は負を生み出し続けているという矛盾が存在する。
未完の歴史と既完の歴史
世界の善的志向性という歴史観が「既完の歴史」(lirsesen philifiar)であるなら、人が実際に生きている行程は「未完の歴史」(neftilienen philifiar)である。人は完了した歴史からしか何かの意義を言うことは出来ないが、実際に生きているのは未完の歴史である。人類の歴史も生から死までの人の歴史を引き継いでゆく未完の歴史の繋ぎ合わせでしかない。このために世界の善的志向性ということ自体は今この時を生きる人間にとっては負を取り除く要素にはなりえないのだ。ここから「歴史の無意味性」(philifiar’d la nefsuitennasch)が見いだされる。この思想が視野主義を採用するのはこの原則に拠るものである。
人間の本性
主体は主体の行為ではなくして、この世界に投げ出された瞬間から、「発生」(volesel)と「自然」(xyfoatost)という「他性物」(la etili’a)が伴う。他性物は主体以外の全世界の全てである。他性物はそれ自体では視野性を持ち合わせない全であるために主体のように動くことが出来ない。このため弱者である他性物は、措定される「神」(irfel tonir)という存在によって、主体に賭けられるという形で主体にまとわりつき、その結果「私」(irfel mi)が生まれる。これを「誕生」(lidysto)と呼ぶ。私は賭けられたものに答えることによって人生を成就していく。このため、人間が善く生きるということは「賭けられた他性物」という神から課された宿命に真剣に臨むこと(決意、tractorvo)なのである。
死の刻印と魂
死は主体の行為ではないだけでなく、主体の消滅でもない。(羊皮紙の)書き損じを削るという行為は、削るという時点で書かれていたものが世界の中では肯定され(何故なら存在肯定されなければそもそも削られないからである)、削られた場所が新たな局面として現れるという二面性として現象する。書かれることによっても、削られることによっても、世界の中で肯定されるならば、実存はもはや否定し得ない。これが人の殺害を原理的に不可能であるとする「刻印」(uluvo)である。こうした原理によって主体の性質である「魂」(nult)が見いだされる。
間主体性と無限戦争
私は決意を抱き、また他者である私も決意を抱く。この二人の間で発生の他性物において宿命が相克する場合がある。なお、自然の他性物では他者との間に相克は生まれない。何故なら、自然は完全に予測不可能であり、誰にも所有されないために偶然に現れて、発生の他性物へとすぐに還元されるからである。この相克が闘争の根源であり、また主体(cilylista)の間(-isi’a)の性質(-nasch)としての「間主体性」(cilylistavisi’anascho)の根源である。このように対話というのは本質的に暴力的なのであるが、その対話が激化したものが「戦争」(elm)である。しかし、暴力によって主体は滅されることはない。何故なら、主体は魂であるがゆえに不滅であるからである。これゆえに私たちは「無限戦争」(nodelm)に動員されている。
無限戦争の解決
間主体性を統御することが無限戦争を解決する案である。これは人々の間で間主体性を統御させる装置として議会や国家というものが考えられる。このような議会や国家を十全に運営するために民間議会・法律統治・最高尊厳(vasprard)・私財保障という考え方が生まれる。民議によって対話を制御し、整理し、実現へと導く、こうして実現へと導かれたことを適切に実行するために法治を徹底する。また、基礎的な間主体性の保障のための最高尊厳と私財保障を導入することで無限戦争は終了へと向かう。このようなことを基盤とする会議を設置し、お互いを一人の自由人として取り扱う機構を元とし、その機構の上に地方自治装置、国家装置、国家間装置、国際装置を実装することでこれらは実現できるのである。
義務教育の提唱
そして、これを維持するためにアカデミス(akademic)とブラーデン・アルヴェクトゥス(BA)という伝統的な概念を率いて乗り越える形で公教育を提唱していく。
著作
dirawirnglergeranasch arlefi'ar'd alestersergili'avosti(1333年)
『視野主義的古教法学のアレステーゼ化について』
lirsesen philifiar ad unde'd ple lartenezzasti(1340年)
『既完の歴史と世界の善的志向性』
larta'd cirla ol jisesno'd nefesykinaschosti(1344年)
『人間の本性、または死の不可能性』
latirnonasch fonti'avosti elmi'esm(1351年)
『哲学的戦争批判』(講義録)
ditiernasch letisen celasti fon la cilylistavisi'anasch(1363年)
『間主体性の社会的制御機構』
akademice'd delususti fon icco'd cela(1366年)
『国家機構におけるアカデミスの必要性』
(1369年)