漱石の祝辞は自作自筆か 黒本 植代筆説

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(五高創立10周年記念式典,漱石,自作自筆問題,黒本 植,鹿子木敏範)

前稿で「新屋敷に住んだ頃の漱石」について紹介した.この間の漱石の動きが,後の「草枕執筆」や「祝辞問題」に深く関係があるからである.

漱石は,明治29年6月に第五高等学校に赴任,結婚,教授昇進,転居と慌ただしい日を送り,明治30年の新年を合羽町(坪井)で迎えたが,学生の面倒見がよかったためか大勢の年始客が押しかけ,その対応で苦労した.新学期には,正岡子規あての書簡(明治30年4月23日付け)で,「・・・・教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり.換言すれば文学三昧にて消光したきなり」と書送っている.同年の6月末に実父が亡くなり,7〜8月は東京で過ごし,9月初旬に単身熊本に帰り,留守中書生によって移転をすませた大江村(新屋敷)の家に移っている.ひと月後には,第五高等学校創立10周年記念式典(10月10日)において,教員総代として(子規への手紙からは想像し難い国士然とした)祝辞を読んでいる.

祝辞

本日本校創業ノ記念日ニ当タリ我等モ聊カ所感ヲ述ベ并テ諸子ニ告ゲ以テ今日ノ祝詞トセム夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和塾ハ育英ノ大本タリ師ノ弟子ヲ 遇スルニ路人ノ如ク弟子ノ師ヲ視ル泰越ノ如クンバ教育全ク絶エテ国家ノ元気沮喪セム諸子笈ヲ負テ斯校ニ遊フ必ス当ニ校舎ヲ以テ吾家トナスノ覚悟アルヘニナ リ若然ラス〆放逸喧擾妄ニ校規ヲ紊乱セバ我其心ト学校トノ間白雲千里ナルヲ見ル而巳夫レ自天人一體他無別ト言ヘリ斯クナラデハ学校ノ隆盛ハ期シガタキゾカ シサレバ此記念日モ往シ昔ノ忘形見ニノ〆一日歓楽ヲ盞スモ盆此ノ校ヲ光大ニ〆皇恩ニ報イ奉ラントテナリ況テヤ国家岌トノ時ナリ濫費ノ日ニ多キハ内憂ナリ強 国ノ隙ヲ窺フハ外患ナリ恩ヲ茲ニ至レハ寝食モ安カラス「ナリ殊ニ薄志弱行ノ徒ハ人ノ色ヲ見テ移リ利ノ多少ヲ聞テ走ル恰浮雲ノ如シ豈浩歓ノ限ナラズヤ諸子能 こ此ニ眼ヲ着テ規則遵奉校友相和シ孜こトシテ学ヲ勉メバ唯本校ノ面目ナルノミナラズ亦国家ノ幸福ナリ諸子今学生タリト雖モ其一言一動ハ即国家ノ全局ニ影響 スルナリ佐久間象山我四十ニ〆斯身ノ天下ニ関スル「ヲ知ルトイヘリ象山ノ人傑ニ〆始テ然ルニアラズ中等ノ人士モ然リ下等ノ匹夫匹婦モ亦然リ即チ学校一致ノ 観念ナキハ其校全体ノ破綻ニ〆亦国家教育ノ陵夷ナリ懼テ戒メザルベキンヤ是ヲ祝規トス諸子之ヲ諒セヨ

明治三十年十月十日

第五高等学校教員総代

教授 夏目金之助

句読点を付けた祝辞(五高記念館公開のPDFファイルを利用)

この祝辞は,当時の漱石の国家の官吏としての使命感を吐露したものとして重要視され,その原文は現在も校宝的な資料として熊本大学の金庫に保存されている.昭和37年,学制発布90年記念式典(両陛下隣席)の際に,複写版が記念品として列席者に贈呈された.当時,池田首相の五高時代の同級生で同首相の下で文部大臣となった荒木万寿夫氏(大正11年卒)が本田学長に頼み実現したと聞いている.

ところが,昭和54年,「祝辞」は漱石本人の文章でもなければ,自筆でもないという見解が五高出身の鹿子木能範氏(1921-2002)によって日本病跡学雑誌に投稿された.当時,熊本大学体質医学研究所気質学教授であった鹿子木氏は,数多くの資料,文体などを丹念に比較解析し,漱石の同僚であった黒本植(たつ)氏の文章,筆跡であると結論した.「祝辞」だけが他の資料にそぐわない不協和音を放っていること,筆跡も多くの点で黒木植氏のそれと一致することを根拠にしている.祝辞の内容も式典の半年前に子規に書き送った「作家への転向願望」等と当時の社会背景に沿った教育論とは整合性がないと結論している.

鹿子木氏は,筆者の従姉の夫君であることから,「祝辞」問題を取り上げ難い面があったが,漱石に触れるためには避けては通れない.「祝辞」代筆説は,当初から五高関係者の間に存在したが,昭和52年松本雅明氏の「自作自筆」声明で一応の決着をみていた.鹿子木氏の系統的な研究結果に基づく「黒木氏発案・代筆説」に対して,支持する研究者も居る一方,江藤淳氏や五高同窓会等からは非難や反論があった.

学会誌だけではなく,「熊大だより」等にも研究結果が紹介され,退官時にも寄稿されたのを記憶している.熊大在職中に,所属研究室の久野拓造教授が「鹿子木教授が妙なことを言っている」と云っていたのを覚えている.直感的に話の内容が想像できたので,それ以上の話は避け,「私は鹿子木教授と縁続き」であることも言わなかった.「妙なこと」とは「漱石祝辞」を指していたのは間違いない.注)当時,鹿子木,久野の両教授共,同人誌「日本談義」や地元新聞に投稿するなどの文筆活動を行っていた.日本談義:荒木精之氏が発行していた地方雑誌.

鹿子木氏は,熊本大学退官後,桜が丘病院理事長として活躍された.その間,「代筆説」をいったん支持した漱石研究者の中に軌道修正する人も現れた.著作集「落葉集」では,その後の反論,疑問に答えるべく,新しい調査資料を加えた48ページにおよぶ「漱石の祝辞」の章(467-514頁)を設け,さらには「熊本時代の漱石」,「義理と漱石」,「漱石病跡論考」の各章においても「祝辞」問題を意識した記述を加えながら,確信に満ちた論述を展開している.中でも「熊本時代の漱石」(515-563頁)に掲載されている資料群は「漱石の祝辞」の補強資料的存在と言える.

鹿子木氏の研究内容を詳細に説明することは不可能であるので,ここでは「漱石の祝辞」の章に記述されている「論文の要約」のみを紹介しておきたい.

論文の要約

明治三十年十月十日,第五高等学校開校第七回記念祭の際漱石が読んだ祝辞は,校宝視されて記念碑にも刻まれており,また,江藤淳氏らが,当時の漱石は「国家の官吏」としての使命感に駆られていたとみなす論拠となっているが,実はこの筆者は漱石ではなく同僚の黒本植であることを立証した.またその文章に関しても,発想と表現に黒木色が強いことを例証した.この結論は漱石を傷つけるものではなく,むしろ上記のような憶測からの解放と,むりに合理化された漱石感の是正に役立つものと思われる.

著作集がまとめられた平成11年(1999)時点で,「代筆説」を受け入れた漱石研究家の氏名が記載されているが,五高同窓生や一般の人達に受け入れられているか分からない.「自作自筆」の方が都合のよい人達の方が多く,そっとしておいて欲しいというのが本音かもしれない.

参考資料

・7月の帰京した際,夫人は流産している.9月帰熊後,留守中に端漕部員の遠征先での使い込み事件が起こっていたため,その解決にあたっている.

・漱石の祝辞:五高記念館第三室 合成音声(途中省略)

句読点付きのPDFファイル ダウンロード

・鹿子木敏範氏の論文について

タイトル名 「漱石の祝辞」について―はたして自作自筆か―

著者 鹿子木敏範

投稿雑誌名 日本病跡学雑誌 (17): 25 -46 1979(メディカルオンラインで電子版を有料ダウンロード可能),「熊大だより」の62.3にも発表している.

・鹿子木敏範著作集「落葉集」ー癒しと時代の心 1999 著者 鹿子木敏範 発行所 医療法人 桜が丘病院 監修 原田正純

・筆跡については,黒本氏の自筆資料(龍南会雑誌,旧五高関係資料および金沢市立図書館「稼堂文庫」および子孫所有資料,履歴書,書軸)と漱石の自筆資料(旧五高資料中の教務関係資料,福岡県・佐賀県中学校英語授業参観報告書,子規に送った句稿,書簡)を比較解析し,結論を得ている.文体については,祝辞の文章を逐一検討し,漱石と黒本教授の両者の著述中の表現を比較した結果,祝辞には漱石の他の文章には稀で,黒本文書にはしばしばみられる表現がかなり存在することを明らかにしている.

黒木植が書いた「寄宿生殴打事件」報告の筆跡は,漱石が読んだ「祝辞」の筆跡と最も似ていると書かれている.

(2015.1.24)