新屋敷(大江村)に住んでいた頃の漱石

(大江村,新屋敷,草枕,小天,五高祝辞の真相,俳句,自作自筆問題)

11月4日,亡母の17回忌の法要を岳林寺で行った後,天水町小天(現在は玉名市,南側は熊本市西区河内町)にある那古井館へマイクロバスで移動し,会食した.小天の那古井館を選んだ理由は,NHK朝の連続ドラマの影響を受けたわけではない.長姉の友人であるルーテル教会の牧師が小天の郷士の子孫であるため,その旧邸を訪ねてみようと,かねてより思っていたからである.

往路は,本妙寺山の中腹を通り,峠の茶屋経由の県道1号線を走ったが,県道101号線との分岐点以降は秋の山谷が蜜柑に埋め尽くされ,見るものすべてがオレンジ色に染まる様は実に見事な光景であった. 河内町と天水町の境界を過ぎた付近から県道1号線に別れを告げ「草枕道」へ左折し,海に向かって標高210メートルの丘陵を駆け下りると草枕交流館,前田家別邸,那古井館は直ぐである.

「草枕」の那古井の里は架空の地名で,今の天水町小天であり,明治の文豪夏目漱石が訪れた温泉の地として知られている.明治39年(1906)に発表された『草枕』は,この那古井の里での夏目漱石の体験を題材に書かれた.那古井の里には,自由民権運動の闘士,第1回衆議院議員であった前田案山子の別邸があり,当時,別邸の一部は同士のために温泉宿として開放されていた.明治30年(1897)暮,当時第五高等学校教授であった夏目金之助(漱石)は,熊本での2度目の正月に,友人と前田家別邸を訪れ,離れに宿泊した.

現在,那古井館前にある句碑の「温泉や水滑らかに去年(こぞ)の垢」はその時詠まれた句であり,「草枕」の第七段に,白楽天の「温泉水滑(みずなめらかにして)洗凝脂(ぎょうしをあらう)」という句が登場する.温泉に入るとき,いつも白楽天の句が頭に浮かび愉快になると書いている.

漱石は熊本滞在中に6回転居しているが,那古井(小天)へ出かけたのは,三番目の大江村401番地(新屋敷)の家に住んでいた時(明治30年9月~同31年4月)である.家主落合為誠の留守宅は,桑畑に面した閑静な場所に在り,五高生の書生二人と女中の5名で暮らしていた.

注)現在の熊本市中央区新屋敷1丁目−16,サーパスシティ新屋敷一番館の建物の北東角付近,

当時の家は昭和47年水前寺公園隣に在るジェーンズ邸内に移設されている.

現在の地図では,熊本城側からは大甲橋を渡るとすぐ左側付近である.当時は大甲橋はなく,大正3年市電敷設時に架けられた.

注)落合為誠(ためのぶ),漢詩人,号は東郭,東大卒業後,七高,五高の教授を経て宮内省に入り,大正天皇の侍従を務めた,

明治22年頃の熊本市 当時は,白川の橋は子飼橋,明午橋(明治3年),安政橋,長六橋しかなかった.本庄村へは「渡し」を使っていた.新ヤシキの対岸に県庁がある.現在は白川公園

結婚後2回目の正月というのに,夫人を大江村に残して,友人と小天へ出かけたのはそれなりの理由があった.

漱石は,明治29年6月に第五高等学校に講師として赴任,結婚,教授昇進,転居と慌ただしい日を送り,結婚して初めての正月を合羽町(坪井,第二旧居)で迎えたが,学生の面倒見が良すぎたためか大勢の年始客の対応で大変苦労している.

「五斗米を餅にして喰ふ春来たり」

「元日や蹣跚(まんさん)として吾思ひ」 蹣跚 よろよろと歩くさま

「元日や吾新たなる願あり 」

明治30年 6月,父直克がなくなり,7〜8月は東京で過ごした.9月10日に単身帰熊し,大江村(新屋敷)へ転居している.ひと月後の10月10日には,第五高等学校創立10周年記念式典において教員代表で祝辞を読んでいる.この間,留守中に起きた端漕部部員の遠征費使い込み事件の始末なども行っている.

「南九州に入つて柿既に熟す」(九月十日熊本着)

「月に行く漱石妻を忘れたり」(妻を残して独り肥後に下る)

「今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる」

夫人は十月末に帰熊するが,大晦日に正月の喧騒を避けて,山川信次郎と小天温泉へ出掛けている.

新屋敷の家を出て,師走の冷たい雨の中,明午橋あるいは安政橋を渡り,熊本城下を通り,段山,島崎をへて,鎌研坂を登り,峠の茶屋,野出,小天へ至っている.句(後述)から判断すると峠では雪になっている.

この行程(19km,経験者によると徒歩7〜8時間)は夫人同伴では無理だっただろう(近くの島崎に住んだ経験から).漱石が辿った旧鎌研坂は,荒れ果てた姿で新道に交叉 する形で残ってはいるが,鞍を付けた馬ならともかく,人力車が通れるような道ではない.

明治22年熊本震災調査時の地図(島崎ー鎌研坂ー峠ー嶽ー野出ー小天)

前田別邸の離れに泊まった際,「かんてらや 師走の宿に 寝つかれず」 という句を詠んでいる.一人残してきた夫人のことを気遣う漱石の複雑な心情が垣間見れる句とされている.夫婦同伴ではなかったのは,その前後のことを考えると夫人の健康上の理由(流産,神経症)と思われる.

小天で迎えた正月前後,20句以上の句を詠んでいる.

「家を出て師走の雨に合羽哉」

「降り止んで蜜柑まだらに雪の舟」

「温泉の山や蜜柑の山の南側」

「旅にして申訳なく暮るる年」

「温泉の門に師走の熟柿かな」

*「うき除夜に壁に向へば影法師」

*「かんてらや師走の宿に寐つかれず」

*「酒を呼んで酔はず明けけり今朝の春」

*「甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地」

「元日の山を後ろに清き温泉」

「温泉や水清らかに昨年の垢」

その他

上記の句を,正月明け(明31/1/6)に正岡子規に送っているが,高濱虚子には評価されていない.

虚子の回想録「漱石氏と私」によると,漱石から明治31年1月6日の日附の手紙を貰っている.手紙の住所は,熊本県飽託郡大仁村四百一番地と書いているが,大江村のことである.手紙には,「其後不本意ながら俳界に遠ざかり候結果として」ご無沙汰したことを謝し,肥後小天温泉で越年したことにふれ,大晦日の4句(回想録では*印)を書き送っている.

虚子は,「漱石の熊本での生活の詳細が分からないが,俳界から遠ざかったとあるのはどういう原因があったのだろう」といぶかっている.さらに,「手紙の俳句はどれも皆面白くない.当年の氏の俳句は決してこんなにつまらないものではなかったと記憶する」と書いている.

二ヶ月後の明治31年春,虚子への手紙(3月21日付)には,「俳境が日々退歩し,昨今一句も読んでいない」とスランプをほのめかしていている.句を読む余裕はなかったと思われる.同月,家主の落合為誠が大正天皇の侍従職を終え,帰住することになったため,大江村(新屋敷)の家から明午橋傍の井川渕の家へ引っ越しを余儀なくされ,新学期を迎えている.

大江村での生活は,漱石にとっては心穏やかではなかったと思われる.

前年の春,子規あての書簡(明治30年4月23日付け)で,「・・・・教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」と書送っている.この間,「教師であるべきか」or「物書きになるべきか」と迷いながら,同年秋の五高開校記念式典(10月10日)では,教員総代として「国士然」とした国家官僚的?祝辞を読んでいる.

一方,相次ぐ転居を経験した夫人にとっては,大江村での生活は,内坪井町(現存する第5旧居)の次に気に入っている(夫人,女中,書生と撮った写真).4番目の明午橋傍の井川渕の家では,夫人の投身自殺未遂が起こっているが,漱石のその後の対応がよかったのか,明治32年には,次の転居先の内坪井町の家で,長女が誕生している.

漱石の句の中に,大江村(新屋敷)については「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」の句(明30/12/12,子規へ送付)があるまた,端艇(カッター)部の顧問を務めていたこともあり,水前寺や江津湖などの自然に親しみ,「ふるい寄せて 白魚崩れん 許(ばか)りなり 」「しめ縄や春の水湧く水前寺」「上畫津や青き水菜に白き蝶」,「 湧くからに 流るるからに春の水 (明治31年)」の句を残している.

虚子に酷評された句は,後に発表した小説「草枕」の取材メモのようなものと考えれば存在感は在るのではないだろうか.「祝辞代筆問題」,「草枕絵物語」については稿を改めて紹介したい.

参考資料

・草枕について:草枕 - Wikipedia

・鎌研坂について:観光案内等で「鎌研坂」と書かれているのは,戦後造られた新道であり,漱石の登った旧道とは交差するが,まったく趣を異にする.旧鎌研坂は,最近城西校区の人達によって整備された.[記事]

鎌研坂への島崎道は,上記の明治震災地図(概念図)に書かれている荒谷への分岐点や道の曲がり具合等を考慮すると,栗山を通る道(途中に霊樹庵や西の武蔵塚等がある)の可能性よりも,叢桂園,釣耕園,紙屋橋,岳林寺等を経る谷間の麹川沿いルートを経たと考えられる.その場合にしても,荒尾橋(バス停)よりずっと手前で鎌研坂の登り口へ向かう道を辿ったと考えられる.戦後,城西小学校,西山中学校の「河内みかん狩り遠足」では三軒屋,栗山を経て鎌研坂を登った.

・国土地理院地図(電子国土Web)には旧鎌研坂のほとんどが描かれている.地図リンク

次の経度緯度をたどる道筋である.

(32.81384 130.669474)ー(32.813935 130.668374)ー(32.81435 130.666899)ー(32.81472 130.665885)ー(32.815592 130.663222)ー(32.816043 130.66202)ー(32.81703 130.661097)ー(32.818518 130.659579)

・漱石は,玉名温泉,山鹿温泉,内牧温泉を訪れている.

高浜虚子 漱石氏と私 - 青空文庫

(2015.1.19)