林 清五郎先生

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私は小学生の頃から機械いじりやラジオの製作等が好きで,それ以外のことは何時でもできると思い,学習内容にバランスを欠けていた.中学は実業高校へ進学する生徒が多い地区に在り,職業教育指定校であったため,「職業家庭」では算盤を教えることに異常な熱意が感じられた.ところが,私は大の算盤嫌いで「商業家庭」の評価はクラスで最下位の点数をもらった.そのため,職業家庭の教師から「普通高校でも一科目でも最低点があると合格できない」と言い渡された.幸い入学できた高校の部活では,弓道同好会(進駐軍がクラブ活動と認めなかった)と物理部に所属し,ここでも仲間とラジオやアンプ(ステレオ再生の初期)に熱中し,化学や生物の勉強は興味がわかず好きではなかった.

しかし,父が開局薬剤師であったため,仕方なく薬学部へ進学したが,そこで教えられる学問は板書されたものをただ覚えるだけで,物理学的要素は殆ど無くつまらない学問という印象が強かった.薬学教育(当時1年次から薬学専門教育が開講されていた,本方式は現在では当り前になっている)に失望しかけていた2年生の夏休みに,姉が林清五郎研究室(製薬化学第一研究室)出身であったこともあり,林先生の下で合成実験を体験させてもらった.今様に言えば,early exposure(早期体験)である.ベンゾキノンにエチレンイミンを1,4-付加させ,引続き酸化銀でone-pot処理するという実験であったが,文献通りにしても目的物(2,5-di(aziridin-1-yl)cyclohexa-2,5-diene-1,4-dione)が得られず有機合成の難しさを嫌というほど実感させられた.

昭和50年東郊雑記

掲載の似顔絵

その経験以来,何事も批判するにはそれを完全に理解すべきであることを知り,あえて挑戦する気持ちで合成化学の道に踏み込んでみたわけである. 有機合成に限らず経験したことのないことは,他人の経験を調べること,すなわち「歴史に学ぶこと」に徹したが,ハッタリの横行する大学生活に対応するには大いに役に立った.

そのような訳で,林清五郎先生は自尊心を傷つけることなくやんわりと私の出鼻を強烈に挫いてくれた恩人である.

早期体験の時,一緒に実験した友人は3年生の時,肩の骨にできた悪性腫瘍で早世した.有機化学の道に踏み込んだのは,そのことに強く影響されたためでもある.

2年次の早期体験のこともあり,卒業研究は迷うことなく林研究室を選んだ.林清五郎先生は,熊本市の草葉町教会(日本基督教団)の敬虔な信者であった.研究室生活,講義,ゼミ等すべてにクリスチャン的な面(少々柔軟性に欠ける厳しさ)がにじみ出ていたため,その対応に面食らった教員,学生も多くいた.3年次製造化学実習を担当した助教授は先生の甥の宮野成二(元福岡大学学長)氏であったが,野球練習で午後の実験開始時間に遅れると,先生は学生と一緒に叱りつけていた.一方,宗教団体の学生への聖書贈呈活動等には理解を示す面もあった.講義の最後には5分ほど読書感想を紹介する時などは教会の牧師然としていた.

注)林先生の曽祖父である林 宇一(孚一),林 平三郎,宮野成二氏との関係については別項に紹介した

教室ゼミは,Fieser & Fieserの実験書 (Experiments in Organic Chemistry),Greensteinの発癌の仮説,MayのChemistry of Synthetic Drugs, Gattermannの実験書(Die Praxis der Organischen Chemie)を原書で読み説明するというハードなものであった. 私は,教授室とガラス引戸で隔てられた教授実験室で卒業研究のための合成実験を行った.先生から渡される文献は主にChemisches Zentralblatt, Chemische Berichte, Annalen der Chemieであり,皆ドイツ語であったが,大学院入試には大いに役に立った.先生の密着指導の甲斐あって,4年卒論(ビス型thiosulfonateの合成)は日本薬学会九州支部例会(昭和37年末)で発表することができた.

成功のヒントは,夏休み中図書館にこもり「トシルクロライドと硫化ソーダが反応してArSO2SNaが生成するらしい」というドイツ化学会の論文を探し出すことができたことによる.「らしい」と書いたのは赤外分光光度計が存在しない時代の論文のためである.

ArSO2Cl + Na2S → ArSO2SNa or ArSOSONa or ArSSO2Na

実際の構造はArSO2Naであるのか,またはArSOSONaであるのか,あるいはArSSO2Naであるにか分からないので,赤外線吸収スペクトルによる同定から実験を開始した.当時,地方大学にもようやく食塩プリズム方式の赤外分光光度計が設置された直後であり.研究室の壁を越えて田中善生先生(後に岡山大学教授)にはお世話になった.

卒論研究

前年度の卒論研究では,アルコール体にスルフォニルクロライドを塩基存在下作用させる常識的な合成法では目的物は得られていなかった.

生成物はチオールが酸化されたdisulfideであった.有機溶媒に溶けないため直鎖状の高分子体と考えられる.

新規合成法として,硫化ソーダにスルフォニルクロライドを作用させて得られるMeSO2SNaにアルキルハライドを作用させることで目的物を得ることができた.

その後,同法で種々の誘導体を合成し生理活性試験が実施され,Chem. Pharm. Bull.に報告された.

生成物は固形腫瘍に対する増殖抑制効果が認められた.

卒業時,熊本大学には大学院は設置されていなかったため,九州大学の大学院(田口胤三研究室)に進学し,硫黄化合物の研究に従事したが,先生の特訓のお陰で苦労することはなかった.

当時,伝統は古くとも薬専を母体とした地方大学には専攻科しかなく,予算的にも人的にも研究できる環境ではなかった.それにも関わらず,卒研生を戦力として制癌剤の合成とスクリーニングを同一研究室内で実施するシステムを構築されていた.今振り返ると先生の研究に対する姿勢は前述した林家の歴史に起源を求めることができる.

卒論研究では14名の同期生が林研究室へ配属された.教授研究室で一緒に苦労を共にした友人,その他中部屋,大部屋の合成実験室や生物実験室でマウス相手に格闘していた同期生達もそれぞれの道で定年を迎え,一名を除き元気で頑張っていると聞いている.悠々自適の友人,地域の環境問題に力を注いでいる友人,地域の歴史を一市民として見つめ直している友人,また調剤薬局を開き現役で頑張っている友人等々である.

世の中はウエブ情報が蔓延し,お年寄りは別として取り敢えずウエブで調べるということが一般的になった.ところが,少し前の情報となると全く存在しないと言っても過言ではない.私は4人の教授の下で教育,研究に従事したが,最近は研究室の継続性がなくなったためか,あるいは弟子が情報処理教育に取り残された世代のためか,web情報が存在しない実情があると言っても過言ではない.高度IT時代の情報のひとつとして残ることを期待して林先生に関する拙文を掲載する次第である.

追記 大学院進学を決める時期に,薬学生に化学工学を教えるために設置された製薬第二研究室(後に薬品製造工学)の教官(電気化学)から助手として採用したいという「個人的な打診」があり,嫌いな分野ではなかったので心が揺らいだ.薬品工学実習で電気伝導度を測定する際,ホイーストンブリッジを用いるが,イヤホンで交流音の最低点を探すのは原始的(不正確)であり,オシログラフを使えば正確に判断できると提案したのがきっかけである.

先生の家は水前寺公園の裏手にあり,個人的な進路相談等でお宅へ相談に行ったところ,私の顔を見るなり,散歩に連れ出され薄暗くなりはじめた陸上競技場のスタンドで話を聞いてくれた.林研究室に帰ることを約束したのはその時である.その際,当時の薬物学教室教授の合成学不要論に話が及んだ時の先生の表情はいまでも鮮明に憶えている.

最終的には,九大の大学院へ進学したが,その後異動のタイミングが合わず林研究室へ帰ることはできなかった.卒後20年経った昭和57年に,福山大学薬学部が設置された際の教員異動絡みで,以前誘われた薬品製造工学研究室(久野教授)へ帰るという皮肉な結果になった.林研究室は2回生の同門古川先生が引き継ぎ,現在は大塚先生に(東大)代わり,研究室の名称も生体機能分子合成学となっている.

投稿論文

Studies on Antitumor Substances. III. Syntheses of Bis(methanesulfonylthio)alkanes

S. Hayashi, H. Ueki, S. Harano, J. Komiya, S. Iyama, K. Harano, K. Miyata, K. Niigata, Y. Yonemura, Chem. Pharm. Bull., 12, 1271-1276 (1964).

林,植木,原野 (S),小宮山.井山,原野(K),宮田,新形,米村,姉弟で共著者になった論文である.

追記

書類を整理していたら,林先生の「東郊雑記」の冊子(1,2巻)が見つかった.各学年の卒研生がどのような研究に従事したかが記されている.

(2014.1.18)