八極拳の独学と我流!!ネット、YouTube動画などによる学習!!中国武術の門派(流派)に蓄積された経験、技術、思考法の継承と宮本武蔵!!
八極拳の独学と我流!!ネット、YouTube動画などによる学習!!中国武術の門派(流派)に蓄積された経験、技術、思考法の継承と宮本武蔵!!
投稿日: 2016/10/01 12:21:30
八極拳に限らず、多くの武術には「門派」や「流派」が存在します。
これらに頼らず、独学によって技術を構成する事を「我流」と言います。
この「我流」は、多くの場合、高い評価をされません。
これは、「我流」が個人の「枠」から出ず、個人の「枠」以上の技術を獲得でき ない為です。
人間一人の「認識」や「思考」には限界があります。
そこから生まれる「技術」にも限界が生じます。
また、現代では、ネットなどによって、多くの情報を得る事ができます。
現代において、武術を独学で練習する場合、おそらく多くの部分で活用されるツールは、このネットによる情報の獲得だと思います。
しかし、たとえすぐれた内容の情報であっても、受け取る側の「認識」や「思考」が低ければ、正確に理解する事はできません。
武術の情報に限らず、ネットや個人のメールにおいても、自身の考えや内容を、相手に正確に伝える事は、極めて困難な事だと言えます。
まして、ネット上の武術の技術の内容を、正確に理解する事は、極めて困難な事だと言えます。
このような状況で得た情報は、ほとんどの場合、表面上の情報の理解にしかならず、不正確なものにしかなりません。
また、ネット上では、YouTubeなどの動画による、情報の伝達方法もありますが、平面上の画面に映し出された情報だけでは、情報の伝達が不十分だと言えます。
また、オンラインによる教習も同じです。
これも、前述と同じく、情報の発信と受信が不正確なもののため、正確な情報を獲得する事は難しいと言えます。
特に、武術の技術や情報においては、極めて微細な動作や運用が必要だと言えます。
直接的な指導による技術や情報の伝達においても、正確に理解する事は難しく、同種の内容を何度も繰り返し学ぶという事により、受信者の「認識」や「思考」の変革を促しながら、微細な技術や情報を伝達する方法をとります。
このような事を、刹那的なネットの情報による学習だけで、獲得できるとは思えません。
これは、ネット以外のテレビ、本、雑誌などのメディアにおいても、少なからず言える事だと言えます。
ノンバーバルコミュニケーションという言葉があります。
会話や文字ではなく、表情や身振り、仕草などでのコミュニケーションを指す言葉です。
これは、人間の五感によって「感じる」コミュニケーション方法であり、第一印象にも大きく影響すると言われています。
アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが1970年代に行った実験によると、「話し手」が「聞き手」に与える印象の中で、話している言葉そのものが影響している部分は、全体のわずか7%だそうです。
その他の93%はノンバーバル(非言語)の要素なのだと言われています。
上記のように、人間がコミュニケーションの中で、言語から影響を受ける部分は、極めて少ないと言えます。
ネットなどの多くのメディアにおける、情報の伝達方法は、言語によるものだと言えます。
YouTubeなどの動画においても、ノンバーバル(非言語)な部分はありますが、不完全なものだと言えます。
当然、このような不完全な情報を寄せ集めたとしても、微細な技術と情報の集合体である、武術を運用する事は出来ません。
また、各「門派」(流派)を学ぶという事は、何代にもわたり受け継がれてきた「経験」や「技術」、「思考法」を受け入れるという事でもあります。
前述の通り、これは、個人の「枠」を広げる事だと言えます。
確かに、武術において、歴史上、「我流」によって「技術」を構成した達人は存在します。
厳密に言うなら、独学で「流派」をおこしたと言えるかどうかは難しい所がありますが、日本では、「宮本武蔵」が有名でしょうか。
しかし、「宮本武蔵」に限らず、「我流」で技術を構成した人間は、現代では考えられない程の「実戦経験」を持ちます。
もちろん、個人の「才能」もありますが、このような「経験」によって、自らの「枠」を広げる事に成功したと言えます。
現代では、このような「経験」を積む事は難しく、各「門派」(流派)を学ぶ事により、先人の「経験」や「技術」、「思考法」を獲得する必要があるのではないかと思います。
というよりも、それが近道だと言えるからです。
このような話しがあります。
戦後すぐくらいの話しだと思いますが、中国の農村部に、数学の才能が高い少年がいたそうです。
当時、数学の大学教授などが、その少年に数学を含む教育を行い、大学に入学させようとしました。
しかし、少年の父親が断固反対し、少年は学ぶ機会を失いました。
父親の考えでは、農村部に暮らす者は、受け継いだ土地を耕し、子孫に残す事が責務であり、そのような人間に学問は必要ないという事だったようです。
むしろ、学問をしている時間があるなら、土地を耕すべきだと考えていたようです。
現在の感覚では、子供の学ぶ機会を奪った父親は、酷い親だと感じるかもしれません。
しかし、当時の中国では、それほど珍しい事ではなかったのかもしれません。
日本や欧米でも、時代を遡れば、似たような時代はありましたし、現代人の感覚では推し量れません。
子供に学ぶ機会を与えるべきだという価値観は、現代人の感覚でしかないためです。
結果、少年は数学を学ぶ機会を失いましたが、独学で数学を研究しました。
数十年がたった後、前述の大学教授が、成長した少年と再会した時、独学で数学を研究していた少年は、新しい公式を発見していました。
しかし、彼が長い期間、独学で研究して導きだした公式は、現代教育における、中学生レベルの公式でしかなかったそうです。
ただ、その中学生レベルの公式も、中世の時代に、当時の天才的な数学者が形成したものです。
それと同じ内容を、ゼロから独学で構築した事から、元少年の数学的才能は、天才的な中世の数学者と同等だったと言えるでしょう。
つまり、当時は、ネットなどの外部の情報を得る機会がなかった事もありますが、どんなに数学的才能が高かったとしても、独学では、中学生レベルにしかいたれないという事です。
もし、少年が、現代教育を受け、現代までに蓄積された数学の内容を学んでいれば、違った結果になっただろう事は、想像できます。
つまり、現代までの数学の内容を土台にする事が出来ていれば、一流の数学者になる事はもちろん、その土台を元に、更に高見を目指す事が出来たかもしれません。
これは、武術でも同じ事が言えます。
武術における、現代まで蓄積された内容とは、「門派」や「流派」が保有している練習体系なのです。
そして、これは各「門派」(流派)が何代にもわたり受け継がれてきた「経験」や「技術」、「思考法」が元となって形成されています。
「門派」や「流派」を学ぶという事は、名人や多くの武術家たちが、現代まで蓄積してきた膨大な「経験」や「技術」、「思考法」という純度の高い情報を受け取り、土台にするという事です。
前述の数学の才能を持つ少年と同じく、独学では、どんなに才能があったとしても、現代まで蓄積された技術の初歩的な段階までしか到達できません。
それほど、個人の「枠」を広げるという事は難しい事なのだと思います。
数学の才能を持つ少年の例が実証したように、一人の人間が独学によって、現代まで蓄積された技術を持つ「門派」や「流派」の「経験」や「技術」、「思考法」を超える事は、不可能に近い事だと思います。
これは、それぞれの「門派」や「流派」が伝えている内容が、個人の能力である「枠」を遥かに超える情報を蓄積しているからです。
前述の通り、現代がネットなどのツールを使い情報を得やすい環境であっても、個人の能力である「枠」を広げる事は出来ません。
当然、受け取る側の能力が低ければ、情報を理解する事も出来ません。
このように、ネットによる情報の獲得は、極めて不完全であり、一人での研究だけでは、現代まで蓄積された技術の初歩的な部分しか、習得できないと言えます。
つまり、独学による武術の習得は、極めてレベルの低い、初歩的な技術しか習得できず、不完全なものにしかならないと推測できます。
そのため、多くの先人達が、現代まで蓄積してきた「経験」や「技術」、「思考法」などの情報の集合体である「門派」や「流派」を学ぶ事が必要であり、それが一番の近道だと言えるのです。
しかし、各「門派」(流派)を学び、一定以上の教習を受けた者は、「我流」にならなければならないと思います。
これは、各「門派」(流派)から学んだ事で生じた「枠」の中から、自分自身の「戦闘法」を確立するための「取捨選択」を行うという事です。
つまり、自分の学んだ「門派」(流派)の「枠」の中で、個人の「技術」を構成するという事です。
このような事だけを示す言葉ではありませんが、当流の「八卦掌」では「変架子」、「八極拳」では「変八極」(変化八極拳)などと言う言葉で表します。
これらの内容には、多くの意味が内在していますが、大雑把に説明するならば、学び継承してきた武術の技術を、自身の技術として、微調整する段階だと言えます。
このように、武術を高いレベルで学んだ者は、学ぶだけではなく、自らの「技術」の構成を考える必要があるのではないかと思います。