八極八卦練技拳社・東京板橋道場で練習する武術の系譜!!「八極拳」「劈掛掌」「八卦掌」「太極拳」「蟷螂拳」「形意拳」「兵器術」

2019/05/26 20:18 に 広亮岐橋 が投稿   [ 2019/06/17 5:34 に更新しました ]

八極八卦練技拳社・東京板橋教室では、下記の中国武術を練習しています。

八極拳」「劈掛掌」「八卦掌」「太極拳」「蟷螂拳」「形意拳」です。また、それぞれに「兵器術」があります。

下記に、当道場で練習している中国武術の伝承系譜をご紹介します。

また、有名な武術家の伝承より記すため、それ以前の系譜については、各自でお調べ下さい。

 


八極拳、劈掛掌

李書文→劉雲樵→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮

 


八卦掌

董海川→尹福→宮宝田→劉雲樵→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮

 


太極拳

陳式太極拳

杜毓沢→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮


楊式太極拳

楊露禅→宋唯一→張譲伍→劉雲樵→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮

 


蟷螂拳

秘門蟷螂拳

張徳奎→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮


七星蟷螂拳

李昆山(李崑山)、王松亭→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮


八歩蟷螂拳

衛笑堂→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮


六合蟷螂拳

丁子成→劉雲樵(張詳三)→蘇昱彰→前田秀夫→岐橋広亮

 

 

 

前田秀夫

前田秀夫は、日本人武術家です。空手、キックボクシングなどの打撃系の格闘技に精通し、キックボクシングでは、当時のチャンピオンに挑戦した経験も持ちます。空手は、主にフルコンタクト制の空手を学び、芦原空手の出身です。また、旧K-1の母体となった空手団体である、正道会館の創成期の指導員を一時していました。中国武術では、陳式太極拳の新架式、形意拳、心意六合拳などを学び、台湾の武壇でも一時学んだ事があるそうです。後に、蘇昱彰老師に拝師(正式弟子)し、八極拳(李書文系)、劈掛掌、八卦掌(宮宝田系)、太極拳(陳式、楊式)、蟷螂拳、形意拳、兵器術などを学び、八極螳螂武藝總舘日本分館の関西方面の責任者として、指導にあたりました。また、2000年頃に、蘇昱彰老師の監督の下、八極螳螂武藝總舘より独立し、八極劈掛拳藝舘を立ち上げ、初代館長となりました。後に、後輩である、現天山武術会/拳省館の鳴海省吾氏に組織を引き継ぎ、数人の弟子のみを連れて、蘇昱彰老師より独立し、独自の活動を続けました。また、日本の古武術(柳生新陰流、一刀流など)にも精通しています。

 


蘇昱彰

蘇昱彰は、台湾の旗 台湾台南県東山郷の出身の武術家です。漫画『拳児』(小学館)の台湾編に登場した「蘇崑崙」のモデルになった人物です。7歳から、張徳奎より、秘門螳螂拳を学びました。その後台湾で開催された、第1回全国散打試合で優勝し、その他、数々の散打試合にて入賞し、閃電手の外号で呼ばれるようになりました。さらに、李崑山や衛笑堂等の螳螂拳各派の名師について学びました。後に、神槍と呼ばれた、八極拳の名人、李書文の関門弟子である劉雲樵の正式弟子(拝師)になり、八極拳、劈掛掌、六合螳螂拳、八卦掌を学びました。1976年には、ベネズエラに移住し、後に八極螳螂拳を創始して、ニューヨークへ移住しました。この時期に。八極螳螂武藝總舘を開設しました。

 


 劉雲樵

劉雲樵は、中国河北省滄州市(滄県東南郷)出身の中国武術家です。漫画『拳児』(小学館)の台湾編に登場した「劉月侠」のモデルになった人物です。神槍とも呼ばれた、八極拳の名人として知られる、李書文の関門弟子(最後の正式な弟子)です。幼少期に、張耀庭から秘宗拳を学びました。その後、李書文から李氏八極拳、劈掛掌を学び、宮宝田から尹派八卦掌(尹式八卦掌)、丁子成から六合蟷螂拳、張驤伍から楊家太極拳、昆吾剣などを伝承したと言われています。李書文の付き人であった少年時代には、武術の功の高さから、「山東小覇王」の異名を持ち、多くの他流試合を行い、全戦全勝であったと言われています。その後中国国民党軍において特殊工作員として活動しました。後に、台湾に亡命し、1971年、武学研究社を設立、武術専門雜誌『武壇』を創刊しました。武壇廃刊後は、武学研究社を武壇国術推広中心と改め、学生へ武術を指導しながら、台湾総統府侍衛隊の武術教官を務めました。弟子には梁紀慈、徐紀、蘇昱彰らがいます。また、日本の武術研究家である、松田隆智も一時期、教授を受けたようです。



張徳奎

張徳奎は、山東省采陽県の出身で、父親は地元の地主でした。幼い頃から弟の徳振とともに王字敬、張生、董蘭香らについて蟷螂拳を学びました。大成してからは、河北省を優歴し、各地の武術家と交流するなかで迷ショウ拳を習得しました。満州では、抗日戦にも参戦しました。また、共産党に両親が逮捕され、自身も勾留されましたが、脱獄しました。この時、軽身功を使い、高い壁を乗り越えたと言われています。国民党軍に合流した後、国共内戦をへて台湾に渡りました。現在では、張徳奎が台湾に伝えた秘門蟷螂拳の系統以外は、残っていないと言われています。秘門蟷螂拳は、細密な手法を用いる事で知られる蟷螂拳の中でも、さらに細密な手法を用い、攻防にも独特な工夫がされている事が特徴だと言えます。そして、この特徴は、秘門蟷螂拳の技法が、対蟷螂拳を強く意識して作られている事に由来していると言われています。



李崑山

李崑山は、山東省采陽県出身で、叔父の李旦白より、幼い頃から三合功、長拳、地功拳、二十四刀、二十四槍などを学びました。叔父の李旦白は、神槍と讃えられた張永燕から学び、槍術の名手でした。後に、李崑山は、姜化龍に拝師して、蟷螂拳を学びました。功がなってからは、黄県警察隊の隊長に任命され、また、李景林将軍が設立した山東省国術館の教練を務めました。1933年には、南京中央国術館の行った大会において、大槍で出場して、最優等となりました。同年、采陽国術館の館長になりました。1948年に政変とともに台湾に渡りました。李崑山の蟷螂拳の技術は高く、特に発勁の威力は、二百キロのサンドバッグを、支えている学生もろともふっ飛ばしたと言われています。



王松亭

王松亭は、山東省煙台の出身であり、幼少の頃より紀中徳について、七星、梅花蟷螂拳を学び十七歳頃から名師を求めて山東省各地を遊歴しました。蟷螂拳以外にも、長拳や兵器術に精通し、林金亭、張發銭、高芳先と並んで、青島四大金剛と呼ばれました。王松亭は、1973年に台湾に移り住みました。彼の体格は中肉中背で、特に大柄だったわけではありませんが、子供の頃から鉄砂掌などの硬功を行っていたため、その技の威力は高かったと言われています。



衛笑堂

衛笑堂は、山東省の出身です。幼い頃から地功拳を学び、下半身の功夫が非常に高かったと言われています。衛笑堂が16歳の頃、父親が、八歩蟷螂拳の馮環義を家に迎えて、共に学びました。馮環義の八歩蟷螂拳は、蟷螂拳の姜化龍や、形意拳と通背拳の陳徳善、八卦掌の王中慶の三人が協力して作り上げた武術だと言われています。衛笑堂は、20歳の頃には、福山県に武術教師として呼ばれる程の功夫を持ち、23歳の頃には、軍の武術教官として、上海に出ました。また、山東省同郷体育会で蟷螂拳を教える傍ら、上海精武体育会の呉鑑泉から、呉式太極拳を学びました。衛笑堂は、後に韓国を経由して台湾に渡り、八歩蟷螂拳を教習しました。この八歩蟷螂拳は、衛笑堂が台湾に伝えた系統以外は残っていないと言われています。



張祥三

張祥三は、山東省黃県の出身です。もともと、兄が六合蟷螂拳の名人であった、丁子成について学んでいました。張祥三も兄と共に、幼い頃から丁子成より、六合蟷螂拳を学びました。張祥三は、この六合蟷螂拳以外にも、曹作厚などの師に就いて七星、梅花蟷螂拳、子母連環拳、羅漢拳、梨花槍、純陽剣なども学んだ経験があります。功がなった張祥三は、丁子成が設立した、民衆教育館などで、武術を指導しました。また、1936年には、青島市国術館の検定員を務め、更に中央政治学校などで武術教官も務めました。政変によって台湾に渡ってからは、台湾国術会の理事を務め、一方では、台北新公園で武術の指導を続けました。また、台湾に渡ってからの武術家としての精力的な活動の最中に、当時、軍を退いて隠居していた劉雲樵を武術界に呼び戻すきっかけも作りました。







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