八極拳の歴史、李書文の技術と経歴、李氏八極拳の形成と猛虎硬爬山

投稿日: 2016/10/30 12:43:15

八極拳は、古名を把子拳とも呼ばれ、18世紀に清代中国河北省滄州回族の居住地であった孟村で発達した中国伝統武術の一つです。

また、半歩拳法という別名も持っています。

八方の極遠にまで達する威力で敵の門(防御)を打ち開くとも言われ、中国武術の中でも破壊力の高い武術だと言われています。

八極拳の起源については、多くの説がありますが、一番有力な説は、18世紀に河北省滄州のイスラム教を信仰する、回族の居住地である、孟村呉鐘(ごしょう)がこの武術を授かったとされています。

有力な記録では、滄州地方の郷土史をまとめた、「滄県志」の一項目「人物志-武術」に記載されています。

これには、呉鐘(らい)と名乗る道士から、この武術を学んだと記されているようです。

は、呉鐘へ武術を授けると、いずこかへ去り、その後、の弟子と称する(へき)と名乗る道士が、呉家を訪れ、大槍法六合大槍)と八極秘訣という文書を一巻授けたと言われています。

八極拳は、初めは、孟村の回族を中心に伝えられていましたが、漢族の住む羅疃へも伝わりました。

やがて、孟村の回族の系統と、羅疃の漢族の系統に分かれて伝えられるようになりました。

漢民族に伝わった系統の伝承者では、李書文や、馬英図などが有名です。

また、近年、南京中央国術館が、正課としたことにより、中国全土に普及し、軍隊にも採用され、軍隊用八極拳とも言われました。

八極拳は、羅疃出身の李書文と孟村出身の馬英図などが有名です。

特に、神槍とも呼ばれた、李書文は比武(決闘)を好み、激しい気性の人物だったとも言われており、彼に関する逸話は、過激なものが多い。

しかし、この、神槍・李書文の活躍によって、八極拳は、有名になったとも言えます。

彼は、他流試合において、ほとんどの敵を、牽制の一撃で倒し、「二の打ちいらず、一つあれば事足りる」と歌われるほどの名人でした。

この、八極拳の名人である、李書文は、1864年 - 1934年に生き、中国・河北省滄州市塩山県出身です。

元々、貧しい農家に生まれ、黄四海張景星金殿臣より八極拳を、黄林彪より劈掛掌を学びました。

昼夜を問わず練習に没頭し、急速に実力をつけた李書文は、師や兄弟子からも一目置かれるようになったと言われています。

当時、袁世凱が、天津で兵站訓練を行った際、著名な武術家を教師として招きました。

師の黄四海は、老齢を理由に弟子の李書文を推薦し、李書文は、師の代わりに天津にて、兵士を教練しました。

また、この時期に、他の武術家と交流を持ったとも言われています。

また、この時に、会長に李瑞東太極拳)、副会長に馬鳳図通備拳)を据えて設立された武術家の団体中華武士会に、李書文八極拳の実力派として参加したと言われています。

李書文と交流を持った武術家は、張占魁形意拳)、張景星八極拳)、郝恩光形意拳)、霍殿閣八極拳)、馬英図劈掛拳八極拳)などが挙げられます。

また、軍事力の必要性が高まる時勢に、地方軍閥の将軍に高く評価された李書文は、軍事・武術教練として、各地に招聘されました。

1925年には李景林将軍に招かれ、弟子の霍殿閣と共に部隊の武術教官に赴任し、1926年には沈鴻烈に招かれて、子の李萼堂魏鴻恩らを伴って山東省へ赴きました。

この時期に、中国各地で、その高い実力を知らしめたようです。

これにより、滄州の一流派でしかなかった八極拳は、李書文の名声と共に有名になりました。

李書文は、小柄な体型であったと云われています。

得意技には、「六大開拳」(門派によっては、八大招式に数えられる)の一つである、「猛虎硬爬山」があり、前述の通り、ほとんどの他流試合において一撃で相手を倒しました。

また、李書文は「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ」と弟子達に教え、「套路」()より、招法の訓練を重視したと云われています。

この李書文には、多くの弟子がいます。

この李書文の「八極拳」を主に、「李氏八極拳」と称しますが、現在では、多くの伝承者がいます。

李書分から、直接学んだ弟子には、多くの優れた武術家が生まれました。

特に、中国最後の皇帝であった、愛新覚羅溥儀ラストエンペラー)に、八極拳を教え、護衛ボディーガード)にもつき、「長春八極拳」の系統を確立した霍殿閣や、関門弟子であり、戦後の台湾総督となった、蒋介石シークレットサービスや、軍隊の武術教官を行い、台湾八極拳の系統を確立した、劉雲樵が有名です。

当会では、この李書文系の「八極拳」(李氏八極拳)を練習しています。



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