神の信仰と科学の両立は、神が人間言語の被造物であることで成立する。信仰もまた科学の対象である。
―F.コリンズ『ゲノムと聖書』をどう読むか―
(The Language of God: ;A Scientist Presents Evidence for Belief (Free Press, 2006)邦訳 中村昇 他訳 NTT出版)
『ゲノムと聖書』の著者であるフランシス・コリンズは、ヒトゲノム計画をリードし、人間の遺伝子の全塩基配列の解読に初めて成功した著名な生物学者であり、無神論から熱心なキリスト教徒になったことで知られる。科学者である彼が、なぜ〈神〉について語るのか?科学と神の信仰は両立(調和)するのか? 彼は、「科学と神」「検証可能性と創造主信仰」は両立すると考えるが、そこに「人間とは何か?」という問いが置き去りにされていないだろうか?
彼は、本書の原題名である“The Language of God(神の言語)”によって、遺伝子ゲノムは「神が生命を形作るのに用いた設計図」とみなしています。そして、彼は現代の科学においては検証解明できない(できていない)、マクロ(宇宙)とミクロ(素粒子)の世界の起源、そして生命と人間の魂(人生苦の根源である原罪を背負う魂)の起源についての合理的説明を、創造主である神の意志によると説明し、これらの起源を神に託します。
しかし、神を万物の創造主であり、宇宙と生命の存在と起源を設計したとする解釈(インテリジェント・デザイン論 )は正しいのでしょうか?
私見によれば、彼は優秀なゲノム学者であり医学者ですが、人間についての基本的な科学的知見においては、「生命言語科学」の観点からは、人間存在についての真理に到達することはできなかったのです。彼は、キリスト教徒における「有神論的進化論」を支持する立場から、「科学と信仰の調和」という自らの主張を、「バイオロゴス」という用語で説明しようとしました。これは、神の言葉が生命の根源という意味で、『ヨハネによる福音書』冒頭の「この言葉に命があった」を出典としています。しかし、西洋的思考様式の限界(直線的合理主義的因果認識の限界)によって、彼は「言語は生命の所産(被造物/獲得物/進化の所産)であることに気付くことはできませんでした。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」(同上)のではなく、「はじめに生命があり、生命が言葉を獲得し、神を創った。神は人間の被造物であった」というのが科学的真理なのです。
神・仏なき社会は道徳的荒廃を招くという議論がありますが、道徳は神・仏と同様に 人間の観念的(言語的)創造物です。我々は資本主義(人間の所産)にも対応できる道徳を、人間(生命)の希求する永続的生存 ということから生起する「永続的幸福」という概念で構想しています。生命の生存目的である「個体と種の維持存続」を実現するためには、利己的な強欲資本主義を抑制する相互依存・互助互恵、公正正義と平和共存の道徳がどうしても必要です。そのためにこそ、世界(人間社会)には避けられない利害対立と思想信条の多様性(相違)を超えた、人間(社会)に共通する検証可能な科学的普遍性が求められるのです。
さてそこで、コリンズの主張である「有神論的進化論」、我々から見れば「科学的有神論?」について、本書『ゲノムと聖書』の2カ所の引用から批判的説明をしてみましょう。
「有心論的進化論は、細かい点では多くの差異があるものの、その典型的なものは以下の前提の上に成り立っている。
1 宇宙は約140億年前に全くの無から現れた。
2 宇宙の物理定数は、生命が生存できるように寸分の狂いもなく正確に調整されているようだ。
3 地球上での生命の起源の正確なメカニズムはまだ解明されていないものの、生命が現れてからは、進化と自然選択の過程を通して、長期間を経て生物的多様性と複雑性が発達していった。
4 進化の過程が始まってからは、特別な超自然的な介入は必要ない。
5 人間もこの過程の一部であり、類人猿と共通の祖先を持つ。
6 しかし人間には、進化論では説明できない唯一無二の部分もあり、その霊的な性質は他の生物に例を見ない。これには道徳律(善悪を知る知識)や神の探求などが含まれ、歴史を通して全ての人間の文化に見られる特質である。
以上 6つの前提を受け入れるならば、知的にも満足でき、論理的にも守備一貫した全く自然な統合(シンセシス)が出来上がる。つまり、空間にも時間にも制限されない神が宇宙を創造し、宇宙を治める数々の自然法則を設定した、というものである。不毛であったはずの宇宙を生物で満たすために、神は進化という見事なメカニズムを用いてあらゆる種類の微生物や植物や動物を創造した。何より驚くべきなのは 知性、善悪の知識、自由意志、 そして神との交わりへの願いを持つ特別な存在である人間を生み出すのにも、神は同じメカニズムを意図的に選んだことである。神はまた、この被造物が究極的には自らの意志で道徳律に背くのも知っていた。
この考え方は、科学が自然界について教えるあらゆる事項と一切矛盾しない。 また、 世界の主要な、一神教宗教とも完全に調和する。有神論的進化論によって神が現実のものであると証明することはもちろんできないが、それはどんなに論理的な議論であれ同じだ。神を信じるとは、いつでもある種の「信仰による跳躍」を必要とするのである。しかしこの統合によって、信仰を持つ科学者の多くは、守備一貫した、満足のいく、有意義な視点を持つことができ、科学と信仰の世界観は無理なく共存できるようになった。これは信仰を持つ科学者が、神を礼拝し、科学の道具を用いて神の被造物の荘厳な奥義をひもときつつ、知的にも満たされ、信仰によって生かされることを可能にする。」(フランシス・コリンズ『ゲノムと聖書;科学者、<神>について考える』中村昇 中村佐知 訳 NTT 出版2008年 p196 下線は引用者による)
まず1、について、これは「ビッグバン理論」について述べているのでしょうが、一つの有力な仮説ではあっても、真理とは言えません。そもそも宇宙誕生以前に「無」という状態が存在したということは検証できない単なる仮説です。140(137)億年前に始まるという宇宙膨張の過程を、「インフレーション理論」で説明できると言っても、提唱者の一人佐藤勝彦氏が「実証の時代に入った」とされているように実証されたとは言えません。仮説的理論の段階で、観測事実としての宇宙マイクロ波背景放射をどのように解釈するかは、単に数学的整合性だけで説明できるものではありません。
数学は観測事実の枠組みを明らかにしても、生命の起源と同じく宇宙の起源も観測不可能なのです。数学は前提や条件、定数の設定によって解を異にします。多くの仮説は成立しても、完全解の確定はあり得ないのです。従って、「宇宙は全くの無から現れた」ということは、数学的にはあり得ても、検証不可能であり、また人間の空想的被造物である神の存在を前提とすることはあり得ないのです。そもそも地球からの宇宙の観測的事実は、宇宙を球体としてしか観測できませんし、それが膨張しているならばビッグバンを想定せざるを得ないのです。(参考『ホーキング、宇宙と人間を語る』)
2,の「宇宙の物理定数」については、現段階の観測事実から導かれたので了解せざるを得ないですが、「生命が生存できるように寸分の狂いもなく正確に調整されている」という表現は正しくありません。生命の生存(誕生)の意義は、宇宙の運動過程で「たまたま偶然に」、地球という特殊環境での科学物質の有限な存在形態(生命細胞の生化学反応の持続)であるにすぎません。神の創造を前提にする必要は全くありません。 「偶然に」という副詞は「必然に」と言う言葉に対応するのものですが、共に主観性を帯びた用語で、運動の因果関係の解明によって「必然性」に近づくものなのです。
3,はおおむね正しいのですが、「進化と自然選択の過程」は、「自然選択」が科学的に不適切な表現なので、「適応進化(多様化)の過程」と訂正すべきと思われます(参照「自然選択説批判」要ネット検索)。
4,については生命誕生には「神の力」(特別な超自然的な介入)が働いたが、それ以降は進化論が正しい、と言いたいのでしょうが、生命誕生についても進化についても「特別な超自然的な介入」は必要ありません。生命細胞の生化学反応のメカニズムが、無限に多様な環境に適応進化して生存を持続しているのです。
5,は正しい。
6,の命題は人間の本質(人間とは何か)にかかわる最重要な問題であり、コリンズや彼の信仰しているキリスト教(創造神)の限界を端的に示しています。すなわち、人間の「霊的な性質」やその起源の科学的探求に失敗または挫折しています。人間(生命個体)の有限で不安定で、生老病死などのような試練に満ちた生存の根源が、生命と人間存在の根源にあることは誰しも認めることです。しかし、『聖書』におけるように言語を神の言葉として神秘化するキリスト教の教義は、基本的に言語の科学的探求を阻んでいます。人間は、「言語の獲得」によって、動物一般の認知的行動の刺激反応性を克服し、観念的創造力を持ちました。この生命における言語の獲得という理解が、真に科学的認識をもたらし、キリスト教だけでなく全ての宗教の根源を変革せざるを得なくするのです。
科学者が、言語の機能と起源の科学的解明に向かうとき、「信仰の跳躍」は、創造神や救済仏(阿弥陀仏や菩薩など)の観念から解放され、真の人間への覚醒と跳躍が始まるのです。
「科学は神によって脅かされることはありません。むしろますます進展します。神もまた科学によって脅かされることは決してありません。神がその創始者だからです。ですから、あらゆる偉大な真理を知的にも精神的にも満足のいく方法で統合するための確固たる足場を共に取り戻そうではありませんか。そこは、いにしえより理性と礼拝の祖国であり、かつて崩壊の危機に瀕したことはありません。これからも決してないでしょう。誠実に真理を探求する人たちは皆、その地を訪ね、居を構えるように招かれています。要塞を捨て、その招きに答えてみませんか。私たちの希望、喜び、そして世界の将来がそれにかかっているのですから。」(同上p230、太字と下線は引用者による。)
まず上記の引用文においては、「科学は神によって脅かされることはありません」と述べていますが、キリスト教の神は、言語の科学的解明を許しません。しかし、科学的言語論によって神は、人間の本質である言語の創造的機能によって、自ずと言語的被造物であることを表しているのです(参照「言語論」)。
また、「偉大な真理の確固たる足場」は取り戻すものではなく、創始していくもので、それは言語による科学的な究明以外にはありません。また、そこは「生命人間言語と精神の探求の場」であるとしても「理性と礼拝の祖国」ではありません。むしろ有神論的科学者にとっての「理性と礼拝の祖国」が、なぜ安住の地であり、真理からの逃避の地になっているのかを明らかにして、彼らこそ、科学と信仰の統合・調和に失敗したのかを説得しなければなりません。それが私たちの永続的幸福への道であり、永続的幸福は神仏に依存するのではなく、人間心理の究明と瞑想的努力(精神集中または信仰)によって到達できるのであり、そしてそれが希望、喜び、そして将来世界の永続的平和につながっていくのです。
【付記 表題の多様性―どれも正しい】 参照;宗教と科学
神の信仰と科学の両立は、神が人間言語の被造物であることで成立する
神の信仰と科学の共存は、人間が神を言語的に創造したことで成立する
宗教と科学の対立は、「生命言語理論」によって終わらせることができる
宗教と科学の両立は、人間の「永続的幸福」をめざすことで可能となる
神と科学の共存は、神が人間言語の被造物であることによって可能となる
言語的被造物である神・仏や天国・地獄等の観念は、人間道徳の必要条件ではない
😄 なぜなら、神や仏は、人間が自己の不安定な存在を意味づけ・権威づけるために、人間が創造したものだからです。生命や人間存在は有限で不安定なものであり、それ故に永遠の安心・立命、絶対的な自由や幸福・快楽を求めます。求めても得られないとき、神や仏のもとに救い主や菩薩を人間が創造し救済を求めます。ここに信仰と宗教(教義)が絶対的権威を伴って成立します。私たちがこの事実を知れば、信仰が無くなり生きる意味さえなくしてしまうと思われるかも知れません。しかし、人間は言語を獲得した生命です。私たちは私たち自身の言葉で生きることの大切さとその意味を見いだしていけるのです。地上における生命への慈しみと労働・生活を通じての人々のつながりの大切さ、そして共に永続的幸福のうちに個体的生存を終え、未来の子孫の永続的幸福を託していけることが期待できるのです。
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『神と科学は共存できるか?』
(スティーブン・J・グールド『神と科学は共存できるか?』狩野秀之他訳 日経BP 2007)
神と科学の共存は、人間が、神によって「地上での永続的幸福」をめざすことによっても可能となる。ただし、神が人間言語(知識)の被造物であることが前提となる。死後の天国での永遠の幸福もまた人間言語の被造物であるとすれば、確実に検証可能なのは現在の「地上での永続的幸福」ではないだろうか? 神(仏)と宗教、全生命と人間はともに「地上での永続的生存」をめざす存在だからである。象徴的な表現をすれば、幾多の生命種にとって永続性は、種と個体の生存意味をなすものだからである。神と科学の対立は、科学的知識である「生命言語理論」によって終わらせることができる。
スティーブン・J・グールドは、『神と科学は共存できるか?(原題 Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life)』において、科学と宗教の対立は「決して解決のできない問題」を含んでおり、「敬意をもった、密度の濃い対話を伴う非干渉」によってはじめて両者の共存や調和が可能だと論じ、それをNOMA[非重複教導権Non-overlapping magisteria]という概念で説明します。
「私は全身全霊を込めて、科学というマジステリウム[科学的権威 ]と宗教というマジステリウム[ 宗教的権威]との間の、互いの経緯と、愛にさえもとづく協約――「NOMAの概念」――を信じる。NOMAとは、道徳的及び知的な基盤を持つ原理的な立場であって、単なる外交的な解決策ではない。」(『神と科学は共存できるか?』 p16 [ ]内は、以下も引用者による)
グールドは、上記引用のように、NOMAという概念によって、科学のマジステリウム(科学的権威)と宗教のマジステリウム(宗教的権威)の両立(つまり非重複)が可能または不可避であることを主張します。つまり、科学における自然法則と宗教における道徳法則は、『利己的遺伝子』や『神は妄想である』のリチャード・ドーキンスの述べるような、科学による宗教(創造神)の存在否定ではなく、また、インテリジェント・デザイン(ID)論やプロスタント原理主義のような創造主の絶対性を強調する立場とも異なる、いわば科学と宗教の棲み分けを主張します。すなわち「科学のマジステリウムは、道徳については 人類学の領域までしか踏み込むことができない。・・・科学は、道徳そのものの道徳性については何も言うことができない。」(同上p73-74)のように、対象領域を相互に限定し、敬意を払おうとするものです。
しかし 次の引用文における「知恵」や「人間」「合理性」などという言語を根本に置く人間理解については、 西洋的合理性(哲学や認識論)の限界のために科学的究明が不十分(西洋言語論の限界)となり、決して説得力を持つものとはなっていません。
「NOMA[非重複教導権]とは、人間の生活全体における知恵の二つの構成要素[科学と宗教]の間の、互いに重複しない問題に基礎を置く相互の敬意を作り出すための、単純で、人間的で、合理的で、そして 慣例的でもある主張である。」(同上p184)
つまりグールドは、科学と宗教には、聖書の記述(宗教教義)と科学的進化論のように、認識の互いに重複できない問題があると考えます。しかしむしろ、科学的知識の発展(宗教にたいする科学の優位または勝利)によって、重複する部分が生じ、科学や宗教、自然法則や道徳の間の混乱を招いてきたのです。重複する部分とは、人間知識に関する共通点として混乱してきた言語理解(言語論・認識論・知識論の混乱、とりわけ神と言葉logosの関係)ということになります。そして、西洋思想の混迷や閉塞状況を生じさせてきた言語理解の貧困(西洋的科学的合理性の限界)が、科学者や神学者の論争の原因にもなってきたのです。
すなわち科学的知識にしろ宗教的道徳的知識にしろ両者の知識の捉え方の混乱は、ともに「人間知識を特色付ける言語の本質の解明が欠如している」ことが根源になっているのです。それにもかかわらず、グールドはNOMA[非重複教導権]という用語を持ち出して科学と宗教の両立・調和という中途半端な解決を図ろうとしたのです。(余談ながらドーキンスは、「利己的遺伝子論」の限界を超えるために、言語的所産である文化や伝統の情報を「ミームmeme」と名づけましたが、この例も人間の本質である言語を理解できずに中途半端な人間文化の理解をめざした失敗例といえるのです。)
「私たちは、NOMAの霊言たる要求[科学と宗教の両立]を思慮と楽観主義をもって感受しなければならない。つまり、道徳や意味についての考えが人それぞれ違うことを認め、自然の仕組みの中に明確な解答を探すのをやめるのだ。」(同上p187)
グールドは、上記引用のように「自然の仕組みの中に明確な解答を探すのをやめる」というが、人間と文化と言語についての十分な解答を獲得していないにもかかわらず、探求をやめよと言うことであり、それは正しくありません。人間の本質である言語や文化についての自然科学的な探求を進めれば、宗教を中心とする文化が人間の言語的所産であることがわかるはずである。つまり、宗教は人間存在の不安定性、不条理性を安定化し意味づける言語的合理化であるということは、困難な科学的解明を必要としません。宗教や神・仏の存在意義は科学的説明が可能であり、その前提を基本として人間の言語的所産として宗教(神・仏という存在)が認められるのです。神も仏も人間言語の所産として聖書や仏典の教義として成立しているということで理解と調和が得られるのです。透徹した人間の理性や知性の持ち主として、「人間の本質は言語である」「人間は言語を獲得した生命である」ということが理解できるならば、宗教は人間存在(人生)の不安定さにたいする自己救済のための文化的所産であることがわかるのです。
「ダーウィンは進化を利用して無神論を奨励したわけでも、神という概念は自然の構造とは整合しえないと主張したわけでもなかった。 そうではなく、科学のマジステリウム[教導権;解釈権限、権威]内で理解される自然の事実性は、神の存在や性格、生命の究極的な意味、道徳性の適切な基礎など、宗教という別のマジステリウム内の問題を解決できないし、特定することさえできないと主張した。」(同上p203)
確かにダーウィンには宗教的道徳的課題への挑戦はできませんでした。 しかしそれは彼の指摘する自然の事実性が、生命の多様な進化の動因を正しく理解していなかったことにもよります。彼は生命の主体的な適応進化の意義を理解せず、実証科学に忠実ではあったのですが、西洋思想の背景の下で、その動因を自然による競争的選択に求め、宗教的課題は敬遠せざるを得なかったのです。
「自然はいわば非道徳的[アモラル]である―― 不道徳[インモラル]なのではなく 道徳という厳密に人間的な概念とは無関係に構築されているのである。」(同上p206)
人間にとって、生命という自然は、生命(自己)が永続的生存を目指していることを自覚するだけで道徳的なのです。私たち人間生命は、生き続けることに努めることを、内的(自分自身に対して)にも、外的(他者に対して)にも「生き続けよう」と言語表現するだけで道徳的になり得ます。「生き続けよう」ということは、「自分だけが生きられればよい」というのではありません。自分という生命は、過去と未来と社会に広がっているからです。
つまり、生命として生き続けることは、単に幸福のうちに個体死を迎えることだけでなく、個体(自己)につながる人類(生命)同胞の幸福な永続的生存に全面的に依存しているのです。人間生命は、永続的生存のためには、地球という有限な環境を大切にして平和的に資源を分かち合い、共存共栄、互助互恵を求めざるを得ないのであって、これらこそ科学的道徳の根源となるのです。このように、人間の普遍的道徳は科学的認識から導かれるものであり、それを前提として、旧来の 宗教(神・仏)も、生命の「永続性という自然」を原則とした科学的な知識に基づいて、教義を「地上での永続的幸福」という科学的意味に改変する必要があるのです。
いわば自然は道徳的です。道徳という厳密に人間的な概念は、自然(科学的知識)と共にあります。その自然とは、人間が言語的存在であり、自然に基づいて生命の本質を理解することで道徳が成立するからです。人間が永続的に生存するには、他人への仁愛や思いやり、慈悲心がどうしても必要になります。道徳は自然に基づいて成立し、地上における生命の永続的生存を目指さなければいけないのです。 (人間存在研究所 主任研究員 大江矩夫 2025/03/20)
<人間の心の正しい理解>
心の捉え方を誤ると、人間の心の病は治せません。まず、「人間存在(生きること)とは何か?」を言葉によって、知識として意識的に理解することが必要です。人間存在の理解は、生命である人間の心を解明することに始まります。人間の心は、動物的な生存欲求と判別感情(情動)の生理的・無意識的反応の基礎の上に、人間的な言語的・意識的な表現と意味づけによって構成されています。
人間存在と心の理解を根底から意味づけた(と信じた)旧来の世界の普遍宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)は、聖者とされる指導者(救済者、覚者)の天才的な心(精神)の理解によって創始されてきました。しかし、旧来の宗教(教義)は、科学的知識にもとづかず、神や祖霊、梵(ブラフマン)のような神話的で普遍性を持たない世界観(生命や人間や心の理解、人間の構想力の被造物)で形成され、今日まで百家争鳴の様相を呈してきました。
この傾向(非科学性と非体系性)は、今日の哲学や心理学、政治経済学等においても継続し、イデオロギーの混迷を招いています。その根源には、西洋思想に由来する人間の本質としての言語理解の混迷(すべての哲学・言語学者)にあります。われわれは、人間にとっての言語の意義を解明し、現代文明(社会)の混乱と閉塞状況を克服して、永続性のある平和で調和のある幸福な地球市民社会の建設をめざします。(2025/08)