●社会科学上の西洋的合理主義の根本的欠陥と新社会契約・道徳的社会主義の意義
■新社会契約と正義の実現
●新社会契約説の基本――西洋近代の政治経済学的限界を知ろう
■新自由主義の反道徳的思想
●ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗 : なぜ経済学にはモラルがないのか』
■市場経済における需要・供給と利益追求
● ハミルトン, C.『経済成長神話からの脱却』
◇ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉』から
◇ ガルブレイスのグローバル企業批判──「不確実性の時代」
● 社会科学における西洋的合理主義の根本的欠陥
と新社会契約・道徳的社会主義の意義
国家と市場交換における社会契約は、近代の政治経済思想においては、自律した自由平等な諸個人間の合理的な判断による合意と約束によって、公正と正義(等価)にもとづいて成立しているとされてきました。
しかしこの前提は誤っています。正義と公正は、現実の不自由と不平等によってすでに欠落しています。なぜなら、交換(契約)当事者間の情報の非対称性や不公正な所得格差から自然的に生じる、詐欺的社会契約が許されているからです。
等価とされる交換の結果は、現象(表面)的にはwin win(相互利益) の関係に見えようとも、実質的には評価の基準(価値判断)が当事者間で異なります。財産・所得の多寡、地主と借地人、大企業と中小下請け企業、資本家・経営者と労働者・被雇用者、独占企業と消費者大衆等々、具体例には事欠かないでしょう。
正義と公正の社会は、完全性ということはありえません。新しい社会契約は、交換と分配の正義が不断に検証され、そのために情報の透明性が担保されなければなりません。それによって人類が獲得した近代の自由と平等の原理ははじめて実現されのです。
新しい自由と平等には、共に人類史の発展と成果(精華)を共有する社会的責任が伴う。ここに道徳的社会主義の基本的意義がある。
■ 新社会契約と正義の実現
人間は生存のための様々な欲求をもち、不快(感情)を避け快楽(感情)を追求する。生存のために快楽(幸福)を追求し欲求を実現することは、人間にとっての善である。功利主義哲学者ベンサムも同じように考えたが、快楽原理の生物学的根拠にまでは考察は及ばなかった。しかし我々の「生命言語理論」における善とは、個人的な快楽の追求と欲求の実現だけではなく、個体と種(社会)の維持・存続を図ることが、欲求充足と快楽・幸福実現の基本原理であると考える。
従って、人間にとっての正義とは、個人主義的欲求と快楽追求の偏狭さを克服し、社会的自覚と責任を実践することも欲求と快楽の実現であると考える。なぜなら、人間は言語的・知的・思想的に、自己のみでなく家族、隣人、同胞、人類、そして地球上の全生命の存在意義を、感情的・自然的にも理性的・抑制的にも感情移入的に理解できるからである。
正義の判断は、人間においては弱者への憐れみや子どもの養育、友情や連帯のような社会的(種族維持)欲求と生得的感情の起源をもつが、高等動物でも生存競争(力関係)の中に、種(仲間)の生存を維持しようとする自然的バランス感覚を認めることができる(なお男女の愛は、社会性をもつが利己的欲求・感情である)。生理的欲求や感情は、政治的利害対立の調整、法律の制定や契約の成立において、常識や良識、良心や理性の判断として公正や正義の確定に影響を与える。正義の判断は、単なる利害得失の計算や多数決によって決まるのではなく、それらの数量を規定する個々人の欲求や感情にもとづく判断根拠(価値観・思想等の正義性)自体が正義か否かを問われるのである。
地上に共に生きる生命や同胞に愛情や優しさを共感し連帯できるのは、自己の欲求に満足し彼らに敵意を感じていないからである。逆に、生命や同胞を欺いたり憎しみあい、傷つけ殺し合うのは、彼らを自己の欲求充足の手段として快楽を得ようとするか、彼らの敵意に対して恐怖や怒りを感じるからである。人間は人間に対して悪意や敵意を持たなければ、意図的に傷つけ殺し合うことはあり得ないだろう(交換関係の正義性)。
所有を巡って反目し、異性を巡って争いがあるとしても、所有は分かち合い、異性は相互の合意を優先すれば敵意に発展することはない。不安や怒りや恐れなどの否定的感情は、自己の安全を守り行動を動機づける反応であるが、その原因を正しく認識し理性的解決策を探れば、争いの事態はやがて収拾できるものである。正義の実現は、紛争当事者の欲求と感情を抑制することのできるバランス感覚の中に潜んでいる。
「私たちの感情は、何が善いか、さらには何が正しいかについての政治的な擁護と同様にその実践的な理解にも絡んでいるように思われる。私はこの単純な命題を理論的な心理学のようなものに訴えることなく支持する議論を行っていきたい。その肝心な点は、感情についての共通感覚にもとづく見方に訴えるだけでも例証することができよう。」(ウォルツァー, M. 『政治と情念 : より平等なリベラリズムへ 』邦訳p208)
そこで基本的な質問です!
● 新社会契約説の基本――西洋近代の政治経済学的限界を知ろう
次の3つの命題の限界を指摘できる人、また批判を理解できる人が、西洋的思考様式の限界を克服し、新しい人類社会の創造をになうことができます。ヒントは、本当に自律した合理的人間が近代社会を造ってきたのか?ということです。
① 「初めに言(コトバ)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
(『ヨハネ福音書』 聖書協会訳)
② 「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。」
(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳)
③ 「貨幣または財貨は、一定量の労働の価値をふくんでおり、われわれはそ(購買)のと き、それらを等量の価値をふくむと思われるものと交換するのである。」
(スミス『諸国民の富』大内・松川訳 第1編第5章)
※上記三命題と関連する命題として以下のものがあります。
世界人権宣言(1948)第一条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.」(外務省訳)
【参考ないし解答例】
西洋的理想は、人間を「自由なものとして生まれ、尊厳と権利において平等である」と考えています。しかし、この理想が事実でなく、また事実からの発想でないことは、われわれの身近な事実(自然的社会的多様性や格差)からも、世界的な生活条件の比較(気候資源等々)からも明らかです。人生はままならず、生老病死、人間関係、五蘊盛苦など自由を制約するものが圧倒的に多いのです。
「理性や良心」についても、「授けられているbe endowed」ものではなく、教えられ育まれていくものです。「理性や良心」を育む土壌や条件こそが必要(必然necessity ※↓)なのですが、あるべき姿(願望・理想)が、何の条件もなく、結果として前提(生まれつき)にされてしまうのです。
このように人間性(人間存在)の前提を、事実としてでなく理想や願望として設定すると、「自由や平等」「理性や良心」を享受していないことは、個人の生後の努力の欠如した人、または神や幸運から見放された人と見なされてしまいます。そして「同胞の精神」さえ及ぼす必要がないと見なされるのです。西洋人=文明人、他民族=未開人・野蛮人・劣等人ということになり、十字軍以降の西洋人=キリスト教徒にはこのような傾向がありました(植民地化)。
今日の欧米思想には、このような傾向は現実には(シュペングラー、ヤスパース、トインビー等以降)かなり払拭されていますが、皆無とは言えません。ユダヤ教の選民思想を代表に日本の神道思想も含めて、自己を正当化する神学的思想は、右翼思想として世界中にかなり残されています。我々の求める道徳思想は、これらに反して、縁起思想を背景とする相対的な仏教思想にもとづく合理主義なのです。
【↑※西洋では、「必要なnecessary」ことは「必然なnecessary」ことである(必ずそうなる)と考えますが、「必要な」ことはあくまで願望・理想なのです。しかし、それを「必然的な結果」として結びつけてしまうのです。これが西洋的合理主義の本質です。商品交換がいかに不等価であっても、当事者が交換に合意すれば(結果)、必然的に等価交換になるというのもこのような西洋的合理主義に由来しています。これからの人権は、自由・平等も、理性・良心も、人間本性の事実から創造的に組み立て、それを現実化していかねばならないのです。】
■ 新自由主義の反道徳的思想
低所得者・失業者など社会保障やセイフティーネットの対象者は、怠け者・落伍者または金持ちの寄生者のように理解される場合がある。一部の有能な指導者・創造者・取引者によってなされる経済成長が、当然の高報酬を約束し、その恩恵が一般労働者や大衆にも「したたり落ちる」というのが市場原理主義者たちの言い分である。しかし富の集積や経済成長は、一部の人間の功績や労苦にのみあるのでしょうか。また、社会全体に富は公平に行き渡っているのでしょうか。
M.フリードマンなどの新自由主義の支持者たちは、アメリカ的自由競争の経済学理論(新古典主義)にもとづいて、資本主義の格差を正当化します。社会に貧困や格差等の社会問題があろうと、商品交換や分配に不正や欺瞞があろうと、結果的に市場の均衡があり、景気も循環的に回復すれば、それは「見えざる手」による自然な調整であり、多少の混乱は安定と繁栄に向かうのであり、政府の介入は回復を歪め成長の障害になると考えます。
しかし、実態はどうでしょう。1%の富裕層の利益のために免税し、貧困層を勤労に駆り立てるためには所得を高めることも社会保障も抑制すべきと考えるのです。そして、他方では商業メディアを通じて不必要な消費まで喚起し浪費をさせるのです。
例えば、トリクルダウン(trickle-down 滴落) 理論があります。富の増加が富裕層に集中しても、雫が滴り落ちるように、いずれは貧困層にも行き渡るというものですが、現実は異なっています。この理論の問題点は、アメリカ社会を見ればよくわかります。貧困層が1%富を増やしても、富裕層は10%増やすような現象が明白で、富の集中度と格差は年々高まっています。政府と商業メディアによる需要の喚起は、享楽的浪費と道徳的退廃を招きます。
○ 経済成長のない自由競争は、格差の拡大しかもたらさない。
すべての人々の生活向上は、需要の増大による供給の増大、つまり経済成長があるからであって、自由な交換による価格機構の調整があるからではありません。経済成長がなければ、少数の強者による多数者への労働搾取と独占商品の押しつけによって富が一部の人間に集まり、格差が拡大するだけなのです。
全体として国民生活が向上するのは、競争が経済成長を促進する場合だけであって、成長がなければ富は競争の勝者に集まるだけです。社会的欲望の増大が、生産力の発展と経済成長を促進します。そして生産された財やサービスが、市場の交換を通じて社会的に拡大することで国民生活が向上するのです。
競争が、即生産性を高めるのではなく、資源や製品の開発、技術革新があってはじめて経済成長が可能になります。競争の目的が、単に利己的な富(貨幣)の獲得であれば、限られた資源の奪い合い、格差の拡大になるに過ぎません。・
■ 市場経済における需要・供給と利益追求
市場は、売り手(供給者)と買い手(需要者)が商品(財)を取引(売買・交換)する場所です。売り手は商品を供給し、買い手は商品を需要しますが、両者の関係は相互に立場が転換し、売り手は、同時にその商品の対価を求める買い手になります。A商品を100円で売る(供給する)人は、同時に貨幣(商品)100円を買う(需要する)ことになります。
では、A商品を何円の貨幣と交換するか(交換比率)は、どのようにして決まるのでしょうか。この説明は多くを要しますが、簡単に売り手と買いての合理的な選択と合意(契約)によってとしておきます。通常近代人は、合理的選択をすると「安く買い、高く売る」「安い商品を多く買い、高い商品を多く売る」というのが商品交換の鉄則であるとを知っており、それによって利益(富)が増大することをインセンティブ(刺激)として交換(という取引・商行為・business)を行います。そればかりでなく、自己の利益だけを追求しても、当事者間の合理的選択の結果であり、市場全体として資源配分も効率的に行われていると見なすのです。
教科書的な経済学では、この原理を需要・供給曲線で表し、多少の条件分析は加えるものの、交換における当事者の思惑(損得感)や人為的過程に言及することは少なく、交換結果(効率性・等価性)のみを経済活動の原則とみなします。しかし、この交換過程における私的利益の追求やそのための情報操作に、商品偽装や不法行為等々による欺瞞性や不等価性が隠されているのです。さらに経済学者は、交換の過程や利益追求の結果として、環境破壊や失業・貧困などが露見して社会問題になると、「市場の失敗」という経済用語を案出して取り繕い、政府の介入をしぶしぶ認めるのです。
純粋(限定)条件だけの需給曲線(法則)では、複雑な現実の価格の高低や商品量の多寡を予想し、さらには経済成長の本質を見抜くことはできません。需給曲線に法則性はありますが、需給量や価格の決定条件が、広告宣伝や欠陥隠し、需給の人為的力関係等によって操作可能だからです。交換当事者能力や商品情報における非対称性によって、等価性が侵害されていることは、独占的商品や労働力商品等を見れば明らかです。また一般的市場でも、価格の変動の瞬間(タイムラグ)こそ、不等価による利益追求のビジネスチャンスになります。そもそも完全(純粋)な競争市場など現在はもちろん過去にもなかったのです。
産業資本主義が発達した現代の市場では、上記のような商業上の交換市場での利益だけでなく、商品を「より安く、大量に生産する」ことによってさらに利益の幅が増大します。そのために、原材料等や労働力を安く買い、機械(技術革新)を活用して(よい)商品(財goods)を低コストで大量生産します。大量生産した商品を販売するには、広告宣伝、景品、値引き等の詐欺的営業(business)が行われます。そして競争市場では、勝者が敗者を合併し、寡占・独占の大規模化が進みます。農業、鉱業の部門でも利益拡大のためにコストの低減と排他的独占が求められ植民地的進出と自然破壊が進められてきました。
経済学の完全(純粋)競争市場理論(新古典派経済学)では、市場競争が完全に行われておればという条件付きで、商品交換の契約が成立すれば、いかに高価格または低価格でも、値引きや上乗せが行われても、等価であるとされます。しかし、現実の市場に完全競争など存在しません。公正とされる魚市場や野菜市場でさえ、卸業者の恣意的取引によって必要以上の廉売や高値取引が行われるのです。競争は、効率性・合理性を求めて必ず淘汰を招き、寡占・独占とその状態の維持のために、労働者の整理解雇や経営の合理化が行われるのです。
利益を求める市場の競争は、低価格で良質の商品を、低コストで効率よく生産販売することを推進し、資源の効率的(不公正不平等を含む)な配分と社会福祉を向上させます。しかしそれは競争の目的が正しく道徳的抑制があり、公正な利益追求が図られる場合に限られます。生産者(販売者)がルールに反し排他的利益を求めたり、消費者が反社会的欲望の商品化を求めたりすれば、市場は社会に混乱と腐敗をもたらします。競争は生物の自然的本性の一つですが、人間はその本性を道徳的特性として抑制(あるいは美化)することができるからこそ人間なのです。
市場が公正なルールで自由な商品交換を運営できれば、そこで決まる価格による交換は、需給の均衡状態としての等価交換と見なしてもさほど問題ないでしょう。しかし、合理的選択による合意にもとづいて交換されれば、需給の均衡点はすべて等価(公正)であるという経済学的偏見は、交換の欺瞞性・不等価性を隠蔽する反道徳的な見解です。世界の平和と社会の安定、そして民主的連帯のためには、今まで政治や経済学の関心が低かった人間と人間の関係性(交換)を通じた利益(所得を含む)の追求に、効用や効率、需要と供給を越えた公正さ(交換的正義)が必要なのです。
自由な競争市場も、公正な交換による利益も、経済の円滑な運営と資源の効率的な配分、そして何よりも社会福祉の向上にとって必要なことです。しかし、社会的生産による富や利益は、利己的個人に集積されるべきものではありません。富の交換や分配は、公正と正義の原則によって行われるべきなのです。一人の人間の能力は、いかに優れていても、平均的人間の10倍を超えることはありません。富者のための(新自由主義)経済学で言う「トリクルダウン[滴(シタタ)り落ちる]理論」は、富者がいかに多くの人間に支えられ、または利用して財を集積しているかを理解しない、反社会的・反道徳的理論なのです。
● ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗 : なぜ経済学にはモラルがないのか』
原題 ADAM SMITH'S MISTAKE how a moral philosopher invented economics
and ended morality
「スミスが、実業家が公共社会を欺き抑圧していることについて率直に語っているのは、公共善を達成するのに必要な唯一の原理としてを唱道していることと正面から矛盾するように思われる。それを救うのは、競争という「見えざる手」であると考えられた。競争こそが商人や地主のそうした衝動や「高くつく虚栄」に秩序を与えるとされたのである。
スミスはロックフェラーの動機には驚かなかっただろうが、彼の成功には地団駄を踏んだだろう。スミスは、利己心が競争を弱め排除し、見えざる手を縛り上げるように働く可能性を見過ごしてしまったのである[排他的独占の成立]。絶対的な自由放任政策に見られる根本的な欠陥は、このような制限なしの利己心の結果である。」(『アダム・スミスの失敗 : なぜ経済学にはモラルがないのか』田中秀臣訳 草思社1996 p112)
「知の寺院におけるアダム・スミスによる聖典は、しばしば自由放任経済学と呼ばれる詐欺を行なうための精巧なシステムとして用いられてきた。」(同上p260)
「シカゴ学派[新自由主義学者達]の信念は、利己心の理論は経済学に限定されむべきでなく、むしろ人々は根本的に利己心に従って行動するし、またすぺきものだから、おそらくは、人間性と同様に、あらゆる社会科学の根底に存在しているはずだとする。」(同上p262)
※⇒ 著者は本来心理学者なので、スミスの利己主義肯定や自由放任を反道徳的であると批判しています。しかし、経済学にモラルがないのは、心理学上の道徳問題なのではなく、市場における等価交換の欺瞞性を隠蔽してきたからです。市場では需要と供給という教科書的な原理のみで商品の交換(exchange)・取引(business)が行われているのではなく、いかにして競争相手に勝ち最大の利益を上げるかを目的にしてきました。この現実を美化し道徳的制約を打破し、経済発展を合理化するために、等価交換という欺瞞的な表現が使われてきたのです。
確かに社会の富の増大は福祉の充実の必要条件ですが、他方、欺瞞の隠蔽と道徳性の放棄は、社会的対立や腐敗混乱、そして戦争の惨禍や近年では地球環境の破壊をもたらしています。著者は、スミスの「利己心の宣揚」を「失敗」とみなしていますが、それだけでなく、利己心にもとづく商品交換を「等価」とみなした「誤解(misunderstanding)」を指摘する必要があるのです。
● ハミルトン, C.『経済成長神話からの脱却 (GROWTH FETISH)』
「経済成長は人々の欲求を満たして幸福を増進するものだったはずだし、経済学とは少ない資源をもっともうまく使って福利を最大化ずるための学問だったはずだが、現実には経済成長は、人々が不満足でいつづけない限り持統できない。つまり経済成長は幸福を作りだすものではなく、不幸によって維持されるものなのだ。現代の消費者資本主義が生きのびようとすれば、つねに人々を不満足なままにしつづけなければならない。これは広告業界というものの役割が不可欠だということの説明にもなっている。」(嶋田洋一訳 アスペクト2004 p103)
「第三の道のトップランナー[イギリス労働党のT.ブレアー等]が権力のことを考えたがらないのは、新自由主義の擁護者たちと共通する傾向だ。また第三の道は経済学の教科書に基づいた人間の幸福のモデルに異を唱えることもしない。現代経済学の功利主義哲学にも、市場杜会にも疑問をさしはさまない。つまり暗黙のうちに合理的な経済人間ホモ・エコノミクスを中心に作られた哲学を受けいれ、それが暗示する人間中心主義、個人主義、物質主義、競争賛美を受けいれていることになる。」(同上p156)
※⇒ ハミルトンは、市場万能・自由放任を前提とする新自由主義だけでなく、経済成長を肯定的に捉える左翼社会民主主義や第三の道を批判します。彼は、経済成長を拡大する浪費的資本主義を克服し、共同体的な価値やエコロジーを取り入れて「ポスト経済成長社会」の理念と構造を明らかにしようとしています。彼自身は経済成長を全否定するわけではありません。しかし、幸福を実現するために「人間としての満足と自己実現の機会」を得るためには、ある程度の経済的ゆとりを持てる「善い成長」は必要でしょう。
農業社会に戻るならばいざ知らず、市場や自由取引を前提とするならば、彼のように「まず金銭への執着を棄て、消費を通じてアイデンティティを確立しようとするのをやめる必要がある」と言われても、基準の明白でない文化的な最低生活や災害時の備えを考えるなら、成長のない単純再生産では「定常経済」(ミルのことば)を維持するのは困難でしょう。新自由主義のように富の利己的独占や格差社会を肯定する「悪い成長」はコントロールすべきですが、公共的富の増大のための成長は、エコロジーに反しない程度に必要ではないでしょうか。
彼の言う「消費者資本主義」が、大衆の欲望やアイデンティティを操作し、結果として「社会的関係性の腐食」や病理的現象、大衆の欲求不満や不幸をもたらしているという事実を批判するなら、それは正当なことでしょう。今後とも先進国が高度経済成長を望むことは不可能ですし、資源エネルギーの限界は明らかなので、利潤追求のための欲望の肥大化は抑制しなければなりません。
今日求められるのは、民主主義の主体である大衆が、自律と自己抑制のできる首尾一貫したわかりやすい哲学や思想を構築することではないでしょうか。大衆の意識から遊離した理論に基づく変革はありえないのです。
◇ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉』から
「市民政治は民主主義の政治である。民主主義なる言葉の意味の簡潔な尺度とは、異議を申立て、疑義を唱え、政治的対立を維持する権利にほかならない。こうして、公然と発言し、報復を受けることなく挑戦し、自由選挙によって権力の座につき、敗者が野党にまわるとき、彼らの諸権利を尊重する、といった権利が存在する。相争う諸集団間に鋭い意見の相違があるかもしれないが、基本的には、「政治ゲームの諸規則」に関する一致、つまりいずれの集団も社会の道徳的秩序の一部であることを承認する合意が存在するのである。」(『イデオロギーの終焉』岡田直之訳 東京創元新社1969 「日本版への序文」p10)
「個人的諸要望の実現される機会と分配上の正義の原則が存在する社会において、個人がある位置を占めているのだと感じるときにのみ、民主主義は可能である。詳しく述べるなら、このことは高度な社会的移動、機会均等とくに教育上の機会均等、生活水準向上ならびに所得の公正な分配への期待を意味する。」(同上p11)
※⇒ 正義や公正の機会と原則が期待できないとき、民主主義は堕落し社会的混乱が発生します。民主主義は、ベルが条件とする「分配上の正義の原則」だけでは不十分であって、市場における公正な交換―交換上の正義の原則―が伴うことが必要です。市場経済(生産・交換・消費)の不公正・失敗・欠陥の是正は、民主政治の背景に、倫理・道徳のイデオロギーが必要なのです。過去のイデオロギーは終わっても新しいイデオロギーが創造されなければならないのです。
「市民政治[民主政治]は妥協の政治であり、『絶対的真理』と絶対的信念の主張を放棄する。妥協の政治には、原理喪失の危険と、政治が取引きの『猟官制[spoils system 利権制度]』に堕落する危険がつねに存在する。イデオロギー政治のばあいには、ヒトラーやスターリンの支配にみられるように、法の堕落と恣意的で気まぐれな権力行使との、もっと大きな危険が存在するのである。」(同上p11)
「わたし[ダニエル・ベル]にとって『イデオロギーの終焉』とは、政治における狂信主義と絶対的信念の終わりであり、一枚の青写真にしたがって、いとも容易に社会の改革ができるという『傲慢さ』の放棄なのである。イデオロギーの終焉は市民的秩序の始まりである。」(同上p12)
※⇒ ダニエル・ベル(1919-2011)は、優れたマルクス研究家であり社会学者でした。彼は、先進資本主義諸国における「豊かな社会」の到来とともに、階級闘争を通じての社会の全面的変革というマルクス主義的理念はその効力を失ったとして、マルクス主義を含む宗教的信念や狂信としての「イデオロギーの終焉」を主張しました。
彼のイデオロギーの概念は、ヒトラーやスターリンに見られるような狂信主義や絶対的信念が前提となっています。しかし、イデオロギーはそのように狭い意味で捉えるべきではありません。民主主義にはそれにふさわしいイデオロギーがなければ、欺瞞的経済原則の支配する堕落した市民的秩序となります。民主主義を欺瞞と腐敗から遠ざけるには、個人が社会的責任を自覚しうる新しい社会契約が必要となります。
マルクス主義の歴史的破産は、スターリン主義の非人間性、東欧諸国の抑圧、カンボジアの大量虐殺、ソ連の崩壊、中国の一党独裁国家資本主義、北朝鮮の世襲独裁制等々で明らかになりました。さらに、今まで理論上の矛盾や現実との乖離が指摘されていただけですがが、古典派経済学を中心とする伝統的経済学の近代的限界を解明することで、西洋的社会科学そのものの限界、すなわち合理的個人を前提にする経済理論そのものの理論的破産が明らかにされています。
マルクス経済学に関して言えば、エンゲルスによって科学的とされた唯物史観と剰余価値説に致命的欠陥があります。この欠陥が自覚された後に、一般的概念としての共産党とマルクス主義の分離が現実的に、どのようにして可能かという問題が残ります。これはマルクス主義の欠陥を共産党員と称する人たちが、自覚できるかどうかにかかっています。
では、マルクス主義に代わりうる共産主義の思想はありえるでしょうか。それは不可能ではありません。なぜか、共産主義は理想として存在できますが、マルクス主義は誤った西洋的偏見から生じた似非科学だから分離可能なのです。共産主義は、理想として限られた宗教的共同体において存続できます。しかし、真実にもとづかない信念や理論を、自己の行動を正当化し他者の存在の否定に用いれば、人間抑圧の理論とはなっても人間を解放することは決してできません。古いイデオロギーの構造を、新しいイデオロギーの創造に向けなければならないのです。
◇ ガルブレイスのグローバル企業批判──「不確実性の時代」
「法人企業は、価格を支配し、さほど主権をもっていない消費者をこれに順応させる。また法人企業は、消費者の趣向を、自らの生産物に合わせるように形づくる。誰もが、この力を認めずにはいられない。それが行う広告は、われわれの視覚を支配_し、われわれの耳に他のものが入らぬようにしてしまう。」 (ガルブレイス,J.K.『不確実性の時代』都留重人監訳 TBSブリタニカ 1978. p347)
※⇒ ではどうするのか?「不確実性」ではすまされない。われわれは確実な見通しをもって、多くの人が検証可能な形で合意できる経済社会を構築しなければならない。
■ 詳しくは、大江著 『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判(後編)』を参照してください。