役者妙々痴談返註録下
返註録下巻は妙々痴談下巻の現役役者批評に対応して、中村芝翫を説教した楽禅及び岩井杜若を説教した瀬川仙女(三代目瀬川仙女)が勝手に名前を語り子孫を辱めたと、痴談(本)を責める。 痴談下巻では五代目瀬川仙女(五代目路考)、秀佳(三代目坂東三津五郎)、も登場するが、返註録下巻の紙面切れと言う事で痴談を責める機会は与えられなかった。
返註録上巻と同じで、返註録下は妙々痴談(下)を先に読んでいないと理解しにくい。
①
役者必讀妙々痴談返註録 巻之下
江戸 烏亭主人著
半草庵楽禅釋分芝翫梅玉之傳
瀬川仙女古今流行意味替杜若述
半草庵楽禅は先刻より念珠をつまぐり居
たりしが、眼をひらきてすゝみより、立川の先生
松緑ぬしののたまひし事ども理ならずといふ
事なし、愚僧もそやつに申ことあり。中村芝
②
翫を懲すとて楽禅なりといつわりて、片腹
いたき事どもをならへ立ていひしよな。まづ
その三ツ四ツを説き分べし。▲ 敵役は悪
躰なるが愛敬なり。真に悪きハ故人中島
勘左衛門・故人市川宗三郎なり。平生から
無人相にて愛といふものさらになく、敵役を
我が生涯の家業にせねはならぬと凝て勤め
しゆゑ、狂言のうへにても真底悪かりしなり」
とハあまり古風ないひやう、おれも年寄だが
そんな流行におくれた事ハ云ハぬ。役者といふ
ものハ御ひゐきのお客のお座しきへも出るもの
ゆゑ、五人よりハ十人、十人よりハ百人とひゐきの
多くなるのがその身の出世、いかに敵役なれバと
て、平生から無人相で愛といふものさらに
なくてハ第一ひゐきがなし、ひゐきがなければ
出世もならぬといふもの、近きたとへは今の
3
注
三階=歌舞伎楽屋で、下級俳優のいる場所。
注
1. 書ぬき=演劇で、台本から俳優一人一人のせりふだけを書きぬいて一冊に綴じたもの。 所作事でせりふのない も のも表紙だけを作る。台詞書(せりふがき)
注
立もの=芝居の一座で中心になる役者、立役者, 立役。
④
本幸四郎どのを見ろ、平生ハあの通り
のいゝ人、しかも唯のものよりは気の
ちいさきうまれなり、舞䑓へ出てかたき
役をすると真底にくらしく見える、あれか
ほんの名人上手ともいふへし。また敵役
ばかりを身にしミて、これが一生の業だとて、
平生からにくらしいやうに仕手ハ、相立まて
ならそれでも済むが、立者にハそのやうな不
自由な事でハなられぬものなり。また▲(痴談ニ曰) 一
座のたばねをもつとめんとおもふこゝろかけ
あらバ、能書博識にハおよびもない事な
がら、いろは四十七字ハさらなり。走りまハりの
俗字ぐらゐハよめるやうにこゝろかけて居ねハ
かなハぬ事なり。そなたの師匠歌右衛門か
初手江戸下りの時、去る屋しきの奥から
おさむらひか※1三階へ来て、見て居る前で是非
⑤
とも書てくれいとて色紙と扇を出して、
いろはでもいゝから自筆て書てと詰ばら
を切るやうに、何か句(く)だか何だかわからぬものを
書たが、そのときおれにもならべて書てくれ
いと所望ゆゑ、ちよつと一筆書に蚯蚓を
書て、御縁先ミヽすのたくる五月雨といふ画
賛をしてお茶をにごしておいたが、さすがの
歌右衛門も赤面して、その日から急に手
ならひをはじめた」とハあまりといへハにく
くしく、おれか名前を出されてめい
わく至極、芝翫を側へおいて異見がまし
くならべ立ては、歌右衛門と芝翫を
無筆だといハぬばかりだが大きな間違ひ
なり。今の芝翫もずゐぶん自分用ハ足
すぎるくらゐに書るし、※1書ぬきに假名を
ふつたのがきらひで頗る者さ。これ等の
⑥
事を恥々しく書のが大きなこゝろ得
ちがひ、役者は舞䑓での事がわるけれは
恥であろうか、身持の事や手のわるいの、
物を知らぬのといふ事ハいハヾ内々の事
て、渡世にかゝわつた事でハなし。又▲(痴談ニ曰) 書
ぬきを人に讀ませておぼゆる」などゝ書
しが、相中にはあろうも知らぬが、※1立もの
には壹人もなし。いろはさへよめれバ事ハ
済でゆくものなり。たとへば、扇色紙を
人にたのまれても、たゞひゐきゆゑ自
筆がほしさのミなれば、手のよし
あしに寄るべきや、手を吟味する気
ならば書家に書せるだろうし、狂歌
俳諧をこのむなら大人方へたのもうし、
三階へ持て来るものハたとへ御屋しきでも
侍でもたゞひゐきの人がこのミゆゑに、その
⑦
役者にひねくつてもらひたさ、なろう事
なら紅筆で書たのがほしいなどゝ野)
がこのむゆゑ何でもくるしくはなし。
また、▲(痴談曰) 今の若ものは器用な事で狂
言の替り目にするとて、急の茶の湯を
稽古したり、舞䑓で大字を書とて、
にハかに手ならひをしたり、目くらへびの
たとへにて論にも評議にもかゝハらず、気
性が能とかなんとかいひておくものゝ、笑止
な事どもなり」などゝはあまり法に
過たる雑言なり。急稽古であろうが
一夜漬であろうが、茶の湯なり大字なり
間にさへあへば、舞䑓では済だものなり。既に
貮ケ年以前子別れに芝翫が口筆にて
書たが、なかく急稽古のやうでハなし。見
物をおどろかせし事は皆人の知る処
⑧
なり。おれが舞䑓で茶を立た事をいふ
てあろうが、おれはじたい茶が好で不断
する事なれば、それで御見物が手前
がよいとかなんとかおほめなさるといふもの。
されども不断の立かたとは大きに相
違して、法をはつして事を大きくする也。
何でもそのまねを大きくすればよきもの
なり。痴談に書たやうに絵でも茶でも
花でもほんとうにせねばならぬと云へば、第
一立まハりがうそなり。試合のとき、しない
を二本筋違に置流儀はなしなれども、
舞䑓でハ筋違にせねば見えがわるし。
なんでも遠目から見えのよいやうにセね
ば、舞䑓はならぬものなり。夫をなんぞや、
などゝ文人か書画会にでたやうな事を
⑨
云ずと、藝の事を云がよし。藝の事を云事
がないならバ何も云ぬがよし、返答いかにとつめ
寄れバ、痴談ハ面を表紙のごとく真青にして無
言居る。楽禅は聲を振り立て、返答なきハ誤り
しか、摺本なりと引さきくれんと立かゝるを仙
女はおしとめ、まづしばらく待たまへ、破れ
てしまへばたねがなし、しハだらけになら
ぬ先、わたしも存ぶんいハねばならぬ。杜若
どのとハむかしより人も知りたる中よし
どし、それをなんぞや、杜若どのに見られ
ても面目もなき事どもなり。第一
云ふべきは、▲ 女形は餘分の給金も取、
太夫と尊敬され、櫓下に名前を上る事、
座がしらでもならぬ事也」などゝ女形
の手がららしくいふが、やぐら下の事、又
太夫の事は、この道へはいるものに知らぬ
⑩
ものもなき事なり。芝居はむかし
鳥羽院の、御宇、道憲入道諸藝に堪能
の人なれば、舞楽を和らげ、磯の禅司と
いふ女に舞を教へ、白き水干・立烏帽子・
太刀を佩、舞しゆゑ男舞といふ。
禅司が娘を静といふ。これに傳へ、後に
白拍子と云へり。それを学びて大小の
舞、それゆゑに女歌舞妓といふて元は
女なり。観世大夫、宝生なとゝいふを学び、
尊敬て太夫といふなり。しかれば、一芝
居に壹人にかぎれる事なり。その後、
女を禁ぜられてより女形を太夫と云
て、やぐら下へも名前の上る事なり。何
もをんながたの手がらといふものには
あらず。また▲ 當時三ツ扇の紋所は
ぬひあげのある娘のやうに於もひ、顔も
⑪
うつくしく、愛敬はこぼれるほど
あり、羽二重の似合ふ身を持ながら、白
井権八の、悪婆のと、立役からする加
役をして、今ては家の狂言となりた
れど、それは體に持てうまれたる役
なるを、その子供たちがおやの真似をすれ
ばよき事とこゝろえ、女がたの情をうし
なひ、をんなにもまれなる艶色の面を
持て居て、早切の立まハりをしたり、
尻をからけてかたき役をなげたり、
ほうつたりして、とかく男のまねをする
のをとどめもせず、無言て見て居(ゐ)ら
るゝハよからぬ事なり。それを五代目の
大若しゆめが見ならひ、何処の国にか
角力の役をしをるやら、かたき役をし
たり、のちくは先祖の名まへを穢す」
⑫
などゝ、ものしりめかして書れしが、夫
は流行を知らぬといふものなり。女形
が女がたばかりして、立役がたち役ば
かり、かたき役かかたきばかりでハ今の見
物の気にあハす、むかしはむかし今は今
とて、役者は流行第一にこゝろえ、立役が
女かたをしたり、女がたが立役をしたり、
なんでもせねば大立ものにはなられぬ
なり。今ハ芝居ばかりにはかぎらず角力
でもむかしは幕の内と云へば大きな體、
いくらつよくともなりがちいさければ幕
下かぎり、、それが今でハからだがちひさく
とも角力さへ上手で勝さへすれば幕の
うちへ上るなり。既に横綱免許の関取
阿武松は前角力より取あげて、うへも
なき関取となるやうなもの。役者ハ何でも
⑬
器用に出来るがよし。角力ハちいさきとも
勝がよし。なんぼ仏になつたとて流行に
おくれた事を杜若どのにいふやうな仙女
にあらず。また▲(痴談曰)ミづから提多粉盆を
腕にさげて」などゝ、ちょつと皮肉を云ひし
はあまりなり。又此五代目の事もと
いハんとすれば、路考はおしとめ、わたく
しの事ハ、わたくしの身持のわるい
事なれは、人をうらむる事ならねど、今ハ
この世になき者を。▲(痴談ニ曰)またも奸夫の
こゝろきさし、主ある女にせまる」などゝ死
恥までかゝせるハ、何そうらみのありての
ことか、その返ほうハ是かうとたちあがれば、
しうかハおしとめ、おつとまつたり、是からハ
おれか番といふを焉馬ハ中へわり込、まづく
まちたまへ秀佳、ぬしこの本の丁数も限が
⑭
役者必讀妙々痴談 返註録巻之下終
あれは、いつまても長論談は御見物の
かへつて退屈なさるれハ、半分を切て初
編となし、あとハ後編くといふかとおもへば、
の白猿の南柯の一夢はさめたりけり
稟伏
坂東秀佳、五代目路考の註草稿ことぐく
出来あれども丁数に限あれバ引つゞき出板いたし候御求
御高覧可被下候 板元欽白
注
1.稟伏 :伏して申
2.引つづき云々: この後は出た形跡はない
出典:個人