万宝集

万宝集

この板本は薬の広告であるが、物語をいくつか収めており物語中で薬の宣伝をしている。 旅の途中で足を痛めて困っている旅人がこの薬で直ったとか、ばけものの様な娘がこの薬で見違える程綺麗になり感謝感激などなど。 昔から薬くそ(九層)倍と云うが費用を掛けて立派な板本を作っても十分儲かったものと思う。

出版時期を示す語句は無いが挿絵の様子から見て文政から天保期と思われる。

万宝集

1

神農氏ハ震旦太古ノ聖天子也、仁徳深ク万民ノ病患を愍ミたまヒ

百草ヲ嘗テ能毒ヲ試ミ、或トキハ毒ニ中リ絶死ニ至リたまフト云ウ

是ヨリシテ医療ノ方発リ至今、和漢万民ノ病脳ヲ救ひたまフハ、此

天子ノ仁徳ニヨレリ、コレニ依テ我朝医家聖像ヲ画テ、深ク尊信ス、然レ

トモ万民コレニアヅカラズ、因テ今此霊像ヲ画テ、万人必コレヲ尊信スベキ

事ヲ示ス

薬師再来

万宝集目録

不老長寿円 小半剤 一匁五分 一剤 六匁

半 剤 三匁

心・ひ・じんの三臓を補ひたすくる大妙ざいニて天下無双の腎薬也 *心臓脾臓腎臓

十八丁目

こころよくつうじ丸 一ふく 代銀 五分

万病の毒をこころよく大べんへつうじ治する奇方なり

一丁目

道中御たつしや薬 一ふく 代三十二文

此薬ハ道中するとき、足ニぬり候へバあしいたみ申事なく、いかほどの

長たびニてもくたびれ申事もなく、馬・かごいらぬ大重宝の妙薬なり

二丁目

かんしやう丸 壱ふく 代銀 壱匁

壱廻り 代銀 七匁

かんしやく・りういんのくすり

本銘美顔散 四丁目

御かほあらひ薬 一ふく 代銀五分

かほのつやをいだし、きめこまかにし、いろしろくなり、にきびあせぼ

はたけ其ほかかほのくさ、できもの治することめうなり *くさ 瘡

2

(挿絵)

御道中御たつしゃ薬 一包代三十二銅

半包 十 六銅

是を二度に用ゆ

此薬ハ道中にて足のいたまぬ調法の薬也、毎朝出立に水ニて和にとき、足の

うらよりかうゆびの間迄も能くぬりて歩行バ、たとへなん所なる山坂を登り

又ハ五里七里道を過しても足いたまず、まめ出ず、かつけおこらずはれたる足ニハ

湯上りにぬりおけバ翌朝までに元のごとくになる也、かつけおこる御かたハ

いたまぬ先きに、いつもいたみの出る所へぬりて、御歩行被成候はバねつを出さぬ

ゆへにかつけおこらず、くたびれるといふも足腰のしんどうなるも、ミな足に

ねつでるがゆへ也、此薬用ゆれバ道中にて足いたミにて少しも御なんぎなき

故、千里の道にても馬・かごいらず、ま事に道中第一の宝なり

但しいたまぬさきに用てよし、一夜になおれども又つよくあるけバいたむ也

3

一打身のいたミ并はれにぬりてよし、惣而はれをちらす大妙薬也、是迄永旅の

廻国廿四輩など足いため、難儀する人に施し申所、いかほど損じたる足にても *巡礼

此薬にて二三日養生すれバ達者ニ成也、四年已前京都三條旅籠やニて江戸

之道者二人連内、壱人廿五六才の男道中より大きに足をいため、いざり同然なり

元より路ぎん乏敷ゆへ、かごにのる事能ハず、十四五日京ニ逗留していろいろと

養生すれども不治、旅籠やも飯料御算用せぬゆへ、早く御出立下されと、追出

ゆへ、ま事に跡へもさきへもゆかぬなん義のてい、見る人あハれに思へども、其なん

義すくふ方便なき所へ、我等ふと参り合せ幸ひの事也、此方の妙薬を以、今三日

の間ニ全快させ、堅固ニて帰国致させ可申と受合候所、旅人のいわく御なさけ有

がたく候得共足いたミにて存の外長たびニ相成、少々の路用も遣ひ切御薬のあたひ

無御座候、且又今三日此所にとうりうも飯代さん用得不仕候ゆへ、早立去と

亭主しきりにさいそく、此上三日止り候ハヽ両人にて又十弐匁斗宿ちん相重り申候

有がたく候得共此義ハ御断申上候と受ず、其儀ハ安心致されよ価にハ不及、先々

薬を参らすべし、と其まま薬をときて足にしたたかぬらせ、且三日のあいだの用ひ

よふくわしくのべて、扨亭主をまねき対面していわく、此客人のしだい世話の

ほど察申なり、我等はからずも此所へ参り合せしも因縁ならん、只今此方の

みうやくを遣せたれバ今三日の間ニ堅固ニ全快させ、こころよく帰国致させ

申べし、今三日御せ話給ハるねし、飯料としていささかながら金百疋差上申べしと

相渡し、我等ハ東六条ニ今四五日とうりういたし候、病人出立の砌参り又薬を

参らせ申べしと申たれバ、亭主も病人も相宿の旅人達も神仏のよふニ申て

悦バれしが、此方の心の内ハ神でも仏でもない、此薬施したれバよく相弘、十双

ばいに成てもどるべしといふ大欲心なり、さて三日過て四日目の朝かの處へ

震旦: 中国の古い時代の呼び名

神農: 中国の伝説上の最初の帝王

4

見廻候所、病人ハはや前日おり足も元のごとくに全快して、未明より食事をし

まい、身ごしらへしてわらぐつをはき、早出立の躰なるが、我等がすがたを見てなミだ

をうかめ手を合せ、連れの人もろ共厚く礼をのべらるる、我等も宿の呈書に

受おふた手前もよく、殊に存もよらず人の大き成なんぎをすくいしも、是みな先

祖の威徳なりと心嬉しく、又したたか薬をあたへ此薬毎朝にぬりたまへ、又中食のせつ

今一度用ゆれバなおなおよろしく、もし道中ニて路用になん義なれバ此度薬

にてなん義助りたるわけをいふて、此薬旅人にうりて路銀をもとめたまへと

あたへたれバ、其旅籠やに同宿せし人々も関心して、銘々はなむけとして、鳥目百文

又ハ豆板壱ツ二朱壱分とめいめいに餞別致され、思ひかけなく壱両余りもらい

大きに悦び、其金子にて亭主に飯代算用して渡さるる、亭主も病人長滞留

相成難義少からんも斗がたく外へ御出被下候と御さいそく申たれども、此飯代ミな

申受候事ハいたしがたく候と、半分せんべつに致され斯くのごとく達者に

成て御出立被下たれバ此上の悦びハ御ざらぬ、と内義がこりに飯を

したたかもりてはなむけにせらるる、旅人ハ嬉しさ足も地につかず、そこ

そこに礼をのべてて出ゆかれけり、扨道中の宿々より、今日ハ何の国を廻り

何と申所に泊り、何里何時に着仕候と、毎日大阪へ登る人さへあらバ厚き

礼状越されて、其礼状持参の人々ハ道中ニ而足をいため、右之男に

薬をもらい、なん義助かりたる人々ゆへ、功能をよく賞美して銘々以二朱

壱分の薬ととのへ、帰る人数しらず、依之京都にて施せしも早十ばい

に成て戻りけり、是ひとへに薬の功能の妙なるゆへ也、全く薬師如来の

御慈悲の利益なれバ各随分信仰して用ひたまへ、此方ハいづれの薬に *あらわれ

ても調合之節ハあるじ婦夫ハ七日前より物忌し、当日にハ寅の刻

5

以下見開10ページ略