江戸雀

江戸すゝめ

江戸雀は1677年(延宝五年)に菱川師宣の画で刊行された初めての江戸の地誌である。 実用的な江戸の名所案内として作成され、全12巻四冊の板本として江戸で出版された。 1657年の明暦の大火で10万人の死者を出し江戸の町は灰燼に帰したが、それから20年後の復興した新生江戸が描かれている。 この当時は四代将軍家綱の時代であり、関ヶ原から70年余、大坂夏の陣からも50年余経過し、戦国も遠い昔の事となった頃である。

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註1 松門閉て---

謡曲「景清」の中の一節 : 松門閉じて独り年月を送リ、自ら清光を見ざれば・・・・

註2 尾上の松: 兵庫県加古郡にある高砂神社に有名な相生(赤松と黒松の二本)の松がある。 夫婦仲睦ましい目出度い松とされ、古歌に詠われる。

うき難所: 憂(う)き難所か

註2 見ぬ世の友 ; 見た事もない昔の作者

徒然草13段 ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる

註3 燕雀鴻鵠

「燕雀なんぞ鴻鵠の志を知らんや」 秦の末期に反乱を起した陳勝の若い時の言葉として史記にある :燕や雀のような小鳥には大きな鳥の志は分るまい。

註4 百になれども踊り忘れず

「雀百まで踊り忘れず」の諺: 幼い時に身につけた習慣や若い時に覚えた道楽は、いくつになっても直らないというたとえ

江戸雀 序

竊に松門を閉てひとり年月を送る事、此江府に良(やや)久し

かりし、抑今の治世を考ふるに、誠に和漢の聖代に超て

其政すなほなれば、上 明君より下万民にいたるまて、快楽

のおもひをなさすと云事なし、されば東南西北之内いづくか

豊饒せざらんや、あるひは高砂の尾上の松も後々百歳に

も色替らす、蓬莱宮之の鶴亀は千秋万歳の祝言を

なせり、かゝるめてたき 御代なれば、国富・民豊にして

歌人は山頂の花に詠し、詩人は池辺の月に題をなせハ

武家は弓を嚢に籠め、干戈は函に容て、静謐の代を

猶守護せり、商人百姓は己々が所作をいとなミ、五穀成就に

円満たる事あげてかぞふへからず、春夏秋冬の遊山見物

唯此時にやあらめ、且ハ神社仏客の繁昌ます\/也、僧侶

は二六の勤行をなせば、社人は颯々の声をすゝしめ、其

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異儀正しくせり、是武運長久たらまししかハ、爰に自が国本の

人、柴の扉を尋て来れり、うれしくもなつかしくも有て、種々のもの

かたりを問聞にこそ、つれづれの慰ともなりけらし、暫く時移つて

後、国の人我に問ていわく、我はるばるの道すから、うき難所を越過

て汝に今逢ふ事は、偏に 上君の御政道たゝしきゆへならすや

そも\/過つる中頃まては此地へ来なん人あれば、皆人憂ふる事

堪に忍ひかたし、今はいつしかひきかへて隣歩のごとくにして

往還の煩ひなく、ミな人此武江に着り、然るに我に等しき

旅人の下着して後、寺社名所・武家屋敷・町小路を一見仕侍ん

といへとも、第一方角をしらず、殊に道筋唱斜として竪横直(すなお)

ならず、去る仍て往来しかたく、汝我ために是を教へてんやと

いふ、予答て云、我もと当地の者にあらず、貴殿と同国たり

此地へ来て星霜をふる事十余年に及べリ。故に有まし

所々順道をしれり、我朋友の案内に武家屋敷民家の

町等をしるさん、叉寺社名所旧跡を入て見ぬ世の友になりもや

せんと、雑紙のしわをひきのばしてそろ\/筆を取そめて、大

略をしるすにそ、心おそろしくも恥かしき事にや侍るべき、漸

々かきつつけて、この一部の書をんばしてんけり、国の人いへるハ汝

よくしれり、江戸雀にやといひてければ、去は燕雀鴻鵠の

心をしらず、といひてはかなき喩に上たれば、百になれども踊

忘れずして、よしなき若草をつくりしかあれば、此題号を

誉友の言葉に付て、江戸雀と名付てんとて傍にさし置、叉

重ねて国の人いへるハ、此書江府の案内なれば花咲ぬ埋木と

くちをか(朽置)んもむげなれば、此たび板行にさせて世に弘め

ばやといへり、予がいわく是智有人の見るべき物にあらず叉

当地案内の人はしかなり、君がごとく成人にとりあたふべき

物といへれば、いやとよ諸国の人々、日々に此地へ入こむ事布

をひくがごとし、然れば斯の人に道しるべのためならんといふ

むさし鐙さすがにことやさしくも、かく人のすすめけるを取上ん

も其甲斐なければとて、是非なく梓にちりばめてける、これ

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唯諸人の嘲をまねけば、狂人のわざにして、人に指をさゝ

れんものなり、我大方の順路を知るといへとも、あるひハおぼえ

ちがひ亦は書おとしあらめ、名所旧跡はいにしへより言伝へ

聞おぼえたるを書付ければ、是以珍しからずとて兎角

浅心愚痴にして、文学を得ざれば、敢へて見る事なかれと

云爾(しかいう)

治まれる 時とや知りて 江戸すゝめ

さへずる声も 万歳\/

江戸雀目録 初巻

御城之初并年中御規式之事

方角順道之事

追手下馬より銭亀橋・常盤橋・神田御門

壱ツ橋御門・竹橋御門・雉子橋御門・清水御門・田安

御門・椛町御門・鼠穴まての内、屋しき付之事

龍之口より道三がし・銭かめ橋・呉服橋・鍛冶橋或ハ

すきや橋・日比谷御門・和田倉御門迄之内、屋敷付事

和田倉御門より内桜田御門・喰違御門まで之内

屋しき付之事

桜田御門より日比谷御門・山下町・御成橋御門・虎之

御門まて之内、屋しき付之事

二巻目

麹町御門より四ツ谷御門迄之内屋敷町付之事

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糀町御門ゟ赤坂御門・溜池虎之御門まで之内

屋しき付之事

霞ヶ関の事

山王権現の事

糀町御門より四ツ谷御門・牛込御門・田安御門

番町筋屋しき・町付之事

田安御門より清水御門・雉橋御門・壱ツ橋御門

神田御門・鎌倉がし・駿河台・筋違橋御門

相生橋・水道橋・小石川見付・牛込御門迄之内

屋しき町付之事

三巻目

常盤橋より筋違橋・新敷橋・浅草見附大橋

三俣・崩橋・高橋・湊橋・霊厳橋・思案橋・態常橋

親父橋・あらめ橋・道場橋・江戸橋・日本橋・一石橋迄

之内、寺社地内屋敷・町小路之事

禰宜町・浄瑠璃并歌舞伎初之事

三俣船あそびの事

戸越橋より北八町堀・稲荷橋・霊厳橋

将監橋・江戸橋迄之内屋敷・町小路之事

紀伊国橋ゟ南八町堀・真福寺橋・鉄砲州・築地

塩留橋まで之内屋敷・町小路付之事

西本願寺の事

四巻目

江戸橋ゟ日本橋・一石橋・呉服橋・鍛冶橋・すきや橋

山下町・御成橋・新橋・紀伊国橋・真福場寺・高はし

戸越橋迄之内、屋敷・町小路之事

ため池を限て虎之御門・外桜田・御成橋・新橋

塩留橋・愛宕之下・増上寺辺・金杉橋・同新堀ヲ

かぎり西之窪・長坂日ケ窪・梗概橋・渋谷青山宿

近辺、赤坂築地之内寺社地内・屋敷・町付之事

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四巻目ー十二巻目 目次省略

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江戸雀初巻

御城之初并年中御規式之事

抑武州江戸之府と申奉るハ多景一入かぎりなし、先東南ハ滄海

満々として果もなし、北にも海をかたとり隅田川といふ大河の流

つよく、西は七重八重の堀をかまへ其外関々山河難所なり、扨御本丸

と申奉るハ縦広甚有といへとも知る人なし、御門之番所やくらにハ

数百の人番をつとめ、御本丸に相つづき紅葉山御仏殿有、その

景世にかくれなしといへども平人の目に及はず、同じつつきに西之丸

あり、此御城の起り申は、中頃長禄年中に太田道真築立之ヲ、同

道潅まで二代、そのゝち上杉定正之手にわたり、子息五郎朝良、叉

二代それより朝興在城之時、北條氏綱入かハりて四代相つゝく、氏直

の時にあたつて 御当家の元司此地へ入らせられ

亦々御城地御見立之節、西之丸より本丸の方へいつくともなく

鶴来て舞遊び、亀ハ陸地に蠕行(ハイユキ)出て万歳のしるしを顕ハ

せり、是繁昌之地として即御本丸城之、代々の 御在城と遊

註1 江戸城起源

註2 上杉家 北条家

註3 御当家の元司; 徳川家康

さるゝ、去によって国々之大小名御在番怠らず、されば年々の

右図: 追手門(大手門)より下城する主人を迎える家来達か

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御規式相かハらず先年始之御沙汰元日二日御一門の御方・国主

城主之人々三献の御祝、其外諸侯昵近の面々、御詰衆・番頭・物頭

諸役人・諸番の健士御流を頂戴す、且叉大中納言・参議・中将

侍従・四品・五位之諸太夫までハ美服二領つゝ下し給り、家禄の軽重

と官位の浅深によつて、あるひは台、或は広蓋もつて是を拝領

し、三日ハ諸大名の息子・無位無官・諸家中の証人、京都大坂奈良

堺伏見淀にをよび過書・銀座・朱座の輩まで落縁に群候し

早々進物是をさゝけ奉る、御礼のその規式目を驚す所也、同じ夜ハ

御謡初として酉之刻より御大広間へ御出座有、祝候の大名ハ皆

長袴を着し装を刷ふ、四座の猿楽板縁に群候し御拍子三番

所謂老松・東北・高砂是也、折々小謡順之うたひ、諸侯より頂戴の

御杯台銘々に披露有て、御酒宴なり、其夜は乗物下馬追手

下馬におひて篝火をたく事、寔に白昼かとうたがハる、四日御詰衆

ハかり登城せしむ、五日ハ御門跡方近関遠堀之諸寺諸山の出家・

社人・山臥等数百人充満営中、台顔を拝し奉る、七日ハ七種の御

粥献之、十一日御具足御鏡開并に連歌御興業、十五日恒例

の諸御礼、十七日東叡山御参堂、廿日同所御参宮、廿四日増上寺へ

御仏詣、別して此三日は御装束をあらためられ、長柄の御輿をめぐら

され、供奉の勇士二行につらなりあゆむ、その出たち或は衣冠衛府

の太刀はき、叉は大紋風折烏帽子、布衣以下平侍頗る数を量り

がたし、辻々門々屋々の警固、えぼし・素袍袴を着し大路にひれふし

還御の砌ハ御両典・御一門方、其外諸大夫・諸役人・無役の面々拝し

奉る、弥生三日ハ諸大名已下御礼、卯月朔日御初物をさし上る

五月五日ハ端午之御祝ひ伺々御さゝげ物奉る、六月朔日富士山の御氷

召上らるゝ、此氷のひやゝかさ実に大寒の中にとくる氷にひとし、是たゝ

禁裏へ氷室よりさゝげ奉る例かと見へし、同十五日は 御氏神山王

権現御祭礼御矢倉に出御まし\/御一覧有に、そのまつりの美々

しさ或はハ引山・花屋躰錦金鑭を張廻して小歌・三味線・笛・つづみ

太鼓・かねをうちならし神慮をなぐさめ奉る、叉は笠鉾・母衣負

人、おもひ\/の出立其装花やかに羅綾の袂・錦繍の裳をひる

がへし、見物の老若桟敷をかまへ、土民は莚をしき、群集なゝめ

ならず、神輿は是三社なり、隔年に祭もあり、同月十六日は

御加増日、七月七日七夕の御祝儀、諸大名已下御礼也、同十五日にハ

御詰衆ハかり 登城有之、八月朔日八朔の御祝御礼同断、九月九日

註1 過書 海運の特権所有、銀座 貨幣鋳造の特権所有、朱座 朱墨製造の特権を持ついずれも町人の座で京都奈良堺伏見淀に隆盛を究めた

註2 四座の猿楽: 官許の江戸歌舞伎で中村座、市村座、森田座、山村座をさす。 山村座は後1714年に取り潰しとなる

註3 東叡山: 上野の寛永寺、この後増上寺と共に将軍家墓所となる。 同所参宮 上野の東照宮に参拝

註4 衛府の太刀 奈良時代の近衛兵が持っていた飾り太刀

註5 布衣以下 官位六位以下の武士

註6 御両典 この時は四代将軍家綱の時代であり、弟に当る綱重(甲府宰相)と綱吉(館林宰相)をさし、御三家に次ぐ家格になっている。 綱重の官名が左馬頭、綱吉が右馬頭を称したが、官名の元は律令時代の典厩(厩の長官)故、両典厩叉は両典と云った。 家綱に子がなく綱重も病死のため、下の弟綱吉が五代将軍となる。 綱吉も子がなく、綱重の子綱豊が六代将軍家宣となる。

註7 八朔の祝儀 天正十八年(1590)八月朔日に徳川家康が関東に入国した事を記念する祝い

註1 重陽 : 旧暦の五節句のひとつで9月9日に当る。菊の節句とも言われる

註2 亥子の祝い: 旧暦10月の亥の日に猪の多産にあやかり,また,万病を払うまじないとして亥の子餅を食べる。 もとは宮中の年中行事として行われた。

註3 穴賢 あなかしこ めでたい

註4 たまほこの =道、 道、里の枕詞

註5 よこや 長屋

註6 館林宰相 後に五代将軍となる徳川綱吉.。この江戸雀が出版された頃は参議、館林藩主25万石。 この三年後1680年に兄である四代将軍家綱の養子となり、将軍職を継ぐ

註1 ひじ廻り 直角ー鋭角に曲る

註2 御つきや蔵 米搗き小屋

註3 中丸様 家光正室の鷹司孝子(1602-1674)

家光と不仲で大奥を追われ、北丸と大奥の中頃の屋敷に住んだので中の丸様と呼ばれた。 現在の位置では竹橋の近代美術館付近

註4 壱町=3000坪

註5 典寿院: 天樹院の事と思われる

2代秀忠の娘で豊臣秀頼の室となり、大坂落城時救出された千姫(1597-1666)、 その後本多家に嫁いだが寡婦となり江戸城に戻る。 家康の孫娘であり、家光の姉に当る。

屋敷跡は現在の北桔橋外の国立公文書館付近にあたる

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重陽の御祝儀御礼同断、十月亥子の祝ひ、申の下刻御譜代

大名其外以下 登城せしむ、その夜門々にたくかがり火は天津

星にことならず、水に映しておひたゝし、さて霜月にいたりてハ御

鷹野に出御あり、極月にハかならず忠勤にしたがひて官禄

仰付られる也、毎月朔日・十五日・廿八日諸大名其外番頭物頭諸役

等御出仕無怠慢 御登城有之は誠目出度御事也、穴賢\/

武士(もののふ)の出入(ではいり)かけは花の江戸

左行(ひらり)右行(しゃらり)と寄るは大下馬

凡大厦の御構へ方二十余町也、郭外より東の方は八町堀に

木挽町・鉄砲津・女木・三谷・霊巌島にいたり、僅に十町にたらず

是海岸拠なきゆへなり、西は市谷・四ツ谷・中野・牛込・小日向・小石川

高田・雑司谷・千駄木村いたつて二里余、南は赤坂・青山宿・一木村

桜田・愛宕之下・西久保・浅府・渋谷・白銀・目黒・池上・芝・品川・神奈川

にいたりて七里、東海道の順道是なり、北は浅草・浅茅原・隅田川

千寿・板橋・越谷・王子・平柳まで四里なり、都て東西三四里南

北十余里、大小名の家々思々の営作、以金銀築地とし、珠玉を以て

砂石とす、泉水・築山眺望日夜佳遊の宴を催し、此外所々

の神社仏閣逼々の民家・小屋軒端を継て建つゝき、錐を立へき

畾(らい)地なし、草類のむさし野ハ名のミ残つて有明の月も家より出

ていえに入かとあやしまる、然る程に繁昌豊饒の躰想像せし

めたまふなり

たまほこの 道のミち(満)たる 時なれば

むさしの原は 名のミ なりけり

▲ 御本丸廻り屋しき名付之事

追手下馬より銭亀橋・常盤橋・神田御門・壱ツ橋御門・竹橋

御門・雉子橋御門・清水御門・田安御門・麹町御門までの分

一追手御門より右下馬腰かけ有、右龍の口への道左壱ツ橋御門へ

の道、左角御家老酒井雅楽頭殿、此屋しき百間程有、右角土屋

但馬守殿、此おやしきをすぎて行あたり御破損小屋、左右に道有左へ

の道神田への道、右へ少し付て同角館林宰相様、右角御破損御小細工

小屋、此間百間近くすぎて行あたり土屋伊予守殿よこや、左右に道有

右に彦二郎橋へ行、但廿間あまり行てから左角土屋平八郎殿右彦二郎

橋有、左酒井了庵・佐田玉川・山本道旬・伊阿弥角之丞殿・水野監物殿

竹田道庵、町奉行嶋田出雲守殿よこや此間二町あまり過て右に銭亀橋

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左常盤橋の方へ壱町行て西へ行脇に稲荷御宮有、土手下馬場之右

角酒井河内守殿、左かど松平佐渡守殿并に土屋伊予守殿、右東かどハ

小笠原遠江守殿、此間二町過て行あたり 館林宰相様、左右に道あり

右へ半町行て西へ行ば角土井能登守殿并水野中務殿よこや也

左館林宰相様屋しきじり此間二町行あたり井上相模守殿、左右に道

有右へ付て北へ行に左松平和泉守殿右水野中務殿行あたり、それより

西へ付て行ば松平和泉守よこや・本多土佐守殿、此間二町行て左に道あり

追手へ行前の通り西北へひぢ廻りて二町程行ば右角松平伊予守殿

表門有、横手に壱ツ橋御門前の通西へ行ば右かど御つきや蔵六十間余り

あり、よこてに酒井日向守殿此やしき六十間程有、行あたり雉子橋御門前

を通り行あたり竹橋御門に入て右に 中丸様御やしき跡壱町余有、此横

て北へ行ば左典寿院様御やしき跡のよこて壱町の余有、行あたり堀有

右へ十四五間行て北へ行ば行あたり清水御門、堀に付て西へ行ば右秋本攝津守殿

此やしき壱町の余有、横手に道有北へ行ば左山高宗右衛門殿よこや、つづき石川

美作守殿よこてに道有、前のつづき小笠原山城守殿、右増山兵部殿、引当

たやす御門此間二町の余有、前の前の通ほりハた山高宗右衛門殿・志良平兵衛殿

此間壱町有、行あたり安藤内蔵殿火消屋敷向に同与力衆の家有

此間壱町此辺代官町といふ、それより南東へ付て二町半行、左典寿院様

御屋しき跡右御蔵左右に有、右西へ付て行ば御米蔵七十間程あり

左右に道有、左の道西がハに石谷七之助殿、同長門守殿よこやをとをつて

西へ半町行ば左角へ道有、右は酒井大学頭殿并に大久保山城守殿続

て西尾右京殿よこや左明地、此間三町すぐ道、左右に道有右之道

西へ付てゆけば西尾右京殿・西尾隠岐守殿此間二町程有、行あたり

麹町御門、右北へ道有此通りを行に左角筒井内蔵殿・朝倉伊左衛門殿右

西尾隠岐守殿よこや、倉橋内匠殿つゝひて郷原甚右衛門殿・酒井大学殿

地ばり、左がハ中条左京殿・中根百助殿・伊沢源右衛門殿右に道有、行当

北條右近殿、東つづき池田備中守殿火消屋敷・北条右近殿よこやを北へ

行ば今田忠右衛門殿・松平治郎兵衛殿・大岡治郎兵衛殿・木田五郎左衛門殿となり也

左矢部四郎兵衛殿・伊沢水主殿、引あたり此辺を鼠穴といふ

▲ 龍之口より道三がし・銭亀橋・呉服橋・鍛冶橋・すきや橋

日比谷御門・和田倉御門まで之内

一龍之口まへに板倉石見守殿屋しき有、ならびに畳小屋有

一八重数がし通南へ行ば右に和田倉橋、左ハ酒井修理殿よこや・松平伊予殿

裏長屋、此間二町有て左に道有、前のかし通同かど萩玄正高倉屋敷

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(中略)

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右図 山王権現神社

註1.慈覚大師 円仁(794-864) 下野国出身、最澄に師事する。 入唐八家の一人(最澄、空海、常暁、円仁外)

註2.和光同塵 自分の才能を隠して世の塵にまみれる事

註3.八相成道 釈迦の生涯を八つに分ける

註4.円頓 天台宗の教義で完全な悟りを実現する事

註5.我(わが)立つ杣(そま) 自分が住む山、比叡山の異称

註1.東方浄瑠璃世界 東方にあるという薬師如来の浄土。瑠璃を大地として、建物・用具はすべて七宝造りで、多くの菩薩が住むとされる。

註2.衆病悉除 天台宗の祈祷。薬師如来が立てた12願の1つで薬師如来の名号を聞けば・衆病を悉く除くというもの。

註3.七難三毒 七難は七種類の災難」という意味で、「法華経」では火難・水難・羅刹(らせつ)難・刀杖難・鬼難・枷鎖(かさ)難・怨賊(おんぞく)難を云う。 三毒とは「貪りの心」「怒りの心」「愚痴の心」の三つが 人間をいちばん苦しめる毒薬という

註4.三世覚母 智恵を生ずる母(=仏) 文殊菩薩の異称

註5.渇仰 深く仏を信ずる

註6.回禄=火災.。 承応3(1653)年の火災の後、社を江戸城内より溜池に移転

註7. 御当家=徳川家 徳川家は清和源氏の末裔であるという設定である。 従って清和天皇の孫で源氏の祖である六孫王源経基を祭る

永田山 山王権現之事

一御当社山王権現は叡山第二世の座主慈覚大師之開基なり

是江府の鎮守として和光同塵の利益浅からず、八相成道を示し

給ふ、然るに慈覚大師仏法弘道のために、むさしの国川越にいたりて

今の星野山をひらき初て円頓の教法をひろめ給ふ時、且ハ仏法

永く伝へんがため、叉は和光の利益を普東国にほどこさんがためにと

て、我たつそまの山王権現を上の七社中の七社下の七社中の内各一社つゝ

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をぬき給ひて三所の霊神を勧請し給ひぬ、抑三所の神と申奉るハ第一に

は上七社の内二の宮の権現本地薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主也

二六の大願をかなへ給ひて、衆病悉除の別意は漏さず参詣の輩を

すくひ給ふ、第二にハ中之七社の内きびの宮本地は即聖観音なり、七難

三毒の春の霞は十九説法の風にきえ、三十三身の秋月は五濁の水に

影きよやか也、第三にハ下七社のうち王子之宮本地は是文珠大士也

三世覚母の智剣は三障四魔の軍を破、独歩無為の妙用ハ四徳

三味の光をほどこしたまふ、爰に依国家豊饒せり、関八州之内にハ誰

か渇仰し奉らん、かくて星霜を累て後花園院の御宇長禄三年に

太田道潅江府の城に住ける時、文明年中に始て此御神を星野山より

城内に勧請せり、さるによつて近き比まで山のての城の西に御社あり

ける時ハ、再興修造の其綺麗なる事善つくし美つくせり、叉承応三年

に回禄の後今の溜池の築山無双の勝地たるによつて、上命を蒙り

此処にうつし奉る、月日幾許ならずして造営の功を立らる、金殿玉楼天

にかがやき、広棟朱簾地に映せり、されば御当家の御氏神となさせ

らるゝも其故なきにあらず、御先祖六孫王経基公は坂本の山王御氏

神也、然れば殊更御崇敬有へき也、神事は六月十五日なり、江戸中

の大神事として諸大名大かたは氏神としてあがめ奉らせらる、まつりハ

隔年ごとにおこなれ侍るなり

ひやせ\/ 山王の場の 真桑瓜

中略

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▲ 禰宜町 浄瑠璃付歌舞伎之事

それ浄瑠璃之根源は、いにしへ左馬頭源義朝公之八男御曹司牛若丸ハ

常盤腹にハ三男なり、父は平治の乱に討まけて尾張国野間のうつミ迄

註1 禰宜町 現在の人形町界隈

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左図 この当時に歌舞伎の風景

正面 :舞台

左側手前 :桟敷

正面下及び桟敷と舞台の間の凹んだ場所: 芝居(土間)、いわゆる一般席

註1 矢矧 三河国矢矧

註2 浄瑠璃 三味線に伴奏で歌、物語を奏でる、義太夫、清元などの流派がある

註3 白拍子起源 徒然草の215段からの引用と思われれるが、原文は 「多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に、鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に教へさせ給ひけるとぞ。」となっている。通憲入道とは藤原道憲(1106-1160 信西入道)で鳥羽天皇の時代である。 静とは有名な義経の恋人静御前である。 時代が80年程下って後鳥羽院は、白拍子から寵姫となった亀菊に芸を教えたと云われる。

註4 歌舞伎は出雲の阿国(安土桃山時代の女性)が始めたといわれている。

註5.江戸の四座 中村座、市村座、森田座、山村座

註6 しやうすかは 三途の川

註1 驪山宮 中国 陜西省(省都西安)の驪山に温泉宮があり、玄宗皇帝、楊貴妃がよく利用したという

註2 つがい ペアとなる

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落下りて、長田の庄司を頼暫休息し給ふに、忽に心かハりして湯入にこと

よせて腹をきらせけり、爰によつて源家の一類身の置所をうしなふ、然るに

牛若は鞍馬の山に隠れい給ふに、十五歳の春の頃兄の頼朝伊豆の国ニて

義兵をあぐると聞て、其まゝくらまを忍びて出、其なを九郎義経とかへて奥州

にくだりしに、有日矢矧の宿につき給ふ、爰に長者が娘に浄瑠璃御前といふ

有、此娘薬師の申子なれば其名を浄留りといふ世にかぎりなきびじんにて

殊に情けの色ふかかりける、然るに牛若はひまをもとめて忍び入てひたすら

くどひて恋られしに、さすがの岩木にあらざれば妹背の語らひなし給ふ、此事を

面白くことばに続けてふしを付示たりける、それより此かた様々の事をつくり

出しけるを浄瑠りといひならハせり、爰に 御当地御繁昌に付て粗浄瑠り

太夫数多有、大さつま・伊勢大掾・肥前大掾・是弟丹波掾・土佐少掾等とて有

叉説教にハ石見掾なり、芝居にきらをつくしてけつかうせり、草木形方の

つくり物金襴の色金物の光目をおどろかす事共なり

一歌舞伎の始と申は、その上後鳥羽院の御宇に通憲入道と云者磯のせんし

といへる女にをしへてまハせける、是より事おこりて遊女みな此ふうを学びて

笛鼓もなくて今やうをうたひてまひかなでけるを白拍子と名付たり

後にハ笛鼓を入てまハせけり、歌をうたひてまひける妓女なればとて歌舞

妓とハいへりとかや、近比まては遊女共芝居を構て歌舞妓をしけり、皆人

此れにめでまよひて世の妨となりければ、程無く禁制せらる、去ゆへ若衆

かぶきといふ事を初めけり、叉ぞや少年の子どもに魂をうばハれける、重て

其かたちを見にくきやうにして人の恋をさませんにしかしとて、ひたひ髪を

とらせたる、此ゆへにくゝり頭巾をなせり、狂言を出る時にハ付髪をするなり

此江戸にしてハ中村勘三郎根元なり、今ハ市村竹之丞と二しばゐなり、また

木挽町にも二しばゐ、舞台の軒場に玉をつらね、芝居の砂に珊瑚を敷

かと疑ハる、しらべ合する糸竹之声うらゝかに梅の香をなして、鶯の羽かぜ

にも乱れぬべし、歌うたひかなでるさま、紅葉をかざす世界は天つおとめの

雲の通路に袂をかへせし袖ふるに、むかしもよそにハあらじと思ハるゝ、狂言ノ

しくミしとやかに三ばん四ばんのつゝきにして、或はあハれなる事、いかる事

叉ハしのびわかれの事、男女のたハぶれ色々に、えんまにあらざらつくり髭

しやうづかハのうはのふせはば、とりどりのしなおもしろし、名人の役者

をそろへたれば埋りとも思はるゝ、花のぶたいへすゝむすがた金銀瑠りを

ちりばめて、綾羅金襴をかざりたるふぜい、太鼓のばちのをとにきく

p38

驪山宮のいにしえかくやらんと思ひしられける、日々の見物はつくば山の麓

のごとく聞しは気にさる物にて、山鳥の尾のなが\/しく筧の水のたゆる事

なく、さもいさぎよき口上は柳の糸の乱なく実のくれたけすぐなるわざ

道のミちたる狂言ハいかなる人丸のあてむとも難ずべき事かたからんや

一此所に来たりて見物するにも色々有、桟敷にゐる有、しばゐにゐる有

弁当を持たる有、さゝへをこしにつくるも有、然るに桟敷にいる方々ハ上より

舞台を見おろせば、叉しばゐの輩ハまへなるハもゝしりになり、うしろ成は

のびあがりて、耳もとまで口をあけ、涎をながしうちゑミてさも大きなる

声をあげ何様だれ様おでやった、やう\/つがひ申すなどとどよめき渡る

者あり、是は貧福の人にもよらずただひやうきんのよたくれものがいへる

物にや、或は笛鼓しやミせんなどをしらべ合せ、歌をうたひ舞のなかば

叉はせりふの最中にわけなき口をたゝくゆへ、物をともさだかに聞へず

然るにをのればかりが面白きとて、人の嘲りかえりみず、是なん喧花買の

馬鹿ものならん表(しるし)止させたや\/

あやつりも かぶきもおなじ たわぶれの

うきをわするゝ なぐさみのたね

中略

p39

三俣

一此所を三俣といふ事は浅草・新堀・霊厳島、此三方より返して水

のながれわかるゝゆへ三俣とは申也、実にその景はかりなし、北にハ

浅草・深川・新田島、東叡山待乳山、眼のまへにさえぎりて、西の方

にハ当御城下栄々増繁く、愛宕の山の権現堂霞をわけて見へ

わたり、辰巳の方にハ伊豆の大島、ひつじさるにあたつてハ三国無双の

富士の山半を雪のうちおほひ、九夏三伏のあつき日もたえせぬ雪

の峰白く、夏あつきをもしらなミのかへらん事も見る也、ひがしハ遥に

安房・かづさ、南ハ滄海満々たり、いつにまさりて望月の三五の暮の

船遊ひ、ことに勝れてゆゝしけれ、たつときもいやしきも船をつらね裳

をそめ、おもひ\/に出船のうきにうきたる有まゝをかの金岡も筆を捨

絵にうつすともかきがたし、さて叉ふねのたハぶれハ歌をうたひ、まひを

まひ、琴さミせんにふえ太鼓、なミもろ共にさざめかせ、さて船々のふな

しるしふじおろしにもませつゝ色々の花火のてい、流泉ハ雲をわけ、玉

火はなミにうつろひて、したり柳にいとさくら、風に乱るゝ有様ハ芳野

註1 東叡山 上野の山

註2 辰巳=南東 ひつじさる=南西

註3 九夏三伏 夏のこと

註4 三五の暮 十五夜の事

註5 かの金岡 巨勢金岡 平安時代前期の有名な宮廷絵師

註6 三俣 隅田川、小名木川、箱崎川 が集まる。 現在の日本橋中洲、浜町と箱崎町と地続き

註7 ふじおろし 富士おろし 富士山からの風

p40

龍田の花もみち、是にハいかでまさるべし

さあ御座れ 月もみつまた 舟遊び

江戸雀以下略

出典 国会図書館