異国船異聞

川越藩内地武者右衛門異国船異聞

19世紀に入ると日本近海に外国船が頻繁に現れる様になる。 理由は近海の捕鯨漁場に展開する捕鯨船及び交易を求めるイギリス、ロシア、アメリカ等の艦船である。 1825年には度重なる外国船とのトラブルにより幕府は異国船打払い令を発する。 其後モリソン号事件等国内からの批判及び清国が英国に敗れた事から、打払令を中止し薪水供与に政策を変更するが海防に一層力をいれる様になり、特に江戸海(東京湾)の守りに重きをおいた。

江戸の海防は幕府の浦賀奉行及び三浦半島側は川越藩(松平大和守)、房総側は忍藩(松平下総守)が主に担当し、観音崎と富津を結んだ線よりも中に異国船は入れない方針だった。

この文書の異国船はアメリカの軍艦コロンブス号とビンセント号がビッドル大佐に率いられて浦賀に来航した時の事で、乗止めと云い異国船に乗込み船を観音崎の手前で止めさせる為にビンセント号に乗り込んだ警固武士の咄である。