延元軍忠状

軍忠状

延元元年(1336年)の楠正成の花押がある文書であるが、江戸時代の写書と云われている。

内容は和田左近将監助康という武士が南朝方に加勢して合戦に参加、部下を失いながらも奉公したので恩賞に浴する為に、この事を証明して欲しいと云う趣旨である。 是に対して楠正成が、合戦に加わった事は相違ない旨を認めて花押を押している。 この花押は楠正成のものという。

江戸時代の古文書は近世古文書というが、それ以前の戦国時代鎌倉時代迄中世古文書という。

和泉国御家人和田左近将監助康申

和泉の国御家人の和田左近将監助康は申上げます

右助康は去年(建武2)11月28日、京都に馳参じて御手に属し、宇治より東坂本に配置させられ、同16日に西坂本に向かい、同27日に合戦を致しました。 同28日合戦致した時、若等の藤内兵衛尉助が戦死しました。 同月末鴨河原内野の合戦を致し、同2月10日11日に豊島河原に進撃し合戦をして忠節を尽くしました。 とりわけ一昨年飯盛城の合戦に於いては最初11月18日到着より同22日26日と合戦を行い、同12月1日の合戦で若等新三郎明宗が射殺されました。 同12日には助康舎弟の仲次助秀が疵付き、同月末には中間の源内が疵付けられましたので隠す事なく御報告します、恩賞に浴し且御証明を賜りたい。 忠節に奉公した事概略以上申上げます

延元元年3月 (建武3年2月29日延元に改元)

相加わり合戦致した事相違ありません 花押(楠正成)

右助康去年(建武二)十一月廿八日、馳参京都属御手自宇治

令参東坂本、同十六日罷向西坂本、同廿七日致合戦、同廿八日

致合戦之刻、若党藤内兵衛尉助儀被討畢、同晦日致鴨

河原内野之合戦、同二月十日・十一日罷向打出豊島河原、致

合戦忠節候畢、就中於去々年飯盛城合戦、自最初十一月

十八日付御着到、同廿日廿二日廿六日致合戦、同十二月一日合戦

若党新三郎明宗被射殺畢、同十二日助康舎弟仲次助秀

被疵、同晦日中間源内被疵之条、無其隠之上者且頭御注進浴

恩賞且賜御証判欲、致奉公忠節牟粗目安言上如件

延元々年三月 日

致相加合戦之条無相違候也 花押 *楠正成

出典:個人