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赤穂事件 大石書翰

元禄14年浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りつけた事件で内匠頭が切腹、赤穂城が幕府に接収された後、大石が山城に滞在中に書いた書翰と云われている。 宛先が早水藤左衛門となっているが、此人は当時何所に居たのか、叉本当に正しい宛名か疑問ある由。

貴札致拝見候、弥御無事ニ

御座候由、珍重存候、先頃其許へ

御越之旨承及候、爰許相替

儀無之、拙者無異儀罷在候

木挽町ニ而も無御別義旨承

及候間、可御心易候、如仰先頃

原惣右衛門下向申候、此義ハ日外

面談申候通、拙者義未腫物透と

平癒不申旁延引申候、彼地

之趣も承度様子、追々申越様ニ

申含差遣し申事ニ御座候

頃日大高源五も其元へ下り候間

自然御逢候ハヽ、様子御聞可被成候

被入御念預示忝存候、大森

次郎兵衛殿ゟ遠方御飛脚御

音向不浅存候、宜御心得頼

存候、恐惶謹言

大石内蔵助

九月晦日 花押

早水籐左衛門様

貴札(貴信)拝見居たし候。 いよいよご無事に

御座候由、 珍重に存じ候。 先頃其許へ

お越しの旨承り及び候。 爰許(こちら)は相替る

儀これなく、拙者異儀なく罷り在り候。

木挽町(内匠頭弟、浅野大学の住居地)にても御別儀なく旨、承り及び候間、お心易くかるべく候。 仰の如く先頃

原惣右衛門下向申し候。 此義は日外(以前)

面談申し候通り、拙者義未だ腫れ物透きと

平癒申さず、 旁延引申し候。 彼地(江戸か)

之趣も承り度き様子、追々申し越す様に

申し含め差し遣わし申す事に御座候

頃日(けいじつ)大高源五も其元へ下り候間、

自然御逢い候ハバ、様子御聞き成られるべく候

御念を入れられ預示(よじ)忝く存じ候、 大森

次郎兵衛殿より遠方御飛脚御

音問(音信)浅からず候。 宜しく御心得頼み

存じ候、 恐惶謹言

大石内蔵助

九月(元禄14年)晦日

早水藤左衛門様

註:

1.大坂に居る早水藤左衛門に大石からの書翰という説である。 大森次郎兵衛とは大坂町奉行与力で早水と懇意だったという。

2.下るは京都から大坂に下ると考えられ、必ずしも江戸を指すものではない。