禁中并公家中諸法度

禁中并公家中諸法度

1615年(慶長20年)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康が名実共に政治の実権をにぎる。 直ちに家康は二条城に全国の大名を集め、武家諸法度を発表し全国の大名統制を確立する。 同時に朝廷の法を定めて朝廷も幕府の保護管理の下に置くべく、この禁中並びに公家中諸法度を定めた。 それまで天皇の機能や職務に触れたものは全くなく、それを規定した事は画期的と言われている。 朝廷内の序列や服装に至るまでこと細かく規定しているが、それだけ朝廷内では皇位継承や権力闘争のゴタゴタがあったと言う事のようである。 この起草は武家諸法度を起草した金地院祟伝といわれている。 この法により政治の大権は天皇にはなく、幕府に全てが委任されたと言う解釈が江戸期を通じて確立していた。