文久三鎖港通告に対する各国返書

文久三年六箇国応接小笠原書翰并国々返翰

日本の開国は1853年、54年に来航した米国使節ペリーとの和親条約を皮切りとし英国、ロシア、オランダと和親条約を結んだ事に始る。 和親条約の延長上に通商条約があり、1858年に米国と結び、同年に英国、ロシア、オランダ、フランスとも結び安政の五カ国条約と云われる。 条約に基き翌年には横浜、函館、長崎を開港して貿易が始る。 条約では遅れて新潟及び兵庫も開港する事になっていた。

幕府としては世界の趨勢から見て開国やむなしとして進めたが、一方開国に反対する攘夷派も多く、特に朝廷がその最大の壁となった。 幕府は朝廷との軋轢を避ける為に将軍家茂の正室に皇妹和宮を迎えるなどしたが、逆に朝廷は上洛した将軍に文久三年五月十日を攘夷の期限として約束させる。 幕府としては攘夷は不可能と見ており、形だけの攘夷でまず鎖港の話を通告し、それに各国が反論したのが今回の史料である。