三上山騒動顛末記

三上山騒動顛末記

この百姓一揆の舞台は滋賀県野洲、甲賀、栗田の三郡と多数の村を巻き込む一揆であるが、中心は野洲郡の三上村である。 原因は幕府が新たな財源を確保するために行おうとした土地見分にあり、一説ではこの見分の為に不正な尺度が使用されたので、村々がこの見分を拒んだと云われている。

この文書では野洲川筋の空き地、新開地等の見分が天保12年11月に始まり、天保13年10月に三上村に及んだ所でいきなり一揆が起こっている。 この間一年近くあり、百姓側も増税の危機感を持ち一揆の準備を進めていたと思われる。 一揆は成功し、幕府見分の役人に10万日の見分延期を認めさせ、事実上見分は中止となったが、 強訴の罪で関係者が多数獄死、処罰されている。

尚この一揆については再評価され、明治維新後全員が赦免され、首謀者の三上村庄屋平兵衛他、犠牲者は天保義民として顕彰されている。