文久三年下関事件

文久三年下関事件

江戸時代末(1859年)日本は世界の趨勢と外国からの圧力もあり、関係各国と通商条約を結び開国に向った。 しかし幕府の開国に反対する攘夷運動も各地で起り、水戸浪士による井伊大老の暗殺を始とし、英国公使館である東禅寺の襲撃、坂下門における幕閣の襲撃、叉偶発的であるが薩摩藩の英国商人殺害(生麦事件)など1860--63年に次々と起る。 特に一部の藩による朝廷工作も行われ、尊王攘夷の機運の中で主導権を握った朝廷は文久三年五月十日を攘夷の期限とする事を上洛した将軍に約束させる。 幕府も朝廷の圧力を無視できず、武力行使迄は考えて居なかったが形式的に各国に横浜鎖港等の方針を伝えた。 しかし兼ねてから攘夷急進派の長州藩は5月10日(1863/6/25)を境に関門海峡を通過する外国商船に対して突然砲撃を開始した。 幕府は日本国の政府としての統制力を各国から疑われ苦境に追い込まれるが、この下関事件は翌年の四国連合艦隊(仏英米蘭)による下関戦争へと発展する。

続通信便覧〔明治3年編纂外務省資料)

癸亥六月七日

訳文

千八百六十三年第七月十七日横浜にて

大君の執政御老中台下に呈す

大君の貴政府より余并他外国の名代等の軍艦は

此国の大名の港には到らざる様、度々報知し給ひた

り、此願日本及び外国の間に在る和合に齟齬すれと

も、厚意を以て軍艦は右の港に至る事を見合たりき

斯ある厚意あるを此国の大名には之を体認せず、就

中長門侯毛利大膳大夫下の関の近傍に於て、不意に

其軍艦并に多くの台場より、各外国船に大砲を打掛

讐敵の所為ありしは未曾聞事なり、右外国船は日本

の内海の端なる狭き瀬戸を通り、長崎へ到るものに

して、その港に到の所存にはあらざるものなり、斯の

如き無残の所業は海賊の企ありて、諸文明国民を打

払らひ苦しむるを欲してなり、

右大名当月八日仏蘭西の小蒸気船を襲撃したり、右

船は仏蘭西諸士官の外、此使臣館の通弁官ウェイ\/

を長崎へ乗せ到るものなり、右ウェイ\/日本との平

和を保続せんとの意を、長崎に在る我国臣民に伝示

せむべき為、差遣せしもの也、仏蘭西蒸気船は平和

の意を体すれは、全く大砲を備ふることもなく、小に

して弱きがゆへに、下の関の瀬戸を通航する中一時

の間、敵より烈しく大砲を打掛られ、之を拒くに便な

く大に損毀に及べり、

此船は仏蘭西海軍に属し、凡ての旗章を建てたれば

其到る所の大名の尊敬を受くべき筈なり

台下の使節大君に於ては大名を服せしむる権なし

と余等に毎度報告ありしを以て、昨日得たる新報に

驚きて右の故を以て、帝国仏蘭西のアドミラールジー

レス、セミラミスと号する船に乗り出帆し、長門侯の

方へ到り、其船に為せる未曾聞の襲撃の為甘心せん

との目的なり

余アドミラールジーレスより尚新聞を得ば謹て速

に呈すべし、敬白

ジセンダベルクル手記

右は在日仏蘭西公使ベルクールから幕府外国掛老中に宛てた1863年7月17日付書翰であり趣旨は以下の通り。

関門海峡で自国の小蒸気船〔キャンシャン号)が7月8日に突然長州藩の砲台から砲撃され破損した。 これは条約違反であり、叉是迄の日本の関係役人によれば幕府は大名を統制する権利が無いと云っているので、仏蘭西の提督ジョレスの指揮の下軍艦セラミラス号を現地に派遣した。 ジョレス提督から情報を得たら改めて報告する。

癸亥六月九日

仏蘭西全権ミニストル

エキセルレンシー

センテ ヘルクルへ

貴国第七月十七日付書簡、我長門国下の関近傍にあ

りて其領主、松平大膳大夫所持之軍艦台場より貴

国軍艦へ向け砲発いたし、毀傷あるに至りしよし、就

而者其アドミラール・エキセルレンシージュウーレス

彼表へ出帆せられ候旨報告之段驚嘆せり、右者其国

のみならず、既に亜米利加并阿蘭陀船々にも発砲せ

しよしにて、斯く其報を得たれば何れにも我政府おい

て所置之次第も可有之候間、暫く被相待度且書中、政

府には大名を制すべき権なきよし我等が差遣せし

ものより演説せしよしなれども、固より然る筋ある

にあらず、右者双方言語之間にて行違候儀にも可有

之と存候、右返簡如此候、拝具謹言

文久三年癸亥六月九日

松平豊前守 花押

井上河内守 花押

右は幕府老中から仏蘭西公使ベルクールへの返翰書(1863年7月19日付) 趣旨は以下の通り

貴国船に対し長州藩砲台から砲撃し船が損傷を得た事、貴国軍艦を現地に派遣した事を聞き驚いている。 米国及びオランダからも同様の砲撃を受けた事を聞いているので、政府として調査、処理と行うので今暫く待って欲しい。 尚政府〔幕府)関係者が幕府には諸藩を統制する権利が無いと言った由だが、言語翻訳上の間違いと思われる、そのような事は決してないのでご安心願いたい。

癸亥六月十九日

千八百六十三年第七月二十六日横浜にて

江戸外国事務宰相台下に呈す

本月二十四日(即ち文久三年六月九日)の貴翰の回答

として、余速に下件を台下に報告す、即ちアドミラー

ル官名チオールス人名下の関峡より帰れり、彼れ彼地に

於て、長門の砲台にて仏蘭西の国旗に無礼せしを復

讐せんがため至要なる作業を施せり、〇亦彼れハ キ

ニチエン船を夥しく損害せしめたること明白なる

所の砲台並に其付属の器を毀たしめて、其鬱憤を霽

らせりと、アドミラール・ヂオールス此軍の働きに由

て起せし処の格別なる不幸事件を実に悲嘆す、然れ

共長門侯民律に反して不意に仏船を襲撃したれば、

此所業は十分正当なりとす〇アドミラールは此復

讐をなすといへども、厳令を下し軍兵を以て此国内

の他の處は決して之れを悩まさしめざりし、

貴翰中に於て大君の政府ハ二三の諸侯を成服する

こと難しといふ事を常々外国公使等に話せし事ハ、貴

国の使節亦ハ訳官の誤解なることを視て、余甚だ幸

なりとせり、〇若大君政府此国の諸大名をして 其命

令を奉守すべき様、之れを制御することを得ば、当今

の諸難事ハ容易に之れを圧し得て、外国の旗章に向

ての襲撃ハ直に之れを防ぎ、且つ永久襲撃のことあ

らざらしむる事を、然るときハ条約面を全く施行する

ことを得べし

余貴翰の此緊要なる文言を余が同職等に告知せり

彼等も余と同じく此報告にて甚だ喜悦す、其故ハ日

本の高政府にて外国人に対し乱暴をなせるところの罪

ある公侯等を直に厳しく処置するに於てハ、我等を

して下の関たりとも叉は他の處たり共、却て敵対を

なせる所業を防ぐため、相共に商議して設くる所の計

策を施行するの労を免れしむればなり

本月二十五日各国公使等此一条に就き商議協同

せし処の書面の写を、余謹て此書に添へて台下に呈す

是故に余台下の書翰に於て、此乱暴は台下の配慮に

て速に鎮静すべきことを望、叉よ厳しく台下に請ふ

良好なる交誼の重切なることの為めに、少しも時を

移さず大君政府世界中他の各国人と結びたる和親

の関係を保護得る所の疑わしからざる處置を示

し給はるべし、恐惶敬白

日本在留仏蘭西全権ミニストル

チユセレデベレクールト手記

使臣官の書記官

アルホンセスワレデルウー正訳

訳文

決定の報告

下に名を記る者、即ち日本在留仏蘭西国・英国及

ひ荷蘭之名代、日本に於る現今の事体を吟味し、其事

に就て決定を為さんため、千八百六十三年第七月二

十五日横浜において集会を為したり

右諸名代人勧考のうへ、次之件々に同意したり、即ち

日本との条約に由て与へられたる免許を保護する

為め、今般改めて内海〔周防洋〕を開く処置を直ちに施

す事甚だ要用なり、此内海は之れ迄常に渡航せしに

粗暴無礼の襲撃にて、此自由の渡航を俄に止めたり

是れ即ち長門侯の領分の海岸に築きたる砲台により

大砲を以て、上に云へる条約済諸国の商船・軍艦を撃

たしめて、其罪を犯せし所なり、此故に右諸国の水師

提督及び他の諸指揮官に請ひて、此趣意を達する為の

彼等の適当なり、と思ふ所の処置を悉く施行せしむ

るを要す

此趣意の為め、其に開きたる港にある其国人を守護す

る緊要の為め、右諸名代人は現今当国の海にある各

国の海陸軍を結合して事を為す事要用なるを告ぐ

此他叉諸名代人の同意する事左の如し、即ち此決定

を大君政府へ告る所以は、其政府に於て能ふなれば

政府をして、自己の力を以て上に述べたる事業を為

す為め要用なる処置を急速且強剛に施行するを得

せしめんが為めなり、但大君政府び処置方今の時勢

に適当する程強剛にして駿速ならば、之に由て条約

済諸国名代人の上に道理を述べたる所業を為さざ

るよふ防ぐに足るべし

仏蘭西皇帝殿下の全権ミニストル

ヂュセンデヘレクール

日本在留合衆国のミニストルレシデント

ロベルトエーチフライン

不利顛女王殿下のチャルジダツフェール

エトワルドシントジョンジール

日本在留和蘭コンシュルゼネラール

ドデガラーフファンポルスブルック