夏目金之助の富裕度

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漱石の妻が主役のドラマがNHKで放映中である.ドラマでは,第五高等学校の月給は100円と紹介されていたが,それが当時どの程度の価値であったのか判然としない.

漱石は,在熊時期に何度も引っ越しを繰り返している.明治29年9月26日に子規にあてた書簡(住所は2番目の住居 合羽町237番地)では次のように書いている.

・・・・小生今回表面の処に転居せり熊本の借家の払底なるは以外なりかかる処へ来て十三円の家賃をとられんとは夢にも思はさりし「名月や十三円の家に住む」かね転居の事虚子にも伝被下度候.

手紙には一週間程九州地方を汽車旅行したとも書いている.比較的大きな家に,女中,書生を抱え,薄給であったとすれば,到底賄いきれないのは明白である.

同じ時期,私の曽祖父,祖父は,それぞれ飽託郡島崎村長(明治33年ー36年),熊本県農会幹事(〜明治40年)として,公職についていたが,小作料以外の現金収入(月給)は25円程度だったと聞いている.注)村長は名誉職で無報酬だったらしい.

客観的な判断データがないか色々調べていたら,国会図書館デジタルコレクションに興味深い資料が残っていた.明治31年度の「熊本縣一圓富豪家一覧表」である.その資料によると,夏目金之助(教授)の年俸は,当時の熊本市長(辛島 格)より100円多く,第五高等学校長 (中川 元)の半分である.

以下にその詳細を紹介した.

タイトル

熊本県一円富豪家一覧表

著者

竹内則三郎 編

出版者

九州名誉発表会

出版年月日

明32.7

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明治31年度所得金高等級表

富豪家一覧の氏名の上に記載されている番号(等級)から年収を読み取るには,次表(等級ー金額)を参照する必要がある.年収300円までの人が収載されている.

当時の市内長者番付1位は,九州における電気事業の起業に関与した中村才馬で,年収1万5000円である.県知事大浦兼武は4600円となっている.トップページに記載されている氏名の中には,現在も存続している会社,商店も存在する.

熊本市(旧)の部

中村才馬(電気事業) 13000円

九州に於ける電気事業を起業

山内栄作(熊本紡績) 11000円

熊本に於ける製糸業育成

堀部直臣(銀行家) 11000円

堀江安兵衛の子孫

渡邊敬右衛門(和漢洋薬) 9200円

細川興増(男爵) 5600円

熊本藩主家一族

片山伊太郎(醤油醸造)

吉田順碩(諸毒消丸) 5500円

現在も続いている

木村喜太郎(酒類醸造所) 5000円

魚住伊吉(煙草製造所) 5000円

八木勝次郎(デパート) 4800円

大浦兼武(県知事) 4600円

野田市兵衛(馬具商) 4300円

現在は多角企業グループ

熊本県全体では等級1,2,4,5等の高額所得者が郡部に存在する.後述資料参照

五高教授 夏目金之助 1200円

明治30年4月に山川信次郎が赴任,夏目金之助と列んで記載されている.

熊大教授年間給与 平均56歳,989万円(H28公開資料),

熊本市長 辛島 格 1100円

市電開通に多大の貢献をした当時の熊本市長.辛島町は市長の名字に由来する.

平成27年熊本市長の月報は118.6万円.

書店 長崎次郎 1000円

五高校長 中川 元 2200円

熊大学長基本給 111万円(H28)別途期末手当有

ついでに,筆者の曽祖父の従兄弟である原野利一の年収は,950円と記載されている.明治維新後,分家は転身に成功し,現在も商事会社を営んでいる.

一方,西南の役の際に,西郷軍に加担した曽祖父は,20年後に公職に復帰したが,その間うまく転身できなかった.

飽託郡に記載

明治三十年文部省職員録

文部省の職員録でも俸給を知ることができるが,?等?級俸で記載されているので,金額を知るには官報を調べる必要がある.また,職員録には,位階,出身地,士族,平民の記述がある.

校長

三等三級俸

従五位 勲五等

中川 元

長野県 士族

教授 六等七級俸

正七位

管 虎雄

福岡県 士族

菅虎雄は夏目金之助を呼び寄せた人物である.

夏目錦之助は,池田駅(現 上熊本駅)で下車し,京町台を超えて薬園町の管宅に身を寄せる.

教授 六等七級俸

正七位

夏目金之助

北海道 平民

中学教師

「熊本縣一圓富豪家一覧表」では,中学済々黌の教師の年俸は,佐々友房は1600円,井芹経平は900円である.

内閣官報局編集・発行の職員録(明治19-36年)には次の記載がある.

中学第一済々黌

黌長 年1000 井芹経平(明治33) 明31年度は900円(上述)

教諭 月30-60 助教諭 月15

舎監 月28

書記 12-25

医療従事者の俸給

明治37年度の医療職俸給は以下の通りである(内閣官報局 職員録).

熊本病院 飽託郡本庄町

院長兼内科部長 谷口長雄 年2500 2800(明39) 2500(明35)2200(明33)

各診療科部長 年2000

調剤部長 年1400 陸軍三等薬剤正 安香堯行 明治39年同額 明35同額 熊大薬学部構内に胸像がある.

管理部長 年 500

医員 月 15-55

薬剤員 月 20-27

書記 月 8-30

熊本県内トップクラスは郡部

県内トップ「等級一」は,宇土郡之部の上羽勝衛氏であり,年収は25000円.

注)上羽勝衛 熊本県近代文化功労者

教育者・行政官・実業家 天保十四年(一八四三)四月四日生まれ 宇土市出身

県2位は,八代郡松高村 松井敬之

県3位は,細川 行真(ほそかわ ゆきざね),肥後宇土藩第11代藩主.

その他等級ニ,四,五,十の人が郡部に存在する.

「熊本縣一圓富豪家一覧表」では,所得金高の等級として,1等級の 25000 円から 144 等級の 300 円までランク付けされている.熊本市内一千名,現在は熊本市になっている黒髪村,春日村等の飽託郡は四百五十名程度である.

年収 300 円に満たない人達が数多く存在する中で,熊本時代の夏目金之助は,金銭的にはかなり裕福であったということができる.熊本で初めての正月に,書生,同僚が大勢押し掛けて来たため,おせち料理が不足し,夫婦喧嘩になった.これに懲りて,翌年から正月は温泉に逃避したとのことであるが,金銭的に困窮した訳ではなく,人間関係の煩わしさが彼をそのようにさせたようだ.大江(現 新屋敷)に住んでいた頃は,書生2名,女中1名と一緒に住んでいた.明治 33 年になると,官費でイギリス留学するが,年間手当は1800 円,その間,家族には年 300 円(月 25 円)支給されている.月 25 円は,当時の熊本病院の調剤員や一般的な(理系)技師の月報に相当する.

参考資料

・明治22年当時,東京-大阪間鉄道運賃は 3円56銭,明治44年では 3円97銭

・明治29(1896)年6月15日,午後8時頃,三陸沖で発生した地震に伴う大規模な津波により,三陸沿岸を中心に死者約2万2千人,流出,全半壊家屋1万戸以上という大規模な津波被害が発生した.4月に第五高等学校に赴任したばかりの漱石は,「義捐金徴収の廻状がくるや否や,月報百分の三を差出して微衷をあらわしたという次第に御座候然し是は職員全體共に出金致したる事故別段小生の名誉にもなるまじきかと心痛致居候」と手紙(7月28日 在独乙 大塚保治氏宛)に書いている.