頼まれた熊大生協裁判記録の公開

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生協裁判と言っても分かる人は少なくなった.

昭和57年秋熊本大学薬学部薬品製造工学研究室の助教授として就任したが,教授(久野拓造)は生協裁判の国の代理人として,裁判に専念していた.研究どころではなく研究指導や研究成果の発表(投稿,学会活動)を任せられた.その結果,教授のライフワークであるpyridine N-oxideの1,3-双極性反応の合成化学的研究を収束させながら徐々に自分のテーマの頭出しを行うことができたが,研究室の日常が生協裁判の影響を受けることとなった.

生協裁判の詳細は省略するが,昭和43〜44年の熊大紛争は,大学生協が経営する食堂の飲食料金を値上げしないために水光熱費を大学の公費で支払って貰いたいという要求が原因である.同様の要求が基で起こった大学紛争は他の大学では早々に収束してしまっているのに熊大は国の姿勢を示すための象徴的な存在として10年以上も裁判を続けさせられていたわけである

昭和45年12月,大学が熊本地裁に控訴した「家屋明け渡し判決」には国,熊大として承服しがたい点があったので,

昭和51年4月12日,福岡高裁に控訴した.

昭和55年2月第一回和解交渉

昭和59年10月29日の第21回和解交渉で双方が合意に達し,和解の成立をみた.

福岡高裁の和解成立後,久野教授は学部長として昭和60年の薬学部創立100周年記念事業を成功裏に終わらせた後は生協裁判の記録をまとめることに専念された. 平成元年の和解成立五周年祝賀会で当時の松角学長から「和解を知る人も少なくなっている今、忘れぬうちに稿をまとめるように」と言われたとのことで,以後は資料整理と予稿をまとめることに集中された.独特の筆致で書きなぐられた大量の資料(400字詰原稿用紙914枚)を皆で解読し,平成2年(1990)に衛藤助手(教務員)がワープロ清書を終了した.

久野教授は,プリントアウトした272ページに及ぶ冊子体(タイトル名 和解)を学長に届けられた.ところが学長はもっと短いものを期待していたらしく,「立派すぎる一大ドキュメンタリー」にびっくりされたとのことであった.結局,当時活躍中の実名入りの生々し過ぎる内容のため,熊大50周年を待って公開したいということになったそうである.そのことを私に「覚えていてほしい」と真剣な顔で告げられたのを記憶している.

その後,久野教授は脳梗塞を患いながらも定年を全うされた.しかし,多くの時間を費やして収集し自宅に持ち帰られた諸々の膨大な資料を活用して,さらなる執筆は叶わないまま平成14年他界された.

その間,学長は生協裁判を経験していない学外者に交代したため,学長補佐を行っていた教授に頼んで学長室にその資料が保存されているか調べてもらったが,行方不明ということであった.

幸い研究室の古いコンピュータのディスクにMS-DOSファイルを見つけることができたので,公開の可能性について夫人に相談したが,「生協裁判の言葉を聞くことさえ嫌だ」という嫌悪の情を示されたので,それ以上の話をすることはなかった.その奥様も同年末,後を追うように他界された.紛争の際,学生部長として機動隊の導入を行って以来,ネガティブな気持ちを家庭へ持ち込んでおられたことを聞かされたが,このことは研究室も同じであった.福岡高裁へ出かけた日は一杯飲まないとやっておれないということがしばしばで研究室で焼酎の水割りを飲んで帰宅されることもあった.私が酒を飲まないので,代わりに焼とり屋へ付き合わされた他研究室教員が多数居たことをその後知った.

ワープロ清書を指名された衛藤 仁君が昨年私の後任教授に就任したので,相談の上公開の方法を考えようと思っている.(2012/1/3)

資料の種類とその精密さから判断し,テープレコーダー記録によるものも多いように思われる.以下に,タイトル,目次,はしがき あとがきを紹介した.

和 解

久野 拓造

はしがき

第一章 序章

1 和解の法律的意義

一 意義

二 和解の手続き

(1)和解の手続き

(2)調書の作成

2 生協の発足

第二章 熊大紛争

1 紛争の始まり

2 第一回公開学長交渉

3 第二回公開学長交渉

4 第三回公開学長交渉

5 第四回公開学長交渉

6 第五回公開学長交渉

7 第六回公開学長交渉

8 蔵管一号と自治(黒田正己文集一九 )

第三章 訴訟

1 熊本地方裁判所

1 生協立ち退きを求める訴訟

2 学生有志要請文

3 熊本大学評議会臨時特別部会

4 熊本大学評議会臨時特別部会規則

2 福岡高等裁判所控訴

1 熊大広報「学生諸君へ」

2 控訴抗議(熊大教官有志)

3 生協反論

4 臨時部会広報「熊本地裁における判決の概要と問題点について」

5 福岡生協理事長「生協裁判の真 な検討を」

第四章 和解交渉

1 和解の選択

1 第三八六評議会

2 検事上申書

3 「和解への打診」臨時部会

4 生協労組要望書

5 臨時部会「和解交渉の席につくか否か」

6 第三八七回評議会

7 臨特部会広報「学生諸君へ」

8 臨特部会広報「動産引渡並びに家屋明渡請求控訴事件」

9 第三八九回評議会「和解に望む大学の基本的態度」

2 第一回和解交渉

1 第一回和解交渉(要旨)

2 第三九〇回評議会「第一回和解報告」

3 生協ビラ「生協組織部その一」

4 生協ビラ 「その二」

5 生協ビラ 「その三」

3 第二回和解交渉

1 第二回和解交渉(要旨)

2 第三九三回評議会「和解の広報」

3 第三九五回評議会「第二回和解交渉報告」

4 臨特部会「学生諸君へ」原案検討

5 第三九八回評議会「生協和解広報」

4 第三回和解交渉

1 第三回和解交渉(要旨)

2 第三九九回評議会「第三回和解交渉報告」

3 臨特部会「次期臨特部会委員長選出」

4 新旧臨特部会委員長業務引継ぎ

5 大学広報の取扱いについて

6 朝日新聞「できごと'80

7 臨特部会「広報の取扱い」

8 第四〇一回評議会「生協和解広報」

9 大塚生協理事発言

5 第四回和解交渉

1 第四回和解交渉事前打合せ

2 「什器備品」

3 福岡法務局打合せ

4 第四回和解交渉(要旨)

5 第四回和解交渉について

6 第四〇二回評議会「第四回和解交渉報告」

7 生協ビラ「生協理事会発行」

6 第五回和解交渉

1 第五回和解交渉(要旨)

2 臨特部会「第五回和解交渉報告」

3 第四〇四回評議会「第五回和解交渉報告」

4 福岡法務局訟務部長上申書「熊大生協事件の和解について」

5 現時点における熊大生協の体質、姿勢についての疑念

6 臨特部会「被控訴人の和解条項(案)に対する控訴人の見解」

7 第四〇六回評議会

8 被控訴人和解条項(案)に対する控訴人の見解

9 本訴訟を和解で集結する理由

7 第六回和解交渉

1 第六回和解交渉(要旨)

2 第六回和解交渉について

3 臨時部会「第六回和解交渉報告」

4 評議会「第六回和解交渉報告」

5 生協ニュ-ス「七・七和解交渉から」生協理事会発行

6 控訴人の和解条項案に対する被控訴人の見解

7 「熊大生協調査報告書」(昭五一・三現在)

8 和解条項(案)「国側案・生協側案対比」

9 実務担当者会議

10 非公式会談

11 学長への報告と今後への意見

12 篠原弁護士の「生協見解」への意見

13 福岡法務局の「生協見解」への意見

14 実務担当者会議

15 臨特部会「第七回和解交渉に際し」

16 評議会「第七回和解交渉に際し」

8 第七回和解交渉

1 第七回和解交渉(要旨)

2 文部省解答

3 高裁提示和解案

4 高裁提示和解案の評価

5 篠原一男弁護士逝去

6 第四一一回評議会「高裁和解案」

7 生協理事会、高裁和解案批判

8 生協和解問題ビラ その1

生協和解問題ビラ その2

生協和解問題ビラ その3

生協和解問題ビラ その4

9 生協ビラの問題点

10 反生協理事会ビラ「組合員有志」

11 生協理事長谷川助教授の発言について

12 一二・一九中間総代会

13 反生協理事批判「医学部学生会執行部」

14 西口臨特委員見解

9 第八回和解交渉

1 福岡法務局打合わせ

2 第八回和解交渉(要旨)

3 訟務部長と裁判所との接触

4 裁判長発言の金員への松山学長見解

5 「債権」

6 第八回和解交渉について

7 金員の支払いに関する被控訴人の見解

8 「被控訴人の見解」への反論

9 臨特部会「第八回和解交渉報告」

10 「だりん」熊大生協組織部

10 第九回和解交渉

1 第九回和解交渉(要旨)

2 第四一六回評議会「第九回和解交渉報告」

3 和解の今後の見通しについて

「松山学長へ意見具申と見解」

4 文部省提出「和解交渉における金員の免除について」

5 高裁との接触

6 昭和五七年四月一二日付「金員の支払に関する被控訴人の見解」に対

する反論

7 被控訴人の見解

10 1 第一〇回和解交渉

1 第一〇回和解交渉(要旨)

2 第一〇回和解交渉について

3 実務担当者会議「第一〇回和解交渉報告」

4 評議会「第一〇回和解交渉報告」

5 福岡法務局長との打合わせ

10 2 第一一回和解交渉

1 臨特部会「第一一回和解交渉への対応」

2 第一一回和解交渉(要旨)

10 3 第一二回和解交渉

1 福岡法務局事前打合わせ

2 臨特部会「第一二回和解交渉への対応」

3 第一二回和解交渉(要旨)

4 「被控訴人の見解」並びに「いわゆるハンバ-ガ-ショップ仮設臨時

倉庫の取扱いについて

5 評議会「第一二回和解交渉報告」

6 臨時特別部会委員改選

7 谷川生協理事長との対応

8 福岡法務局長「求指示」

10 4 第一三回和解交渉

1 臨特部会「第一三回和解交渉への対応」

2 第一三回和解交渉(要旨)

3 高裁との接触

4 管財週報第一九号、第三〇号

5 大蔵協議

6 法務省局付検事

7 金員免除に関する関係省庁の対応

文部省

法務省

大蔵省

法務省回答

対大蔵省交渉(文部省)

関係省庁の動き

10 5 第一四回和解交渉

1 福岡法務局事前打合わせ

2 文部省・大蔵省の折衝

3 高裁との接触

4 福岡法務局との打合わせ

5 大蔵協議の不成立

6 福岡法務局、福岡高裁の折衝

7 臨特部会「第一四回和解交渉への対応」

8 第一四回和解交渉(要旨)

9 実務担当者会議

10 臨特部会「第一四回和解交渉報告」

11 生協理事会声明

12 「DARIN 29」生協組織部発行

10 6 第一五回和解交渉

1 評議会「第一五回和解交渉への対応」

2 第一五回和解交渉(要旨)

10 7 第一六回和解交渉

1 臨特部会「第一六回和解交渉への対応」

2 損害金算定方法の変更

3 和解条項(案)「国側提示」

10 8 第一七回和解交渉

1 第一七回和解交渉(要旨)

2 損害金算定方法変更に関する本学の基本的考え方(文部省上申)

3 臨時特別部会委員改選

10 9 第一八回和解交渉

1 第一八回和解交渉(要旨)

2 文部省学生課への第一八回和解概要報告書

3 評議会「第一八回和解交渉報告」

1010 第一九回和解交渉

1 臨特部会「第一八回報告と第一九回和解交渉への対応」

2 生協「和解案提出書」

3 谷川生協理事長との対応

4 原状回復(生協側通知)

5 第一九回和解交渉(要旨)

1010 1 第二〇回和解交渉

1 第二〇回和解交渉(要旨)

2 第二〇回和解交渉について

1010 2 第二一回和解交渉

1 第二一回和解交渉(要旨)

2 裁判所「和解条項」

1010 3 和解成立

1 慰労会

2 生協「申し入れ書」

3 大学広報「大学と生協との和解成立にあたって」

4 生協祝賀会

5 熊本大学評議会臨時特別部会解散

6 生協和解成立五周年記念祝賀会

あとがき

はしがき

熊本大学生活共同組合(以下「生協」と称す)、その前身熊本大学厚生組合創

立から四〇周年を迎えた。その年の十二月にそれを祝う祝賀会があった。

昭和四三年以来、大学紛争もからんで大学側(国側)との間で争いを続けてい

たがそれも和解という形で紛争解決をみてからもう五年が過ぎた。それら生協創

立と和解を含めての祝賀会であった。

生協の理念には、元来生活必需品の共同購入で支出を少しでも切りつめ、生活

を守ろうとするものが根底にあった。熊本でも第二次世界大戦が敗北で終わるや

物価の高騰と、物資の不足が多くの人々の生活に不安を投げかけていた。当時の

国内情勢は不安定で、物資といいうるものすべて不足していたが、なかでも食料

事情は極端に不足し、農業県である熊本においてでさえ状況は劣悪をきわめてい

た。戦後、熊本大学が新制度で発足した当時、教職員、学生の生活状況はその極

に達していた。その実情は現在からはおよそ想像を絶するものであった。

他の大学でも教職員と学生とを組合員とする「厚生組合」を誕生させていた。

熊本大学においても教職員、学生の生活困難を克服するために厚生団体が結成さ

れ、「熊本大学厚生組合」として昭和二十年から、学内に食堂、購売部などを開

設して運営していた。

その後この厚生組合は組織替えし、消費生活協同組合として昭和四二年七月に

新たに発足をした。

しかし現在生協運動をめぐる社会的背景はその創立当時とは大きく変わってい

る。第一に、共同購入することによる生活必需品の安値の仕組みはスーパーマー

ケットが増加したことで利点が少なくなってきた。第二は、商品の質も量も豊か

になって消費者の好みも多様化し、生活必需品の範囲が曖昧になってきた。他方

生協の出資者である構成員はすべて組合員の暮しに役立つものをと願っている。

しかしながら、生協店頭での買物風景は、一般のスーパーとどこかどう違ってい

るのであろうか。生協では、組合員の要求のある限り、「もの」を取り扱わざる

を得ないと主張している。生協活動は「生活の向上を目指す運動」と誇りをもっ

ていた。だが今、どう生活の向上を考えているのであろうか。

かつて贅沢品とされたもの、レジャー製品、オーディオ云々がうず高く店頭に

並んでいる。それらは今や熊大学生の生活の中に浸透していることは歴然たる事

実である。

二〇年前「十円値上げ反対」をスロ-ガンとして大学紛争の導火線となった組

合員もいまやグルメ志向の高級化した中でどう生協の理念付けをするのであろう

か。

本文省略 (公開検討中)

あとがき

昭和四三年秋、生協は「食費値上げ阻止闘争」をとなえ「水光費、什器備品の金

額国庫負担」のスローガンを掲げて大学への要求をした。そして「教育基本法第

一〇条の教育に必要な条件を整備すべし」をそこに学ぶ学生や職員の飲食費の一

部まで国費負担せよとの安直な拡大解釈が学生の共鳴を得るには容易なことであ

って、これが次々に連動し強調され、拡大されていって熊大紛争の導火線となっ

たことは事実である。

生協のスローガン「定食の値上げを阻止しよう」、「水光費撤廃を要求する」

等の達成のため「学長室へ押しかけ学長交渉の実現を」との戦術を取り、事務局

に学生が乱入し学長会見を要求した。また生協は授業放棄を呼掛け本部事務局の

一角を占拠することにより大学機能を麻痺させる占拠体勢を確立する情宣を行っ

ていた。

その後、昭和四三年一二月二〇日第一回公開交渉をもちその後も「水光費全額

国庫負担」を執拗に公開交渉の場に持ち込みいつの間にか、「教授会の自治」、

「大学の経理公開」、「大学と文部省との関係」、「産学協同の問題」、「機動

隊導入の問題」、「ベトナム問題」などと交渉と称する場はいつしか大衆団交と

なり、「一人一人の学生の意思を汲み上げる」との名目で次々に問題を展開して

いったのであった。

すでに全国的に大学紛争の原因は様々であったが、紛争がはじまると直接の原

因はなんであれ、雪だるまのように拡大し際限なくエスカレートしていった。一

見無風と思われていた平穏な学園も思わぬきっかけで一挙に却火と化してすべて

を証言燎原に似て焼きつくしていった。あの名門校五高の流れをくむ熊本大学の

学生が無定見に跳梁しまさか紛争と関係するとは夢にも思っていなかった市民大

学の教職員さえあっと言う間なく紛争という激動の中に投げ込まれてしまった。

研究という自己の世界の中から四囲を見る教育者には業火がすぐ足下まで燃えき

ていることさえ誰一人として自己のものとしてとらえようとしていなかった。人

々の目にうつった熊大生の姿に対しもう憎悪の眼差しでしか見られていなかった。

巷間での、全共闘、ゲバルト、機動隊などが日々の新聞の第一面を占めていて

、火炎ビンの飛び交うすさまじさ、ヘルメット覆面姿の投石、ゲバ棒でのなぐり

あい、さながら無法国家、革命前夜、武装蜂起、市街戦の姿を示していた。

そして現体制への抵抗を要求する形へと展開していくかの大学紛争の共通とし

て単一パターンであった。虚像にあぐらをかく無能教官に若者たちは徹底的にね

らいうちをしていった。

現実と切り離された状態での社会変革を、非妥協的に主張するこの時代の学生

と、実在する大学の現実の中に可能性を考えていこうとする限りでは、その解決

のメドとてなく絶望的とも見えるものしか存在しなかった。いつかは知らざるを

得ない古き時代への訣別の式典であった。新しい世代の生まれる陣痛であった。

大学紛争、訴訟、和解と、生協との長年の縺れを解きほぐすすべをそこに求め

た道程は紛争を早や忘れ去った時にもなお蜿々と続いていたのであった。そして

いつ果てるとての目途のない法廷での争いであった。

紛争を知る人もほとんどいない。

和解を知る人とて少なくなった。忘れ去ろうとする人の心の中で風化がさらに

早く進んでいたのであった。

やっと大学と生協とが正常な関係に戻った。しかしそれは長い長い道程であっ

た。はるけき無惨な道程であった。

しかし生協をめぐる環境は今後年毎に厳しくなってくると気は重い。身近のス

ーパー、コンビニエンスストアなどより変わり身の早い商品をつぎつぎに消費者

へ提供し自由に消費者の選択できる時代である。生協が独自に開発した「安心し

て使える商品」、「消費者に適正な商品」をあつかうことが生協の理念であろう。

しかし生協のこれ以上の成長、これ以上の市場拡大の目途があるのか。そこには

流通業者の道をも考えざるを得なくなっているのではないか。

「人間らしい豊かな暮しの創造」を生協はスローガンとしているが職域生協の

道途はどのようにしてスローガンの方向付けをしていくのか。食費一〇円値上げ

反対の大学紛争。いまは外車BMWが買えない貧しさ。

社会の流れは目まぐるしい。昨日新しかったことも、今日はもう古びたものと

なっている。全く予期しなかった出来事が、我々の人生まで変えてしまう。

ソビエトの革命的変革、ルーマニア、チェコ、ポーランド、東ドイツ等々、誰

が昨日この共産圏の変革を予見したであろうか。

ふっと振り返りみるとき、そこには時代から取り残されて朽ちた姿がある。

昨年末の和解成立五周年祝賀会の席で「和解」って何だったのか、ともすれば

私の記憶の中からさえも風化してしまおうとしているのに気づいた。隣席の松角

学長にこのことを雅談的に語った。それほど深い気持ちではなかったが消え去ろ

うとする大学と生協との争いを、そのまま埋もれさせるのはしのびない気持ちも

あった。

学長は和解を知る人も少なくなっている今、忘れぬうちに稿をまとめるように

との激励の言葉をいただいた。

あらためて「和解」を何とか書き残す責任のあることを痛切に思ったのであっ

た。

今年一月稿を起こした。

三月、某会社の創立五周年祝賀会で学長と一緒した。その折りにも「和解」の

整理を急ぐようにとの言葉であった。

私は薬学の道で今日まで通してきた。裁判とは全く縁のない者であった。関係

のない分野での斗いで裁判所に四年余り通った。

「和解」を書いていくにつれ専門知識のないことを恐ろしくさえ覚えた。

法律上での説明にも問題があろう。しかし角度を変えての素人の整理したもの

として見ていただければと思っている。

この稿に着手し何とか終わりまでたどりついたのは松角学長の慰めと激励の言

葉によるものと深く感謝している。

長い和解交渉であった。

裁判長も二回、訟務部長も四回の交代であった。

編集、清書に多大のご苦労を願い、とりまとめてくれた薬学部薬品資源学講座衞藤仁教務員に心から深謝する。

一九九〇年三月一〇日

全272ページ

追記

原稿 1頁,35文字,47行,272頁