ご存知ですか?新島八重とアスパラガスの意外な関係(2013年3月)

NHKの大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重とアスパラガスの意外な関係、ご存知ですか?といっても、正確には八重の夫・新島襄との関係で、彼女の名前は直接は出てこないのですが・・・。

下の画像をご覧ください。

これは津田仙(津田塾大学の創始者・津田梅子の父)から新島襄宛てのアスパラガスの送り状です。新島は明治の初めという早い時期に、京都でアスパラガスを育てていたのです。

送り状の日付は明治9年4月1日になっており、この年の1月に襄と八重は結婚しています。ですから八重も栽培を手伝ったり、収穫したアスパラガスをゆでたりした、なんて可能性も十分あるのです。今日、福島はアスパラガスの代表的な産地となっていますが、その中心は八重の故郷会津です。何か不思議な縁を感じてしまうのは、アスパラガス研究者の勝手な妄想でしょうか?

ここでアスパラガスの苗を送った津田仙について簡単にご紹介します。

津田は天保8(1837)年、佐倉藩(今の千葉県)に中級藩士の子として生まれました。洋学を学んだ後、幕府使節団の通訳として福沢諭吉らとともにアメリカ渡航を経験。農業の重要性に目覚め、実践を通じて農学の普及に努めるとともに、禁酒禁煙運動など様々な社会活動を行いました。また女子教育の推進者で、次女梅子を数え7歳でアメリカへ留学させたのも彼の意志によるものです。自ら農学校を創設したほか、青山学院の創立に関わるなど、教育者としても活躍しました。明治41(1908)年没(享年70)。

津田は近代農学の草分けの一人で、東京麻布に「学農社」を起こし、農学の普及に努めると共に、農産物の輸入・販売なども行っていました。西洋作物の種や苗などの通信販売を行い、これが日本の「通販」の初まりともいわれています。同じキリスト者で洋行帰りの友人・新島が、この新事業にさっそく呼応したのでしょう。

実は日本で最初にアスパラガスの栽培・販売に成功した人物は津田なのです。

記録によれば、明治5(1872)年、50円を元手に東京三田の50坪の畑でアスパラガスを栽培し、外国人に売ったところ170円の売り上げを得たとあります。この成功に気を良くした彼は、麻布に1700坪の土地を入手、畑にしました。当時は新政府による土地の払下げがあり、青山あたりの土地が1000坪15円だったとか。嘘のような、うらやましいような話です。もっとも、大金を投じて大々的に乗り出した西洋野菜の栽培は、需要が限られていたため、供給過剰となり大損をしたそうですから、アスパラガスビジネスを軌道に乗せることは難しかったようです。

セピア色に変色した筆書きの書類を見ていると、変革の時代を生きた人々の精神が蘇ってくるようで、なにか若々しさのようなものさえ感じてしまいます。「内向き」志向などといわれる昨今の私たちを、この手紙は励ましてくれているのか、それとも叱っているのか?皆さんは何をお感じになるでしょう。

なお、この画像は同志社大学・新島遺品庫よりダウンロードした画像(資料名:津田仙、目録番号0658)に手を加えたものです。

(画像中、バックと白抜き文字、注目箇所を示す緑の枠線はこちらで加えたもので、元の画像にはありません。)

掲載にあたっては同学の許可を得たことをお断りするとともに、この場を借りて謝意を表します。

また記事中、津田仙の事績に関しては、高崎宗司著「津田仙評伝」(2008、草風館)に依っています。

詳しくお知りになりたい方は、同書をご覧ください。 (by N.S.)