Foreign Engineers Employed by Meiji Japanese Government [OYATOI]

明治日本政府に雇われた外国人技術者たち単なる出稼ぎ者ではない〜

started in 1990, updated in May 5, 2020.


I. PREFACEはじめに

    広く明治政府外国人高給で雇ったと信じられているが、それは当時の日本人の給料体系からみればそうであったが、彼らにとっては当然の報酬額った。そう、給料はもとより、「お雇い」という誇称も外国人職員に関してはさまざまな観点から再検討しなければならないのである。高給目当てに日本に出稼ぎに来た人たちという見方は改めるべきだ。

    19世紀後半、イギリス政府はインド統治経営のために膨大な人数の政府職員を必要としていながら、いつもその人員を充足できずにいた。特に社会基盤整備のための技術者不足は深刻で、インド省はその解決法の一つとして高額俸給を提示して本国で職員を募集した。それでも適切な人材は集まらず、技術学校を創設して自ら技術者の養成に乗り出すほどだった。インド植民地は三つの管区に別れ、それぞれの公共事業局の月給体制を見ると、上級技術者で1000円以上(本国の5倍以上)、中級技術者で1000-500円(本国の4-3倍)、普通技術者で500-300円(3-2倍)であった。不慣れな気候風土と労働環境の土地で重責を担うのであれば、これくらい魅力的な条件を提示するのは当然であったろう。月給1000円以上といのは明治政府官僚の給料を超えるものであったが、インド植民地の給料体系からすると法外なものではなかったことがわかってもらえると思う。

   外国人職員の待遇でもう一つ見落とされてきた視点は、横浜や神戸の外国人居留地には、日本政府雇いにならず自営の外国人技術者がいた。彼らは、明治10年までであれば鉄道建設技術者としての雇用可能性があったにも関わらず、日本に進出してきた外国資本などから仕事を得て営業を続けていた。彼らには大きなリスクはあったろうが、それなりの大きな利益が上がっていたと思われる。こうみてくると、明治政府が破格の俸給で外国人に提示し、外国技術者はその好条件に引きつけられたというのは誤解であることがわかる。私がよく知る1980年頃の国際協力事業団の専門家の収入(各種手当てを含む)は、本国のそれの3-2倍に当たり、派遣された国の大臣や州知事と同じくらいであった。

1-1. EXISTING STUDY既往研究

(1) 明治政府が大勢の外国人を雇い近代化事業を進めたことは日本人の記憶に深く刻まれており、特に工部大学校や医学校で学んだ日本人たちは外国人教師を恩師として顕彰した。しかしながら、幕末から明治10年代まで政情が安定せず、また1880年頃に外国人技術者の急激な大量解雇があっため同時代の記録が散逸してしまった。明治維新半世紀を経て、『明治工業史』を編纂する際、一次資料がないことに大変苦慮した。

(2) 1970年代になり、歴史学方面から明治時代の外国人雇用者が果たした役割が着目され、まず正確な属性の調査から始まった。分類指標は、年代別総数、雇用先別、出身国別、職種別などであった。この切っ掛けになったのは、アメリカ合衆国のラトガース大学に遺されていたグリフィス・コレクションの発見であった。グリフィスは明治初期の外国人職員の一人であり、帰国後、1900年代に日本の近代化における外国人職員たちの貢献を明らかにしよう資料収集に努めていた。

(3) グリフィス・コレクションを解読しながら外国人職員の研究が始まり、資料を通して彼らが日本の近代化において決定的な役割を果たしたことが次々と明らかになった。日本近代史や政治経済史の重要な研究テーマとなり、「御雇い外国人」研究が確立された。明治22(1889)年までで約2600人の外国人が主として官職に雇われ、その中で最も多かったのは工部省雇いで、約半数を占めた。工部省は1871年から1885年までしか存在しなかったから、この期間、平均すると年百人以上が勤務していたことになる。

(4) 外国人職員はお雇い外国人と呼ばれ、英語でForeign Advisorと訳されているように、既往研究では顧問格の外国人職員だけが注目されており、そこでは普通の実務家の存在は見過ごされてきた。実は、近代化事業のために日本国内で得がたい専門分野の外国人が多数雇われていたことを忘れてはいけない。

*1. ユネスコ東アジア文化センター『資料御雇外国人』、1975年。

*2. 『ザ・ヤトイ御雇外国人の総合的研究』、1987年。

*3. 梅溪昇『お雇い外国人の研究、上下』、2010年。

1-2. QUESTION問題の所在

(1) 世界史的位置づけ

    外国人職員の果たした役割は日本史の中にきちんと解明されるべきであるが、実はもっと大切なのはその存在を世界史と技術史的に位置づけることであろう。イギリスは18世紀に新領土に多くの移民を出し、さらに植民地に支配のための人員を送り出した。インド植民地だけでも数百人の官職技術者がおり、オーストラリアやニュージーランド、アフリカも加えれば、本当に膨大な数のイギリス人技術者が活躍していた。隣国の清朝中国も大勢の外国人を雇用した。軍事工廠や鉄道建設の技術顧問、税関制度とその管理者として、同時代の明治政府よりも多くの外国人を雇用していたのではないかと思われる。議論の第一の視点は雇用の経緯であり、日本では政府の政策によって2〜3年の契約雇用であったため、任期が終わるとほとんどが帰国した。やってくる時、募集方法が一人一人異なり、一体どのようなつながりでやってきたのか不明である。例外なのは鉄道寮雇いの技術者で、イギリス植民地で働いた時のネットワークが存在していた。測量司のマクヴェインは、自らのコネクションを通して実務職員を雇い入れた。第二の視点は待遇であり、外国人職員は明治政府の示した高給に惹かれてやってきた、あるいは厚遇で雇用したと言われるが、はたしてそうだったのだろうか。第三の視点は離日後の動向であり、任期終了と共にそのほとんどは離日したが、スメドレーのように母国帰国せずにそのまま海外で仕事を求める者たちがいた。その一方で、非常に例外的存在であるが、日本に民間人として定住した者もいた。。

(2) 技術移転のあり方として

    外国人技術者は、顧問格(上級御雇い)であれば日本人長官に対して直接指導助言したが、中級以下の御雇いは日本人の職員を指導しながら、あるいは対等に一緒に働いていたと考えられる。灯台建設、鉄道建設、電信整備、測量などの技術分野では、技師長と技師の組み合わせで外国人職員が雇われ、そこには職業訓練校を併設していた。

(3) 文化交流としての位置づけ

幕末明治初期に滞在した外交官や外国人職員は日本の文物を海外に持ち出し、そしてそれを紹介した。ジャポニズムの成立に大きな役割を果たした。

II. Oyato?お雇いとは

(1) "Yatoi"

Yatoi--A person hired temporarily, a day laborer.

-Hepburn's Japanese-English & English-Japanese Dictionary 1873.

・ヘップバーンの日英辞典では、「臨時の雇用」あるいは「臨時に雇われた者」と訳され、さらに「お」が付くことで「お上に臨時に雇われた者」となる。身内にそれを担える人材がいない場合、外部から臨時に雇用することがあり、それが常用になると「お抱え」と呼ばれた。

19世紀のイギリス人にとって、植民地の軍隊や公共事業局で10年ほど働いて一財産を築く事はよくあったことで、さらにオーストラリアやニュージーランドなどの植民地に定職を求めて移住してしまうこともあった。明治政府雇用になったイギリス人は、最初3年任期で雇用契約を結び、その後任期なし雇用となるであろうと考えていた。それが3年、長くて6年で雇用契約が打ち切られるとは思っていなかった。お雇い外国人たちは、日本の近代化に尽力したにもかかわらず、簡単に切り捨てられる事に大きな不満が感じていた。

(2) The Japan Weekly Mail, July 10, 1875.

A correspondent has drawn attention to tho use of the word yatoi by Japanese officials in reference to foreigners in tho employment of the Imperial Government. The term ho maintains, is of offensive signification and he strongly urges its abolition. So far as we can learn, however, the absolute opprobrium of the term may very fairly be doubted, as it would seem customary to apply it to all Japanese who, though officially employed, have not as yet received definite rank. The development of the new government has of necessity largely increased this class of persons, which existed formerly we believe to only an inconsiderable extent.

Probationers are at present more numerous, and pending their appointment to any of the fifteen classes are designated yutoi, being necessarily subordinate to those upon whom a status or official rank has been conferred. It follows of of course that foreigners who occupy government posts, but who possess neither local nor official rank, are comprehended in this classification, and this has certainly provoked irritation on moru than one occasion within our knowledge. If, unlike tho Governments of Egypt and Turkey—which employ foreigners largely and distinguish thorn by elevation to the highest position attainable by subjects—the Japanese are unwilling to allow local rank to their foreign employees, there can be little doubt that they should discard a term which, rightly or wrongly, and possibly from mistaken

analogy, has como to be associated with a position of inferiority in the minds of certain of the latter.

(3) The Japan Weekly Mail, July 17, 1875.

THE TERM YATOI.

To the Editor op tiir Japan Weekly Mail.

Sir.—In your issue of the 10th instant I notice that you refer to the use of the word "yatoi." Now I will tell you what I know about it. In the days of the Tokugawa dynasty of Tycoons tho word came into use on a largo scale in regard to tho teachers of tho Kaiseijo (now known as the Kaisei Gakko) and was used to indicate men of scientific education, (both Japanese and foreign), being seldom applied to the ordinary officers. Terashima, now Minister of Foreign Affairs, was once a teacher in tho Kaiseijo. The word is neither honorific nor is it impolite. There is a word —fiiyo—which is used in the sense of employe of a low class ; thus, for coolies &c—your correspondent probably thinks yatoi and hiyd are the same.

I am Sir,

Your obedient servant, A JAPANESE.

III. Salary給料

・外国人を高給で雇ったと言われるが、それがどれほどのものだったのか、英領インド公共事業局技官の給料と比較する。

3-1. Salary of British India's Public Works英領インド公共事業局技官の給料

・イギリス政府の中で最も多くの技術者を雇用していたのがインド省India Officeで、カルカッタ、マドラス、ボンベイのそれぞれの公共事業局(鉄道、港湾、道路、電信、灌漑)に主任技師から副技師までに数百人の技術者ポストがあった[Almanac of the British India]。適任者を雇用するために、国内における技術者の給料の数倍を払って公募したが、健康の問題や子供の教育の問題があり、インド植民地は人気がなかった。植民地省Colonial Officeも大勢の技術者を公募しており、インド植民地ほど給料は高くはなかったが、イギリス人にとって気候条件や文化的条件のよいオーストラリアやニュージーランドの入植地が移住先として好まれた。1870年前後の英領インド技官の給料を紹介し、イギリス政府と明治政府のそれとを比較してみよう。明治初年から10年頃までは1円=1ドルの為替。

(1) Salaries for civil engineers of the British India in 1869.インド植民地公共事業局の給料

   Chief Engineer was given 2,500Rs/month, 2nd class engineer 2,000Rs/month, 3rd class engineer 1,750Rs/month. 10 Rs. were 1 pound. 250l. for chief engineer per month.

・技師長で2500ルピー/月。10ルピー=1ポンドなので、250ポンド/月。二級技師で200ポンド/月、現場監督官100ポンド/月、副現場監督50ポンド/月などなど。

*The Engineer, January 29, 1869.

*The Proceedings of the International Monetary Conference Held at Paris in 1881

(2) Recruitment of Engineers技術者の任用

--India Office had recruitment division, which advertised appointment. While Colonial Office recruited engineers through an agency called 'Stanley Plan."

・インド省は官吏公募を行う部署を持ち、一方植民地省は「スタンレー・プラン」と呼ばれる半官半民組織を通して募集した。後者は移住を勧めるもので、現地政府の給料体系となった。

(3) Salaries for foreign officers of the Meiji government in 1870s.1870年頃の円とポンドの為替は5円=1ポンド

In 1870s, 5yens were 1 pound.

1,000yens/month for William Kinder, superintendent for Mint. 200l./month. Brunton, chief engineer for lighthouse department was 600yens/month, so it was 120l/month.

Salary given for foreign officers by the Meiji government is almost equivalent to engineer's of the British India.

・インド植民地の技師長250ポンド/月は円に換算すると1250円/月となり、大阪造幣局技師長キンダーの1000円/月はそれより若干低いが、かなり近い値。

・1級技師長で1250円/月,2級技師で800円/月、現場監督官500円/月、副現場監督250円/月などなど

3-2. Government Surveyor in Edinburgh in 1870sコナン・ドイルの父親の給料

Author Conan Doyle described his father's salary. His father was assistant surveyor in Edinburgh city in 1870s, and salary was £240/year. So, 100yen/month.

・コナン・ドイルの父親はエジンバラ市の技師補で、ドイルの自伝によれば年収は240ポンド位であった。月給に直すと20ポンド、円に換算すると100円/月となる。1869年に明治政府の燈台建設技師長となったブラントンは600円/円、マクヴェインで300円で、さらに住宅の提供あるいは住居手当がついたので、海外勤務だと国内で働くよりも数倍の給料が提示されたことになる。しかし、慣れない土地での業務と生活には身体精神的ストレスが伴い、3年前後の契約雇用であったため、次の仕事に就くまでの空白期間や退職後の年金を考えれば、本国の数倍という給料は決して高いとはいえない。

3-3. Comparison of Salary between Japanese engineers and Foreign Engineers日本人技官と外国人技官の給料の比較

明治政府外国人職員月給   明治4年 S技師長1,000yen A技師長600yen B技師長400yen 技師補300yen

Foreign Engineers, 1871       S-Chief Engineer     A-Chief Engineer    B-Chief Engineer    Assistant Engineer

明治政府官僚明治4年月給 岩倉具視600yen 伊藤博文400yen

Cabinet Member, 1871         Tomomi Iwakura Hirobumi Ito

同上明治8年9月『官員録』 太政大臣800yen 左右大臣600yen 卿500yen     大輔400yen 少輔350yen (巡査長10yen)

Cabinet Member, 1875 Prime Minister Vice Minister Minister Vice Minister Acting Vice Minister Chief Police

・明治4(1871)年時点で、造幣局技師長キンダーやブラントンらの技師長給料は明治政府の大臣クラス以上であった。4年後の明治8(1875)年には日本人官僚の給料は2〜3割増え、外国人技師長クラスの給料と同等になった。1870年代は佐賀の乱と西南戦争があり、官僚の給料はほとんど伸びなかった。1ドル=1.5円前後の為替にすべきだった。インド省俸給体系以下だと優秀な人材を集められなかった。

3-4. Consideration考察

・明治政府雇い英国人技師長・技師補クラスは、確かに本国よりも数倍多くの給料をもらっていたが、それはおそらくインド省公共事業局の給料体系を参考にして決められたのであろう。インド植民地の開発のために大勢の技術者が求められていたが、なかなかいい人材が集まらなかったと言われ、高給を提示する必要があった。明治政府も殖産興業と富国強兵のためにいい人材を雇用しようとしており、インド植民地の高級官僚や技師長並みの待遇を提示したと考えられる。明治政府の外国人職員であっても、単なる技術者や語学教師だと150円/月前後となり、本国のそれよりも数割程度の割り増しにしかならない。

IV. Contemporary Sources on Oyatoi Gaikokujin.

(1) To the Editor of the Japan Weekly Mail, March 7, 1874. THE JAPAN WEEKLY MAIL, p.195-196.

    Sir,-In the article on the Kogakurio moaw, which appeared in your issue of the 28th February I notice a remarkable omission. You say that on certain parts of the building are to be inscribed the names of the ofiicers who were employed at its commence

ment, the name of the Mikado, and the names of the oflicera employed at its completion, but I do not find that the names of the gentlemen who made the design and carried them out are to be commemorated in the same manner or in any other The Japanese oflicers who purchased the materials, paid the workmen their wages and kept the accounts, are no doubt highly worthy of having their memory preserved to posterity, but their services can hardly have been so important as those of Mr. McVean, Mr. Joyner and Mr. De Boinville, who never theless are to be left without mention.

    I recollect a similar incident three years ago, when the Mint at Osaka was opened. In the Government Gazette was published a long list of Japanese functionaries who had been more or less indirectly connected with the establishment of the Mint, together with the rewards said to have been bestowed on them by the Mikado ; while Major Kinder, to whom the credit of the whole organization was due, and Mr. Waters, the architect, were not named at all.

The explanation of such facts appears to me to be that while the Japanesc Government feels the necessity of engaging the assistance of foreigners for the works which it from time to time undertakes, it is not willing to acknowledge to its own  people the necessity of obtaining the services of foreigners ; the consequence being that no Japanese, except those who come in direct contact with them, feel any respect for foreign employés as a. class. In comparison with the salaries of Japanese ofiicials the price paid for the services of competent foreigners seems extremely high to the ordinary native, who does not understand the value of those services, and whose Governmentapparently treats the foreign employés as ii they were no bodies. Indeed, what must be the opinion of Japanese, who guilIynfl\1|lli('i0ns tnischi--fin tho wanton destruction Of properly hear those employés usually styled yatoi gaikn/:1;/'11:!‘ In Dr. 1"» the Gmlltl limel Hepburn’s Dictionary the word yatoi is rendered by, “ to hire temporarily or by the day ; to call, as a coolie ;" and its meaning is not a whit changed by being prefixed to the word gaikakujin, a. foreigner. Nowonder then that the samurai‘ should, as you suggest in another article, feel embittered against the Government for the (apparently) lavish manner in which it has put foreigners in places of large emolument—foreigners to whom it applies without exception a derogatory term, and the value of whose services is persistently left without acknowledgement.

1 am, Sir,

Your‘s faithfully,

AN OUTER BARBARIAN.

[According to this description, "Yatoi" was first taken in to dictionary by Hepburn.]

CASE-STUDY I.: Coin Alexander McVean, William Edward Cheesman, Charles Alfred Chastel de Boinville, Henry Scharbau

日本建築学会近畿支部平成2年度研究報告集9023

ブラントン、マクヴィン、そしてボアンヴィルについて 東アジアのイギリス人技術者の系譜その1

Brunton, McVean and de Boinvulle: British Engineers and Architects Employed by Meiji Japanese Government

I.序

幕末から明治初期にかけて多くの外国人が御雇技術者として来日したが、数人の例外を除くと日本国内での彼らの活動に比べて本国での業績や評価は余り知られていない。さらに出身地が同じで、時期が重なって滞在していた外国人どうしであれば、なんらかの関係があったと思われるが、それについてもほとんど不明である。ここにあげる3人は、それぞれ明治初期の土木建築に大きな貢献をしたイギリス人技術者であり、来日に際して明確なつながりを持っていた。そのつながりとこれまで不明であった日本での活動を明かにするには、まず初めにブランドン(Robert Henry Brunton)について触れなければならない。

II.ブラントンについて

彼は『お雇い外国人の見た近代日本1)』として題して自伝を著しており、さらにイギリス土木技師学会研究論文集の中にも詳細な死亡録2)が残されているので、本国での経歴や来日の経緯はほとんど明かである。それらによると、1868年に灯台建設の主任技師として来日し、本来の業務ばかりではなく横浜外国人居留地整備や橋梁建設などさまざまな建設事業を手掛た3)。また、イギリスに帰国した後、『日本の灯台4)』と『パラフィンとパラフィン・オイルの製造5)』と題した論文をイギリス土木技師学会研究論文集に発表し、二度もテルフオード賞に輝いている。このようにブラントンは、イギリスと日本どちらにおいても一流の業績と評価を残した技術者であった。

その彼が日本に来るようになったのは、日本政府がイギリス商務省を通じて灯台技師を求めていたことを知って、自らその職務に申し込んだことによる。すでにイギリスでは鉄道を中心とした土木建設ブームは去り、技師たちは植民地などを次の活動の舞台としつつあった。ブラントンもそんなイギリスよりもっと技術を生かせる海外に活路を見いだしたのであった。スコットランド灯台局のステーヴンソン兄弟の選考を通って、1868年2月に日本政府から採用通知を受け、そして同年8月8日に日本に到着した。

III. マクヴィン

ブラントンは日本にやってくる際、灯台建設の助手としてマクヴィン (Colin Alexander McVean)を伴ってきて、同時に彼も工部省灯台寮の御雇いになった。マクヴィンの経歴も助手に選ばれた経緯も定かではないが、彼は次に述べるように日本に来てからもグラスゴーの友人とつながりを持っていたから、彼もまたスコットランドで仕事をしていた技術者の一人であった。日本に来てから最初はブラントンといっしょに日本全国の灯台建設に奔走していたが、1871年に測量司雇いに移るとともに、土木建築事業に関与していった。イギリス外交文書6)は次のように彼の活動を報告している。「マクヴィンとジョイナー7)はともにイギリス陸地測量に匹敵する日本全国測量図の作成のために日本政府に雇われ、そのスタッフと測量器機が英国から到着するまでの問、非常に大規模の技術学校の設計を行っている。学校はおよそ360人の学生を収容することができ、まもなく外国人教師が任命されることになっている。その建築はロンバルド・ゴシック様式になるはずである。すでにこれらの紳士は、将来様々な業務の助手になるはずの日本人学生に数学やその他の技術科目を教えている。さらにまた江戸の測量図が完成すれば、現在非常に劣悪な状態の街路や橋の改善が行われるであろう。」

これと同様な記事が1873年2月15日号の『アーキテクト』M8)誌上にも見られ、外交省文書が情報源になっていたことが分かる。1870年に設置された工部省は、当初から江戸を東京へ改造するための準備として地図作成を急務の事業としていたから、灯台建設の測量を担当していたマクヴィンの経験をかって、彼を首長に据えることにしたのであろう。工部省は帝都東京建設のための測量を開始するとともに、1871年に工学校を開設した。イギリス外交文書が示す技術学校とはこの工学校に違いなく、そしてマクヴィンらが設計していた建築とはぽ明治工業史・建築編』に紹介された工部大学校博物館(1872年竣工)と工部大学校生徒館(1874年竣工)と考えられる。工部省は、設置当時には建築部門が独立していなかったから、測量司首長のマクヴィンに建築設計をも任せ、工学校の造営掛として雇われていたアンデルソン9)の方は、設計というよりは施工監理や造作を指導していたのであろう。さらに、彼らは1873年に工学校都検としてヘンリー・ダィエルらが到着するまで、その教育をも行っていた。

マクヴィンは、工部省の求めに応じて銀座煉瓦街の計画案をウォートルス、ブランドン、スメドレィ、フロランとともに提出したが、それは東京の測量と工学校校舎の設計の業績があったからだと思われる。工学校の設計の最中に、彼はグラスゴーの友人に製図工の紹介を頼んだ。建築家ではなく製図工を依頼したということは、その製図工を利用して彼自身もっと多くの建物の設計をする予定があったのであろう。それらは、一つは工学校の一連の建物であったことは明らかであるが、その他の建築、たとえば赤坂謁見所などの設計の可能性があったかもしれない。それほど工部省は、当初大蔵省雇いのウォートルスに対抗して、マクヴィンに大きな期待をかけていたと思われる。ところが、1873年測量司が工部省から内務省所属へと変更されるとともに、マクヴィンは内務省地図寮に測量師首長として移ってしまった。そして、建築部門は1872年暮れにグラスゴーからやってきていた「腕のたつ製図工」に任されることになった。

IV.来日までのボアンヴィル

その製図工としてやってきたのがボアンヴィル (Charles Alfed Chastel de Boinville)であった。マクヴィンとボアンヴィルを結ぶ資料は、キャンベル・ダグラス (Cambell Douglas) が英国王立建築家協会雑誌に載せたボアンヴィルの死亡記事10)である。それによると、マクヴィンは灯台建設が一段落するとともに工部省の建築設計をたくさん抱えるようになり、その建設材料と金物の手配を頼んでいたグラスゴー在住の友人ダグラスに製図工を一人紹介してくれるように依頼した。当時設計していた工学校の建築材料をグラスゴーから発送したのも、ボアンヴィルを製図工として選んだのもこのダグラスであった。ダグラスは英国王立建築家協会正会員の資格を持ち、19世紀後半のスコットランドを代表する建築家の一人であったから、その友人マクヴィンもひとかどの技術者であったはずである。

ここでボアンヴィルの経歴に触れておきたい。ダグラスによる死亡記録及ひ英国王立建築家協会進会員審査記録によれば、純粋なフランス人であった。曾祖父はロレーヌ地方の名門の出でフランス革命の際に大きな活躍をしたが、ナポレオンが失墜するとともに領地を取り上げられ、そして父親はリジューの教会の司祭になった。そこでボアンヴィルは1850年に生まれ、そして10代後半当時バリで仕事していたイギリス人建築家ウィリアム・ホワイト(William White)のところに見習いに入ることなった。ウィリアム・ホワイトは、G. G. スコットのもとでG. E. ストリートらと共に建築の修行を積んだ19世紀後半イギリスのヴィクトリアン・ゴシックを代表する建築家の一人であり、さらに英国王立建築家協会の事務局長を勤めた人物でもある。ボアンヴィルはホワイトが帰国するとともにイギリスに渡り、普・仏戦争の期間一時帰国したものの、1871年には父親の知人であったグラスゴー在住の建築家ダグラスのもとで建築家としての修行を始めた。技芸に秀でていたフランス人少年であったなら、エコール・ド・ボザールを目指すのが普通であったにもかかわらず、わざわざイギリス人の二人の建築家のところに弟子入りしたのは単なる偶然ではなかったはずであるが、その理由は不明である11)。とにかく、経験的にフランス建築に親しんでいたとしても、日本に来る前のボアンヴィルは基本的には英国建築のデザインを学び、それを身に付けたことになる。ボアンウィルがそこで1年半過こしたとき、ダグラスは日本の友人マクヴィンから「できるなら、呑込みが早く腕の立つ製図工」を紹介して欲しいとの依頼を受け、そして即座にボアンヴィルを推薦することにした。しかし、彼はダグラスの申し出を喜んで受け入れたのか疑問である。ボアンウィルが23歳の時であった。

V.日本時代

ダグラスによるボアンヴィル死亡記録は、彼の工部省技師長への雇われの経緯について、「1874年(明治7年)渡1量司が工部省から内務省に移るとともにそちらの方にマクヴィンが移ったため、工部省に建築の技師長がいなくなり、工部省担当者がボアンヴィルが行っていた建築教育を通して実力を認め、彼をその部局の長に就かせることにした」と説明していた哀悼の文書であるから誇張が含まれており、正規の建築教育を受けたことがなく、また英語も流暢でない24歳の青年が、教育に熱心であったとしても授業内容は十分なものではなかったはずである。後年曽弥達礒らが不満をもらしたのは当然のことと思われる。

マクヴィンが去った1874年、さっそく工部大学校本館(1875年竣工)、同生徒館増築(1874年竣工)を完成させ、続いて工部大学校講堂(1877年竣工)、そして赤坂謁見所・会食堂(1879年完成半ばで中止)、外務省本庁(1881年竣工)を手掛けていった。それを裏付けるように、マクヴィンもダグラスに当てた手紙の中てボアンヴィルが設計した日本での代表的な建築は、「第一は工部大学校の一連の建築群で、それらは本館、博物館、実習所、学生宿舎、教師館などからなり、第二には新皇居であった。両方とも日本政府にとっても重要な建築で、彼のデザインは日本政府に最大の満足を与えた」と述べている。この文面も哀悼のものであるから割引いて考えなければいけないが、建築教育に比べると少なくともデザインについては大いに力量を発揮したと考えられる。しかし、すでに指摘されているように、地震に対する配慮が足りず、赤坂謁見所・会食堂は工事途中で地震によって基礎が被害を受け、中止されることになった12)。

日本でのボアンヴィルの人柄について、マクヴィンは「悪く言う人は誰一人としておらず、いつも親切で、寛大で、そして紳士的であった」とダグラスに伝えており、またダグラスも「フランス人から受け繕いだ風貌の高貴さ、礼儀正しさ、洗練さ、さらにイギリス人としての責任感の強さ、献身さを合わせ持っていた」と最高の賛辞を送っている。確かにイギリスに帰ってからは自分にあった仕事に就き、そこで本当の自分の力量を発揮し、高く評価されたことを考えると、彼はここに述べられたとおりの人物であったかもしれない。しかし『クララの日記』の中では、日本滞在中日本とスコットランドに対して時として悪口をはいていたと記されている。異国の地である日本で、日々の生活や仕事上で苛立つことが生じるのは当然のことで、驚くには当たらない。それよりボアンウィルには、日本政府擁護とも取れる言行が存在する。1880年6月18日、一年前にロビンスという英国人が設計者の許可も無くして、『ビルダー誌12)に工部大学校物理学棟の建物の図面を紹介したことに対する抗議文を送っている。その理由として、日本政府は御雇外国人を非常に寛大に扱ってくれているものの、その彼らが設計したいかなるものも公表することを嫌っているからであると語っている。

日本に対するよりもイギリスに対する気持ちのほうがより重要であろう。というのは、彼のそれまでの人生はすべてスコットランドを通して形成されてきていた。スコットランド出身で当時日本にいっしょに滞在していた、ブランドン、マクヴィンやダイエルらと不仲であったかどうか定かではないが、もし日本に来ることが本人の希望とは違ったものであったなら、自分を送り出したスコットランドを恨んでいてもおかしくない。イギリスの建築家の経歴を見ると20歳初めは非常に重要で、徒弟見習いや助手を終えた有能な新人は設計競技などで頭角を表し、そして建築家として地歩を固めていく時期であった。帰国後天いに認められていくことを考えると、おそらくボアンヴィルが日本に来ずそのままイギリスに留まっていたなら、なにがしかの機会を捕らえてもっと早い時期に自分の力を発揮していたと思われる。遅れでやってきた2歳年下のコンドルがソーン賞を射止め、王立建築家協会進会員で来日してきたことを考えると、そのボアンヴィルの焦りは想像にかたくない。それが些細なことでrビルダー』誌に抗議文を送りつけることになったのではないだろうか。

VI.イギリス帰国後

ボアンヴィルは帰国後ダグラスのところに暫く身を寄せ、1882年に王立建築家協会の正会員になっている14)。それとともに彼はイギリス工務務局14)に建築家として入ることになり、「そこで水を得た魚のようにたくさんの重要な建物を設計していき、特に彼のディテールはすばらしく、当時民間の建築家で彼にかなうものはいなかった。」さらに「工務局の建築設計が賞賛されるのであれば、ボアンヴイルに負うところが大である」とダグラスは語っている。その腕を見込まれ、バリ、リスボン、ブリュッセルなど海外のイギリス大使館の設計に出向いていった。晩年はインド省の名誉職であるサーヴイヤーに就き、インド省庁舎の増築を最後の仕事にして、1897年4月25日に享年47歳で亡くなっている。

VII.結

ブランドン、マクヴィン、そしてボアンヴィルにつながるイギリス系技術者の系譜と、特にこれまで知られていなかったボアンヴィルの経歴を明らかにした。彼はデザインに大きな資質を持った少年で、フランス人でありながらイギリス人建築家のもとで建築設計を学ぶことになった。製図工として来日したが、すぐにそれ以上の力量を持っていることが認められ、工部省雇い建築家として工部大学校の一連の建物や赤坂謁見所・会席堂などの設計を手掛けることになった。しかし、見習いと助手の経歴しか持たない青年建築家にとって、日本政府が求める建築を実現し、建築家教育を行っていくことはあまりにも重荷であった。日本時代には彼の持つデザイン力が十分に発揮できされなかったが、帰国後英国工部局建築家としてより高く評価されていった。マクヴィンのその後は分かっていないが、ブラントンは帰国して1896年にロンドンのトラファルガー近くで建築事務所を経営しており、ホワイトホールのインド省に勤務するボアンヴィルと目と鼻の先の位置にいた。お互い再会したのかどうか分からないが、ボアンヴィル死去4年後の1901年4月にブランドンが亡くなっている。


脚注

1) R. H. ブラントン著/徳力真太郎訳『お雇い外人の見た近代日本』講談社学術文庫、1986年

2) "Proccedings of Institute of CiviI Engineers", vol. CXCVI, p.357

3) 横浜市『横浜市史』第2巻にほぽすべての業績が紹介されている。

4) "Minites of Proceedings of lnstitute of CiviI Engineers", vo1.XLVII, p.1

5) lbid, vol. LXVl, p.180

6) 'Vice Consul Dohmen to Mr.Adams, Yedo, February 15,1872," British ParIia印mentary Papers, IUP.

7) H. B. Joyner. C. E.

8) "TheArchitects", February 15, 1873

9)〕i1iia…Anderson10)"JournalofRoyalInstituteofBritishArchitects"vo1.4,P.357

10) 生別宍F実氏は、ボアンウィルの父親がスコットランドの大司教であったと語られていたが、ボアンウィルは父親の移住とともにスコットランドにやってきたのかもしれない。

12) 小野木更勝rボアンビルの赤坂謁見所・会食掌の研究その1」日本建築学会論文報告集第163号

13) "↑heBuilder",Dece肌ber13,1884

14) BoinviUe,deChaste1.A.R.1,8.A.No町inationPapers,1888

15) Officeof〕orks.現在は、Depa北川entof〕orksと改名されている。参考文献日本建築学会編『近代日本建築学発達史』1972年丸善ユネスコ束アジア文化センターr御雇外国人』1975卑小学館Dixon,Roger&Huthesius,Stefan"VictonianArchitecture"1978,OUP.

CASE-STUDY II.: Thomas Waters