Remains of Military Buildings at Toyohashi with Comparison to Other 6 Division Cities

6師団都市との比較で見た豊橋の戦争遺産

started in April 1, 2019, updated in January 10, 2023.

1.豊橋市内の旧陸軍用地とその現状Former Military Facilities at Toyohashi City.

1-1. 発端:豊橋軍事施設地図の作成Mapping of former Military Facilities at Toyohashi City in 2001.

・2001年に豊橋ユネスコ協会の「平和教育プログラム」に協力して、軍都豊橋がどのようなものであったのか昭和14年の地図に表現することになりました。元地図昭和14年に作成され、豊橋市美術博物館所蔵です。黄色が軍事用地で、現在の豊橋市南部に多くの兵営舎、練兵場、演習場、射撃場、飛行場などあったことがわかります。具体的に以下の通りです。

【 旧吉田城と牛川地区】

(1) 吉田城-歩兵第十八聯隊:戦国時代に豊川河口の河岸段丘の上に吉田城が築かれ、江戸時代を通してその城下は東海道の宿場町として栄えました。明治維新後、吉田城は政府用地となり、1884年に歩兵第十八聯隊が置かれ、1888年には名古屋の第三師団配下になりました。1907年に豊橋南部に陸軍第十五師団が創設されると、この師団配下となりました。その後、歩兵第百十八聯隊、歩兵第二百二十九聯隊、中部百部隊を経て、第二次世界大戦後は、豊橋市役所敷地と豊橋公園となりました。

(2) 牛川射撃場→牛川遊歩公園

(3) 豊橋陸軍墓地→現存

(4) 工兵第十五大隊→豊橋商業高校、住宅地、煉瓦造構造物が残る。

(5) 工兵作業場→向山緑地

【旧高師村】

(6) 第十五師団長官舎→第一第一予備仕官学校長官舎→愛知大学公館

(7) 豊橋憲兵分隊→豊橋警察署南部交番、土塁と門柱が残る。

(8) 騎兵第十九聯隊→福岡尋常高等小学校→福岡国民学校→福岡小学校

(9) 野砲兵第二十一聯隊→高射砲第一聯隊→陸軍教導学校→予備士官学校→時習館高校、第十五聯隊の門柱を移設

(10) 歩兵第六十聯隊→教導学校→予備士官学校→愛知大学

(11) 教導学校→第二予備士官学校→豊橋養護学校、岩西小学校

(12) 輜重第十五大隊→豊橋工業高校、豊橋聾学校

(13) 第十五師団司令部→第4旅団司令部→愛知大学

(14) 兵器支廠→南部中学校、栄小学校

(15) 高師練兵場→陸軍局院分院→空池住宅、ユニチカ工場

(16) 捕虜収容所→輜重隊陸軍廠舎→高師緑地

(17) 騎兵第四旅団→騎兵第二十五聯隊→ユタカ自動車学校、イオン//騎兵第二十五聯隊→ヤマナカ、南郵便局

(18) 豊橋衛戍病院→豊橋国立病院→子供発達センター

(19) 豊橋衛戍監獄→草間住宅

(20) 高山射撃場→自衛隊高山射撃場

【天白原】

(21) 大清水陸軍飛行場→豊橋南高校、大清水小学校、ショッピングセンター

(22) 海軍航空隊基地→トピー工業

(23) 豊川海軍工廠試砲場→豊橋市野外教育センター、鉄筋コンクリート造の兵器廠や火薬庫の施設遺構あり。


1.2. 既往研究Existing Studies

(1) 佃



図1. 豊橋市の旧陸軍施設と現在の用途、1939年地図に作成

図2. 昭和14年豊橋市地図における第十五師団本部廻りの施設

1-3. 小結

・明治維新後、旧吉田藩は豊橋県となり、額田県を経て、1878年に豊橋町となりました。1906年、陸軍が6師団の国内駐屯地を探していたとき、豊橋町は豊岡村と花田村を合併して市制を施行しました。これは師団誘致の呼び水としようとするもので、誘致に成功すると市としてのインフラ整備が一気に進みました。それは市中心部から各駐屯地や演習地に伸び、また相互を結びつける道路網によく表れています。愛知大学周辺の地図を見ると、狭く曲がった古道が走っているのが見て取れると思います。

・1924年には豊橋電気軌道が高師口=三原田原線を、翌年には市内電車を、そして1927年には高師口から豊橋駅まで延長されました。そして、市電の終点に吾妻遊郭が開かれたのも軍の存在と密接に関わるものです。1932年には天白原演習場のあった高師村を豊橋は合併します。

・このようにして、豊橋は人口と面積を増やし、さらに製糸産業によって大きく発展しました。それゆえ、軍都と呼ばれましたが、それはなんの自慢にもなりません。外地に行って人を殺す組織と併存してきたのですから。私たちはその歴史を知り、残された物を消しさるのではなく、活かす知恵を持たなければなりません。

2.師団長官舎と偕行社の調査

2-1. 既往研究

・建築史研究の視点から、故小野木重勝らによる愛知大学所有地内の歴史的建築に関心を寄せられ、師団長官舎及び同大学豊橋キャンパス内に残る旧陸軍市悦建物の調査が行われた。

2-2. 旧偕行社

・2012年、愛知大学から旧偕行社の建物について相談がありました。これもまた10年以上使われてこず、屋根から雨漏りがし、キャンパス内で最も老朽化がひどい状態でした。大学側が、これを修理して活用するために相当なお金がかかるということで取り壊しを考えているということで、その前に記録保存のための調査をすることに決まりました。市民などに見てもらう機会があった方がよかったと思うのですが、2016年のお盆休みの期間中に突然解体撤去されてしまいました。

※泉田英雄「偕行社の建造物文化財調査」、愛知大学綜合郷土研究所紀要第57号、2013年

・北側に玄関ホールとポーチコ(車寄)が付いた逆T字形平面をしています。ポーチコ手前には円庭があり、皇太子手植えの松がありました。唐破風付きのポーチコがいつ改築されたのかは良く分かっておりません。

・1946年、この偕行社とその敷地は農協に貸し出され、愛知大学の所有となったのは1970年代末である。短期大学部本部建物として使用されたが、2007年に短期大学部の縮小に伴い使われなくなりました。

旧第十五師団偕行社、2012年11月撮影

第十五師団偕行社、昭和初期の写真

旧第十五師団偕行社、2012年11月の調査時の北側立面.戦後、農協に貸し出され、その時に原板ポーチの改造が行われ、にかい二階床と唐破風がなくなった。

旧第十五師団偕行社、2012年11月の調査時の1階平面図

2-3. 旧第十五師団長官舎

・愛知大学は、1946(昭和21)年に豊橋市の旧陸軍教導学校及び予備士官学校の跡地に開学しました。明治時代末期、豊橋市南部のこの土地に旧第十五師団が置かれることになり、司令部と陸軍歩兵第六十聯隊が作られ、それらの施設建物を愛知大学はそっくりそのまま受け継ぎました。

・2010年時点で、愛知大学豊橋キャンパス内には旧司令部本部(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)、旧将校集会場(綜合郷土研究所・中部地方産業研究所)、旧偕行社(短期大学本館)、旧第二機銃敞(中部産業研究所附属産業生活資料館)、旧養生舎(教職員組合事務所)、旧大講堂(第二体育館)があり、キャンパス外には旧師団長官舎(愛知大学公館)がありました。旧司令部本部は登録文化財、師団長官舎は豊橋市指定文化財です。

※「愛知大学豊橋キャンパス(第十五師団関連建物など)」愛知県教育委員会『愛知県の近代化遺産』、2008年.

・1990年代末、愛知大学は公館建物を使うことはなくなり、維持管理に困り、2013年に豊橋市教育委員会とともに建物の状態と今後の活用の検討のために調査委員会を発足させました。翌年、私が代表となりに、地元の建築文化に詳しい豊橋創造大学の伊藤晴康先生、歴史的建築に造詣の深い名古屋大学の西澤泰彦先生、そして愛知大学から東亜同文書院大学記念センターの武井義和先生の3人で、調査を開始しました。修理と耐震補強にお金はかかりますが、国の重要文化財に匹敵するほどの価値を持ち、近代建築としての魅力もあり、豊橋市の文化的知名度も上がるので、官民を挙げての修理活用を提案したのですが、実現には至りませんでした。

※豊橋市教育委員会『愛知大学公館(旧陸軍第十五師団長官舎)建築調査報告書』、2015年.

旧第十五師団長官舎、北東側の外観.2013年9月調査時.

旧第十五師団長官舎、平面図.2013年9月調査時.網掛け部分が洋館.

旧第十五師団長官舎、立面図.2013年9月調査時.山口晋作氏作図.

旧第十五師団長官舎、断面図.2013年9月調査時.山口晋作氏作図.

.愛知大学豊橋キャンパス内の旧陸軍施設建物の総合調査

2-1. 調査の経緯

・愛知大学は本拠を名古屋校舎に移し、豊橋校舎はかなり縮小されましたが、上海東亜同文書院を引き継いだ愛知大学の歴史は豊橋の方にあります。残された旧陸軍施設建物の維持管理に大変苦労があると思われますが、これらを積極的に利用した大学キャンパス造りができないものかと、文学部の山田先生他から相談がありました。す。そして、2019年に山田先生を代表として、愛知大学と旧陸軍と地域社会との関係を総合的に問い直す研究プロジェクトを立ち上げることにし、私は豊橋キャンパス内に残された建物の平面、材料、構造、現状などの建築学的調査を分担することになりました。


2-2. 1976年のキャンパス内施設建物

 図1は開学25周年記念誌に掲載された施設配置地図で、1976年当時の状況がよく分かるように旧陸軍施設建物に薄い網掛けを、また鉄筋コンクリート造の建物に濃い網掛けをしました。すなわち、愛知大学の手によって、副門(現在は正門)を入った正面に学生会館とサークル棟が、その南側に図書館、講義棟、研究館、研究棟、短大校舎、さらに研究棟や事務棟が建設されたことがわかります。旧陸軍施設建物は旧将校集会場(綜合郷土研究所・中部地方産業研究所)、旧司令部庁舎(愛知大学本館、現東亜同文書院大学記念センター)、旧陸軍養生舎(教職員組合事務所)、偕行社(愛知大学短期大学本館、解体済み)の4棟のみが残されているのがわかります(表1)。

 一方、中央から北側には多くの旧陸軍施設建物が残っており、副門の脇に第一衛兵所・機銃敞(車庫)、北側に3棟の生徒舎(大学院、思草寮、翠嵐寮)、下士官集会場(化学館)、炊事場(寮食堂)、講堂(柔道場)、靴工場(合宿所)、自習室(サークル室)、大講堂(第二体育館)などがありました。今日の話は、こういう陸軍施設の建物がどのように作られ、また愛知大学さんによってどのように受け継がれてきたのかということです。配置図から分かるとおり、1976年の時点では多くの学生をキャンパス内に住まわせ、学生の生活と学びの場が同じキャンパス内にありました。さらに、鉄筋コンクリート造の図書館の場所には旧陸軍の木造建物があり、これは教員の住宅として使われていました。そうすると、愛知大学は旧陸軍の施設建物を全活用して開学し、同じ敷地内に教員も学生も住むし、教育も行ってきたわけです。

 そうしなければならなかったのは、開学当初、大学も学生さんも金がなくて現存するものを最大限活用したためと思われます。そして、開学して20年経ち、ある程度資金が貯まって老朽化した木造施設を鉄筋コンクリートで建て替えていったのでしょう。それでも1976年時点で、キャンパス北側には旧陸軍の施設建物が結構数多く残っていたんです。6棟あった学生寮は3棟に減りましたが、煉瓦造の炊事場や講堂、鉄骨造の大講堂などが残っており、特に煉瓦造りの建物は木造施設の中で異彩を放っていたと思われます。現在、日本各地の旧陸軍施設の中で煉瓦造の建物の多くが文化財指定を受けており、これらが現在無くなっているのは大変残念なことです。


.第十三十八師団の創設とその遺構

3-1. 明治政府の最初の陸軍

 国内の治安維持→鎮台


3-2. 日清・日露戦争時の陸軍

  国内陸軍の海外派遣、台湾と朝鮮半島の軍事支配のために海外派遣部隊の創設の必要性。


3-3. 師団設置値の必要条件


明治維新後、日本国内を治めるために主要大都市に軍管・鎮台が置かれ、それらが師団に昇格します。日清戦争に続き日露戦争が勃発すると、海外で戦う兵隊を養成する必要が生じ、それまでの12師団に加え、6師団が増設されることになりました。豊橋はこの師団誘致に成功するわけですが、その関連記録を豊橋市図書館他から山田先生がたくさん集めてくれましたので、今後、軍隊と地域の関係が明らかになると思います。各地の誘致の動機は、軍隊駐屯地ができれば地元の商売や仕事の機会が増え、経済が潤うためです。海外で戦ってくれる軍隊の養成を地域が支援するだけですから、地域社会には経済的恩恵が大きかったわけです。

 豊橋市は師団誘致に成功し、市も市民もとても喜びました。しかしながら、山田先生が集められた新聞記事にあるように、地域社会を巻き込んだ事故とか事件とかも当然起きるわけで、負の側面も明らかになってきました。そういうことがあっても、全体とすれば大きな経済的効果があり、軍都を歓迎したわけです。外征のために、外で戦う軍隊を養成するための基地として新たに作られたのがこの豊橋の1つですね。

 明治21年、軍管・鎮台を廃止し、師団として再編成する際、政府は「師団指令部条例」という法律を出します。軍管・鎮台が江戸時代のお城の中に置かれたのに対して、これ以後は城外に広い土地を求めることになり、明治29年、政府は「兵営地選定に関する方針」という規則を定めます。これに基づいて、日露戦争以後の師団軍営地は作られていき、そして旧市街と一体となって軍都と呼ばれるようになりました。この方針では、師団は全国に均衡的な分散させること、その軍営地は市街地近傍で、具体的には市街地中心部から二里(7㎞)程度とし、広大で乾燥した清潔な土地であること。水の確保が容易であることなどが基準でした。

 政府が6師団増設を決定すると、各地の自治体が盛んに誘致運動を繰り広げ、最終的には明治38年、越後高田に第13師団、宇都宮市に第14師団、豊橋市に第15師団、京都市に第16師団が置かれることになりました。京都の第16師団は、指令部は町の中に置かれましたが、兵舎や練兵場というものが備えられず、ちょっと異例なかたちになっております。この2年後に、岡山市に第17師団、久留米市に第18師団が設置され、この合計6つがこの方針に基づいて作られた師団軍営地であり、そして地域社会と一緒になって軍都ができあがりました。

4.師団軍営地の構造

 この方針が具体的にどのように適用されたのか見ていくと、図2の第13師団では指令部は越後高田に置かれますが、新発田市と長岡と連隊は分散配置されます。明治維新直後、高田城の主要建物は焼失し、その跡地に司令部や偕行社が建設されますが、連隊兵営地としては狭く、堀が埋め立てられて駐屯地が造成されました。


 図3は第14師団の宇都宮市で、駅から日光街道沿いに西方4キロメートルほど離れた郊外に広い土地が確保され、そこに司令部が開かれました。その廻りには、工兵、歩兵、騎兵、野砲兵などの部隊兵営地と衛戍病院が設けられました。司令官庁舎と偕行社は駅と指令部の間に置かれました。現在、宇都宮中央高等学校となっている敷地に煉瓦造の建物が一棟残っております。図4は第15師団の豊橋で、駅から旗ら街道沿いに南方2キロメートルほど離れた場所が選ばれ、そこに指令部と歩兵連隊が配置され、その周辺に歩兵、野砲兵、騎兵、工兵の連隊兵営地と衛戍病院が置かれました。現在の愛知大学キャンパス内には司令部と歩兵第60連隊があり、この二つは土塁によって明確に分かれていました。また、連隊兵営地から市街地に向かう角地に憲兵分隊が置かれていました。さきほどの山田先生の話でも出てきましたが、兵士が駅や市街地に行こうとすればこの憲兵分隊前を通ることになり、兵士らの行動を監視していたのだと思われます。


図4. 第15師団(豊橋市)の配置図、Google Map。  図5. 第17師団(岡山市)の配置、Google Map。

 

 図5は岡山の第17師団で、駅から北方2キロメートルほど離れた郊外にあり、丘陵部を背にしております。その南側に豊橋の師団と同程度の広さの土地を確保して、その南側に司令部、奥に連隊兵営地がありました。指令部の建物は当初の位置から移され部分保存されており、また工学部の敷地には煉瓦造と木造の旧陸軍施設建物がそれぞれ数棟残っております。これについては後でお話しします。師団長官舎と偕行社は駅までの途中にあり、偕行社は現存しますが、師団長官舎は解体撤去されています。

 第13師団から第17師団まで、師団長官舎と偕行社は基本的に司令部敷地の外に、駅との中間地点に置かれましたが、豊橋の第15師団だけ司令部敷地内に偕行社も置かれました。この理由は分かっていません。図6の第18師団の久留米の場合、JR駅から東南方向に5キロ以上離れた郊外に師団が置かれました。その廻りに工兵、歩兵、騎兵、野砲兵の兵営地、衛戍病院が配置され、岡山、豊橋、宇都宮の三つの師団とよく似た規模と構成を持っていました。師団長官舎は現在髙牟礼会館として活用され、また自衛隊駐屯地内部にも二棟のみ旧陸軍施設建物が確認されています。


表2. 第13〜18師団の比較、「アジア歴史資料センター・グロッサリー」より作成。

  こうやってみてくると、分散配置された第13師団(高田市)と狭隘敷地の第16師団(京都市)を除く4師団は既存市街地外れの微高地に立地し、同じような兵営地構成を持っていたことが分かり、さらに、その中で第15師団の施設遺構が一番よく残っていることが分かります。


5.師団廃止と関連施設建の遺構

 師団の変遷を追いながら、豊橋ではなぜ旧陸軍施設遺構がよく残ったのか考えてみましょう。大正14年、いわゆる宇垣軍縮があって師団が廃止されることになります。しかし、今でもそうであるように、一旦できたものを廃止することは大変難しく、名目上は4個師団を廃止するが、同時に軍事力の近代化を図って別の組織として活かすわけです。その2年後、日中戦争が始まると、政府は下士官養成のために教導学校を日本国内に3か所ぐらい作りたいと考えます。旧第15師団のあった豊橋にその開設が決まり、昭和2年、旧歩兵第60連隊兵営地で歩兵科が始まります。岩屋西にもう一つの導学校があり、昭和8年、ここは第2教導学校として騎兵科と砲兵科が置かれました。この教導学校とともに、昭和13年、仙台と豊橋に予備士官学校が設置されます(図7)。こうして、第15師団を中心にした陸軍施設は、太平洋戦争終了まで使われ、空襲を受けずにすべてが残ったわけです。


図8. 第15師団上空からから草間方面を写した1940年頃の航空写真。豊橋美術博物館所蔵。

 愛知大学キャンパスから草間一帯を移した戦前の航空写真を見ると(図8)、宇垣軍縮を経ながらも陸軍施設がまったく完全に整備され、維持管理されていたことがわかります。目に付くのは、現在の愛知大学キャンパスから草間にかけて大きな兵舎が整然と並んでいることです。第15師団敷地は教導学校と予備士官学校として使われていたことから、上海同文書院を母体の一つとする大学が戦後日本国内にキャンパスを探していたとき、ここに好条件が揃っていたわけですね。航空写真を見ると、現在の愛知大学のキャンパス内には6棟の兵舎、食堂や炊事場、校庭、講堂、教室、事務所、無数の便所などがあり、愛知大学の移転を待ち構えていたように施設が揃っていました。

 普通の学校とは違ったところもあって、副門を入ったすぐ前に円形庭園があり、鳥居と豊秋津神社がありました。1976年の愛知大学の施設配置図(図1)を見ると、そこにはこの円形庭園と神社はなくなっており、また、6棟あった兵舎も3棟に削減されております。マックスバリューやユタカ自動車学校の敷地にも多数の兵舎があったのですが、どうもこれらは解体されて、どこかで再利用されたみたいですね。戦後の復興期には旧軍施設の木材は貴重でした。私が知っているのは、軍施設ではありませんが、二川の製糸工場の建物が解体され、浜名湖の北のほうのお寺に移築された事例があります。

 愛知大学にとって好条件だったのは旧陸軍の施設建物だけではなく、交通の便もあったかと思います。豊橋駅から連隊兵営地を経て老津・田原方面に延びる渥美線鉄道は、軍事的目的もあったわけですが、第15師団跡地を譲り受けた愛知大学にとって願ってもない施設だったでしょう。大学前駅を作ってもらえば、豊橋駅から十数分で正門に到着するんですから。愛知大学はこの敷地を国から無償提供してもらえば、初期投資がなくても開学できたわけです。実際、開学の1946年から15年間は無償で借り受け、1962年に正式に国から払い下げを受けます。


6.払下申請図面

 払い下げ金額がどれほどのものであったのかはわかりませんが、愛知大学にとっては好条件であったことは間違いないでしょう。本日の大事な話になりますが、払い下げを受ける際に、愛知大学側は全施設建物を実測調査し、その価値を自分で査定し、名古屋管財局と交渉したようです。愛知大学公館の建築調査をした際、1961年末に愛知大学がこの建物について実測調査し、図面を作成したことは分かっておりましたが、豊橋キャンパス内の全建物について行っていたとは気付きませんでした。今回、山田先生の労で、昭和36年12月作成の払い下げ申請図面一式があることがわかり、その膨大な図面数に驚いたわけです(図9)。師団長官舎を含み、偕行社を除いて、84物件の施設建物に150枚ほどの図面があります(図10)。その中には、多数の縮尺1/20の矩計図面があり、普段見ることのできない基礎や小屋組が詳しく描かれています。

 これは官から民に資産が譲渡されるときに必然的に行われるものですが、官から官への配置換えの場合、建物の構造と面積などの一覧表で手続きが行われるようです。岡山の旧陸軍兵営地には岡山大学が入るわけですが、岡山大学の野崎貴博先生の研究によると、1952年の「国有財産所管換調書」に津島と鹿田の両キャンパスに250棟の建物が記され、そのうち242棟が木造、8棟が煉瓦造であったことが分かっています。しかし、この調書には一覧表があるだけで、建物の図面はありません。前述したように、ほとんどが解体撤去され、キャンパス北側に煉瓦造建物2棟と木造建物3棟が残るのみです。久留米の師団跡地は、警察予備隊を経て自衛隊駐屯地になり、2棟の旧陸軍の木造建物が現存するほか、旧陸軍の施設建物の実測図面はないと思われます。宇都宮では、師団用地は公立学校や公立病院が入居し、旧建物は調査されず、1960年前後に鉄筋コンクリート造に建て替えられていきました。


図11.払下申請図面の例、第二機銃敞矩計図、縮尺1/20。

 

 こうみてくると、ほとんどの旧師団ではその管轄下の施設建物は現存しておらず、また、その建築的記録もなく、愛知大学がいかに貴重なものを所有しているか分かると思います。豊橋キャンパス内に残る陸軍施設建築と、所蔵する払い下げ図面がいかに貴重なものかわかります。岡山大学敷島キャンパス内に残る食堂兼浴場と倉庫の煉瓦造建物とほとんど同じものが、愛知大学所蔵の払い下げ図面集の中にあります。同キャンパスの外に移築された旧将校集会場も同様で、旧第15師団のものが当時の姿のまま愛知大学の綜合郷土研究所・中部地方産業研究所として活用されています。他に、司令部は愛知大学東亜同文書院大学記念センターとして、教導学校大講堂は第二体育館として、養生舎は教職員組合事務所として、そして第二機銃敞は中部地方産業研究所付属生活産業資料館として用いられています。これだけの数の旧陸軍の歴史的建物が残され、活用されているところはありません。

 また、払い下げ図面を見ることによって、師団から教導学校時代までの完全な姿の状態の軍営地と建物の姿を知ることができます。岡山大学津島キャンパスと宇都宮中央高等学校に煉瓦造建物が老朽化した状態で残っているわけですが(図12)、それらと瓜二つの建物の竣工図面を愛知大学が持っているわけです。煉瓦の積み方、開口部の大きさと配置、換気のためのモニタールーフなど、陸軍は煉瓦造に関しては標準設計を持っていたことが分かり(図13)、これらの建物を修理保存するに際に矩計図面は役に立つはずです。宇都宮の煉瓦造建物は倉庫として国登録文化財になっておりますが、実際は炊事場だったはずです。 

7.個々の建物について

 共通して言えることは、すべての建物を取り囲むように側溝が配され、良好な排水処理計画がなされていることです。また、ほとんどの建物には独立した便所が併置され、渡り廊下で結ばれていました。大人数が密集して生活する軍営地にとって、衛生状態には特に気を配っていたはずで、それがこのように計画になったのだと思われます。

 司令部から兵舎まで基本的には木造で建てられていましたが、炊事や食堂は煉瓦造となっていました。おそらく火器を使うことや、臭いがこもってしまうことを考えてのことだと思われます。

木造の場合、外壁は下見板貼りに日本瓦による寄棟屋根です。煉瓦造の場合、切妻屋根でした。

 

(1) 司令部、現愛知大学東亜同文書院大学記念センター

 煉瓦造の第十六師団(京都)司令部を除くと、増設6師団の司令部はみな木造2階建てで、豊橋と岡山の現存事例を見ると平面立面はほぼ同じです。しかしながら、岡山では建物の両翼部を解体撤去し、正面玄関部分のみを後方に曳き家して大学会館として利用しております。もともとは豊橋の物と同じように、幅56メートル、奥行き26メートルのコの字形平面をしており、正面にページメント(三角破風)が付きます。煉瓦造の基礎に軸組を組み上げ、下見板貼り、寄せ棟屋根としています。小屋組はクィーンポストですが、内側に斜材を入れております。一部外周に耐震壁が出てきていますが、それ以外はほぼ完全に建設当初の姿を留めており、1998年に国登録文化財となりました。 

図12. 旧第十五師団司令部の現状立面と断面

 

(2) 歩兵第六十聯隊将校集会所、現総合郷土研究所・中部地方産業研究所

 幅38メートル、奥行き11メートルの木造平屋建て建物で、煉瓦造の基礎の上に木造軸組がのります。外壁は下見板貼りとし、日本瓦葺きの寄棟屋根となっています。小屋裏に入って母屋の重なり具合から、小ホールとなっている部分は増築であることが分かりました。部屋ごとに床仕上げや天井仕上げが異なっており、詳しくは分かりませんけれども、喫煙室や書庫などとして目的毎に使い分けていたのかもしれません。増築部の床には、ビリヤード台脚を支えるように四角形の台座が見られます。北側の高い植樹がなくなれば、北側の庭園と一体となり、ずいぶんとこの建物の魅力が高まると思われます。さらにまた、この建物の周りに建設当初の側溝、便所、そして渡り廊下がそのまま残っており、軍が衛生環境に大変留意して施設建物を計画し、作ったのかこれをみると良く分かります。外観は建設当初の陸軍施設の完全な姿をよく留めており、少なくとも国登録文化財としての十分な用件を満たしており、価値は高いと思います。


図13. 旧将校集会場の現状立面と断面

 

(3) 第二機銃敞、中部地方産業研究所附属生活産業資料館

 幅約11メートル、奥行き約18メートルの平屋建ての建物で、連子付きの高窓があるのは機銃敞の特徴と思われます。司令部と同じように、約11メートルのスパンにクィーンポストの小屋組を掛けており、おそらく10メートルを越すスパンにはこのような洋小屋にするように、当時の陸軍に標準仕様があったように思います。


図14. 旧第二機銃敞の現状立面と断面

 

(4) 陸軍養生舎、現教職員組合事務所

 幅約14メートル、奥行き約8メートルの大きさの建物で、正面側に玄関ポーチが付きます。もともと将校集会場の東側にあったもので、愛知大学が払い下げを受ける前に現在の場所に移築しました。外壁はモルタル刷毛引きとなっており、当初からなのか移築したときに替えらえたのかははっきりしません。それでも、移築後50年以上がたっており、登録文化財としての用件は十分に備えています。


図15. 旧養生舎の現状立面と断面

 

(5) 陸軍教導学校大講堂、現第二体育館

 養生舎と同じように、教導学校開校の昭和2年に建設されました。幅約16メートル、奥行き40メートルの鉄骨造建物で、昇降口はもともと正面側にしかありませんでした。室内の正面奥に舞台背壁が作られており、教導学校時代の写真を見ると、集会の時には移動式の演台が置かれました。L字形鋼をラチスに加工して柱と梁を一体化し、それを5メートル間隔で並べて屋根を支えています。何度か耐震補強がされたらしく、鋼製ブレースが別々の箇所でリベットと高張力ボルトによって接合されている。このような架構技術は飛行機の工場や格納庫によく使われていたらしく、各務ヶ原によく似たものが現存しております。正面昇降口の扉の引手や小窓、庇の持送りにアールデコ風な意匠が見られるし、また昇降口手前には円形庭園が造られました。これもまた、国登録文化財として用件は十分にあります。


図16. 旧大講堂の現状立面と断面

 

 

9.まとめ

 こう見てくると、愛知大学がどれほど旧陸軍の施設建物をよく残してくれているかが分かると思います。すでに旧師団長官舎は豊橋市指定文化財に、また司令部は国登録文化財になっており、他の4棟も国登録文化財としての用件は満たしており、可及的速やかに申請手続きにはいるべきでしょう。これら実際の建物からだけではなく、払下申請図面一式を通して、師団関連施設がどのように作られ、また、廃止後はどのように活用されてきたのか、さらに一つ一つの施設建物がどのようなものであったのかを知ることができます。愛知大学はこのような大きな文化的資産を持ち、大学の魅力として活かし、発信していってもらいたいと思います。