The British Embassy and Consulate Buildings in the Far East 1840-1910.

東アジアの初期イギリス公館建築営繕について

日本建築史研究会1990年度及び1991年度雑誌に掲載済み

published in 1990 and 1991 Journal of the Society of Architectural Historians of Japan, revised in July 20, 2020.

東アジアの初期イギリス公館建築の 営績についてその1

一八四〇年代以降、東アジアに外国公館が設置されることになったが、そ の公館建築の中で、イギリスのものに関して体系的な資料がイギリス公文書 館に残されている。本報告では、そこに所蔵されている東アジアにおけるイ ギリス公館建築に関する資料を紹介し、さらに初期イギリス公館建築'(一八 五〇年代から七〇年代)の営繕状況、及び二〇世紀初頭までに日本と台湾に 建設され、現存する領事館建築の建設経緯を概観し、さらに今後の研究の展 望について述べよぅと思ぅ。


一.資料について

イギリス公文書館所蔵の文書記録は、日英の外交史や経済史研究にとって 必須の研究資料であるが、その中にイギリス政府が東アジアに建設した建築 一 に関する資料がまとまつて存在していることはこれまで知られていなかつた。 究具体的には、イギリスの領事館、公使館、大使館、裁判所、留置場、刑務所 研 などの建築の営繕に関する文書と、コンセッションの管理に関する文書及び図面記録で、外務省文書と工務局文書に収められている。さらに、駐留キヤ ンプ施設の建築については陸軍文書に、香港や威海などの植民地政府の建築 については植民地省文書にそれぞれ文書及び図面記録が残されているが、そ れらは本報告の範囲外なので触れない。

まず、外務省文書は国ごと年代順に整理され、文書内容の要約集が作成さ れている。日本国内では、東京大学史料編纂所や横浜開港資料館がマイクロ フイルムで購入している。しかし、その数語の要約からや、または手書きの 本文からも、的確に建築関係だけの資料を拾い出すことは非常に困難である。 ところが、幸いに日本については一八六二年から七一年(マ046 7 87)まで、 中国については一八六四年から八八年(で017 7130211309)まで、領事館及 び外交施設の建設について現地と本国外務省の間に交わされた文書が一群に まとめられている。建築関係の文書だけがまとめられたのは、この時期特に 領事館の施設に困窮が見られ、そしてその対策のために本国と現地領事館及 び公使館の間に頻繁に文書が交わされたからである。そして、中国では八〇 年代末、日本では七〇年代初めに、その問題が一応解決したと考えられる。 外務省文書には図面や地図が添付されていたが、最近公文書館側がそれらを 分けて地図.図面集としているので、その索引から東アジア関係のものを拾 い出すことになる。この中には、一八六六年に工務局が営繕を始める以前に 建設されたイギリス公館の設計図やスケッチ、さらに居留地の計画図などが 含まれている。地図.図面集のぅち東アジア関係のものはたくさんあり、詳 しくはI九八八年度トヨタ財団研究助成『東アジアにおける近代建築の基礎 研究』の報告書を参照されたい。

次に工務局文書では、在外公館建築の文書記録は矣0穴?::510に、また図面 は妄0111<5 40にそれぞれ分類されている。前者は本局と上海事務所の間に交 わされた文書で、一八六六年から一九五二年まで存在するが、外務省文書同様、現時点二九九〇年)では一九四〇年までの資料が公開されている(五 〇年間非公開規定)。資料の性格は、こちらの方が外務省文書に比べるとより 技術的な内容であり、建築史研究にとつての資料的価値は高い。

工務局文書の内容は大きく二つに分けられ、Iつは在外公館の建設に関するもので、これが圧倒的多数を占めている。もう一つ はコンセッションの管理に関するもので、中国の厦門、 鎮江、漢口、九江に開かれたイギリスコンセッション の地所と建物の不動産評価に関する文書及び図面記録 である。

本報告で特に東アジアという地域に限定したのは、 表—1に見られるょうに工務局上海事務所がその営繕 活動を中国と日本を中心に行っていたからである。

東アジアの外交権は香港政庁が樹立されるまで東イ ンド会社が握り、中国との接触は広東に設けられた商 館を通して行われていた。したがって、この商館建築 は直接的には東インド会社のものであり、その建築関 係の畜(料は東インド会社文書の中に残されているはず である。それについては未調査である。

二.一八六六年までの営繕

一八四一年の阿片戦争に対する中国側の賠償として、 イギリスは一八四二年に香港島を譲り受けると、そこ に正式に香港植民地政府を樹立した。さらに、自国の 商人たちが貿易活動ができるょうに広東、汕頭、厦門、 寧波、上海の五港を開港させ、そして彼らの便宜をは かるために領事館を設置していった。五〇年代末には、中国では牛庄、芝罘、 鎮江、台湾府、淡水、汕頭など、日本では長崎、神奈川と箱館がこれに加わっ た。

これらの東アジアの開港都市に就任した領事や公使が困ったのは、なにわともあれ借用できる適当な施設建築がなかったことであった。中国も日本も 鎖国をしていたから、貿易や外交のためにやってくる外国人に提供する施設 は皆無であった。しかたなく、寺院でも借りることになつたが、もともと生 活するための施設ではなく、開放的なその作りのために、亜熱帯及び温帯モ ンスーンの気候風土に直接対峙することになった。病気にかかって療養のた め帰国したり、死亡した館員が多かったのは、食事などの原因もあったろう が、雨季の湿度の高さ、夏のマラリア蚊の襲撃、冬の室内の寒さなどが大き な原因であ1が。また、ョーロッバ人に対する感情が非常に悪く、館員は頻 繁に襲撃を受けていた。そのような理由で、領事や公使は住居に関心を寄せ ざるをえなく、頻繁に本国外務省に施設の改善を求める文書を送り続けてい た。

イギリスの対中国外交及び領事館業務は初め香港政庁が監督していたから、 これら公館建築の営繕も香港政庁の資金によって行うことになっていた。香 港政庁は土木建築事業を担当する組織として技師局を持っており、そこが財 務局の事業認可によって公館の営繕を実施するはずであった。これまで香港 技師局が実施した事業で確認されているのは、一八五七年技師長代理ゥォル れーレによる上海領事館見習通訳官宿舎(図—1、2〕と五八年福州領事館の設 計、五九年技師長クレーヴァリイによる広東領事館(衙門)の設計とパーク スへの広東居留地(沙面)の計画図の提供である。

一八五〇年代末中国と日本に多くの開港都市が開かれると、一八六〇年外 交監督権は香港政庁から本国外務省に移管されてしまった。それとともに、 東アジアの公館建築の営繕費用は本国大蔵省から支出されることになった。

当時イギリス政府所有の建築は、大蔵省の事業認可によって工務局が設計と 究施工監理を行っていたから、本来ならば東アジアの公館建築の営繕も工務局 研が担うべきであった。しかし、大蔵省は東アジアの政治,経済状況が不安定なのを理由に、多額の建設資金を要する恒久的な施設建築の建設に二の足を 踏んでいたから、工務局はなんの営繕も行う必要がなかった。そのため、東 アジア駐在の領事や公使らは、自ら施設建築の営繕に奔走しなければならな かった。この間の事情は、一八六六年のクロスマン派遣の関係文書にまとめ られている。それによれば、領事や公使がとりえた方策は、次の三つに大別 できるであろう。

まず第一は、香港に近い場所なら、引続き香港技師局に営繕を依頼するこ とであった。そして、一八六二年クレーヴァリイが広東領事館(沙面)の設 計をゝ六四年ウイル””が寧波領事館の設計一図—牙一と六五年福州領事館 の損傷調査をそれぞれ行った。六四年の寧波領事館の建築は、五七年の上海 領事館のものと同じ設計であり、ウイルソンはウォルカーの設計を借りたこ とが分かる。

香港技師局が設計したこれら公館建築には、共通した特徴が見受けられる。

1番目は部屋の配置で、執務棟と住居棟とを分離せずに一棟にし、一階坂 務室や食堂や居間を、二階に寝室を置いた。二番目は外観で、三方向または 四方向にヴヱランダを配し、そして二階ヴェランダすべてにルヴアー窓をは めている。クレーヴァリイ設計の広東領事館(図—4)は一、二階ともセグ メンタルアーチのヴェランダを、一方、ウォルカー設計の上海、福州及び波の領事館は、一階アーヶード型ヴヱランダ、二階フラットアーチ型ヴェ ランダを用いている。おそらく、この違いは設計者の個性の範中に入るもの で、全体的にみれば香港技師局の統一した建築設計の原則があったと考えら れる。それは、一八八九年に台湾の淡水領事が工務局設計の官邸建築を難じ ているように、亜熱帯や温帯モンスーン気候帯の東アジアでは、木造床組に よる平屋建ての住居は地面からの湿度でいつもじめじめし、そして夜にはど うやってもマラリア蚊に8入されることになる。そのため、一階に寝室を設けることは館員の健康に非常に悪いので、彼は香港政庁が建設している住居 のように、淡水領事官邸も二階部分を増築し、また台風の場合風雨に直接壁がさらされないように、周囲にヴェランダを配するよう提案した。おそらく、 香港政庁技師局はI八五〇年代末にはそのことに気付き、このような対策を 取っていたのだと思われる。

日本は香港から地理的に遠く、香港技師局の援助はまったく望めなかった が、開港当初の横浜にはエ兵隊所属の技師たちが駐屯していたから、一八六 四年ィギリス駐日公使ォールコックは、陸軍工兵隊少佐レィに公館の建築の 現状と建設に関する助言を求めた。この文章は非常に重要なもので、日本の 一般の住宅建築や耐震及び耐火構法などについて述べ、そして公館建築もこ れらの構法に習った方がよいと提案している。さらに、オールコックの要請 で一八六五年四月七日付けで、日本側から出された横浜領事館の留置所及び 事務所の建設費が妥当なものであることを報告し、また横浜の新しい湿地居留地の土地改良策を提案している。し かし、エ兵隊技師は日本に長く駐屯し なかったので、公館建設に継続的な援 助は得られなかつた。

第二の方策は、その開港都市に適当 な西洋人土木技師や建築技師がいる場 合で、彼らに報酬を支払い、設計、見 積もり、施工監理などを依頼した。そ れまで香港にいたキングスミルは、一 八六四年にウイットフイールドと共同 で上海に建築師.測量師事務所を開き、 上海領事館の通訳官と補佐官の宿舎 (図—5、6)を設計し、一八六五年に はウイットフイールドは福州領事館の改築案を作成し、さらに彼らの共同事 務所で長江沿いの九江と漢口の領事館の増改築を手がけた。ウイットフイー ルドは、一八六六年キングスミルと分かれて横浜にやってきてゝドーた一/と 共同で土木技師.建築師事務所を開業し、そこで手掛けたいくつかの仕事が 確認されている(図—7)。すでに横浜にはブリジヱンスといぅアメリカ人建 築師がおり、パークスは一八六六年に借用していた横浜仮公使館の建築の損 傷調査を彼に依頼している。さらに、六七年にクロスマンが横浜を訪れたと き、横浜公使館がブリジヱンスの設計で基礎まで出来上がっていたから、六 六年初めにパークスはブリジヱンスに公使館設計を依頼していたことになる。 おそらくブリジェンスも含めて、キングスミルやウイットフイールドといつ た東アジアの外国人居留地を渡り歩く技術者たちは、もともとジャーデン. マセソン商会、デント商会やラッセル商会などの民間商社と結び付いて仕事

British Consulate in Canton, photographed by Thomson in 1870.広東領事館、1870年トムソン撮影

British Consulate in Fuchoo, photographed by THomson in 1871.福州領事館、1871年トムソン撮影

研究ノート 東アジアの初期イギリス公館建 築の営繕についてその2 泉田英雄 

一八六六から七〇年までクロスマンによる営繕計画 

頻繁に東アジアの領事及び公使から公館建築の居住性の悪さに対する苦情 をはじめ、修理、増改築、新築の要請や許可申請が出され、本国政府は一八 六五年暮れになってやっと重い腰をあげた。その大きな動機になったのは、 以上のような要請とともに、一八六〇年から六四年までの間に東アジアの貿 易総量が飛躍的に増大し、居留地のイギリス人の利益を守るために恒久的な 領事館施設建設の必要が出てきたことであっE。同年111月11二日に開かれ た大蔵委員会で、東アジアの公館建築の現状が報告され、大きな困窮がある ことが認められた。その結果、必要な営繕工事を遂行できる建築技術者一名 を派遣することが決められた。しかし、工務局には適当な人物が見つからず、 まして民間の建築家を公務員並の報酬で雇いれることは不可能であった。結 局、陸軍工兵隊の中から人選が行われることになり、クロスマン少俄が任命 された。彼に与えられた任務は、「既存の全建築を調査報告するとともに、建 

物を新築する場合には今後公館建築としてョーロッパ式建築と中国式建築の どちらが経済的によいのか検討し、また民間商人がすでに居留地に持ってい る建物と香港技師局が設計した建物を比較検討し、最良の方法で設計しなけ ればならない。さらに、外交施設として購入または借用できる適当な建築が その開港地にある場合には、どうするのが最もよいのか報告しなければなら (一一 ) ない」というものであった。工務局は、 それまで東アジアでの建築活動の経 験はまったくなく、クロスマンの公館建築の調査・営繕はイギリス工務局が 東アジアで初めて行うものであり、その後の東アジアの公館建築の設計の方 向付けを行う重要なものであった。 一八六六年二月十二日、陸軍はクロスマン少佐を選んだことを外務省に通 知し、彼は同年三月四日サザンプトンから東アジアに向けて出発し、そして、 一八七〇年六月二二日に最終報告書を提出して三年間の任期を終えた。彼が (四一 選考された経緯は不明であるが、経歴については死亡記録から知ることがで きる。彼は一八三〇年にミドルセックスのアイルワースに生まれ\初等及び 中等教育を受けた後、一八四七年十七歳の時に陸軍士官学校に入り、工兵隊 技師の道を歩み始めた。その後、海外でいくつかの軍事施設や植民地建築の 建設に携わり、一八六六年に工務局の委託で東アジアに三年間滞在し、そし て帰国後も同じように海外を活動部隊にしていた典型的な十九世紀後半のイ (五) ギリス工兵隊技師であった。 一八六六年八月に上海に着いて、そこでクロスマンは上海駐留の海軍に東 アジアの事情に通じた助手を一名紹介してくれるょう依頼し、同年五月三十 (Jハ〕〈七) 日大蔵省にボイス大尉を雇用する承認を大蔵省に求めた。表11は、クロス マンの営繕活動以前の状況と提案をまとめたものであ駆。 まず、広東、ワンポア、高雄、鎮江、九江、 漢ロ、芝果、営ロ、北京のそ れぞれの公館は、修理や増築して既存の建物を引続き使用していくことにし た。当時ョーロッパ系商社の建物は年間賃貸料がその不動産価値の五分のー と高く、また必ずしも公館建築としてふさわしいものではなかった。そこで、 一八六六年に倒産したデント商会の建物がいくつかの開港都市で売りに出さ れていたが\唯一天津事務所の建物を購入しただけで、残りはすべて新築す ることを勧めた。油頭領事官邸、厘門領事館事務所、パゴダ停泊地副領事館、 上海領事官邸と裁判所、淡水領事官邸、芝果領事官邸、大浩副領事官邸、長 崎領事館、大阪領事館、神戸領事館、横浜領事館、江戸公使館、そして函館領事館については設計図を作成し、またすでに設計図ができ工事が始まって いた福州領事館、寧波領事館、そして横浜仮公使館は、可能な限りの設計変 更を行った。 クロスマンは、七〇年任期終了までそれぞれの公館建築の整備計画を定め、 本国大蔵省にその営繕活動を実施監督する工務局分室を設置することを提案 した。そして、三年間調査に同行したボイスが技師長代理の職に就き、彼は その後約七年間工務局上海事務所で、 その後一八九九年の退官までロンドンの本局で東ァジア公館の営繕に関わることになった。地図・図面コレクショ 〈九一 ンの中に、彼の署名入りの油頭領事館(図11)、厘門領事館事務所(図 巨加)、芝果領事館(図巨L)の建築図面と、函館領事館の敷地計画図が残さ れている。 日本における公館建築について若干補足しておく。横浜公使館は前述した ようにブリジェンスの設計で基礎工事が始まっていたので、クロスマンは官 邸について応接室を少し小さくしただけに変更をとどめたが、そのほかまだ 

図-2 厘門領事館事務所1870年4月26日ボイス設計 

1870年4月26日 

工事が始まっていなかった建物については新しく 設計図を作成した。横浜領事館はその時は海軍の 施設を借用していたが、運上所近くの位置に領事 

館を建設することを推薦し、そのための設計図を作成した。これは一八六九 年に完成したが、クロスマンの設計図は発見されていない。江戸公使館につ いては、日本政府が一八六四年に木造で建設した臨時的施設であったため、 冬の居住にはまったく適さず、近い将来ョーロッパ式の建物に立て替える必 要を述べている。この公使館に関して、一八七三年にボイスは上海から詳細 な建築仕槌書を公使宛に送っているから、事前にボイスが設計図を作成して いたのであろう。マイバーグによる長崎領事館案は、あまりにも大き過ぎる ので縮小案を作成し、また函館領事館も領事ゴーワーが作成していた設計が 余りにも大き過ぎるため、長崎領事館と同程度の縮小案を作った。ところが、 これらの図面は外交文書の中には発見されていない。 

二 工務局上海事務所による営繕活動 

クロスマンが残した営繕計画をもとに、ボイスら次代の技師長は東アジア (一一一一) の公館の営繕を行っていった。その上海事務所の組織と主要建築を表12の ようにまとめた。しかし、これ以外の工務局上海事務所の活動は非常に多岐 に渡り、その全貌を明かにするには今後多くの時間を要する。ここでは、特 に現存している日本の長崎領事館と下関領事館、台湾の淡水領事館の建設経 緯だけを触れることにする。これらは、 工務局上海事務所の営繕活動によっ て良好な状態に維持されてきたため、現在イギリス政府の所有を離れてそれ ぞれ日本と台湾の貴重な文化財になっている。 まず長崎領事館についての工務局文書は、表12に示したように (一四) 名ORKS昌×359に収められている。一九〇二年十月十一日付けの文書で、上 (一五〕 海事務所建築技師長ウィリアム・コーワンが領事館の建物が先の台風と地震 によって大きな被害を受けたため、新築する時期にきていることを本局に連 〈一」ハー 絡した。ついで、一九〇五年五月一一五日付けで、彼は設計図と簡単な仕様書 を提出した。添付した図面は、配置図、一階平面図、二階平面図、立断面(図 (一七)(一八)二九〕(二0)(一)(二二) 14)、(図15)、(図16)、(図17)、(図ーco)、(図19)で、コーワン は概算見積額を五七〇〇ポンドとした。この設計は立面に大きな特徴があり、 コーワンは赤煉瓦に花陶岩の柱とドレッシングでアクセントを付けることに した。 ところがさっそく本局から工費を減らすために、装飾部分を取りやめるこ と、屋根のバラストレードを軒庇に代えること、二階のアーケード式ヴェラ ンダの子柱を取ること、床をコンクリートから木造に代えること、基礎のフ (二三) ッティングをなくすこと、二階の着替え室をなくすことなどが指示された。 (ニ四) 日付がない本局作成の図面が 一枚(図110)あるが、おそらくこの図面がこ 

のとき本局が添付した図面であろう。そ れに対して、コーワンはデザインについ て「日本で現在建設されている邸宅、公 共建築などはすばらしいデザインをして おり、わがイギリス領事館もそれに匹敵 するものにする必要がある」と返答した (一五) ものの、初期案からだいぶ装飾を除いて (二六) 新しく立面を書き直した(図111)。これ とて、その後大変なトラブルが重なり、 そのまま施工されなかった。 一九〇」ハ年九月十八日付けで、入札の (二七) 結果ゴトウ・トモサブロウと八月十」日 に契約を交わし、また工事の現場監督を (二八) 月二百円でカートマンに委託したことを 本局に通知した。ところがゴトウは、工 事が基礎に及んだ段階で別の用件で資金 繰りに困って、請負を放棄してしまった。 そこで、コーワンは一九〇七年六月当地 を訪問し、保証人であったマツシタ・ョ ネキチを仲介にして、ゴトウに資金を貸 し彼自身も請負業者であったモリタカ・ イチダユウに工事を引続き行わせること (二九) にした。次代建築技師長シンプソンはモ リタカとの契約を同年六月二四日に結び、 彼はモリタカが専門の建設請負業者では 

表一2 イギリス工務局上海事務所の組織と主要建築 

なく、・contractorゲブro片er“と呼ぶべき業者であると述べている。加えて、領 事館の敷地が予想に反してかなり軟弱で、かつ水位が高かったので、シンプ ソンは杭を打った上にコンクリート基礎を巡らすことにし、基礎工事をやり 直させることにした。ところが、モリタカの工事の不手際と失敗が重なり、 彼は工事完了間際で六千円を支払わなければ焼いてしまうとイギリス側を脅 〈三0) している。 シンプソンは一九〇八年十月に長崎を訪れ、警察と裁判所の仲介でモリタ カに三千円を支払うことで彼との契約を解除することにし、残った仕上げ工 事を含めて当初の工費五七〇〇ポンドに一五七〇ポンドの上乗せが必要であ (=二〕 ることを報告した。シンプソンは、日本で工事の契約をすればなんらかのト ラブルに巻き込まれることは必須であるが、今回の長崎領事館の建設契約は 特にひどいものであったとして、報告書を結んでいる。最終的にイギリス大 (一一一一一〕 蔵省が一九〇九年八月八日付けで、超過分の支払を認めているので、混乱の 続いた長崎領事館の建設はおそらく一九〇九年七月に完了したと考えられる。 下関領事館は、国ORKSらに建築図面があるものの、国ORKS呂の中にそ の建設に関する文書が分類されておらず、その一部が長崎領事館関係文書の 中にいつしょに述べられている。そのことを考えると、設計案の決定も長崎 領事館と同じ経緯をとったのであろう。最も早い記録は、一九〇三年付工務 局上海事務所のコーワンの署名が入った配置平面図(図陰125)で、現存の敷 地にL字形に配置している。しかし、なんらかの理由によって工事開始の許 (三四) 可は出されなかった。その二年後、一九〇五年五月二五日付けの文書でコー ワンは、長崎領事館の図面といつしょに下関領事館の設計図を送ったことに なっているが、一九〇五年付けの図面は発見されていない。その図面に対し 本局からどうして一方向だけに小さなヴェランダを付けたのか説明が求めら れ、またページメントが庇の上に飛び出しているので、取りやめるべきだと 

(三四)(一=五)〈ーニーハ〕 指示を受けた。日付無しの二枚の図面(図113)、(図114)が残されている が、本局がその二枚を作成し、上海事務所のコーワンに送ったのであろう。 しかし、長崎領事館の場合も本局建築家の指示に対して、強行に自分のデザ (三七) インを曲げなかったから、本局から送られてきた設計案をコーワンは受け入 れず、自分が作成した一九〇五年の図面をもとに、一九〇六年八月三」日に (三八)(一ニ九) 二枚(図115)、(図116)の図面を実施案として作成したのだと思われる。 長崎と下関の領事館を設計したコーワンは、他の省庁から上海事務所技師 長として採用されたボイスやマーシャルらと違って、はじめて工務局ロンド ン本局生え抜きの技師長であった。おそらく、そのため公館建築のデザイン に対して本局と対等にわたり合えたのだと思われる。 」局雄の領事館は、クロスマンの報告書では、市街地から湾をはさんだ北側 の高台が用地に推薦されていた。一八七五年暮れになってやっと予算がつい たが、地価は三倍近く上がっており、ボイスの後任マーシャルは何度か土地 所有者と話し合って、やっと一八七七年に土地測量を行い、購入契約を結ぶ 〈四0)(四!〕 ことができた(図117)。領事官邸の敷地はボイスの指示通り対岸の高台をえ らび、事務所はその岸に沿った細長い土地とした。工事監督員には、淡水で 領事官邸の建設を終えたばかりのパワーを、高雄に派遣することにした。す べての窓とドアは上海で製作し、そしてアモイの建設業者と工事契約を結ぶ ことにした。 工事を請負ったアポンについては、原門出身以外分からない。工事監督は パワーからドナルドンに代わり、彼はアポンが契約途中で工事を放棄したり、 さらに現地の職人たちがョーロッパ建築の建設に全く経験がなかったので、 (四二〕 大変な苦労をしながらやつと一八七九年六月頃に完成させることができた。 建築図面がこの文書の中に添付されたことになっているが、発見されていない。

淡水領事館については、一八六七年にクロスマンが訪問した際、領事官邸 を新築し、事務所及び留置場はオランダ城塞跡を改築して使用することを提 案した。基礎工事が始まった段階で中止されていたが、一八七五年九月十一 (四三) 日付けで工事が始まり、一八七七年三月に初代領事館が完成した。図面は発 見されていないが、文書記録からその建築は居間、食堂、寝室の三室からな り、その廻りをヴェランダが取り囲んでいたことが分かる。そのヴェランダ は、粘土と石灰を固めた上にタイルを張ったもので、木造床組の三室の床下 通気を妨げていた。また床高が一五センチ程度しかなかったため、室内はい つもじめじめし、そのため木造床組は急速に腐っていった。一八八九年に交 (四四) 代した旧領事は、十一月十一日付け外務省宛の手紙の中でこの建物がどれだ け不衛生で腐れかけているかを訴えた。そして建物の全体的な修繕とともに、 香港政庁が湿気とマラリア蚊から居住者の健康を守るため召使室を含めて住 居を二階建てにしていることにならって、淡水領事館にも二階部分を増築す るよう求めた。それに対し、ロンドンの本局に戻り技師長職に就いていたボ イスは、一八九〇から九一年度予算の中から千五百ポンドを支出して領事官 〈四五) 邸を修繕・増築することにした。 ボイスから工事の指示を受けたマーシャルは、一八九〇年四月十日付け本 局宛の文書の中で、 工事範囲を一階三室の木造床をタイルに張り替えること、 ヴェランダの幅を二・四メートルに縮めること、そして煉瓦壁を二階の鉄骨 コンクリート床を支えるために補強し積むこと、そして屋根を木造小屋組の 上に瓦を二重葺にすることにした。タイルや金物などはイギリス本国から送 (四六) られ、同年十二月既存の屋根とヴェランダの解体が始まった。ところが、マ ーシャルは建物正面の基礎がコンクリートの二階床を支えるにはあまりに弱 体化してしまったため、そこを基礎工事からやり直すことにした。そのため に、予想外の支出が重なり、当初予定していた北側を除く三方向のヴェランダの内、東西両側のヴェラン ダを取りやめることにした。 これに対して、領事代理ホー ランドは強力に反対したが聞 き入れられなかった。一八九 一年五月五日付けですべての (四七) 基礎工事が終わり、さらに五 月二九日付けで煉瓦工事の契 約が現地建設業者と結ばれ、 工事が年内に完了するであ (四八) ろうと、それぞれマーシャル は報告している。

この修繕・増改築の設計図面はマーシャルが作成し、本局に送ったことになっているが、発見されてい ない。一八九八年にボイスがタイを含むすべての東アジアの領事館・外交施 設建築を営繕調査するため再度アジアに来た際、淡水領事館では領事官邸に 東側と西側にヴェランダを増築することにし、既存の建物の一枚のスケッチ (四九) (図118)を残した。それによれば、南側だけにアーケードヴェランダがつ いた総二階の建物であったことが分かる。 東西両方向のヴェランダ増築工事は一九〇四年建築技師長コーワンの時代 に行われたが、工事が軽微であったことから現地の建築家ウィルアム・ゴー (五0) ルドに工事監督を任し、また請負契約は、一九〇三年十二月二九日に台北の (五【〕 ラム・キン(Lam K一っ巴という業者と結ばれた。煉瓦は厘門から送られるこ とになっていたが、台湾海峡が荒れる日が続き、工事は遅れ、やっと一九〇 〈五二) 五年春になって竣工した。 

五 今後の研究の展望

最後に今後の研究展望を述べたい。第一は、イギリス工務局の組織の中で 上海事務所とその技師がどのように位置付けられていたのか。ボイスは、帰 国後本局の技師長として長く重要な地位に就いたから、必ずしも上海事務所 の技師が低く見られていたわけではなかったようだ。 第二番目は、上海工務局による公館建築のデザインがどのように変遷して いったのか。一八六六年にはじめて工務局が東アジアの公館建築の営繕に乗 り出したとき、経済性と気候風土への適応が最大の関心事であったが、しか し二十世紀初頭長崎と下関領事館を設計したコーワンのように、意識的にイ ギリスの建築デザインを重視しようという姿勢がでてきた。 第三は、第二に関連して、熱帯アジアに適応する住居形態として考え出さ れたといわれるバンガロー建築が、さらに東方の亜熱帯及び温帯モンスーン 気候帯の東ァジアで変容していったのか。また、バンガロー建築の主要モチ ーフであるヴェランダが同時代のイギリスで一般的であった古典様式のポー チコとどんな関係があったか。 第四は、ョーロッパの請負システム、建築構法、建築材料などを東アジア の現地社会がどのように受け入れていき、また反対に現地社会の建築を工務 局がどのように取り入れられていったのか。クロスマンが一八六六年に最初 に東アジアに派遣されるときには、経済性及び居住性において現地様式で公 館を建設する可能性があった。そして日本では、なまこ壁や石張木骨構法が 採用され、また清水喜助や宝田屋などが請負を行ったことが分かった。十九 世紀の建設業の状況についての情報はどこの国でも乏しく、今後さらにイギ リスの外務省文書や工務局文書は貴重な資料源となろう。 本報告は、一九八八年度トョタ財団研究助成『アジアにおける近代建築の 

基礎研究(代表藤森照信)』と、一九八九年度文部省科学研究費補助金奨励(A) 

『東アジアにおける近代建築導入に関する研究』の成果の一部である。 

注 (一)・Reporg一rom M巴0「Crossman and Correspondence respecニコ9 the Legation anユConsU了r Builaコ95ーコChina and Japan"“・・British Parlョ ョentary Papers;China EStablishョen叱、、19ア5、lrish UniVersity PresS・ (二)く巴or William CrossBan・ (三)一bid・(」) (四)・Zation巴B一ographical Dictorary、・ (五)彼以外に義和団を鎮圧した「中国のゴードン」ゃ横浜の水道建設のHS パーマーなどがいる。 (六)えObert Henry Boyce (七)喝01『/lwoN Letter from Mと0「crossman 8 Secretary三Hreasury Chamb曾一30th Mas 1806・RobeユーIenry BoyCp R()yal Zaく了本文書で はRoy巴Zaくy (海軍)になっているが、工務局に雇用されてからは、n E・(CIVil 国ngeer)1と職を名乗っている。彼が上海に来る以前の経歴は不 明だが、彼の息子は高名な熱帯衛生技師になる。 (八)泉田英雄「イギリス領事館と外交施設建築とクロスマン・、アジアにおけ るイギリス系技術者の系譜その二」、日本建築学会東北支部学術研究発 表会論文一九九〇年。 (九)芝()RKS一0×3W?SWatow、Residenceョr工切・M C()nsul・ (一巳乏ORKS一0/IN6・>ョ0ざDesign皆r COnsular Offices・ (二)国0図図5一0/1呂・Chef0O、図esidenCeョ「工ロ己Consul・ 

一87一 

(」11)WORKS1O/35/1. Specification for Yedo Legation Building by R.H. Boyce, November 1873. (lii]) 'Imperial Calender (1866-1943)、嶋い母餐D叉0 (1目)WORKS1O/359. Nagasaki Reporting Dilapidation of Consulate Build ing. Secretary, I have the honor to report that the old wooden building now used as Consulate office; and a residence for the assistant, together with all the wooden building, occupied by servants and boatmen have served their time, and are now shaky and dilapidated to a degree that the time has come to consider the rebuilding of same with more substantial materials. The violent typhoons and seismic disturbances that are so frequent in Japan make the buildings not altogether safe, and collapse might be anticipated would within be a little more violent than usual. (丑審)The Cost of these buildings are mentioned in my estimates for 1903/4 at yen 48,000. (signed) William Cowan. 11th October, 1902. (」めWilliam Cowan. 1くヤぺ廿蚕遣,ロ入ユ入QH櫓眠息鵬11騒撚猛暇刃D い掃脅い興い、H嫌辞撚養製櫓いい鼻脅いeH誤眠期べ翠舶Q撚駐や櫓 い裂0 (1 1( ) WORKS1O/359. Nagasaki and Shimonoseki, New Consulates, Sub mitting Plans, 25th May, 1905.,J e以冊皿柳誉「暇雪喫るF置駆辞舞e図 旧e環ョ」や舟い郵灸心,F題塁辞揺息95い雄1 himゆ擾具心宴い5鄭 (1り) WORKS4O/259. Block Plan. (1く)WORKS4O/260. Ground Floor. 

(1く)WORKS4O/261. First Floor Plan. (110) WORKS4O/262. Elevation and Section. (ll1)WORKS4O/263. Plan of Official Servants Qrs. (hill) WORKS4O/264. Elevation and Section of Official Servants Qrs. (l」i」) WORKS1O/359. Nagasaki and Shimonoseki Consulates. mセ用三Do (Ii且)WORKS4O/267. Nagasaki Consulate, Office of Works, London.田セ単三 Do (11村)WORKS4O/359. Nagasaki and Shimonoseki, Proposed New Consul-ates, 18th Auguest, 1905 3. The accommodation, as provided, is demanded by the Minister, and I do not see that it can be reduced, as in my opinion it is all required. Something better than the ancient accommodation of forty 」 years ago is now necessary, and the substantial modern buildings now 器 erected for residences, public buildings, etc, in Japan, are superior in 1 design, and demand that a new British Consulate should be the same. "Je以柳レrm一い入蝉,ロk息興な田舟碑マ舶《揺澱澱e駆や耀マい鴇 い,製澱密息柵臨鄭綱菓や脅帰0 (1H()WORKS10/265. Nagasaki Consulate, H.B.M. Office of Works, Shanghai, April 1906.脚叫崩三Do (岬)Goto Tomosaburo.皿k車息損加忌叙諮孟刑眠峨雪掃紅報且眠くK査掻)息雄, 」晋皿耕加麟巡畿肥長鴇刃郵pい興い‘姻5畑5灸鳶心宴ゆ0欧機輿如Q 」晋皿耕柳鄭Q灸柳D具卿50 (iiく)WORKS1O/358. Nagasaki, Forwarding Amended Estimate, Shangh ai, 18th September 1906. Principal Architect, Herewith I forward the amended estimate for 

研究ノート 

一舞罵薫一護舞」舞遮妻雄舞「一蕪舞選舞護舞舞舞鍵維舞護舞舞舞驚議薫叫舞舞翼維護舞一舞舞喜舞事慧馨舞舞鷲舞舞異護 

Zagasaとコew COnsulate buileコ95 baseユOn the aCCmpsd tender The COntraCtor GotO、一のthe best tradesmanーコZagasaki 0「一he SOuth Of 旨paP b三三5 funds are=ョited一and he一5 being paコーy finanCeユby互5 guaranto「・ Hhe small eXCesS OVer theく昇eデ 8 be aCCOunted for by the great sCarCity Of labour、the eXpのnsゆ。f importing 1ゴen from Other townS" and the pOSsibiblity of trouble w一th the 10ca」ョen anユthe 9三」dタalso the Complete三==9 for foundationS・ 1 haVe appointed Mr F・>・Cartman・Cler片Of Works from the 10th September at a sala「y of YのコNOO a month・he speaks Japanese and has good eXperience of b三一aコ9ーコCOrea and Japan Hhe builaコ9 w=1 take履ョonths for COmpletion・>requistionョ「 子e builaコ9 material required from LOndon Wili be sent neXt mail・ (巴gneユ)国illiam Cowan (元)国ORKS呂×35?Zagasaki Zew Builaコ叩COntract NO・器×8・望ョp soF 22nd Augusr 190ァ・COくEZンZH 12 HエE COZ、一)R>CH fo「the construct一on of the 0な一ces Consu一一5 residence official quaters and servants・quaters etc・of the British Consulas曽Zagasa三conclud。d on Augu異子e eleVen子三neteen hundred anユ巴メbewteen H一5 Britanninくaj。界Ks 0ま一cn三を()rks讐 Shangh敏On the one hand and GOTO TOMOSABUえ()・1一一111(Inr一。f 31 Qura Zagasa片1 On the Other: HエE SAID GOTO TOMOSABURO beinx一)y roas011(二11111(一子 ニコかb一e to guarantee the performance Of the said col一gact一一1一(一一一一Ivlee一二 therefore relinquished the said COntract On the twentyf()一lr(h day()f 

舞舞舞舞 

June昌05 hくORIH>×>IcエIDAYg国hoプaVeきgrブeen in realig丁ut not ーコname」oint COntraCtor W一th the Said Goto TomosaburO do hereby takのoVのr from三ョ子e abOVe mentioned斗ーコー9 enti昂ty w一th巴1 its provisions asなstands and W一th包ーコgh7 privi可9①5 responsibilities and liabi=ties pa昇m#ユfuture attaChed to the Said contraCt and 1 do hereby covenant and agree to Carry Outと1 and eVery Of the terms Of the sa一d ContraCt・ 国ITZESS my hand and Seal th一5 tweng four子day又June 190ア・ 工務局上海事務所の技師長職は、一九〇六年十月頃シンプソンに代わ り、彼は着任早々この問題を解決するため長崎にやってきた。 (舌)woえ器10/w切ゆ・Nagasa片1 2胃consulate一Hrouブle w序contractor・一 Hg contracto(斗zagas算一95 suspenユ&を月k昌d 95 89 threatened to burn down the new building unleSS he 15 paid 5ーメー thousal〕d Yen over 三5 C()11tract・(後略) (乙gned)生ョpson・ゴh J三了1908・ (三)国ORKS呂×35?Za叫asaki Zew Consulatn!Hroub不を一子Contractor・ 望ョpson・1い『d October》一908- (昌)芝()RKSご\35?Letter of Treasury Chambe「タ8子JEy一19()9 (呈)芝()1ースT40×334・Shimonoseki ZeW Consula「OfficeS一OffiCe三国Qrk! 2「1~1ーース11一11・1903・(巴ぬコee国・COwan・ (三四)一1)1(1(二=一) Shilll0I】(Jseki:T三5 builaコ9 has 0己y a mmall Verandah and eaves・ くy remarks On constructごコabove aで三y 8 thim alSO What一5 the mspect?ThのpediTnent to Window on the eleVat一。コshOWn Should be 

0ョitted as一t stands aboVe the eaVnS The gutters畔sidの5 are not shOWn (三吾国ORKS4O×33ア・Plan of ShimonOSeki、Zew COnsulate Of一iCes anユ 5三p旦っ9 ClerkげQuarters!OffiCe Of WorkタLOndoP日付なし。 (=一()国ORKS台×338・ElnVat一0ロanユSeCtion of Shimonoseki、ZeW Consuブ mte OfficeS and Shippーコ9 ClerkプDuarterS"OffiCe of WO「kF一Ondon・ 日付なし。 (毛)ibid・(二五) 円三5 builュョ9 15 to be erected On a very Small site、(コ0 m月e加round COuld be Obtaineユ)りand leaVes no SpaCe了r proteCtin加VerandaF and some of the house windows Will haVe 8 beコtted W一th sun blinds一ーbut it 15 a一airly 900ユhouse for a building faCeS SOuth 1 do not undのrstand the last paragraph of your memo・ (巴gned)国illiam Cowan・ (=\)国ORKS台×335 Plan又Zew COnsulag、Shimonoseki、>ugust 31st、 1906 (乙gnee国・COwan・ (三九)国ORKS一0×い36 EleVat一0コanユSection of New Consulate》Shirnonose と!>=gu昇WISt、1906・(巴gnee国・Cowan・ (四巳国ORKS呂×器×1■ゴh Se旦embe「、18アア・0一fiCe三国orks、Shanghai・ 1 have the honor 8 report 8 you the COmpletion On the 11th instant さf the purchase Of the COnsula「site at Ta片au・ Siteョr ResidenCeY Hhe former一5 situated On the三gh land一かbout 100一eet aboVe the leVel of the seF On the northwest side Of the entrance to the horbou「of Ha片au・ Site of Of一iCeY国一子respeCt to子e Sitの三of一iCe・90包、this coョ・ 

臨陰匿書畦臨一厚鵬Eに昌E彫臣胃置EE臨監EE臨F主E旦ー一11を彫巨茎ー零ト9各19手El 

prises a strip 0一land W26一eet by 100 feet一situatnユかt the fOOt of the hill adjoining子e first named site・ COSt Of SiteS;Land on top()f hill for residenCe 18ア6$48ァP 18アア $3819P Landョr 0ま一ce$NしOP B三E一ニ9哲1 nOW wデh to draw your attentioコto the proposalS ョmユのーゴCarrミコ9 out the erection Of the Consuごr residenCe autho riZed by 1618 of一年h Feb 18アア T三5 authority WaのreceiVed by me On the Nコユンpユーlast・then 1 immediately prepare the旦ans Of the proposed b三三甘9タand direCted M『POWer、Clerk 0一国orks to proCeed from Tamsu一to Takau to Carry On the Work、MブPOWer WaF hOWeVer deterrnineユ国三nh the route『かt>ョ0了for want Of a Steamer Hhe Whole Of the dOOrs and WindOWS have been madeーコShanghミ、 and haVe been ready for 5三pment for Weeks past 1 proposp巴SP to construct the roof and Verandah here、1 shall not fail 8ニse my utmost indeaVOur 8 obtain a contraユ曾>ョOyぎerecting this residence and toユ0 everythingーコョy power to hasten the progre呂Of the Work・ (巴gnnd)国一Karshall (四一)0・国・544 TakoW?Plan a COnsu一ar Site、24th Januars 18ァァんFJ Karshall (四己国ORKSlo×33×IP Letter from Ow・、5=angh巴to the Treasy、1ゆth Feburaryり18ア? On the eVe Of the comp旨tion of the new ConSU可「b三可ョ95 at HかkaF 1 feel impelleユto report On and to request your faVoura豆e reCOgnition of the serVICe direcCted by Mr Douna Who has been superintent Of WOrks here almost sinCe their COntraCt甘the Spココ9 of 

一90一 

遣舞緯蕪灘羅舞嚢舞蕪舞毒舞舞鍵舞鷲漢舞響加舞奪舞h纂藍雄曹舞舞寺舞護昨董無遥雄 舞受一舞舞尋遥一喜舞冠 

研究ノート 

18ア8 The diffiCulty M『ロCnalds()n has haユhe contered WitF 9 COnsequenCe of the failure of the COntractor・>poung、かコd the nom 旦ュe ineXperience Of the IOCal workmeFかre w色1片n0Wn to yOF (巴gned)F・一くarshall (空」)OW210×ア3・140×ァf llth NOV・18アー・ (四四)国ORKS10×99 Letter from F・A、BOrnC to F・0・11th NOV・188? (四E国ORKSS×99 Letter from RH BOyCの9 Hreasury 1いth Jan・18ゆ0・ (異)OW1445×8!10th>pュー1890 (四」)OW1580×お一5子くかy晶90 (四〈)OW1584×胃『2胃h May 1891・ (四九)L5ア×1900一碑h May 1900・ (五0)W・Gaulgゴールドは伝道師で、マッカイのもとで一八八四年に牛津女 学堂を設計したと言われている(郭中端「淡水」、加藤祐三編『ァジアの 都市と建築』鹿島出版会、一九八七年)。 (吾)を()RKそミりり-Knm()・by W・Cowan、25th言n・1904・ (誓)芝0えKのさ×中中・く(Jコー()・9芝・Cowan!1 gth」an・1中05 ()一ずみだひでお筑波大学芸術学系) 

一91一