Russian Orthodox Church in Japan 日本のロシア正教会聖堂建築
created in December 3, 2007, revised in February 27, 2022
created in December 3, 2007, revised in February 27, 2022
要約ABSTRACT
・安政元年(1855)、 ロシアとの和親条約に基づいて、箱館にロシア 領事館が開設された。領事館には礼拝堂が併設され、そこに領事館付け司祭がとしてカサートキン(後のニコライ主教)が就任した。この箱館領事館付属礼拝所をかわきりに、ニコライの精力的な布教活動によって日本各地にロシア正教会が広まった。キリスト教が公認されると、布教拠点の東京に組積造礼拝施設が、続いて信者の多かった東北地方に木造聖堂が建設された。明治初期の木造聖堂は擬洋風の意匠を持った漆喰塗りの建築であったが、明治24年(1891)に東京大聖堂(ニコライ堂)が竣工すると、各地にそれまでとは明らかに異なった木造聖堂が建てられるようになった。これらの建設には専属の日本人大工と設計者が関わり、また参考設計図案集があったことがわかる。本論では、明治初期から昭和時代にかけて建設されたロシア正教会聖堂が、どのような形式を持ち、どのように建設されたのかを明らかにするものである。
Russian Orthodox Church started missionary service in Japan during the 1870’s under the strong leadership of St. Nikolai. Accepting this new faith, Japanese believers soon built chapels or small churches at their centre by themselves. These early churches were eclectic in style and not orthodox in layout. After Tokyo Cathedral was completed in 1882 with design of foreign architects, the Japanese believers were so impressed that they could not help having substantial orthodox church building. St. Nikolai supported them by providing the financial and technical supports. Another initiative was taken by St. Nikolai himself to set up church in Kyoto, Japanese spiritual and religious centre. It was completed in 1903 with the standard model plan. After the Japan-Russian War, more new churches were proposed by St. Nikolai with patronage of the Russian wealthy. In order to design and build the churches properly, St Nikolai appointed Mr. Izo Kawamura, Assistant Deacon as a church architect who completed five churches refining and adjusting the standard model plan to meet Japanese local conditions before the Second World War. This paper argues the creation process of Kawamura’s design principle by analysing plan of his churches. Mr. Kawamura’s design principle supposedly was handed over to his grandson, Mr. Shouzou Uchii through his son, Mr. Susumu Kawamura.
キーワード:ロシア正教会、聖堂、ニコライ、河村伊蔵、宗務院、標準設計、松室重光
Keywords: Church Building, Russian Orthodox Church, Kawamura Izo, Matsumuro Shigemitsu, SINODO Model Plan.
“I saw that he was drawing a plan for the church all day long with his Bunmawashi (a pair of compasses or dividers), and I sometimes played with them.” said Mr. Anthony Ohkawa Noboru in 1912 1).「河村さんが一日中ぶん回しを持って図面を引いていたよ」(大川信者の1912年1月の記憶)
CH.1. 序章Prologue
1-1. Russian Orthodox Church during the 19th century.19世紀のロシア正教会
(1) ロシア帝国の創造Creation of Empire Expanding toward East and South
・帝政ロシアの南下及び東方拡大政策により、大シベリア地方が制圧され、「文明化」の名の下にロシア文化が移入される。
・政教一致の国家であるため、領土、入植地、隣接地に教会を建設する。
・大都市では宗務院の意向を反映した様式で、組積造により大教会堂が建設された。しかし、地方都市や外国では土着的な材料(木材)と意匠を使った教会建築が誕生した。
As soon as the feudal Japan open up its country, foreigners settled down at the open ports where various Christian orders started religious service for their believers, although foreign religions have been prohibited for Japanese until 1873. The Catholic had the advantage in founding missionary bases at Nagasaki area, as there were some hidden Japanese Catholic families traced back to the seventeenth century. The Catholic missionaries successfully established a church at the Ohura foreign settlement in 1864, and were waiting for the day of the abolishment of the prohibition of foreign faith among Japanese. Actually British and Russia established religious bases earlier than the Catholic missionary did; Hakodate Russian church in 1860 and Yokohama Anglican church in 1863, respectively within consulate premise to serve for own nationals.
(2) 古典的デザイン vs. 土着的デザインClassic Style vs. Regional Variations
・基本構成 (西側)Entrance + Bell Tower(玄関/鐘楼) - 啓蒙所 - 聖所 - Ikonostas聖障 - Sanctuary至聖所(東側)
・聖所の上は天蓋であり、ドーム天井に聖画が描かれたり、光を取り入れるキューポラが付く。
・地方では地元の職工と材料を用いたため、圧倒的に木造であり、円形や球形を造るのが難しく、どうしても多角形になってしまう。
A Model of Orthodox Church.正教会聖堂の基本構成
Russian Orthodox Churches in Russia (1)
Russian Orthodox Churches in Russia (2)
Timber Russian Orthodox Church (1)
Timber Russian Orthodox Church (2)
Timber Russian Orthodox Church (3)
1-2. Dimitrovich Kasatkinニコライ司教
Shogunate supporters, however lost their anti-Restoration campaign finally in Hakodate, and they were looking for another faith and base for life, without relying on traditional authorities. It was really good chance for Russian Orthodox missionary to attract them to their religion. The first priest appointed for the Hakodate consulate church was Mr. Maahof, and under his supervision, the first consulate church was completed 2). But, unfortunately he passed away soon after he started religious service there. The next priest was unexpectedly tough and energetic figure, Mr. Ioan Dimitrovich Kasatkin, later sainted as Saint Nikolai (1837-1912) and performed full of his mission (Fig. 1). In 1872, after St. Nikolai succeeded to have several Japanese believers in Hakodate, he left there for Tokyo, a capital of Japan.
Fig.1 ニコライ大主教, Kasatkin
CH. 2. 日本の正教会聖堂の概観Outline of Orthodox Churches in Japan
2-1. 記録Records
(1) ニコライの全日記Saint Nikolai's Diaries
1859年、箱館初代領事ゴシケーヴィチが3間x5間の祭祀堂を建設したが、同年大工町に移転。1860年、南北に拡張され縦横同じ長さの十字形になり、内部漆喰、300人収容。1861年ニコライが箱館に渡来し、1863年、改修工事を実施。1890年頃鐘楼が増築。
1872年ニコライが古田泰輔を伴い東京に進出し、築地に仮寓するも、銀座大火に焼き出される。神田に土地を得て、レスカスの設計施工で伝導館(主教館、司祭館、十字架聖堂)の建設を始め、1875年完成。
1870年代後半、北上川流域の信者に聖堂建設を勧め、石巻聖堂は1880年に成聖した。そのすぐ後に同じ形態のものが佐沼と涌谷に建設された。
1879年ニコライは主教に昇叙されることになり、ロシアに帰国するとともに東京大聖堂の建設を画策(資金と設計、その承認)。
ニコライ及び彼の支援者:ビザンチン式
建築家レウートフ: ビザンチン式
建築家レザーノフ: ビザンチン式------(図面を受理)---→日本へ?
建築家シチェルーポフ: ビザンチン式---→十字型式--→日本へ
府主教:バシリカ式→シチェルーポフを推薦→三つの宝座
表2 東京大聖堂シチェルーポフ案に決まるまで
コンドルの実施設計、長郷の請負で1885年に工事が始まり、1891年成聖。これには信者大工の岡本鶴蔵が関与し、その後仙台聖堂をはじめとして教会営繕のためにニコライの手足となって働く。仙台聖堂建設に際し、ニコライは岡本に図譜を持たせたが、資金難のためにそれを縮小して実現。日本には類似例がない形態をしている。曲田聖堂建設には大工の貫洞を派遣し、小型の十字平面木造聖堂を建設。長郷と岡本は組んで多くを請負い。
Ⅳ.拡大期:京都聖堂から白河聖堂まで
1898年、ニコライは京都に小聖堂を建設しようと、セルギイとともにその平面を考え、岡本に作図させた。土地を取得し何度か京都を訪問するうちに、小規模なものでなく、鐘楼の付いた本格的な教会堂にすることにした。「建築図の冊子」が存在していたことと、河村伊蔵が祭服聖器物保管から建築営繕にも係わりを持ち始めたことがわかる。
1897/8/28「ワシリイをつれて京都と大阪へ赴き、そこの教会で予定されている小聖堂の建設について検討」
1897/5/1「私と掌院セルギイ師は設計図作りを、京都に仮の教会堂」
1898/5/2「佐沼で教会堂の建築が済み、(中略)ワシリイ岡本に京都聖堂の設計図を詳細に書くことを指示」
1899/1/12:ガードナー師から聖公会京都教会の大聖堂について話しを聴く
1900/7/24:「建築図冊子から300人収容の鐘楼のない案」
同日:「建築図冊子から300人収容の鐘楼付きの図」に変更
1900/7/25:「案を変更し、450人〜500人収容できる教会堂」に変更
1900/7/26:信者の高田の紹介で京都府建築家松室に実施設計に依頼、請負を大西に任す
表3 京都聖堂の設計案が決まるまで
大阪聖堂は、京都聖堂に引き続き建設に着手されるはずだったが、日露関係の悪化、建設資金の困窮等の理由により順延。日露戦争後、亡くなったロシア兵捕虜を記念して、松山と大阪に聖堂建設のためにロシア人篤志家から多大な寄付が寄せられた。ニコライは聖宗務院承認教会平面ファサード図鑑からから第19号を使うことを決め、実施設計はフォマ尾林によると思われる。
1897/8/28「ワシリイをつれて京都と大阪へ赴き、そこの教会で予定されている小聖堂の建設について検討」
1907/12/25「皇后陛下からロシア人捕虜たちを記念する教会堂にと5000ルーブルを下賜」
1908/8/30「大阪は松山よりも大きくなろうし、銅で覆わねばならい」
1908/9/12「モイセイ河村が大阪に向かった。わたしから教会建設の許可を求める要請書を府庁に提出するためである。聖宗務院の建築承認済み教会設計及びファサード図鑑19号」
1908/10/25「河村はきょう大阪から受け取った教会建立を認めるとの政府の許可証を持ってきた」
1909/4/7「河村が大阪の教会の建設を請け負う大工のフォマ大林を連れてきた。(中略)使えそうな材木はすべて新しい建物のためにとっておく」
表4 大阪聖堂の設計と建設
松山には日本最大のロシア兵捕虜収容所があったため、信者がいないにもかかわらずここに記念聖堂の建設が決まった。建設に際してニコライから尾林が呼ばれているので、設計や見積りはやったと思われるが、施工は別業者。河村が最初から最後まで設計施工監理を行った。
1906/1/27「亡くなった捕虜たちがちょうど99人墓地に眠っている。このため、松山には祈祷所、やがて教会堂を建てることが今頃必要となっている。(中略)河村を派遣した。」
1906/3/2「報告書の最後に、松山に小さな教会堂を建てるための寄付の願いを添えた。」
1907/10/24「松山でついに教会建設が始められた。きょう松山へ材木代、工賃、礎石の代金」
1908/4/21「河村を教会建設の終了を監督させるためにふたたび松山に遣わした。」
表5 松山聖堂の設計と建設
1907年8月の函館大火で聖堂他も焼失し、再建が急がれた。松山、大阪に引き続き、ロシア人篤志家から寄付が寄せられ、尾林の施工と河村の設計・工事監理で竣工した。
1908/8/23「函館の会堂建設に約600ルーブルが献金された。」
1910/8/17「(ギョームキン師に)函館聖堂の建設について考え始めることが是非とも必要であると書いた。」
1911/10/7「河村を函館に遣わした。われわれの教会の敷地を巡る石垣の修理費、教会の建築費がどのくらいかかりそうか、、」
表6 函館聖堂の設計と建設
Ⅴ.聖宗務院承認教会設計図案集
旧帝政ロシアは19世紀に入ると国内の統治基盤を固め、強力な帝国建設に乗り出し、そこでは民族的なものや土着的なものを退け、さまざまな曲面で標準的化を推し進めた。聖堂建築はもともと地域ごとに多様な建築形態が存在していたが、1820年代から30年代にかけて宗務院から標準設計の指針が出され、ログハウス式の構法に替えて木造軸組の下見板張りとすること、また屋根をテントのような尖塔形態から方形あるいは八角形にし、その上に小キューポラを載せることの2点が指示された。宣教師たちが活動するフロンティアでは建築家がいなかったこともあり、標準設計図集が必要とされ、そのため宗務院は承認図集を編集し配布した(サンクト・ペテルブルグ大学美術学部Prof. Evegnyより)。
図1 宗務院承認図集 側面図 図2 宗務院承認図集(1898)No.19 側面図
(2) 正教会誌Bulletin of Japan's Orthodox Church.
(3) 成聖記念誌Memorial Records of Completion of Church.
Table 1. 教会一覧(伝導誌、ニコライ日記他より作成)
Table 1. A List of Orthodox Churches Constructed in Japan Before the Second World War.
2-3. 分類Classification
(1) 初期礼拝所Early Chapel within Russian Consulate in Hakodate.
(2) 東京布教拠点Tokyo Missionary Base
(3) 東北の地方教会Regional Churches in Tohoku
CH.3. 初期礼拝所Early Chapels
3-1. ロシア箱館領事館付礼拝所 Russian Consulate Chapel, dedicated in 1861文久元年成聖/
(1) 背景Background
安政元(1854)年、日露和親条約に基づいて箱館に領事館が置かれることになり、1858(安政5)年、初代領事ゴシケヴィッチが家族と館員とともに来日した。当座、実行寺を仮泊所としていたが、翌年、領事館建設用地を幕府に願い出た。当時のロシアは政教一致の国であり、領事館は在外邦人の保護業務は当然のことながら、生死や結婚などの儀礼を行う必要から、そのための施設建築と司祭も必要とした。箱館奉行に残された記録によれば、翌年、3間x5間の大きさの祭祀堂が普請された。ところが、同年、奉行が大工町の土地をロシア領事に貸し与えたため、そこに諸施設とともに礼拝所が新たに建てられた。
大工町の領事館付属礼拝所については、数枚の写真とニコライの記述から概要を知ることができる。
1863(文久3)年8月21日,ニコライからシノードへの手紙。
「1861年に私が当地に着任したとき,すでにここには『ハリストスの復活』という名前の教会が建てられて成聖されておりました。かつてこの国に存在していたけれど滅ぼされしまったキリスト教が再びこの国に現れてきているという意味を込めて,この教会を建てた人でありまた教会の執事長である領事ゴシケーヴィチが,教会にその名を与えたのです。昨年この教会は南北に拡張されました。それで今では縦横等しい長さの十字架の形をしております。教会のすぐ横には鐘楼が付設されております。現在教会には300人を収容することができます。外側は漆喰塗りで,内部は麻布を張って白く塗り,その上に光沢だしを塗ってあります。現在教会では新たに細々とした改修工事が行われております。当地の日本人の鋳物工場がわれわれの鐘楼に鐘を作ってくれました。なかなかよい鐘です。小さいのが四個,大きいのが一個です」『明治の日本ハリストス正教会』
(2) 設計意匠Design
そうするとこの礼拝所は1859年か60年に完成しており、1862年に南北方向に増築されたことになっている。そして、正十字平面の建物は300人を収容できる規模になっていた。鐘楼は「教会のすぐ横に」置かれ、当初、両棟は一体化していなかったと思われる。実際、明治20年代の写真(図2)では、正門から鐘楼は見えず、西面には三角破風がとりついていた。ロシア領事館が明治5(1872)年に廃止されるとともに、一般信者のための聖堂となり、その後しばらくして、西側に鐘楼が増設されたと考えられる(図3)。また、奇妙なことに、鐘楼北側だけに三角破風型が見え、どうしてこのようになったのか不明である。あくまで玄関出入口は西側だったと考えられ、その後手前に風よけ室が付加され、そして、北側から出入りするようになった(図4)。このように、当初の南北翼部の短い十字平面から始まり、1860年頃に南北翼部を拡張して正十字平面へ、1890年頃の玄関鐘楼の増築、1900年頃の玄関前に風除室の増築と変遷し、最終的に1907(明治40)年の函館大火で焼失した。
(3) 復原Restoration
図2 明治20年代の初代函館聖堂 図3 明治30年前後の初代函館聖堂
図4 明治40年焼失直前の初代函館聖堂 図5 初代聖堂の内部
実際の寸法についての記述はないが、これまでの研究では2間幅と考えられていた。実際,内外を写した写真を見ると,2間ないし3間幅であることは間違いない。ただし,記述にあるように300人を収容できたとすると,3間は。一辺3間の四角形が5つ十字架形に配置され、さらに西側の玄関鐘楼のためにもう一つあったと想定し、平面図と立面図を再現してみた。
CH.4. 東京布教拠点Tokyo Missionary Centre.
4-1. 伝導館(主教館並びに伝教館)Missionary Hall
(1) 背景Background
・ 首都に教会本部を置くことは、ニコライの来日当初からの計画であり、明治5(1872)年初め、函館での活動をアナトリイ師に任せ、東京へ赴くことを決心した。実際、キリスト教禁制の高札が廃止されるのは翌年2月24日であるから、ニコライはそうなることをアメリカ合衆国での不平等条約改正の進捗状況から判断したのであろう。同年1月、ニコライは従僕古田泰輔(後の長郷泰輔)を伴い、函館をあとにし、横浜に到着した。2月4日になって、東京の築地に移り、築地ホテルの近くに適当な貸家を得た。しかし、2月26日の銀座大火のためにそこから焼け出されてしまい、暫し港町になんとか貸家を得るも、畳や建具がないあばら屋であった。
・東京本部を置く土地を物色していたところ、神田の駿河台に適当な物件があることを発見した。ここは、江戸時代に幕府の定火消、蒔田馬ノ助の役宅が置かれ、明治に入りしばらく戸田伯爵の屋敷となっていた。当時、外国人の土地所有は認められていなかったため、外務卿副島種臣のはからいで明治政府からロシア公使館に付属地として貸し与えられることになり、その賃貸料はニコライがロシア公使館経由で支払った。同年9月、駿河台に移転し、既存の木造家屋を住まいや学校として用いた。
・日露戦争の最中の1904年、さまざまなロシア排斥運動に対して、ニコライは、「日本の正教会の聖堂がこのようなよい場所に建てられていることをすべての日本人が喜ぶ日がいつか来ると思う」と述べており、当初から大聖堂立地場所に最適な場所を選んだことになる。
(2) 設計と工事管理Design and Supervision
・明治6(1873)年2月、明治政府はキリスト教禁制の三枚高札を撤去し、翌年ニコライは古い家屋を取り払い、西洋式の「伝導館」建物の新築を計画した。そして、記録によれば、フランス人技師に3000円の工事予算で委託したところ、工事費の一部を持って逃げてしまったことになっている[事蹟:51]。最終的には、同じくフランス人技師のジュール・レスカスによって、日本の地震に耐えられるよう鉄骨煉瓦造で設計され、長郷が施工監理の手伝いをして完成した[東京復活:30]。最初の工事委託を受けたフランス人技師は誰なのか不明であるが、レスカスの方は中国海関技師を経て、神戸と横浜で土木建築事務所を自営し、明治初期の信頼できる建築技術者として官民の仕事を請け負った[堀:]。
・建物は堅牢を期すために最良の構法と材料で建設され、当初の予算を大幅に上回り、3万円を要して、起工から1年後の明治7(1875)年末にほぼ完成し、翌年初めに成聖式が執り行われた[日記:]。そう考えると、最初の計画では木造だったものを、レスカスの提案を受け入れて、補強煉瓦造へと変更したと考えられる。この建物については堀勇良氏と小野木重勝氏の考察があるが、実際に伝導館に使われた帯鉄補強構法がどのようなものかは不明である[堀: 、小野木: ]。堅牢な建築を求めるニコライの姿勢はこの後も一貫し、そのため教会建設費が増加し、その建設資金の工面に窮することになる。
伝導館はL字型平面の2階建て洋館で、東側の棟の主教館と南側の司祭館によって構成される。主教館1階にニコライの執務室兼居室、2階に「東京ハリストス降誕聖堂」、一般的には「十字架聖堂」と呼ばれる祈祷所が置かれた[全日記9:]。ニコライは、1880年にロシアに帰国した時を除いて、亡くなるまでの37年間をここで過ごした。一方、南側の司祭館は教会執務に使われた[東京復活:29]。関東大震災の際に大きな被害を受け、主教館の方は松山聖堂を移築建設の場所を確保するために撤去されてしまい、司祭館の方は1階部分改修再利用され、現存する。
そのため、建物の外観と平面については、『東京十字架聖堂記念画帖(明治38年)』に司教館の規模概略が述べられているものの、あとは数枚の写真から判断するしかない。
「外部は地盤から屋上の十字架まで大約土間半(13.7米)位、其聖所となっている部分の外囲が東西土間(12.7米)南北五間(9.1米)、特に八角形を作せる至聖所の外囲が1間1尺5寸(7.7米)前面の三辺がそれぞれ」
鈴木氏による平面復原図は
・十字架聖堂は、箱館ロシア領事館内礼拝所を除くと、日本人信者が目にした最初のロシア式の聖堂であり、その後、石巻などの北上川下流域の都市に建設される聖堂のモデルになったと言われる[鈴木4:15]。その根拠は、正面に、1階でポーチと2階で至聖所となるベイ(張り出し)が付くことと、2階に聖所が置かれていることであるが、両者には外観だけではなく、平面にも大きな違いが見られ、再考を要する。
Fig.3 Supposed Plan of Tokyo Missionary Centre9).
4-2. 塔ノ沢聖堂及び避暑館
(1) 背景Background
・資料によれば、明治11年、修道院を開設する目的で箱根の塔ノ沢に土地を取得した。
(2) 設計意匠と施工Design and Construction
CH.5. 明治期の木造教会Meiji Timber Church: 1st Generation of Regional Churches
5-1. 概要Outline
Soon after the foreign faith was allowed for Japanese, St. Nikolai and the early believers, Mr. Takuma Sawabe and Mr. Tokurei Sakai rushed place to place over Japan for missionary activity. One of the most successful area was the northern Miyagi prefecture where the local new believers soon built a wooden chapel employing the local carpenters by their own efforts; Ishinomaki (1879), Wakuya (1883), Nakaniida (1884), and some.
Although Russian Orthodox church is usually linear layout; Entrance with Bell-Tower, Narthex, Nave with a cupola, and Sanctuary lining up from west to east, Ishinomaki Church (Fig. 2) was a two storey building; porch entrance and Narthex on the first floor and Nave and Sanctuary on the second floor 3). The construction and ornament were of the traditional Japanese style; pan-tile roofing and white stucco plastering wall, except double-hung windows and cross shaped openings. No specific model plan was provided to these early churches, and therefore most of the local religious centres built a simple eclectic style chapel, or converted the existing house for praying hall as seen in the first Toyohashi chapel (Fig. 3).
箱館を起点に、この新宗教 に強く引かれていったのは東北の旧幕府側武士や商人たちで、ニコライの下で教義を学んだ後、郷里に帰り、明治半ばまで小さな祈祷所を開いた。石巻、渡波、佐沼、涌谷など、宮城県北部には多くの木造祈祷所が建立され、 似たような特徴を持っていた。奥に深い二階建て平面、総白漆喰塗りの外観、縦長の窓、桟瓦葺きの屋 根、アーチ型のまぐさなど、いわゆる擬洋風な建築であった。
5-2. 佐沼聖堂Sanuma Church
(1) 背景Background
/dedicated in 1879明治12年成聖/Gone現存せず
(2) 設計と工事管理Design and Supervision
[半切り八角形2階には至聖所が置かれ、窓はステンドグラスが入っているように見える。]
(3) 備考Remarks
Fig.1 Sanuma 1st Church
5-3. 石巻聖堂Ishinomaki Church
(1) 背景Background
/dedicated in 1880明治13年成聖/Ishinomaki city Cultural Asset石巻市指定文化財
(2) 設計と工事管理Design and Supervision
前年に完成した佐沼聖堂を踏襲し、正面玄関を東側に向け、1階ポーチから、玄関を通り、啓蒙所に入り、その奥の階段を上って折り返し、二階の聖所、至聖所に達する。すなわち、玄関の上に至聖所がきている。平面は明治8年に竣工した東京伝導館を真似た可能性がある。外観は仙台市内に登場していた擬洋風建築を参考にした のであろう。
(3) 1978年解体移築Rebuilding
・1978年の宮城県大地震により被害を受け、教会は新築することに決め、既存の教会を市民有志が中瀬の公園内に移築した。明治の建設当初か何度かの改造が行われ、正面半切り八角形部分を除く外壁には下見板が貼られていた。もとは白壁だったという記憶をもとに、中瀬移築の際には木摺モルタルの上に白色ペンキ塗りとされた。この時、文化財としての調査に基づいて解体移築工事がなされ、工事記録がしっかりと残されていれば、この建物の文化財価値はとても高かったはずである。
・1972年写真(左)と2008年写真(右)の比較
-1. 移築前には至聖所窓枠上まで水切りが来ている。また窓枠が外壁のズラ位置。
-2. 軒下モールディングが緩やかな曲線になっている。
-3. 鬼瓦の形態が異なる。
-4. 1階アーチのスパンドレルの十字架飾りは透けていた。おそらくガラス。
-5. 2階の十字架飾りは外に弱冠張り出している。
-6. 以前、室内には支柱があった。後補という判断で取り外したのか。
-7. 回縁モールディングがなかった。
-8. 畳床になっていた。あるいは茣蓙。この時代、絨毯床とは考えられない。
考察
-1. 1978年に不適切な移築復元工事があり、これでは現存日本最古の木造教会とはいえない。
-2. 2013年に解体調査した際、1978年の移築の際に木材のほとんどが取り替えられたことが判明した。
(4) 備考Remarks
・2011年東日本大震災以後、修復のために解体したところ、木材の9割は新しい部材に取り替えられ、一部は改変された箇所も見受けられた。すなわち、中瀬の移築工事は張りぼてであったことになる。移築前の写真を写真家増田さんが撮影しており、その写真と比較すると軒下モールディングや水切りが簡便化されているように見える。東日本大震災後の復原は一体何を根拠に行えばいいのか不明なのである。
Front view, taken in Dec. 2007.
Side view, taken in Dec. 2007.
Interior, taken in Dec. 2007.
Ishinomaki Church just after 2011 Eastern japan Tsunami Attack東日本大震災直後の石巻聖堂
1972年撮影当時の正面
2008年撮影当時の正面
1972年撮影当事の内部
2008年撮影当事の内部
5-4. 涌谷聖堂Wakuya Church
(1) 背景Background
/dedicated in 1882明治15年成聖/Gone現存せず
(2) 設計と工事管理Design and Supervision
1960年代の写真を見ると下見板張りになっているが、これは後付であると思われる。
1st Church, gone in 1960s.
Present Wakuya Church現在の聖堂
参考事例:南方興福寺Minamikata-Koufukuji Buddhist Temple
・書院のステンドグラスと六角堂のベランダ/dedicated in 1884明治17年創建/designed & built by Cyousaku Suzuki大工棟梁鈴木長作/Source: Hideya Yokoyama出典:横山秀哉「明治初期洋仏寺建築の一例」(AIJ論文報告集号外、1965年9月)]
・佐沼聖堂に続いて、石巻と涌谷の聖堂に、さらに仏寺や学校の正面に半切りまたは1/3切八角形ヴェランダが付くようになった。佐沼聖堂にはステンドグラスも使われていたと思われる。
正面に半切りまたは1/3切八角形ヴェランダが付く
書院のステンドグラス窓
CH.6. 組積造大聖堂:東京復活大聖堂(ニコライ聖堂)Tokyo Cathedral.
6-1. 背景Background
・大聖堂建設にふさわしい土地を駿河台に得たが、建設許可の取得と膨大な建設費の調達が大きな問題であった。明治12(1879)年、ニコライは主教に昇叙されることになり、ロシアへの帰国に合わせて、その準備に取り掛かった。
(1) 建設計画Construction Scheme
ニコライの日記にはこの間の経緯が詳述されており、以下に示す。
1879年9月15日 女子修道院付建築家アレクサンドル・イワーノヴィチ・ポリカルポフに聖堂設計を相談する。
1879年11月14日 芸術大学建築学学部長アレクサンドル・イワーノヴィチ・レザーノフに聖堂設計を相談し、若手建築家を紹介される。
1879年11月15日 府主教からバシリカ式教会堂の建設を強く推薦され、ニコライは同様式図面を借用する。
1879年11月16日 レザーノフ推薦の建築家パーヴェル・イワーノヴィチ・レウートフは、府主教推薦のバシリカ式案に代わりビザンツ式案を強く押す。設計代600ルーブリ、図面完成に2ヶ月間を求める。
1879年11月19日 府主教から耐震性に勝るバシリカ式を再度推薦され、建築家シチェルーポフが紹介される。
1879年11月20日 シチェルーポフは耐震対策を施した円形平面の聖堂案を推し、ニコライと一緒に府主教を説得することを約束する。
1879年11月22日 府主教はシチェルーポフのビザンツ式案に反対し、代わりに宝座を三つ持つ十字架型平面を強く推す。シチェルーポフはそれに基づきスケッチ作成。
1879年11月26日 シチェルーポフは設計案を作成し、ニコライのもとに持参する。ニコライは、気にいった点もあり気に入らない点もあり。
1880年1月16日 シチェルーポフ設計案に府主教から賛意が表される。しかし、最大のパトロンであるプゥチャーチン伯爵とオリガ令嬢から大反対される。シチェルーポフは設計料750ルーブリを要求し、ニコライは500ルーブリと値切り、交渉決裂
1880年1月18日 ミハイル・アレクサンドロヴィチ・レザーノフがビザンツ式聖堂の図面を持参し、ニコライはこれをたいそう気に入る。
1880年1月20日 シチェルーポフと設計料650ルーブリで合意する。
1880年2月1日 府主教にミハイル・アレクサンドロヴィチ・レザーノフのビザンツ式案を見せたところ、大目玉をくらう。しかし、 ドミートリー・ドミートリエヴィチ・スミルノーフとプゥチャーチン伯爵はレザーノフ案を気に入る。
1880年2月13日 レザーノフからビザンツ式案の写真を受け取り、お礼をいう。資金さえ十分にあればこれを実施したいのだが。
(2) Style and Architect様式と設計者
・日記によれば、紆余曲折を経てシチェルーポフの十字架形平面に決定したことがわかる。経緯は、まずニコライは聖堂を飾るイコンやイコノスタスの製作を芸術大学に頼んでおり、聖堂設計においても同大学建築学部に支援を求めた。建築学部長のアレクサンドル・イワーノヴィチ・レザーノフは、彼の息がかかった若手建築家を紹介することを約束した。翌日、ニコライのところに、パーヴェル・イワーノヴィチ・レウートフがやってきて、人物的にも申し分のない若手建築家で、彼が推すビザンツ式案を大変気に入った。
・ところが、府主教にその案を見せると、ビザンツ式は大きなドームを戴くために建設費がかかり、また地震等によって崩壊の危険性が高く、却下され、代わって現実的なバシリカ式案が推薦された。府主教は付き合いのあるシチェルーポフを紹介してくれ、この建築家に設計を頼むことになった。シチェルーポフは、最初、ビザンチン式円形案を作成して持ってきたが、府主教との話し合いで十字架形に変更することにした。しかし、ニコライ自身のみならず、大口寄進者であるプゥチャーチン伯爵他の友人知人はビザンツ式に強い執着を見せていた。その設計案を作成したレザーノフは、同名の芸術大学建築学部長とは別人物であることは確かであるが、レウートフの代わりに芸術大学建築学部長から紹介された建築家であろう。
・ニコライ自身は十字架式とビザンチン式の二つを日本に持ち帰ったが、当然のことながら十字架式で建設した。設計案の変遷をまとめると次のようになる。
ニコライ及び彼の支援者:ビザンチン式
--建築家レウートフ: ビザンチン式
--建築家レザーノフ: ビザンチン式---------(図面)---→日本へ
--建築家シチェルーポフ: ビザンチン式→十字型式→日本へ
--府主教:バシリカ式
図1 設計案の変遷
・19世紀前半、サンクトペテルブルグでは、カザン大聖堂やイサック大聖堂が新古典様式で建設され、また、同世紀半ば、宗務局はこのような大聖堂向けの参考図集を発行していた。その図集の一部を辻永仙台主教に見せていただいたが、後述するように参考図と実際に建設された聖堂との関係は今後の研究テーマである。建設過程について、ニコライ日記はほとんど空白になっており、現在、判明している点を以下に列記する。
(3) 実施設計Actual Design
--1. 実施設計はJ.コンドルに任せられた。
これについては以下のことから疑問はない。
・コンドル作成による図面が残されている。
・ニコライ日記を始め、多くの教会の記録にコンドルが設計者という立場で成聖式に招待
されていたことが述べられている。
--2. 基本設計と実施設計の連続性について
シチェルーポフの基本設計図面が発見されておらず、それをコンドル実施案との比較は困難である。
(4) 施工Construction
・請負は信者の長郷泰輔が行った。
成聖式の記録に述べられており、その信憑性に疑問はないが、長郷の人物像はまったく不明であった。最近、それらについて若干が明らかになったので、教会建設に係わった人物の章で後述する。
6.5. 図書館
RESTORATION AFTER THE KANTO EARTHQUAKE・Restoration Architect: Okada Shinichiro/岡田信一郎
Saint Nikolai was eager to establish a splendid cathedral in Tokyo, and returned to Peterburg to ask an archbishop for his approval and a financial assistance for the construction in 1880. He met several architects and finally commissioned to Prof. Michael Alphevich Shchurupov, an architect of Russia Technical University to provide a plan for the cathedral 4). St. Nikolai was very careful in choosing an architect for arranging execution plan and supervising works too, and commissioned to Prof. Josiah Conder, architect of the Imperial College 5). Several master carpenters of the believers devoted themselves to the construction project and became familier with Orthodox church principle and building construction manner. One of the figures was Mr. Tsuruzo Okamoto who was always relied on by St. Nikolai for construction and maintenance of the churches. Tokyo Cathedral was completed and appeared in the sky of Tokyo in 1891 (Fig. 4), and it was so marvelous that Japanese believers could not help wishing more substantial Orthodox church building in their local centre 6). St. Nikolai gladly encouraged and supported them both in term of financial and technical aspects. For Sendai, the largest city in the northern Honshu Island, St. Nikolai proposed a quit large timber church sizing 42 feet wide and 102 feel long 7) and Mr. Okamoto arranged an execution plan and estimation for the church (Fig. 5).
But, the believers in Sendai could not afford such large church, and so Mr. Okamoto had to scale down the plan. It was completed in 1892 (Fig. 6), and was the first complete wooden Orthodox church fully-furnished with Entrance with Bell-tower, Narthex, Nave with octagonal cupola, and Sanctuary on line. However, the octagonal cupola was quite unique among contemporary Orthodox churches in Japan, and it resembled the Russian vernacular wooden church (Fig. 7). In contrast with the Sendai church, the new Magata church was very simple and orthodox without any Russian vernacular motifs 8) (Fig. 8). Orthodox churches built in the second half of the nineteenth century were of wood except Tokyo Cathedral and varied in style, probably because St. Nikolai did not have any specific idea on the style and provided different plan to each church.
CH.7. 明治中期の木造聖堂Mid-Meiji Timber Churches
ニコライ聖堂が姿 を現しつつあるなか、 地方でも本格的聖堂が所望されるようになり、資金の調った東北の仙台と曲田で聖堂建設が決定した。仙台聖堂 は 、聖ニコライが持っていたモデル図譜を参考にワシリィ岡本が設計図面を作成した。しかし、規模が大きく、また工費を節約するために、縮小案にて明治25年(1892)完成(2代目聖堂)。曲田の方はシメオン貫洞が実施設計、地元大工が施工したと言われてい る。仙台聖堂はロシアの地方木造聖堂とよく似ており、一方曲田は小規模でシンプルな構法であり、まったく別なモデルに基づいて設計されたのであろう。どちらにしても細部までデザインが行き届いており、このように 明治中期の木 造聖堂の特徴は、 建築技術に精通した信者が現れ、彼らなりにプランと細部デザインを充実させたことにある。やっと擬洋風な建築を脱して、正当な聖堂洋式を手に入れることができた。ちなみに現仙台聖堂は4代目で、2代目聖堂に似せて再建したという。
6-1. 仙台聖堂Sendai Church
(1) 礼拝所Chapel
(2) 本格的教会First Substantial Church
・明治25年成聖
(3) 昭和20年焼失、昭和21年新築、平成26年新築
(4) 兄弟教会としてのシカゴ聖堂台聖堂
・シカゴ聖堂の実施設計はルイス・サリバンが担った。Chicago church was designed by Lewis Sullivan referring to Model Plan.
Fig.1 Proposed Plan of Sendai Church,,, Is it too big for Sendai? This original plan is missing.仙台聖堂の最初の案。
Actual Plan after Scale down and Redesign.縮小とデザイン変更による最終案(想定)
Facade of Sendai Church
Chicago Church, a sibling to Sendai Church.同時期に建設されたシカゴ聖堂。仙台との兄弟聖堂
6-2. 曲田聖堂Magata Church
・明治25年成聖、昭和60年大修理
Fig.1 Magata Church
Measured Drawings of Magata Church
CH.7. ロシアの地方聖堂と宗務局参考図
ロシ アの地方都市に おける木造聖堂を "Wooden Architecture in Russia"から見てみよう。17世紀から19世紀に建設された5つの事例しか紹介されていないが、玄関・鐘楼、啓蒙所、聖所、至聖所という空間配置、塔頂のついた八角形の鐘楼と聖所の平面は共通しているが、各部の大きさとデザインは多様性に富んでいるのがわかる。壁が校倉造りとなっており、必然的に窓が小さくなっている。
仙台聖堂は、これらロシア地方聖堂と全体的形態は似ているが、そこでは校倉に代わって壁は付柱の付いた下見板となり、また窓もペジメントの付いた上下窓となっており、ロシア建築のヴァナキュラー的な要素が減じている。また、玄関部の切妻屋根が交差しており、西洋建築の学習の形跡が見られる。それらは岡本の手腕によるものであろうか。岡本は、正教会の仕事以外でも大工棟梁として多数の建物を設計施工した。
Fig.1 ロシアの地方聖堂の事例
番外2:岡本鶴蔵と南湖院
-「かながわの建築物100選」によれば、明治32年岡本鶴蔵の設計施工という。岡本は大工信者で、明治後半にニコライの許で教会建築の営繕を行っていた。その彼がなぜ南湖院にかかわることになったのだろうか。それについては鹿島学術財団への「日本ハリストス正教会建築の研究」を参照。
CH.8.明治後期木造聖堂
明治半ば、すでに京都には 多くのキリスト教団が進出しており、明治35年(1902)になり聖ニコライは京都にも小聖堂を建設することを決心した。
1) 京都聖堂
京都駅から建設地に向かう途中、突然目立つものではないといけないと思い直し、別な参考図譜を設計者に提示することになった。設計者と施工者の選定は慎重を期し、京都市官吏を勤めていた信者から京都府建築技 師の松室重光が推薦された。松室は非常に真摯に仕事を遂行し、聖ニコライは日記で彼を賛辞している。聖堂は設計変更が重なり、当初予算の二倍近くなったが、当初の期日通り、翌年5月に成聖した。
空間配置はこれまでのハリストス正教会聖堂建築を踏襲しているが、各部のデ ザインは仙台とも曲田とも大きく異なる。大きな相違は二つの塔屋のデザインで、聖所塔屋は八角形平面に 絞られることはなく、二段方形屋根になり、また鐘楼塔屋の方形平面は簡単に角切りして八角形に見せているだけである。さらに鐘楼塔屋の4側面に小ペジメントが付き、全体的にずんぐり した印象を与えている。ただ、玄関の柱や窓回りなどにこれまでの木造聖堂にはない充実した西洋建築ディテールが見られる。聖ニコライは工事監理のために河村伊蔵を派遣しており、さらに聖器物の備え付けも河村伊蔵に指示している。 残念なことに、聖所正面のイコノスタスが少し大きかったために、両端が手前に折れしまった。
京都聖堂、明治36年成聖. Kyoto Church, dedicated in 1913.
A Drawing of Kawamura Izo, probably of Kyoto Church.京都聖堂と考えられる河村伊蔵所有の図面
2)松山聖堂
松山では敷地が狭く、また日本人信者がいなかったため、啓蒙所のない簡素な作りになった。聖所の頂部が玄関塔屋よりも高くなっており、異色のデザインである。一方、大阪では相当数の信者がおり、また資金が十分にあったので、京都に比べても聖所屋根の4面に切妻壁を設けるなど細部をより充実させたようだ。ただ、玄関部の四角形平面が塔屋で唐突に八角形平面に絞られ、ちぐはぐな印象を受ける。
松山聖堂、明治41年成聖、神田移築後
松山聖堂、明治41年成聖、神田移築後
豊橋市にある桜ヶ丘高等学校には東京聖堂からもたらされたという十字架尖塔が存在する。
3)大阪聖堂
続いて大阪聖堂がすぐに建設されるはずであったが、明治37年に日露戦争が勃発し、その影響を受けて中断されてしまった。この戦争中、ロシア人俘虜が日本各地に居住し、そこで割合厚遇されたことから、終戦後ロシア側から聖堂建設のために多額の寄付が寄せられた。最も多くのロシア人俘虜が収容された松山に明治41年(1908)、大阪に明治43年(1910)に、それぞれ聖堂が成聖した。どちらも聖ニコライが持っていた参考図譜を手本に、信徒大工のフォマ尾林と河村が実施設計を行った。建築設計の経験がない河村がどれほど図面を引けたのか不明である。
大阪聖堂、明治43年成聖
5) Toyohashi Church豊橋聖堂
・dedicated in 1915大正4年成聖
・designed and supervised by Izo Kawamura河村伊蔵設計・監理
・Japan's National Cultural Asset
・Background背景
京都聖堂からはじ まり、松山と大阪へと続く明治後期木造聖堂の集大成が豊橋聖堂である。これまでの聖堂と違い、豊橋聖堂は建設費を地元信者の寄付でまかなうことを覚悟で、明治44年(1910)暮れに信者の間で建設の発議がなされた。翌年1月、聖ニコライの病気見舞いをかねて建設の許可を申請。これは成功したが、聖ニコライの死去により、建設は中断。5月に再開され、河村の尽力により設計と見積が進んだ。大正2年1月、本格的に工事が始まり、約1年の工期をかけて、大正3年1月に聖堂完成。その後外構工事がすすみ、ほどなくイコノスタスを設置し、成聖式を挙行するはずだった。ところが、ロシアに注文していたイコノスタスが第一次世界大戦のために到着が遅れ、大正4年2月、仮イコノスタスで成聖式を行うことになった。本 イコノスタスは昭和2年になり到着し、同年2月正式成聖式が執り行われた。河村が作成した図面一式は信徒の西郷氏が保管しており、最近市美術博物館に移管された。
豊橋聖堂全景 聖豊橋聖堂の至聖所
made by Yulianto
6)Shirakawa Church白河聖堂
・dedicated in 1915大正4年成聖
・designed and supervised by Izo Kawamura河村伊蔵設計・監理
・Shirakawa City's Cultural Asset
・Background背景
7)Sapporo Church札幌聖堂/designed by Izo Kawamura河村伊蔵設計/
2-6.組積造製造
1)Hakodate Church函館聖堂
・dedicated in 1916大正5年成聖
・designed and supervised by Izo Kawamura河村伊蔵設計・監理
・Japan's National Cultural Asset
・Background背景
松山と大阪の聖 堂建設に携わり、豊橋聖堂を経て河村は正教会聖堂建築のデザインに精通していったのであろう。大阪聖堂の成聖 式が終わった直 後の大正元年、函館聖堂が火事で焼失した。再建のためにロシア篤志家から多額の資金 が寄付され、河村 が中心になり組積造の計画案が準備された。工事は大正2年に始まり、フォマ尾林の 施工で3年後に完成し、 大正5年に成聖式が執り行われた。
規模は松山聖堂と同じであるが、木 造聖堂との大きな違いはアーチ型の多用とスタッコ装飾である。この聖堂は構造財郎が 違うものの、木造 の豊橋聖堂とほぼ同じ時期に設計されており、今後詳細な比較考察をするつもりであ る。両者に前述以外 の大きな違いがあるとすれば、それは函館の立地からくるものであろう。港を望む 高台にあって、いっそ うその優雅な姿がはえている。
2-6.Post-Kawamura河村伊蔵没後
1)Kannari Church金成聖堂/河村伊蔵+内井進の設計・監理/
2)Kesennuma Church/気仙沼聖堂
3)Takasaki Church高崎聖堂
4章 デザインの特徴
4-1.平面
京都聖堂か ら、松山、大阪、そし て豊橋までの平面の変遷を追ってみる。
京都聖堂:玄関、啓蒙所、聖所へと正方形平面が大きくなっている。
松山聖堂:啓蒙所と至聖所を縦横2対1の比率にしている。
大阪聖堂:玄関と啓蒙所の延縦長と聖所の幅がともに30尺と同じになってい る。
豊橋聖堂:大阪と同じ平面となっている。
4-2.立面
平面は大阪聖堂と同じであるが、玄関・鐘楼のデザインは若干異なる。大阪の二層
から三層にし、また上部に行くに従い狭くし、さらに角切の大きくして八角形に近い平 面にした。
各部の比率を探ってみると、絶妙な工夫がされていることがわかる。聖堂の美しさはこの比率か
らくるものであり、さらにディテールがそれを引きしめいてる。お孫さんである内井昭蔵氏がこ
の聖堂の完成度を賞 賛してうるが、その理由はその辺にあるのであろう。
CH.9. 建設に関わった人物
1) 河村伊蔵
函館と豊橋につづき、正教会建築家河村は、その後日本各地で引き続き多くの聖堂を設計していった。それらはもっぱら木造であり、また修善寺や白河などに見られるように規模も小さく、その土地土地の状況に合わせて設計していったのであろう。
河村は途中で函館聖堂を組積造で設計する機会に恵 まれ、構造に関してフォマ尾林の支援を得ながら、次第に聖堂設計に熟練していったのであろう。 尾張から三河一帯もハリスト正教会への入信者が多かった地 域で、河村伊蔵は 幕末に知多半島内海に生まれ、18歳の時に友人と共に浄土宗を捨て、ハリストス正教会に 入信した。西岸寺檀家帳簿に彼の名前が残っている。その後、半田教会から名古屋教会へと移り、20歳頃に聖ニコ ライのいる東京本部付属神学校に入ることになった。そこで、函館から聖ニコライとともにやってきた「栄(えい)」と結婚することになる。
西岸寺、内海町 豊橋 聖堂聖所屋根塔屋、大正4年成聖
2) フォマ尾林
3) ワシリー岡本鶴蔵
4) 長郷泰輔
ハリストス正教会が日本に根を下ろ してから,ハリスティアニン建築技術者は長郷,岡本,貫洞,尾林,河村伊蔵,内井進,三井道男と続い た。これらの人々の出自と業績を整理しているが,最初の4人についてはほとんど手がかりがなかった。ところがひょんなことから断片的に情報が集まりつつある。まず,東京復活大聖堂の木工事を担 当した岡本鶴蔵は塩飽出身であったらしい。それを調べてくれた藤本工務店さんに,近々竹中大工道具館のマルさんと話を 聞きに伺いたい。
もう一人,長郷泰輔は東京復活大聖堂(初代ニコライ堂)と第二回帝国議会議事堂の明治中期二大建築の施工を担当した大人物であり,彼の墓地の所在が判明した。『日本人 名 大辞典』(講談社)では,「1849-1911,明治44年7月15日死 去,63歳,会津藩出身」 となっている。一方,川又一英『ニコライの塔』では,1868年頃,古田泰輔は 箱館でニコライの従者となり,ニコライとともに上京し,東京大聖堂の建設に関わったことになっている。その時には長郷姓に代わっていた。墓地の場所を教えて頂いた大陀坊さんに感謝。
彼の墓石は雑司ヶ谷霊園の中でも目立 つほど威風堂々としたもので,まったく飾りけがない。墓石の手前には一本の石柱が立ち,その表に「明治25年7月16日永眠,享年31歳」と刻まれているが,これは彼のものではない。長郷の子供のものであろうか。墓石の方の表には「長郷泰輔 配千代」と刻まれている だけであり,生没年他の情報はな い。裏には漢文で桜井勉撰の哀悼文が刻まれている。その内容はよく理 解できていないが,やはり会津藩出身で,箱館で私幣鋳造の罪でが逮捕され,ニコライに救われたとある。ニ コライの従者となり,東京聖堂から始まり,西欧諸国公使館,帝国議会議事堂の建設に関わった。 経歴の中で最も目を惹いたのは仁寿会社の創立に関わり,また山尾庸三と親交を結んでいたことであった。こ んなところで桜 井勉と山尾庸三の名前に出会うとは思わなかった。桜井は出 石藩出身で,内務省初代地理局長を,山尾の方は長州五傑と詠われ工部省設立と運営に深く関わり,ともに晩年は大きな社会福祉事業を起こした。長郷はこれらの人物と親交があったとい うのである。
建築史学の方からの調査によれば, 長郷はフランス人技師レスカス設計による東京正教会の最初の施設建設を手伝ったのを契機に建築の道に入ったことになっている。ところが,ニコライの日記によれば,最初に工事契約をしたフランス人技師が工事費の一部をもって逃げたことになっており,それはレスカスだった のであろうか。レスカス設計の教師館が確認できる日本最初の耐震煉瓦造建築と言われているが、1872年にHoop Ironを使って工学寮工学校の建設が始まっていた。
長郷泰輔墓地 桜井勉撰の墓銘
_山手線内にあるとても静閑な墓地で,幕末明治の多くの大人物が眠っている。それも宗教や国籍を超えて眠っているのに感動すら覚える。長郷墓の近くには永井荷風が, さらにとの向いには岩瀬忠震がある。この岩瀬に愛知県近代化遺産調査の過程で興味を持った。彼は今の愛知 県新城市出身で,江戸末期の幕政を担った一人。最大の懸案は迫る来る海外の圧力にどう対処するかで,小栗忠順らと国防と開国に舵を切った。井伊直弼による安政の大獄で左遷さ れ,失意のまま亡くなってしまうが,明治の愛郷運動の中で再評価された。新城市内のいくつかの小 中学校の校門が和風になっているのはそのためであると睨んでいる。
・ハリストス正教会が日本に根を下ろ してから,ハリスティアニン建築技術者は長郷,岡本,貫洞,尾林,河村伊蔵,内井進,三井道男と続い た。これらの人々の出自と業績を整理しているが,最初の4人についてはほとんど手がかりがなかった。ところがひょんなことから断片的に情報が集まりつつある。まず,東京復活大聖堂の木工事を 担当した岡本鶴蔵は塩飽出身であったらしい。それを調べてくれた藤本工務店さんに,近々竹中大工道具館の マルさんと話を 聞きに伺いたい。
もう一人,長郷泰輔は東京復活大聖堂(初代ニコライ堂)と第二回帝国議会議事堂の明治中期二大建築の施工を担当した大人物であり,彼の墓地の所在が判明した。『日本人名大辞典』(講談社)では,「1849-1911,明治44年7月15日死 去,63歳,会津藩出身」 となっている。一方,川又一英『ニコライの塔』では,1868年頃,古田泰輔は 箱館でニコライの従者となり,ニコライとともに上京し,東京大聖堂の建設に関わったことになっている。その時には長郷姓に代わっていた。墓地の場所を教えて頂いた大陀坊さんに感謝(2010年10月9日)。
長郷泰輔君墓銘 錦雛間社候正四位勲三等桜井勉撰
君家世仕會津民明治戊辰官軍討會津藩削其邑土十五万石移之田名部公私窮
之栄無所所出君赴箱館欲私鋳貨幣以済之事露見拘官議持原之適露国牧師尓
頼状況君聴尾之及其建教堂君為董之今之駿台大聖堂是也露英伊佛墺諸国連
建館舎於輦下請君董之而露墺両帝特賜勲章壬辰國會議事堂失火君亦奉命改
築先期他而成特賜褒状又西邑房四郎創仁壽会社君与有力焉尋任専務取締役辛
亥七月十五日病疫君娶関根氏有子田有千代田有泰君身不甚長大色白髪黒言
語明晰監事不荀動大聖堂之始成也山尾工部卿謂曰平野富治之於造舩足下之
於建築可謂本部率先者矣其有功于建築可知耳銘曰
私鋳貨幣 以済度支 事雖不匹 志亦可悲
累営大厦 龍鳳挙騫 魂魄茲銷 魏閣永存
正五位日下部東作書
・彼の墓石は雑司ヶ谷霊園の中で、広い墓地に堂々としたしたもので、よく目立つ。墓石の手前には一本の石柱が立ち、その表に「明治25年7月16日永眠,享年31歳」と刻まれているが、これは彼の没年とは合わないので、長郷の家族の誰かのものであろう。その奥にある大きな墓碑の表には「長郷泰輔 配千代」と刻まれ、裏にはには漢文で桜井勉撰の哀悼文が刻まれている。その内容によれば、やはり会津藩士で戊辰戦争に従い、箱館で私幣鋳造したことで(官軍に?)捕らえられ、そこをニコライに救われたとある。
・日本正教会の小冊子に記載されているとおり、ニコライの従者となり、東京聖堂から始まり、西欧諸国公使館、帝国議会議事堂の建設に関わった。 経歴の中で最も目を惹いたのは仁寿会社の創立に関わり、また山尾庸三と親交を結んで いたことであった。こんなところ で桜井勉と山尾庸三の名前に出会うとは思わなかった。桜井は出石藩出身で,内務省初代地理局長を,山尾の方は長州五傑と詠われ第三代工部卿を勤め,ともに晩年は大きな社会福祉事業を起こした。長郷はこれらの人物と親交があったというのである。三人ともキリスト教に大変に近しい人物であった。日下部東作とは近代書を確立した人物。
建築史学の方からの調査によれば、長郷はフランス人技師レスカス設計による東京正教会の最初の施設建設を手伝った のを契機に建築の道に入ったことになっている。ところが、ニコライの日記によれば、最初に工事契約をしたフランス人技師が工事費の一部をもって逃げたことになっており、それはレスカスだったのであろうか。
雑司ヶ谷霊園,なかなかいい雰囲気です。 新城出身の岩瀬忠震の墓
5) 内井進と内井昭蔵
河村伊蔵は現場から建築設計施工を学んでいったが、子息である進氏は工手
学校に学び、正式な建築教育を受けた。そ して、一般建築の設計に携わりながら、その後地方に建設される聖堂のほとんどを設 計していった。
続く。とりあえずここまで。2007年暮れ。
参考文献:
泉田英雄他『豊橋ハリストス正教会聖堂建築調査』、豊橋市教育委員会、2007年6月。
6章 宗務院承認教会設計図譜
2008年にロシア訪問の前に、八方手を尽くして探してみたが,正教会聖堂建築史を 専門とする研究者はいなかった。ソ連時代、宗教建築を研究することは認められなかったからで,ロシア連邦になってやっと教会の修理復原が始ま り,その建築の研究も始まった。といっても,資料が散逸してしまったため,研究は 容易ではないという。このような状況の中で,サンクト・ペテルブルグ大学美術史学科のE教授は僅かながら資料を集めつつあった。彼との会談内容は鹿島学術財団に提出する報告書に精しく述べるが,要約すると次のようになる。
「い わゆるナポレオン戦争に勝利すると,ロシア はポーランドとフィンランドを 支配下に置き,欧州の大国となり,国内で は中央集権化を大いに進めた。民族 的な表現を禁止し,それまで各地で開花し た独特な教会様式も制限した。これ らを司ったのが教院SYNODで,1824 年と1838年に地方教会に対して標準化を迫るさまざまな指示を出した。その際,建築家に標準案を作成させ地方教会 に配った。SYNODが嫌ったのは未開さや土着さを示すロ グ構造とテント屋根で,それぞれ下見板と玉葱型ドームに置き換え られていった。」
SYNODは正教会を国家宗教とす る帝政ロシア政府内に設けられた機関で(Fig.22),聖務会院とも訳されるが,ここでは中村健之介氏に従い宗務院とする。E 教授は,SYNODが作成した標準案を数枚 持ってたが,当時はもっと多くのヴァリエーションがあったと考えていた。一枚目は豊橋聖堂に (Fig.23),二枚目は二代目仙台聖堂案とそっくりである(Fig.24)。
Fig.22 SYNOD Building viewd from St Isaac Cathedral
聖イサク大聖堂天蓋から旧宗務 院の建物を望む。パラディアン。
Fig.23 SINOD標準案A Fig.24 SINOD標準案B
これは豊橋聖堂そのもの 二代目仙台聖堂の原案に酷似
ニコライは主教の叙階を受けるために1879年 8月に帰露した際,サンクト・ペテルブルグで東京聖堂を含む日本における教会建設についていろいろな情報と資金を収集した。最も興味深いのは東京聖堂の設計者を決めるプロ セスであり,これについては別稿で考察する。ニコライは主教として司祭を叙階できるようになり,本格的に地方教会発展に力を注ぐつもりだった。そのためには聖堂は不可欠な施設であり,聖堂建設のために複数の参考図譜を持ち帰ったと考えられる。実際,仙台には○号,松 山には○号を使うようにと指示していた。仙台聖堂は残念ながらモデル案が大きすぎて縮小変更され,当初とはかなり変わった姿で完成した。しかし,その後建設される京都,松山,大 阪,修善寺,豊橋,函館,白河,金成,(仙台),小田原までは割合忠実に標準案に従ってい ると考えられる。
結論を急げば,河村伊蔵からその息子の内井進まで,SYNOD標準案を下敷きに,正教会聖堂を日本各地に建設したといえる。よって,これらはシノド標準型聖堂と呼ぶべきであろう。
内井進以後,正教会聖堂建築家はい なかったかというとそうではなく,日本の初期信者の一人である三井道郎の息子道男は早稲田大学建築学 科を出て,岡田信一郎事務所で活躍する。岡田がニコライ堂の震災復興事業を 担うようになったのは,所員の三井を通してだといわれている。
三井道男と内井進はほぼ同世代の建築家であり, 内井進の方が父親の影響で聖堂設計に長けていたのであろう。そのためか,三井道男は 正教会聖堂設計に関わることはなかったようだ。ところが,内井進が1963年に亡くな ると,その頃から地方聖堂の再建が始まり,それを担ったのが道男の息子の三井道一で はな いかと考えている。現在確認できているのは高崎聖堂だけであるが (Fig.25),いくつかよく似た聖堂が存在する。道一は構造に造詣が深かったらしいが,少なくとも河 村伊蔵や内井進のような意匠感覚は持っていなかったようだ。結局,この二人でSYNOD 型聖堂は終焉を迎え,受け継がれなかった。すでにロシア帝国が崩壊し,SYNODが機能を失って半世紀近く経ち,さらに冷戦真っ最中だった。
ところで,内井進は仕事を通して聖堂設計を父の河村伊蔵から直接学んだが,内井進の息子である昭蔵にはそのような機会はほとんどなかった と思われる。60年代菊竹事務所副所長として多忙を極め,進がもう少し長生きして くれたら,独立した昭蔵の事務所を手伝いながら聖堂設計のイロハを教えていたで あろう。といっても,昭蔵は小さいときから父が図面をひく姿を見ており,祖父と父の何かを十分に血肉化していたことは間違いない。それは昭蔵が残した作品を見れば明らかである。
Fig.25 高崎聖堂