Science and Engineering Education in Late Shogunate and Early Meiji Japan
幕末明治初期の科学技術教育
commenced in October 1, 2019, revised in May 15, 2022.
Science and Engineering Education in Late Shogunate and Early Meiji Japan
幕末明治初期の科学技術教育
commenced in October 1, 2019, revised in May 15, 2022.
I. はじめに
1-1. 目的と範囲
・工部省工学寮を、明治科学技術教育史の中で明確に位置づける。
・既往研究の成果を整理し、最新の研究成果と発見された資料に照らし合わせて新たな知見を示す。
1-2. 既往研究
(1) 日本科学技術史大系・教育、1964年.
(2) 三好信浩:日本工業教育史の研究、1979年.
同上:日本の産業教育、2016年.
(3) 日本近代思想体系・科学と技術、1989年.
(4) 拙稿:工学寮工学校創設再考他、日本建築学会計画系論文集、2015年
Ⅱ. 技術関連機関及び技術教育概観
2-1. 幕府の技術組織
・江戸幕府内の技術部門として土木掛や作事方があったが、土木掛は治水が主務であり、それも工事を各藩に指示するだけで、技術的能力は乏しかった。
(1) 治水
(2) 築城
・武田斐三郎1827-1880.幕末に国防能力を高めるために箱館奉行所に諸術調所が設置され、蘭学を通して大砲製造のために製鉄が試みられた。ここに蘭学者の武田斐三郎が教授として就任し,大砲や砲台を各地で作り,箱館に五稜郭を築城した。
(3) 作事方
(4) 測量
・伊能忠敬1745-1818.
2-2. 蘭学洋学の系譜
・蛮社の獄天保10年(1839);渡辺崋山、高野長英、小関三英
(1) 昌平黌:高島秋帆、江川英龍、西周
(2) 緒方洪庵1810-63と適塾:大村益次郎1824-69、武田斐三郎1827-1880、佐野常民1823-1902、箕作秋坪、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉
(3) 江川太郎左衛門、英龍(坦庵)1801-55、英敏1839-63:肥田浜五郎、山尾庸三
(4) 天文方:伊能忠敬、高橋作左衛(箱田真与)、榎本円兵衛、小野友五郎、箕作秋坪
・洋学所(安政2年):古賀謹一郎、箕作阮甫、(大島高任1823-1901)
・蕃書調所(安政3年):古賀謹一郎、箕作阮甫、杉田成卿、村田蔵八、松木弘安、西周、榎本釜次郎、赤松大三郎、伊藤圭介、川上冬崖、高橋由一
・洋書調所(文久2年):教授箕作阮甫、川本幸民
・開成所(文久3年):
(5) 長崎海軍伝習所と軍隊
・長崎海軍伝習所:勝海舟、矢田堀景蔵、榎本釜次郎,赤松大三郎、伊沢謹吾,肥田浜五郎
・軍艦操練所;教授榎本釜次郎、教授肥田浜五郎
(6) 幕臣と薩長藩士の海外学習
・幕府海軍;榎本釜次郎,沢太郎左衛門らがオランダへ
※1862年から63年にかけてほぼ同じ時期に、幕臣はオランダ、長州藩士5人と薩摩藩6人はイギリスへ長期留学に出発した。榎本は途中の64年頃半年間ほどロンドンに滞在し、近代産業を見聞した。長州藩士でロンドンに残っていたのは山尾と井上勝で、榎本とは会ったのだろうか。
・長州藩留学生:伊藤博文、山尾庸三
・薩摩藩留学生:松木弘安、五代友厚
※彼らは西洋の政治経済制度の学習に向かった。ロンドンでは長州藩士たちと会談した。
・広島藩:村田文夫
・横須賀製鉄所;駐日フランス公使のロッシュの助言を受けて、1864年、小栗忠順らが幕府の承認を得て建設開始。
(7) 有力諸藩による近代化事業
・鹿児島集古館:技術者の不在
・佐賀造船所:Tsunetami Sano佐野常民1823-1902.
・佐賀藩士の家に生まれる。佐賀藩校の弘道館から江戸の古賀侗庵に学ぶ。佐賀に戻り結婚後、京都の広瀬元恭の時習堂、大阪の緒方洪庵の適塾に学ぶ。大村益次郎らと知遇を得る。
・さらに、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。その後、長崎海軍伝習所に第一期生として入学。勝海舟らと知遇を得る。
・1867年、幕府のパリ万博使節団に参加し、翌年帰国。
2-3. 海外技術の直接導入
(1) 居留地の技術者
・デント商会とグラバー商会の投機的日本進出
長崎:ウィットフィールド&ドーソンによるデント商会長崎事務所1862年頃、グラバー邸と小山秀之進
横浜:ルシー社とリチャード・ブリジェンス、イギリス領事館と清水喜助、高島屋半右衛門
神戸:ロバート・ハート、ジョン・スメドレー
ヘボン塾:大鳥圭介、林董三郎
(2) 明治維新前後のイギリスとフランスの支援
・1866年貿易協定の改正と灯台建設:船舶の安全航行の確保、灯台建設、海図作成、港湾整備
・イギリスによる海軍支援:トレーシィ顧問団とダグラス顧問団
・シルヴィア号と灯台建設
・横須賀製鉄所:幕府から明治政府が摂取
・幕府軍に対するフランス陸軍の支援
(3) 戊辰戦争と日本人技術者
・恭順組:勝海舟(軍艦奉行→海軍奉行並→陸軍総裁)、小野友五郎(勘定方)、佐藤政養
・海軍;榎本武揚(海軍副総裁)、矢田堀(艦隊司令官→海軍総裁)、林董三郎
・陸軍:竹中重固(陸軍奉行)、大鳥圭介(伝習隊第二大隊長→歩兵頭)、荒井郁之助(歩兵差図役頭取→軍艦奉行)、三浦省吾、室田秀雄
・早期降伏:小林文次郎
2-4. 明治政府最初の近代化事業
(1) 廃藩置県と地租改正:地理情報の収集と測量
鉄道建設:イギリス人技術者、小野友五郎、佐藤政養
※モレルは技術学校の創設を目指したが、彼の急逝後に総監督となったカーギルは東京・横浜間、神戸・大阪間に見本のような鉄道を建設させ、短期間でパッケージ式の建設手法をとった。それは、岩倉使節団帰国後の政府要人らの意図でもあった。
鉱山開発;ゴッドフレー、
修技校の試み
留学生派遣
横浜製鉄所:1870年に完成し、1871年に横須賀造船所に改名。黌学を併設
(2) 工学寮と工部大学校
山尾庸三、エドモンド・モレル、ヒュー・マセソン
※モレルは日本人技術者を育成するために技術学校の創設を目指したが、急逝したため、彼の構想とは異なった技術学校が作られることになった。モレルがかんだ得ていたのは、インド工学校のような実務訓練を含む3年くらいの課程であったが、グラスゴー大学からやってきたダイアーは6年制課程としてしまった。1873年以降も東京近辺で鉄道建設が進められていたなら、工部大学校学生の実務訓練先として鉄道寮があったが、その時、鉄道建設は京阪神に移ってしまった。
インド植民地とインド工学校
学生の実務訓練
(3) 工学寮美術学校/工部美術学校
・明治8年4月20日付伊藤博文発太政大臣三条実美宛「工学寮、外国教師三名御傭伺」
「方今欧州二存スル如キ是等ノ技術ヲ日本二採取セント欲スルニ今其生徒タルモノ曽テ是等ノ術ヲ全ク知ラサルモノナレバ之力師タル者バー科ノ学術ノ者ヨリハ却テ普通ノモノヲ得ンコトヲ欲ス此故二専業ノモノハ現今此学校ノ希望スル所二適セズ唯是等ノ技術ノ諸分課ヲ教導スルヲ得ベキモノヲ要スルナリ仮令ハ画術二於テハ地形及画像等ノミナラス図引蚊絵ノ具混合方,遠景図及rアート・オフ・ポジション』画ノ位置ヲ定ムルノ術等ヲ以テ生徒ヲ教導スルヲ要ス家屋装飾術二就テハ諸般ノ造営装飾及彫嵌二用ユル大理石等ノ彫刻術モ亦之ヲ伝ヘシメ又彫像術二在テハ人形ノ偶像及板面ノ小像遊禽獣・虫魚・花実等ヲ彫刻スルノ術ヲ教授セシメント欲スルナリ」
・伺書は5月7日付けで認可され,イタリア政府に三人の美術家の推薦を依頼、明治9年8月29日正式契約発効
・明治9年11月6日工部省工学寮管轄の美術学校が設置
【考察】1872年5月から山尾と佐野は新皇居建設事業を着々と始めていた。大学校校舎も含め、招聘する建築家は華やかな皇居建築を設計できる人物を求め、そしてボアンヴィルがやって来た。彼は来日前に、大学校舎や宮殿建築を設計することが伝えられ、そのための参考資料を携えてやってきた。ボアンビルが大学校校舎の建設を終え、さて皇居の設計に取り掛かったとき、山尾に対して宮殿建築が備えるべき彫刻や絵画などの制作には建築家以外の人材が必要だと進言した。ボアンヴィルはこの分野ではイギリスよりもフランスやイタリアがすぐれており、そこから教育者を招聘するように進めた。
II. 既往研究の要旨
2-1. 小松醇郎:幕末・明治初期数学者群像(上)(下)、1991年、吉岡書房
第1章 長崎伝習所
・ペリー艦隊の浦賀来航、対応策として安政2(1855)年に長崎海軍伝習所の創設、蛮書和解御用から蛮書調所を独立
・第一期伝習生として、永井玄蕃を監督とし、勝麟太郎、矢田堀景蔵とを艦長格とし幕臣38名、佐賀藩臣47名、薩摩17、福岡28、萩15、熊本5、津12、福山4、かけ月1名となっている。大事には幕臣のみ12名、第三時も幕臣のみ24名。オランダからペルスレイケン、次いでカッテンディーケ。
1-2.小野友五郎
1-3.中牟田倉之助
1-4.赤松則良
1-5.柳楢悦
1-6.矢田堀鴻(景蔵)
1-7.塚本昭毅
〈注2020年4月5日加筆〉幕末の日本人技術者は,そのほとんどは海軍創設による国防を目的に長崎海軍伝習所で育成された。オランダから教官が派遣され,オランダ語通訳を介して1年間の教育が行われた。幕府だけではなく有力藩からも,10代後半から30歳までの数学に秀でた者が集められた。第1世代として小野友五郎(1818-1898,幕臣),勝海舟(1823-1899,幕臣),佐野常民(1823-1902,佐賀藩)ら,第2世代が肥田浜五郎(1830-1889,幕臣),柳楢悦(1832-1891,第1期,津藩),大鳥圭介(1833-1911,幕臣),川村純義(1836-1904,第1期,薩摩藩),榎本武揚(1836-1908,幕臣),荒井郁之助(1836-1909,幕臣),小林一知(1835-1906)ら,第3世代に甲賀源吾(1839-69),安藤太郎(1846-1924),林董(董三郎)(1850-1913)らがいるが,第1世代は戊辰戦争には参加しなかったが,第2世代は主戦派として箱館まで皇軍と戦った。戊辰戦争に参加した者はしばしの謹慎後に,明治政府に出仕したが,それぞれの考えと立場があり,お互いの協力関係は薄かった。
第2章 蛮書調所・開成所
・安政3(1856)年創設、前史として文化8年創設の天文方高橋景保建議の蛮書和解御用
教授方 箕作阮甫(津山藩)杉田成卿(小浜藩)
教授手伝 高畠五郎(阿波藩)松木弘安(薩摩藩・伊東玄朴塾、寺島宗則改)東条栄庵(長州藩)原田惠策(岡山藩・伊東玄朴塾)手塚律蔵(作倉藩)川本幸民(三田藩)田島順輔(安中藩)
続いて、村田蔵六(宇和島藩)木村軍太郎(作倉藩)市川斎宮(福井藩)
・文久3年蛮書調所は校舎を改築し名称を開成所と改め、語学方面と科学技術部門との二部門化
・慶応元年3月津田眞一郎と西周助教授職
2-2.市川兼恭
2-3.神田孝平
2-4.柳河春三
2-5.蛮書調所・開成所出身者
第3章 大村益次郎の数学グループ
・適塾、宇和島藩、蛮書調所
第4章 軍艦操練所・軍艦伝習所・神戸海軍伝習所
・長崎海軍伝習所第一期卒業生で成績優秀な幕臣15名位を江戸に呼び戻し築地で軍艦総連を始めた。矢田堀が頭、その下に小野、塚本、松岡、笹倉などが教授にあたった。荒井郁之助は早速練習生となった。
4-2.荒井郁之助
・天保7年に湯島天神下に生まれ、安政2年より箕作阮甫につき蘭学を学ぶ。安政4年、江戸に軍艦操練所が創始されるに伴いここに入所。矢田堀は郁之助の叔父。
・小野、榎本、赤松等の教官の転出に伴い教授側出役、さらに教授。
・文久元年1月より内海測量のことを命ぜられ、城ヶ島よりはじめて内海海岸を回り竹ヶ岡に至り。岸時元年4月突然講武所取締役を命ぜられ、陸軍側へ
・箱館戦争で破れ、榎本、松平太郎、大鳥圭介、永井玄番、沢太郎左衛門、松岡磐吉の七名とともに3年間「龍ノ口獄舎に入牢」明治2年6月30日からから5年1月6日まで。
・5年3月芝に開拓使仮学校ができたとき五等出仕として校長に、6年3月14日突然の閉校、4月12日規則をあらたにして開校したが、荒井は校長を辞めていた。
・明治7年3月北海道三角測量の命を受け、測量長ワッソンと苦心の測量を始めた。7年11月24日ワッソン、デー、荒井は東京に戻って夏の測量記録を作った。
・明治16年4月には内務省測量課長と気象台長を兼務した。
4-3.甲賀源吾と新島譲
第5章 静岡学問所と沼津兵学校
2-2. 日本科学技術史大系・教育
§1. 科学教育史研究の意義
(1). 現在行なわれている科学教育がいかなる必然的な理由,あるいは偶然的な理由によって行な われるようになったのか,という事実を明らかにしそれらの理由が現在なお有効であるかど5かを具体的に検討して,現在の科学教育の変革の可能性の展望をひらくこと。
(2). 科学教育の発展の構造、論理を明らかにし、これからの科学教青研究のための指針を見直す とともに、科学教育を含むもっと広い科学や教有や社会全般の発展と科学牧育の発展との関連を明 らかにし、もっと広い歴史の研究の一環として寄与するように努めること。 つまり過去における科学孜育の個力の内容を検討して、直接的に今後の科学教育に役立たせようと いう目的と、もう少し大きく捕らえて、科学教育の発異の構造をとらえて科学史や教育史や歴史全般の 理解をうる。
「教育というものは,とくに初等教育においては,政治的・思想的なものと不可分であることから,教 育そのものの研究よりも,むしろ政治的・思想的なものによって影響をうけることが少なくない。そし てそのことがあって,科学教育についての研究は,それ自身りっばな研究分野であるにもかかわらず, これまで,科学的といいうる研究をほとんど生みだしてこなかった。この二つの事情,つまり,科学教 育の研究が科学研究として 自立せず,教育が外部的な社会的諸条件によって大きく左右されるという事 情は,科学教育の歴史的研究を特に重要なものとしているのである: 科学教育の研究が自立していなかったために,理科教育はこれまで極端な動揺を示してきた。あると きは,それまでの伝統にまったく固執して,それまでの常識から一歩もはみだすまいという保守主義が 支配した。「存在するものはすべて必然的な理由をもっているjと理由なしに考えられ, 迷信が存続する と同じようにして,つまらぬことがきっかけで生まれた伝統や常識が固執された:そして,あるときに は,新しい政治的・思想的観点からまったく新しい科学教育の理想案が導入され,これまでの科学教育 の経験がまったく無視されるというようなことも起こった。もっともそのときでも,これまでの経験を まったく)無視して新しい教育を始めることはできないので,-方ではもっとも古くから存在するもの は,その伝統が長いというそれだけの理由からして新しい‘1理想案りの中にとり入れられ,科学教育の 中に不動のものとして生きのこったものも少なくないのであるが。 以上の見解は,筆者の科学教育史に関する研究のーつの結論を示すものであって,いまただちにすべ ての人たの賛同を得られるものとはいえず,本書の中でそのことを明らかにすることになるのであるが, 以上のことを全面的に否定し去る人はあるまい。 科学教育は今後もおそらく,大きな変革を経験することがあるだろう。少なくとも現在の科学教育 は,長い伝統をもち,多くの期待を負わされているにもかかわらず,なお,ほとんどしっかりした科学 的基盤を持っていないからである。利学教育に関する科学的な研究が確立されていけば,伝統と思惑だ けに依存しているところの多い現在の科学教育は,大きく根底から変えられるものと考えられるし,そ の間に,大きな経済的・政治的・思想的な事情の変化が起こり,科学や産業の進歩が起これば,大きな 変革を受けないではすまされ得ないからである: そこで,科学教育に関する科学的研究そのものを確立するためにも,現在の科学教育の常識にとって かわる新しい考え方の可能性を検討しておくことが,どうしても必要になる。現在とくに,科学の飛躍 的発展に応じて利学教育の教材を整理統合していく必要に迫られているが,そのためには科学教育史に 関する検討がどうして も必要になるのである:科学教育の歴史をくわしく見ていけぱ,現在動かしがた いと考えられている常識的な考え方が,大した理由もなく導入されていて,その後何ら科学的根拠を与 えられていないということがわかったり,もっとずっとすぐれた考え方が偶然的な事情で棄て去られて そのままになってしまっているということが見出されるであろう、、 ところで,すでに述べたように科学教育の進歩は教室における教師と生徒との交渉についての研究だ けから生まれるのではない:科学教育はたえず,科学自身の進歩や生産の進歩に対応して計画立てられ なければならない。しかも,科学教育について論ずるものが考慮に入れな1うーればならないのは,決して 現在の科学や社会ではなくて,将来の科学の進歩であり,社会の進歩である。特に系統的な利学教育が可能なほとんど唯一の機会であるところの学校救青においては,そこの卒業生たちがその一生涯にわ たって,この進歩のはげしい科学の時代に落伍しないだけのしっかりした科学教省を身につけさせなけ ればならない。つまり科学敦育というものは,それ自身が歴史的な研究を必要とするものなのである。 かつての科学教育がその後の時代にどう適応しあるい(む邸亡しなかったかということを検討しなけ ればならないのである。もっと広い社会とのつながりに関する科学教育の歴史的な研究は,この点にお いてもきわめて重要であるり 本書【よ以上述べたょう与科学教青史の課題をはたすためのーつの基礎作業をョ指すものである:こ のよ5な試み1まその重要」1三にもかかわらずこれまでほとんど行なわれたことがないので容易なこと ではないがそれだけにまな魅力的な仕事である。ここに集められた資料の多くのものはニれまでほ とんど日」―をひかなかった種預のものであって,ここに述ぺられている科学教育史に関する考え方の多 くはニこに切めて提1七されるものである これらの資料や考え方【土まだ歴史の試練を経ていないのでつまらぬ資料であったり,歴史理解の正 しくないものがあるかも知れないが今後の研究のための足場としては十分役に立ち5るであろう。そ してさらにすぐれた研究によってこれがのりこえられるまでの11月日本の科学教育史に関する展望を 得るのに役立てぱ幸いである。読者の方Aが二れらの資料とわれわれの見解とを検討して,さらに正確 な科学教育史の理解をくみたてていただけれ1まこれ以上にうれしいことはない。
§2 目本における科学技術教育の成立 この-日木科r技術教育史の第1巻!よ幕末から町治維新学制の制定を経て明治19年(1886) 連の学校令が制定されるころまでの日木で初めて科学技術敦育の重要性が認識され,日本の科学技 術教育が初めて成立した時期にあてられている この時期の初め,11)11司(安政元年,1854)のころの日木に1土科学技術の教育の名にふさわしいよう な教有はまったくゼロに等しいような状態であった。それが開国に直面して国防問題から初めて科学 技術の数育が緊急の「町皿として浮かびあがってきたのであった。欧米の科学技術が日木のそれよりもは るかに進んでいること1よそれ以前から知られていたそしてそのような科学技術を日本にとり入れる 努力は医者を中心とする人Mこよって―均学という形で前々から行なわれていたことであった。しか しそのニろは科学技術教有ということがとりたてて11り題とされたととはなかった:後維―罰学者の養成 は個々の蘭学者の私宅において開学塾の形式をとって行なわれたが,それはほとんど語学の修得以上 に出なかったしそれ以上のことがら(ま,すぺてみずから書物を通じて学ぷより他はなかったのである。 とニらが開国という事態に立ちいたって初めて国防1司題の重要性をいやというほど思い知らされた 幕府や諸群(よ日木の軍」ト)jの強化のために軍事科学を中しとした欧米の科学技術を組織的に,大 益にとり入れる仕よに歩ふみだすようになった長崎海軍伝習所・蕃書調所(のち開成所)・溝武 所・医学伝習折(のち精得館)・江戸医学所・江戸築地海軍伝習所などやや近代的な学核の体裁をもっ た干F戸技術の敦育機関が,初めて幕府や全国の各藩によって設立されるようになったのである(第1 章Jう
U1デ章捻読 幕末におけるこれらの教育機4跡ま欧米の科学.技術者などの直接指導を受けたものも少なくなく それによって日本人に初めて近代的な学技教育の方法とい5ものを知らせることにもなったがしかし1 幕末においてはついに,近代的な学扶教育の組織というものは生まれなかった:科学技術の教育を十分 準(0はれた初等教青あるいは中等教育の上に組織するというmi題:よ明治維新以後初めてとりあげられ たのである。 明治維新によって成立した新しい政府は,科学技術教有の上できわめて意欲的であった,新政府の文 教政策の上では初めのうち国漠学者の復古主義が大きな力をもっていたが明治三―IU年以降1ま文教 政策の指導権が全般的に洋学派の手にわたり,ここに欧米風の学校教青100変を全面的に日オGこ実現させ るという大実験の方針が定められるニととなった。すなわら明治五年には学制が制定されてそ れまでの寺子屋・藩学校にかわりて小学・中学・大学の系統的な学校組識の設定が確認されたのであ る。それは教育史全体にとっての大事件であったがこれ(土また科学教有史の上で特別な意味をもつも のであったっ 「学制の制定時期における教育上のもっとも大きな問題は,全国民に及ぷ初等教育の近代化を始める ことと欧米の科学をとり入れるためのトップレベルの科学技術者を養成することの二つであったとい ってよいであろう。一般中等教有といったものは明治の中期までつまり本書の扱う範囲内ではまだ 授とんどm」題たりえなかったのである。 そこでまず初等教育の問題をとりあげよ5。新しく始められる近代杓な初等教育の教育内容について は学制にもとづいてひきつづき公布された文部省の『小学教則において明示されたがこの教則 の何よりも重要な特色1ま科学教育の重視であった。それは欧米の初等教ガ制度の翻訳以ヒのもので あった。おそらぐ当時どこの国にも,この文部省の司N学教jllJほどに科学教育に大きな比重をかけ たものはなかったであろう。そして今日までの日本の歴史の中でも,これほどまでに科学軟育に大きな 期;寺をかけた教則は存在しなかったといってもよいであろ5。明治五年の小学教IllJはそれほどに 科学教育史の上で画期的なものだったのである。 ど5してそのような教『叫が生まれたか。そのことについては第5章で論じられているのであるがこ の敢則には明治維新以米,特に活発化した先進的な洋学者たちの科学啓輩の耕神がそのままの形でも ちこまれていたのである。封建的な儒敦思想乃からをやぷって洋学を学びその洋学において近代科学 の合理的な考え方を学びとった先進的な洋学者たちは,―円治維新による時代の変化に即応して新しい 時代をきりひらくためには従米の儒教的な考え方に代わる近代科学の合理的な考え方を啓蒙する二と が何よりも有効であることを直観していた彼らは当時の欧米の教青者たちよりも,はるかに科学教青 の切実に必要なことを痛感していた。科学がすでにある国で(土その重大性があまり意識されずにすA だが科学のない日不ではその科学のもつ意義の重大性はことのほか強く意識されずにはいなかった のであろうQそこで従来,幾分かの洋学を学んできた人Hま新しい文明開化の時代をめざして科学啓離 書の訳述出版にカをつくしたのであったが明治五年の小学教則はそのような洋学者たちの仕事 をそのまま日木の新しい教育にふさわしい内容としてとり入れたのである」
第1章 幕末における科学技術の教育機関の設立
第2章明治初年における科学技術の教育機関
1. 明治初年の科学技術の教育機関:ま幕末に設立された幕府の教育機関を復活し,ほぼそれをそのまま 5けついだものであった。すなわち幕府の開成所・医学所は復活させられて関成学校(開成所)・ 医学校となり,さらに大学南校・大学東校などと改称された。また,開成所の化学部門は大阪に移転し て大阪舎密局となり,長崎の精得館(医学所)は長崎医学校となった。幕府の海軍操練所も接収されて海軍兵学寮となり,旧幕府の徳川家は,駿河に移封になると,開成所・陸軍所・海軍所の延長ともみら れる兵学校を沼津に新設した。このほか,全国の各藩はその洋学校を存続させ,拡張・新没などもおこ なった。また,慶應義塾をはじめとする民間私塾も幕末から引きつづいて存続しさらに急激ないきお いで普及するようになった。
・明治政府は,旧幕府よりもさらに欧米の科学技術の摂取に熱心であった。それは,明治新政府のスローガンであった五箇条の御誓文(慶応四年三月十四日)の中に「旧来の慣習を破り-智識を世界に求 め」ることがうたわれていることにも,はっきりと認められるところである。明治新政府は,ひとまず 幕府の設けた諸制度をそのまま復活しこれを拡充強化する政策をとり,ついでとれらの組織をつぎ つぎと改組することにすすんだ。こうして,明治元年から10年ごろまで,これらの教育機関はたえず改組改称されることになった。たとえば東京大学は明治10年に発足したが,幕末の開成所がこの東京大学 となるまでには開成学校大学南校南校第一大学区第一番中学第一大学区開成学校東芳(開成学校の如く,めまぐるしい改組改称を経なければならなかったのである。これ1土ひとり開成所→東京大 学の場合だけでなかったことは巻末の図年表にみられるとおりである。
・科学技術の教育機関がこのようにたえず改組改称されなけれぱならなかったのは,一つには明治政府 の方針が安定せずに,たえずぐらついていたからでもあるがしかし,それは明治五年ごろまでの ことであって,それ以後はいくらか事情がちがっていることに注意しな1りUどならない。文部省が設置 されて,そのもとに「学布IJが制定されたあとでは,ほぼこの『学制」にのっとって学校教育体系が整 備されるようになったのであってそれ以後の改組改称は,この新しい制度のもとに学んだ学生たちの 学力向上にもとづく学校制度の拡充という面が強いのである、そこでこの章では,おもに明治五年の 「学制制定のころまでを一応の目やすとして,明治初年の科学技術の土だった教育機『児の;1夫態を考察 し「学制以後の科学技術教育がいかに構想・準備されていったか,ということをみることにしよう。
2. 科学技術の教育といっても,明治五年ごろまでのそれは、幕末とほとんどかわらぬ貧弱なものであったが,その『凱こ進歩のあとがないわけではなかった。
・長崎医学校では,医学本科の教育と分離して,その子科として,自然1斗学の基礎を教えるコースをも うけることがとりあげられ明治二年五月よりドイツ人ヘールツによる数学・物理・化学の教11が始め られた(資料2- 3, 2-4)。大阪の舎密局ではオランダ人ノ、ラタマによる実験をともなった系統的 な物理学と化学の溝義が始まり,その講義録が逐一印』:Ij発表されはじめた(資料2一5)。また,静「可 県沼津では旧幕府の徳川家が旧旗木の洋学者を総動員して近代軍1】「科学のj.c礎として科学技術の教科 を重要硯した兵学技をおこし,「就中洋算に至りては当時いまだ甚だ開けざりしに独り木校1よ赤松 (則良),塚本(明毅)二教授の薫陶により生徒もっとも散学に長じ沼1」三の生徒といへば世を挙げて 問はずして数学に巧みなる者となすに至れり(資料2-9)といわれるまでにしていた。
・しかし,これら三つの教育機関はその後長つづきはしなかった。1召ュ」t兵学校は明治四年トー月に新致 府の陸軍省の直轄となって廃止させられ,大阪舎密局は幾多の変遷ののちリ」治五年八月,学訂可に もとづいて第三大学区第一番中学と改称され,さらに外国語学校英語学核に転じ,長崎医学1撒ニ明治 7年II月に閉鋭となってしまった。(もっとも明1台11年には長崎医学核が復活されて現在の長崎大学 医学部の前身となった:)明治政府は科学技術の教育機1男も中央(東京)に集中させて政治的にも1甘 政的にも能率をたかめる方針をとったのである。
3. 東京築地の海軍兵学寮(海軍操練所)はのちに広島県江田島に移転された海軍兵学校の前身をなすものであったがこの学枝は、兵学校とはいえ、明治初年の日本でもっとも高度の科学技術の教育を行っていたものと思われる。明治三年の教科表(資料2 - iSA)をみると,予科では筆算・代数・幾何・三角法・画法幾何からなる数学の教育が大きな比重を占めているほか,「英学」中に究理書・天又 書がとりあげられ,「漠学中にも中国で漢訳された物理学書『格物入門』があげられている。本科で
65 も測量学・蒸気器械学(器械学本原・熱論・蒸気諭)・造船学・砲術などの近代技術の教育が中しにな っている。もちろん,このような時1司表にあらわれた敦科目だけから,実際にこのような科学技術に関 する敦育がなされたと考えることは危険であるが海軍兵学寮が実際にこのような科学技術の教育の ために具科こ的な手をうっていたことは明らかである。たとえ!ど,このような教育を実現するためには, まず適当な教『斗書を準備しなけれぱならないが海軍兵学寮は実際にそのような教科書類を綿集出版ま たは翻刻していたのである(資料2 -bC)。兵学寮出版の教科書類には,直接,海軍に1刃するものの ほか教学教fマ書了代数敦授書_博物階梯』(Parker FlさtLessons on Natural Phuloso叫Fの翻亥1 版:ニこで博1句というのは物理のこと)『化学大意』など基礎的な学科に関する教科書類もひととお り出―議していることは注意すべきであろう。また海軍兵学寮の教官たちの中には,日本梅軍の創没に 功労があったぱかりでなく,さらに広く明治初年の科学技術の普及啓蒙に寄与した人Aが少なくないこ とも注意すべきことである。
・明らかに海軍兵学寮は沼1」七兵学校とともに,明治初年の日本でもっとも高変の科学技術の教育機 関だったのである。蒸気軍艦をあやつり,遠洋航海に出るためには,数学.測量学・力学・器械学など について当11寺の日本人のだれよりも高い水準の理解が必要とされたし,また,幕末以米,政府が欧米 の科学技術の挺取に非常な開しをもつよ5になったのは,まさにそのような軍事技術の摂取をョ標とし ていたのだから海軍兵学寮が沼津兵学校とともに,当時の日本でもっとも高度の科学技術教育をなし えたこしても,それは偶然でないであろう。また近藤真琴の攻玉社が海軍兵学寮の予備教肖または補 習教育の1斐別として数学と技術の教育に特色ある私塾―私立学校として発足したのも注目すべきこ とであるし資料2 -11(。
4. 幕末以来、専門的な科学技術教育がもっとも着実にすすめられてきたのは海軍と医学の二つの分野 であったが医学の方では明治元年六月二十六日,「日幕府の医学所が復活されて(東京)医学校と して発星していた。旧幕府に1ま医学教育機関として漢方の医学館と洋方の医学所とがあったのだが, そのうちの洋方の医学所だけが復活させられて,医学核となったのは注J:Jすべきことである。新しい医 学教育はF嚇自公学のもとに行なわれることになったのである(別に和漢医学の教育磯関1没立の問題も提 識されたが,医学に和漢洋の区別があるぺきではないという趣旨から尖現せず結局洋医のヘゲモニー のもこにある医学校1本立てとなったのである)(資料2- 3B(: 東浄き学佼はニうして明治二年正月,維新戦争に従軍して名を挙げたイギリス軍医ウェりスを招い て教篇とし日本人教官の授業とあわせて予科から本科に至るやや組織だった授業を始めた。幕末か らの伝社もあり医学の基礎となる初歩的な物理や化学の教育は,日本人教官の手で行なうことができ るようになっていたのである:大学少助教の石黒忠直がここで用いた化学の教科書『化学訓蒙』1土明 治三年末大学東校から出版されている(資料2-7):切治三年閏什月の一大学東核規則(資料2-6) で:ま予科で語学のほか格物学(物理学のこと)・化学・数学を学び本科で解剖学など医学そのも のの教斉を5けることになっているが本科の教育が十分系統n切こ行なわれたことはなかったと思われる。
・これより先,大学東校で(ま今後の医学教育をドイツにならって行なうことが決定され,明1/「年刈 ―月,将来の牧官にあてるべき10余人の留学生をドイツに派遣するとともにドイツから大学教官有資 格者を招いてドイツの大学とおなじような医学教育を実現することが計llijされ,四年八月ドイツ人 軍医ミ=ルレルとホフマンの2人が来日,2人の助言によって敦科課程を編成しなおして,ここにはじ めて予科2年木科5年の本格的な医学教育が始まることとなったのである。
5. 大学東校(東校のちの東京火学医学部)がその医学教育を本旅n争こ始めるに際してとった方法― つまり外国から大学教育有資格者を招いてその指導のもとに欧米の火学とおなじような科手注術の 教育を口木において実現しそれとともに留学生を海外に派遣して,はじめの外人教「1『のあとをつかせ るという方法は,明冶政府;F明治二年ごろから科学技術教育の移植のためにあらゆる方面で!引りした 方針であった。東校(第大学区医学茨・』1京医学核・東京大学医学部)が期治四年八月に2人のドイ ツ人敦0)を迎えたのについで工部省の工学寮1:学校(工都大学校〕は明治6年6月9人のイ#リス 人教師を迎えて木格―竹な工学教育を始めたし(資料8-3),梅軍兵学寮は明治6年7月1こイヴリス人敦 師3.1人を迎えて翌年1月からイギりス式訓練を全面的に開始した。
・また,東京開成学校(東京大学理学部)は大学南校「包核,第大学「ど第番「1学f吉ブこ学1く開 成学校と称していたころから日本に滞在していた外国人を雇って英語・アランス吾・ドイツ沿の浴 学教育を中心とした普通教育を行ない明治6年ごろに1よ中等敦青程度の水準を器甘寺するtらニこって いたが,明治7年9月以降欧米請!引より専門教師を迎えて化学・工学などの大学教育を始める二うに なった。また,開拓使の札幌学校(札協農学該)は明治9年8月アメリカからクラークなど声与門敦 師を迎え入れて,本格的な科学技術の教育を始めるよ5になったのである。方大学東核1更に大学 医学部の前身)・大学南校(東京大学理文法学部の前身)・海軍兵学寮・北灘道1用拓使1のち札蝿畳学核 を設立)・工部省工学寮はいずれも明治三年―月以降明治五年までの『刊に将米のj!月1り学俄云nこあて るべき者を計画的に海外に留学させていたのである。
・明治政府が科学技術教育機関の設立のためにとったこれらの政策は、成功であった。欧米からはるばる未開の国日本にやってきた若いすぐれた科学者たちは,わずか数年の間に日本に科学技術の専門軟育の基礎をきずくことができたし、明治三・四年に海外に留学した人の多くくは帰国後外人教師に代わ って日本の大学の初代教授となった。そしてさらに日本で外人教師の指導をうけてから海外に留学し た人たによって,それらの教育機関はさらに発展させられることになった。つまり、明治三年ごろから とられたこれらの政策の効あって欧米の科学技術の専門教育機関はおどろくべきスピードで日本の土地に移し植えられ、欧米人の手からはなれて成長することができるようになったのである。 維新から明治五年ごろまで,おもてだった科学技術教育の面では幕末と質的に異なるような成果は まったく見られないといってよいが,その背後では日木のその後の科学技術教育の方向を定める手が 明治三年十月ごろからーつーつうたれていたのである。このことはこれまでほとんど注意されなかったことであるが、これは日本科学技術教育史上、きわめて重大な事件と言わなければならない。
2-1.大学校設立の布達
2-2.「学制以前の大学に就いて」
2-3.東京開成学校・東京医学校・長崎医学校・大阪舍密局の沿革
2-4.医学校の専門教育と予備教育
2-5.
2-6.
2-7.
2-8.
2-9.沼津兵学校
2-10.海軍兵学寮の教科目・教科書
2-11.
2-12.
2-13.
2-14.
2-15.
第3章 明治初年までの科学啓蒙書の出版
第4章 幕末・明治初期のソロバン書と数学啓蒙書
第5章 『学制』と科学の普通教育の制度化
第6章 最初の科学教科書と師範教育
第7章 『学制』期における算術・数学教育と画学教育
第8章 工部省・開拓使における科学技術教育
※もっぱら『旧工部大学校史料・同附録』を引用紹介しているに過ぎない。
8-1.工部省における近代技術の伝習
8-2.工部傭外国人の変遷
8-3.工部大学校の沿革
8-4.工部学校設立・海外留学生派遣建議書
8-5.工部大学校の思い出
8-6.横須賀造船所における技術教育
8-7.開拓使仮学校と札幌(農)学校の設立
8-8.札幌農学校の学生生活の思い出
第9章 東京大学の成立と科学技術者への道
III. イギリスの技術者教育
・イギリス土木技師学会Institute of Civil Engineersの公式出版物であるDictionary of British Civil Engineersの巻頭論文を参考に、シヴィル・エンジニアの誕生と発展を解説する。
3-1. 陸軍工兵ロイヤル・エンジニア
・18世紀までのイギリスでは、EngineerというとRoyal Engineer陸軍工兵のことを指した。イギリスが大陸から離れていたため、外敵から国土や国民を護ることよりも、工兵には敵地に出向きそこでうまく軍事作戦を展開できるようにさまざまな構造物を作り、整備することを任務とした。チャサムに陸軍工兵学校が置かれた。特に、イギリスは高大な植民地を有していたから、そこに工兵を含む大勢の軍人を派遣し、平定(反乱鎮圧)した後は軍事政府のもとで統治のための公共事業整備を担った。東インド会社は軍隊を持ち、兵学校も備えていた。
3-2. 産業革命期:徒弟制による技術者育成
・18世紀後半になり産業革命が進むと、起業家や地方領主が産業振興のために単独あるいは共同で道路、鉄道、港などの整備を始めた。それを担ったのが元工兵や独自に技術を身につけた人たちで、その代表であるスミートンJohn Smeatonは自らをRoyal Engineerに対してCivil Engineerと呼んだ。構造物だけではなく機械装置などの設計設置なども行い、万能技術者であった。
・18世紀後半、この職能は社会的に認知されるようになり、職能団体を結成した。18世紀末にはテルフォードThomas Telfordに受け継がれ、少年があこがれる仕事の一つになった。
・科学技術関連科目の開講
3-3. 専門職学校の創設
・インド植民地公共事業局における需要
・「イギリスと諸外国における技術者教育の比較検討」
・工学部の創設
3-4. 19世紀後半:技術者の分化
19世紀半ば、イギリスの産業革命が大規模機械生産に移行すると、Civil Engineerたちの活動は機械や電気の領域に大きく広がっていった。それとともに、この二つの領域は次第にCivil Engineerの仕事から分化していった。この過程をグラスゴー大学に当てはめてみると、1840年にLewis GordonがCivil Engineering講座教授に就任したが、その後、機械と構造物はWm. Rankine、熱力学と電気工学はWm. Thomsonが担い、その領域を充実させていった。このようにして、電気工学Electric Engineeringと機械工学Mechanical EngineeringがCivil Engineeringから分かれ、Civil Engineeringは構造物Construction Engineeringを中心に扱うことになった。
3-5. 『ジャパン・ウィークリー・メイル』1870年5月7日の提案Suggestion in "Japan Weekly Mail"
--"In every profession or trade in England a pupil age or apprenticeship of four or six years is instituted for the purpose of training, and after this term has expired, years of further experience are considered necessary before any responsibility is intrusted : how can a Japanese therefore be expected to perform skilled labour, or fill a responsible position without any training whatever?"
--これには大きな出費が伴い、彼らは不本意ながらそれを負担しているのは間違いない。このような場合の適切な議論は次のようなものである。イギリスのあらゆる職業や貿易では、訓練のために4年か6年の修業期間が設けられ、この期間が過ぎると、責任を負わされる前にさらに何年もの経験が必要だと考えられている。したがって、日本人が何の訓練もなしに熟練労働をしたり、責任ある地位に就くことを期待できるだろうか?
参考文献
(1) Mike Chrimes ed.: Biographical Dictionary of Civil Engineers in Great Britain and Ireland: 1500-1830, 2002, Institute of Civil Engineers.
(2) Ben Marsden and Crosbie Smith: Engineering Empires, A Cultural History of Technology in Nineteenth-Century Britain, 1989.
IV. 江戸末期の科学技術者
4-6. 幕府海軍
(1)
(2)
(3)
侍技術者のいくえ
・幕府は尊皇攘夷と大政奉還の荒波の中で、これら技術者を生かし切れないでいた。通商条約締結とともに、外国軍艦と商船が入港するようになり、港湾整備、灯台建設、さらに鉄道建設の必要性が生じていた。幕府が天皇と各藩と協力して新政府を立ち上げることが出来ていれば、幕臣技術者は富国強兵と殖産興業の担い手になっていたはずであった。ところが、徳川幕府が瓦解すると、幕臣技術者たちは幕府への忠誠心から反皇軍の立場を取り、戊辰戦争の中心勢力となった。大鳥圭介、榎本武揚、荒井郁ノ助など。1869年の箱館戦争まで抵抗を続けた。
4-7. 横須賀製鉄所
・幕末の1864年に建設を決定し、フランス公使ロッシュを通して翌年技師長ヴェルニーが調査のために来日。
・計画案の作成とともに、1867年、フランス技師団の来日、建設が始まったが、完成は1870年。
(1) 諸施設
(2) 修技校
・『ジャパン・ウィークリー・メイル』1870年10月8日号は、横浜製鉄所の技術学校を次のように伝えている。「第1スリップの後方には長い木造の建物があり、その1階はさまざまなもののそうことなっているが、2階は学校である。そこで約40名の日本人がヨーロッパ人から教育を受けている。1階にはロープ製造場と手による機械室もある。学校を監督している紳士は能力に全く問題ない人物であり、10才から18才の日本人40人にさまざまな文学から科学を教えている。教師は以下の通りである。
一人目.校長、歴史と物理の知識は勿論のこと、数学や機械にも知識を持ち、学校を監督し、教員を統括する。
二人目.フランス語教師、フランスと幾何学を教える。
三人目.英語教師、英語、数学、代数学を教える。
四人目.海軍マスター、航海術、砲術、戦術、などを教える。
五人目.製図マスター
・Japan Weekly Mail on October 8, 1870, reported a technical school of "Yokosuka Arsenal" as follows.
" It was also proposed at the same time, to establish schools, in which French instructors should impart to the cadets of good Japanese families, the European languages, and the sciences of ship-building, engineering, gunnery, seaman ship and naval maneuvering."
"In the rear of the slip No. 1, is a long wooden building, the lower floor of which is used for stores of various kinds, and the upper story for a school, in which about forty Japanese receive instruction from one European master. Part of the lower floor is used as a rope walk, the machinery of which is hand-worked. The gentle man who superintends the school is not of questioned competency, but it is manifest that to such a wide variety of the arts and sciences as are taught to forty pupils ranging from the age of ten to eighteen, the services of one master, be they never so efficient, are wholly inadequate. It seems to us that the Government should either suppress this, or render it efficient. But to effect the latter object, we should conceive that some such establishment as the following would be required.
1st.—A head master, combining a good knowledge of history and physics with an equally good knowledge of mathematics and the mechanical sciences, to govern the school and the subordinate teachers.
2nd.—A Frenchman to teach French, Algebra, & c.
3rd.—An Englishman to teach English, Mathematics and Algebra.
4th.—A master to teach the arts of navigation, seaman ship, gunnery, the art of war, & c.
5th.—A drawing master.
--Any extension of this limited curriculum would involve the appointment of other masters. "
V.明治政府の民部省土木掛から工部省土木寮
3-2. Meiji Technocrats/明治政府技術官僚
1) Tsunetami Sano佐野常民1823-1902.
・明治政府兵部省に出仕し、たが8ヶ月間で罷免。
・1871年、工部省発足とともに燈台頭に就任した。おそらくこれは山尾の強い推薦があった。
・1872年、山尾とともに銀座煉瓦街の再建事業に尽力した。佐野の前でマクヴェインらは再建案を披露した。この時期、マクヴェインとは家族ぐるみの付き合いだった。
・湯島聖堂の博覧会を担当し、1873年にウィーン万博博覧会の総督に就任。マクヴェインは、ウィーン万博に持って行く展示ケースの設計をマクヴェインに依頼した。マクヴェインはグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスに実際の設計と製造をお願いした。
・工芸教育
・製鉄
2) Keisuke Ootori大鳥圭介1833-1911.
・大鳥圭介の伝記を読んでみると、山尾庸三と接点があったことが分かる。山尾が安政年間に江川塾に入ったとき、大鳥は塾の語学教師をしており、ともに科学技術に強い関心を持っていた。その後、二人の道は大きく別れ、山尾は長州連とともに尊皇攘夷側に付き倒幕に動いたが、大鳥は幕府側に残った。本当はこの二人にとっては幕府でも天皇政権のどちらでもよく、西洋科学技術を身につけそれを社会発展に役立てようとしていた。大政奉還により明治政府が成立し、1868年暮れ山尾が6年間のイギリス留学から帰国すると、かつての友人が箱館の地で新政府に最後の戦いを挑んでいることを知る。最終的に大島らは降伏し、東京で投獄されてしまう。彼らの才能を惜み、早期出獄を望み、明治政府に登用しようとしていたのは誰よりも山尾ではなかったのか。黒田清隆と親交のあった総督の榎本は別として、大鳥と林董は暫し外遊(岩倉使節団ほか)した後、工部省傭いとなった。工部大輔を伊藤博文が勤めていたから、彼がこの人事をしたと短絡的に想像されているが、山尾の配慮であったと考える方が自然。-Yamao learned western science at Egawa's School when Keisuke Ootori was teaching languages there. They had same interest into western science and technology, and might get close friend each other. Ootori remained in the Shogunate Government side, while Yamao joined reformation side and sailed to the Britain to learn new knowledge. When Yamao returned to Japan in 1868, he was shocked to hear that Ootori was a commander of Shogunate government and fighting with the newly born Imperial government at Hakodate together with Enomoto. Their Rebellion failed and they were jailed 2 years at Tokyo. Yamao hoped that they soon work together for the Imperial government, and did best efforts to hire them in the government. Oototi and Hayashi bath joined the Public Works soon.
3) Yamao Yozo山尾庸三1837-1917.
・長州藩士、武田斐三郎に師事、尊皇攘夷運動に傾倒
・イギリスへ留学、グラスゴーでの技術研修、Colin Brown、Napier Dockyard、
・1869年帰国とともに明治政府の技術官僚に
・工部省創設に尽力
・工学寮と測量司を統括
・聾学校創設
2) Yoshizane Ono小野義真1839-1905.
・土佐藩宿毛の大庄屋の家に生まれる。後藤象二郎の蓬莱社に参加。
・山尾の推薦で工部省発足とともに最初期官僚に就任。
5) Kagenori Ueno上野景範1845-88.
・
4) Murata_Fumio/村田文夫
・芸州藩生まれ、イギリスへ密航
・『西洋聞見録』:スコットランドに関する詳細な記録。『西洋家作ひながた』:日本最初の西洋建築建設指南書
・マクヴェインとの出会い
・工部省測量司出仕、内務所地理寮出
・公務退職後文筆活動
5) Murota Hideo/室田英雄
・生い立ちは不明
・工部省測量司出仕から内務省地理寮へ
・マクヴェインとの出会い
6) Tadayoshi Hayashi林忠恕1835-93.
・ブリジェンスのもとで助手のようなことをやりながら、西洋建築の設計と施工を学んだ。1873年頃に工部省傭いとなり、マクヴェインが帰英して留守の間に、工部省施設建築を擬洋風で建設した。
3-3. Meiji Engineers and Builders/明治の技術者
1) Kiyoshi Minami南清
・マクヴェインの測量司修技校の第一期生徒
・工学寮工学校開校とともに入学し、工部大学校土木学科第一期生として卒業、グラスゴー大学へ進学。
・鉄道建設
2) Yasusuke Nagasato長郷泰輔
・会津藩士、榎本武揚に従い、箱館に立て籠もる。敗走時、そこで布教活動中のニコライに救われる。
・ニコライ堂建設請負、第2臨時帝国議会議事堂建設請負、
・山尾庸三と親交。
IV. Misc./その他
1) Ishii Kendo石井研堂
・『少年工芸文庫』博文館:近代技術をその分野の専門家にわかりやすく紹介してもらう。エジンバラのカンスタブル社の『教養文庫』によく似ている。
V. 工学寮工学校/工部大学校
日本の技術者の資格
・日本最初の技術者養成機関であった工部大学校から考え始めよう。この大学を作ったヘンリー・ダイアーはスコットランド出身で、イギリスの産業革命を牽引してきたという自負があった。彼自身はグラスゴー大学卒業生であったが、当時のイギリスの技術者の多くは職工徒弟制で技能技術を取得した。能力があれば助手として採用され、その経験書と師匠の推薦書を添えて土木技師協会の資格を申請した。経歴が多様であったため、イギリス社会では技術者の能力をはかるために資格認定機関が必要であった。
・ダイアーが工部大学校の編成を依頼された時、日本には資格認定機関は必要ではないことがすくぐ分かった。工部大学校が最初の技術者養成機関であり、そこの卒業生がすなわち社会的に信用のおける技術者であった。卒業資格が技術者資格であった。
VI. 技術官僚
6-1. 幕末
・主として政府の技術的課題を分析し、解決方法を工学的知識で見つけ出し、政策立案する人物を技術官僚と呼ぶことにする。幕末に、伊能忠敬、江川英龍、武田斐三郎など測量や国防技術に活躍した人物はいるが、幕府の政策を関わるような人物ではなかった。あえて挙げれば、横須賀製鉄所を興した小栗忠順あたりが幕臣技術官僚といえる。
6-2. 海外を見てきた者たち
VI. Junior Science and Engineering Books少年工芸文庫について
Ⅰ.はじめに
明治後半から大正期にかけて中高生向きに近代技術を説いた書籍で、石井研堂が博文館から出版した。国土開発につながる近代技術を写真と図版を用いて平易に解説したもので、中高生の工学の関心を高めたということで大きな役割を果たしたと考えられる。しかしながら、石井研堂は具体的にどのような経緯でこの書籍を出版したのかはよく分かっていない。
私は、マクヴェイン研究の過程でマクヴェインの義兄であるトーマス・カンスタブルがイギリスで「エディケーショナル・シリーズEducational Series」と称して、少年向けの科学技術書を発刊していることを知った。カンスタブル出版社はブリタニカの版権を持つ大出版社であり、岩倉使節団がエジンバラを訪問した際に、このトーマスに会っている。伊藤博文がこの少年向けの書籍に関心を示し、帰国後、類似のものを石井研堂に出版させたというのはありうる話であろう。カンスタブルの社の「エディケーショナル・シリーズ」と博文館「少年工芸文庫」を子細に比較検討すれば、両者の関係がわかってくると思うのだが、私が生きている間に研究成果を少しは発表できるであろうか。
Ⅱ.「エディケーショナル・シリーズ」とは
Ⅲ.少年工芸文庫
少年工芸文庫 一冊金拾五銭、六冊前金金八拾五銭、十二冊前金金壱百六拾銭
第壱編 鉄道の巻
第貳編 水道の巻 明治三十五年三月一日発行 著者石井民司/発売元博文館
第三編 瓦斯の巻
第四編 写真の巻
第五編 電話の巻
第六編 硝子の巻
第七編 紡績の巻
第八編 活版の巻
第九編 活版の巻
第十編 製紙の巻
第十一編 銅山の巻
第十二編 電燈の巻
IV.野村文夫(村田文夫)と石井研堂
村田の方が一回り年齢が上だが、二人とも西洋文化をそのまま日本に移植しようとしていた。