A study on the 1860s' Colonial Architecture in China and Japan with reference to John Thomson’s Photographs and Major Crossman’s Report.

1860年代中国と日本のコロニアル式建築についてートムソン写真集とクロスマン報告書を通して一 

presented to Bulletin of Art and Design of the University of Tsukuba, vol.10 (1990), pp.91-103.

commenced in March 15, 2007, updated in June 13 2022.

要約

19世紀以隆西洋による侵略によって, アジアには新しい都市と建築が作り出されていったが. ちょうどその人妨設最盛期にあたる1860年代二人のイギリス人が東アジアを広く訪問した。一人は写真家でジョン・トムソンといい, 貴重な写真資料を残した。もう一人は、イギリス大蔵省の委託を受けて東アジアの領事館建築の調査に来た工兵隊技師ウィリアム・クロスマンであった。二人の記録をもとに, 東アジアに建設されたコロニアル建築を議論する。


Summary

John Thomson (1837- ) was one of early travel photographers in China. This paper aims at describing some features of the 1860's colonial architecture constructed at colonial city and treaty ports of East Asia, referring to Thomson S photographs of “Illustrations of China and its people (1874)" and Crossman's Report on Construction of Consulates in China and Japan (1868).”

  Thomson's travel in China started in Hong Kong, where he photographed the Clock Tower and the Bund. The Clock Tower was designed in 1861 by Rawling, who at the time belonged to Royal Engineers at Hong Kong. After quitted civil service in 18066. he started private practice with two partners. Kingsmill (architect)) has already established his architect's office in Hong Kong since 1864. Their design, distinguished by arced verandah has become a departure from the first age of Hong Kong colonial architecture, which was identified by massive structure with colonnade 

 

1. はじめに

 ここ数年アジアを写した写真を捜しまわっている。 と言うのは, 明治初頭に日本に「ファー・イースト (FAR EAST )」という写真雑誌があったように, 他の地域にもその類の写真雑誌があるだろうと思い, それを19世紀半ばのアジアの都市・建築研究の資料を利用しょうと考えていたからである。それほど19世紀のアジアに関する図像文献資は乏しい。 

 日本でそんな雑誌や写真を所蔵しているのは, 国会図書館, 東洋文庫. 東京大学東洋文化研究所図書館, 京都大学人文科学研究所図書館が可能性として考えられるが, すべて閉架式図書館で書名も著者名も分からなければ調べようがないところばっかりである。ましてアジアの写真史に通じた人物もおらず, 日本で見つけることを諦めていた。ところが1989年 3 月, 別の用件でイギリスを訪問した際、ひょんなことから王立写真協会の写真史研究会雑誌編集長コーリン・オスマン1)氏と会うことができた。彼は, 現在1860年に英仏連合軍によって破壊された彫明園の写真集の出版を準備しており, 中国の写真史にかなり詳しい人物であった。 人彼の御教示によると, 欧米の写真史研究家がすでに中国にどんな写真家が活躍したのか, またどんな作品を取っていたかについて調べを終えていて, 私が求めるような人物としてジョン・トムソン (John Thomson) がいるとのことであった。

図1. ジョン・トムソンと彼の妻, 広東のある家のヴェランダにて

(ジョン・トムソン「南中国 (The Southern China)」1869年より)お詫び ピンボケしたトムソンの写真は, 接写した私の責任です。

図2. トムソンの寄港地

2. ジョン・トムソンと写真集「中国とその人々」

 イキリスの王立写真協会に写真史研究会があることに自体驚いたが, 自分の国でもない中国の写真史についてこれほど調べていることにさらに和驚いてしまった。 トムソンについては, ここ数年伝記が 1 冊と写真集の復刻版が 2 冊出版されているので, 詳しい彼の経歴はその本に譲る2)。 略歴として, 彼は1837年にエジンバラに生まれて, 当地の大学で化学を勉強した。しかしどのようにして写真技術を習得し, アジアに出かけるようになったのかは不明である。 彼の写真家として経歴は, 1862年24歳の時東南アジアのペナンで始まる。そして1868年から72年に5千マイルにわたり中国の植民地都市と開港都市を訪問し, その時の写真をイギリスで1873年から74年に「中国とその人々 (Illustrations of China and its People)」" と題し, 4 巻にわたり出版した。この時期は, 中国に進出した西洋人の都市・建築建設活動は植民地都市においては第二期, 日本を含む開港都市においては第一期にあたり, その写真が私が探しているものであった。 復刻きれといっても彼の写真すべてではなく, 一度オリジナル版を見たいと思った。 しかしトムソンの写真集は当時発行部数が少なく, 現在ほとんどが貴重書として私家本になっており, アポイントメントなしにコレクターを訪問することは不可能であった。

 帰国後, 彼から頂いた中国における写真家リストを頼りに日本での写真集の探索が始まった。ところがトムソンの写真集はあっけなく簡単に見つかってしまった。 国会図書館に所蔵され, 1875年購入の革装丁表紙はぼろぼろに朽ち果てていた。 出版されるとすぐに旧東京図書館が買い求めたもので, この写真集を見た明治政府要人は中国の轍を踏まじと富国強兵に柳を飛ばしたか, それとも西洋に人缶して中国侵略の夢をみたか・・, と想像きせるくらい西洋諸国に蚕食されていく当時の中国の様子をよく伝えていた。

 トムソンの旅は, 中国南部の西洋の植民地都市香港とマカオを足がかりに, 開港都市である広東 (現広州) を手始めに中国沿岸を北上し, 族門, 福州, 上海を訪問し. そこから長江を遡り九江と漢口を見て, 再び沿岸線を北上し, 天津, そして北京にたどり着く (図2 )。P&O 社が上海まで定期航路を開設していたとはいえを, 当時長江沿いの内陸都市や中国の帯都である北京にまったくの一民間人が出かけてゆくのは大変な困難であったはずで. おそらく写真家であったことが行く先々で厚遇された理由であったと思われる。 

新資料

*新資料の登場『ニコライの全日記』邦訳出版、2007年

*ロシア人研究者からの助言

3.ウィリアム・クロスマンと「中国と日本の領事館・公使館建築に関する調査報告書」

 トムソンに先立つこと 4 年, もう一人のイギリス人が東アジアを広範に旅行していた。名をウィリアム・クロスマン (William Crossman) といい, イギリス大蔵省から中国と日本に開かれた和領事館と公使館建築の調査を工務局技師として依頼された陸軍工兵隊大尉であった4)。彼はミドルセックスに1830年に生まれ, そして1847年17歳の時に陸軍土

官学校に入学し工兵隊技師5)としての道を歩むことになる。 工兵隊技師として国内で任務についた後。 1851年彼はロンドン大博覧会の組織委員会に勤めることになり, そして次の年西オーストラリア植民地に派遣きれ, 公共事業長兼警察署長の職につく。クリミア戦争のため1856年に本国に召還きれ, ポーツマス, プリマス, ポートランドなどの海岸線の防衛施設の計画と建設を担当した。その後カナダの防衛施設の計画・建設を手掛け そして1866年から70年に中国と日本にやってきたのであった。 

 クロスマンがどのような経緯で選ばれるようになったのか不明であるが, 戦争が続く19世紀の典型的な工兵隊技師の一人であったと思われる6)。彼の報告書は, イギリス公文書館 (Public Record Office) の外交文書 と工務局文書7)に収められており, 西洋人による建設活動がほとんど不明な外国人居留地にあって條重な記録を残している。ここでは, トムソンの建築写真とクロスマンの報告書と突合せながら, 1890年代の東アジア開港都市におけるコロニアル建築の伝播を明らかにしてみたい。

図3. 香港の時計台。『トムソン写真集』より

4 . 香港の時計台 (図3)

この時計台は1861年にローリング (Rawling) という人物によって設計され, そしてその周辺には初期の建築が残っているとトムソンは書き記している。ローリングとは1850年代末に香港植民地駐留のイギリス工兵隊技師であった人物で, 1859年に上水道計画コンペにおいてポックファラムに貯水池を建設する案で最優秀に選ばれ, そして自らの監理で63年に完成させたことでよく知られている8)。 このコンペから彼は民間の仕事を手掛けるようになり,そして1866年に設計事務所を開設し. 民間の建築設計をこなしていった9)。民間の建築家としては. すでに1861年にキングスミル (Thomas William Kingsmil)10)という人物がおり, 彼らは香港の最初期の建築家と考えられる。

 トムソンは,「このペダース街は初期香港の商業中心地で, 左手のデント商会の建物はまるで宮殿のようだ」と説明している。同商会は. ペダース街の向いの敷地を所有したジャーデン・マセソン商会とともに, 主に中国への阿片の密輸で巨万の富を築き, 1860年代初頭次々と開かれていく中国と日本の開港都市に営業を広げていた。 しかし, こうした性急な投資は経済不況に重なり, デント商会は1867年に倒産することになる11)。そしてトムソンが訪問した1870年には, 建物は他の商会の所有になっていた。


図4. 香港のプラヤ。『トムソン写真集』より

図5.マカオのデント商会の建物。『チャター・コレクション』より

図6.香港プラヤのデント商会の建物。『トムソン写真集』より

5. 香港のプラヤ (図 4)

 プラヤ (Praya) とはそもそも堤防を意味するポルトガル語であったが, 阿片戦争以後ポルトガル領マカオから香港に西洋人が移り住むと, 引続き香港でもこの言葉が用いられた12)。そしてデント商会とジャーデン・マセソン商会を中心とする西洋人商社がここに軒を並べた。「これらの商人たちは大抵一階を事務所にし, 二階以上の部屋は住大としているので, その広々としたヴェランダから港のパノラマ風景を見るのを楽しみにしている」とトムソンは語っている。この一階を倉庫や事務所に, 二階以上を住居として, そしてそこに海に向かってヴェランダを置くのは, 西洋の大航海時代から続く典型的な商館建築13)の特徴である。

 さらに.「ここの建築はどっしりして力強く, 設計者は自分の作品に軽快さを与えることに十分ではなかった。ある人は, それは時としてやってくる台風に抵抗するためだと考えている」と, 建築様直についても言及している。プラヤの建築を総称してこう語ったと思われるが, それら和建築を海側から一見する限り正面にアーケード・ヴェラ ンダが付いて軽快に映るのに, これをどうして「どっしりして力強い」と語ったのでろうか。図4 を見ると. ヴェランダがついているのは建物の海側正面だけであることが分かり, ファサードを除く建物の三側面は書瓦壁に四角い窓が開いた箱型をしている。この海側ファサードにアーケード・ヴェランダが付いた箱型の建築が1860年代の香港の建築の特徴でやもり, それは海からの景観を第一に考えて生み出されたと思われ, そして実際上陸して見た街路の腕めはトムソンのような印象になるのかも知れない。このような特徴を持った建築の出現は.前述したローリングやヤキングスミルといった民間建築事務所の開設と同調する。ローリングが軍属技師から一民間建築家に転身したように, 60年代半前半それだけ民間投資が盛んであったし, 新しい建築様式を必要としていた時代であった。

 1850年代以前の建築様式を知るにはデント商会の一連の建築が参考になる。1830年代のポルトガル領マカオに建てられたデントの住宅 (図5 )?" は, 正面にコロネード・ヴェランダがついた箱型の建物であったし, また香港の同社初代建物 (図6 )"”にも同じ特徴が但える。この建物はちょっと興味深く,マカオの同商会建物にならい三階部分に当初コロネード・ヴェランダを設けていたが, トムソンが言うように台風に備えてか50年代に入ると開口部が閉鎖きれてしまった"/。ペダース街の向いにはこのコロネード・ヴェランダが付いた建築が建っているが, おそらくこのような様式がマカオから最初に香港にもたらされたのであろう。 そして, それは香港の軍事施設"'の建築様式と一致する。これら建築のコロネード・ヴェランダに比べて, 60年代に隆盛のアーケード・ヴェランダは事実壁面積が大きく, トムソンはそれで 「 どっしりして力強い」と感じたのであろう。

 トムソンは, 「香港の中国人街には西洋人のための靴屋や家具屋が並び, 彼らは四六時中何かを作っている」と語り, 居住する西洋人に対してさまざまなサーヴィスを提供するのが東南アジアから東アジアのチャイナタウンの役割であった。


6.九江の外国人居住地 (図8 )

 香港は背後地を持っていなかったが, その点上海は外国人商人たちにとって商業上最高の場所になった18)。上海は大運河と長江の河口付近に位置し。 その上流には蘇州、鎮江、南京、九江、漢口などの大都市が控えていた。しかし1858年天津条約によって蘇州を除く4 港が外国商人たちに開港さきせられたが, 明確な貿易上の目算があってそこに進出したのではなかった。

 1872年にトムソンは九江を訪問 し,「1861年以来外国人がバンドに建物を建て始めたが,ポーヤン湖から遠く離れ, さらにそこには外国船は入れないため, 貿易活動は年々下火になっている」と記している。とはいえ, 彼が与したバン ドの建築群は迫力がある。ところでバンドという言葉はインド系の言葉で, プラヤと同じ堤防を意味する『'。 前述したように香港やシンガポール, きらにインド本国で使用例を知らないから, 上海で最初に使われたものと思われる。香港が植民地政庁の行政下に置かれたおかげで, 外国商人たちは数々の障害を経験することになったが, 彼らは上海は自分たちの利用しやすいように建設しようという意識が, 香港とは違った言葉を選ばせたのかもしれない。

「中国と日本の条約港案内1867年の」 によれば, 1861年3 月に城外の長さ500ヤード,幅250ヤードの土地が外国人居留地に定められ, 土地の区画と整地が行われた(図9)。次いで1862年4月15日に,道路や坦頭の建設などのための「道路・碼頭委員会」21)が土地の借り手の中から選ばれ,高き50フィートのバンドの建設費一万七千テールを占有面積に応じて支出することに決めた。さらに次の年には, 居留地内にガス灯と排水溝が整備された。このバンドとともに,各敷地内の建物の建設が始まったものと思われる。アーケード・ヴェランダを大屋根で覆う外観はすべてよく似ている し, 1860年初頭に一斉に建設活動が始まり数年で済んでしまったのであるから, 当地に漠在していた設計者が手掛けたのであろう。

 クロスマン奉告によれば,1864年に九江領事館の増改築をウィットフィールド・アンド・キングスミル社 (Whitfield & Kingsmill)22)が手掛けたことが知られている23)。キングスミルは1862年から63年に香港で建築設計・測量事務所を開設し,1864年に上海に移り,そこでウィットフィールドと共同で土木建築事務所を開いた24)。そして上海に本拠を置き,九江を始め長江流域に開かれる外国人居留地の建設事業の設計を行っていったと考えられる。この九江は, 景徳鎮と緑茶が近くに産するためその後も数社の商社が残り営業を続けて行くが,この都市がつとに有名になるのは後年廬山という避暑地が開発されてからである。


7.漢口の外国人居留地(図10)

 トムソンは,長江沿いの開港都市は初期の投資に反してどれも繁栄しなかったため,漢口でもその衰退を目にすることになる。その様子を彼は,「外国人居留地は長江の川岸にあり,そこは現地住民の町よりも低い位置にある。土地の選択が間違っていたとしか言いようがない。というのは,毎年ここは洪水のため水浸しになり,私が訪問した1871年には外国人の建物の一階部分には前年度に起きた洪水の跡が残っていた。バンドの向い側の川岸は,たくさんのお金を使い60フィートの高さの石垣で護岸されている。しかし,1861年に当地が開港すると,外国人商人たちは当地を中国で最も有望な都市と考え,装飾と安全を付け加えることに湯水のようにお金を使った。そして,高価な美しい建物が建設され,漢口は花壇で飾られた。しかし,初期の目論見ははずれ,1871年には不動産の値段はがた落ちになってしまった」と記している。

 1861年3 月イギリス政府は,城市の東方の土地に長き800ヤード奥行き400-500ヤードの面積を居留地として取得した。108区画に敷地割が行われ, その借り手の代表からなる「道路・碼頭変員会」が選ばれ,ここでもまたバンドの建設が最大の支出となった。引続き,同委員会は敷地面積と建物の不動産価値に対して課税し,それを居留地の整備に使っていった。一方,個々の建築活動は公共建設と同時に行われ,「上海の建築と同じ様式の建築が次々に建っていった」25)。

 商会の建設活動についてはほとんど分からないが,クロスマン報告が漢口のバンドの建設について詳しく記している。先ずバンドと道路の施工監理は, 1862年から63年までにガヴィン・アンド・モリンソン土木建築事務所 (Cavin & Morrison)26)によって行なわれた。さらに,イギリス領事館の設計もガヴィンが行い,そして中国人業者アフォーン(Afoon)27)の請負で1864年に完成している。その後も領事館関係の仕事があったが,1867年,ガヴィンが漢口を去ったためにモリソン一人が残り,工事を引き継いだ。同年当地を訪問したクロスマンは, ガヴィンの設計になる漢口のバンドとイギリス領事館を中国で最高の出来であると賞賛しており,ガヴィンとはよほど腕のいい技術者であったと思われる。 もう一人漢口には有名なイギリス人建築家が作品を残している。「ビルダー(Builder)」誌に多数の建築作口を発表していたキッドナー(William Kidner)29)という建築家で,1867年にロンドン宣教協会教会を当地外国人居留地に設計する。実際に漢口までやってきたのかどうか分からないが,1868年から数年上海に滞在したりして19世紀後半のアジアにたくさんの建築を残している(図11)。


図11.キッドナー設計の香港上海銀行の上海本店

図12.ジャーデン・マセソン商会横浜事務所

 

8.キングスミルとウィットフィールド

 トムソンが1871年から72年に長江沿いの開港都市を訪問した時は,前述の建築家と土木技師たちがほば初期居留地をつくり終えていた。キングスミルは香港から仕事を求めて福州を経て上海でウィットフィールドとともに事務所を開き,漢口や九州の居留地建築を手掛けた。そして20世紀初頭まで上海の土木・建築界の重鎮を勤めためた30)。一方,ウィットフィールドは,1865年キングスミルとの3 年に及ぶ共同に終止符を打ち,日本の横浜にやってきて運上所,ジャーデン・マセソン商会(図12),メソニック・ホールなどを手掛けた31)。

 このようにジョン・トムソンが中国を写していた1871年から72年は, 香港植民地ではいち早く始まった第二期建設期を終え, また開浴都市では第一期建設期を終えた時期であった。そこには, キングスミルのように和港から次々と開かれる居留地を渡って上海にたどり着いたり, またさらにウィットフィールドのように上海から日本に渡ってくる建築家たちの姿があった。 彼らの移動が, 1860年代のコロニアル建築様式を東アジアの各開港都市に伝えることになったと考えられる。しかし, 彼らがどのようにしてこの建築様式を獲得するようになったのかは, 彼らが影響を受けたヨーロッパを含む東アジア以西における建築的状況を把握しないことには分からず, それらは今後の研究の課題である。

 1860年代のコロニアル様式は短命に終わり, 今ではほとんどの東アジアの旧開港都市で見ることはできなくなった。そのコロニアルの衣を着てバンドに初めて出現した西洋建築を, 1870年初頭にビョン・トムソンが写真に取っていてくれたおかげで, 図像を通して東アジア開港都市に同時代的に同じ建築様式が存在したことを知ることができるのである。

 この報告は. トヨタ財団より研究助成を受けて実施している 「東アジアの近代建築の基本的研究 (代表藤森照信東京大学助教授)」の成果の一部であり, さらに前述の技術者の活動と経歴は現在文部省科学研究費「東アジアにおける近代建築技術導入に関する研究」において調査中である。


1) “PHOTO-HISTORIAN", The Quarterly of the Historical Group of the Royal Photographic Society, Editor: Colin Othman.

2 ) 伝記として, WHITE, STEPHEN, "John Thomson: Life and Photographs", Thames & Hudson, London,1986, 写真の復刻本として, Beers, Burton F., “China in old Photographs 1860一1910," Charles Scribner's Sons, New York, 1978. Goodrich, L. Carrington & Cameron, Nigel, "The face of China as seen by Photographers & Travellers 1860-1912," Gordon Fraser, London, 1978. Fabian, Rainer & Adam, Christian, "Masters of Early Travel Photographs," Thames & Hudson, London, 1983などがある。

3 ) “Illustrations of China and its People: A Series of two Hundreds Photographs, with letterpress Descriptive of the Places and People Represented" by」. Thomson, F.R.G.S., in Four Volumes, London: Sampson Low, Marston, Low, and Searle. 1874. この表紙には明治8 年購求, 東京図書館蔵書の印が押されている。

4 ) ”National Obituary,” pp.446-477.

5 ) Royal Engineer, 工兵隊技師と訳した。

6 ) もう一人の典型例として横浜の上水道の計画と工事監督を担当したH.S.パーマーが挙げられる。

7 ) 外交文書 (Archives of Foreign Office), 工務局文書 (Archives of Office of Works )。

8 ) Eitel, EJ.. “Europe in China", Kelly & Walsh, 1895, p.376.

9 )“The China Directory 1861-1870" China Mail Hong Kong,によれば, 1861-65: Clerk of Works, Royal Engineers, 1866-: Rawling, Medlen & Co. Architects & Surveyors となっている。

10) Kingsmill, Thoms. W., Architects && Surveyors, Queen's Road, "China Directory 1862”.

11 ) 石井寛治 『近代日本とイギリス資本』 東京大学出版会、1984年。

12) Eitel, EJ., ibid. p.173, 及び"Praya", Oxford English Dictionary, 1979.

13) 商館建築について, ジョアン・デバロス著 / 生田滋訳 『アジア史』 岩波書店1981年や。 トメ・ビレス著/生田竣訳『東方案内記』 岩波書店1966年などが言及しているが, 特に『東方案内記』の生田滋氏解説に商館建築の特徴が纏められている。

14) Chinnery, G.. "Dent's Verandah, 1840" Chater Collection,及び泉田英雄「ヴェランダ考」『1988年筑波大学芸術年報』参照。

15) "Victoria Central 1847," Chater Collection, に描かれていることから, 1847年以前に完成していたと思われる。

16) "Dent & Co.'s Hong c.1858", Chater Collection, ペダース街向いの建物は1854年には新築 されているので, この写真は実際にはそれ以前に撮影されたことになる。

17) M. Bruce, RIE. 設計の Flagstaff House (1846) (現茶具博物館) が, 現存するコロネード・ヴェランダの付いた初期コロニアル様式の例である。

18) 加藤祐三『黒船前後の世界』,岩波書店1985年,pp.174-176。

19) “Bund", Oxford English Dictionary, 1979。

20) Mayers, WF.“The Treaty Port of China and Japan" Trubner & Co., 1867.各開都市の説明には,トムソンはこの本を参考にしている。

21) Committee of Roads and Jetties. この委員会は1846年に上海で設立されたものをモデルにしている。

22) Whitfield & Kingsmil, Civil Engineers and Architects, "China Directory 1864"

23) FO17/ 1303, “Letter of Major Crossman to Secretary of the Treasury, 29th Nov. 1866."の中に,キングスミル・アンド・ウィットフィールド事務所の設計委託料支払いの領収書がある。

24) “China Directory 1864.” では,キングスミルは建築師・測量師として上海と漢口に,ウィットフィールドは建築師という職名でキングスミルの共同者として上海におり,次年には両者はウィットフィールド・アンド・キングスミル土木技師・建築師事務所を漢口で開いている。さらにキングスミルは,1866年まで漢口で営業し,1867年に上海に帰って来ている。

25) Mayers. W..F., ibid.) p.453.

26) Gavin & Morrison. Civil Engineers & Architects, ”China Directory 1864.” ガヴィンは1863年に初めて上海に建築家として現れ,1864年にモリソンとともに漢口に土木建築・事務所を開く。1866年まで漢口にいて,その後は東アジアから姿を消す。

27) 中国名では「頤造發興」。

28) 注23)「 文献資料の中で, クロスマンは漢口のバンドと民間建築の建設は同事務所が行ったと書いている。

29) William Kidner, Architect,“China Directory 1868 & 1868.” 漢口の同教会の建築図面はイギリス公文書館の地図・図面分類の中に所蔵さきれている。その他の仕事は,確認されているだけで1867年竣工izuのロンドン宣教協会上海教会堂,1877年竣工の香港上海銀行上海事務所,その後北ボルネオォ会社の総督府や教会など多数を手掛ける。

30) 1900年に設立された 「中国土木建築協会 (Institute of Civil Engineers and Architects in China )」の初代会長を勤めた。

31) 伊藤三千雄『外国人居留地域とその建築に関する研究』東京大学博士論文1965年

 

参考文献

(1) Solomon Bard, “In Search of the Past A Guide to the Antiquities of Hong Kong," Urban Council, Hong Kong, 1988.

(2) Joe Mordaunt Crook, “The History of King's Works, 1660.1851," H.M.S.O. London, 1973-76.

(3) Anthony King, “Bungalow,” Routedge & Paul, London. 1984.

(4) Robin Middleton & David Watkin, “Neoclassical and 19th century Architecture," Faber & Faber, London, 1987.

(5) James Orange, "Chater Collection," Thornton Butterworth, London, 1924.

(6) 桐敷真二郎『明洛初期における西洋建築導入に関する研究』東京大学博士論文1966年

(7) 加藤祐三編『アジアの都市と建築』 鹿島出版会 1985年

(8) 村松伸他編『東アジアの近代建築』 村松貞次郎先生退官記念会 1985年

(9) 『横浜・都市と建築の100年』横浜市建築局企画管理課 1989年