Modern Spa-Town in Eastern Aichi東愛知と西静岡の近代温泉地

I.近代温泉街とは

温泉街は、温泉がこんこんと湧く山間に湯治のために開かれ、また近世になり街道沿い宿場町近くに開かれもした。しかし、三河湾沿岸と浜名湖沿岸では近代になって、それも第二次世界大戦後の昭和20年代末から創設されたものが多い。確かに温泉が沸いてわいたが、湯量も少なく、村人がお風呂として使う程度だった(三谷、舘山寺)。

愛知県近代化遺産総合調査では三河湾沿岸の三谷温泉、蒲郡温泉、形原温泉、西浦温泉を、関連調査として静岡県側の弁天島温泉と舘山寺温泉における建造物の現存状態を調べ、さらに関係者に創設の経緯を聞き取りした。この中で蒲郡の三谷温泉が最も規模が大きい(旅館数が多い)。

蒲郡は、明治末期に名古屋の滝信四郎が常磐館を開き、さらに昭和10年には国際観光旅館として蒲郡ホテルが開業した。第二次世界大戦後、この蒲郡駅前ではなく、その周辺に温泉街が開かれた。三谷には細々と温泉が湧いており、そこに進出してきたのは豊橋、田原、名古屋などの赤線宿の旦那連らしい。昭和20年代末、赤線廃止が決まることを見通して、町中を離れて温泉地に営業を移したと想像できる。この経緯についてはもっと詳しく調べる必要がある。

温泉、酒肴、芸子さんでもてなしたが、昭和30年代は遊郭や赤線の面影を引きずってかなりいかがわしいものだったようだ。男の遊び場としてストリップ劇場や秘宝館などが定番であった。この俗の顔以外に聖の顔もあり、裏山に四国八十八カ所巡りや西国四十八カ所巡りのミニチュアが作られた。この聖俗のコンパクトな組み合わせが近代温泉街の特徴である。

しかし、昭和40年代に入り、会社や工場の勤務者が増えると、温泉街は団体慰安会の場所となり、健全化の方向に進んだ。会社の保養所が開かれるのもこの頃である。宴会や入浴の施設が充実し、また女性が昼に楽しめる場所の整備も進んだ。子供も呼び込もうと、入浴場と遊園地に工夫が施され、ジャングル風呂、洞窟風呂などなどが作られた。温泉街は最も身近な行楽施設であった。

昭和50年代に入ると、娯楽が多様化し、また集団から個人へ移っていき、温泉街はそれに対応しきれなかった。これらを近代温泉街として詳しく調べたい方がいらっしゃったらご連絡ください。

II. 事例

(1) 三谷温泉

・弘法山八十八カ所

(2) 蒲郡温泉

(3) 形原温泉

(4) 西浦温泉

(5) 舘山寺温泉

・弘法山八十八カ所

(6) 弁天島温泉

(7) 新宮山温泉

・新宮山八十八カ所

・西国

III. 施設の特徴