Geodetic Survey in Modern Japan.日本における近代測量黎明

commenced in January 16, 2015, updated in April 10, 2022.

UPDATE更新

February 13, 2023: Review of Ohmura Hitoshi's "Looking Back of Survey of Japanese Government (1957)." 大村齊「本邦測量事業の回顧(1957年)」のレビュー. See VI.6-1(1).

November 18, 2022: Examination of a Base Stone of Kiyomizudera, Kyoto.清水寺仁王門の三角測量基点標石の検証>京都測量. See IV.(3)-3.

March 26, 2022: Reconsideration of Survey Office in Home Affairs . 内務省による測量司移管の再考。See <2-5.測量司の内務省移管>

August 30, 2021: 1869年民部官・民部省及び兵部省における近代測量の試みは、旧技術系幕臣が明治政府において活躍できる唯一の場だったから。特に戊辰戦争降伏組は自らの知識技能を生かそうと思ったらそれしかなかった。

May 27, 2021: Review of Proposals of Foundation of Observatory by H.Scharbau and Ono Tomogoro. See. Ch.V. シャボーと小野友五郎の天文台設置建言の再検討 

April 8, 2021: Overall Revision of II.Survey, III.Meteorological Observation, IV. Astronomical Observation.2章、3章、4章を全般的に改定。 

December 4, 2020: Review of Previous Study Takahashi Toshio's Survey Department of Civil Works.斉藤敏夫「土木司測量所について(1980)」のレビュー

December 1, 2020; Review of New Resource "Regulation of Survey School of Public Works in 1873 and Its Amendment by Home Office in 1874"新資料「明治6年工部省測量技術通学規則定と明治7年内務省測量技術通学規則改正」レビュー

November 4, 2020: Review of New Resource "Memoirs of my 20 years service as Director of Central Meteorological Observatory by Nakamura" 新資料「中村中央氣象臺長在職二十年及華甲祝賀會」レビューFebruary 2, 2020: Added book review of "Memorial Journal of the 90th Anniversary of the Tokyo Observatory (1968)"『東京天文台90周年記誌』書評

August 15, 2020: updated in Seismological Observation.地震観測を補足

May 22, 2020: Updated in <1-2.Previous Study>測量事業既往研究の項を更新

I. はじめにPREFACE

I-1. 目的と範囲AIM & SCOPE

   江戸後期、日本は蘭学を通して西洋科学技術を積極的に導入し、幕末からは外国人から直接それらを学び、急速な近代化(=西洋化)の道を突き進んでいった。明治政府はそれを一部分受け継ぎつつ、新たに外国人の力を借りて、測量、気象観測、地震観測などを実施しようとした。しかし、戊辰戦争や西南の戦争の政治的混乱により、関連事業が誰によって企画実施され、どのような成果を上げたのか知ることは難しい。私たちは残されたほんの僅かな史料を通して一方的な見方しかできずにおり、もし、初期明治政府に雇われた外国人が記録を残してくれていたなら、彼らの視点を加えた、新たな明治初期科学技術史を描くことができるであろう。

   あくまで公的事業だけを扱い、個人による試みは対象としない。また、幕末期の伊能忠敬による地図作成は世界的に見て大変優れた事業であったが、大三角測量手法を使わなかったので誤差があり、また地形や地目などの地図情報が入っておらず、近代測量事業には入れない。明治政府発足とともに民部官/民部省が国土地理の把握を担うはずだったが、これは測量手法も実績も不明確なため近代測量事業は含めない。気象観測や天体観測は、日本にやってきた外国軍隊(駐屯地、艦船、測量船)のほか、多数の素人(宣教師、商社、ジャーナリスト、旅行者、学者)によっても行われており、横浜では1864年頃にカーティス・ヘップバーンが、函館では同じ頃にトーマス・ブラキントンが始めていた。これらは観測手法が未定であったり、また通年を通したデータが公開されなかったため、観測業績には含めない。測量及び気象観測機器メーカーのカセラ社は、プロ仕様の機器だけではなく、1840年頃から素人観測者向けまでの各種観測機器セットを販売していた。


I-2. 既往研究PREVIOUS STUDY

(1) 高木菊三郎『日本における地図測量の発達に関する研究』風間書房、1966年。『日本地図測量小史』古今書院、1931年

(2) 

(3) 

(4) 山岡光治『地図を作った男たち 明治の地図の物語』


I-3. Definition of Term "Modern Survey"近代測量の定義

    It is geodetic survey by triangulation.三角法に基づく測地測量を指す。地球経緯度上にその地点の位置と高低を同定し、地図として表現すること。

II. Survey and Mapping in late Shogunate Period.幕末の測量と地図作成

II-1. 伊能忠敬の業績Achievement of Ino Tadataka


II-2.幕府の海防事業Early Attempt by the Shogunate Navy

・幕末、出島からオランダ語による西洋科学技術書が蕃書取調所にもたらされ、小野友五郎らによって近代測量術が修得された。伊能忠敬の業績を越える三角測量による全国測地測量事業には、技術とともに揺るぎない実施体制が必要であったが、幕末の政治的混乱はその確立を許さなかった。幕府は、海防のため長崎海軍伝習所を発端に海軍創設に勤め、そこでもまた三角測量技術が教えられた。他の技術者と同じように、一人前の測量士になるには、理論と実習によって基礎学力を涵養し、熟練した指導者による数年間の実務訓練が必要。

※注:小野友五郎伝

※注:水路部沿革史、同付録上


II-3. H.M.S. Sylvia's Attempt of Joint-Survey イギリス海軍測量船シルヴィア号の共同測量の申し込み

・1865年の通商条約改定に伴い、幕府は外国船の航海安全の便宜を計ることになり、英仏に灯台建設の協力を求めた。航海安全のために海図が必要であり、駐日公使のハリー・パークスはイギリス政府に測量船の派遣を要請した。1867年暮れ、測量船シルヴィア号は江戸湾に到着し、幕府海軍との共同測量の話し合いをするはずだった。しかし、徳川慶喜が大政奉還に踏み切ると、旧幕府軍は鳥羽伏見で薩長軍と戦うことになり、共同測量を実施する状況にはなかった。シルヴィア号は一旦江戸湾を離れ、大坂に立ち寄り、独自に瀬戸内海を経由して長崎にいたる航路を測量することになった。

※注:大日本外交文書シルビア号関係文書

※注:シルヴィア号活動記録

III. Survey in Early Meiji Government明治政府初期の測量

III-1. H.M.S. Slyvia's Approach to Meiji Government in 1869-70イギリス海軍測量船シルヴィア号

・明治維新がなると、シルヴィア号は1869年2月に横浜に戻り、パークスの仲介により再び新政府との共同測量の話し合いを始めた。明治政府側カウンターパートは兵部官/兵部省と民部官/民部省であったが、どちらも組織が固まっておらず、事業実施には至らなかった。江戸湾に停泊するシルヴィア号に乗船し、測量実習に参加したのが兵部省から川村純義や柳楢悦ら、民部省から小林一知(文次郎)らであった。

※注:大日本外交文書シルビア号関係文書

※注:土木司回議

※注:1869年マクヴェイン日記、マクヴェイン宛てマックスウェル手紙


III-2. 民部官/民部省による試みEarly Attempt by Ministry of Civil Affairs of Imperial Government

・明治政府が発足すると、国防のためと、廃藩置県と地租改正を断行するために精緻な地図と地籍図を必要とした。そして、民部官/民部省の地理正の杉浦譲が各地既存の地図を収集するとともに、土木司大佑の小林一知はそのための測量と地図作成を担う予定であった。明治2(1869)年、事業が動き出そうとしていたとき、シルヴィア号の訪問と鉄道建設の話が持ち上がった。小林らは、兵部省の柳楢悦らとともに、シルヴィア号に日本側カウンターパートとして乗り込み、江戸湾周辺測量に参加した。ここで、シルヴィア号を通じて三角測量によ全国陸海測量事業に目覚め、小林は三浦清俊(才助)とともに陸地測量のための測量掛の創設を目指した。しかしながら、鉄道建設が始まってしまい、土木司はそのために人員と測量機器を貸し出し、さらに工部省発足と共に民部省もろとも明治4(1871)年に解体された。民部官/民部省時代の土木司測量掛は司内の試みであり、職制も予算も人員も規定されず、測量手法も未定だったから日本近代測量の創始とするのは間違い。

※注:土木司回議

IV. Survey and Mapping in the Survey Office, PW.工部省測量司の測量地図作成

IV-1. Proposal of Geodetic Survey.全国測地測量の提案

(1) 発端

・前述したように、イギリス海軍中尉水域測量局技官のウィリアム・マックスウェルは、1866年暮れ、イギリス海軍測量船シルヴィア号ブローカー艦長)に副艦長として乗り込み、極東水域を測量することになった。翌年暮れに横浜に到着し、公使ハリー・パークスの仲介で開港場を結ぶ航路を安全なものにするため、幕府海軍との共同測量を実施するはずだった。この時、マックスウェルは、エジンバラのスティヴンソン技術事務所が日本の灯台建設のために技術者を派遣することを知り、友人のマクヴェインに知らせた。マクヴェインとブランデルは副技師として、ブラントンは主任技師として採用になり、同事務所で技術研修を受け、1868年7月、横浜港に到着した。

・一方、将軍慶喜の大政奉還、それに続く鳥羽伏見の戦いがあり、シルヴィア号は幕府との共同測量を諦め、独自に瀬戸内海を経て長崎に至るの航路を水域測量した。1869年3月、病気のブローカーに代わりマックスウェルが艦長代理として横浜に戻り、明治政府と航海水域の共同測量を再交渉を始めた。この時の日本側カウンターパートは兵部省海軍部から柳楢悦、民部省土木司から小林一知らであった。彼らはシルヴィア号に乗船し、東京湾沿岸の実測調査を試行した。民部省、大蔵省、兵部省などの省務分担をを巡って明治政府は混乱しており、シルヴィア号との共同事業は1年以上も頓挫した。

・マクヴェインとブランデルは、1年後ブラントンのもとで働くことに限界を感じ、1869年9月、そろって燈明台掛を辞職した。ブランデルは半年後鉄道掛に転属したが、マクヴェインは、日本政府はまもなく陸海全国測量を始めるはずだというマックスウェルの言葉を信じ、ヴァルカン鉄工所を経営して日本に留まった。この鉄工所の近傍には旧幕府が創設した横浜鉄工所があり、新政府に引き取られると山尾庸三が横須賀製鉄所とともにその担当となった。マクヴェインは横浜製鉄所に出入りするようになり、そこで山尾と運命的な出会いをした。彼に全国測量事業の必要を説き、また、売りに出されていた機関故障の「太平(旧鯉魚門)」をブランデルらとともに共同購入した。

山尾は伊藤博文らとともに工部省発足に動き出し、1870年に自らの組織構想を『愚考』と称して大隈重信に建議した。その中で、全国測量をマクヴェインという人物に任せることを謳い、それは1871年10月20日(明治4年8月14日)に10寮1司体制の中に測量司として誕生した。測量司職制は「全国陸海測量」と提案したが、マクヴェイン自身、自らの任務は5-6年の間に三角法に基づく測地測量を実施できる日本人測量師を育成することにした。これはマクヴェイン一人ではできることではなく、ダンダス事務所やヘブリディーズ測量で一緒だった友人知人らに協力を求めた。

・大蔵省土木司が工部省所管となったが、1871年12月にはもとの大蔵省に戻った。この理由は定かではないが、工部省にとってのインフラ整備は鉄道建設であり、道路・河川・港湾・灌漑などの他のインフラ整備に関心を持つ官僚がいなかったことが理由であろう。しかし、大蔵省土木寮には幕府時代から測量に対して熱い思いがある人物たちがおり、その後、測量司と衝突することになる。

※注:工部創設再考

山尾庸三『愚考』、日時は18日とあるのみ。ⓒ早稲田大学大隈文庫

山尾庸三

大和屋敷のマクヴェイン一家

村田文夫

室田秀雄

シャボー

江戸城、1872年ⓒMVA

測量司標旗。@国会図書館。旗は三角測量を、棹は測量棒をイメージ化した。

江戸城富士見櫓1872年

江戸城富士見櫓2017年

(2) 人員と機器Staffs and Instruments

 ・マックスウェルはイギリス海軍からニューファウンドランド測量の指揮を任され、1870年早々日本海域から離れた。マクヴェインは自らの補佐役に鉄道寮からジョイナーを誘い、山尾は肥前藩士の松尾辰五郎を工学寮助兼測量司助に、イギリス留学経験のある村田文夫を工学寮権助兼測量司権助に採用し、最初期の執行人事とした。その下に鈴木重実、赤川克一、秋吉金徳らの日本人技官がおり、彼らはもと幕臣であったらしい。山尾の下で、みな工学寮と測量司を兼務した。

日本人測量師育成のために、キングス・カレッジの学習経験のあるジョージ・イートンとライマー・ジョンズを測量学校教師として雇い、実地指導のためのイギリス人熟練技術者を数名雇うことにした。測量学校で1年の理論教育、その後4-5年の実施指導を行うことで一人前の測量師を育てることにした。

・1872年2月に測量学校を開校させると、実地指導の人員の雇用と、本格的測量観測機器の購入のために半年間の一時帰国を山尾に申し込んだ。しかし、工学校校舎建設、銀座日本橋焼失地区再開発案作成、旧江戸城一帯の測量などと緊急の用事が重なり、山尾から順延を言い渡された。

・インド植民地ボンベイ公共事業局技師長の親友コモス・イネスから数名の技師を派遣してもらい、自らの伝でイギリスから数名の技師と建築家を雇うことにして小弁務官の鮫島尚信に彼らの雇用契約と諸手当の支払いを頼んだ。

・当座必要となる測量教育と実地指導のための機器は揃えられたが、本格的に測地測量と気象観測を行うための機器はレーン・クロフォード商会横浜店から入手できなかった。

・1871年10月測量司発足時人事;山尾庸三(測量正)、マクヴェイン(測量師長)、ジョイナー(師長補佐)、松尾辰五郎(測量助)、村田文夫(測量権助)、鈴木重葉、秋吉金徳、赤川克一他が日本人技官

・1871年12月人事異動;山尾が工部少輔に昇進したことにより、松尾が測量正に昇任。

・1872年2月測量学校開校;第一期生(有給見習)の入学

・同年5月松尾死去後の人事;河野通信(かわのみちのぶ)が測量正に、室田秀雄が測量権助に新たに採用。

・同年10月頃人事;館潔彦の採用。

・同年11月測量学校第一期生の修了。

・1873年2月測量学校二期生の入学。


(3) 測量司の成果Achievements of Survey Office】

・鮫島がパリからロンドンに来る機会に会わせて、チーズマン、クラセン、スチュワート、ボアンビルが雇用契約を結び、彼らは1872年10月から年末にかけて着任した。シャボーには鮫島に代わって器機の購入をお願いしたが、彼を日本に誘うことはなかった。彼の年齢と家族の状況を考えてのことだと思われるが、シャボーはチーズマンとクラセンらの待遇を知ると明治政府雇用をマクヴェインに無心した。鮫島はシャボーへの送金に手間取り、1872年暮れになってシャボーがやっと受け取り機器を購入し、翌年3月に日本に到着した。測量学校にとって必要なものあったらしい。

・一時帰国は、3度も順延になっていたが、1872年12月に山尾から測量正の河野通信と研修生の小林八郎を伴って、翌年3月に一時帰国する許可が下りた。河野の手違い、機器製造の遅れ、関係機関からの返事の遅れなどがあり、すべての目的は果たしたが帰国は5ヵ月遅れてしまった。マクヴェインをこの精密器機を自分の手で受け取り確実に荷造りして、ロンドンから発送した。この期間中に、シャボーの任用契約を完了し、また王立天文台で金星日面通過観測の指南を受け、さらにスコットランド気象協会と協力協定を結んだ。

List of Commissioners and Foreign Staffs in Survey Office, 1871-1876.工部省測量司〜内務省地理寮量地課の課長と外国人技官一覧

山尾庸三、松尾辰五郎(清慎)、村田文夫(野村文夫)、河野通信、村田秀雄

V. Survey Office in Ministry of Home Office内務省の測量

(1) Absorption of Survey Office by Home Affairs.測量司の内務省移管の目的

●大久保利通案

大久保利通文書

790内務省職制章程案明治7年正月

【按】内務省設立ニ付キコレカ職制等ヲ規程シテ三条公ニ上シルモノナリ

内務省職制及事務章程

凡官ニ職制アル以テ其権限ヲ知ルヘク務ニ章程アル以テ其統紀ヲ明ニスヘシ於是諸官職挙ヲ奉シ各課程限ル守テ政治綱目並挙條理秩然タルヲ要ス。

第一條 内務省ハ国内安寧保護ノ事務ヲ管理スル所ナリ

第二條 省務ヲ支分スル者

勧業寮 警保寮 戸籍寮 駅逓寮 土木寮 地理寮 測量司 記録課 庶務課

第三條

第一 本省各寮司ノ

第二 全国人民ノ安寧

第三 特旨解赦恩典ノ事アルヲ奉行ス

第四

第四條 戸籍ノ法

第五條 貧院病院ヲ創建

第六條 賞典ノ制

第七條 農業学校並勧農会社

第八條 州郡ノ

第九條 各地方廳

第十條 地方官廳

第十一條 寮司ヲ廃設シ

第十二條 奏任以上

第十三條 道路川海堤防橋梁修繕ノ事務

第十四條 内外形乗船規則

第十五條 三輪法則

第十六條 官員ヲ増減スル事

第十七條 国内取締ニ関スル

第十八條 全国ノ記録ヲ保存スル事

第十九條 古跡ヲ保存スル事

第二十條 郵便回漕ノ事務

第二十一條 演戯遊観所取締

第二十二條 定規アル賞典

第二十三條 成規アル

第二十四條 金券発行

第二十五條 帰籍没籍及棄児養育等

第二十六條 村市ノ経界及田畑山林原野

第二十七條 田畑山林屋敷値ヲ廃シ

第二十八條 非常ノ災変ニ由リ

第二十九條 災変ニ遇ス窮民

第三十條 生理ヲ安寧

※以上の職制の中に測量司の独自の任務はなく、地理寮や土木寮の他の部局からの求めに応じて測量を担うことだけであった。

●伊藤博文案

内務卿専任ノ事務(伊藤博文文庫)

一 農工商ノ業ヲ勧允法則ヲ施行スル事

一 郵便回漕ヲ掌ル事

一 道路川河ヲ修理スルノ法則ヲ施行スル事

一 山林ニ関スル法則ヲ施行スル事

一 民口取調ノ法則ヲ施行スル事

一 州郡村ノ境界ヲ明カラニスルノ法則ヲ施行スル事

一 緣戯及諸遊観場ヲ開ラク許可シ之ヲ監督スル事

一 慈恵ノ建設ヲ指揮シ及ヒ之ヲ監督スル事

一 善行ノ褒賞ヲ行フ事

一 古蹟ヲ保存スル事

一 全国ノ記録ヲ保存スル事

一 国内ノ取調ニ関スル法則ヲ施行スル事

一 社寺ヲ支配スル事


内務省職制及び事務章程

第一條 内務省ハ国内安寧保護ノ事務ヲ管理スル所ナリ

第二条 省務ヲ支分スル者

戸籍寮 勧業寮 警保寮 土木寮 地理寮 駅逓寮 記録課 庶務課

第三條 

※以上の組織案の中に測量司はなく、少なくとも伊藤は測量司移管に否定的であった。

●大隈重信案

大隈文庫

内務省所管六寮

二等 警保寮 地理寮 戸籍寮 土木寮 駅逓寮

三等 勧農寮

卿職制中

邦内人民ノ安寧ヲ計リ地方ヲ警備シ全国ノ地理ヲ明シ戸籍人口ノ調査堤防橋梁ノ修築駅逓郵送ノ便ヲ通シ開墾及牧場ノ便否ヲ較計スル等総テ其掌管ノ事務ニ於テハ

※以上の組織案の中に測量司はなく、伊藤と同様、測量司の移管に否定的であった

●以上三案を比較検討すると、大久保は地租改正と地方開発を貫徹するために測量を必要としただけで、測量司に自立した任務を付与しなかった。すなわち、全国測地測量を遂行しようとは微塵も考えてはいなかった。大隈と伊藤の案では、大久保が必要とする測量は土木寮内の人員で事足りると考え、工部省に測量司に留めようとした。

内務省章程大久保案:測量司を入れながら、その職制は明記されなかった。国立公文書館蔵

大隈重信案:測量司は含まれず。国立公文書館蔵

伊藤博文案:測量司は含まれず。国立公文書館蔵。

●内務省職制及事務章程

明治七年一月九日 内務省ヘ達

其省中寮司左ノ通被置候條此旨相達候事 内史本課主主査 内務

第一号内務省中寮司左ノ通被置候此旨布告候事 一月九日内務

一等寮 勧業、警保

二等寮 戸籍、駅逓、土木、地理

一等司 測量

内務省中左ノ通被設置候事

勧業寮 一等寮 農工商ノ業

警保寮 一等寮 国内ノ取締

戸籍寮 二等寮 戸口取調

駅逓寮 二等寮 郵便

土木寮 二等寮 道路川河ヲ修理

地理寮 二等寮 地方郡村ノ境界ヲ明ニ、山林及ヒ官有地

測量司 全国測量ノ事ヲ掌ル

記録課 全国ノ記録ヲ

庶務課 慈恵ノ建設


大蔵省ヘ達 七年一月九日

其省中戸籍土木駅逓三寮及租税寮中地理勧農の事務内務省へ可引渡

工部省ヘ達 同日

其省中測量司内務省へ

胸部省へ 同日

其省音楽歌舞ノ事務内務省へ

司法省へ達 同日

其の省中警保寮内務省へ

内務省へ達 同日

別紙ノ通大蔵省胸部省省工部省司法省へ相達候


内務省へ達 七年一月十日

其省職制並事務章程相渡候條此旨相達候事

内務省事務章程別紙ノ通被定候ニ付テハ其省職制章程追テ改正ノ上相渡候迄ハ右ニ関係候箇条ハ都テ取消候儀ト可相心得此旨相達候事

内務省職制及事務章程

第一条

第二条 勧業寮 警保寮 戸籍寮 駅逓寮 土木寮 地理寮 測量司 記録課 庶務課

第三条

第四条 戸籍

第五条

●その後の大久保

・明治7年2月14日、東京出立。同年4月24日帰京、木戸孝允内務卿代理

・同年4月29日、東京出立長崎、5月15日帰京、伊藤博文内務卿代理

(2) 土木寮職員の合流

・1874年1月から4月まで大久保は佐賀の乱の鎮圧に忙殺され、同年2月に内務省事務章程は閣僚の議論なしにほぼ大久保案が採用された。おそらく、伊藤、大隈、山尾から測量司移管を反対され、また、土木寮技官からも提案があり、否応なしに測量司に独自の任務を規定することになったのであろう。事務章程には測量司の任務を「陸地測量を執り行う」と明記された。

・同年2月3日、事務章程承認とともに土木寮から測量技官が測量司に合流することになった。


(3) マクヴェインの帰任

 1874年5月にマクヴェインはシャボーに測量部門を、ジョイナーに気象部門を、そしてバージェスに測量学校を任せるという構想を抱えて1874年5月に帰任した。しかし、測量司は工部省から内務省へ移管されており、そこには旧大蔵省土木寮の技官らが参入していた。彼らは測量司の主導権を奪おうと、マクヴェインと反目し嫌がらせをする一方で、シャボーを自らの陣営に引き入れることに成功した。マクヴェインは業務上はシャボーとの関係を維持し、自らの任期である1876年10月までにイギリス人測量師による「関八州大三角測量」を通して日本人技官に全国測地測量のエッセンスを伝えようとした。部下の任期は1875年10月-11月に切れるために、マクヴェインは内務卿大久保に彼らの一年雇用延長を申し出た。しかし、大久保は測地測量事業を全国展開するより重要地域の測量(要地測量)を優先することを決め、緊縮財政の中で御雇外国人の任期延長をしないことにした。マクヴェインは部下がいない状態での関八州大三角測量の実施は困難として、大久保に部下の任期満了とともない早期退職することを申し入れた。シャボーはまだ任期を一年近く残していたので、任期満了の1876年9月まで残った。既往研究では内務省測量事業において最後に残ったシャボーの貢献が注目されてきたが、その事業の創設から一貫してマクヴェインの献身的な貢献があった。測量学校一期生と二期生は大変優秀で、半数ほどが工部大学校土木学科へ入学し、海外留学したり、明治の指導的技術者になった(南清、小林八郎、小川資源など)。

・1874年1月9日に測量司を工部省から自らの内務省に移管させながら、大久保は1年半後には要地測量に重点を移してし全国測地測量をあきらめてしまった。そんなことをするのなら、なぜ大久保は山尾の手から測量司を奪ったのか、大久保と杉浦譲の科学技術に対する見識の無さが露見したと考えられる。マクヴェインに続きシャボーが内務省から去ると、量地課(量地局)は大久保から指示された地域の三角測量に出向くだけの組織となり(野蒜、敦賀など)、最後は気象観測を残して国土測量事業は陸軍に吸収されることになる。館潔彦の記録は眉に唾を付けて読むべし。

チーズマン、スチュワート、クラセンの送別記念写真、1875年12月の撮影、大和屋敷(葵町)の量地課事務所中庭。Commemorate Photograph of Retirement of Cheesman, Stewart and Klassen. ⓒMVA. December 1875 at the courtyard of Survey Office, Aoi-cho (Yamato Yashiki).

同左写真人物の比定Identification of figures in Photograph right.

VI. Survey Division under Geography Department.地理寮量地課

(1) Scale-down of Survey Function. 測量業務の縮小

・1874年8月30日、測量司を廃止し、量地課を地理寮の下に置く。


(2) 

(3) 

(4) 事務章程改正、全国測量、要地測量、緊急測量

・1875年3月地租改正事務局設置、総裁大久保、御用係大隈、三等出仕松方


VII. Fruits of Survey Office測量司/量地課の成果

(1) 銀座・日本橋焼失地区測量と再開発計画Ginza-Nihonbashi Survey after 1872 Fire and Its redevelopment Scheme.



(2) 旧江戸城及びその周辺の測量Survey of Former Edo Castle Site and Surrounding.


(3) 元線測量Survey of Base Lines

-1. 東京府下Tokyo, executed by Cheesman and Klasen, December 1875.

・1872年6月頃にハーディの担当で着手したが、ハーディの病欠(職務怠慢)のために遅れ、1874年暮れ頃にチースマンとクラセンの手によって完成した。1875年7月の内務省庁舎火災のため焼失し、同年10月から再測量し、12月に完成させた。

1875年12月チースマンとクラセンにより完成、国会図書館所蔵

-2. 神戸・大坂Kobe, Osaka and Kyoto, executed by Robert Wilson, and completed in May 1875.

・1874年3月大坂事務所開設が発議され、4月から村田文夫の指揮の下でロバート・ウィルソン(大坂)、マッカーサー(京都)の担当で始まった。村田と室田が2-3ヶ月ごとに交代し、日本人技官数人も駐在した。

・1874年5月16日マクヴェインは一時帰国から戻ると大坂事務所に出向き、ウィルソンとマッカーサーの作業を確認した。

1875年5月ウィルソンの謹測、国会図書館所蔵

マクヴェイン日記における三角測量の神戸基点、1874年5月30日

-3. 京都Kyoto, executed by firstly McArthur, completed by October, 1875

大坂事務所(村田文夫所長)の下で、これは1874年4月からマッカーサーの担当により始まった。10月頃、マッカーサーは誤りを犯した日本人助手を公然叱責したため、本庁にいた小林一知や三浦省吾はこれ対してイギリス人技術者を排斥する文書を杉浦譲にしたためる。見習であった正戸豹之助も同席していたはずでるが、彼の記録には何も記されていない。この叱責事件後もマッカーサーは契約満期の1875年4月まで業務を続けているので、三角測量完了し、測量図面もおおよそできあがっていたと思われる。しかし、国会図書館に所蔵されている図面には実測者にマッカーサーの名前はなく、日本人技官によりメートル法によって作成された。マッカーサーの業績は消され、日本人技官によって書き直されたと考えられる。

基点は、清水寺、六角堂、東福寺あどとあるが、清水寺仁王門基壇上のものしか確認されていない。

・説明には「明治8(1875)年内務省地理寮により英国の測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために設置された基準点です」とあるが、「工部省測量司を引き継ぎ、内務省地理寮はイギリス技術者の指導を仰ぎ、1874年4月に京都測量を開始した。市内16箇所に三角測量基点が設置され、これはその標石の一つです」というのが正しいと思う(2022年11月15日加筆

1875年10月浅野永好他の謹測、国立国会図書館所蔵

説明書きDescription.

三角測量基点標石Base Stone

-4. 横浜Yokohama by started by Joyner and Wilson first in October 1872, completed by Kobayashi Kazutomo in May 1875.

・これは1872年5月にジョイナーとウィルソンによって始まったが、旧江戸城地測量のため一時中断。年10月に再開し、1873年暮れには完成していた。翌年2月に測量司に合流した旧土木寮技師の小林一知らが引き継ぎ完成させた。メートル尺になっていることに注目。

【関東三角測量(関八州大三角測量)Geodic Survey of Kanto Area】

(1)準備Preparation

・1872年2月にマクヴェインが山尾と測量司における外国人職員の役割を日本人測量士を育成し、彼らに測地測量の経験をさせるためとし、5-6年間の任期の最後の1-2年を関東地域測量に当てた。

・1875年6月に関東三角測量が開始された。大久保はこれをもって全国測地測量事業を止めようと考えていたが、小林一知らはそれを知らなかった。

・マクヴェインはシャボーを担当に任命し、一緒に元線Base Line測量の選定に入った。が、同年7月7日、量地課の入った内務省庁舎は全焼してしまった。

Fig.8. Map of 13 Countries Around Mt. Fuji, c.1850. This map was prepared by Shogunate surveyor, and utilized as reference for triangular survey of this area by McVean.富士見十三州輿地全図。マクヴェインが関八州大三角測量のために入手したもので,主要地名に英語が併記されている。ⓒMVA

(2)元線測量の選点Selection of Survey Points along Nikko/Nasu, Oiwake/Mt.Asama, and Fujisama Baselines.

・1875年7月に資料と機器が焼失してしまい、同年10月に作業を再開した。選点のために同年10月から11月に掛けて北方(日光那須ライン)、西方(追分浅間山ライン)、南方(箱根ライン)に出張旅行した。東方ラインがなかったのは、そちらの平坦な地であり、訓練にはあまりにも容易であったためと考えられる。

1875年10月から11月にかけてのマクヴェインによる元線測点選定の旅行Trips for Selection of Survey Points for baseline survey.

1876年9月頃、シャボーから指導を受ける大川道久。大川らはマクヴェインからもらったスコットランド・ボンネット帽をかぶっている。Scence of Guidance by Sharbau. Ohkawa wears Scottish Bonnet given by McVean.

【測量司測量修技校Survey School】

・マクヴェインはライマー=ジョンズとジョージ・イートンを教師に雇入れ、1872年1月に測量司修技校を開設した。生徒たちは見習い扱いで、実習を兼ねて府下の三角測量事業にも参加した。最初の年は基礎課程、あとの2年間を実務課程とし、課程修了後に任官となった。初年度にい6名、2年目に5名ほどが入学し、少なくとも5人が工学寮工学校に進学してしまった。工部大学校土木学科の過半数が測量司修技校出身者であった。1年目の最優等生は海外研修の機会が与えられた。

・小林八郎

・南清

・佐伯

・小林

・小川資源(三井資源)

VI. 資料及び既往研究PREVIOUS STUDY AND REFERENCE

6-1.  既往研究測量関係Existing Studies

(1) 大村齊「本邦測量事業の回顧」、1957年

--大村齊(おおむらひとし、1876-1964)は陸軍士官学校を出て、1924年から陸地測量部長を勤めた。一次資料を開示しておらず、工部省及び内相時代の業績については信憑性は乏しい。

○明治11年陸軍省参謀局廃止して参謀本部となり,其の編成下に測量課と地図課を置ぎ,明治12年工兵少佐小菅智淵測量課長が任に就いたが氏は此の時すでに日本全国測量に対し遠大なる意見を有し,次の如き意見を具申した。其の所論まことに肯綮にあたり其の着眼亦実に敬服に値するものであり,蓋し我国測量事業決行の根元をなすもので今其の一節を抜率する。

○夫れ測量は兵家の要務にして強国の基礎なり之を分つて二種とす三角測量及細分測量とす之に因つて成る所の図を国郡図及地理図と称す此二者は軍旅の脈絡戦略の智脳なり荷も之を有せざれば勇敢なる将卒ありと錐も焉ぞ克く勝を千里の外に決せんや故に図の精粗は国の強弱に関す寛政12年幕府伊能忠敬をして国図を製せしむ然るに忠敬死して之を継くものなく其他各般の図ありと錐も取るに足るものなし

○是兵勢大に関する所にして皇国の欠点なり故に速成の法を設け泰西併立の図を製せさるを得す幸にして智淵意外の寵春を蒙り今此大任を辱うす焉んぞ死を以て弾さざるを得んや故に肝胆を披いて所見を陳述す。

1. 測量の区分三角測量は測量の基部たるを以て細部測量の器械と相反し精細且至良なるものを要す是れ精密の器械を用うれは測量の誤差少くして其成果迅速なればなり故に其経費の損失は器械高価の費用に数倍するものとす此れ地図の良否は皆之の基部の良否に関するものなればなり而して器材の撰択施業法の如きは最善一定の法を設立し教法と範則を定めて之を頒与し且教導し然る後実地に従事せしむべし。

2. 製図の目的全国図を製し併せて軍務の要件を調査し国の防衛を確実にするに在り。

3. 製図の成期[創業の目より10年とす。

4. 製図の費用三角測量に4百万円細分測量に6百万円と概算す。

5. 三角測量の区分三角測量斑を20箇とし全国に分配し三角点を定めて測量し永久の目標を造る。

6. 細分測量施業の区分全国を分つて7測量区とす6管区及北海道なり各40班(400方里)及北海道60班(600方里)とす故に300班を要す。

(註・第7乃至第9略す以下項を略することあり)

10. 製図の梯尺及等距離三角測量図は1万分1細部測量は2万分1等距離を十米とす。

12. 三角測量及製図基線を撰定して之を測量し漸次に目標を設立し大小の三角を構成して之を測定し其成果を検し手簿を禦して之を製図し永久目標を定む。

14. 三角測量図及細分測量図の集合。三角測量班は毎年1回皆測量課に帰て10ヵ月間製する所の測量図を集合整理し兼ねて細分測量殴を整理す又細分測量の班長は毎月1回完成する処の素図を集合し毎年1回測量課に会して10ヵ月間製する所の素図を集合して之を三角測量斑に送附す。

17. 集合製図及刻版三角測量図及細分測量図の完成に随い,測量課に於て之を集合減縮し瑞西国郡図に倣い直斜両光線の輩浴法を用いて之を製図し逐次に之を銅版に刻す此が為一定法則を定む。

○以上小管課長上申の原文を列記せるが此の原文を見ても,当時既に国土測量の根本原則を逸せず測量の方式用語概念手段と順序等実に今日といえど殆んど異るなき着眼に驚かざるを得ず,然るに此の大意見は参謀本部長山県中将(後の元帥)いたく賛意を表したが,如何せん国家予算は此の彪大なる支出の能力なく終に縮小したる第二の意見を具申する事となれり。其の要点は支出可能額を年々20万円と概定し,三角測量5班又細分測量を48班とし班員を鎮台兵員にて補い極力経費の節約を計る一方測量法に改変を加え,只施業の一貫一致を求むるを最大要件とした。即ち小管課長は「施業同じからざれば其の成果随て同じからず之を集会するに至つて合一せず不定の地図を製するに至る是れ実に図の精度を失うのみならず其の成果終に濫費を免れざる者とす。故に範則を定め各班に頒与して懇に教導し之を演習せしめ毫も彼此の差なく一点の私流をはさまざるを見て実施に従事せしむべしと」。

○以上幾多の意見が採用せられ明治13年より本格的に全国作業に着手したのである。当時発布せる測地概則は小管課長の心血より成るもので陸地測量最初の典範であつた。街お此に伴う測量軌典は仏国砲工学校に於ける小地図学により我国の地形に験照し課員関工兵大尉の編纂に成り,図根測量,砕部測量,絵法,集成法等を詳述した当時唯一の地形測図教科書なると同時に,地形測図の法式図式を兼ね所謂我邦13年式地図と称する一時代を画し,幾多の起源を開いたのである.

○陸軍に於ける最初の三角測量は明治14年東京湾口で行われた。即ち此の測量は既に実行されありし図解的三角図根の精度を比較検定し同時に此の切要なる東京海門の関係位置を精則し又使用器材の精度を試験する意義を有するものであつた。当時の測定結果は角剰余は5,6秒を超えず各測靖の閉塞差亦2,3秒に過ぎず所要の精度充分にして平均計算を省略し球面過量を不問に附したと言うことであつた。又,タルコット法による緯慶観測を施行した結果鹿野山の緯度は北緯35度15分24秒とでて,後日明治36年6月万国測地学会の精測に比し僅かに0秒543の過少を見たのであつて其の精度は極めて高いものだつた。

○次に陸軍に於て最初に基線測量を行つたのは明治15年である。此の基線測量は二等三角測量の計算に資する為相川相模野より出行して富士山麓西方に蓬せしむるもので此の頃迄内務省にて施行されつつある一等三角網の進行は計算に手間取れ人員少く容易に軍部の要請を蓬し得ざりしによる。

○蓋し内務省側も之を認め終に明治17年内務省実行中の大三角測量を挙げて之を軍部に移し一元化するに至る勇断とす,一方陸軍側は此の挙により多数の精良なる外国器材を統合入手せる事に非常な満足を表した程であつた。併合した内務省大三角測量とは次の様な経緯によりしものときく。

○明治開明に伴い測地を国家の急務とし明治2年首都の入口である東京湾の測量横浜薪市の開設東京横浜間鉄道の測量東京銀座街煉瓦道の築設に伴う本格的測量技術の採入となる。然るに官未だ器械を有せず偶々池田浜五郎なる人松平確堂翁が経緯儀一器を愛蔵せると聞き,乞うて之を借受使用せり。

○次で明治4年東京府測量の事起り同4年以降英人数名を聴し測量術を講ず。明治4年工部省に測量司を置く明治7年測量司を内務省に置き間もなく之を廃し測地課を同省地理寮に置く,明治8年5月関東八州に大三角測量を行う為地理寮官員並に傭外人を各地に出張せしめた。

○明治9年武総磐代陸前地方に水準標石を埋設し1等水準測量を行う。新くて明治11,12年の頃大三角作業進行す。其始めは英人へンリー・シャンボー邦人官永荘正,三浦省吾外2名にし測量は進行するも爾後其計算平均等之に伴わず明治17年陸軍測量の進行に便する為挙げて之を陸軍に移す同時の器材人員亦之を軍部に移す。

○時に参謀本部条囲の改正あり新に部内に測量局を設け三角測量,地形測量,地図の三課を置き,初代局長に小菅中佐を又新に独乙留学より帰朝せる田坂大尉を三角課長に関少佐を地形測量課長に早川大尉を地図課長に任し,事実上自主的の存在を実現した。

○次で明治21年参謀本部に直属する独立官庁たる陸地測量部が誕生し小管工兵中佐初代部長となる。此の長以下三課長は我邦測量界の専門的権威者の揃にして稀に見る人事なり。本邦測量事業の将来は実に此の時を以て約束せられたとするも過言にあらず。

○此の年12月不幸にも測地巡視中の小管部長は卒然病疫に罹り名古屋陸軍病院に卒去殉職す。(当年流行の虎列刺か?)大佐は静岡県の人沼津兵学寮に学び少壮開成所に入り工兵隊の創設築造局の出仕等に関与し測量の事に従う。

○参謀本部測量課長就任以来其の抱負と満腔の熱誠を以て拮据経営夜を口に継ぎ上に献替下に扶抜する十有余年全国測量の方針を案し,内務省地理局の大三角事業を併含して測量局を大成し終に陸地測量部創立を全うす。

○大佐宿昔の企画実現し将に大に発展せんとするに際し作業巡視の途次時疫の冒すところとなり遂に起たず。計報東京に到るや部員皆黙然として声を呑む,後年有志酸金して一基の銅像を芝公園丸山山下に建て永く高風を礁仰すと謂う。


(2)  斉藤敏夫・佐藤洸・師橋辰夫「明治初期測量創始試論」、1977年

・庶務司は明治2年(1869)4月に民部官の設置のさい設けられ、その中に戸籍地図掛がおかれた。この事務はそれまで行政官又は会計官が取扱っていたもので、明治元年(1868)12月、行政官は次の沙汰を府県に出している。「先般府県管轄之地図差出候様相達候処府県限リニテハ碇ト難取調儀モ可有之依テ各藩領地飛領地共一円最寄府藩県示合早々取調差出候様相達候問其旨相心得夫々示合取調候様御沙汰候事但大凡一里一寸之見図リヲ以テ云々相達候得共小図ニテハ不分明之儀モ有之候間一里三寸之割ヲ以テ図取可致事」

※これは庶務司が測量地図作成事業を始めたという文書ではない。そもそも廃藩置県以前に「府県」にだけに庶務司がこの達を発っすることがあるのだろうか。あったとしても単に「管轄之地図差出」すように指示しているだけである。政府は領土確定、国土管理、土地税確立のために測量地図を必要とするのは当然であるが、測量地図作成事業に乗り出すためには組織体制と機器装置の装備が必要であり、それが語られていないので、実施されなかったと考えられる(2020年10月22日追記)。

・地理司は明治3年(1870)7月に新に設けられ、「全国地理戸籍人員地方石高社寺物産調ノコトヲ掌管ス」21)ることになり、測量掛、図籍掛、戸籍掛をおいた。測量掛は「全国ノ経緯山川江湖海岸島嶼ノ位置ヲ詳ニシ府藩県管轄地ノ経界州郡村市制置ヲ審ニシ周囲広袤ヲ測リ四方寒温ヲ検シ面積ヲ積算シ実測ノ図籍ヲ製ス」ることに定められた。

6-2. 第一次資料PRIMARILY SOURCE: 公文書Public Records

・幕末から明治初期にかけての科学技術関連資料は非常に乏しい。

(1) 民部官・民部省・大蔵省の公文書Public Records of Civil Affairs and Treasury, 1869-1871.

・工部省測量司発足以前、民部官、民部省、民部大蔵省、大蔵省において測量部門は存在していた。しかしそれらが何を目的にし、どのような体制であったのかは不明な点が多い。こちらでは「量地」と名付けられ、文字から分かるように戸籍や地籍を確定するためのLand Surveyを目的にしていたようだ。

-1. 土木司回議留・自明治二年至明治四年

※明治7年1月9日に測量司が工部省から内務省に移管され、それ以後、大蔵省土木寮の測量関係者が過去(民部官及び民部省時代)の公文書をまとめ、これを根拠に2月3日、測量司に大蔵省土木寮測量部門が合流を果たすことになる。いうなれば、測量司合流のために過去の試みや実績を示す記録をまとめ上げ、これを内務卿大久保に提示した。内容は、民部省時代に測量部門を立ち上げていたが、鉄道建設に重点が置かれたために、人員や測量機器などがそちらに取られ、何故実施できなかったというもので、その中心にいたのが小林一知や三浦省吾であった。


(2) 工部省公文書PUBLIC RECORDS of Public Works, 1871-1874.

-1. 山尾庸三「愚考」"My Silly Consideration by Yozo Yamao." 大隈文庫、早稲田大学図書館蔵OOKUMA ARCHIVES AT WASEDA UNIVERSITY LIBRARY

この愚考により明治政府に工部省を創設し、その一部門に日本の国土(陸海)測量を実施する測量司設置が提案された。工部大丞の山尾庸三大隈に提案したもので作成年月日は十八日とあるのみであるが、明治3年10月20日に工部省建置が決まったことを考えると、明治3年10月18日の可能性が高い。

-2. 太政官文書明治4年辛未9月24日「今般府下測量ニ付本丸跡ヘ気象取建候ニ付」

-3. 太政官文書明治4年辛未「今般府下測量司官員各署出張市街田野ヲ不論事業関係緊要ノ場所」辛未11月2日工部省正院御中

※より詳しい工部省とその測量司に関する公文書については、拙稿「工部省創設再考」を請参照。


(3) 内務省公文書PUBLIC RECORDS of Home Affairs, 1874-1881.

-1. 太政類典明治七年一月五日:内務省寮司ヲ置ク

-2. 太政類典明治七年一月九日:内務省他省ノ寮司及事務ノ内引受

-3. 太政類典明治七年一月十日:内務省一等寮勧業警保二等寮戸籍駅通土木地理一等司測量

-4. 公文録明治七年二月三日:内務省土木寮芸員測量司ヘ設置等級等ノ儀伺

-5. 公文録明治七年三月十八日:土木寮並測量司芸員級並月給表

-6. 官符原案明治七年五月:測量司被廃地理寮中ヘ正院地誌課合併ノ事

-7. 太政類典明治七年七月二日:内務省新築ニ付買入品

-8. 太政類典明治七年七月二十日:測量助長ジョイネル雇継

-9. 公文録明治七年八月七日:内務省測量司製図場新築

-10. 太政類典明治七年八月三十日:内務省其省中測量司被廃地理寮へ量地課ヲ置キ内史所管地誌課ヲ同寮中へ合併候條此

-11. 太政類典明治七年八月三十日:内務省地理寮技術等級並月給表

-12. 太政類典明治八年二月十九日:内務省雇外国人明細簿

-13. 太政類典明治八年三月廿五日:内務省伺英人シャーボー手当金

-14. 太政類典明治八年七月:内務省中火ヲ失ス、当省内寮局昨午後第十二時出火ヨリ本省ノ外部ニ属シ送料四建物ニ延焼シ今晩第三時マテニ鎮火、地理寮 天保郷帳全国及別帳其他帳簿類並ニ地理山林ニ属スル書類悉皆焼失

-15. 太政類典明治八年九月十八日:内務省炎焼ニ付仮庁営繕費

-16. 太政類典明治九年四月廿八日:地理寮雇英人マクウインニ残期

-17. 太政類典明治九年十一月十四:日地理寮雇英人シャーボー満期

-18. 太政類典明治十年七月七日:地理局雇英人ジョイネル満期解約

※工部省測量司は明治7年1月10日に内務省発足と共にそこに吸収された。「内務省の社会史」などの既往研究によれば、戸籍地籍の精確な把握のために測量が必要となったと考えられている。すると、内務省は測量を土地の面積と地目を明らかにする機関としてとらえ、それを越えた関心はなかった。同年2月3日に土木寮(旧大蔵省属)から測量技術者が移ってきて、さらに5月には、大久保によって地理寮との合併案が作成されたが、政治的混乱のため順延となった。人員は増えており、同年8月7日には測量製図場の新築が決まった。このような状況で、測量司は地理寮との合併ではなく、8月30日に地理寮付属の測量部門に改組縮小され、量地課と名付けられた。1875年7月に内務省庁舎は焼失し、当座仮庁舎に入ったが、すぐに新営工事が始まった。この時期にチースマン、クラセン、スチュワードらは3年任期の満期を迎え、延長されずに解雇が決まった。1875年暮、師長マクヴェインの任期は翌年10月まであったが、半年を残し満期短縮解雇が決まった。公文書からわかないが、外国人技術者解雇を画策していたのが旧幕臣技術者&官僚だった[大川保管文書]。シャボーは彼らに取り入って保身を計り[マクヴェイン文書]、契約延期が認められた(revised in July 17, 2019)。


(4) 大川通久所蔵の内務省量地関連文書『測量局沿革書稿』(沼津市明治史料館)Michihisa Ookawa's Collection, Numazu City Archives of Meiji Period.

--大川通久は大蔵省土木寮の技官で、1873年にオランダ人技師の木曽川調査に同行した。1874年2月3日に土木寮の測量部門が内務省測量司に合流を果たすと、そちらに移り、1879年頃迄の内務省量地課の事務書類や写真を遺した。1875年7月に内務省庁舎とともに地理寮事務所が火災に遭い、文書と器機が焼失してしまったので、大川は非常に希少な資料を遺した。マクヴェン日記と対照するために、同史料館の目録とは別に日付の早いものから並べ直してみた。

-1.  マクビーン建言写、 1874年9月14日

「マクビーン建言写

方今測量課之儀ニ付黙止難き致事情有 之左三条件貴下ヨリ政府エ御報知相願候

右ハ卒竟一途ニ事業進捗為致度微哀ニ出候儀ニ御座○得者若シ誤謬解被下○様ニ而者実ニ以ノ外ト奉依○得共既ニ拙者ニ職掌ニ羅在課中適宜ニ章程並ニ権威無き之ヨリ事業日々無謀ノ紛乱ニ相成度ヲ見請度而ハ仮令誤謬解ノ恐シ有之度而モ政府ハ無論拙者自身並用事之芸員ニ對シ何分防寒経過難情実有之不得止如是ノ次寸ニ立至リ候仕合是ニ而一應拙者之職掌相居シ○得ハ此後尚方今之通リ不当之章程相行レ○ニ○テハ拙者ハ事業之結果擔任申上兼度右章程之儀不顧嫌忌誰ヲ左躾駁申辻候。

第一ニ拙者一身並ニ拙者職分之儀ニ付申上度拙者之条約書ニハ拙者儀日本政府之奉任ヲ蒙リ向三ヶ年之間測量師長トシテ其政府ニ奉事致ス事ヲ約定ストノ文面有之○折測量師長トハ測量事業ヲ管理可致之職員コラ譬ヘハ政府ニ於テ其府県或ハ其地方ヲ測量可致事ヲ決定セラレ測量長官ヲ以テ其度ヲ命セラレシ以上其命令ヲ施行致(後略)

1874年9月14日 測量師長マクビーン 地理寮頭杉浦貴下」

※杉浦地理寮頭に対してマクヴェーンは自分の待遇と職務の確認を行っているので、「建言書」ではなく「質疑書」。量地課翻訳担当者の間違い。具体的には1874年8月30日付け太政類典「内務省:測量司を廃し地理寮量地課を置く」に対して、マクヴェインが自らの師長という地位の確認を行ったものである。「1873年3月に山尾庸三との間で結んだ契約が有効であるかぎり、私は測量師長として配下の技術及び事務職員を任用統括し、3年間で全国の測量の体制を整える任務があると考える。しかし、技術職員の中には私のこの立場を理解せず反抗するものがおり、所内の業務に支障を来している。(中略)国土測量事業には政府からの多大の費用と根気強い支援が必要であり、それはイギリスの陸地測量地図作成事業を指揮した「コロネル・コルビー」の業績が良く教えてくれる」、と至極真っ当な文章だと思われる。先の2月に合流した旧大蔵省土木寮からの技術員らによる反抗が続いていること、そして、測量司を廃止して地理寮量地課に改組縮小することへの不信感が背後にある。この時期の内務卿は伊藤博文だが、彼はまったく何もしなかった。杉浦は戸籍寮と条約改正掛の方に多忙で、測量には無関心だった。測量司では、河野退職後は村田が測量正を勤めていたが、村田は科学技術の知識は乏しく、また官僚としての能力は低く、測量司を杉浦配下の地理寮に格下げしようということのようだ。日本人による既往研究は、マクヴェインのSurveyor in ChiefやSurvyor Generalの地位を理解できておらず、マクヴェインは事業を順調に進めるために技術員の任用と配置の権限を持っていたことを知らない。従って、師長の認可なしに突然どこからか技術職員が加わったり、事業展開をすることはありえない。「人事が事業推進の要」ということである(revised in September 5, 2019)。

-2.  「今般英人マクビーンより差出候・・・」から始まる文書。1874年10月

「今般御雇英人マクビーンヨリ差出○建言書中難黙止不都合シ件ヲ相見○ニ付不顧忌請私共ノ見込左ノ申上候。

当寮御雇マクビーン儀ハ去る明治◇年初テ工部省測量司ニ於テ測量師長ニ御雇入ニ相成致得共同人之元末建築師ニテ量地専門師ニハ無キ昨年建築師ノ多少量地従事致候○ハ是又当然ニシテ度得共同人ノ如キハ量地ノ技術研究熟練ニシテ師長ノ技器有是トハ更ニ不奉存致彼レ専門是建築学術如何ハ○計○ヘトモ量地術ノ儀ハ同人御雇入以後ノ履歴

(中略)

量地ノノ学術ニ於テハ実地不案内致全国大三角測量ヲ施業スルノ目途不相立、寄一旦帰英ノ上更ニシャボーナル老練ノ技師ヲ推挙致シ度様ト推考仕候、右シャボー渡着シ来此程ニ至リ既ニ三ヶ年廃テ置○東京三角測量漸ク施業着手之様子相見ヘ且全国大三角測量モ追テ取調ニ相掛リ致様子に候。方今量地之手続進メ順序ト○リ長儀全テシャボー一身ノ力ト奉存致其他ノ英技師中ニハ殆シト吾カ技員ニモ劣ルヘキ者相見申候、依之是迄府下測量ニ○仕候。御雇外国人並我技術課ノ功程表一冊取調存御参考差出○御塾逡之上マクビーン建言書ト御照考本深之情然御考慮有之度○我量地課技力賜達ノ

(後略)

七年十月 小林一知 三浦清俊 宮寄正謙

※小林一知、三浦清俊、宮寄正謙の三名が上記マクビーン建言に対して異議を上司(杉浦)に提出した。「マクヴェインの測量司は1871年10月に発足し3年も経つのに何の成果も出していない。マクヴェインは全国測量に多大な費用が掛かり、政府から継続的な資金支援を求めることだけしかできないのは、マクヴェインは建築技師であり測量のことは素人で、何も知らないからである。われわれ日本人技術員は英人測量師の能力と何の劣った点はなく、かえって英人測量師の中には職務怠慢もいる」「マクヴェインは自ら全国測量を指揮する能力がないことを認め、英国から老練なシャボー氏を招いたのであり、この人物とならうまくやれる」という内容である。工部省測量司時代のマクヴェインのことは知らず、1874年5月になって師長として復職したマクヴェインに初めて会って、師長としての振る舞いに大いに反感を抱いたらしい。そもそも、マクヴェイン、チースマン、シャボーの三人が日本に来るようになったのは、海軍士官ウィリアム・マックスウェルの助言によるもので、シャボーは自分に都合の悪いことは小林らに語っていなかった。おそらく、旧幕府海軍士官と同じように小林もオランダ語を解し、シャボーと意思疎通ができたのであろう。

小林、三浦、宮寄に三浦省吾を加えた4名が反御雇外国人派Anti Foreign Partyの首謀者である。マクヴェインのことをよく知る館や大川はこの異議書には関わらず、三浦らと一線を画していた。修技校一期生(測量司見習い)で、マクヴェインを師と仰いでいた小林八郎や南清は測量司に残らなかった(July 27, 2019)。

-3. 「現今地理寮量地課ニ於テ」から始まる文書。日付なし(おそらく明治7(1874)年12月7日)

-4.  「今般聯𣵀考出張之儀マカーサーヨリ」から始まる文書。1874年12月7日 村田文夫及び室田秀夫宛三浦省吾文書

※(3)と(4)は同じ便箋に同じ書体でしたためてあり、-2.に関連し三浦省吾が一人で量地課の問題点を村田と室田の二人に上奏したものであろう。内容は、第一に全国大三角測量は必須の事業であるがその実施費用を概算すると膨大になるにもかかわらず、我が皇国財政は逼迫している。にもかかわらず、御雇い英人は高給を貪り、不遜で怠惰の者もいる。「師長マクビーンは頗ル其任に堪ヘサル事は局中各技員ノ紘ク知ル所ニシテ」「師長ノ器ナキ、マクビーン在職ニシテ全国測量ノ大事業ヲ施行セシメハ空シク実効ノ成期」いつになるか分からない。よって、洋人の雇用はシャボーを除いて満期退職とすべきであるというもの。-4.はマッカーサーによる京都測量の不手際を非難し、洋人測量士はいらないと述べている。「皇国」という言葉が数回出てきて、三浦らは数年前まで「忠臣」であったはずなのに、今は憂国の士という立場に酔っているようだ。マクヴェインは測量師長としての地位保全を大久保と杉浦に求めたが、回答はなく、反御雇い派(旧大蔵省土木司技員)はマクヴェインを師長として認めず、彼の指示を聞き入れず、さらに英人測量師と対立した。大久保と杉浦がマクヴェインの測量師長としての地位を認めると、反御雇い派は主導権を取れなくなってしまう。マクヴェインは、少なくとも自らの任期中に、御雇い外国人測量技師によって日本人技員を実地指導し、国土三角測量の体制を固めようとしたが、小林らは初めから自らが主導権をとることを主張した。シャボーはマクヴェインらの行動に同調せず、小林らにすり寄っていくことで保身を計った(July 27, 2019)。

-5. 全国測量並臨時測量之儀ニ付伺 明治8(1875)年4月27日

全国測量並臨時測量之儀ニ付伺

昨年一月測量司當省ニ御付属相成候、處用間御設以来全国測量盛大施行ノ目的ヲ以テ追テ外国人御雇入諸器ヲ購シ生徒ヲ教エ専ラ規模ノ拡張ニ従事シ既ニ四ヶ年ニ至リ現今ノ處、官員二十六人芸員百四十人御雇外国人十人。

官員芸員賃月給一ヶ年 三万七千一百〇円余

御雇外国人月給一ヶ年 金貨一万七千四千円余

洋銀一万四千八百弗余

其の他諸費一歳ノ総計 金貨九万八千六百円余

洋銀四万八千八百弗余

而シテ其一切ノ所東京府下朱引き内ノ測量及び東京横浜大三角而区ニ有之既ニ芸員モ十分出来致儀ニ付此際大ニ着手可致場合ニテ御雇外国人師長ヨリモ其既時ニ観測致シ場合共全国測量一時着手ニ儀ハ不用意時ニテ数十年ノ久キニ亘リ多分ノ入費モ相立候儀、殊ニ御雇外国人ニ任セ候一旦着手ノ上ハ如何様入費相嵩候、共中途度絶贅沢ニモ至リ当財改緩急ノ得失ニモ拘リ為雇継金ヒ一時束手被為在為共後来ノ奉公此際篤ト審議決定仕度上ニテ着手

(後略)

太政大臣三条実美殿 内務卿大久保利通 明治八年四月廿七日

※「当座の緊縮財政の状態で、御雇外国人を多数の雇用するのは困難になってきている。測量司は創設から4年も経っており、生徒の教育も進み、日本人芸員も育ってきているので、彼らに業務を任せたい。条約改正を進めるに当たり、石巻と下関の測量は緊急を要し、臨時測量対を組織したい」という内容。大久保から三条に宛てた文書。

-6. 八州三角測基線選定書 1875年5月

-7.  地理寮御傭測量師長英人マクビーンより別紙甲号之通申出候ニ付左之通 明治8(1875)年6月12日

-8. シャボー氏基線位置取極のための地方巡見の件 1875年6月24日 マクビーン

-9. 芸員手明之者処分方之儀

-10. 関八州大三角測量につきマクビーンへの達の件伺 1875年8月5日

-11. 関八州大三角測量決済につき担当綱領総括の件

-12. 杉浦地理頭建言乃原稿。明治8(1875)年9月、三浦省吾

これは下記建言書の下書きで、三浦省吾が作成し、その後、仲間のだれかが赤字添削をしたらしい。

-13. 「謹テ地理頭杉浦君貴下ニ」から始まる文書。明治8(1875)年12月17日 三浦省吾、宮寄正謙、三浦清俊、小林一知

※(2)と(3)と(4)と同じ文体であり、文意も作成者も共通する。「生簞笥モ技員ヲ辱フシソ能リ罪ヲ課長ニ帰シテ該課ノ哀頻ヲ黙視傍観スルニ忍ヒンヤ是即チ技術区全員ノ情実ニシテ」、「百般不条理ノ痕跡悉リ枚挙ニ難シ嗚呼今日其害ヲ除き其弊ヲ改メスンハ後末」などの文言から、関八州測量だけでも膨大な費用がかかるのに、高給取りの洋人を雇い、財政の悪化を招いている。それを黙認している量地課長(村田文夫)の責任は大変重いので、その処分を杉浦地理頭に訴えたものと解することができる。村田の方は1876年半ば内務省を辞して、文筆業を始めている。小林一知や三浦省吾らの「反御雇い派技官(旧幕技術者)」は同じく旧幕府官僚であった杉浦を大変頼りにしていたことが分かる。

-14. 測量目処之儀ニ付政院江伺書原案草稿

-15. 測地事業に関する建言草稿

-16. シャボー氏雇継ニ付考案

-17. 西亜保氏雇継ニ付考案

-18. 測量師長・量地課長の人選等につき意見書

-19. 御殿山金星測量建言書写

--1875年2月26日測量師長マクビーン 杉浦地理寮頭閣下

※1874年12月9日の金星日面通過観測に関する報告であり、太政類典に同じものと思われる。原口孝昭『明治4年金星・・・』が解説している(revised in January 7, 2020)。

-20. 昨八年十二月下野国那須西原ヲ以テ八州測量ノ底線地ト確定

※マクヴェイン日記にあるように、11月にマクヴェインラは那須日光へ踏査旅行を実施し、基線測量の三角点位置を選定してきたことの報告である。

-21. 今般関八州測量基線位置ヲ 1876年5月4日 杉浦譲宛てシャボー文書

「気象ヲ観測スル」という文言あり。

-22. 関東八州測量功程経費人名表 明治9(1878)年(23) 大三角測量ハ

-23. 陰暦陽暦曜日換算例題

-24. 四光儀(洋名ヘリオトローフ)


6-3. 二次資料Secondary Reference

--工部省と内務省の全国測量事業は、どちらも頓挫してしまったため、省内関連部局の記録は非常に少ないなかで、後年両省の関係者が事業を回顧した。記録では無く記憶をもとにしているため、多くの誤謬があり、特に明治7年(1874)頃迄の記述をそのまま信じてはいけない。

(1)  『工部省沿革報告』、1889年

※明治18(1885)年に工部省が廃止され、4年後に出版された。いまだ公文書は残っていたはずであるが、工部省は内務省発足と共に改組に迫られ、また牽引役だった御雇外国人らが退職するとともに散逸し、記述に多数の誤りがある。工部省外にはじき出された土木寮と測量司についての記録は工学寮の付録とされており、まったくもって貧相で、さらに誤謬が見られ、たいへん残念である。

23頁明治5年

五月三日工部大丞兼燈台頭佐野常民工部省三等出仕ニ補シ燈台頭ヲ兼ヌル故ノ如シ。

五月二十五日工部三等出仕佐野常民ニ墺国博覧会理事官ヲ兼ネシム

六月四日工学、勘工、鉱山、鉄道、燈台、造船、電信、製鉄、製作ノ九寮及ヒ測量司ノ職務事務章程ヲ禀定ス

47頁明治10年

1月十一日官制改革各省中閣僚ヲ廃シ便宜局ヲ置キ亦大少丞以下ノ官ヲ廃シ更ニ奏任正権大少書記官判任。製作工学二寮ノ事務ヲ工作局ニ。大鳥圭介ヲ工作局長

674頁工作局附製鉄、造船、勧工、製作ノ四寮

本局は明治十年一月の創置にして𦾔製作、工学二寮の事務を承続し以て長崎、兵庫、赤羽、深川、品川の五分局及び工部大学校を管理す。同十五年八月工部大学校を本省の直属と為し同十六年二月赤羽耕作分局を廃し該所を海軍省に付し

明治三年四月九日山尾庸三を民部兼大蔵権大丞に任じ横須賀製鉄所の事務を処理せしむ。

同年十月二十日工部省を置かれ二十日にに至て横須賀横浜両製鉄所を其所管に帰し民部権大丞山尾庸三工部権大丞に転任し之を掌理する故の如し。

明治四年二月八日横須賀製鉄所修船架築造の工竣るを告げ是日創開の式を挙行し大納言及び参議中、伝習生徒を養成する。

同年四月七日工部権大丞山尾庸三長崎に至り同所製鉄所及び其所轄小菅修船架を同県庁より受領す。

同年同月九日横須賀及び長崎製鉄所を造船所横須賀製鉄所を製作所と改称の旨を布告せらる。

明治十年一月十一日官制改革工部省中の諸寮を廃し更に工作局を置き𦾔工学製作二寮の事務を継続し工学校を工部大学校と改称す。大書記大歳圭介本局の長と為る。

明治七年五月一日工学寮雇都検英人「ダイエル」に当所工場の監督を兼務せしむ。蓋し当時各種の工場を以て工学生徒の実験場と為すに由る。

746頁営繕課

本課の事務は明治元年会計事務局を置き之を掌管するに創始し同年四月会計事務局を廃し会計官を置き該官中に営繕司を置き二年七月会見官を廃し大蔵省を建ての日亦た之れに隷し八月本司を廃し其事務を民部省土木司に併属す。三年七月再び本司を置き大蔵省に属す。四年八月改めて寮となし二等に班し十月之を廃し工部省所轄の土木寮と併せて之を大蔵省土木寮に被管す。七年一月土木寮を内務省に属するを以て之れに随伴す。同月土木寮中の営繕事務を分離して工部省に属し製作寮の所管と為し八年六月製作寮より分離して本省中に営繕局を置き二等に班す。十年一月寮を廃し営繕局を置き十六年二月局を廃し営繕課を置き

明治七年一月二十二日内務省土木寮中の営繕事務を本省に属せらる○二十八日営繕事務を製作寮に属し同僚中に営繕課を設置し製作頭平岡通義之を監理す○

791頁工部大学校附測量司

明治四年八月十四日工学寮及び測量司を置かれ共に一等に班し工部大丞山尾庸三工学頭兼測量正に任す。乃ち工学寮測量司を併せ其庁舎を虎ノ門内𦾔延岡藩邸に設く。是より先工学を解明するは厚生利用の道を立る基礎にして当時急務たり。而して是を勧奨するは本省の責任たるを以て工学校を興し之を大学小学の二校に分かち外国教師を聘し以て学生を教育し成績を後年に期せんと欲し又其速成を要する為め現時工業に従事せる官吏及び当時各部局修技学(燈台造船電信等の部を参看すべし)の工術見習生を選抜し質問生或は伝習生となし之を海外に航遣し各科を研究せしめんと欲し共に其の概則を定めて之を太政官に稟議し其の裁可を得以て之に至る○二十七日工部省出仕松尾辰五郎(後ち清慎と改む)工学助に選任す。

十月二十七日測量司東京府下を測量せんが為め仮に皇居内の富士見櫓を所管し、該所に測量標旗を樹立す(三角形の紅白布を平面に縫合し白布に工学を墨書す)

十一月八日測量司東京府下測量の為区要の地に目標として建置する旗章又施業の際障害となる林藪等は相当の価金を給し之を伐除する等を東京府及び傍近の各県に告知す

十二月七日工学助松尾清慎測量正を代理し工部省出仕村田重区(後文夫と改む)工学権助に選任す

明治五年正月造営掛を置き雇英人「アンデルソン」を造家師となし小学校及び生徒館教師館等を経始す。本条の建築六年十二月に至て竣工し小学校を以て仮に大学専門科の教場に充つ。

三月二日工学校大小学の二校に分かち共に私費生徒を教育するの略則を禀定し之を頒布す。小学校は本都市七月十五日に至て開校する旨を併て告知す

四月二十六日工学助松尾清慎卒す工学寮出仕河野通信(後ち越知通信と改む)工学権助に選任す。

五月四日兼ねて頒布せし工学校略則中載するする所の小学の開校外国教師渡航遅延の故を以て之を延期し更に其旨を布告す。是月測量司技術一等見習小川資源飯塚義光等を英国に派して留学せしむ。資源義光内務省の管轄に属す。本校に入学す。

六月二十七日工学寮及び測量司ノ事務章程を稟定す。十月測量司一等見習佐々木和三郎を英国に派して留学背しむ。

明治六年三月八日工学権助河野通信命を奉じて英国に渡航す。工学権助村田重区測量正を代理す。是月測量司一等見習小林八郎を英国に派して留学背しむ。内務省に移り、その後本校に入学。

七月三十日既に頒布せる工学略則を廃し大学校の私費生を官費静と為し直ちに該当科目に因て之を試験し入校を許可するものとし仮に学課並び諸規則を定めて之を頒布す

十月十三日測量司を分離し馬場先門内の旧衆議院に移置す。十四日測量司測量技術通学生規則を定めて之を頒布す。

明治七年一月九日測量司を内務省の所管に転属す。十日工学権助河野通信任命を終えて英国より替える十三日村田文夫本官を罷め測量正に選任す十四日河野通信本館を罷め測量正に転任す。

明治八年四月三十日入学試験に合格背ル生徒五十三名に入校を許可す。六月二十五日工部省出仕大鳥圭介工学権頭に遷任す。

明治十五年九月二日工部少書記官河野通信本校出勤幹事心得を命じられる

○『明治工業史・土木編』Civil Engineering from "History of Meiji Engineering", 1924-1930.

※『明治工業史』の編集は「万国工業会議」日本開催を前に始められ、本文では「米国機械学会から1925年3月に開催を打診され」とある。しかし、実際は関東大震災以前に開催の打診があり、関東大震災のため出版順延した。日本の工学界を牽引してきた工学寮工学校(1877年から工部大学校)創設から半世紀も経っており、1870年代の史料はほとんど無くなっていた。工学寮工学校に土木学科は設けられたものの、工部省は土木寮を大蔵省に渡してしまったため、卒業生の実習と活躍の場が限られてしまった。工部大学校卒業生ではないフランス留学の古市公威が力を持ったのはそのため。当然、この「土木編」は不出来。

○『旧工部大学校史料・同附録』、1931年. Memoirs of the Imperial College of Engineering, 1931. 

※工部大学校が開校してから半世紀後に纏められもので,創設期に関する公文書は散逸しており,『工部省沿革報告を』を底本にし、あとは卒業生の記憶と記録を付加してまとめられた。多数の誤謬が含まれているので,眉に唾付けて読むべき内容である。

・明治四年十月二十七日測量司ハ東京府下ヲ測量センガ為メ假ニ皇居内ノ富士宮櫓ヲ所轄シテ慨所ニ測量標旗ヲ樹立セリ。旗ハ三角形ノ紅白布ヲ平面ニ縫合シ白布ニ工字ヲ墨書シタルモノナリ。同年十一月八日測量司ハ更ニ不可区要ノ地ニ目標トシテ旗章ヲ建テ作業ノ際見通シノ障碍トナルベキ林藪等ノ伐除ニ対シテハ相当ノ價ヲ給スル旨ヲ東京府及近傍ノ各県ニ告知セリ。

・各寮司技術見習人試験方:毎年六月下旬十二月中旬ノ毎次各科学術ノ大試ヲ為シ以テ見習ノ本等ヲ定ム。

・明治四年辛未八月十七日工部大亟山尾庸三工学頭兼測量正ニ任シ工学寮及測量司ヲ設立シ,同年十二月七日工部少輔ニ転任ス。工学助松尾淸槇ジムヲ執リ測量正ヲ代理ス。翌五年壬申四月二十六日松尾希清槇死ス。尋テ七等出仕河野通信工学権助ニ任イ事務ヲ総理し測量正ヲ兼任ス。明治六年三月二十四日同人御用ニテ洋行ス。工学権助村田文を代テ事務ヲ総ベ測量正ヲ代理ス。同年六月九日外務三等書記官林董工学助ニ任シ事務ヲ総理ス。工学権助村田文を専ラ測量正ヲ代理シ併テセ当寮建築ノ事務ヲ知ル。同年九月三十日測量司ヲ馬場先門内元集議院ヘ移ス。

・明治五年五月測量司技術一等見習小川資源,飯塚義光等ヲ英国ニ派シテ留学セシム。明治七年一月同司ガ内務省ヘ転属セシ以降ハ資源及義光ハ同省ノ管轄ニ属セリ。然シドモ義光ハ帰朝ノ後同年九月工学校ニ入ル。

・明治五年十月測量司一等見習佐々木和三郎ヲ英国ニ派シテ留学セシム,後内務省ノ管轄ニ属スルコト小川資源ニ同ジ。

・工学寮及測量司分課處務規定 明治五年壬申六月 工部少輔山尾庸三

造営科

技術科(測量司ニ付ス)

測量製図ノ事ヲ管ス

水陸測量ノ事ハ正権正ノ命ニ依テ其事ヲ施行ス,即チ外国人ヨリ請フ所ノ諸機械ハ件名ヲ記シ正権正ニ進達主計課ヨリ之ヲ受ク実地其術ヲ施スニ至テハ雇入外国人及付属ノ徒現場ニ赴キ付属ハ外国人ヲ助ケ器械取扱等ノ事ヲ掌ル。

皇城並府下測量等ニツキ諸御門通行其他往復進達等ハ総テ主計課ニ商議シ主計課之ヲ施行ス巳ニ測量シ了リテ外国人図誌ヲ製シ技術ノ徒之ヲ図写シ教師ノ検査ヲ受ケ之ヲ正権正ニ進達ス外国人製スル所ノ図ノ如キハ収メテ之ヲ図書課ニ蔵ス。

・測量司ノ分離並規則頒布ー明治六年十月十三日測量司ヲ分離シ馬場先門内ノ旧集議院ニ移置シ,而シテ工学寮ノ建築事務ハ総テ同司ヘ委任スベキ旨山尾工学大輔ヨリ工学助及測量正代理村田工学権助ヘ達セラレタリ。明治六年十月十四日測量測量技術通学生規則ヲ定メテ之ヲ頒布。

・測量司ノ所轄替--明治七年一月九日測量司ヲ内務省ノ所轄ニ転属ス

・月傭外国人ノ雇替ーー工学寮小学校教師英国人アール・ヲ・ライメルジョンスハ此年一月以来月雇ヲ以テ雇入レ,生徒ヲ教導セシメタルニ其適任ナルヲ認メあるにより十二月十三日ヨリ明治九年三月三十一日迄,更ニ雇替ヲナシ,数学兼測量教師トナサントシ

○公文録:土木司回議留明治2年至明治4年

・工部省測量司以外の部局における測量に関する最も重要な資料

○一般書籍

・小島宗治『測天量地-測量の源流を尋ねて歴史を遡る地図つくりに精魂を傾けた男達』、1997年

・山岡光二『地図をつくった男たち』、2012年

・1872年工部省測量司が入手し得た既存の関東地方精緻地図

※マクヴェインが関八州大三角測量を開始する際、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』他可能な限りの既往地図を収集した。関東一円については以下が入手得る最も精緻なものであった。


(2) . 舘潔彦「三十三年乃夢日本測量野史稿」Kiyoshi Take, Memoirs of Japanese Survey like a 33 years Dream

*これは師橋辰夫が『地理(1971年10-1)』に全文紹介したものである。明治初期工部省測量司所属職員による回想録で、近代日本の測量・気象・天文観測史上最も重要な資料であるが、多数の誤りがある。館は明治5年10月工部省入省(測量四等少手)であるから、最初期の記述は伝聞によっており、また明治7年までの記憶はあやふやである。また、英語ができなかったので、誤解が多い[池田泰彦:館潔彦について]。

・明治4<辛午>年7月27日新に工部省を設け工学寮及測量司を置かる、後藤象次郎其卿たり、山尾庸三其少輔たり、因て山尾少輔寮司の事務を摂理し、尋て河野通信測量正兼工学<寮>五等出仕たり、又七等出仕兼工学寮を兼ぬ、后林董工学助となる、仮に寮司の衙を虎ノ門内旧内藤邸に置く。

※工部省発足と共に工学寮建設用地の延岡内藤家屋敷の旧家屋を官衙に用いたということか。しかし、館はこの時期まだ工部省雇いとなっていない。しかし、ありえる話しで、工学寮の建設工事が始まるとともに、既存家屋の取り壊しが始まり、工部省は木挽町の旧外務省の建物に移り、測量司は馬場先門内の旧厩に入ったと思われる。1872年2月の丸の内〜銀座〜築地大火によってこれらの建物は焼失してしまう。

・技術官制<ハ>都検(三等官勅任)技監(自四等至七等官奏任)師(自八東至十等官判任)手(自十一等至十三等官判任)見習(自十四等官至十五等官判任)とす。

一ヶ年の定額は金拾四万円なりとす、工学は二十五万円なり、然れども長官より属僚に到るまで多く兼任せしを以て、其経済の出入は6年5月寮・司分離の際迄は十分判別なきが如し。

※これは間違いはなく、山尾が工学寮校舎建設と教師団の雇用を急いだため、こちらに予算が回された。国土測量を開始しようとしても、技官の育成と組織作りに時間を要した。

・英人マクウェン他5名を傭聘しマクウェンをして測量師長となし事業一切を任担せしむ、<ジョイネルを助師となす>又寮、司ともに生徒を募り、之か教育に任せしむ、邸を葵町三番地に新築せしむ、続て生徒館を起し分離す。

※<工部省>で前述したように、山尾はマクヴェインの提案で測量司を発足させ、人事をマクヴェインに任せた。測量修技校はおそらく大和屋敷の旧主屋。ダイアーがやってくる以前の1873年5月には工学校の教育は始まっており、工学校最初の生徒たちもここ(大和屋敷の主屋)を仮校舎として授業を受けた。

・英人が総て二年或は三年を以て聘傭の一期とし、年を越える毎に俸給を逓増す。当時師長の月給は金貨四百円とす。以后総ての英人には其俸給は尽く金貨を以て支払へたり。燦爛惜むへし。

※マクヴェインの雇用初年の月給は350円で、1873年3月の一時帰国時の契約では400円となった。ジョイナーは300円で、師長代理職として50円が増額された。日本人職員と5倍以上の差があり、館などの日本人職員は羨望の目でみていたのであろう

・<9月西丸皇居を以て始めて測量作業に着手す、作業進むに従い漸く玉座の御椽に近つき或は宮女室の内庭に立入等、所有不敬無礼の挙ありしも当時陋習の蟬脱する際なるを以て、幸に物議に上らざりし、而して作業明年に渉り始んど完成の期に近き4月火災の為、宮殿尽く烏有に帰し、只図上に旧観を存留せしのみ、又同時吹上禁苑及楼田、和田蔵門も着手して年を越ゆ。>

※銀座焼失地区の再開発計画作成が済むと、1872年4月に山尾から新皇居建設のために旧江戸城の測量を指示された。この時に、宮内庁から横山の写真や江戸城絵図などの提供を受け、約一ヶ月、測量を実施した。旧江戸城全域の測量図を完成させたと思われるが、おそらくすべて宮内庁に納められたと思われる。これ以上、山尾から皇居建設の話しはでてこなかった]

・5年3月師長マクウェンの指按に由り東京府下に三角測量を施行セシム。<仍て其第一着手として富士見櫓に大標旗を建て府下測量の基礎たるを示せり。標旗は紅上白下を筋違に合せ其白中に(工)字を黒記し地質は大小総て○絽を用いたり。>

此月府下災あり、郭内より起り延焼して築地に至る、政府因て市街を改正し洋式に倣い煉瓦屋を建築し、一は以て都府を粧飾し一は火災を予防するの議起る、仍て先つ京橋以南新橋の間に着手せんとし英人ウェリソン等に命し之が区画割をなさしむ、而して別に西丸皇居、吹上禁苑及西丸下等を測量せしむ。

又府下内外に順次三角測量十三所を選び高測櫓を起し一条の基線を越中島洲崎弁天の間に設け鋼鉄尺を以て之を測る、工部少輔等臨観す、而して十三所の三角点は第一富士見櫓、越中島、洲崎弁天、本所一つ目、同三つ目、芝愛宕山、上野下寺町、目白台、白金台町、寺島村、田端村、戸越村、第二台場とす。<此建築費平面一カ所金弐百六拾四円三十一銭強とす。>

当時官省の経営又は市街地改正の挙ありて、小区図の需要頗る急迫なるか為、施業の順序を案し敢て三角測量を中止し、小区測量にのみ着手せり<倫敦市街に倣い>製図の縮尺は五百分一と定む。

外人の外業には通訳一名、別に監督掛け付し総て外人の命を聞き、人夫を使役し及び昼餐等の事を弁理せしむ、<邦人の外業は最低限総て茶料代として一人金弐拾五銭宛給与せり、後8年に至って止む。>

12月予て聘約により英人クレッソン他5名来朝す。

※公文書によれば、明治4年暮れに東京から神奈川までのベースライン設定のために、最初の旗章と基点を江戸城内に設けたことになっている。そして、基点が富士見櫓が選ばれたと考えられる。廃藩置県が済んだばかりで、東京府下から外の測量作業は翌年に見送られた。測量作業は測量学校の野外実習と連動していた。]

・6月1日司に備ふる所の経緯儀は僅に三個あるのみ、彼外人互に交換使用して邦人に許さす、今や邦人の業に就く一の器械なし、仍て館潔彦を横浜に派し経緯儀其他必要器械を購求せしむ、於て三浦省吾、館潔彦おして始めて府下測量に従事せしむ。

2月数理<及絵画>に熟達する者数名を募り岸俊雄をして測量法を教示せしめ、実地には英人の作業に就て研究せしむ、又洋式製図には鈴木重葉をして教示せしむ。

同月伊能源六なる者其曾祖父忠敬の自ら製する所の日本大図を蔵すると聞き、三浦省吾を下総佐原に遣し之を借らしむ、此時製図者としては漸く烏嘴筆を運用するに止り、謄写の任に該る者なし、茲に於て絵画者を募り謄写の任に当らしむ、此時墺国維納府に博覧会<の挙>あり、其出品の為め、正院地誌課に於て日本地誌提要編纂の挙あり、仍て<此>原図は同院に復貸す、后源六より献納す、官金三百円を賜うと伝う。

※館は1872年10月雇用なので、この部分には伝聞であり、また記憶違いも含まれている。イギリス人測量師に器機の使用を優先させるのは当然のことである。測量修技校を開校しており、そこにも数台器機が必要であった。マクヴェインは自前測量器機一式、鉄道寮の英人技師やハートらから測量器機を譲ってもらい、これらの用に当てた。さらに、横浜のレーン&クロフォード商会に測量器機を注文し、横浜に行っており、その時に館も同行したのだと思われる。「館を横浜に派し・・購求せしむ」ではない。旧民部省土木寮からの技員の名前が見えるが、彼ら旧幕府海軍技術者たちが測量司に合流するのは、1874年2月、測量司が内務省に移管されてからのことである。旧幕府海軍技術者と修技校卒業生ではどちらの方が優秀であったのだろうか。

・4月、測量正河野通信、測器購求の為め英国に洋行す、師長マクウェン随行す

※これは逆で、マクヴェインは個人的な用事と測量器機購入とシャボー雇用のための公務で、1872年早々から一時帰国を山尾に申し出ていたが、1873年1月になって山尾から許可が下り、その際に河野通信と小林八郎を同伴するようになった。山尾は河野に広い視野を持つように海外研修の機会を与え、またマクヴェインは測量司を担うであろう小林にグラスゴーでの実践の機会を与えた。河野は、ウィーンで万博担当の佐野常民、パリで岩倉使節団の木戸孝允と会い、ロンドンとエジンバラで工場や学術機関を視察したことがマクヴェイン文書から分かっている。

・5月、実施研究の生徒漸次熟達し、手或は見習に任用されたるを以て又測器の必要起る、館潔彦再び横浜に派し之を購入せしむ。

※これも館の勘違いで、マクヴェインが一時帰国の前に、レーン&クロフォード商店に注文していたものを、館が受け取りにいっただけである。おそらく、レーン&クロフォード商会が扱っていた測量器機は、鉄道建設などのための汎用品で、マクヴェインは最新の国土三角測量のための器機をイギリスで購入しようとしていた。

・同月、助師ジョイネルの建議を用い、気象台を設けるに決す、仍其器械を英国気象台長に依頼す。

※これは別稿で述べたが、測量師長と測量司正がいない時期に、代理のジョイナーが建議を誰にしたというか、まったくあり得ない話し。マクヴェインは出航前にトロートン&シムス社、カセル社などの測量気象観測器機の発注書、またグリニッジ王立天文台やスコットランド気象協会に協力依頼の文書を準備していた。イギリスの中央気象台(Meteorological Office, Board of Trade)の名前はマクヴェイン文書にはまったくでてこない。1873年9月、マクヴェインとシャボーがグリニッジ天文台にでかけそこで観測器機設置工事を見せてもらうとともに、金星太陽面通過観測のやり方を教えてもらっている。マクヴェインは、同天文台に知人がいたはずである。また、1873年に、スコットランド気象協会に日本での気象観測創設のための協力合意を取り付け、マクヴェイン自身会員となった。翌年4月にはシャボーも会員になった。同協会の事務局長のアレクサンダー・バッカンは天気図を確立し、同協会名誉事務局長のトーマス・スチブンソンは百葉箱を発明した。トーマスの兄のロバートは簡単な地震記録計を発明していた。

・同月、司を馬場先門内旧閣老邸に移す。

10月、実測科取締及器機掛を置く。

<製図の尺度は一フートを5百分し、其一分を一フートに当つ即五百分一なるとす、此尺度只一個にして、洋人に有ては交互使用し、邦人に許さず、明治2年大蔵省度量衡規則を設け、私造を禁じたりと雖も尺度は未だ其制なし、府下大門通に大谷虎造なる者あり、尺度製造を業とし分厘を刻し其精を究む、於茲之を傭い、フートを造らしむ、外人等驚嘆す、虎造年六十余衣袴登庁す、比隣羨望し六十の老爺今斯の如し、始めて人材登用の実あるを知れりと、又細鎖は麹町の人武井太留なる者旧紀州家の鉄砲師なり、測鎖製造に精し、仍て同く百ヒートの測鎖並に垂球を造らしむ、此の二者は直接測量には関係なしと雖も、其功績没す可からす。>

○7年、<1月5日、新年宴会に酒鐉を賜る、内外人一堂に集り筵を開く、宴酣にして、放歌乱舞する者あり。>

※測量司正の河野と測量師長マクヴェインがいない状況で、皆はめをはずしたということか。しかし、その数日後に測量司は内務省所管となり、翌月には大蔵省土木寮からの技員が合流し、測量司は大混乱に陥ることを皆知らない。

・1月9日、測量司を内務省に隷属せしむ、五等出仕村田文夫測量正代理となる、后本官となる。

※測量司の移管は「大久保日記」の記述と符合する。<大久保利通日記>を参照。但し、村田は河野が海外出張中は測量正代理となっており、1月12日に河野が帰国(公文録:河野の帰朝)後、河野が何らかの理由(病気?)で復職しなかったので、暫くして測量正となった。河野の離職の理由と時期は不詳。

・2月、官制改正。

同月、測量正河野通信帰朝す、尋て免官となる。

※官制改正は、大蔵省土木寮からの技員が加入したことで必要になった。前述したように、河野の帰国は公文録に1月12日となっているので、館の記憶違い。理由は不明であるが、大久保による強引な測量司移管に反対して辞職した可能性もある。官制改正とは、測量司に大蔵省土木寮からの芸員が加わったことを指す(太政類典)


(3). 正戸豹之助の記憶Memoir of Hyounosuke Masado. 

出典Source:『日本科学技術体系、第14巻地球宇宙科学』Global Science, Volume 14, Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, 1970.

「我が国気象界の黎明」正戸豹之助述、正木十二郎記

・明治2年(11月10日)京浜鉄道が設計せられることと決定し、鉄道敷設事業の主任として英国人マクビンという人が来朝したが、同氏は当時日本の役人に対して絶大な勢力を持っておった駐日英国公使パークス氏の推薦によって招へいされたのである。マクビン氏の下には副主任としてジョイナーという人がおったが、この二人が協力し、その後3ヶ年の日子を費やし、明治5年(9月12日)京浜鉄道が完成したのである。この間マクビンは年300両という当時としては莫大な報酬で雇われれておったのであるが、わが国交通史上特筆すべき事業も終わり、マクビン氏もやがて帰国するはずとなったが、1日同氏は山尾工部大輔に対して、まだ日本には地図ができておらぬが、これが完成のため測量を行っては如何と提議したところ、この案は早速採用されることとなり、マクビン氏は今後3ヶ年この仕事にたずさわることとなった。ここに鉄道敷設に従事した外国人はすべて引き続き日本に留まり、新たに測量事務に携わることとなった。

※なんとひどい記憶なんだろうか。これに関しては拙稿『工部省創設再考(2015年)』と<マクヴェイン研究>を参照願う。測量司最初期の職員であった秋吉金徳は測量司の内務省移管に反対して工部省に残り建築営繕の道に進み、叙勲記録にはマクヴェインとジョイナーの下で、工学校の建設、銀座日本橋焼失地区の測量と再開発計画作成、旧江戸城測量、東京中心部の三角測量に参加したことを述べている。

・当時はかように技術に関しては万事外国人に任せざるを得ない状態にあったので、日本人の技術者を育成する必要に迫られ、旧芸州藩士正戸豹之助が選に当たり、慶應義塾に学ぶこととなった。正戸氏は安政2年11月1日に芸州広島藩士御普請方次席正戸喜三孝忠の次男として広島市大手町6丁目の邸に生まれ、12歳の時と15歳の時前後2回にわたり出京し、勉学に志ししたが、慶應義塾に入ったのはその第二回目のことで、明治5年であった。

・同年9月廃藩となったため、正戸氏をはじめ貢進生一同は藩より費用が来なくなり、困却し、ついに福沢諭吉が政府に対し「三田の町人福沢諭吉申し上げ候・・・」という上申書を出した。とにかく正戸氏は当時測量の頭をしておった村田氏のすすめるままに前記のように測量学を学び、ついに工部省の測量師となった。測量師となった正戸氏は俸給を政府から支給されながら、マクビン氏に測量を学んだ。もちろん当時は知識(欧米式の)の有する者は日本人には一人もおらず、測量頭村田氏さえ測量に関しては全くの白紙であった。マクビン氏は契約の3ヶ年の期日がきたので、さらに3ヶ年の契約をし、この契約を期とし、明治6年一度英国に帰国し、新式の諸器械を購入することとなった。

※芸州出身の村田のつてを頼って工部省に入ってきたということか。慶應義塾で基礎学問を学び、測量学校の第2期生として入学してきたということは、館潔彦らと同じで、測量司発足から1ヶ年が経ち、マクヴェインとジョイナーがどのように雇用されたかは本当はよく知らない。

・この新式の諸器械を英国から購入すると言うことは村田測量頭の考えによるものか、マクビン氏の進言によるものかは文献には何も記録がなく不明である。マクビン氏は帰国の上、再び来朝したが、この時仏国人シャボー氏を同伴してきた。元来シャボー氏は仏国人であったが、後英国に帰化したので、明治7年日本に来朝したのである。

※正戸の記憶違いで、測量正は長州藩出身の河野通信であった。村田はその下で、さらに明治5年5月に静岡藩(旧駿府藩)属の室田秀雄が加わった。測量観測器機図書の購入については<マクヴェイン研究>参照願う。1872年暮れに山尾と測量司の事業範囲を相談し、1873年初頭にマクヴェインの一時帰国に合わせて、イギリスで購入すべき器機図書などの購入に当たり、またシャボーの任用手続きをした。シャボーはマクヴェインが招へいした6名の英人測量師の最後の人物で、最も測量の経験があった。シャボーは英国海軍水域測量局に契約職員として雇われたときの記録によれば、ドイツのリューベック出身であった。しかし、夫人と子供はフランスで生活しており、正確な出自は不詳。マクヴェインは開成学校教授グリスビィとボアンヴィルのフィアンセを同伴する必要から、日程を変更できず、シャボーの便と同じではなかった。器機図書の荷造りはマクヴェインが行い、発送した。パルミエーリ地震計はマクヴェインが発注し、シャボーが1873年クリスマス休暇を南フランスで病気療養中の婦人と過ごした後、ナポリに寄って受け取ってくることになっていた。しかし、パルミエール地震計の製造は間に合わず、1874年3月になり、シャボーのもとに届き、それを携えて日本にやってきた。

・マクビン氏、シャボー氏は種々の機械を購入してきた。正戸氏はこれらの機械類を見学し置くように野村測量頭から命令を受けたので、器械の荷ほどきに立ち会い見学を行ったが、種々の器具中貴重な機会が混じっており、何するものか見当がつかなったので、シャボー氏にたずねたところ「地震計」であると答えた。不審に感じた正戸氏が何故「地震計」が入用か、地震と測量とはいかなる関係があるのかをただしたところ、シャボー氏は「日本は地震国だと聞いたので、測量をするとき起点を作るのに地震のため動くといけないと思ったので、この器械を持ってきたのである」と答え、なお「この器械は英国にはないので伊太利には地震があるから、伊太利には地震を測定する機械があると思い伊太利に行ったところ、当時パルミエーリ氏という伊太利の地震研究者がおり、その人がベスピアス山麓で研究しておったのでそこに行き、地震計とその取扱法を習得した上、その地震計と同様のものを製作してもらったものがこれである」と説明してくれた。いかに日本が地震国であっても測量の起点を決定する上に地震計は必要だとは思わぬが、諸外国では日本が地震国であるという事が、この用事から知れ渡って追ったのである。この地震計を取り扱った最初の日本人は正戸氏であったし、また日本で初めて「地震計」という機械を見たのもまた正戸氏であった。

※器機図書などの購入費用として山尾から3800ポンドが渡され、すべて河野と一緒にマクヴェインが購入手続きを行い、支払いを済ませた。山尾からイギリス滞在中は、日本政府測量師長として行動することが認められていた。シャボーが正戸に語ったことは盛った話しである。パルミエリ地震計の存在は海軍士官マックスウェルはよく知っており、マクヴェインに紹介している。

・これらの機械類の見学を終わり、正戸氏は大阪に測量事務に従事するために出張し、大阪地方で盛んに測量の実務に携わっていたが、やがて大阪地方を終わり、京都で測量に従事しておったときに東京から「気象学に志ある者は帰京せよ」という命令があったので、気象学とは何ものであるかわからぬが、とにかく帰京の上ジョイナー等西洋の学者について気象学を修めた。やがて測量頭村田文夫氏は退官し(神田において団々珍聞を発刊した)初代の測量頭は野に下ったのである。

・話は前にかえる「気象学」という言葉は恐らく当時の政府の翻訳官が訳したものらしいが、明らかなことは分からない。当時工部局にはマクビン氏、シャボー氏ならびにジョイナー氏等がおり、測量関係事務に従事していたが、マクビン氏、シャボー氏はやがて満期となり帰国し、ジョイナー氏だけが日本に残った。工部局において測量はその後あまり発展せず、むしろおとろえゆき、測量は陸軍の方で発達してゆくようなぐあいとなったので、工部局出仕のジョイナー氏は契約期間が満たぬ内に仕事が閑散となり、徒食のような有様となったので、自ら気象学が必要であると主張し、パークス公使を通じ政府に進言したため、気象学が日本で研究されるようになったのであるという事である。

※正戸は三浦省吾らとマッカサー指揮による京都測量に参加していたと言うことか。そうであるなら、三浦や小林一知が、マッカサーが日本人職員の間で衝突し「日本人職員を辱めた」と語る事件に同席していたことになる。京都から気象専従希望者に応募し帰京したのは明治9年1月28日というのであるから[下記辞令]、実は1875年中にマクヴェインとジョイナーがどのように気象観測を始めたのかは知らないことになる。正戸は、マクヴェインを師長とする旧工部省測量司派と、大蔵省土木寮から合流してきた旧幕臣の小林一知や三浦省吾らの反御雇いグループの抗争をほとんど知らなかった。ジョイナーが残ったのは、マクヴェインが師長として復職した1874年5月以降に3ヶ年の雇用契約を結んだからである。ジョイナーがパークスを通して進言というのも盛った話しである。あるとしたら、1875年5月の「チャレンジャー号」のトーマス隊長とティザード副隊長(気象担当)がマクヴェインのいる内務省にやってきて、その時、パークスも同席し、前年にイギリスで購入した器機を使いながら、スコットランド気象協会との協力合意にもとづいて、気象観測の指導を行った。内務省が小林や三浦に対してマクヴェインを師長と認めさせなかったので、マクヴェインは金星日面通過観測もこの気象観測も課内事業として位置づけることはできなかった。

・正戸氏はかような状態の下にジョイナー氏に従い気象学を学ぶこととなったが、なかなか教えしぶってしようがなかったが、熱心に通ってくるので、次第にそのうちに一緒に仕事をするようになってきた。かうに正戸氏はジョイナー氏の下で気象学を学んでおったが、当時の工部省地理局測量課には名文の上において気象という調査課がなかったので、その調査上必要な筆墨用紙等を用度掛に請求するのが、掛がないので物品を渡さぬので、自ら気象掛と称しており、又いつの間にか自然に気象掛で通用するようになり、ついに辞令なしに「気象掛」という事となったとのことである。

※ジョイナーを気象担当して任期終了まで勤めさせようとしたのはマクヴェインの配慮。マクヴェインはイギリスからシャボー、チースマン、クラセン、スチュワートなどを招聘したが、ジョイナーは明治政府鉄道掛にいるところを工部省測量司に引き抜いた。二人はお互い信頼する間柄で、マクヴェインが1873年にイギリスに一時帰国したとき、1876年に満期帰国したときも、ジョイナーの両親に会い、ジョイナーからの贈り物を手渡し、さらにお互い晩年まで文通をしあっていた。1875年5月に「チャレンジャー号」が寄港したときは、マクヴェインはジョイナーを連れてトムソン探検隊長に会いに行き、トムソンやティザードが内務省訪問したときに一緒に対応した。正戸はこのことを知らなかったのだろう。海軍水測量局勤務経験者は気象観測や天体観測の指導を受けていたが、そうではないジョイナーはまったく自己流で覚えたに過ぎず、教えることに自信がなかったと考えられる。

・一方ジョイナー氏は気象の報告を書き、気象表を作り横浜の「メイル新聞」にたのみ、これを毎日すらせ日本東京気象台という名をつくりおれにジョイナーの名を入れて外国に出しておった。これは一つには自分の名をひろめるためにであったろうが、これはいうまでもなく不都合な行為であるため、ただちにこれを禁じ、内務省地理局で日本式に翻訳させ東京日々新聞に半命令式に刷らせた。この際はじめて「東京気象台」という名称が生まれたのであるが、同時に種々の述語の翻訳が必要となったが、現在の一般に使用されている「寒暖計」という言葉や晴雨計という言葉は当時正戸氏の命名したものである。海軍に於いて寒暖計と言わず「寒暑計」の術語を用いたのもその頃であるとか。

※小林らの反御雇い一味からの入れ知恵で、「ジャパン・ウィークリー・メール」や「中国日本ダイレクトリー」などに簡単な気象表は掲載され、船舶の安全運航の用に供されていた。また、スコットランド気象協会からの技術支援によって日本の気象観測が始まったので、その成果を公的に掲載するのは当然。中央気象台と地方観測所というのも、スコットランド気象協会の協力合意書に記されてあり、ティザードの気象報告書にも述べられている。マクヴェインはこの表をロンドンにある「気象委員会」に伝わり、『ネーチャー』誌に「日本の気象観測の創始」という記事が掲載された。

・東京日日新聞の附録として気象表が前記のように発刊されておったが、発表官庁名である東京気象台はまだ名のみで、当時は役所はなかったのである。明治12年に至って東京帝国大学出身の理学士中村精男、和田雄治の両氏が測量課に入ってきたので、正戸氏はこれらの諸氏と共に研究をつづけかくして次第に気象学が発達し今日の基を築いたのである。

※苦労して正戸は気象観測を身につけたというでっち上げの話である。

注釈

*1. 鉄道建設のために雇い入れられた鉄道技師はすべてイギリス人であったが、明治4年の雇い英人名簿には9人の名が上げられており、ジョイネルの名はあるが、マクビンの名前はみえない。そして主任はエドモンド・モレルになっている。モレルは明治4年9月肺疾のためにたおれたので、その代わりにマクビンが来朝したのであろうか。ジョイネルが来朝したのは明治3年であることは測候講談にある(p.27)

*2. 正戸氏の辞令によれば明治5年5月13日測量司技術外見習下級となり、明治7年2月19日に測量三等大技生となっている。

*3. 正戸氏からの来信によれば、正戸氏は「三角測量の場合、障害になる土蔵等たえたばかりのをとりこわした。今考えると、ずいぶんひどいことをしたものだ」と笑話に語られたという。

*4. 以下の原文では村田文夫氏は野村文夫となっているが、これは誤りである。野村姓を名のるのは内務省を退職してから。

*5. 原文はパルシュリーとあるが、これはパルミエーリPalmieriの誤り。

*6. 大阪出張の正戸氏の辞令は明治7年7月31日であるから、地震計がきたのはこれ以前である。

*7. 正戸氏の辞令によれば、明治8年12月25日測量のため京都へ出張が申しつけられ、明治9年1月28日に京都出張をとりやめ早々東京に帰ったとある。

*8. 荒川英俊「日本気象学史」によれば、その表題にはImperial Meteorological Observation, Tokyo Japan.とあり、その下にマクビンの名の下にSurveyor in Chiefと記し、次にジョイネルの名の下にObserverと書いてあったという(同書p.6)。

*9. 本文には明治13年とあるが、これは明治12年の誤り。

*資料5-4. 観象台における気象観測

※正戸には本当に申し訳ないが、記憶があらふやなままにだらだらとしゃべるんじゃない、この馬鹿者が!これから先、日本の測量と気象の創設に関する知識をあなたはどれだけ誤らせたのですか、と言いたい。


7.6. 水路部柳文庫「観象台沿革」(明治19年12月調)「我が国気象界の黎明」正戸豹之助述、正木十二郎記

明治八年七月、嘗て英国ヘ注文の原基風鍼、原基官署鍼、燥湿寒暑鍼、量雨器、験風器、太陽寒暑鍼等の諸器械到着す。是より測候事業に著しき進歩を為し明年一月に至り気象表を刊行するに至る。

明治九年一月、気象略表第一号を発刊す。記載する



II. 既往研究の検討REVIEW OF FUNDAMENTAL SOURCE AND EXISTING STUDY

II-1. 測量関係Survey

(1) 『明治工業史・土木編』History of Meiji Engineering, 1924-1930.

第十二編 測量

「明治以前の測量術に於いては三角測量或いは水準測量等の如きを用いることを知らず、随つて絵画飲泉の如きも、如何なる潮位を基準とせしや不明にして、其の測量術たる甚だ姑息なるものなりき。然るに明治維新の成るや、盛に秦西の新知識を輸入し,測量術の如きも旧来の法を棄てて,近代の進歩せる科学的測地学を採用するに至りしを以て面目全く一新し、急速なる進歩をせり。

明治四年工部省に測量司を設け、英人マクウエン、外五名を招して全国測量の業を企て、同五年測量師長マクウエンの指導の下に、東京府下に於いて初めて三角測量を開始し、宮城富士見櫓に一点を設け、順次十三点の三角網を作り、本所基線に閉塞せしめ、次いで東京全市を包容せり。その後、大阪京都並びに各開港場の三角測量に着手せしが、何れも完成の域に達せざるに、明治七年此の事業を内務省に移し、同省地理寮に於いて之を継承し、依然英国式に準じ、全国大三角測量に従事せり。又、河川測量は、明治二年治河局に於いて之に着手し、鉄道測量は明治四年京浜間に之を実行したるを初めとす。

陸軍に於いては明治六年以来、測地事業を計画し、本邦測地事業は、殆ど陸地測量部の完成せしものなり。

陸地測量部と伯仲して、本邦の地形測量に従事せるは、農商務省地質調査所にして、同所は明治七年に設置せられたる内務省地理寮の後を承け、地質調査と共に地形測量を行ひ地形図・地質図・土性図等を製作せり。

沿海測量は、明治四年兵部省海軍部に水路局を設けたるに始まり、同十五年全国沿岸の測量大計画成り、爾来着々として事業進歩し、全国の海図水路誌の発行あり。爾来官庁民間に於いて実地を測量し、地図を発行せるもの少なからず」

同第四章海洋測量 海軍水路部 第二節

「明治二年河村純義は、津藩士柳楢悦及び田辺藩士伊藤当吉を徴し、初めて水路測量のことを計画せしめたり。是より外国船の希望により我が港湾を測量し、その海図を発行せしもの少なからずしが、明治に入りても亦、沿海測量の誓願をなすもの多く、当時の事情は之を許容するの余儀なき有様なりしが、明治十五年沿海測量計画の完成するに及んで、遂に之を拒絶し得るに至れり。

明治三年柳を測量主任に、伊藤を副主任に任じ、軍艦第一丁卯丸を用いて、英艦シルビアと共同し、的矢、尾鷲の諸港を測量せしめ、次いで内海の塩飽諸島、備讃瀬戸を測量せり。」

※工部省時代のおそらく唯一の土木関連事業が測量であったことになる。おおよその記述は合っているが、本当は「英人マクヴェインの助言により全国測量の業を企て、英国人七名を雇い、測量学校で日本人技術員を育成しつつ東京府下に於いて三角測量を開始した。建築営繕を兼ね、工学寮校舎と工部省庁舎などの建設、銀座築地焼失地区再開発案作成、旧江戸城内の測量と皇居建設計画などを担った。測量司を恒久的な体制とするため、最新の測量観測器機の購入とイギリスの関係機関との協力関係の樹立に努めた。しかし、内務省移管とともに旧幕臣技術者からの妨害、緊縮財政による組織の縮小、内務省庁舎火災による成果の焼失などがあり、完成の域に達しなかった」

※水路測量に関しては端的に纏められており、柳楢悦らが自らの業績をきれいに残したのであろう。1867年末にはシルビア号は日本海域のおおまかな測量を終え、それ以後、湾岸に近い場所の測量をしようとしていた。そのためには幕府からの許可を得なければならず、幕府海軍奉行が対応した。シルビア号の測量担当マックスウェルは、日本側から派遣された柳楢悦らに水路測量を教えながら北海道から長崎まで測量した。

第十三編 土木行政

第十四編 土木教育

※工学寮工学校(1877年から工部大学校)土木学科のことについてはまったく触れられていない。

(2)  『日本科学技術体系、第14巻地球宇宙科学』Global Science, Volume 14, Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, 1970.

※『日本科学技術体系』において、測量の扱い方は苦心したようだ。そもそも測量は領地の管理開発のための測地から始まり、19世紀後半になると、より広域でかつ多角的な「計測」が必要となった。土木技術から地球科学へと展開し、そのため本シリーズでは「地球科学」で扱うことにしたのであろうが、内容がない。

・第2章天文暦道から近代天文学へ

・第3章富源防災調査研究体制の成立

・第5章明治期の気象・海洋関係の事業と研究

(3) 小島宗治『測天量地-測量の源流を尋ねて歴史を遡る地図つくりに精魂を傾けた男達』、1997年

(4) 山岡光二『地図をつくった男たち』、2012年

(5) 水路八十年の歴史、水路鵜創設八十周年記念事業後援会、1952年。

-I. 水路部機構の変遷

・明治4年7月、兵部省海軍部に水路局を設置。水路監督長官に柳楢悦。水路測量、浮桶、瀬印、及び燈明台

・明治5年3月に兵部省の廃止、海軍と陸軍に分離。海軍大輔に勝麟太郎、海軍少輔に川村純義。

・同年10月、水路局から水路寮へ。

・明治9年8月、水路寮を廃止し、水路局に。

・同年10月、観象台の設置

-2. 水路測量並びに観測事業の沿革

・明治3年5月、太政官達をもって第一テイボー丸(旧萩藩献艦)を英国測量船シルビアと連合の上南海の測量を命じた。そこで柳御用掛は測量主任となり伊藤蕉助を補助として英とともに的矢・尾鷲の測量を始め同年7月には内海の塩飽島の測量を行った

(6) 日本水路史、1971年

-1. 英艦により略測

・安政6年、アクテオン号のワードは測量艦ドーブ号のバロックとともに、対馬の尾崎浦を測量し、次いで日本海を宗谷海峡まで北上し、利尻、礼文、野戸呂、飛鳥、新潟、佐渡松ヶ崎と南下の途次に立ち寄った。

・サーペント号は文久元年までいた。日本の沿岸の概要を把握した。ドーブ号廃艦のあと、慶応2年に来航したサーペント号の指揮をとったのは、ドーブ号当時のバロックであった。

・シルビア号は1866年ウールリッジで建造され、150馬力750tの木造砲艦で、測量作業には最適なものであった。これの艦長としてブルーカーが指揮をとり、東洋に向かい1867年には台湾での測量中土民から攻撃を受けたりしたが、基隆港などを測量し、また次高山をMt Sylviaと命名している。そして翌1868年の2月に長崎港に到着した。これと交替するサーペント号は6月に鹿児島を経て本国に向かった。

・大阪川河口において、シルビア号のブルーカーを載せた測量艇が、同じような事故に遭遇したのであるが、これは危難を免れ8月にはブルーカーは退役なって本国に帰った。マックスウェルがこれに代わり、続いて瀬戸内海の入り口である「鳴門および付近」と「明石瀬戸付近」を調製した。12月にはセント・ジョンがシルビア号の艦長に就任した。彼が以来明治9年まで日本の海域測量に従事した功績は大きく。

-2. シルビア号は、1873年柳楢悦らを乗せて、瀬戸内の測量を実施した。



(2) 気象観測関係METEOROLOGY

・『日本科学技術体系・第14巻地球宇宙科学』Global Science, Volume 14, Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, 1970.

※1970年前後、日本の高度経済成長期に纏められたもので、各巻ごとに出来不出来がある。幕末から明治10年頃までに限って言えば、失礼ながら「土木編」及び「地球宇宙科学編」も不出来。これについては解題を付す。明治初期、測量機関によって気象観測が創設された。純粋科学としての気象観測と天体観測の実施は遅れた。

・水路創設八十周年記念事業後援会『水路八十年の歴史』、1952年。

・『日本水路史』、1971年

・堤之智『気象学と気象予報の発達史』、2018年、丸善出版

(3) 天体観測関係ASTROLONOMY

・東京天文台90周年記念行事委員会編『東京天文台90周年誌 沿革と展望』、1968年

・斉藤国治・篠沢志津代『明治7年の金星日面経過について』、 1973年

・日本天文学会百年史編纂委員会編『日本の天文学の百年』、2008年

・山本哲「わが国の国家気象観測事業は如何にして始まったか」、2017年

(4) 


II-2. 気象観測Meteorology

(1) 中村中央氣象臺長在職二十年及華甲祝賀會(1895-1923)。(added in November 4, 2020)

中央氣象臺長中村博士は本年にて臺長在職二十年に及ばれ又丁度六十一歳に相當せらる、を以て兼ねて氣象界の知友及門人一同より祝賀として紀念品贈呈の擧あろ恰も本年は第十同氣象協議會を東京に欄催するあり發企人一同會合の好機を得たるにより去る四月二十三呈午新緑滴たらんとする小石川植物園内の集會所に大會を催ほし席上に中村博士を招待し紀念品を贈呈し近藤久次郎氏は一同を代表し祝賀文を朗讀し同博士の答辭あり終つて宴會に移り一同祝盃を擧げて同博士の健康を祝せり宴の酣なる頃和田博士立つて舊懐談を爲し夫れより近藤、馬場、岡本、朝倉諸氏相尋いで席上演説に移り時の過ぐるを畳えず和氣露々の間に會を散せしは午後四時を過ぐる頃なりき當日朗讀せし祝賀文は柳礬朝倉氏の謹撰になり全文左の如し

賀中央氣象臺長理學博士中村精男先生在職二十年併壽其華甲序

自古歯高者則有矣而歯徳倶高者則甚稀至歯徳倶高而學藝之深博者則天下有幾如我中村先生則可謂能備三者也矣先生卒大學業奉職中央氣象臺佐荒井小林二臺長後襲其職而屡航歐米親察其状摘精採粋以補我氣象事業之所未備其能致今日之盛者實先生之賜也先生既蓬於藝術而又洞觀當世之事故其言霰而通達而要窮源湖流一出於至誠以事後學可謂仁矣先生自拜臺長既閲二十春秋今復逢華甲良辰同人敬開賀筵子小石川植物園環翠亭爰起而祝日先生齊家整躬卒物哲嗣學成〓心藝術令聞令望輝映門帽又起而祝日先生霧鎌康強倉徳壽豈萬福攸同一家之慶莫大焉先生一家之慶即吾徒之慶也抑亦昭代之慶也先生資性温恭學如不及其接人也情意霧然喜怒不形色其視後進如子弟諄々雅〓不倦故一立其下風則驕者下氣怒者平心苟自非歯德倶尊學藝深博焉能如此哉語日仁者壽先生有焉爰呈屏風雨架銀製隻難一座及同入冩眞帖一部聊表微衷鳴呼先生之學固不待言己其徳則一ぜ之所仰望而南山之壽松柏之茂不騫不凋長在臺長之職指導誘掖盡力於此業是後進之所齊望於先生也而天釜降嘉瑞以保仁人使吾輩更祝其期願之壽如今田是亦後進之斯期術樂也

大正四年四月二十三日 中央氣象臺測候所員同拝呈

前記の席上演説には本邦氣象事業創立當時の模楼を述べられたるもの多く本邦氣象事業史料として貴重なるもの多きを以て和田博士の發議により本誌上に之を掲ぐること、なりたり馬場信倫氏の演説は次の如し

只今御指名に依って起つことになつたのですが私は明治九年に初めて就職しましたので内務省に於て地理寮御用掛申付量地課勤務を命ずといふ辭令を拜受しました其時の内務卿は大久保利通公で大輔が品川子爵であつたと思ひます又地理寮頭が杉浦讓といふ方で四等出仕で櫻井勉さんが御出でありました(君の月給は幾何だつたかと和田君から質問があつたエー百五十圓ですと云ふたら十分の一かと聞かれた其通りと答ました)所が翌十年一月大改革がありました地理寮が廢されて地理局が置かれ局長に櫻井勉君が衣られまし忙量地課長は小林一知君でした此時に正戸君と下野君と私が残務取扱を被命氣象観測を斷續して行くことになつたので是迄は七八人の人にて観測をしで居ました今宮内省の御料局に鼓師をして居られる神足君や福岡某、杉岡、武林、鈴木抔といふ人々が私等と共に氣象掛りといふ名目で行つて居ました夫れが改革で外の人は罷あられまして前述の人が殘されたのであります。

さうしで観測して居つた場所はと云ふと之れは只今虎の門外の霊南坂の横手で江戸見坂の上から下へかけて擴つて居る一帯の地即ち日本の富豪の一人として數へられて居る大倉喜八郎氏の邸になつて居る所でありました、以前此地は俗稱大和屋敷と云つて居たので却々廣いものでした邸内には山坂が多くて樹木〓〓として何となく寂寥たる土地でした一番下の所に昔の御殿が殘つて居まして此處で地理局の製圖掛りの連中が大きな製圖板を敷き詰めて頻に製圖をして居りました南側の方の建物には鑛掛の人が居ました和田維四郎君(後に鑛山局長になりました)抔が控へて居た、ズーと上の一番上の建物は小林課長や三浦清俊さん抔が居つたので又隣りの一館には英國人のジヨイネルといふ人が住居して居た其中間に平坦の地があつて此所に六疊敷ばかりの二階建の家があつた之れが我々氣象掛りの連中が寝泊りした所で後ろ塁深き崖地で前には三間程離れて古き土藏があつた此中一部がジヨイネルの詰所で此ジヨイネルは氣象掛主任と云つた様な人で觀測表を印刷して署名して居つたのです其觀測は一日四囘で午前午後三時三十分と九時三十分でありました尤も其外に我々は八囘觀測を行つて居ました又毎月一の日に毎時観測もしました。

器械は何んなものがあつたかといふ思の中にはキングの大自記晴雨計とバルメリーの地震計があつて霧には百籍翌つて居て其中に乾濕計と最高最低寒暖計が懸垂してあつて露場には雨量計、蒸發計、地温最低・日温最高、無氣日温最高抔があつた、又崖上の櫓には大自記風力計と風信器とオゾン計があつて今一つの櫓には驗電器があつた、器械と云つたらマー恁々なものであつたが方々に掛け離て居たかち觀測を一通り済まして來るには二十分餘り掛つた様でした。

前に述べました六疊敷ばかりの古家が氣象掛の詰所でしたが其二階に水銀晴雨計が吊下してあつた、此詰所で徹夜をして居たであるから鍋飯や汁物や干魚抔を随分食しました。夜になると此邊は一體に寂しい所となる上に前述した榛な廣い邸の中でおまけに上を見ても下を見ても二丈もある崖地の中に挾まれた平坦の地だから其淋しいと云ふことはお話しにならない、さうして此崖の叢の中には穴が幾つもあって此中に狸や貉が澤山棲で居た夜半過になると此連中がソコラコヽラに遊びに出掛けて來て悪いことをずるには困った地温や日温寒暖計を取つて行つて叢の中へ抛て置いたり我々の観測する所の前に屈んで居たりして五月蝿て仕様がなかつた、であるから藪の中の古巣を發いて狸狩りを行つたこともあつた只今では氣象臺にしても測候所にしても総てが完備して居るから結構だが其時分には丸で借りものか間に合せものの様なものであつたから何をすみにも不自由なことでした、我々は觀測して計算をして居たが時には通辯をやらされ又翻誰抔をやらされて居た。

此大和やしきの中段の平地の古小屋が我連綿たる氣象事業の斷生地であつたので之れは明治十一年頃には取壊された様に思つて居ます。大和やしきは四十八坂あつて家中の水汲み抔は御國から屈強な體格なものを選んで寄越したものださうです、成る程荷ひに水を擔ひて此多い坂を上り下りするのは普通の人では出來ないでせう。今日では大倉さんの邸になつて有名な庭やミユーゼアム抔が出來、下には大倉商業學校抔が出來て道が修繕が出來上つて昔の悌は少しもないが以前は随分森閑とし牝物凄い土地であつたのです。明治十年頃でしたか榎本武揚さんや荒井郁之助さん杯が參觀に來られたことがあつたジヨイネルがキングのバログラブを説明したらジス、イズ、ヴエリシンプル抔と荒井さんが云つたことが耳に殘つて居る荒井さんが臺長になつたのは夫れからズーと後のことです。

(2)  『日本科学技術体系、第14巻地球宇宙科学』Global Science, Volume 14, Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, 1970.

※『日本科学技術体系』において、測量の扱い方は苦心したようだ。そもそも測量は領地の管理開発のための測地から始まり、19世紀後半になると、より広域でかつ多角的な「計測」が必要となった。土木技術から地球科学へと展開し、そのため本シリーズでは「地球科学」で扱うことにしたのであろうが、しっくりこない。

序説

・明治維新後、官制天文台は、編暦、測地事業の元締めであった内務省地理寮、海辺国防と海外航行の本部であった海軍省水路部と、研究と教育の中心であった東京大学理学部とに三カ所あった。政府は是を統合して大学に付属させ、東京天文台を創立した(1888)。

・気象事業は、東京気象台の創立(1875年)からである。

※上記は間違いで、官制天文台は文部省開成学校星学科へ、地租徴収のための測量(量地)は民部省量地掛へ、国土開発のための測地測量は工部省測量司ヘ。内務省は1873年11月に発足したが、1874年1月9日の寮司編成において地理寮発足

第一章 幕末における天文学と地文学

・外国人による気象観測

p.40.資料1-7.

長崎出島

沖縄等那覇港

函館港 魯医アルブラッケット 1856-58

仏人某

英人トーマス・ブレキストン 1868-1870

神奈川 外人某

横浜港 米医ヘボン 1863-1869

タルボット 1877-

新潟港 A.R.ウェーブル

大阪 和蘭人ハラアタ

デー・グラタナ

神戸 港長マーシャル

英人ゼー・コールマン

※ブレキストンThomas Wright Blakistonが日本最初の気象観測所を創始したという定説は誤り。燈明台掛(1871年から燈台寮に改称)は、McVean日記によれば、横浜居留地弁天の地に燈明台事務所を開設した後、1869年1月には気象観測を開始した。しかし、Brunton、McVean、Blundellは外回りの仕事が多く、まだ専属の観測者はいなかった。1870年にJames MacRitchieやFisherが加わるとエジンバラのスチブンソン事務所(北方灯台局)の支援のもとに本格的な気象観測が始まり、弁天の地に観測所を置いた。その観測データは1875年に「チャレンジャー号」が寄港した際、探検隊長トムソン教授に提供され、同探検隊気象観測担当のティザードに渡され、ティザードは『Contribution of Meteorological Observation(1876)』を作成した。

第二章 天文暦道から近代天文学へ

2-3. 基礎事業の整備

明治政府は純粋科学に多額の経費を支出する余裕はなかったが、欧米諸国との条約改正を念願していたので、実質よりも国体的体面を整えるために、ひととおりの天文観測器具を外国から輸入し、グリニッジ天文台をモデルとして天文台を建てようとする意図はあった。この任に当たったのが、小野友五郎、塚本明毅、柳楢悦のような幕末期に長崎海軍伝習所などで訓練を受けた人々で、彼らは内務省地理局[当初は「寮」]・海軍水路局のような現業官庁に入って、技術官僚として基礎事業の確立に腕を振るうのである。

・明治4年には海軍省水路局、内務省地理局が開設され、明治5年には海軍観象台用地を東京麻布飯倉3丁目に購入し、以後着々観象台の充実をはかった。内務省も独自の天文台を持とうとし、明治9年には御雇外人シャーボーによる司天台設立建言、明治10年ニは小林一知・宮島伝吉などの建言がでる。しかし、海軍、内務省、文部省間の役所同志の競争・いがみあいが激しく、お互いの事業間の連絡が不十分で、明治14年、内務省地理局の東京府下大観象台設立案は、海軍観象台の柳楢悦の反対にあって中止された。

2-4. 国際協同観測

(1) 資料2-14

大学伺3年10月

今般鮫島外務大丞英国ヘ渡航被仰付候ニ付ては星学局要用器械

(2) 資料2-15 可天台ノ設立ニ干スル報告書 シャーボー

翻訳全文は18頁からなり、前半はグリニッジ天文台の観測器具とその機能を論じ、後半では日本政府への天文台設立の勧告である。

地理寮九等出仕 冨田淳久訳

(略)

内務省測量局ニ於テ1876年4月8日

ヘンリー・シャーボー

敬白

測量局長 室田秀雄貴下

小林一知貴下

※シャボーと小林には大変申し訳ないが、卑劣な二人である。マクヴェインを追い落とし、彼の出国を見計らって、マクヴェインがやろうとしていたことを自らの名前で建言し、手柄を奪い取った。測量局長が室田になっているので、村田文夫はマクヴェインの帰国後、1876年4月頃に辞職したことになる。冨田淳久は1873年後半にイギリスに滞在し、マクヴェインに便宜を図ってもらいロンドンの自然史博物館やエジンバラ博物館などの施設を視察した。

(3) 資料2-18 金星過日 ダヴィット・モルレー

第三章 富源防災調査研究体制の成立

3-1. 地理司、地理寮、地理局、付工部省測量司

民部省規則(明治2年7月27日)

「郡国ノ地図名籍ヲ鮮明ニシテ兼テ租税ノ多寡ヲ知るヘキ事」

民部省廃止→大蔵省→内務省地理寮

p.92.内務省発足に際し、大蔵省は提訴して「内務省事務章程」中の「租税ノ増減ニ関与スル事」その他を削除せしめ、あるいは訂正せしめ、その際、地理寮の性格が検討された結果、地租改正の実務から手を引く代わりに、工部省からそのまま引き継いだ測量司と正院内史所管

の地誌課を併合する。ここにおいて、地理局は調査研究面に比重がかかっていく。しかし、当初に目に付く成果は地誌課の業績であって、測地部門ではない。

・測地部門は、北海道でこそ、開拓使によって三角測量が企てられたことがあったが、工部省の場合は都市測量の域を出ない。内務省では、明治8年基線測量が試みられ、大三角測量事業が出発するが、少数の技術者、僅少の経費を持ってしては本格的な成果が上がらなかった。

※工部省発足時、山尾庸三の下で測量司と工学寮は一つの組織として扱われ、工学校の開校を急いでいたので、予算と人員はそちらに振り向けられた。そのため、マクヴェインがいた工部省時代測量司(1871年10月〜1873年2月)の成果は、測量学校による日本人測量士の育成、銀座築地焼失地区の開発計画作成、皇居建設のための旧江戸城内測量、東京中心部の三角測量の予備作業他である。

3-3 開拓使、工部省鉱山局

・明治4年来日したゴットフレーは全国的調査の成果をまとめた「日本地質略図(明治11年)」を作成している。

3-7. 日本地震学会と震災予防調査会

p.97.「明治維新から明治8年前までの地震事業」は「皆無であったと称するのが事実であろう」。「其八年には内務省地理局[寮]の一課に於いて地震の記録を司ることとなり、新たに伊国パルミエーリ指揮の振子地震計も購入された。此処から生まれ出た気象台が幾多の変遷を経て次第に発達し、遂に今日の盛況をみるにいたる」(今村明恒:明治大正時代に於ける地震学の発達、『地震』1-2、昭和4年、93-102頁)。

※日本が地震国であることはオールコックを始め、1860年代日本に滞在した外交官の間で知られていた。1868年、エジンバラの北方灯台局では、日本に燈台建設技術者を派遣するに当たり、平鋼にによる耐震構法を指南した。煉瓦積み2-3フィートごとにフラットバーを入れるということである。これはデヴィッド・スチヴェンソンによって考案されたといわれる。

(1) 資料3-2 石版、画術、製図製法に関する技術伝習始末書

ウィーン万博伝習生岩橋教章は旧幕臣で、狩野派の画を能くし、文久2年、イギリス人が日本沿岸を測量しようと際、伊勢湾一帯は皇大神宮に近く、夷人に足を入れさせられないというので、幕府海軍で測量した。

※これについて後述。

・資料3-3 工部省測量司の東京府下測量

p.101.<館潔彦『洋式日本測量野史』>

※<マクヴェイン研究><測量>に掲載した。

第五章 明治期の気象・海洋関係の事業と研究

5-1. 近代的気象観測の開始

・内務省による気象観測は、ジョイネルが主任となり赤坂葵町3番地の同司構内で、英国流の一日三回の明治8年6月1日であった。測量司の一つの掛の仕事として開始されたこの観測は、東京気象台の観測として発表された。明治10年1月地理局測地課と改称され小林一知が課長になり、同年6月ジョイネルは満期解雇。内務八等属正戸豹ノ助が変わって観測主任となった。

・燈台に於ける気象観測は、明治4年月に至って、本牧、函館間の両燈船及び神子元島、剣崎、石室崎、樫野崎、潮崎、和田岬、江崎、伊王崎、佐田岬の蒔く燈台に晴雨計、寒暖計、雨量計をそなえ、毎日午前9時・午後9時に天気、気圧、風向などをはかり、これを天候日誌に記載し、月末に燈台寮に送付させるような制度ができていた。

※1875年6月1日に気象観測が開始されたという証拠は見いだされない。担当がジョイナーであったことは「内務省文書:明治8年2月御雇い外国人給料調査」から判明する。この燈台寮における気象観測の存在は、ティザード「日本の気象観測に対する貢献の報告書(1876)」で明らかにされている。

5-3. 水路部及び海図の始まり

p.103.維新前後わが国沿海の測量は主としてイギリスによって行われた。一時は英人に対して測量の許可が出たことはあったが(文久元年)、文久2年外人にみだりに測量することを禁じ、その代わりに海軍所より士官、絵図方、水夫からなる測量隊を派遣して測量が行われることになった。こうして、明治2年には英語版として長崎、平戸、新潟、東京海湾、函館など32箇所の海図が作られたが、今日の海図に比べると粗略なものだった。明治になって、日本の海軍はイギリスの助けを借りて沿岸測量を始めたが、その最初は明治3年。主として瀬戸内海の測量で、日本側は柳楢悦御用掛が測量主任となった。イギリス側は測量船シルビア号に協力して行った。

※1868年3月付けでウィリアム・マックスウェルからマクヴェインに送った手紙で、英国海軍は1860年代半ば(マックスウェルにとっては、1864年ヘブリディーズ地方測量を終えて)に東アジア海域に測量船シルビア号を派遣し、艦長ブローカーと副艦長セント・ジョンやマックスウェルが指揮した。水路測量に引き続き、燈台建設が行われることをマックスウェルは知り、北方灯台局が燈台建設技師の募集を行うことを友人のマクヴェインに伝えた。シルビア号は得た日本列島海域の測量データを水路測量局本部に送り、シャボーはそれを図面化した。1868年5月にマクヴェインが日本に出発する前に、シャボーは日本沿岸測量図に彼に渡した。マックスウェルは日本人に測量を教えながら1873年まで日本海域にいて、横浜に寄港したときにはマクヴェインと必ず会っていた。その後、マックスウェルはニューファンドランドの測量に向かった。マクヴェインをいろんな方面で支えた。

*資料5-2.我が国気象界の黎明 正戸豹之助述 正木十二郎記

(2) 堤之智:気象学と気象予報の発達史、2018年、丸善出版

※明治初期にかけての記述は既往研究そのものであり、新味に欠けます。

II-3. 天体観測Astrology

(1) 東京天文台90周年記念行事委員会『東京天文台90周年誌 沿革と展望』、1968年(added in February 2, 2020)

p.100第3部 参考編

Ⅰ. 東京天文台前史

(1) 明治以前の編暦と天文台

(2) 天文台設立計画

・明治元年3月30日議定松平慶永、天文台と編暦所の設置を建議

・明治3年10月3日文部省星学局、鮫島弁務官にロンドンでの天文器械購入を依頼。購入予定リスト

・明治4年3月9日付け、東京大学星学局、観象台新設の上申

・明治?年、内務省地理局が新設天文台設立候補地として紀尾井町を確保

・明治11年2月26日、文部省、観象台を本郷本富士町に設置

※明治3年10月文部省星学局が駐英仏弁務官として就任するに天文器機購入を依頼したとあるが、まったく同じ事を工部省測量司が鮫島に依頼した。1872年2月のマクヴェイン日記によれば、「シャボーとチースマンの雇用手続きと、測量観測機器の購入を鮫島に頼んだが、彼はそせずにパリに移動してしまった」とあり、文部省と工部省がおなじような依頼をしたのであろうか(added in February 10, 2020)。

p.108「文部省から編暦関係ノ全事務が内務省へ移されたのは明治9年2月24日の決定であるが,早くも同年4月20日に内務省は雇い外人ヘイリー・シャボーに天文台建設の必要理由書、規模、費用の見積もり等を期した建白書を提出させている。この計画書には、口径20㎝赤道儀(価格約900ポンド)、口径20㎝子午環(価格約1700ポンド)と時計類とが必需品として計上されている。また他方内務省では杉浦地理頭から内務省地理局量地課の拡張を骨子とする建言書が大久保内務卿に提出されたが、同年11月には旧幕軍艦咸臨丸の航海士をつとめた小野友五郎の「天文学ノ儀ニ付建言仕候書面」も大久保内務卿に差し出された。

※前述したとおり、遅くとも1873年3月には工部少輔山尾庸三はイギリスで気象観測と天体観測のための機器を購入し、それを日本で実施するために王立天文台とスコットランド気象協会に協力依頼をすることを師長マクヴェインに認めていた。測量正河野通信と師長マクヴェンがイギリスでそれを首尾良くやり遂げ帰国すれば、工部省測量司内に気象観測部門と天体観測部門が設立されるはずだった。1874年1月に測量司が工部省から内務省に移管され、内務省測量司に大蔵省土木寮から日本人技官が新しく加わったことで、山尾&マクヴェインの計画は頓挫した。マクヴェインを師長という地位から引き引きずり落とし、測量司の主導権を奪おうとする小林一知と三浦省吾らは悪意のある文書を流布し、またシャボーを仲間に引き込んだ。このようなことがなければ、マクヴェインの指揮のもとで王立天文台とスコットランド気象協会からの支援を受けて、測量司内に気象観測と天体観測の体制が整うはずだった。明治9年(1876)年3月30のマクヴェインの離日を待って、小林+シャボーは天文台建設の建議を作成した。杉浦は小林らに操られていたのがわかる。皮肉なことに、小林+三浦+シャボーはマクヴェインを排斥し、杉浦を手名付けることに成功するが、大久保が全国大三角測量地図作成は中止し、量地課の業務を縮小することを知らなかったのであろうか。また、内務省の天文台設置の動きは海軍省水路局の柳楢悦から横やりを入れられることになる。小野友五郎は内務省の金星日面通過観測とチャレンジャー号関係者の来訪を聞きつけ、マクヴェイン官舎によくやってきていた(added in June 7, 2020)。

明治10年8月13日には、地理局第中82業による約400円の経常費増額、司天、編暦に関する13人の人員増加案が認められ、内務省地理局量地課の拡張が始まった。

地理局は、前記のシャボーの建白に従ったのであろうか、口径20㎝のトロートン製赤道儀を購入し、葵町の地理局構内に据え付けた。この赤道儀は明治21年の東京天文台設立によって東京天文台へ移管され、今も現存しているが、東京天文台備品帳の購入年月日蘭には明治22年4月1日とある。この日付は東京天文台への移管が決定した月日であろう。実際地理局が購入したのは遅くとも明治13年であると考えられる。」

「海軍観象台 新政府の編暦関係者を中心とする初期の天文台新設計画の経緯概略は以上のようであるが、これとは独立に海軍関係者の間にも早くから観象台設立の必要性が認められ、着々実行に移されていた。すなわち明治5年11月には麻布飯倉の戸沢邸と石井邸の一分を買い受け、さし当たりの観象台とした。この地は明治10年から12年にかけて数回の用地買収で拡張され、海軍観象台が設立した。後年飯倉時代の東京天文台の所在所として、また第2次大戦後まで東京帝国大学理学部天文学教室のあった地として私たちに親しまれた場所である。

海軍観象台拡張の糸口となり、またわが国の天文観測の発達を推進させたのは、明治7年の金星の太陽面通過に当たりアメリカから観測隊の派遣を我が国に申し入れたことである。この観測隊は海軍観象台の関係者に経度決定の電信法を伝え、日本各地主要地点の経度の天文観測を促した」

p.109「文部省の観象台と東京天文台の設立 海軍観象台の設備拡充は欧米に見られるような海軍天文台を目指して着々進行していったが、その立案推進に当たった柳楢悦水路局長の苦心は察するに余りがあろう。したがって明治14年6月に内務省地理局が、陸地測量の貴店設定のため海軍観象台と同様な規模の大天文台を東京府下に設立する計画を表明したとき,柳局長が猛烈に反対したのは無理からぬところで会った。また、明治11年以来小規模な観象台(後天象台となる)を本郷に持っていた文部省が、文部・内務s・海軍の三省共同で天文台を設立しとうという案を持ち出したときも、柳局長の反対で立ち消えとなった。しかし明治20年の海防整備の勅語発布に伴い、海軍はその普及事業の整理に迫られ、且つ明治21年4月に柳局長の退職を三田ので、事態は180度転回し、6月1日の閣議で従来内務・海軍両省で行っていた天象観測と、内務省の編暦事業とを文部所大臣の所管とすることに決定した。そこで同年12月5日の勅令81号で麻布飯倉に東京天文台を設立し、文部大臣所管となった天象観測、編暦に当たらせることになるのであり、6月の閣議決定の線にそって海軍省、内務省の天象観測機械類は海軍観象台の建物と共に文部省に移され、東京天文台が使用することになるのである。」

※参考文献と出典が明示されていないが、3年後に出版される『日本科学技術体系、第14巻地球宇宙科学』の明治初期の部分にそのまま引用されたようだ。

(2) 斉藤国治・篠沢志津代『明治7年の金星日面経過について』、 1973年

未読

(3) 日本天文学会百年史編纂委員会編『日本の天文学の百年』、2008年

未読


III. 新資料Neely Found References

III-1. 測量関係Survey

(1) "My Silly Consideration by Yozo Yamao" 山尾庸三「愚考」:早稲田大学蔵大隈文庫

※拙稿『工部省創設再考』日本建築学会計画系論文集、2015年を参照願う。

・明治政府発足とともに地租を確立するために国土面積の測定を始める必要があった。しかし、廃藩置県を含む省庁行政組織の整備に手間取り、測量計画は頓挫した。その一つは民部省地理司と大蔵省土木司で、どちらの測量大祐は小林一知が兼務した。小林の下には三浦清俊がおり、二人で早期測量開始を画策していた。これについては内務省の項で詳述。

・地租に結びつく国土測量に対して、地域測量は鉄道敷設に伴い横浜から新橋までは民部省鉄道掛によって1870年から進められた。小林は地理司が国土測量事業を始められなかったのは、鉄道建設測量に人員と機材を提供したためだと語った。地理司は鉄道掛にしぶしぶ協力したのに対して、旧幕臣の小野友五郎は鉄道掛に出仕し外国人技術者に混じって測量を実施していった。

・幕末期に海防と航海のために幕府は沿岸測量を急務としており、その業務はイギリス海軍から支援を受けるはずだった。イギリス海軍からトレシー顧問団と測量船シルビア号が1867年暮れに到着したが、明治維新とそれに続く戊辰戦争のために頓挫した。トレシー顧問団は帰国したが、シルビア号は日本に残り独自に江戸から長崎までの航路沿岸を測量し、1869年になり明治政府兵部省と共同測量の話し合いを始めた。この時、兵部省は陸軍と海軍に分離を巡って紛争しており、シルビア号は柳楢悦の登場まで待たされることになった。

・1870年12月に工部省建置が決まったが、当初そこに測量部局を入れる構想はなかった。1871年8月14日になって10寮1司として工部省の組織が決定し、この時測量司が政府組織として初めて登場した。山尾庸三が工学頭と測量正を勤めたが、その経緯については既往研究ではまったく知られていない。

●標記の文書は工部大丞の山尾庸三によって大隈に出されたもので、工部省の部局とその専務の配置案を示している。作成年月は十八日とあるのみで不詳。

・Yamao's Proposal山尾庸三の愚考

愚行之廉々御含迄ニ左ニ申上候

右鉱山専務 井上

右灯明台専務 佐野

右庶務専務 小野

右諸規則取調並ニ学校専務 吉井

右造船製作専務 山尾

右会計専務 帰省中 松尾

右伝信掛専務 未タ奉命前 福谷

右之外有用之仁 二名

右エキスキューチンク専務 壱名

右同マネジャ専務 壱名

但マネジャを上野を待て可也乎

右要地測量専務 壱名

尤洋人壱名御雇入ニ而成年生徒数名手伝候ハ、修業ニも相成可然乎巳ニ灯明台之為の英政府より遣候仁ブラントンと不和ニて当時御暇ニ相成居ソ之仁壱ヶ年程御試ニ而ハ如何乎且東京ヨリ神奈川辺測量を手始めとして可也

・現業部門は鉱山、灯台、学校、造船・製作、電信、事務部門は庶務、規則並び学校、会計としている。それ以外に、測量を含む3つの部局を新たに付け加えることを想定している。

・測量部門の専務には、ブラントンと不仲になって燈明台お雇いを辞めた英国人を当てようと考えている。この人物はColin Alexander McVeanであることは間違いない。

・文中に以下の3つの疑問がある。

-1)エキスキューチンクとマネジャはそれぞれExecutionとManagerであり、Executionは執行を、Managerは管理者を意味する。山尾は英語を十分に理解でき、それに相応しい和訳を当てはめることができたのに、なぜカタカナ表記にしたのだろうか。意味するところは、マネジャは事務局長、エキスキューチンクは執行局長すなわち技術局長であろう。

-2)山尾『愚考』の学校は、モレルの工部省創設建議中の教導部から派生したものであろうか。

-3)ここで山尾は造船製作部門の専務を希望しているが、工部省編成が叶ったときには彼は工学寮頭測量司正となっている。山尾がグラスゴーでネピア造船所に勤務した経験があるから、自らは造船を希望したということなのだと思うが、学校専務はなぜ吉井なのだろうか。

-4)作成年月日は、18日としか記入されていない。工部省建置は太政官内で大変な議論の末に明治3年10月20日に決まったもので、その渦中の明治3年10月18日に山尾が愚考として提案したとは考えられない。また、マクヴェインが山尾と親しくなる時期としてはあまりにも早すぎる。明治4年4月頃、工部学校構想が矢継ぎ早に具体化し、同じ時期に認められたと考えられる。すると、明治4年4月18日の可能性が高い。

(2) 太政類典:明治6年10月14日工部省測量技術通学生規則ヲ定及び明治7年3月3日内務省測量技術通学生規則ヲ改定ス

(3) 井上琢智、小野義真と日本鉄道株式会社Gishin Ono and the Japan Railway Company, 2010. 

「出仕直後の4 月18 日、大隈重信宛に出した書簡で工部権大丞山尾庸三は工部省組織改革案を提案しているが、その中で井上勝(鉱山専務)、佐野常民(灯台専務)、山尾(造船製作専務)などの技術官僚に加えて、事務方として吉井亨(諸規則取調並ニ学校専務)とともに、小野義真が庶務専務となることが提案されている13)。このことは、すでに出仕時点で小野義真の名前はおろか、その事務方としての能力を工部省および山尾は十分に把握し、それが彼の官僚への道を拓いたと考えられる。 

同明治4 年10 月7 日には、土木司の工部省への移管により、工部省土木寮土木助に任ぜられ、さらに10 月8 日、土木寮は営繕寮と合併して工部省からの大蔵省へ移管により、大蔵少丞に任ぜられた14)。この頃の小野義真は、明治5 年5 月4 日の井上馨宛の渋沢栄一の書簡で「岡本・郷〈純造〉・小野・熊谷〈武五郎〉杯も皆我党之人」15) と報告されていることから明らかなように、井上馨らの厚い信頼を得ていた。さらに小野義真は、明治5 年11 月26 日、同省営繕土木寮頭へと昇進していく16)。」

※明治初期の限界は、政治家と企業家が技術者と一緒になって夢を実現していくべきところを、日本人技術者がまだ育ってきておらず、蘭学や西欧留学により科学技術をちょっとかじっただけの政治家が幅をきかせていたことによる。もともと土佐藩には科学技術に長じた藩士がいなく、工部省を発足を前に土佐藩から事務方として小野義眞が山尾のもとに推薦されてきたのである。工部省が発足すると小野は土木寮土木助となったが、すぐに大蔵省へ移管されると土木寮頭に昇進した。1873年11月には内務省に移管されることになるが、この間、小野はどのようなことを主導したのかはまったく不明。従来の治水は継承するものの、明治新政府がいったい何をすべきかという彼の構想が見当たらない。明治初期に土木事業が軽視されたのはこのような人事にあったのかしれない。

(4) McVean Achieves

(5) 遺構Remnants of Early Meiji Survey

・京都Kyoto-清水寺標石

所在地 東山区清水一丁目(清水寺内)、位置座標 北緯34度59分43.7秒/東経135度46分59.8秒(世界測地系)、設置年1875年、建立者内務省地理局(内務省地理寮)、[東]明治八年[北]明治十五年八月建地理局

・横浜Yokohama-八幡町水準点、内務省地理寮水準点(高低几号標)(横浜市南区八幡町1番地 中村八幡宮) -横浜市地域文化財史跡(平成10(1998)年11月9日指定)-

(6) 「明治六年一月東京府関学明細書」

第十表土木司測量所、洋算塾昇量軒(綿一山駄一昨咋一)塾、王東京府貫属士族小野吉正の履歴に「明治三庚午年正引一克土木司測量所御開成修業相願、同四辛未年九月中測量所被廃」と

III-2. 水路測量に関してHydrographic Survey

※既往研究の出典はもっぱら柳楢悦らの記録であり、そのため柳らの行動が正当化されている[東京天文台90周年記念誌:109頁他]。幕末から明治初期に独自に水路測量を行い、それを日本人に指導したイギリス海軍側からの記録と、当時の英字新聞雑誌記事から、はたして柳の行動がどのようなものであったのか批判的に見ることができるように思う。(unfinished in February 2, 2020)

(1) McVean Achieves

William Francis Maxwell's Letter to C.A.McVean, 1868-1874.マクヴェイン宛てマックスウェルの書簡

(2) Memoir of the Hydrographic Survey, the Admiralty.

(3) Collaboration with British Naval with survey vessel SLYVIA by Captain St. John, 1868-1875.大映海軍測量船シルビア号の活動

-The Japan Weekly Mail, March 13, 1875.

   AN EXCURSION INTO THE INTERIOR PARTS OF YAMATO PROVINCE. By Capt. St. John, R. N., H. M. S. Silvia.

Head before the Asiatic Society of Japan on the February, 1875.

Before beginning a short account of an excursion I made in connection with the survey of this part of the coast, I should like, considering the little that is known about the east side of the provinces of Kii, Yam ato, and Ise, to draw a slight sketch of the whole coast-line from Oosima, in the extreme south, to Tola in the North,

-The Japan Weekly Mail, March 28, 1875.

   THE YESO FISHERIES. To the Editor, or the " Japan Weekly Mail." H. M. S. Sylvia, Kobe, 12th March, 1875.

Sir,—From reading an article on " The Knitakushi" in your number of February 27th, I am induced to send you a few extracts from notes made when surveying the Eastern parts of Yesso. I spent from the 6th of May until the 8th of August 1871 between Akishi bay on the South side, to Abishica on the North.

-The Japan Weekly Mail, June 12, 1875.

GUNTER'S CHAIN. To the Editor of the "Japan Weekly Mail." June 6th, 1875.

Dear Sir.—May I ask through the medium of your valuable paper—for what reason the Japanese Government have permitted the use of the Gunter chain in a great portion of their survey work P

The Gunter chain was invented for the use of English landowners and engineers, being a compromise between the acre and the mile—the advantages of which are obvious.

Now Japan has neither acres, or miles—although It may be urged that 11 ken equal 1 chain. Because English surveyors are employed, is it a reason that this country should be bnrdeued with a system totally unsuited for its requirements? As far as I can learn these sur

veyors would gladly use tho 100 ft. chain, now extensively adopted in our colonies. The Government being closely allied to the native »haku would probably render its introduction easier than the rotStre, but the latter has the advantage of probably becoming the much desired universal standard.

These little matters may be of slight import to the Government, who, indeed, have more weighty affairs to attend to. I nevertheless hope that a timely warning from your able pen would not be without effect on the public, and that our old friend Guuter will be forced to return home and to look out for a quiet retreat to which he can retire, when his more modern rival gains the day.

I remain, dear Sir, Yours faithfully, C. N. K.


III-3. 気象観測に関してMeteorological Observation

(unfinished in February 2, 2020)

(1) McVean Diary and Correspondence

III-4. 天文観測に関してAstronomical Observation

(unfinished in February 2, 2020)

(1) McVean Diary and Correspondence

IV. 考察Argument

IV-1. 測量Survey

IV-2. 水域測量

IV-3. 気象観測

IV-4. 天体観測

Attached Research Materials

(1) Early China Coast Meteorology; the Role of Hong Kong by P. Kevin MacKeown, 2011, Hong Kong University Press, 

1 Nineteenth-Century Observatories 

Meteorology will not be in working order for two years more: but 'Hart' is Inn& if time is fleeting. Robert Hart, December 1873' 

Introduction 

The scientific approach to the physical world which blossomed in Europe from the time of Newton and his contemporaries onwards only slowly diffused to more distant regions, and that encroachment was largely under the cloak of European colonial expansion. The extension of the community of science can hardly be described as a missionary undertaking. The propagation of the ways of thinking of scientists did not preoccupy them in the way that the saving of souls moved religiously minded individuals. Of course, we are not talking of mutually exclusive classes. The role of science was pressed into service in the cause of evangelization on many fronts. Ironically, the successes of these endeavours, as we will see, were particularly favourable to the propagation of scientific thinking, more so than to the conversion of the heathen. The ground for foreign encroachment on traditional patterns of thought was fertile in some places more than others. The bulk of Asia — India, China, Japan — was heir to rich educational traditions that could easily sympathize with the new ways of thinking. We are concerned in this volume with a part of the world, the South China Sea and its littoral, and the subject of meteorology, a subject paradigmatic of the scientific approach to nature, emphasizing systematic observation and rigorous analysis in the solution of problems.

Meteorology as a subject was of as much interest 150 years ago as it is today, in the early twenty-first century. The scenario to which it relates, of course, has changed immeasurably over the intervening years, but the urgency of its practice was no less attended to then than it is these days. However, the perceived pedestrian nature of its study seems to have eclipsed its role in most chronicles of the times. The story of the military and political endeavours in the advancement of imperial designs by Europeans in other parts of the world in the seventeenth to nineteenth centuries has had many tellings. So also have there been many reports on the lives and adventures of the individuals who took part. Botanical and zoological enquiries among colonial servants, as well as casual travellers, have had wide reporting, but it is only recently that medicine, and to a much lesser extent the physical sciences and engineering, have drawn some attention.2 We are concerned with a factual account of the small, specialized subject of meteorology and especially how it was practised on the 'China Coast'. Astronomy, and geomagnetism, bedmates of the subject in the early scientific age, will naturally also attract some attention. Although it is not our primary purpose, the story related also throws light on the strengths, foibles and prejudices of colonial society, as well as its attitudes to and interactions, in many cases minimal, with the native populations. There is much more to the story of meteorology in the Orient than an account of the role of the Hong Kong Observatory and we will make some attempt to cover these other aspects, but our focus will be on the evolution of the Observatory in Hong Kong and its relations with other Asian observatories. For good or bad, the history of the first thirty years of that observatory is in great part a chronicle of the career of Dr. William Doberck, the Observatory's founding director and the institution's feisty leader for twenty-four of those thirty years. His near quarter-century stay there and the shadow he cast for a further six years in the person of his close colleague and successor, Frederic George Figg, who retired in 1912, form a definitive timeframe for the study in hand. Doberck's fame as an astronomer is also an excuse to treat, briefly, the early history of astronomy in Hong Kong. Its later developments are described elsewhere.3 

To some, the very identification of meteorology in the East with its manifestations in Hong Kong will appear offensive. Compared to the contributions made by the observatories in China, Japan and the Philippines, Hong Kong will often appear, at least in the sense of resources, to have been a minor, but also a fractious player in the meteorology of the region in those times. We choose 1912 as the year at which to take stock of the development of observatories in East Asia, largely because it marks a watershed in the history of the Observatory in Hong Kong. The thirtieth year of its existence was the year in which the last of the cohort of early officers retired, the time when any pretence at playing a role in astronomy was discarded and a management more attuned to the modern demands of meteorology took charge. It was also the year in which, in a formal sense, it turned over a new leaf when `Royal' was added to its title.' The same year saw the new Republican government in China introducing not one but two meteorological institutes, one associated with the ministry of agriculture and the other with the ministry of education. But before getting to the core of the story it is informative to look briefly at the geopolitical context in which the Hong Kong Observatory originated and the history of other colonial observatories predating its founding. 

Early Systematic Observations

The weather in all cultures has always been a matter of comment and concern and accounts of it have survived in many places, not least in the exhaustive records of natural phenomena to be found in Chinese documents, official and private. The earliest quantitative measurements made were of rainfall in China and Korea.5 Descriptions relevant to our story were also given by early Portuguese explorers at Macao and Canton, and by Dutch traders in Japan. Such records are valuable for studies of climatology and how the climate may have varied over time but, being largely non-quantitative, they have little to contribute to a history of meteorology as such. Before a review of systematic studies of the subject and a description of the main sources of early meteorological work in East Asia the various observatories established there from the mid-nineteenth century onwards — we will record a few isolated instances of systematic recordings made by individuals, some dating as far back as the seventeenth century.

There is the example of an Irish sojourner at Xiamen, by the name of James Cunningham, who in 1699 published an account of measurements he made there on the pressure, the wind direction and the state of the weather from October 1698 to the following January.' Mr. Cunningham, later a fellow of the Royal Society, was for a time a physician to the English traders on Zhoushan (Chusan) Island, nine kilometres off the coast in Hangzhou Bay. Another notable example of early meteorological monitoring comes from Sweden. From the 1730s the Swedish Academy of Sciences had an arrangement with the Swedish East India Company (a rather enlightened body of men) to carry scientists on board their China-bound ships.' At least one meteorological record from this enterprise survives: a near complete tabulation by an anonymous visitor of the rainfall at Macao from early March to 12 September 1780.8 Another interesting case is that of a private observatory that was established at Batavia, in the Dutch East Indies, as early as 1765. Its owner was the self-taught German-Dutch Reverend Johan Maurits Mohr, whose wife fell into a large inheritance. This enabled him to build and equip his own private observatory from where he made various meteorological and astronomical observations, including two Transits of Venus. A nucleus of amateur scientists built up around his observatory, but by 1790 activity had declined, not to recover again for almost a century.° 

China: The Early Days 

Records of the weather, as is the case with all observations of nature, have a long history in China. However, in her history of the Hong Kong Observatory, Ho Pui-yin remarks on the failure to keep continuous records of meteorological phenomena, the observers in general only recording exceptional events, and she describes records of many such events, especially typhoons, in the weather in Southern China from pre-Observatory days.'° So, unlike astronomy, meteorology in China in the pre-scientific age never reached any level of sophistication. In the words of China's most distinguished meteorological son, Zhu Kezhen," it never advanced beyond the stage of prognostication by proverbs, of which many exist. Typical is: 

If on the first come wind and rain,

Twill bring us pestilence and pain;

If at Ch'ing Ming a south wind come,

It means a plenteous harvest-home.12 

Nevertheless, although extensive records exist which would be valuable to students of climate for inferring climate and climate change in China, it would be stretching a point to suggest they played any determining role in the development of modern meteorology.

From the earliest days of their participation in the working of the Peking Observatory, and the time of Ferdinand Verbiest in the mid-seventeenth century, the Jesuit priests attached to that Observatory included meteorological monitoring among the curriculum of new knowledge they introduced into the Celestial Kingdom. We have some records of the first half of the eighteenth century from the French Jesuits there in the form of data they forwarded to the French Academy in Paris. Extensive data on temperature and wind direction, measured at 06:30 and 15:30 daily from July 1743 until March 1746 at the Observatory, communicated by a Fr. Antoine Gaubil, have been reported." The French had a reputation for rigour in their instrumentation — a resolution in their temperature measurements of 0.31°C at that time has been deduced14 and the systematic manner in which the data were accumulated must lend much confidence in their reliability. These data are particularly interesting for establishing, in the summer of 1743, a recorded all time high of 44.4°C in the capital, and a heat wave in North China in which Fr. Gaubil reports 11 400 deaths around the capital; this heat wave is amply confirmed by many qualitative reports of the time in official documents and provincial chronicles. It has been concluded that it was the highest temperature encountered at Peking in the last seven hundred years. But there is more to meteorology than temperature records. Other observations on the pressure, the wind direction and the state of the weather, made twice daily at Peking from 1757 to 1762 were reported by another Jesuit father, Jean-Joseph Amiot. '5 

An Early Publication in Chinese

There are different readings of the confrontation in the eighteenth and nineteenth centuries between Western science as prosecuted by the colonial powers and indigenous populations in the territories they bestrode, either as colonial mandarins, philanthropists or missionaries. The case of meteorology might seem to be fairly simple compared, say, with the complexity of the encounter of Western medicine with native populations. Meteorology would largely be in the service of the foreigners, the benefit to the locals only incidental to this role. Yet the earliest systematic introduction of the subject to the China Coast, the publication of a book in Chinese on the subject in the 1850s by a foreign missionary, was exclusively directed at native readership. The subsequent establishment by the Jesuits of major meteorological observatories in China and the Philippines also cannot be easily read as the deliberate prosecution of colonial-oriented goals, even if they would eventually be co-opted into that exercise.

The book in question was published in 1853 by the American missionary doctor Daniel Jerome MacGowan at Ningbo.'6 MacGowan himself did not claim to make any meteorological measurements, but he was an active participant in a programme of bringing Western scientific thought to the attention of educated Chinese, with the twin aims of rejuvenating their society and spreading the Christian message.° Two years earlier at Ningbo he had published Bo Wu Tong Shu or the Philosophical Almanac, a text introducing electricity to local readers in the context of explaining the electric telegraph. It contained illustrations featuring such items as Leyden jars and Toepler-Holtz machines, and proposed a never-to-be-adopted code of eighteen Chinese symbols to be used on the telegraph keyboard. That book was eventually translated into Japanese and its terminology played a role in decisions made there between Dutch-based and Chinese-based nomenclature in physics. The book by MacGowan of interest to us is titled Hang hai jin zhen (the Navigator's Golden Needle, see Fig. 1) and separately in English, The Law of Storms in Chinese. It consists of thirty-seven pages and is a singular publication on meteorology at the time. It contains a brief introduction in English, in which the author tells us that the chapter on typhoons in the South China Sea in Col. Reid's work forms the basis for his publication, but that works by Redfield and Piddington were also consulted.'$ He acknowledges financial assistance from J. C. Bowring at Hong Kong in publishing his pamphlet. He continues: 'So much of the science of meteorology as applies to the subject has been introduced, with some general principles of navigation as practiced in the West; the whole being interspersed with remarks on natural and revealed religion'. He castigated the Chinese for their slowness to appreciate new discoveries, but hoped that his pamphlet would help Chinese navigators to escape the fury of the storms and lead them to `make observations calculated to perfect our acquaintance with the tracks of revolving storms, in regions rarely visited by foreign ships'. He wrote further: 

they need instruction in those sciences which are the source of so much of the wealth and power of our native lands, and without which the resources of the empire can never be fully developed. In supplying them with works of a scientific character, we shall not only promote their material interests, but by employing these as media for conveying religious truth, we shall contribute largely to their intellectual and moral regeneration.

Apart from the text it contains five leaves of diagrams and a large folding sheet showing the course of typhoons in the China Sea. 

Fig. 1. MacGowan's 1853 booklet at Ningbo. Courtesy of the National Library of Australia. 

MacGowan translated the booklet into Chinese, he said, with supplements of his own ideas, so that mariners would know how to avoid hurricanes and master the principles of navigation. In this he is being modest. The work is not at all a literal translation of Reid's chapter. Not only does he add a discussion of basic meteorological principles like atmospheric pressure and the role of the earth's rotation in wind patterns, and adapt the material to the region of the South China Sea, but his discussions of phenomena are much more user-friendly than the sometimes rambling account in Reid. Although his main intention was to advise sailors on the avoidance of harm when encountering a typhoon, in a final chapter he introduces the principles and methods of navigation, especially the determination of position. Explaining the arbitrariness in assigning a zero of longitude, he chose the capital, Peking, as his zero reference in the one labelled chart he presented.19 He also explains the origins of the tides, contrasting the moon/sun role in the phenomenon with the role of a large fish in a hole in the sea believed by some, he said, to be the explanation. He admitted to ignorance of the names of some islands along the coast and of conditions in the seas north of Taiwan, and invited his Chinese sailor readers to help him. They should fill in the names of the unknown islands and if they encountered typhoons they should record the time, location and the change of the direction of the wind in a timely and continuous fashion, and send their records to the consuls of Western countries. When he had the results he promised he would write another book. He included a chart of typical typhoon tracks in the region, but in the absence of any land-based observatories in that part of the world at the time all such compilations were based on the reports in ships' logs, and it is not too surprising that the chart shows some deficiencies when compared with later summaries. We will return to this issue in chapter 6. 

The theological interventions threatened in the introduction are tolerably few. In defence of the scientific method he wrote how as a king administers his kingdom according to laws, so God administers the universe according to laws, too, and that the wind was to be understood as one of God's laws — a contrast he wished to make against prevailing yin-yang theories. More evangelical was his advice on personal behaviour on encountering a storm, and being in a position where the ship is nearly destroyed. The mariner should keep a cool head, not panic nor lose his wits and abandon steering. He should not prostrate himself before idols on board and so lose his own judgment. Instead, he should worship with his heart the only true God in heaven, and his son Jesus Christ. Only this God was effective. How could idols made from wood and earth save him? He closed his pamphlet on a moralizing tone, explaining how he had come from afar, not in search of profit or rank but to awaken common people to the truth, and how proper conduct in society, not focussing on profit and greed, was ultimately of greater importance than the avoidance of typhoons. Although of considerable interest to us here, it is questionable whether MacGowan's book had any significant influence in the country at the time. Did any sailors take up his advice to abandon idols, or his request to forward information to the foreign consuls? It seems unlikely; no second book emerged and no later writers on meteorology in China makes any mention of the one he did write. As we have seen, the book was an early indicator of efforts of foreigners and Chinese together to bring modern developments in mathematics and the sciences to the attention of the citizens of the Empire, but it was to be the only one centred on meteorology.20 We will encounter no later instances where colonial officials or missionary priests attempted to assimilate native potential in the advancement of the subject, but more usually an opinion on their part dismissive of the ability of local employees for such work. 

China: Systematic Recording Pre-1860

The earlier meteorological activity of the Jesuits in the capital had largely been forgotten by the time, more than a hundred years later in 1863, when an attempt was made to revive scientific meteorology there by Robert Hart, inspector-general of the Imperial Chinese Maritime Customs. But before we embark on that episode we must note some organized efforts to publish meteorological data for the country The Canton Register was inaugurated as an English-language publication in November 1827 and from issue No. 36 in October 1838 it began to carry regularly daily temperature, pressure and wind measurements for that city, although it does not state where or by whom they were made. The temperature was quoted to the nearest Fahrenheit degree and the pressure to 1/20th of an inch of mercury. A new journal in the city, the Chinese Repository, in its first volume in 1833 carried an article on the climate, reproduced some of the data for 1831 from the Canton Register, but also carried records of temperature and pressure at Macao from the 'private diary of Mr. Blettennann' and rainfall data at Macao for sixteen years courtesy of a Mr. Beale?' 

In 1835 Bemerkungen uber die klimatischen Verhaltnisse des sudlichen China by the pioneering German plant physiologist Franz Julius Ferdinand Meyen was published in Europe?' On a round-the-world expedition, 1830-32, he monitored meteorological conditions four times daily. On the basis of a four-month sojourn at Macao and Canton in the autumn of 1831, he presumed to write an account of the climate of South China. He made observations of the temperature for a couple of days in August at Northwest Lantau23 — where he also collected some botanical specimens — before moving on to Macao. There, for a couple of days he recorded temperature and pressure, followed by two weeks at Canton where he recorded thermometer and psychrometer (relative humidity) data. Although his report may contain the first meteorological data from what would become the territory of Hong Kong, his work is less useful for his own observations than for the compilation of earlier data from Canton and Macao that he presented. Some of it dates back to 1785, the temperature and the winds throughout that year at Canton recorded by C.-L.-J. de Guignes, the French consul in the city at the time.24 Meyen, in furtherance of his primary interest, botany, took the opportunity of visiting two men in Macao who cultivated large and mature gardens and found some interesting plant specimens. But the two men, the same two responsible for the data published at Canton noted above, were the Dutch general-consul there, Mr. Blettermann and an English merchant, Thomas Beale, who both dabbled in meteorology and had accumulated some records on rainfall and temperature.25 From Blettermann he collected the extensive data on rainfall he had recorded at Macao from 1812 to 1831 (excluding two years). Meyen also presents four years (1827-30) of temperature data (and one year of pressure data) at Macao recorded by Beale, and temperature data at Canton for 1829-31 as reported in the Canton Register of the time. The climate of Canton and Macao was also considered by another traveller at this time.26 He gave the mean monthly temperature and pressure during 1831 at Canton, from the Canton Register, and at Macao from a `private diary' of Mr. Blettermann. Average monthly rainfall over a period of sixteen years attributed to Mr. Beale was also presented. 

The Role of Observatories 

As we have noted, established observatories would be the main source of information on meteorology. Apart from evolving observatories in Japan, which in the years of interest to us, in their infancy, made but a small contribution to China Coast meteorology, all such institutions were products of the Western colonial expansion in that part of the world. As such they must be viewed in the context of the establishment of observatories overseas by the colonial powers generally, with the British dictating the paradigm for this study. There were, however, contributions by the French, the Spanish, the Russians and the Dutch, and also a tentative role by the quasi-autonomous Imperial Chinese Maritime Custom Service authorities. The role of observatories in the colonial expansion of Western powers into Asia is not a simple linear story. All the major colonial powers devoted effort to some aspects of the physical sciences usually associated with an observatory and established suitable institutions in that part of the world. In the case of Hong Kong a direct role in colonial expansion is clear. In several other cases it was more the fact that observatories, and observers, were co-opted into the imperial enterprise. However, the aspects emphasized could 

vary greatly, and the forces directing them were equally diverse. Astronomy, meteorology, seismology and geomagnetic phenomena all featured, with greater or lesser emphasis, in the developments. 

Astronomy was, of course, the doyen among these subjects, but its occurrence was more often the default condition of the practical requirements of providing a time service rather than the academic pastime its practitioners pursued in other parts and, indeed, would have liked to pursue in the Orient. Nowhere is this better illustrated than in Hong Kong, where, as we will see, the frustrated `Government Astronomer' fought a gallant, but unavailing, fight in defence of his passion for the subject. Nor can anywhere else in the region be said to have fared any better in this respect. The provision of a time service was a very important duty in the early days of these observatories, especially at ports with major shipping traffic such as Shanghai and Hong Kong. Indeed it was the very raison d'être for the founding of the latter observatory. The demands for such a service can be seen from the total numbers of vessels entering and leaving Hong Kong: in 1885, 27 100 (344 sailing), in 1900, 82 500 (78 sailing) and in 1912, 489 000 (1 sailing), with respective tonnages of 5.66 million, 18.45 million and 36.74 million. But from the intellectual point of view there was nothing new to be learned from this pursuit and, as it happened, the growth of telegraphy meant that the importance of locally establishing the time steadily declined. 

Seismology, in general, had a more particular local interest but, more relevantly, the subject was far from being easily understood and, at the same time, was of little practical application. Only true devotees were involved. The most intriguing subject in our purview of subjects studied in the observatories is terrestrial magnetism. The magnetic compass was an essential of navigation, both by sea and surface, and an accurate map of the geomagnetic field was a prime necessity, but the study of magnetism went far beyond such a pedestrian requirement. The analogue, in the nineteenth century, of a modern high-technology laboratory was a geomagnetic observatory. No expense was spared in furnishing such laboratories world-wide with the most sensitive of instruments, monitoring the time variability of the components of the earth's magnetic field. Once set up, such a laboratory was relatively easy to maintain, but did require a dedicated observer to supervise the observations. It must often have seemed a thankless task, but they contributed to the very foundations of the subject of geophysics, one might almost say, when correlations with solar conditions are acknowledged, cosmic physics.

Meteorology, however, was the paramount subject justifying the existence of these observatories. Not only did the expansion in sea and, later, air travel mean that it came to play an increasingly important role, but there was much that was new to be learned. This was especially the case with regard to storms in the Pacific and the China Sea, which were such a source of destruction to life and property both on land and on sea. It is recorded that on 17 July 1281 a fleet of 3500 ships assembled by the Mongol emperor Kublai Khan for an invasion of Japan was totally destroyed by a typhoon off the coast of Kyushu, and it was reported that only three of the 100,000 men aboard made it back to China. Storms in Europe, the Indian Ocean and the Antilles had been extensively studied by the middle of the nineteenth century and it remained to establish their nature and properties in the Far East. The historical importance of all the observatories in that part of the world lies almost entirely in the advances achieved by their pioneering staff in understanding such meteorological phenomena, and in weather forecasting. 

The Earliest European Institutions 

The Russian Observatory at Peking 

The earliest of the European-run meteorological services in Asia was a small unit attached to the Russian Orthodox Mission in Peking from 1841. In 1849 this was expanded to a magnetic cum meteorological observatory which was constructed on the grounds of the Embassy, and it recorded data sporadically until 1863.27 In 1867 the Academy of Science in St. Petersburg took over the operation and dispatched Dr. Hermann Fritsche as director of the Peking Observatory For the next sixteen years Fritsche coordinated a systematic programme of magnetic and meteorological observations, some of them at stations away from Peking. In 1877, at Shanghai, he published The Climate of Eastern Asia, the first substantial work (230 pages) on meteorology in that part of the world. It is perhaps a surprise to find Fritsche decrying the adoption of the metric system by European meteorologists (which, perforce, he had to use himself) since he was of the opinion that the French system differed more from the so-called natural measure than the English, and only 'France with its small territory' would be at a disadvantage if English standards were used.28 Much of his book is devoted to tables of temperature, pressure and cloud cover (minima, maxima and means), mostly at North Asian locations but including Shanghai, Fuzhou, Keelung, Canton, Hong Kong and Bangkok. We shall have cause to refer to it from time to time later. 

The Imperial Chinese Customs: Robert Hart 

An important figure in early meteorology in China is Robert Hart, the inspector-general of the Imperial Chinese Maritime Customs. The Chinese Maritime Customs, later when amalgamated with the Qing office of foreign affairs (the Tsungli Yamen), the Imperial Chinese Maritime Customs, was originally set up in 1854 as a foreign-operated institution by the Shanghai municipal authorities and the foreign consuls in the city. Although later formally part of the Qing administration, the British always retained a dominant position in the unit. 

Hart, an Irishman, was its long-serving second head (1863-1910). In the event, his efforts in meteorology, always but a very small part of his portfolio, were of much value, although much less successful than he had hoped for. Hart had already coordinated the customs medical officers at stations in the treaty ports into a data-gathering body for providing half-yearly reports, which went on to become a very successful operation.29 Encouraged by this, and mindful that climatic factors was one of the categories encompassed in that work, in November 1869 he devised a similar plan to encompass meteorology in the Empire.3° He wrote to the commissioners at fourteen Customs stations informing them that he intended a meteorological station to be associated with each Customs office. They would be equipped with the necessary apparatus, and `two or three simple books on Meteorology etc'. He originally saw the collection of data would also be done by lighthouse keepers at the many new lighthouses established along the coast. They would report, at least initially, to a meteorological department under the statistical secretary and the marine secretary, resident at Shanghai, although he hoped that `in a few years these meteorological stations will ... have at their head an observatory to be established in connection with the Peking college [Tongwen Guan]'. The Tongwen Guan, originally founded in 1862 as a college for interpreters, was later expanded and became the premier venue for the expansion in the teaching of mathematics and the physical sciences in the country. 

It was under the administration of the Customs Service. It was not until four years later that Hart became really enthusiastic about encompassing meteorology in the Custom Service's activities, observing that: `the Medical Reports are a success ... the meteorological observations and exchange of weather-news will, in time, fill up the gap and help to give the West sets of facts concerning the East that must prove most useful to scientific men',31 and 'if comparative meteorology is to accomplish anything anywhere anyday, 1 fancy our Stations will be as near the front as any others. I seem to have kept it back until just the right moment'.32 He would be sorely disappointed. He took steps to equip these stations. In March 1873 he asked J. D. Campbell, his agent in London, to consult with the astronomer royal on the required instrumentation, of which twenty sets would be purchased. Twelve sets were to be sent, he hoped by August of that year, to Shanghai, and eight to the Customs agent in Hong Kong," but later, on 29 May, he speaks only of twelve sets to be sent to the `cosmopolitan stations'.34 It is almost certain that his original idea to have sets of instruments sent to Hong Kong was not followed up, for reasons we cannot discern.

The unknown context, however, may explain a certain coolness detectable in his attitude later to the observatory established there; he appears to have had no input in the setting up of the observatory. He also wished his proposal to be made widely known among scientific circles at home, although he was not convincingly clear as to what would be achieved, at one time writing: `find out if there is any special line in which such stations can be made useful either to established receptacles of knowledge, or to isolated experimentalists, specialists, etc.' and at another: `here ... there is a movement under way to assist science and give shipping the benefit of the information supplied by daily observations'.35 For a man educated in the liberal arts (Greek, Latin, English literature, modern languages, etc.) at Queen's University, Belfast, Hart always showed a shrewd scientific sense, here wanting to know: 'which will be the best hours to take [the observations] and what will be the very smallest number to be taken daily to be compatible with utility'. By May of that year he had drawn up an ambitious list of sites along the Asian coast accessible by telegraph where he hoped to have meteorological stations established — Posiet (Vladivostock), Yokohama, Nagasaki, Newchwang, Hankow, Lamock Islands (near Shantou), Hong Kong, Manila, Saigon, Bangkok, Singapore and Batavia, and had written to the relevant authorities in this context. Already, he reported, the `Chinese Customs are going to send weather news by telegraph every morning from Shanghai to Hong Kong, Amoy and Nagasaki' 36 Some of the instruments arrived at Shanghai by early December, `two whole and four smashed barometers', but these broken instruments were not his only difficulty.

Others were to arise on two fronts, with the Chinese authorities perhaps not unanticipated — but also apparently, elsewhere. In his letter to Campbell, on 18 October 1873, he writes: `The [meteorological] work can be put off for another year: it will be better to begin well than to begin badly. You may be on the lookout for a meteorologist: but do not engage one until you have my positive orders to do so. I do not quite like the intensity of "Brother J's" interest: to me it looks like a desire to take the lead out of our hands, and I shall not authorize you to visit W. for the present'." A month later he is writing: 'we'll have to go at Meteorology very gradually'38 and in December: `Meteorology will not be in working order for two years more: but "Hart" is long, if time is fleeting'. If we take the identification by the editors of the letters, of `Brother J' with John Bull, i.e. England, and 'W' with Whitehall, it seems that the Colonial Office, with which Hart had no official relations, was taking an interest in the 

matter here, perhaps, lies another possible explanation for the total absence of any reference to Hart in the setting up of the Hong Kong Observatory. An antagonism in this direction is also suggested by Hart's unfavourable opinion of a Mr. Wodehouse who applied for a meteorological position, ostensibly because he was an amateur, but, as the editors of his letter suggest, the fact that Wodehouse was `a man of very high standing in the Colonial Service' did not endear him to the inspector general." 

Campbell informed Hart of the high opinion of Mr. Blanford, the meteorological reporter for Bengal, of his scheme: tut thinks it too "ambitious" and fears it will fail unless you can get a man, who thoroughly understands such work, to carry it out' 40 He finally decided that the data from the chain of coastal stations would be channelled to the head station in Peking and the programme directed by an astronomer stationed at the Tongwen Guan. A very suitable candidate for the astronomer's post was found, one Ralph Copeland, and in a letter to Campbell of 30 September 1874, he writes: 'Herewith authority to appoint Copeland ... the "Chair" means schoolmaster's work, ... life in China has many drawbacks: on the other hand it is possible that if he "takes well", he may make a career, for the Chinese have an immense reverence for Astronomy'.4" Mr. Copeland had some short-term plans, including a visit to Mauritius for observing the transit of Venus in late 1874, but such a delay was deemed acceptable and, for Copeland, turned out to be fortunate, for when the time came around that he was free to go to China the whole scheme had fallen through. The Chinese authorities appear to have had a change of heart, probably a reluctance to see further encroachment by foreigners in its territory in a sensitive field, though not so explained by Hart when he wrote to Campbell in January 1876 that: `the Yamen has backed out of its desire to have a Professor of Astronomy and says we must wait. I tell them they have lost such a chance as they'll never have again. They reply. "There's corn in Egypt".42 No more is heard of his proposal. Copeland went on to a distinguished career: professor of astronomy at Edinburgh and eventually astronomer royal for Scotland. As will be seen later, after 1882 the Jesuit observatory at Zikawei took over the coordination of data monitored by Customs officers along the coast, while the founding director of the Hong Kong Observatory was to come across the meteorological instruments, still stored unboxed, in the Custom Houses at Shanghai and Xiamen in the autumn of 1883 to begin a new phase in the story.

The attitude of reluctance of the Chinese Imperial government in respect of making use of foreign expertise contrasts with that of contemporary Meiji Japan, where foreigners were conscripted, at very attractive rates of pay, but for just such duration as enabled their expertise to be transferred to local students. A notable example was the unemployed ex-master of the Hong Kong Mint, Thomas William Kinder, whose salary as director of the Osaka Mint in 1870 was 50% more than that of the Japanese prime minister. There was also in China a failure to abjure traditional thinking. What one writer has described as `moral meteorology' still held a place in Imperial decrees, where the visitations of unwelcome climatic conditions was attributed to objectionable behaviour by the local population or their officials. 44 As late as 1870 the emperor in a decree blamed floods, droughts and deficient harvests on unhappiness in heaven with officials, great and small, in this echoing the earlier `moral meteorological analysis' of the Yongzheng Emperor:

We are of the opinion that although icy hail commonly occurs in the northern regions, yet the disasters suffered by the villages of Xuanhua seem uniquely severe, and rarely seen in recent times. It is evident that Heaven Above has been sending signs again and again to warn Xuanhua. If by any chance the local officials or common peoples regard these as accidents due to natural causation then they are inferior people who do not know how to tremble in fear and reflect on their transgressions."

In summary, it may be said that Hart overreached himself in his enthusiasm for meteorology, but his efforts were not totally in vain. Although lacking any formal integrating structure, meteorological recordings at the Customs stations were begun. Fritsche presents sporadic data on temperature and pressure, starting in 1871 from Imperial Maritime Customs stations at Chefoo, Newchang, Taku and Kelung. However, he considered the observations not of very great use, `being very incomplete, and obtained with instruments whose corrections are not known' 46 Some further information on observations made at the treaty ports is available in a recent publication.47 When Doberck arrived on the scene at Hong Kong some use could be made of the archived instruments, and data from the Customs stations were later to play an important role in the development of synoptic meteorology in the region. However, the prosecution of meteorology in a professional manner in China would have to wait a few years more until the establishment of the Zikawei Observatory at Shanghai by the Jesuits in 1873. 

The Established Observatories 

In the Europe of the eighteenth and nineteenth centuries the attraction of distant parts for students of the botanical and zoological sciences was obvious, as much from the point of view of gainful pursuit as the pursuit of pure science itself. And, indeed, such studies were enthusiastically pursued in the newly acquired colonies in both contexts. The case of the physical sciences was not so clear cut. By and large, exotic locations did not offer an advantage in studying them and their pursuit 'overseas' hinged very much on their utilitarian value. This aspect of the history of science has been vigorously promoted by commentators on ‘colonial science’ in recent times, and, indeed, the argument may be valid, but it certainly needs more investigation than it has received heretofore.48 Before looking into the observatories that had an important impact on the one that was to develop in Hong Kong, it is interesting to look briefly at some other related institutions.

The nineteenth century brought a flourishing of scientific-related activity generally and advances in meteorology became important from a practical point of view. However, it is with a brief consideration of geomagnetic monitoring that we introduce the ‘overseas' observatories. Following C. F. Gauss's suggestion of a systematic study of the earths magnetic field, an international array of monitoring stations was supported by the British government — the earliest example of what would later be termed a ‘campaign’. Under the supervision of Edward Sabine at the Royal Society, stations at Toronto, South Africa, St. Helena and Van Diemen's Land (Tasmania) — the ‘Colonial Observatories’ — were equipped with instruments designed by Humphrey Lloyd in Dublin. They monitored the field hourly (and for short periods, every few minutes), for a period of at least three years between 1840 and 1850. Meteorological observations did tag along — the temperature, in particular, was required for reducing the magnetic data — but otherwise it was a low priority concern. These colonial observatories were the prototype for later meteorological observatories, notably those at Mauritius and Hong Kong.

There were observatories at Madras and at Bombay but the most influential of the early observatories in the Indian Ocean, and one which could play a role model for a similar establishment at Hong Kong, was that operating at Mauritius. Time-keeping, meteorology and geomagnetic recording were practised at a public observatory on the island of Mauritius from as early as 1831, but it was 1874 when The Royal Alfred Observatory attained the status of a government department and became operational. Its first director was Dr. Charles Meldrum, a pioneer in the study of tropical storms. There was a lot of maritime traffic in the Indian Ocean, and good seamen’s practice was that the meteorological situation should be regularly recorded in the ship's log. Among the important parameters were the barometric pressure, the wind strength and direction, and the temperature. When later reduced and collated, such data, when combined with observations from the islands of Rodrigues, St. Brandon, Agalega, Diego Garcia and the Seychelles, enabled charts, so-called synoptic charts, of the situation at some earlier times to be drawn, which, if without direct forecasting potential, could reveal some useful information. On such a basis Meldrum first established the spiral motion of the wind inwards towards the centre of a tropical storm.49 This study gave rise to the well-regarded ‘Meld rum’s rules' for sailors when encountering such a storm.50

East Asia provided a notable void in the availability of global climatic data from before about 1875 — data which would be of considerable contemporary interest in the context of assessing the status of global climate change. Quantitative meteorology only became a subject of organized study from about that time.

The Philippines

Of all the external institutions that were to have an impact on the study of meteorology in Hong Kong, none rivalled in importance the observatory at Manila, even if the first director of ihe Hong Kong Observatory did not quite see the relationship in this way. By the mid-nineteenth century the extent of the great Spanish empire had dwindled to a few remote colonies. Although the Philippines was the largest of these, it was very much neglected, and education was poorly provided for. There were universities, but science was totally lacking from their curricula. The setting up of observatories under Spanish and French control fell to the private sector, in the guise of Jesuit missionaries. Suppressed for forty-one years from 1773 — at a time when they controlled thirty astronomical observatories — the Society of Jesus was re-established in 1814 and steadily reclaimed the ground it had occupied in the intellectual world in the seventeenth and eighteenth centuries. Harnessing advances in scientific knowledge in the cause of evangelization, as they had done with astronomical knowledge at Peking in earlier years, they set about establishing institutions of learning in various parts of the world. The first half of the nineteenth century had seen major advances in the field of meteorology which elevated it to a subject of great practical utility and thus recommended itself as a vehicle for their aims, much as a later generation of missionaries would see medical skills as an opportunity in the same cause.

Meteorological recordings in the Philippines were started, as a hobby, at the Ateneo, the Jesuit school in Manila, by Fr. Francisco Colina in 1860. Colina began publishing his observations in a local newspaper and these, together with the passage of a major typhoon over the city in 1865, stimulated local interests to contribute for the provision of meteorological instruments. These enabled regular monitoring and forecasting to be carried out from that year onwards, and the operation informally became known as the ‘observatory' and Fr. Colina as its ‘director’. The importance of the school as a meteorological observatory dates from 1866, with the arrival there of Federico Faura, who put the Observatory on a firm footing.51 Faura’s first interest was astronomy, and with two assistants he joined a Dutch team to observe a total solar eclipse in 1868 on the 

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Japan

Although not strictly a component of the ‘colonial observatories', early instrumental meteorology in Japan was largely in the hands of expatriates. The country in these early days played but a small role in regional meteorology. Only after the Meiji Restoration in 1867 did instrumental meteorology gain a foothold there. Hakodate Meteorological Station started in 1872. Europeans and Americans, no less than in the Philippines or China, played the lead role in this development, in the guise of yatoi, specialists recruited by the Japanese government to facilitate the entry of modern scientific methods into the administration of the Empire. Previous recordings of meteorological data, by visitors, were much less common than in the case of China because of the severely limited mobility of foreigners in the country. However, in recent years some early records have been located. Some data for Nagasaki and Tokyo (Edo) collected by a German doctor serving with the Dutch colony at Nagasaki from 1819 to 1828 survive, and there is a series of data from 1839 to 1855 recorded in the native observatory at Tokyo devoted to maintaining the calendar. The Dutch themselves started recording basic climatic data on Dejima Island (Nagasaki) from 1845.65 The earliest comprehensive recordings of meteorological parameters are by Erwin Knipping, and date from 1872. Dr. Knipping was a German mathematician at the University of Tokyo and he took a professional approach to the subject. Starting with data from October 1872, he regularly published monthly summaries of meteorological parameters (and sometimes daily observations) and his data were widely distributed.66 He also published some material on typhoons related to those islands. Later, Thomas Corwin Mendenhall, a professor of physics in the same university also started publishing meteorological recordings. The Tokyo Meteorological Observatory was set up in 1875, followed by observatories at Osaka (1883) and Kobe (1897). Storm warnings were hoisted, starling from 1883.

Early Meteorology in Hong Kong

Anecdotal records of some of the great storms in the counties adjacent to Hong Kong from the Song to the Qing dynasties (thirteenth to nineteenth century) have been preserved.67 In July 1841, in the earliest stages of the settlement by the British, a major typhoon struck, for which we have vivid reminiscences68 and, according to Eitel its near-annihilation of Hong Kong brought rejoicing in Imperial circles.61' If we ignore the very cursory observations by Meyen on Lantau in 1831, the earliest recorded readings were made by the British authorities. From day one of their occupation they monitored the basic meteorological parameters and as early as 1845 published in The Friend oj China and the Hong Kong Government Gazette a 'Meteorological Register*. A summary of the earliest data has been given by llo.7" Both the locations and the times where the observations were made changed over time. More devoted attention to meteorology resulted in a network of seventeen stations across the globe, including Hong Kong, under British Royal Engineer officers being established in 1851, later (1 April 1862) transferred to the Army Medical Department. Climate at the time was seen as a major factor in medical conditions. Some of them, including Hong Kong, reported until December 1884, when the operation was disbanded.71 These observations were, it seems, sometimes made in parallel with other observations. The Hong Kong Government Gazette was set up in September 1853, and from 29 April 1854 carried systematic reporting of these observations in the form of monthly averages (at five recording times daily) of pressure, wet and dry bulb thermometer, and associated dew point and humidity for the previous year taken at the Seamens Hospital in Wanchai. A Dr. James B. Thompson addressed some remarks on the climate of Hong Kong at a meeting of the Royal Geographical Society in London in 1845, but he focused mainly on the precautions Europeans should take to avoid illness.72 The first published summary of the climate in Hong Kong seems to be that of a Dr. Smart at the Royal Naval Hospital in 1863, but he gives no information on typhoons.73

He analyzed the local data, pressure and temperature from 1853 to 1858. lie also compared the average of this six years’ temperature data with those reported from Macao by Beale twenty years before, noted earlier, and commented on a great want of accordance’. Seeing that he could find good agreement between current data from Hong Kong and Canton, he concluded that ‘in the Macao series the instruments used may have been less exact than those with more modern improvements’. This illustrates just one of the many pitfalls modern day climatologists have to circumvent in their study of past records.

Quite detailed reporting of meteorological parameters in the Gazette began in February 1861 when bi-daily (9 a.m., 3 p.m.) readings at the Government Civil Hospital (later Government Lock Hospital) for every day in the previous month were presented as ‘Meteorological Tables' and continued, with only slight interruption, until the opening of the new observatory in 1884. Considering that they could hardly have served any practical use in the colony and were presumably offered as a contribution to the cause of pure science, the regularity, usually weekly, with which the data were published is impressive. They were sometimes summarized in global compilations, e.g. in 1863 the average monthly temperatures, as by then established, were published in the Philosophical Transactions of the Royal Society.74 But as with the data from other stations, it is not clear to what other purpose they obtained. To quote one writer: ‘it is possible that the Army Medical Department put them to practical use, but it seems more likely that they were stored on a shelf and forgotten’.75 In parallel with these data, from 24 November 1860 the Gazette every week printed ‘Weather Tables’ (from July 1876 titled ‘Meteorological Observations’) which contained data taken three times a day, at 6 a.m., 12 and 6 p.m. Initially the measurements were of the temperature and pressure as recorded at the Harbour Master’s Office on Queens Road and on the Peak, but they were eventually extended to include dry and wet bulb thermometers, maxima and minima, the wind and the weather, and to include reports also from Police Gap Station, Stonecutters Island and Cape d’Aguilar. From May 1876 the Daily Press also carried a 'China Coast Meteorological Register' which gave data for the previous day at Hong Kong, Shanghai, Xiamen and Nagasaki. There was thus no scarcity of recorded data, but the practical utility of the efforts must be questioned: published figures were never less than a week old, and usually much longer after the event. The quality of the data was also questionable in some cases; certainly the future director of the Observatory did not have a very high opinion of its reliability.76 A summary of some of the results is given by Ho.77 In terms of the acquisition of basic meteorological data the existing arrangements by the end of the 1870s were probably adequate or, at most, required some closer supervision of the instruments used.

What was not adequately provided for was any kind of forecasting, and especially warning of, approaching typhoons. This was illustrated by the case of a big typhoon that struck Hong Kong in September 1874 and claimed more than 2500 victims. In his history of the times, Eitel, a witness to the event, gives a colourful account of it.7x An account of the storm was also carried in Nature, which claimed, inter alia, that an earthquake occurred while the typhoon was raging. This was based on the fact that several public clocks stopped at the same time, just the time when the storm was registered at being at its peak. This was not the first suggestion of the possible association of an earth tremour with a typhoon, but none of the evidence was unambiguous.*0 The prominent meteorologist and author, Piddington, had drawn attention to the need for study of the matter, but his work seems to have been overlooked by the Nature columnist. Some years later, in 1894, Fr. Algue in Manila hit upon microseismic movements as possible precursory signals for a typhoon and devoted a chapter to them in his book.*1 The Manila observatory was doing seismic monitoring at the time, taking readings of a tromometer (a primitive seismograph) every hour. From his own observations on several storms Algue argued that the main disturbances occurred when the storm was over land, and in particular when it was incident on a mountain range. It would be many more years before it became established that microseisms can be produced, mainly by the oceanic convulsions which result from cyclonic storms. Indeed these disturbances can now be used to estimate the locations of typhoons over the sea. It is likely that such travelling microseismic disturbances will act as a trigger for a more significant tremour in a region where critical crustal stresses already occur.

An alternative proposal for the association of seismic movement with typhoons is the proposal that a sudden release of pressure, as would occur when the eye of a typhoon passes over land, may play a similar role in releasing pent-up stresses. The latter hypothesis, now seldom embraced, was especially propounded by Fr. Frnesto Gherzi, a later director of Zikawei, and post-1949 a member of staff of the Hong Kong Observatory.*2 This has been an opportunity to mention, however briefly, the aspect of seismology in an observatory and to note that we will not be returning to it. Although obviously of great importance in places like Japan and the Philippines, in the days before nuclear power stations were contemplated it was realized that little practical benefit to the Hong Kong community could accrue from a pursuit of this discipline. There were occasional, fleeting references to the introduction of seismology into the future Hong Kong Observatory, notably efforts in 1898 from London to establish seismic monitoring. This was aborted, ostensibly on the grounds of the, not very large, cost, but with the hand of the governor strengthened by the directors reluctance to get involved, citing lack of space and shortage of manpower at the Observatory.83 It would be 1921 before instrumentation appropriate to the