参考文献References.
(1) Campbell, John Francis, 1860-63: Popular Tales of the West Highlands, Orally Collected with a Translation, 4 volumes, Edmonston and Douglas.
(2) Campbell, John Francis, 1865: Frost and Fire, Natural Engines, Tool-Marks and Chips with Sketches Taken at Home and Abroad by a Traveller, J.B. Lippincott & Co.
(3) Campbell, John Francis, 1876: My Circular Notes. Extracts from Journals, Letters sent Home, Geological and Other Notes, written while Travelling Westwards Round the World, from July 5, 1874 to July 6, 1875, 2 Volumes, Macmillan and Co.
(4) Campbell, John Francis, 1875: Journal of John Francis Campbell in which he continues his account of his visit to America in 1874 and goes on to describe his travels through Japan, China, Java and Ceylon in 1875, the National Library of Scotland (Manuscripts), Reference Number: Adv.MS.50.4.10.
(5) Gordon-Comming, Constance Frederica, 1904: Memories, William Blackwood and Sons,
脚注Footnotes.
(1) 参考文献 (3): Volume II, Preface.
(2) 参考文献 (4).
(3) Thompson, Francis, 1990: John Francis Campbell (1821-1885), Folklore, vol.101-1, pp.88-99.
(4) 参考文献 (1).
(5) 柳田國男 1990: 郷土生活の研究法, 筑摩文庫『柳田國男全集』28, 85頁. 柳田蔵書目録には『Popular Tales of the West Highlands, 4 volumes, 1890-93』があり、柳田は第5刷版を所有していた。
(6) ジョン・キャンベルという人物が世界旅行の途中に日本に寄ったことは、次の書籍に紹介されている。中野明 2013: グローブトロッター, 世界漫遊家が描いた明治ニッポン, 95-100頁。
(7) 参考文献 (2).
(8) The Saviour of Gaelic Folklore, 2023: An Exhibition at the National Library of Scotland.
(9) Sanchez-Lorenzo, et., 2013: New insights into the history of the Campbell‐Stokes sunshine recorder, Weather, vol.68-12, pp.327-331.
(10)エリザ・マリア・ゴードン-カミングEliza Maria, Lady Gordon-Cumming, 1795-1842。ショーフィールドとアイラの領主であるジョン・キャンベルと第5代アーガイル公の娘のシャーロッテ・スーザン・マリアの間に長女として生まれ、幼少期から領地から発見される化石に興味を持つ。古代生物学者や地質学者と交流しながら化石の収集分析を行い、またそれらを精密に描き、画家としての評価も高い。
(11) チャールズ・ライエルCharles Lyell, 1797-1875。スコットランドのアンガスに生まれ、オックスフォード大学で地質学や古典を学び、その後リンカーン法曹院を経て弁護士となる。地質学者に転じ、キングス・カレッジ教授時代に『地質原論Principles of Geology, 3 volumes, 1830-33』を著し、彼が提唱した斉一説は近代地質学に大きな発展をもたらした。
(12) ジャン・ルイ・ルドルフ・アガシーJean Louis Rodolphe Agassiz, 1807-1873。スイスに生まれ、化石生物学と地質学の研究を通して、1837年にかつて北半球の大部分が氷河に覆われていたという極氷河説を唱えた。これは自然科学界から大きな反響を呼び、19世紀後半の自然科学の大きな課題の一つとなった。
(13) コンスタンス・フレディリカ・ゴードン-カミングConstance Frederica Gordon-Comming, 1837-1924。スコットランド北部のアルタイアの貴族の家に生まれ、高い教養を身につけて育ち、19世紀後半のイギリスを代表する女性旅行作家となった。コンスタンス著『ヘブリディーズからヒマラヤへFrom the Hebrides to the Himalayas, A Sketch if Eighteen Months’ Wanderings in Western Isles ad Eastern Highlands, 1876』はイザベラ・ルーシー・バードIsabella Lucy Bird, 1831-1925)が校正を担当し、二人の間には強い交流があった。
(14) ジョージ・ジョン・ダグラス・キャンベルGeorge John Douglas Campbell, 1823-1900。第8代アーガイル公爵を継承して政界に入り、逓信省、王璽尚書、インド省の大臣職を勤め、また、王室から篤く信頼されていた。彼の学術的業績は以下の論文に詳しく紹介されており、政界に入らなければ19世紀後半イギリスの科学者として大成していただろうといわれる。Bossoh, Nathan K.C., 2022: Science, Empire, and Polymathy in Victorian Society: George Douglas Campbell, The 8th Duke of Argyll, Ph.D. Dissertation, ULC.
(15) 従妹のコンスタンス・フレディリカ・ゴードン-カミングは、アーガイル公キャンベル家やアイラのキャンベル家などと深い交流関係を『追想Memories』の中で述べている。
(16) 参考文献 (3): Volume I, Letter of Introduction。
(17) 参考文献 (1): Volume I, Introduction。ノーマン・マックロウド(Norman Macleod, 1783-1862)はスコットランド国教会の高名な牧師で、幼少期からゲール語に親しんでいたため、ハイランドの人々にゲール語によるキリスト教教育を勧めた。その傍らゲール語によ散文詩作を行っていたが、宗教家として民話神話の類は迷信や異教的であるとして一歩踏み出せないでいた。
(18) 参考文献 (1): Volume I, Introduction。ジョージ・ダセント(George Webbe Dasent, 1817–1896)は、オックスフォード大学で古典文学を学んだ後、外交官となりスウェーデンに就任した。ストックフォルムでヤーコブ・グリムと親交を結び、彼のすすめで北欧神話の研究の道に進んだ。1840年代から60年代にかけて、スカンジナビアからアイスランドの言語文法や民話に関する本を英語出版した。彼の本の中で、ノルウェー民話に関する1859年の著作はキャンベルの民話研究に大きな影響を与えたといわれる。
(19) 参考文献 (1): Volume I, Introduction。ジェームス・マックパーソン(James MacPherson, 1736-1896)は、ジャコバイト反乱の最中にスコットランド北部のインヴァーネス近郊に生まれ、平定された後、アバディーン大学で歴史学を学ぶ。エジンバラに出て、牧師で文筆家のジョン・ホームからゲール語叙事詩の出版を進められ、ハイランドで叙事詩の写本を探し出し、その成果を『オシアン』詩集などとして発表した。
(20) ロバート・スティブンソンRobert Stevenson, 1772-1850。19世紀前半スコットランドを代表するシヴィル・エンジニアの一人。グラスゴーに生まれ、養父のトーマス・スミスに従い技術者を目指し、アンダーソン大学やエジンバラ大学で理論を学び、北方灯台局の技術主管となった。灯台建設はアラン、デヴィッド、トーマスの三人の息子たちに引き継がれ、トーマスの息子が小説家のロバート・ルイス・スティブンソン(Robert Louis Stevenson, 1850-1894)である。
(21)ヘンリー・チャールズ・オットーHenry Charles Otter,1807-1876。イギリスの海軍士官で、長らく水域測量に従事した。大ブリテン島西海岸の測量と地図作製以外に、クリミア戦争時のバルチック海測量と大西洋海底ケーブルの敷設測量を指揮した。明治政府の測量師長となったコリン・アレクサンダー・マクヴェイン(Colin Alexander McVean, 1838-1911)はオットーの下で、4年間実務経験を積んだ。
(22) ウィリアム・ジョーンズWilliam Jones, 1746-1894。イギリス人言語学者。父親は数学者のウィリアム・ジョーンズであったが、幼少期から語学に才能を示し、オックスフォード大学でラテン語、ペルシャ語、ヘブライ語などを習得。法律家の仕事に就き、東インド会社のカルカッタ管区裁判所判事となり、現地人裁判のためにサンスクリット語古文書の解読に努めた。1784年にベンガル・アジア協会を創設し、初代会長を勤めた。
(23) ジョン・クロフォードJohn Crawfurd, 1783-1868。アイラ生まれの外交官、東洋学者。エジンバラ大学で医学を学び、卒業後、東インド会社専属医となり、インドに渡る。行政官に転じ、トーマス・ラッフルズ(Thomas Stanford Raffles, 1781-1826)の下でペナン植民地やオランダ東インド(現インドネシア)に勤務し、その間、東南アジアの島嶼部の歴史文化に通じていった。『インド島嶼部の歴史History of Indian Archipelago, 1820』、『マレイ語の文法と辞書Grammar and Dictionary of Malay Language, 1852』など、東洋の歴史文化言語などに関して多くの著作がある。チャールズ・ダーウィンの進化論やマックス・ミュラーのアーリア語学説などの単一起源論には反対の立場をとった。1861年にはロンドン民族学会会長を務めた。
(24) 参考文献(3)の第2巻119頁及び199頁に、クロフォードから多大の影響を受けたことが述べられている。
(25) 参考文献 (1): Volume I, Preface.
(26) ローレンス・オリファントLaurence Oliphant, 1829-1888。スコットランド出身の両親のもとにケープ植民地で生まれ、その後、父親がセイロン植民地官吏となったため、スリランカで幼少期を過ごした。21歳の時、イギリスに戻り、旅行作家として活躍した後、エルギン伯爵の訪中及び訪日使節団に秘書として参加した。『エルギン卿遣日使節録』を著し、1861年、駐日公使館一等書記官として再来日したが、攘夷浪士による東禅寺襲撃事件により負傷し帰国した。アジア諸国の急激な西洋化に対し批判的立場を取っていた。
(27) 注 (9)。
(28) Campbell, George Douglas Eighth Duke of Argyll, 1906: Autobiography and Memoirs (1823-1900), Volume One, p.126.
(29) 参考文献 (2)。
(30) Campbell, John Francis, 1865: A Short American Tramp in the Fall of 1864, Edmonston and Douglas.
(31) Campbell, George Douglas Eighth Duke of Argyll, 1873: The Anniversary Address of the President, the Quarterly Journal of the Geological Society of London, Volume 24, pp. xxx-lxxviii.
(32) Campbell, John Francis, 1873: About Polar Glaciation and etc., the Quarterly Journal of the Geological Society of London, Volume 30, pp.450-478.
(33) Carlisle, Arthur Drummond, 1871: Round the World in 1870 : An Account of a Brief Tour Made Through India, China ,Japan, California, and South-America.
(34) Verne, Jules 1873: Le Tour du monde en quatre-vingts jours (Around the World in Eighteen Days).
(35) Campbell, John Francis, 1883: Thermograph, J. Wakeham and Son, 390p. 「サーモグラフィ」と題してるが、キャンベルの地学、生物学、天文学、物理学、抽象論などへの関心を書き留めたものである。
(36) Campbell, John Francis, 1911: Celtic Dragon Myth, The Celtic Dragon Myth, John Grant, 170p.遺稿はグラスゴー大学ゲール語教授のジョージ・ヘンダーソンによって解説が付され出版された。
(37) 参考文献 (3): Volume II, pp.215-323.
(38) 参考文献 (3): Volume 1, p.5, p.171.
(39) Mitford, Algernon Freeman, 1871: Tales of Old Japan, p.25, p.43.ミットフォードが日本の民話について助言してくれたことは以下に述べられている。参考文献 (3): Volume II, pp.196-197.
(40) 参考文献 (3): Volume I, p.171.
(41) 参考文献 (3): Volume I, p.159.
(42) 参考文献 (3): Volume I, p.1-2.
(43) 参考文献 (3): Volume I, p.7.
(44) 参考文献 (3): Volume I, p.159.
(45) 手稿では、ロバートソン領事以外に、サトウ、フィリップ、ベイン、ウォルカーなどが東京へ同行したことになっている。
(46) 参考文献 (3): Volume I, p.183.
(47) コリン・アレクサンダー・マクヴェインColin Alexander McVean, 1838-1911。泉田英雄、明治政府測量師長コリン・アレクサンダー・マクヴェイン:公共建築営繕、測量、気象観測への貢献、文芸社、2022年。
(48) 参考文献 (3): Volume 1, pp.218-220.
(49) Curoda。「もと3万人の家来を持つもと藩主で、彼の江戸屋敷は現在外務省が入居している」とあるので、元福岡藩主の黒田長溥(1811-1887)。
(50) 参考文献 (3): Volume 1, pp.220-221.
(51) Katata.外国人にとって「た」の破裂音は聞き取りにくく、「カ」と聞き間違えたらしい。マクヴェインが、1873年に一時帰国した際、ケンジントで物産調査しているこの人物に会い、日本に戻って同じ内務省所属となり親交が続いた。キャンベルへの自己紹介で、「アメリカに滞在の経験がある」と述べているので、旧幕臣の塚原昌義すなわち武田昌次昌(1825-1888)で間違いない。キャンベルとマクヴェインが、1874年11月に日光旅行した際、同行したのはこの武田の息子ということになる。
(52) Yoshi。マクヴェインの友人の吉井友実(1828-1891)。吉井は1874年6月に宮内省を辞めたにもかかわらず、キャンベルに自己紹介する時、肩書きを侍従と語っている。
(53) Oyma。マクヴェインの友人の一人で、吉井友実の娘と結婚した大山巌(1842-1916)。
(54) 参考文献 (3): Volume 1, p.223.
(55) ヘンリー・バトソン・ジョイナーHenry Batson Joyner, 1839-1902。イギリス人技師で、1870年に鉄道建設のために明治政府に雇用されたが、1871年10月に工部省に測量司が発足すると、そちらに転じてマクヴェインの下で技師補を勤めた。
(56) Kawamura.川村純義(1836-1904)。薩摩出身で、長崎海軍伝習所第一期生として入所し、戊辰戦争では薩摩皇軍に奮闘。明治政府の海軍創設に尽力した。
(57) 1873年ウィーン万国博覧会委員長A Commissioner of Vienna Expositionとあるので、佐野常民に間違いない。佐賀藩の洋学者で、川村純義らとともに長崎海軍伝習所で学び、明治政府で産業育成に尽力した。佐野が工部大丞の時、測量師長マクヴェインとの交流が始まり、お互いの家を訪問しあっていた。
(58) The Far East: Vol.6, No.VI, December 31st, 1874, p.142.
(59) 参考文献 (3): Volume I, p.253-257.
(60) 原口孝昭、1998: 明治7年の金星日面通過観測―観測隊の動向、政府等の対応、派生事項について―、平成10年度文部省科学研究費補助研究報告書、1999年
(61) 参考文献 (3): Volume I, p.320.
(62) ウィリアム・ヘンリー・スミスWilliam Henry Smith, 1838-1886. 横浜外国人居留地のイギリス人実業家。牧師の家に長男として生まれ、海軍に入り、1857年にアロー戦争のために中国に派遣された。除隊後、開港になったばかりの横浜にやってきて、西洋人クラブの支配人となり、横浜居留地の発展に大きく寄与した。彼が日本の動植物を採集して、西洋人に販売していたことはこのキャンベルの記録から初めて知らされる。
(63) ポール・キャリーPaul Carry。この人物の由来は不明であるが、キャンベルは彼と中山道道を仲良く旅し、下諏訪で別れるときにはロンドンでの再会を約した。
(64) ジャン・ポール・イシドール・ヴィダルJean Paul Isidiore Vidal, 1830-1902。イシドール・ヴィダルはフランス人医師で、幕末に横須賀製鉄所の医師として来日し、明治維新後、富岡製紙工場に転任。その後、新潟県の医師を勤めたこともあり、日本の温泉の効能を調べるために、積極的に各地を旅行調査した。須永泰一 2012: フランス人医師ヴィダルの報告「日本の温泉」, 日本医史学雑誌 第58 巻第1 号, 85–92頁.
(65) 参考文献 (3): Volume I, p.269.
(66) 参考文献 (3): Volume I, p.279.
(68) 参考文献 (3): Volume I, p.271
(69) ジョン・アルバート・ロビンソン・ウォータースJohn Albert Robinson Waters, 1848-1907。アイルランド出身の技術者で、兄のトーマス・ジェームスThomas James Watersがすでに明治政府に雇われていた縁で、ジョンとジョセフJoseph Ernestの二人の弟たちも来日し短期間政府雇用となった。詳しくは、丸山雅子 2023: ウォートルス家の次男、季刊ファインスチール、11-12ページ。
(70) 参考文献 (3): Volume I, p.281.
(71) 参考文献 (3): Volume I, p.282
(72) エドワード・ウィリアム・レーンEdward William Lane, 1801-1876。19世紀後半のイギリス人東洋学者。イングランドの牧師の家に生まれ、独学でアラビア語を修得しエジプトに遊学。ジョン・ウィルキンソンなどの中近東学者との知遇を得て、東洋学者となり、『近代エジプト人の慣習The Manners and Customs of the Modern Egyptians, 1836』に引き続き、『千夜一夜物語The One Thousand and One Nights: The Arabian Nights’ Entertainments, 3 volumes, 1839-1841』を著した。キャンベルはこの千夜一夜物語を熟読していた。
(73) 参考文献 (3): Volume I, p.288.
(74) マクヴェイン文書The McVean Archive(MVA)のジョン・ハーリントン・ガビンズ発マクヴェイン宛ての手紙に同封されていた。イギリス公使館職員のガビンズはマクヴェインの長女ヘレンと結婚し、日本では軽井沢に別荘を所有していた。
(75) 参考文献 (3): Volume I, p.290.
(76) Lawrence, C. W. 1873: Journey from Kioto to Yedo by the Nakasendo Road,The Journal of the Royal Geographical Society, Vosalume 43.
(77) 参考文献 (3): Volume I, p.315.
(78) 参考文献 (3): Volume I, p.326.
(79) 参考文献 (3): Volume I, p.340.
(80) 参考文献 (3): Volume I, p.342.
(81) 参考文献 (3): Volume I, p.344.
(82) 参考文献 (3): Volume I, p.352.
(83) 参考文献 (3): Volume 1, p.355.
(84) 参考文献 (3): Volume I, p.356.
(85) 参考文献 (3): Volume II, p.3.
(86) 参考文献 (3): Volume II, p.7.
(87) 参考文献 (3): Volume II, p.16.
(88) 参考文献 (3): Volume II, p.17-18.
(89) 参考文献 (3): Volume II, p.30.
(90) 参考文献 (3): Volume II, p.32-33.
(91) 参考文献 (3): Volume II, p.37-38.
(92) 参考文献 (3): Manuscript, p.168.
(93) トーマス・ウィリアム・キンダーThomas William Kinder, 1817-1884。イギリス人軍人、技術者。ロンドンに生まれ、1840年から53年までに陸軍に所属。その後、鉄道建設会社を共同経営していたが、1863年に香港植民地の造幣所長官に任命され、その建設と組織運営を担った。1868年に同造幣所は廃止となり、機械類は明治政府に買い取られ、キンダーも所長として日本に渡った。1875年まで日本で勤務し、息子のクロード(Claude William Kinder, 18753-1936)も技術者となり、日本で1873年から5年間、中国で1875年から1909年まで鉄道建設に従事した。The Institute of Civil Engineers 1884: Obituary, Thomas William Kinder, Volume 73, pp.448-49.
(94) 参考文献 (3): Volume I, p. 284.
(95) 参考文献 (3): Volume I, p. 346.
(96) 聖ジョージSaint George。キリスト教の聖人の一人で、英語で聖ジョージ、ラテン語でゲオルギオスと呼ばれる。ドラゴンを退治したことで知られているが、この伝説はキリスト教以前の中央アジアに起源があるといわれている。
(97) 参考文献 (3): Volume II, p.327.
(98) Fergusson, James: 1868, Tree and Serpent Worship, or Illustrations of Mythology and Art in India,
(99) 参考文献 (3): Volume II, p.329.
(100) 参考文献 (3): Volume II, p.332.
(101) チャールズ・ジェームス・ウィリアム・フォンデス(Charles James William Pfoundes, 1840-1907)。アイルランドに生まれ、イギリス海軍に入ったが、すぐに辞めてオーストラリアに移住。ジョン・レディ・ブラックの知遇を得て横浜にやってきて、日本語学習に留まらず歴史文化に親しみ、後に仏教に帰依した。
(102) 参考文献 (3): Volume I, p.297-98.
(103) 参考文献 (3): Volume II, p.24-26.
(104) 参考文献 (3): Volume II, p.46-47.
(105) 参考文献 (3): Volume II, p.49-51.
(106) 参考文献 (3): Volume II, p.119. この頁にクロフォードにジャワの古代について教えてもらい、また古美術品をもらったことが書かれている。
(107) Alfred Russel Wallace, 1823-1919, the Malay Archipelago, 1869.
(108) ウィリアム・トムソン・フレーザーWilliam Thomson Fraser, 1844-1880。スコットランドに生まれ、オランダ領東インドでフレーザー商社を経営していた叔父を頼ってジャワにやってくる。スマランのイギリス領事代理を兼務し、1875年にバタフィア領事に就任した。
(109) アンソニー・オリファントAnthony Oliphant, 1793-1857。スコットランドのパースの名家に生まれ、ケープ植民地の判事の職を得て南アフリカに渡り、1838年からセイロン植民地の裁判長を務めた。スリランカで茶プランテーションを始めた一人として知られる。
(110) Sigiriya Rock.アヌラダープラ王国は、5世紀末のカッサバ一世王治世時にダンブッラ近くのシーギリヤに遷都した。大きな岩山の上に王宮を築き、周囲に貯水池や壕を配置したが、同王の死去後、アヌラダープラに都が戻ったため、都市形成までには至らなかった。
(111) 参考文献 (3): Volume II, p.152.
(112) Sigiriya Frescoes.カッサバ一世治世時に大岩側面の甌穴に美しいフレスコ画が描かれ、20世紀末に世界遺産に指定された。
(113) Thomas William Rhys Davids, 1843–1922.トーマス・デーヴィスはイギリス人東洋学者の一人で、20歳代後半にセイロン植民地官吏を勤めた。
(114) 参考文献 (3): Volume II, p.153-154
(115) 参考文献 (3): Volume II, p.171-172.
(116) 参考文献 (3): Volume II, p.174.
(117) ジョージ・グランヴィル・キャンベルGeorge Granville Campbell, 1850-1915. ジョージ・グランヴィルは海軍士官としてチャレンジャー号海洋探検隊に参加し、『喜望峰からオーストラリアへのチャレンジャー号の私的航海日誌Private Journal of Lord George Granville Campbell, H.M.S. Challenger from Cape of Good-Hope to Australia (1875)』と『チャレンジャー号の航海日誌Log-Letters from the “Challenger, (1881)』の二冊を著しており、後者には詳細な日本滞在記が含まれている。
(118) Tylor, John 1630: All the Works of John Taylor, the Water Poet, p. 116.
(119) 参考文献 (3): Volume II, p.280.
(120) 参考文献 (3): Volume II, p.297.
(121) 参考文献 (3): Volume II, p.299.
(122) オリバー・ウェンデル・ホームズ(Oliver Wendell Homes, 1809-1894)。アメリカ合衆国のケンブリッジに生まれ、ハーバード大学を経て医師となり、その傍ら旺盛な文芸活動を行った。彼の地球構造の考察は、『エルシー・ヴェナーElsie Venner (1861)』の中に述べられている。
(123) 参考文献 (3): Volume II, pp.316-322.
(124) Review of Campbell’s “My Circular Notes,” The Fortnightly Review, June 1, 1876.
(125) Current Literature and Current Criticism on Campbell’s “My Circular Notes,” New Quarterly Magazine, New Quarterly Magazine, April to July, 1876.
(126) Review of John F. Campbell's "My Circular Notes," on NATURE of April 20, 1876.
(127) 柱脚 (8).
(128) Taylor, Karen, 2025: Constance Frederica Gordon-Cumming, Karen Taylor Fine Art.
(129) John F. Campbell’s Letter to Colin A. McVean dated June 21, 1875. Niddry Lodge, Kensington, The McVean Archives.
(130) イザベラ・ルーシー・バードIsabella Lucy Bird, 1831-1925. Gordon-Cumming, Constance Frederica, From the Hebrides to the Himalayas, A Sketch if Eighteen Months’ Wanderings in Western Isles ad Eastern Highlands, 1876』はが校正を担当し、二人の
(131) Isabella L. Bird’s Letter to Colin A. McVean dated February 24, 1878. The McVean Archives.
(132) 寺田寅彦, 1933 : 神話と地球物理学、文学、1933年8月号.