A Report of Architectural Survey of Toyohashi Orthodox Church

日本ハリストス正教会豊橋聖堂の建築調査報告

Hideo Izumida, Haruyasu Ito, and Yasuhiko Nishizawa, March 20, 2009

第1章 ハリストス正教会と豊橋

1節 正教会と聖ニコライ 

江戸幕府がキリスト教禁止令を発布してから2世紀半後、安政の修好通商条約によって外国人居留地という限られた場所ではあったが、再び日本国内にキリスト教徒が居住することになった。さっそく、いくつかのキリスト教団がこの居住者に礼拝の場としての教会を建設しつつ、日本人への布教の機会をうかがっていた。いまだ日本人にはキリスト教禁制が解かれていなかったが、いわゆる隠れキリシタンがいた長崎では、カトリック教会がいち早く活動を再開した。そして、1860年、大浦の地に近代になって初めてのキリスト教会が建設された。 

カトリック教会が日本との歴史的つながりを利用していったのに対して、英国国教会とロシア正教会はまったくゼロから布教活動を始めた。この二つの教会は別個の団体であったが、組織構造は似ている点があった。両者とも国王が教会首長を兼ね、国家が海外に領事館を開設するとともに、教会側もそこに宗教施設を設置することになった。領事館の仕事である邦人管理業務には結婚、出産、洗礼、葬儀などの登録が含まれ、これらは宗教儀礼と切っても切り離せないもので、領事館と教会はイギリスとロシアの海外発展にとって車の両輪であった。 

領事館付司祭は、同胞へ宗教儀礼などの便宜を提供するだけではなく、実際はキリスト教が持つ使命として地元民への布教活動も行った。箱館では、当初ロシア領事館は実行寺を仮止泊所としていたが、1859年に大工町(現元町)を奉行から借り受け、翌年ここに領事館建物と日本最初の正教会聖堂を完成させた。ところが、初代の領事官付司祭のマアホフ師は病気のために帰国することになり、1861年、後任としてやってきたのがその後約半世紀にわたり日本でのロシア正教会の活動を指揮することになる聖ニコライであった。彼の自伝によれば、たいそうな資産家の出でありながら神学をこころざし、日本での伝道活動を自ら強く望んでいたという。 

箱館で数人の有力日本人信徒を得ると、1872年本州の太平洋側を南下し、明治日本の中心である東京へ向かった。伝道活動は、1873年(明治6年)に日本人のキリスト教信仰が許されると活発化し、宮城県北部や愛知県東部などの沿岸地方都市で大きな成果をあげた。1885年(明治18年)で1万2千人の信徒を数えるまでになり、愛知県では名古屋、半田、内海、岡崎、豊橋などに祈祷所が設けられた。 

2節 聖堂の建設事業 

ハリストス正教会聖堂建築に関しては、1960年代、東北大学教授であった坂田泉氏が先駆け的研究を行った(注1)。東北地方には明治初期から20を越える木造教会が建立されていたが、当時老朽化が目立ち、文化財としての保護が必要になっていた。これは 

 

図1-1 愛知県沿岸部の主要都市 

東北地方に限られたものであったが、1970年代末に名古屋大学の鈴木甲子男氏は修士研究として初めて日本全国のハリストス正教会聖堂を取り上げた。関連する文献を丹念に収集され、日本におけるハリストス正教会聖堂の建設経緯と建築的特徴を明らかにした(注2)。個別の調査として、東京復興大聖堂(ニコライ堂)は東京の重要なランドマークであり、またジョサイヤ・コンドルや岡田信一郎などの有名建築家が建設や再建に関わったことから、詳細な建築史研究が行われた(注3)。ニコライ堂以外では、京都聖堂と小田原・箱根教会建物に関して、文化財指定に際して簡単な建築調査が行われたに過ぎない(注4)。 

これら研究は竣工記念誌などの公式出版物に多くを依拠しているが、今後教会ごとの日誌を発見、解読することによって、誰がいつどのような方針で設計し、建設を進めていったのか詳細に明らかになると思われる。本調査はその一つの試みでもあり、まずは既往研究をもとに豊橋聖堂建設に至る経緯をまとめておく。 

2.1.明治初期木造聖堂 

日本での初期民間礼拝施設は居宅を改造したがほとんどで、祈祷所や小会堂と呼ばれた。宮城県北部の北上川下流域には信徒が多く、1877年時点で十を超える祈祷所があった。その中で1879年の佐沼を手始めに、1880年に石巻、1883年に涌谷の地にそれぞれ聖堂が建設されていき、この三つの聖堂建築の形態はよく似ていることから、同じ設計案を基に同じ職人たちが順次建設していったと考えられる。 

現存している石巻聖使徒イオアン聖堂(注5)からその特徴を挙げると、寄棟屋根総二階建ての白漆喰仕上げであること、玄関ポーチが東側に設けられ、その上に多角形の至聖所がくることである(写真1)。この平面形態では、玄関、啓蒙所(集会所)、聖所、至聖所というハリストス正教会聖堂の空間序列は護られるが、機能が上下2層に分割されてしまっている。鐘楼とキューポラがないという点も含め、このような特徴は、1875年東京神田に成聖したニコライ師私用の煉瓦造東京十字架聖堂に見られ、鈴木甲子男が指摘するようにこれが石巻聖堂の手本になった可能性がある(注6)。玄関廻りや室内には明治初期特有の和洋折衷の意匠が施されており、これらの点はその後の木造聖堂には受け継がれず、初期木造聖堂と位置づけられよう。 

写真1-1 旧石巻ハリストス正教会聖堂、1880年(明治13年)竣工、石巻市指定文化財 

2.2.ニコライ聖堂(東京復活大聖堂)と明治中期木造聖堂 

初期木造聖堂建築は、東京における大聖堂の竣工とともに終焉を迎える。1880年、聖ニコライは主教に昇叙されると、日本の首都である東京にふさわしい教会を建てたいと強く望むようになった。そのために最高の人選を行い、基本設計をロシア人建築家ミハイル・アレフィエヴィッチ・シシュールポフに、実施設計と施工監理を当時工部大学校建築学科教授であったジョサイヤ・コンドルに依頼した(注7)。これが東京復活大聖堂であり、7年の工期を要して完成し、1891年(明治24年)3月に成聖式が執り行われた(写真1-2)。工事請負は長郷泰輔が担い、彼は孤児の身から聖ニコライに育てられ、その恩義に報いるためにこの聖堂建設に大変尽力した。 

東京復活大聖堂の成聖式には全国から司祭と有力信徒が集まり、そこで彼らは初めて本格的な聖堂建築を目にし、その神々しさに驚嘆したようだ。東京復活聖堂の竣工後、地元に戻った司祭や信徒たちの間に本格的聖堂建築の建設事業の熱が広がり、またニコライ師もそれを支援していった。仙台では、1891年(明治24年) 資金の都合から「主教より遣はし図面を縮小するも差支えなし (注8)」と承認を受け、原設計を縮小して建設することにした。「福音会聖堂建築顛末」によれば、この原設計は長郷泰輔が作成し、実施設計を大工遠藤廣、また見積・施工を大工頭取ワシリイ岡本が行った。1892年(明治25年)12月18日、聖ニコライ来臨のもと聖堂成聖式にこぎ着けた(注9) )(写真1-3)。同年7月、すでに曲田聖堂が大工シメオン貫洞の施工管理で成聖していたが(注10) 、両者の平面構成は似ているものの、曲田の方はキューポラも鐘楼もなく、外観、材料、仕上げ、細部とも簡素化されていた。仙台聖堂は玄関上部に2層の鐘楼とキューポラを有することにより、東北地方で最初の本格的聖堂となった。このように、仙台聖堂のデザインはそれ以前の木造聖堂から明確に決別しており、そのすべてを原設計者長郷の発想とするには無理があろう。曲田聖堂も含め、聖ニコライが参考図を提供し、それをもとに大工棟梁らが状況に合わせて実施設計を用意し、建物を完成させていったと考えられる。信徒の大工棟梁が活躍し出すのが明治中期の特徴といえよう。 

 

写真1-2 初代ニコライ堂1891年竣工,1929年修理 写真1-3 初代仙台聖堂1892年竣工 

2.3.明治後期木造聖堂 

聖堂建築の第二の転機は、明治後半の日露関係の緊張からくるものであった。19世紀末には満州を巡り日露が急激に接近し始めた頃、関西地方の信徒から聖堂建設の請願が本会に寄せられた。すでに、京都、大阪、神戸にはキリスト教諸会派が教会や学校を設立しており、関西在住正教会信徒も自らの聖堂を持ちたいと強く望むようになっていた。聖ニコライは、1902年、京都に小会堂を建設することを承認し、司祭との打ち合わせのために京都に向かった。車中、聖ニコライは京都には小会堂ではなく立派な聖堂がふさわしいと強く考えるようになったという(注11)。その理由として、京都が仏教各宗の総本山があること、さらにキリスト教諸会派がすでに立派な建築を有していることをあげている(写真1-4, 1-5)。それらに匹敵するものを正教会も建てるべきだというもので、引き続き日本第2の都市である大阪にも聖堂を建設する予定であった。 

建設資金はすべて本会が出すことにし、聖ニコライは聖堂建築の参考図を示して実施設計を京都府建築技師の松室重光に依頼した(注12)。すでに東北地方の木造聖堂の設計経験のある大工棟梁信徒がおり、また京都にはガーディナーなどの外国人建築家が教会や学校の設計に活動していながら松室を選んだのは、京都にも東京復活聖堂に勝るとも劣らない聖堂を持ちたいと強く望んだからに他ならない。松室の綿密な設計図をもとに、京都聖堂は1903年5月10日に成聖したが、施工は誰が行ったのか明らかではない。ただし、成聖式前日に聖器物の備え付けを河村伊蔵が行ったことが分かっている。仙台聖堂とは平面、外観、細部とも大きく異なっており、聖ニコライは仙台聖堂とは異なる参考図を松室に示したことになる。その後、松山、大阪、豊橋と聖堂が建設されるが、これらは京都聖堂とよく似ており、相互関係と位置づけは後章で考察する。 

 

写真1-4 京都聖堂側面、1903年竣工 写真1-5 京都聖堂正面 

1904年、日露戦争の勃発のために京都以後の聖堂建設は一時延期されたが、終結とともに堰を切ったように多くの建設事業が進められることになった。その大きな理由は、日露戦争中に俘虜となったロシア人が日本各地の収容所で割合厚遇され、その返礼としてロシア人篤志家や元俘虜から多額の聖堂建設費用が寄付されたことによる。第二の理由として、日露戦争中、日本人正教会信徒は非常に困難な立場におかれたが、終戦後正教会の名誉を回復するために一気に聖堂建設の願いが高まったことである。 

松山には日本人信徒がいなかったが、日露戦争中多くのロシア人俘虜が収容されていたことが縁になり、1907年ロシアの大富豪篤志家から多額の建設資金が寄付された。建築の準備は東京本会の聖ニコライの手で行われ、聖堂参考図集の中から一案を選んで、フォマ尾林に工事を任せた(注13)。1908年8月18日成聖式を迎えたが、関東大震災によって被災したニコライ堂に代わって、神田の敷地内に移築され、仮聖堂として用いられた(写真1-6)。建設由来記や残された写真によれば、鐘楼よりも聖所の方が高く、また鐘楼が極端に小さく、さらに北側から入り南北に長い平面形態をしていた。この平面と外観は京都聖堂のものと大きく異なることから、聖ニコライは京都とは異なる参考図を示したことになる。松山聖堂の建設記念帖には、河村伊蔵の存在はまったく触れられていない。 

それに対して、大阪聖堂は京都のものを一回り大きくしただけのようで、非常によく似ている(写真1-7)。必要建設費を優に上回る献金が寄せられ、工事請負を松山に続いてフォマ尾林、建設監督は新たに河村伊蔵が担い、1910年(明治43年)7月に聖正式を迎えた(注14)。京都聖堂との違いは、規模以外に構造と細部に見られる。具体的には、『大阪聖堂記念帖』によれば、尾林は地盤が軟弱だったので地業と基礎工事を念入りに行い、また強風に対処するために軸組にX字に松材の筋かいを入れたことになっている。外観では、屋根の四側面に三角形破風を付け、また鐘楼玄関の途中で四角形平面から八角形の断面に唐突に絞り、さらに細部ではエンタブレチャやブラケットの装飾は取りやめている。構造に関して尾林の強い関与が認められる一方、外観と細部は河村の判断によるものであろう。聖所4面に付いた三角破風屋根は大阪聖堂で初めて出現し、立方体形の聖所に変化と垂直性を与えている。玄関は四角形平面をしていながら、かなり上昇してから八角形平面の鐘楼となっている。玄関部が大きいために、鐘楼の存在感と垂直性が減じてしまっている。建設資金が潤沢であったにもかかわらず、細部が手薄になった理由は定かではなく、設計担当者の腕が未熟であったためなのであろうか。 

写真1-6 松山聖堂、東京移築後の姿 写真1-7 大阪聖堂、建設当初の姿 

豊橋では、1879年に中八丁に初めて祈祷所(小会堂)が設けられ、これが最初の昇天教会となった。木造二階建ての建物で、一階は信徒集会所、二階が祈祷所になり、外側を下見板張りの上に白色ペンキを塗っていた。これが手狭になり、「略記」によれば1904年(明治37年)に第十八連隊駐屯地(旧吉田城本丸)の南側に土地を取得して、ここに新会堂建設する計画を立てていた(注15)。そして、明治末には中八丁を引き払い、この敷地にあった既存建物を祈祷所と集会所として使い始めていた(注16)。 

1910年7月(明治43年)、大阪聖堂の成聖式が挙行され、豊橋から広田司祭が参列した。司祭が帰ってくると豊橋聖堂建設の熱が一気に燃え上がり、翌年、12月20日に「夜7時総会あり。聖堂建築につき種々協議あり。(中略)調査委員をあげ、調査をなして総会をひらきて報告、協議することとし、午后12時過き参会す」とあり、信徒の間で意見がまとまりつつあった(注17)。1912年1月22日には、「寄付金調査委員より寄付金高の報告あり。寄付金予算予定額に充ちたるにより、いよいよ建築すること確めら」れ、建設費の目処もたったことがわかる(注18)。数年前に竣工していた松山と大阪の両聖堂が外部からの寄付金によって建設されたのとは大きく異なり、豊橋聖堂がほとんど信徒の寄付で建設費をまかなったことは特筆すべきことである。 

同月31日、聖ニコライの病気見舞いを兼ねて上京し、聖堂建設の願いを上申したところ、了解を得ることができた。ところが翌月16日、大主教の訃報が伝わり、計画の開始は5月にずれ込むことになる。豊橋聖堂は設計から工事監理までを河村が担った最初の建築であり、実際彼が図面を引いたことが記録からも分かっている。最近、信徒の西郷保氏がその図面類を所蔵していることがわかり、これについては3章で詳述する。このように、木造聖堂の設計は、明治末期には大工棟梁信徒から河村の手に移っていき、豊橋聖堂は聖堂建築家としての彼のデビュー作であった。河村の業績は2章で述べる。 

写真1-8 初代豊橋昇天教会 1889年(明治12年)開設『100周年記念誌』より 

注記 

1) 坂田泉「日本におけるハリストス正教会の建築について」、日本建築学会論文報告集第103号、1964年。 

2) 鈴木甲子男『日本ハリストス正教会の建築-日本におけるビザンチン様式の生成と展開について』、名古屋大学工学研究科修士論文、1980年。同内容は、『正教時報』1981年5月号から1985年1月号にかけて連載された。 

3) 小野木重勝『日本の建築 明治大正昭和2 様式の礎』、三省堂、1979年。 

4) 池田雅史・羽生修二『ニコライ堂に前後する日本ハリストス正教会の建築について(明治の小田原正教会聖堂)』日本建築学会1997年度大会学術講演梗概集、1997年 

5) 坂田泉著「日本ハリストス正教会建築断章」、『宮城の研究第7巻』、清文堂出版、1983年。 

6) 鈴木甲子男「正教会の聖堂建築1」『正教時報』1981年10月号、12頁。 

7)文化財建造物保存技術協会他『重要文化財日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)保存修理工事報告書』、日本ハリストス正教会教団、1998年。 

8) 仙台ハリストス正教会史編集委員会編『仙台ハリストス正教会史:仙台ハリストス正教会開教130年記念』、2004年、69頁。 

9) 同8)71-72頁。 

10) 大館郷土博物館『秋田県指定有形文化財 北鹿ハリストス正教会聖堂保存修理工事報告書』大館郷土博物館、2000年。 

11) 水場行楊編『京都至聖生神女福音聖堂の記念画帖』、東京聖教本会編集所、1904年、47頁。 

12) 松室については、西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』(彰国社、1996年)に詳しい。 

13) 水島行楊編『松山ハリストス復活聖堂』、正教会事務所、1911年。 

14) 水島行楊編『大阪生神女庇護聖堂の記念画帖』、正教会事務所、1911年。 

15) 『聖使徒福音者馬太聖堂略記』は、秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ(豊橋美術博物館研究紀要4号、78頁)に紹介されており、原本は聖堂基礎式の際、東南隅の二段目の土台式の中に収められたことになっている。 

16) アントニイ大川昇「私の思い出」、『豊橋ハリストス正教会創立100周年記念誌』、1979年、12-13頁。 

17) 秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅲ、『豊橋美術博物館研究紀要4号』、1995年、87頁。 

18) 注14)、88頁。 

参考文献 

1. 京都ハリストス正教会編『京都ハリストス正教会開教100周年記念誌』、京都ハリストス正教会、1978年。 

2. 牛丸康夫著『大阪正教会百年史譚』、大阪ハリストス正教会、1978年。 

3. ニコライ著・中村健之介訳編『明治の日本ハリストス正教会 : ニコライの報告書』、教文館、1993年。 

4. 高橋保行著『聖ニコライ大主教 : 日本正教会の礎』、日本基督教団出版局、2000年。 

5. 豊橋ハリストス正教会100周年記念事業委員会編『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌:1875-1979』、豊橋ハリストス正教会、1979年。 

章 河村伊蔵と聖堂建築 

豊橋聖堂の設計者であった河村伊蔵について、長男の進氏が内井家に養子に入ったこともあり、どのような人物であったのか長い間不明であった。ところが、伊蔵の孫に当たる内井昭蔵氏が、建築家としての自らのルーツ探しのために、正教会聖堂建築と伊蔵に関する資料を収集整理し、1990年代頃から断片的に雑誌に発表されていた。しかし、成果の全貌を見ることなく亡くなり、日本建築学会にとっても、またおそらく日本正教会にとっても誠に残念なことであった。本調査にあたり、遺族から快く内井昭蔵氏収集資料を拝見させていただき、感謝に絶えない。 

1節 出生と入信 

河村伊蔵(写真7)は、1866年11月(慶応元年)に知多半島の内海に生まれた。内海は伊勢湾と江戸を結ぶ廻船問屋が拠点にしていたところで、明治中期まで港町として大いに栄えていた(注1)。伊蔵の父親は作兵衛、母親をまつといい、下に常七と志のという弟妹がいた。 

戸籍原簿 愛知県知多郡内海村五百五十四番戸 

明治18年9月4日抹消ス 前戸主 亡父 河村作兵衛 

戸主 亡父作兵衛長男河村伊蔵 慶応元年11年15日生 

弘化4年2月15日当村内田傳兵衛 母 亡父作兵衛の妻 

まつ 文政12年2月15日生 長女入籍ス。 

弟 亡父作兵衛二男 常七 明治5年6月15日生 

(『愛知県知多郡内海村戸籍原簿』より) 

1883年(明治16年)、17歳の時、半田教会で同村平民出身の同年代の青年たち数名と、浄土宗を捨てて正教会に入信した(図8)。内海布教が始まるとすぐに入信していることから、これらの青年たちはもともと何か新しい生き方を模索していたのであろう。伊蔵の両親と弟妹は西岸寺に無縁墓地に葬られている(写真9)。 

河村作兵衛 天保8年2月23日53才 

常七--明治30年7月7日 

志の--大正7年12月15日 

まつ--明治28年6月2日 

たけ--明治3年9月18日、79歳 

(西岸寺檀家帳簿より) 

写真2-1 河村伊蔵 写真2-2 半田教会宗門帖(メトリカ)写し 

写真2-3 現在の西岸寺 

2節 聖職者の道 

伊蔵は1886年(明治19年)に内海の戸籍を破棄しているから、その前後に聖ニコライのいる駿河台に行き、神学校に入ったのであろう。卒業とともに聖職に就き、そこで函館からやってきた信徒「栄(えい)」と出会い、結婚した。栄は明治初めに入信とともに詠隊学校に入り、聖ニコライとともに東京にやってきていた(注3)。 

東京聖堂の副輔祭から始まり、1915年頃に輔祭、1933年に長輔祭、1937年には司祭を叙聖され、1940年2月5日に75歳で亡くなっている。ニコライとセルギイの二人の大主教の下でほぼすべての聖堂建築の建設に関わり、聖務よりも教団の財産の管理営繕業務を担っていた(注4)。この職務は規律を重んじる正教会では必須のものであるが、伊蔵がなぜ、いつ頃から担うようになったのかは定かではない。しかし、少なくとも1891年(明治24年)ニコライ堂が東京の空に登場するまでの工事の一部始終を見ており、また成聖式の準備に忙しく従事したはずで、藤森照信氏が想像するように、この過程で建築家という仕事に開眼していったのかもしれない(注5)。今後、東京本会や各地教会が所有している内部資料を解読分析すれば、伊蔵による営繕事業の全貌が明らかになると思われるが、その多くは関東大震と第二次世界大戦時の空襲で消失したといわれる。今後の史料の発掘を待ちたい。 

3節 教会の管理営繕職へ 

現在のところ、営繕担当として伊蔵の名前が登場するのは『京都至聖生神女福音聖堂の記念画帖(1904)』が最初である。京都聖堂は、1903年(明治36年)5月10日に成聖式が行われ、伊蔵は前日に聖器物を設置し、当日「釘宮、今田、河村の副輔祭等と、伴に(成聖式の)祈祷を」行った(注6)。各地の教会誌は消失してしまったが、幸運なことに豊橋の教会誌は信者が保管しており、部分的であるが伊蔵のその後の足跡をたどることが出来る。この史料は、前豊橋市本陣資料館長秦基氏により1875年(明治8年)から1915年(大正4年)までの部分が復刻印刷されている(注7)。この史料には伊蔵が豊橋教会の営繕のために頻繁に来ていたことが述べられており、同じように日本各地の教会の営繕を担っていたのであろう。 

豊橋教会誌によれば、ついで1905年(明治38年)1月17日、豊橋会堂の聖器の修理を任されている(注8)。この会堂は中八町にあったもので、既存の建物を改造して祈祷所としていた。何の理由で修理する必要になったのか定かではないが、この聖器は東京の伊蔵のもとに送られ、伊蔵の手配によって直され、返送されてきている。ついで、1905年4月19日、ロシア人俘虜将校からの献納で、豊橋祈祷所に銀製燭台をしつらえることになり、これもまた伊蔵に任されている(注9)。 

このように、遅くとも1903年には伊蔵は営繕業務を担うようになっていた。よく知られているように、山下りん(1857-1939)は聖ニコライに教会必須のイコン画を学ぶためにロシアに派遣され、帰国後その制作にあたった(注10)。しだいに教団が日本国内で組織として成長してくるとともに、イコン画以外の部分もきちんとしたものにしようと建築・聖器物の営繕監理職も必要となり、それを聖ニコライが伊蔵に才能を見込んで任せるようになったのかもしれない。 

松山聖堂の建設に対する伊蔵の関与は不明であるが、1910年(明治43年)に完成する大阪聖堂は前述したように工事請負をフォマ尾林、建設監督を伊蔵が担った(注11)。尾林は神田で建築請負を営む信徒で、分かっているだけで松山、大阪、豊橋、函館の聖堂新築に関わり、伊蔵は彼から特に構造について多くの技術を学んだのにちがいない。 

4節 豊橋聖堂の設計と施工監理 

豊橋教会誌における豊橋聖堂建設に関する記述を整理すると表2-1のようになる。その中に伊蔵の名前が最初に見られるのはね、1912年(明治45年)5月14日で、「午前、東京より河村副補祭及尾林請負師来豊。共に正午より、聖堂建築につき相談す」とある(注12)。この滞在は4日間にも及び、規模、構造、工費などについて広範にわたって話し合いが行われたようだ。6月24日には、豊橋教会の関係者が大工、左官とともに大阪、京都の聖堂を視察しているが、この中に伊蔵の名前はない(注13)。 

その後、教会関係者が県に建築許可を申請し、1912年11月25日に認可が下りた(注14)。『略記』によれば、すぐに東京本会から「セルギイ主教来臨し、聖堂建築の位置を選定せらる」ことになっているが、教会誌には伊蔵の来豊だけが確認できる。伊蔵は同月29日にやってきて、12月3日までに大工、石工、屋根、鳶、左官等の契約を済ませ、施工開始を待つばかりであった(注15)。基礎工事は翌年1月半ばから伊蔵の監督の下で順調に進み、2月27日に基礎聖成式がセルギイ主教の臨席のもとに挙行された(写真2-4)。 

写真2-4 基礎聖成式の様子、『100周年記念誌』より 

施工者に関する記載は教会誌には見当たらないが、上棟の際の記念写真(写真3-3)では、大工の袢纏に「中神」という屋号があるのを読み取ることができる。また、大阪聖堂の建設を請負ったフォマ尾林の名前は前述の1912年5月14日から19日の滞在以降、実際の施工の段階では教会日誌には登場しない。 

1913年(大正2年)には年間で163日豊橋に滞在している。特に工事前半の1月から8月にかけては、ほぼ常駐して工事監理にあたっていたことが伺える。長期間滞在していた時期としては、以下の4期間があげられる。 

表2-2 伊蔵の豊橋聖堂建設のための滞在期間 

上記期間以外も、1914年(大正3年)1月までは少なくとも毎月1回は豊橋を訪れ、工事監理をおこなっていた。 

豊橋ハリストス正教会100周年記念誌には、アントニイ大川昇氏の回想録の中に、「東京本会より河村副補祭(後の神父)がこられ、泊まりこみで建築製図を引いておられた。私も時々その室に出向き、かたわらから文マワシ(コンパス)をいたずらした記憶がある。」との記載がある。また、同回想録の中には、大川氏の父が伊蔵の行う現場監督の助手を務めたとの記載がある(注16)。 

教会日誌の記載事項から工事の工程表を作成すると、表2-2のとおりとなる。建設工事は、1913年(大正2年)1年間でほぼ終了していることがわかる。 

翌年に別途工事として発注された門と柵の工事に関しても、教会日誌に「門と柵につきては、河村氏を依頼して着手することにし、住宅其他は田中氏に一任することに決す。」との記載があり、伊蔵が関与していたことがわかる。柵工事の終了は4月17日であり、伊蔵はそれまでに1月、3月、4月の三回、豊橋を訪れている。門と柵の工事に関しては、教会日誌に施工者が記録されており、1914年1月16日に「石工は桜井、二百六十三円、鉄柵は(ヤマ六)、二百十二円三銭と契約することと決定せり」(注17)という記載がある。 

また、100周年記念誌の巻末には、年表がついており、教会日誌に記載のない事項として、以下の2点が記録されている。 

・ 1914年5月9日 司祭住宅工事終了。 

・ 同年 6月22日 樺太より聖鐘到着。 

戦乱の影響で聖障が届かないため、仮聖障を設けて成聖式を行うことが決定され、成聖式は1915年(大正4年)2月7日に執り行われた。伊蔵は成聖式の約1ヶ月前の1月9日から17日までの9日間及び、1月27日から2月7日の成聖式までの12日間仮聖障取り付けや成聖式の準備のために豊橋に滞在しており、教会日誌の2月5日の部分には、「午后になるや、はや聖堂内の設備河村氏の監督の許に全く整頓せられたり」という記述がある。 

以上見てきたとおり、伊蔵は半常駐という非常に丁寧な監理体制をとり、施主及び施工関係者と密接な関係を持ちながら豊橋聖堂の設計及び工事監理、成聖式の会場設営において中心的な役割を担っていたことがわかる。 

現在ある本来の聖障は、1927年(昭和2年)になって豊橋に届き、3月26日に聖障成聖式がおこなわれた。以後の聖堂の修繕に関し、1979年までについては100周年記念誌の年表に記録があり、次のようにまとめることができる。 

年月日 記載事項 

1927年(昭和2年)3月26日 豊橋教会聖障成聖式に大主教セルギイ来豊。 

1931年(昭和6年)5月25日 聖堂塗装、屋根等の修繕をおこなう。 

1939年(昭和14年)8月26日 聖堂内のガス灯を電灯に替える。 

1943年(昭和18年)3月21日 釣鐘供出、記念写真。 

1949年(昭和24年)8月2日 聖鐘、樓へ上げる。 

1950年(昭和30年)8月9日 聖鐘ニケ静岡より購入 

1956年(昭和31年)3月29日 聖堂用鐘を購入。 

1960年(昭和35年)4月10日 聖堂屋根銅板に葺替成聖式。 

1972年(昭和47年)8月 聖堂外の修復(一信徒の献金に依る)。 

表2-14 豊橋聖堂完成後の主たる営繕事業 

注記 

1)斉藤善之『内海船と幕藩制市場の解体』、柏書房、1994年 

2)西岸寺蔵の檀家帳簿による。 

3)内井昭蔵「私の原風景 神田・ニコライ堂」『月刊チャイム』、1992年9月。 

4)内井昭蔵「ニコライ堂の思い出」『別冊太陽119号』、2002年10月、123-125頁。 

5)藤森照信「近代日本の異色建築家 ロシア正教の司祭として没した河村伊蔵」『科学朝日1982年10月号』、1982年、97-100頁。 

6)水場行楊編『京都至聖生神女福音聖堂の記念画帖』、東京聖教本会編集所、1904年、12頁。 

7)秦基「豊橋ハリストス正教会教会誌」Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ、『豊橋市美術博物館研究紀要2,3,4,5号』、豊橋市美術博物館、1993年-1996年。 

8)秦基「豊橋ハリストス正教会教会誌Ⅲ」、45頁。 

9)8)、46頁。 

10)大下智一『山下りん:明治を生きたイコン画家』、北海道新聞社、2004年。 

11)水場行楊編『大阪聖堂成聖式記念画帖』、東京聖教本会編集所、1911年、13頁。 

12)秦基「豊橋ハリストス正教会教会誌」Ⅳ、『豊橋美術博物館研究紀要5』、1996年、91頁。 

13)12)、91頁。 

14)12)、96頁。 

15)12)、96頁。 

16)豊橋ハリストス正教会100周年記念事業委員会編『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌:1875-1979』、豊橋ハリストス正教会、1979年、12頁。 

17)秦基「豊橋ハリストス正教会教会誌」Ⅳ、『豊橋美術博物館研究紀要5』、1996年、87頁。 

第3章 豊橋聖堂の建築図面と写真資料 

本章では、豊橋ハリストス正教会聖堂(以下、豊橋聖堂と略す)に関する建築図面と写真資料について、教会関係者の協力により、愛知県近代化遺産総合調査及び愛知県史編さん委員会文化財部会による調査、さらに今回の調査を通じて明らかになったものを紹介し、史料としての位置付けを記す。 

1節 建築図面・写真資料確認の経緯と保管状況 

今回の調査で存在が明らかになった建築図面と写真資料は、教会関係者の西郷保氏が自宅に保管していたものである。西郷氏の説明によれば、これらの建築図面と写真資料は、西郷氏の父(ミヘイ〔巳平〕西郷=西郷善吉)が自宅に保管していたものであった。このうち、建築図面については、西郷氏本人が資料としての重要性を認識したため、愛知県近代化遺産総合調査(注1)などの調査にあわせて、2003年5月、豊橋創造大学伊藤研究室に調査を依頼し、伊藤晴康、泉田英雄、西澤泰彦の3名がその調査を行った。その後、2006年におこなわれた聖堂の補修工事に合わせて、上記3名によって構成される豊橋ハリストス正教会聖堂調査団(以下、調査団と略す)が、再度、図面の調査をおこなった。また、写真資料については、これに合わせて、2007年1月、西郷氏から調査団に提供された。なお、これらの建築図面と写真資料は、今後豊橋美術博物館が保管する予定である。 

保管されていた建築図面は20枚あり、長さ990ミリ、幅105ミリ、深さ110ミリの杉板で作られた木箱に、4巻きに分けられて丸められて納められていた。木箱には防虫剤や防湿剤は入っていなかったため、一部の図面は虫食い状態になっていた。 

この木箱の蓋の表には、「聖使徒福音者馬太聖堂設計図 豊橋昇天教会」、蓋の裏には、「大正四年二月三日新調」と、いずれも墨で記されている。箱の蓋の表に記された「豊橋昇天教会」とは、豊橋ハリストス正教会(以下、必要に応じて「教会」と略す)の当時の名称である。また、「聖使徒福音者馬太聖堂」は当時の聖堂の正式名称であり、「馬太」はキリスト教における十二使徒の中の一人であるマタイの漢字表記である。このことから、これらの建築図面が、豊橋聖堂の図面であることは間違いなく、実際に現存する聖堂と図面とを比較すると多くの部分が一致するため、これらの建築図面が豊橋聖堂の図面であると判断できる。 

一方、木箱の蓋の裏に記された「大正四年二月三日」は、この聖堂の成聖式(献堂式)が行なわれた1915(大正4)年2月7日の直前(注2)であることから、これらの建築図面が成聖式までに作成された図面であり、かつ、後述するように実際に建てられた聖堂とこれらの図面に描かれた建物の形状や寸法が一致するので、聖堂の建設に使われた図面であると判断できる。 

また、写真資料は、基礎石を据え付けている途中の写真1枚、上棟式と考えられる写真1枚、仮障壁を使った成聖式の写真1枚、の合計3枚である。このうち、上棟式と考えられる写真は、『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌』に掲載されているが、他の2枚はこれまで未公開のものであった。 

2節 建築図面の概要 

(1)建築図面の分類  

木箱に保管されていた図面は、表3-1に示した通りである。表中の図面番号の欄に〔 〕を付して記した数字は、本報告書を作成するための仮番号であり、本文中でも同様の表記をする(表3-1)。 

これらの図面は全部で20枚あり、前述の通り4巻きに分けられていた。それらを、図面番号の有無や表題の有無を基にすると、次の3種類に大別できる。 

ⅰ)図面番号の付された図面(12枚) 

ⅱ)図面番号も表題も全く記載されていない図面(6枚) 

ⅲ)表題のみ記された図面(2枚) 

このうち、ⅰ)図面番号の付された図面は、全部で12枚あり、第一号から第十一号まで通し番号が付され、第七号だけ内容の異なる図面が2枚ある。また、これらは、和紙に描かれた図面(第壱、貮、参、七、八、九、十、十一号)と製図用中性紙に描かれた図面(第四、五、六、七号)に分けられる。前者と後者は、別の巻物として保管されていた。これらの図面のうち、和紙に描かれた図面は、第一号から番号が大きくなるにつれて、建物の全体像を示す図面から、階段、小屋組、床組という具合に建物の部分を示す図へと変わっているのに対して、製図用紙に描かれた図面は聖堂の軸組図であり、構造・構法を示す図面となっている。両者は、いずれも聖堂を建設する際に使われた基本的な図面であると考えられる。 

それに対して、ⅱ)図面番号も表題も全く記載されていない図面は、聖堂本体ではなく、附帯物件である司祭館や門、あるいは聖堂で使われる献金箱の図面であり、いわば附帯工事の図面である。 

また、ⅲ)表題のみ記された図面は2枚であるが、1枚は聖堂の南側立面図であるが、影付の表現であり、当時は一般的に「姿図」と呼ばれた図面である。もう1枚は、聖堂と司祭館の平面図で、これは青焼き図面である。これら2枚は、明らかに作成時期が異なるので、この2枚は分類されたわけではなく、偶然、一つの巻物として保管されていた、と考えられる。 

これらのうち、ⅰ)は聖堂本体の工事に必要な図面であり、ⅱ)は聖堂の附帯工事のための図面であるので、そのような分類も可能である。 

(2)図面の概要 

以下、上記の分類に従って、それぞれの図面の概要を記すこととする。 

ⅰ)図面番号の付された図面 

①第壹号 

第壹号〔1〕は、図面表題は記されていないが、聖堂平面の南側半分が描かれた図面である。ただし、この図面は、建物室内を示す平面図ではなく、基礎石積み、土台、柱の位置関係を示した図面である。図面は、和紙に墨入れされ、玄関から至聖所に至る軸線が赤で記入されている。また、寸法線が朱書きされ、柱のみ黄色に着色されている。軸線が記入されていることから、この聖堂の平面が、南側と北側で対称となるように作られていると判断できる。図面脇に「総計八拾尺」と墨書きされているが、これは聖堂全体の東西方向に長さである。図面に示された各室の寸法(間口×奥行)は、玄関:12尺×12尺、啓蒙所:18尺×18尺、聖堂:30尺×30尺、至聖所:24尺×13尺、である。また、基礎石積みが図面に脇に描かれ、青鉛筆で「尺ニ改ム」と記されていることから、寸法について、日本の尺寸ではない寸法を尺寸に換算、あるいは変更した可能性もある。至聖所には鉛筆書きで不朽体を納める場所が描かれている。図面上での寸法は、標準的な柱が4寸5分(135mm)角、土台の幅が4寸5分である。この図面では、外壁の下見板、内壁の漆喰壁が表記されていないので、壁厚は不明である。 

②第弐号「鐘楼側面全図」〔2〕 

第弐号「鐘楼側面全図」〔2〕は、鐘楼と玄関の南側立面を描いた図面である。外壁は下見板張りの表現で現状と同じだが、2階の窓は填め殺し窓として描かれており、現状の上げ下げ窓とは異なっている。また、この窓の窓枠上部は青鉛筆で修正されている。図面には、赤で高さ方向と水平方向の寸法線が記入されている。高さ方向は地面から鐘楼上部までの高さ寸法が次のように記入されている。地面~1階軒:17.2尺、1階軒~2階軒:16.65尺、2階軒~3階軒:11.95尺、3階軒~屋根頂部下端:15.7尺、屋根頂部下端~屋根飾り下端:2.55尺、屋根飾り下端~上端:3.85尺、避雷針:4尺、であり、図面下端に「高サ総計六拾七尺四寸」と墨書きされている。また、水平方向の寸法として、柱心々の寸法が次のように記入されている。1階部分(玄関)の奥行(東西方向):12.0尺、2階部分の東西方向:11.3尺、2階の八角形平面の一辺:5.7尺、3階の東西方向:10.60尺、3階の八角形平面の一辺:5.4尺、3階開口内法:4.1尺である。 

なお、鐘楼3階軒裏の部分に鉛筆で「此処ヲ四寸位トシテ空気抜ヲ付ケル事」と書かれており、設計当初にはなかった空気抜けの設置を指示していることがうかがえる。この空気抜けは実際に設けられている。 

③第参号「本堂側面外部」〔3〕 

第参号「本堂側面外部」〔3〕は、聖所の北側または南側の外観を示す図面である。聖所の北側立面と南側立面は、いずれも左右対称なので、この図面では建物の右側部分が略されている。図面は、和紙に墨入れされている。外壁は下見板張りの表現で現状と同じだが、屋根にペディメントが無いこと、軒下の飾りがあること、聖所下方の窓が両開き窓になっていること、聖所上方の小窓が正方形になっていること、が現状と大きく異なっている。これらの表現は、京都聖堂の聖所外観に酷似している。ただし、随所に鉛筆書きで修正されている。聖所下方の窓は、鉛筆描きで上下窓に修正され、「下ハ弐枚上下ゲノ事」、「窓ヲ七分上ゲル」と鉛筆書きされている。また、聖所上方の正方形小窓も角を切るように鉛筆描きで修正、「此窓ハ内部蛇腹ノ都合二テ外部ノ中央二置ク」と鉛筆書きされ、この窓の位置を上げている。屋根頂部・ランタンの足元には「此処ヲ四寸縮ムル事」と鉛筆書きされ、高さを下げている。 

図面には赤で高さ方向の寸法線が記入されている。高さ方向の寸法は、基礎:2.2尺、基礎上端~屋根軒先:27.1尺、屋根下端~飾り上端:27尺、と記入されて、これらの寸法の合計は56尺3寸であるが、図面には「総計五拾七尺三寸」と墨書きされており、これらの寸法の総計は56尺3寸であり、高さの合計寸法が1尺異なっている。外壁隅の定規柱に「定木柱壹寸二分厚角ハ実入箱付」と鉛筆書きされており、下見板の隅を押さえる定規柱の厚さと隅の接合を指示している。 

④第四号「鐘楼骨組ト渡家取付」〔4〕 

第四号「鐘楼骨組ト渡家取付」〔4〕は、啓蒙所と鐘楼の軸組で、啓蒙所から鐘楼を見た図面になっている。図面に示された数値によれば、土台成:0.5尺、土台上端~啓蒙所トラス水平材下端:13.85尺、トラス水平材成:0.8尺、トラス水平材上端~鐘楼3階敷桁下端:16.0尺、鐘楼3階敷桁成:0.8尺、鐘楼3階敷桁上端~鐘楼3階軒桁:10.5尺、鐘楼軒桁成:0.7尺、鐘楼軒出桁成:0.7尺、1階開口内法:高さ8.0尺×幅5.0尺、開口両端柱間隔:5.85尺、である。この図面では、鐘楼2階東面の柱間隔は、5.11尺であり、1階東面中央の柱間隔5.85尺よりも狭く、柱の位置を内側にそれぞれ0.37尺入れるように指示されている。同様に、鐘楼2階北面、南面の柱も玄関の北面・南面の柱より0.35尺内側に入れるように指示されている。さらに鐘楼3階の柱はいずれも2階の柱位置より内側に0.35尺ずらしている。これによって、鐘楼は、1階から3階に向かって外壁も0.35尺ずつ内側にずれていくことになり、鐘楼の平面は上階に向かって逓減していくこととなる。したがって、鐘楼には通柱はない。 

また、1階の筋違はボルト締めで固定され、鐘楼2階柱・筋違・桁はボルト2本を組み合わせて固定されている。さらに、鐘楼には、X字型で筋違が入れられている。 

⑤第五号「本堂ト至聖所取付」〔5〕 

第五号「本堂ト至聖所取付」は、聖所(本堂)と至聖所の間の壁を聖所側から見た軸組図である。奥に至聖所の屋根も描かれている。図面は、製図用紙に墨入れされ、寸法線は朱書きされている。聖所の軒桁繋ぎ部分は、上下に長さ4寸5分・厚さ3分程度の鉄板を当ててボルト締めして固定している。聖所1階の壁には筋違があり、筋違と柱はボルト締めで固定されている。 

⑥第六号「本堂ト渡家取付」〔6〕 

第六号「本堂ト渡家取付」〔6〕は、聖所(本堂)と啓蒙所(渡家)の間の壁の軸組図であり、啓蒙所(渡家)側から見た図面である。聖所と啓蒙所とを仕切る壁には筋違が入り、聖所の軒桁と間柱は「羽子板」と呼ばれる鉄材で固定されている。部材断面は赤のハッチ入りで表現されている。部材寸法の記載はないが、図面から読み取れる寸法は、聖堂軒桁:成1尺×幅4寸5分、啓蒙所小屋梁:成9寸5分、通柱:4寸5分角、である。また、聖所の軒桁繋ぎ部分は、第五号図面に描かれた至聖所側の軒桁と同様に、上下に長さ4尺5寸・厚さ3分程度の鉄板を当て、ボルト締めで固定されている。さらに、筋違と柱・胴差しはボルト締めで固定されている。なお、この図面の裏面には、鉛筆で玄関柱の原寸図が描かれている(「玄関柱の原寸図」〔18〕)。 

⑦第七号「鐘楼下部階段ト二階根太」〔7-1〕および「本堂側面ノ半分」〔7-2〕 

第七号は、「鐘楼下部階段ト二階根太」〔7-1〕と「本堂側面ノ半分」〔7-2〕の2枚ある。 

このうち、巻物その1に含まれる「鐘楼下部階段ト二階根太」〔7-1〕と題された図面は、鐘楼の1階から2階に上がる階段と2階床を支える根太を描いた図面で、トレーシングペーパーに描かれた図面である。階段には「弐拾壱段ニ割ル」「高サ六寸二分」「巾六寸五分」と墨書きされており、1階から2階への階段の段数は22段、蹴上は6寸2分、階段の幅は6寸5分であることを示している。 

一方、巻物その2に含まれる「本堂側面ノ半分」〔7-2〕と題された図面は、聖堂(本堂)側面の軸組図であり、聖堂側面の土台から軒桁までの骨組が、製図用の厚手の用紙に描かれている。図面には、寸法線が朱書きされ、寸法が記入されている。記入された寸法によれば、土台の成:0.5尺、胴差の成:0.8尺、軒桁の成:1尺、出入口内法:高さ7.95尺×幅5尺、下段窓内法:高さ5.5尺×幅3尺、上段窓内法:高さ2.5尺×幅2.5尺、である。また、通柱・間柱の間隔も記入されている。さらに、寸法表示はないが、図面から判断すると、柱は5寸角、方立は1寸2分×5寸であることがわかる。さらに、図面によれば、筋違と柱・軒桁、筋違と柱・胴差の結合部はボルト締めで固定され、軒桁の繋ぎ部分は、長さ4尺5寸、厚さ3分程度の鉄板を桁の上下に当ててボルト締めで固定されている。 

なお、図面裏面には、聖堂内の聖所・高壇の間の階段(10分の1)と手摺親柱(5分の1)・手摺子(原寸)の図面が鉛筆書きで描かれている(「高壇手摺の詳細図」〔19〕)。また、この第七号「本堂側面ノ半分」は、第参号「本堂側面外部」と同じ聖堂の壁を対象にしており、第参号がトレーシーングペーパーであることと第七号「本堂側面ノ半分」と同一縮尺であることから、第七号「本堂側面ノ半分」にトレーシングペーパーを置いて第参号図面を描いた可能性もある。 

また、上記の第四号〔4〕、五号〔5〕、六号〔6〕、七号(巻物2)〔7-2〕の4枚は、聖堂の構造と構法を示す図面であり、通し番号が付されながらも、別の巻物として保管されていたのは、巻物1の図面が平面や外観を主体とした図面と区別されていたためであると推察できる。 

⑧第八号「鐘楼二階々段」〔8〕 

第八号「鐘楼二階々段」〔8〕は、鐘楼の2階平面図と2階から3階への階段の図である。トレーシングペーパーに墨入れされている。第壱号図面と同様に柱の部分だけ黄色に着色されている。なお、この図面をみると、鐘楼の形態について2点指摘できる。ひとつは、鐘楼2階平面の形状であり、それは八角形ではあるが、これは正八角形ではなく、外接する正方形に接した4辺が他の4辺よりも長いことである。これは、鐘楼2階の下、すなわち、玄関の梁・桁に渡した火槌梁を短くしたために起きたものと考えられる。もうひとつは、この八角形の外周が玄関の内法に接していることであり、したがって八角形の頂点に位置する柱は玄関の梁・桁に乗っていない。これは、鐘楼の床が上階に向かって逓減していることを示している。 

⑨第九号「鐘堂小屋組之図」〔9〕 

第九号「鐘堂小屋組之図」〔9〕は、表題に「小屋組」と記されているが、いわゆる小屋伏図ではなく、図面背面には「鐘楼地廻リト控梁組方」と墨書きされていることから、鐘楼3階天井裏・小屋下部の構造部材を示した図面である。「地廻リ」とは、小屋の下部を指しているものと考えられる。図面はトレーシングペーパーに墨入れされている。 

⑩第拾号「鐘堂床組之図」〔10〕 

第拾号「鐘堂床組之図」〔10〕は、鐘楼3階の床組の詳細図であるが、図面の裏面には、「鐘楼濡縁根太組立ト出口」と記されている。鐘楼濡縁とは、鐘楼の3階が、開口部に建具が無く、吹き放しになっているので、その床を「濡縁」と称しているものである。従って、図面表題と裏面の記載は実際には同じ部分を示している。 

⑪第十一号「渡家側面外部」〔11〕 

第十一号「渡家側面外部」〔11〕は、墨書きした啓蒙所南側立面図に、その小屋組を朱書きした図面。表題は裏側に墨書きしてあるが、図面場号は鉛筆書き。軒裏に「此処ヲ四寸トシテ空気抜キヲ付ケル事」と鉛筆書きして、軒裏の換気口設置を後に指示したものと考えられる。 

これら12枚の図面について、第壹号〔1〕の縮尺が20分の1であるほかは、すべての図面の縮尺が10分の1であること、また、柱、基礎、土台、軸組、小屋組、鐘楼の階段や床などの詳細が描かれているという図面の内容から判断して、実際の施工を行う段階での施工図面に相当するものと考えられる。 

ⅱ)図面番号も表題も全く記載されていない図面 

図面番号も表題も全く記載されていない図面は6枚ある。すべて同じ〔巻物その3〕に保管されていたので、 

①「門正面図および平面図」(仮称)〔12〕 

この図面は、教会の門の正面図と門の平面図であり、門柱と足元の石敷き、柵の基礎石積みが厚手の製図用紙に鉛筆で描かれている。縮尺は50分の1である。平面図では、基礎石積みの目地を指示している。図面右端には「跪バナシラ脛ヲ以テ西角ヨリ柵元石ノ二尺ニ目次四分ト地方ノ面ノ高サ六分合計二尺壹寸ヲ据込事」と鉛筆で書かれているが、冒頭部分「跪バナシラ脛ヲ以テ」は意味不明である。また、正面図の上方には「扉下ハ弐寸ズキ」「柵下ハ壱寸五分ズキ」と鉛筆書きされているが、これは、石材の表面の加工方法の指示であると考えられる。裏面に石積みの詳細と思われる図が鉛筆で描かれている。 

②「門扉上部飾り図」(仮称)〔13〕 

この図面は、門扉上部飾りの図で、厚手の製図用紙に鉛筆書きされている。縮尺は未記入だが、10分の1とみられる。図面右上に「巾一寸二分厚サ五分」「カラクサ巾八分か六分高サ四分」と鉛筆書きされている。前者は飾り中央部分の十字架に対する指示で、後者はその十字架の両脇に付けられる唐草文様の飾りに対する指示であると見られる。 

③「司祭館平面図」(仮称)〔14〕 

この図面は、司祭館1・2階平面図で、墨入れされ、縮尺は20分の1である。scale, planという単語が使われている。英単語が記されているのは、この図面のみである。平面は、1階に10畳の和室2室、2階に10畳2室、6畳1室となっている。この司祭館は、聖堂の北側に建設された建物である。 

④「門扉上部十字架詳細図」(仮称)〔15〕 

この図面は、〔13〕に描かれた門扉上部十字架と唐草文様の図の詳細図である。ラテン十字に唐草模様が施されている。縮尺は未記入だが、原寸図と思われる。 

⑤「門柱据付の図」(仮称)〔16〕 

この図は、門柱据付の図。柱と礎石には「鑿小切」と指示書きされている。図面の裏面には、門柱柱頭据付の図が描かれ、柱頭頂部と下部には「小叩キ」、中央部には「鑿小切」と指示書きがある。縮尺は原寸と見られる。図面は著しく破損している。 

⑥「献金箱の図」(仮称)〔17〕 

この図面は、箱と多弁形(五葉形)アーチが描かれた図で、玄関に置かれた献金箱の立面図と考えられる。裏面にその側面図が描かれている。両面の図は椅子の高さが一致しているので、同時に作成たものと見られる。縮尺の記入はないが、図面上で箱の下端から上端までが270mmであるので、原寸図と考えられる。豊橋ハリストス正教会によれば、この図面に該当する献金箱が以前は使われていたとのことであるので、この図面に従って献金箱が作成されたものと考えられる。また、京都ハリストス正教会聖堂には、この図面に示された献金箱と酷似した献金箱が、玄関から啓蒙所に入る入口の脇の壁に架けられて今も使われている。 

ⅲ)表題のみ記された図面 

〔巻物その4〕に整理された図面、すなわち、表題のみが記された図面は2枚ある。 

①「聖堂南側立面図」(仮称)〔18〕 

この図面は、聖堂の南側立面を描いたもので、他の図面が全て和紙に描かれているのに対して、この図面はケント紙に描かれている。縮尺は記入されていないが、図面上の寸法と聖堂外壁の寸法を比較すると55分の1程度になっている。図面と聖堂の現状を比較すると、現状に比べて啓蒙所が大きく、聖所部分は東側が狭く描かれ、外壁の仕上げも1階が漆喰仕上げの表現で現状とは異なる。聖堂軒先の形態や装飾は第参号図面と同じであるが、現状とは大きく異なる。また、玄関屋根の軒先や鐘楼の窓も現状と異なる。この図面に表現された聖堂の外観は、京都聖堂の南側立面に酷似している。 

②「豊橋市中八町百拾五番地 豊橋ハリストス正教会構内建物平面図」〔19〕 

この図面は、20枚の図面の中で唯一の青焼き図面であり、聖堂、司祭の住宅「主管者住宅兼信徒集会所」、便所、倉庫の平面図が描かれている。主要な部分の寸法が尺寸で記入されており、図面左下に建物求積表が記されている。また、図面表題に記された住所の表示は、「豊橋市中八町百九拾五番地」である。 

3節 写真資料の概要 

すでに紹介した通り、今回の調査で図面とともに確認された写真資料(以下、写真と略す)は、基礎石を据え付けている途中の写真、上棟式の写真、成聖式の写真の3枚ある。 

(1)基礎石据付の写真(写真3-1) 

教会の日誌によれば、1913年2月2日より基礎石の据付工事が始まったとされ、2月27日に基礎成聖式をおこなって、「聖堂基礎式ノ際、東南隅ノ二段目ノ土台石ノ中ニ入レシ、記念記録写し」(注3)という記載があることから、この時点で基礎石は2段目を積んでいたことがわかる。一方、基礎石据付の写真では、基礎石は1段目を積んでいる途中である。したがって、この写真は、1913年2月2日から27日までに撮影された写真と考えられる。この時期については、再度、述べる。 

この写真から分かることは次の3点である。1点目は、基礎石の下にコンクリートの布基礎を設けていると推察されること。2点目は、基礎石の据付工事を東南部分から北西部分に向けておこなったと考えられること。3点目は、聖堂の平面を東西に走る中心軸を地面に設定して工事をおこなっていること。 

1点目について、基礎石が据え付けられていない部分には筵が敷かれているのが見える。これは、この下にコンクリートがあることを示しており、筵は、それを剥き出しにせず、養生するために敷かれている。当時のコンクリート工事ではよくある光景である。なお、教会の日誌では、1913年1月21日の項に、「聖堂土台コンクリート全部終了」(注4)という記述があり、基礎石の下にコンクリートを打ったことが示されているので、この筵はそのコンクリートを養生しているものと考えて間違いない。 

2点目について、写真を見れば一目瞭然であり、玄関から啓蒙所北側、聖所北西側の基礎石はまったく据え付けられていない。基礎石は、どこから据え付けても、このように一部分からの据え付けになるのは当然である。問題は、何故、東南側から据え付け始めたかということである。これを示す決定的な資料はないが、基礎式において記録を納めた場所が東南側の基礎石であることから、東南側から据え付け始めたのではないかと推察できる。 

3点目について、聖所中央部分と至聖所中央部分に明らかに平面の中心を確定するために立てられた棒が写っていることから、これを利用して石の据付位置を確定していったと考えられる。 

一方、疑問として残るのは、何故、工事途中の写真として、このような基礎石の据付途中の写真を写したのか、ということである。起工式、定礎式、上棟式という工事の区切りとなる時期の写真を撮ることは考えられるが、このような工事の区切りでもない時期の写真を撮ったことは、工事中、常に写真を撮っていた可能性も考えられ、あるいは、一見すると工事途中に見えるが、この場面が工事の区切りとなる重要な場面であるとも推察できる。前者の場合、日常的に写真を撮っているなら、多数の写真が残っていても不思議ではないが、実際には、今回の調査で確認できた写真は3枚しかないので、日常的に写真を撮っていたとは、考えにくい。後者の場合、可能性としては、基礎式(基礎成聖式)直前の写真であるという推測が成り立つ。教会の日誌によれば、前述の通り、聖堂建設の記録を東南隅の二段目の基礎石に入れたとされるが、写真はその石を積む直前の状態であれという見方は成り立つ。また、1979年に発行された『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌』には、教会の日誌「基礎式」と記された基礎成聖式の写真(写真2-4)が載っているが、それと写真3-1を比べると、基礎の状況はほとんど同じである。 

以上のことを考え合わせると、この写真は、基礎式直前の写真であると推察できる。 

(2)上棟式の写真(写真3-2) 

この写真は、すでに『豊橋ハリストス教会100周年記念誌』に掲載されているものであるが、今回の調査でその原盤が確認されたことと、この写真が聖堂の建設経緯や構造を知る上で特に貴重であるので取り上げることにした。写真は、敷地の南東隅から聖堂を写したもので、聖堂の柱・梁など軸組と小屋組がすべてできた状態になっている。そして、教会関係者が建物手前に並んでいるほか、多数の職人が小屋や足場に立って写真正面を向いて写っていることから、一般的な建物における上棟式に相当する場面を写したものと考えられる。教会の日誌では、1913年6月3日の項に「棟上げ。午前拾時、影田神父の為めパニヒダ執行。重なる人々多数参拝あり。夜、棟上げの祝ひを教会に於て催す」(注5)と記されていることから、この写真は、1913年6月3日撮影のものと考えられる。 

写真3-1 基礎石据付の写真 

この写真を見てわかることは次の3点である。 

1点目は、この工事をおこなった施工組織に関する情報である。写真を見ると、「中神」と書かれた法被を着ている職人が少なくとも8名はいることが確認できる。「中神」とは、この聖堂の工事を請け負ったとされる中神組を示す表記である。 

2点目は、聖所の小屋組の構造である。今回の調査で確認された一連の図面には聖所の小屋組が描かれておらず、現存する聖堂の聖所部分は天井裏を見ることができないため、小屋組は不明であったが、この写真には小屋組が写っており、その構造がよくわかる。 

それによれば、方形屋根の四周に置かれた4本の軒桁で正方形の枠をつくり、正方形の各頂点から隅木を対角線状に架け、屋根中央の頂部で隅木がもたれ合う状態になっている。隅木は互いにもたれ合うことで屋根の荷重を支えているが、隅木がもたれ合っている個所は屋根の中央部分であり、隅木を支える束が立てられないので、隅木の成を大きくし、また、隅木を支える軒桁による正方形の枠が崩壊しないように火打梁を入れていることが、写真から読み取れる。 

3点目は、一連の図面との差異である。大きな違いは、聖所南側窓の位置の変更と、それに伴う構造部材の変更である。図面では、聖所南側の上部の窓は、その下端を胴差上端に合わせているが、これは設計途中で変更され、窓の位置が上方にずれた。写真はそれを示しており、これによって、図面では窓上端の位置に胴貫が通されていたが、それがなくなった。 

その他、聖堂とは直接には関係ないが、聖堂北側にあった最初の信徒会館の建物が写真では聖堂の後方に移っており、聖堂より先に信徒会館が存在していたことを示している。 

写真3-2 上棟式の写真 

(3)成聖式の写真(写真3-3) 

教会誌によれば、1915年2月7日、東京からセルギイ主教を招いて成聖式をおこなっている(注6)。この写真は、そのときの様子を写したものであるが、ここで注目したいことは、写真の背景に写っている障壁である。写真の障壁は、現存する聖堂の障壁に比べて高さが低く、枠には装飾が施されておらず簡素である。これは、成聖式をこの簡素な障壁を用いておこなった後、現在の障壁を設置したためである。 

教会の日誌によれば、1914年2月9日の項に「夜(月)加藤兄宅に於て男子会開催。大川伝教者の教話及イコノスタスの図面と司祭住宅につき相談あり。」(注7)という記載があり、ここで初めてイコノスタス(障壁)についての記載が出てくる。その後、同11日の項には「夜、セルギイ主教閣下よりまわされ障壁図面につき、委員の相談を田中兄宅に開く。結果、ペートル田中、ペートル大石、ワルワナ平石、ワシリイ加藤の四兄上京することに決す。」(注8)と書かれており、聖堂の本体竣工後に東京・ニコライ堂のセルギー主教が障壁の図面を豊橋に送ってきたことが示されている。ところが、この障壁は日本で作成するものではなく、ロシアに発注された。教会の日誌にはそれを直接に示す記述はないが、同年9月24日の項には、「同日パニヒタ后、聖堂の件につき信徒総会を開催。出夜せるもの十一名余。仮障壁をつけ成聖式挙行などの事を河村氏を主教閣下に問合せる事に決す(障壁戦乱の為如何なりしやも)」(注9)と記され、障壁が第一次世界大戦の影響で障壁の入手が困難になっていることが示された。そして、この記述は、入手できない本来の障壁に代わって仮障壁をつくって成聖式をおこなうことをセルギイ主教に問い合わせることを伝えている。その後、同年12月13日の項には「河村氏の書信による成聖式及障壁の相談」(注10)と記載され、12月21日の項には「同夜、河村氏より当聖堂障壁、戦争の為にオテッサにありと云ふ電報、十九日に本会にニコライ長司祭より来れりとの報あり。」(注11)と記され、障壁をロシアに発注したが、第一次世界大戦の影響で船止めされていることが判明した。そこで、翌24日には「午后、ペートル田中兄宅に於て主教尊上よりの成聖式執行(仮障壁にて)すべき御意思に対する相談会を開き、主教尊上の御思召通りと決定す。」(注12)として、仮障壁を作って成聖式をおこなうことが決められた。 

この写真に写っている障壁は、このとき決められた仮障壁である。教会の日誌によれば、1915年1月9日の項に「早朝河村氏仮障壁取付けの為め来豊。」(注13)とあり、11日の項には「仮障壁製作十一日より大工着手す」(注14)と記され、写真に写っている仮障壁の製作が、成聖式直前のこの時期に、河村伊蔵の指導の下におこなわれたことがわかる。この間の経緯は2月4日の項に掲載された「豊橋聖使徒福音者馬太聖堂成聖式式典略報」に記された(注15)。そして、この仮障壁を用いて、1915年2月7日、成聖式がおこなわれた。 

この仮障壁は、現存する障壁に比べて低く、そのため、聖所と至聖所との間にある開口部をすべて塞ぐことはできず、障壁の上に開口部が見えている。また、角材を使って作られた障壁の枠は、表面に装飾がなく、簡素なつくりである。 

写真3-3 成聖式の写真 

4節 建物と図面の関係 

これらの建築図面が実際の聖堂建設とどのように関係していたかを判断するために、現存する聖堂と図面に記載された事項を比較検討してみた。なお、司祭の住宅と門は、既に取り壊されているため、比較は不可能である。 

(1)平面 

平面形状であるが、第壹号〔1〕図面によれば、玄関は、間口12尺×奥行12尺の正方形平面、啓蒙所は間口24尺×奥行18尺の長方形平面、聖所は間口30尺×奥行30尺の正方形平面、至聖所は間口24尺×奥行13尺の長方形の角を切り欠いた六角形平面である。現存する聖堂について、これらの場所の平面形状は、第壹号〔1〕図面に示された通りである。また、第壹号〔1〕図面に示された玄関、窓、階段の位置も現存する聖堂におけるそれらの位置と一致している。 

次に、第壹号〔1〕図面に示された寸法と現存する聖堂の寸法を、上記の場所ごとに比較した一覧が表3-2である。これを見ると、聖堂平面における図面上の寸法と現存する聖堂の寸法との差の最大値は、啓蒙所奥行で、その値は12.5mm、尺貫法による寸法体系では4分1厘である。また、図面上の寸法に対する差異の比率が大きいのは、玄関間口であり、その比率は、0.3%である。差の値の最大が12.5mm(4分1厘)であること、図面上の寸法に対する差の比率の最大が0.3%であること、の2点により、現存する聖堂の平面は、これらの図面に示された平面によってつくられていると判断できる。 

特に聖所の平面寸法は、間口30尺に対する差異がわずかに2分6厘、奥行30尺に対する差異が3分2厘であり、図面上の寸法に対する差異の比率は、0.1%程度である。 

(2)立面 

立面であるが、第弐号〔2〕図面と第参号〔3〕図面に示された聖堂の立面と現状を比較すると、形態の点で異なるのは、次の点である。 

ⅰ)聖所の屋根 

聖所の屋根は、図面では、大小二つの方形屋根を重ね、その中央部分にランタンを乗せた形態である。それに対して、現在の聖所の屋根は、下方の方形屋根がその四辺のそれぞれの中央部分で三角破風を立ち上げている。これについて、第参号〔3〕図面には、墨入れした図面の上から鉛筆書きで、三角破風を付けるように、その指示が記されている。 

ⅱ)聖所の出入口 

「本堂側面ノ半分」〔7-2〕図面には、聖所の出入口の内法を示す寸法が記入されている。それによれば、出入口の内法は、高さ7.95尺(2,409.1mm)、幅5尺(1,515.2mm)として設計されている。現存する聖堂の聖所出入口のうち、南側出入口の内法は、高さ2,428mm、幅1,547mmであり、図面で示された内法寸法よりやや大きめに造られている。 

表3-2 

ⅲ)聖所の窓 

「本堂側面ノ半分」〔7-2〕図面には、聖所の窓の内法を示す寸法が記入されている。それによれば、聖所下部の窓は、高さ5.5尺(1,666.7mm)、幅3尺(909.1mm)として設計され、このうち、高さについては、図面に鉛筆書きで「窓ヲ七寸上ゲル」と記され、高さ6.2尺(1,878.8mm)に修正されている。現存する聖堂の聖所について、南側下部の窓内法寸法は、高さ1,850mm、幅910mm、であり、この寸法は、高さについては図面上に墨入れされた寸法よりも鉛筆書きされた寸法に近く、幅については墨入れ寸法に近い値となっている。したがって、聖所下部の窓は、図面に墨入れされた寸法を基に高さを変更して作られたといえる。 

また、この聖所下部の窓は、第参号「本堂側面外部」〔3〕図面では、両開き窓になっているが、「下ハ弐枚上下ゲノ事」と鉛筆書きされており、現状の窓が上げ下げ窓になっているのは、この鉛筆書きに従ったものといえる。 

一方、聖所上部の窓については、第参号「本堂側面外部」〔3〕図面では、正方形の窓が描かれているが、図面上で角を切るように鉛筆描きで修正され、さらに「此窓ハ内部蛇腹ノ都合二テ外部ノ中央二置ク」と鉛筆書きされている。そして、現状の窓は、正方形の枠の中に正八角形の窓を収めており、また、窓の位置も図面に比べて上方にずれている。鉛筆書きされた「此窓ハ内部蛇腹ノ都合二テ外部ノ中央二置ク」とは、聖所の内壁に蛇腹をつけるため、窓の位置をずらしたことを意味し、新たな位置は聖所外壁の上方部分の中央に決める、という意味と考えられる。しかし、実際には、聖所の内壁には蛇腹はなく、窓の位置だけが上方にずらされたことになり、これによって、壁内部で柱や間柱を繋いでいた胴貫の一部がなくなった。 

ⅳ)鐘楼2階の窓 

第弐号「鐘楼側面全図」〔2〕図面では、鐘楼2階の窓は縦長の上げ下げ窓として描かれ、鉛筆書きで庇が追加されている。しかし、現存する聖堂の鐘楼2階の窓は、1階の窓と同様にペディメントの付いた庇となっており、図面通りには造られていない。 

ⅴ)鐘楼・啓蒙所の高さ 

第弐号「鐘楼側面全図」〔2〕図面では、地面から鐘楼1階軒先までの高さは、17.2尺と表記され、このうち、基礎の高さが2.2尺と表記されていることから、基礎上端から1階軒先までの高さは15尺(4,545.5mm)となる。鐘楼1階軒先は啓蒙所1階軒先と同じ高さであるので、今回の修理に合わせて基礎上端から啓蒙所1階軒先までの高さを測ったところ、4,530mmであった。この数値は図面に示された高さに比べてわずかに15.5mm低いだけであり、外観も第弐号「鐘楼側面全図」〔2〕図面の通りに造られているといえる。 

表3-3 

ⅵ)その他 

立面において、図面と現存する聖堂との差異が一番大きいのは、基礎石積の高さと段数である。第弐号〔2〕図面と第参号〔3〕図面では、基礎石積は地上部分では、2段積で高さは2.2尺(666.7mm)である。しかし、現存する聖堂の基礎石積は、3段積で高さは912mmであり、図面上の石積に比べて1段多く、245.3mmも高い(表3-3)。この差異は、聖堂の他の場所・部材における図面と現存する聖堂との比較の中で最も大きな差異であり、かつ、他の差異に比べて極端に大きな差異である。 

また、聖堂外壁の下見板を押さえている定規柱の隅に飾りは、図面に鉛筆書きで指示されており、そのように造られている。 

(3)構造と部材 

現存する聖堂において、聖所、啓蒙所、至聖所の壁体は、その内部を見ることは難しいので、構造を確認するのは難しい。鐘楼は、2階東側の壁の裏側を啓蒙所の屋根裏から見ることができ、現況は、第弐号〔2〕図面に示された軸組と同様である。 

一方、小屋組のうち、啓蒙所の小屋組については、その屋根裏に入ることができるので、現状を確認できる。第六号「本堂ト渡家取付」〔6〕図面には、啓蒙所の小屋組が描かれているが、それと現状の小屋組を比較すると、いずれもキングポストを用いた木造トラスであることは同じである。しかし、図面には釣束が描かれているが、実際の啓蒙所の小屋組トラスにはこの釣束はない。 

また、このトラス陸梁は、第六号「本堂ト渡家取付」〔6〕図面では、1本の木材ではなく、2本の木材を繋いだ部材として描かれ、その継目は、4本のボルトで固定されている。実際の啓蒙所のトラス陸梁は、図面のように2本の木材を継いでいるが、その継目には、長さ1,090mm、幅52mm、厚さ8mmの鉄製の添え継板を陸梁の上下に当ててボルトで締め固めている。このような方法は、第五号「本堂ト至聖所取付」〔5〕図面と第六号「本堂ト渡家取付」〔6〕図面に示された聖所の軒桁の継目には図示されており、実際の工事中にこの方法を啓蒙所の小屋組トラスにも用いたものと考えられる。 

5節 史料としての位置付けと図面・写真から得られた知見 

(1)史料としての位置付け 

今回の調査で確認された建築図面と写真について、図面と写真の分析および現存する聖堂との比較により、次のことが指摘できる。 

1) 〔巻物その1〕〔巻物その2〕に分類された番号を付された第壹号から第十一号の図面は、実際の施工に用いたいわゆる施工図である。このうち、第四号、第五号、第六号、第七号〔7-2〕の4枚は、聖堂の構造、構法を示す図面であり、また、それらが厚手の製図用紙に描かれているのに対して、立面図に相当する第弐号、第参号が薄手の和紙に描かれていることから、第弐号は第四号を基に、第参号は第七号〔7-2〕を基に描かれた立面図である。 

2) 〔巻物その3〕に分類された番号も表題もない図面も、門や柵、司祭館などの附帯工事の施工に用いたいわゆる施工図である。また、聖堂で使う椅子の図面も含まれる。 

3) 「聖堂南側立面図」(仮称)〔18〕は、1階外壁が下見板張りではなく漆喰塗りであること、鐘楼の2階窓の形状が現況と異なること、鐘楼の屋根窓が現況ではないこと、聖所の軒下の装飾が現況と異なること、から判断して、設計当初のいわゆる「姿図」と呼ばれる図面であると判断される。そして、この図面は、京都ハリストス正教会聖堂の外観と酷似していることから、豊橋ハリストス正教会聖堂の設計当初において、参考図面として描かれたものと考えられる。 

4) 「豊橋市中八町百拾五番地 豊橋ハリストス正教会構内建物平面図」〔19〕は、建物建設当初の図面ではなく、竣工後に作成された図面である。 

5) これらの図面の作成者を示す資料は今のところ確認されていないが、設計者と判断される河村伊蔵の旧蔵資料にある「河村」という筆跡と第壹号から第十一号までの12枚の図面の随所に記された鉛筆書きの指示にある「寸」という筆跡は酷似しており、図面の作成にあたって河村伊蔵が直接指示、あるいは図面を描いたものと判断される。 

6) これら一連の図面には、内壁や天井を示す断面図や展開図という類の図面がまったくないが、図面番号から判断すると、当初からそのような図面は作成されず、これらの図面を基に聖堂が建設されたと考えられる。 

7) 図面が保管されていた木箱の蓋に描かれた文字情報もこれらの図面の経緯を示すものである。 

8) 今回の調査で確認された3枚の写真は、聖堂の基礎式、上棟式、成聖式という、聖堂建設の区切りになった時期の写真である。このうち、基礎式の写真は、基礎石の据付け方や基礎のコンクリートの存在、平面の決め方を示している。また、上棟式の写真は、壁や屋根の骨組みの構造、特に大空間となる聖所の屋根を支える方法を明確に示した。さらに、成聖式の写真によって、現存する障壁とは異なる仮障壁の存在が明らかになった。 

以上により、今回の調査で確認された図面は、聖堂の構造・構法、設計手法を知る上で貴重な資料であるといえる。 

(2)図面・写真から得られた知見 

今回確認された一連の建築図面と写真から判明したことは次の通りである。 

1) 聖堂の外観は、京都聖堂の外観を基本とし、屋根の形態、窓の位置と大きさを修正していた。 

2) 聖堂の平面は、玄関中央から至聖所中央に至る対称軸を中心として南北部分が対称の平面として設計されている。 

3) 鐘楼は、1階から2階3階に上るにつれて柱を内側に入れて塔身を細くしていた。 

4) 小屋組の部材接合部分、小屋と柱、柱と桁、柱と筋違、のそれぞれの接合部分は、ボルトや「羽子板」金具、鉄帯などの鉄製部材で補強されていた。 

5) 聖所の屋根は、4本の軒桁を正方形に組み、その各頂点から成の大きな隅木を対角線状に架け、隅木がもたれあう状態で屋根を支えている。 

これらのうち、1)については建築図面が判明しなければ、5)については上棟式の写真がなければ、いずれも全くわからなかったことである。また、2)3)4)は、現存する聖堂の実測調査などにより判明する部分もあるが、建築図面によって、これらの点が設計段階で意図的におこなわれていることが判明した。 

注記 

1)愛知県近代化遺産総合調査は、文化庁の補助金を得て2002~2004年に愛知県教育委員会がおこなった近代化遺産の調査であり、その対象は、日本の近代化に拘わった建築物、土木構造物、機械類である。調査報告書として『愛知県の近代化遺産』が刊行された。この調査において泉田と西澤が調査員として東三河地区の建築物調査を担当し、豊橋ハリストス正教会聖堂については、伊藤の協力を得て調査を進めた。 

2)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、『豊橋市美術博物館研究紀要5号』、1996年、94-96頁。 

3)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、77頁。 

4)3)に同じ。 

5)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、81頁。 

6)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、96-97頁。 

7)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、87頁。 

8)7)に同じ。 

9)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、91頁。 

10)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、92頁。 

11)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、93頁。 

12)11)に同じ。 

13)11)に同じ。 

14)11)に同じ。 

15)秦基「豊橋ハリストス正教会誌」Ⅳ、前掲、94頁。 

第4章 豊橋聖堂の特徴と建築的位置づけ 

豊橋聖堂に先立って建設された京都聖堂、松山聖堂、大阪聖堂との比較を通して、豊橋聖堂の建築的特徴を明らかにする。 

1節 平面と立面 

4つの聖堂とも西側に入口を置き、その東側一直線上に玄関鐘楼、啓蒙所、聖所、そして至聖所を並べている。玄関・鐘楼と聖所は正方形の平面をしており、その上の屋根は角錐状に天に延び、頂点にハリストス十字架を抱くタマネギ形のキューポラがのっている。松山聖堂を除くと、鐘楼の方が聖所の頂点より若干高くなっている。啓蒙所は建築的には玄関鐘楼と聖所を結ぶ役割を果たし、信徒の集会などに用いられる。このデザインは基本的にロシアの正教会聖堂を引き継いでいるが(写真4-1、4-2)、地域的、歴史的なバリエーションがあるらしく(注1)、この四つの聖堂建築の直接的手本になったものは現時点では発見されてはいない。前述したように、ニコライ大主教が聖堂図譜を持っていたことがわかっており、それがこの四つの参考になったのであろう。 

写真4-1 ロシアの木造教会 写真4-2 同左の別の例、”Wooden Architecture”より 

4.1.1. 平面 

平面形態は、玄関・鐘楼と聖所は正方形をなし、奥の至聖所は多角形になっていること、尺単位で設計されていること、下見板にペンキ塗の外観になっていることに共通点が見られる。このように4聖堂は非常に似ているようだが、実際はプランに微妙な相違がある。第1は聖所の大きさで、大阪聖堂の36尺四方を最大にして、豊橋では30尺四方と最小になっている。大阪聖堂の建設の際には多額の寄付金が集まり、さらに敷地に余裕があったため、規模の大きな聖堂を建設することになったのであろう。反対に豊橋では、敷地にも資金にも限界があったため、小規模なものになったと考えられる。 

図4-1 京都聖堂平面、『京都至聖生神女福音聖堂の記念画帖』より作成 

図4-2 松山聖堂平面、『松山ハリストス復活聖堂』より作成 

図4-3 大阪聖堂平面、『大阪至聖生神女庇護聖堂』より作成 

図4-4 豊橋聖堂、実測より作成 

第2は啓蒙所の形と大きさで、京都では26尺四方でありながら、松山では縦13尺、横27尺と京都のほぼ半分の大きさしかない。これは、松山にはもともと信徒がおらず、当地で亡くなった日露戦争中のロシア人俘虜を追悼して作られたため、広い啓蒙所は必要とされなかったためであろう。大阪と豊橋では規模の差こそあれ、玄関鐘楼部と啓蒙所の縦幅合計が聖所幅と同じになっており、ほぼ同じプロポーションである。立面と細部に若干の相違はあるものの、フォマ尾林と河村伊蔵の二人のコンビによる木造聖堂建築デザインが大阪聖堂で完成し、それが豊橋聖堂に受け継がれたと考えられる。 

4.1.2. 立面の特徴 

玄関鐘楼と聖所の屋根の上にはキューポラと十字架がそびえたっており、外観の特徴は側面によく現れている(図4-5)。最もボリュームの大きな聖所の軒高はその幅から来ており、そうすると半径15尺の円がぴったりと収まることになる。その中心はポーチの破風板交差下端にあたり、さらにその位置が啓蒙所と至聖所のコーニス高になっている。屋根の傾斜は42度ほどであるが、二重にかけられているため、その頂点は軒からほぼ15尺あがることになる。このように聖所外観は円と対角線によって構成されており、伊蔵によって考え抜かれてデザインされたことがわかる。 

聖所幅と啓蒙所と玄関鐘楼を合わせた長さは同じであり、そうすると聖所屋根頂部から西下45°の線が聖堂の西足下にぶつかる。建物の要所と要所を45°対角線が結んでおり、建物に視覚的な安定性を与えていると考えられる。それに対して、鐘楼は安定や安心感というより、天に通ずる静謐で孤高な印象を与えてくれる。その効果は玄関の一層部分から上にいくにしたがって三段にわたって幅が減少し、さらに屋根が尖塔状になっていることでより高められている。 

図4-5 豊橋聖堂側面図 設計図『第七号「本堂側面ノ半分」』及び実測より作成 

豊橋と大阪の両聖堂の外観のプロポーションは同じであるが、大阪聖堂の玄関鐘楼は一層目が4角形平面、二層目が8角形平面となっており、塔としての一体感と垂直性に乏しい。また、大阪聖堂には軒下のエンタブレチャと、柱と軒の交差部に繰型装飾がないが、これら二つは豊橋聖堂に重厚性と優雅さを与えるのに役立っているように見える。適度な安定性、流動性、躍動感などを生み出すように全体のプロポーションを綿密に検討した上で、各部にそれぞれ相応しい装飾を付け加えるという設計プロセスが、故内井昭蔵氏にして豊橋聖堂を賞賛させることになったのであろう(注2)。 

2節 構造の特徴 

豊橋聖堂の構造的特徴は次の6点である。1点目は、木造であることである。2点目は、聖所と啓蒙所に無柱の空間をつくるための工夫が施されていることである。3点目は、鐘楼の外壁が上階ほど内側に入り込んでいることである。4点目は、構造部材の接合部にボルトや「羽子板」などの鉄材が多用されていることである。5点目は、筋違の多用である。 

1点目について、19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられたハリストス正教会の聖堂を構造的に大別すると煉瓦造と木造に分けられるが、日本においては、東京・ニコライ堂と函館聖堂(再建)のみが煉瓦造の聖堂であり、この時期に建てられたほとんどの聖堂が木造である。したがって、豊橋聖堂が木造であることは何ら不思議なことではない。重要なことは、構造が木造であるために生じたことを把握することが重要であると考えられる。木造の聖堂と煉瓦造の聖堂とにおいて、構造的な違いは、壁と屋根の作り方である。煉瓦造の聖堂では、煉瓦による組積造となるので、壁厚は煉瓦2枚積であっても40~50cm程度になる。函館聖堂では、聖所の壁厚は煉瓦3枚積で742mmであり(注1)、東京・ニコライ堂では、聖所の壁は煉瓦4枚積で(注3)。それに対して木造の場合、外壁を下見板張り、内壁を漆喰塗りとした場合、20~25cm程度となるのが一般的である。豊橋聖堂の場合、聖所の壁厚は23~24cm程度である。このような壁厚の違いは、一般的には、建物の外観や内観が人に与える印象に大きな影響を与えており、壁厚の厚い煉瓦造の聖堂は、重厚な印象を人に与えるのに対して、壁厚の薄い木造の場合、相対的に軽快な印象を人に与えている。豊橋聖堂と函館聖堂が両者ともに白色に塗られた外壁を持ちながら、木造の豊橋聖堂に比べて煉瓦造の函館聖堂に重厚な印象を持つ人が多いのは、これを示している。 

2点目について、これは小屋組や天井の構造と連動している。一般的に煉瓦造で天井をつくる場合、ドームやヴォールトを用いることになり、特にハリストス正教会の聖堂の場合は、聖所が正方形平面になることから、正方形の四辺にアーチを架け、ペンデンティヴをつくって、その上にドームを架けることになる。日本では、このような事例は少ないが、1891年竣工の東京・ニコライ堂がその典型である。しかし、屋根と天井を木造で作る場合、無柱の空間で、かつ、ドーム状の天井形態を模すため、工夫が必要となる。豊橋聖堂では、正方形に組まれた桁に火打梁を渡して八角形の枠をつくり、八角錐状に天井を張っていく方法が採られている。この場合、天井をドームの形態に近づけるため、天井面を曲面とし、また、頂点には、八角形に枠を施している。 

一方、豊橋聖堂では、聖所の天井が中央部分で高くなり懐が小さくなることや聖所が無柱空間であることから、小屋に通常のトラスを架けることや水平な梁を架けることは不可能である。そこで、正方形に組まれた桁を枠として、正方形の各頂点から対角線方向に成の大きな隅木を渡し、4本の隅木が一点でもたれあうことで屋根を支え、また、天井の上端を支えている。この場合、正方形に組まれた桁が各頂点で外れれば、屋根が落ちる危険があるので、火打梁を渡してこれを防いでいる。この火打梁は、天井の下端を支える役割も兼ねている工夫がなされている。 

3点目について、今回の調査で確認された建築図面のうち、「第弐号鐘楼側面全図」〔仮番号:2〕には、鐘楼各階の東西方向の柱心々の寸法が記入されており、それによれば、1階が12尺であるのに対して、2階は11.3尺、3階は10.6尺という具合に0.7尺ずつ低減している。現存する聖堂の鐘楼について、玄関を兼ねた1階の東西方向の寸法は、心々で3,631mmであり、12尺(3,636.4mm)とは僅差であることから、この図面に従って鐘楼がつくられていることは確実である。そして、1階と2階について、内法寸法で比較すると1階の東西方向内法寸法が3,442mmであるのに対して2階は3,275mmとなっており、167mm減じている。また、南北方向内法寸法は、1階が3,455mmであるのに対して2階は3,277mmであり、178mm減じている。建築図面上で示された7寸(212mm)よりは小さい値であるが、鐘楼は実際に上階を低減させて建設されたことは確実である。 

そして、啓蒙所の天井裏に現れている鐘楼1階上部および2階の軸組を見ると、2階の柱は、1階上端の桁や火打梁に対してその心を内側に寄せ、柱下端を切り欠いて架けられる状態で立っている(写真4-3)。 

このようにした鐘楼平面の低減について、その理由を示す資料は、今のところ見つかっていない。そこで、理由を推察するが、いちばん考えられる理由は、塔の形態に関わる理由である。建築形態として、上階を低減させるのは、洋の東西を問わず、塔の形態として常識的な形態であったことである。上方を低減させることで、塔の高さをより高く見せるという視覚的効果を狙ったものである。 

なお、函館聖堂でも、鐘楼の外壁は上階ほど内側に入っているが、鐘楼の内法寸法は、1階から3階まですべて3,333mm(11尺)になっている(注4)。これは、建物の構造が煉瓦造であるため、上階ほど壁厚を薄くしたためであるが、それによって内法寸法を維持しながら、外観では、上方に向かって低減していく形態を採るという工夫が施された。 

4点目について、柱や間柱と梁・桁・胴貫や土台、筋違といった軸組部材の接合部分にボルトや羽子板などの補強の鉄材が多用されていることである。今回確認された建築図面には、ボルトや羽子板が描かれており、現存する聖堂の啓蒙所天井裏において、それらのうち、聖所の筋違と胴貫の接合部分、鐘楼の柱と火打梁との接合部分、啓蒙所のトラス陸梁の繋ぎ部分に鉄材が用いられていることが確認できる。聖所の筋違と胴貫との接合部分(写真4-4)では、垂直方向にボルトを通し、上端をナットで締めていることが確認できる。これは、建築図面「本堂ト渡家取付」〔仮番号:6〕においても描かれており、啓蒙所の天井裏からでは確認できないが、筋違に通されたボルトの下端は胴貫の下端に出て、ナットで締められていると推察できる。また、鐘楼の柱と火打梁との接合部分(写真4-2-3)では、柱下端の側面に当てられた鉄板が下方で90度ねじれて火打梁の内側に当てられ、それぞれに鉄棒を通して固定されている。さらに、啓蒙所のトラス陸梁の繋ぎ部分(写真4-2-4)では、繋ぎ部分の上端と下端に長さ1,090mm×幅52mm×厚さ9mmの鉄板を当て、5本のボルトを貫通させ、2本の陸梁材を繋いでいる。これも、建築図面「鐘楼骨組ト渡家取付」〔仮番号:4〕に描かれている。 

このような鉄材による補強は、1891年に起きた濃尾地震によって多数の木造建物が倒壊したことを受けて始まった建物の耐震化の技術開発の影響であると考えられる。濃尾地震の翌年に政府が設けた震災予防調査会では、建物の耐震化技術の研究開発を取り組むことを決め、特に被害が甚大であった木造建物については、1897年に「木造耐震家屋雛形」が示され、さまざまな形態・用途の木造建物に対する耐震化技術が提案された。そこでは、特に、土台・柱・梁・桁・小屋を十分に結合した構造体の一体化のため、鉄材による部材結合部分の補強や筋違の多用が提唱された(注4)。豊橋聖堂の軸部における鉄材の補強は、この影響であると考えられる。 

第5点目について、今回確認された建築図面では、随所に筋違が描かれている。そして、上棟式を写したと考えられる写真には、図面とは異なる部分もあるが、聖所南側の壁や鐘楼南側・東側の壁に筋違が写っている。また、写真ではわかりにくい聖所西側の壁についても、啓蒙所の天井裏で筋違の存在を確認できる(写真4-5)。このような筋違の多用も補強用鉄材の多用と同様に濃尾地震後に提唱された木造建物の耐震化技術の影響であると考えられるが、それは、豊橋聖堂に限ったことではなく、河村伊蔵が設計に関与した大阪聖堂においても、その建築概要を記した一文に「建物の骨組は、総て堅牢なる松材をX形に組合わせて、倒壊の難を防ぎ」(注5)という一節があることから、大阪聖堂の前例に倣った結果でもある。 

以上が、構造上の特徴であるが、これらと聖堂の外壁を下見板張り、内壁を木摺り漆喰塗りとしたことにも関係があると考えられる。それは、内外壁の間に中空層ができることとなり、筋違を収めるには好都合な壁のつくりであったことである。また、構造とは直接には関係しないが、土台には下端と屋外側に沿ってL字型断面のブリキ板が貼られている。したがって、土台の下端面は基礎石の上端面とは、直接には接していない。これは、明らかに土台を保護するように付けられており、特に土台に水が当たることを防いでいるものと見られる。 

このような構造上の特徴を総じて考えると、屋根のつくりや壁のつくりにおいえ木造建築であることを十分に生かす工夫が施されているといえる。また、木造建築の弱点であった耐震性能を向上させるために鉄材の補強を行っており、これらを考え合わせると、豊橋聖堂は当時の日本における木造建築の先進的な存在であるといえる。 

写真4-3 鐘楼2階南東側壁裏側 

写真4-4 聖所西側壁の裏側にある筋違と補強のボルト(白点線円内にボルトの頭が見える) 

写真4-5 鐘楼2階南側柱下端と梁の接合部と補強用鉄材 

写真4-6 啓蒙所小屋組トラス 

3節 装飾・細部

京都以後の3つの聖堂建設に際して、構造に関してフォマ尾林の貢献があったとしても、装飾・細部はまったく河村伊蔵の手になると考えられる。京都聖堂を丹念に見て、松山と大阪では設計と監理を自ら行い、これらの経験が豊橋聖堂の装飾・細部にどのように反映されたのであろうか。また、伊蔵だけではなく、第1章で述べたように豊橋聖堂建設の直前に、豊橋教会の関係者が施工予定者を伴って京都及び大阪の聖堂を視察している。職人たちにとっても、大阪と京都に実際の手本があったことは施工に大きな手助けになったに違いない。ここでは、現存する京都聖堂との比較を行いながら豊橋聖堂の細部と装飾の特徴を解説する。 

3.1. 玄関及び聖所南北のポーチの意匠 

京都聖堂の場合ポーチの細部には、木造部分にバンド付コリント・オーダーの柱など西洋古典建築の意匠による繊細な装飾が施されているのに対し、豊橋聖堂では、装飾を簡素化して大まかな構成のみを取り入れている。石造の台座(ペデスタル)についても、京都聖堂に比較して豊橋聖堂では意匠の簡略化と小型化が図られている。 

京都聖堂の場合、竣工当時はポーチの柱部分に関しては現在のようなペンキ塗りではなく、細部の装飾がよりよく表現されるよう、ニス塗りで仕上げられていたことが竣工当時の写真により確認されている。このような繊細な装飾をニス塗りで仕上げ、外部に使用した場合、耐久性の点で難がある。京都聖堂の場合、後年耐久性の問題からペンキ塗りに変更されたものと推察される。ペンキの塗膜の厚さのため、現在の京都聖堂のポーチ柱まわりの装飾は、本来の細やかな細工が塗りつぶされてしまっている。 

また、このような西洋古典建築にモチーフの使用は、京都聖堂の設計者松室重光が東京帝国大学工科大学造家学科の卒業であり、正統の建築教育を受けていることの反映と考えられる。 

豊橋聖堂では、耐久性に問題のある木部の繊細な装飾の問題点を避けるという点と、設計者河村伊蔵が大学での本格的な西洋建築の教育を受けていないという点から、全体構成をほぼ同様としながら装飾の簡素化が図られたものと推察される。写真4-7、4-8に見られるように、豊橋聖堂(写真4-8)のポーチ部分は、京都聖堂(写真4-7)の装飾を簡素化しながらも基本的なプロポーションを継承していることがわかる。 

写真4-7 京都聖堂聖所南側ポーチ 写真4-8 豊橋聖堂聖所南側ポーチ 

3.2 窓周りの装飾 

窓周りの装飾についても、ポーチと同様に京都聖堂の装飾を簡素化したモチーフが見られる。京都聖堂の窓台下部の貝殻状の曲線的な装飾を豊橋聖堂では単純化し、山形モチーフとしてペディメントやポーチ柱の意匠と関連付けていることがわかる(写真4-9、4-10)。 

写真4-9京都聖堂窓まわり詳細 写真4-10豊橋聖堂窓まわり詳細 

(3) 屋根のコーニスの詳細及び樋の金物 

京都聖堂と比較してポーチ、窓まわりは簡略化されたが、屋根のコーニス及び樋については豊橋聖堂の細部には簡略化は見られず、より複雑な造形となっている。豊橋聖堂の屋根のコーニスは京都聖堂と比較して壁面からの出寸法が大きくなり、繰形の段数が増えている。ただし、玄関及び聖所南北出入口のポーチのコーニスにいては、屋根のコーニスような大きな違いは見られない(写真4-11、4-12)。 

また、豊橋聖堂・京都聖堂ともに現在の樋が建設当時のものかどうか確認できていないので、現時点での比較となるが、豊橋聖堂の樋については、手仕事ならではの大変手の込んだ細工が見られることが特筆される。横樋は、コーニスと一体化され、外観上余計なラインが軒に出てこない。また飾り枡もコーニスのデザインを反映した形状をとり、十字架等のモチーフの装飾が施され、精巧な造りとなっている。横樋がコーニスと一体化されているのは京都聖堂にも見られるが、飾り枡については、現在の京都聖堂には簡素な形状のものがついている。ただし、横樋から飾り桝への樋の通し方は、京都聖堂の場合はコーニスの内側を通してシンプルに納めているのに対して、豊橋聖堂の場合はコーニスの外側に露出している(写真4-13、4-14)。 

写真4-11 京都聖堂コーニス 写真4-12 豊橋聖堂コーニス 

写真4-13 京都聖堂雨樋詳細 写真4-14 豊橋聖堂雨樋詳細 

以上見てきたとおり、豊橋聖堂は、京都聖堂と比較して、ポーチ及び窓まわり意匠の簡素化が図られている一方、屋根のコーニスについては、豊橋聖堂のほうが壁面からの出が大きく、繰形の段数が多い複雑な構成となっている。これは、設計者河村伊蔵が、京都聖堂を基本としながら、問題点を改良し、自分なりの工夫を取り入れた結果であり、豊橋聖堂は正教会の木造聖堂の集大成と評価することができよう。 

4節 豊橋聖堂の位置づけ 

ここでは、豊橋聖堂について、特に平面、立面、構造、装飾の点から、日本におけるハリストス性教会の聖堂としての位置づけを試みる。 

まず、平面について、聖所、啓蒙所、玄関の平面形状を比べると、木造の聖堂として先行した京都聖堂では、この3室はいずれも正方形平面でつくられているのに対して、松山、大阪、豊橋の各聖堂は、聖所と玄関を正方形平面でつくりながら、啓蒙所は間口に対して奥行が短い長方形平面になっている。このうち、松山聖堂は、聖堂建設時に信者数が少なかったため、聖所に比べて啓蒙所が極端に狭く、啓蒙所の奥行は聖所の4割程度の長さしかない。また、啓蒙所の間口に比べて玄関の間口も極端に小さく、従って、平面計画上では、啓蒙所と玄関は聖所に付随する場所として扱われている。それに対して大阪聖堂と豊橋聖堂では、それぞれ、聖所と同じ大きさの正方形の中に啓蒙所と玄関を収めている。これによって、松山聖堂とは異なり、大阪聖堂や豊橋聖堂の啓蒙所と玄関は、聖所に付随する扱いではなく、両者を合わせて平面状の規模を聖所と同じ規模で確保しようとする設計意図が読み取れる。 

一方、大阪聖堂と豊橋聖堂で異なるのは、それぞれの聖所と同じ正方形平面に収められた啓蒙所と玄関の大きさである。大阪聖堂では、奥行方向を2対1に分割して啓蒙所と玄関の奥行に振り分けている。それに対して豊橋聖堂では、奥行方向を3対2に分割して啓蒙所と玄関に振り分けている。したがって、豊橋聖堂では、啓蒙所の奥行は聖所の奥行の6割になり、玄関の奥行は啓蒙所の奥行の3分の2になるという具合に似たような比率で、聖所⇒啓蒙所⇒玄関にかけて奥行が逓減している。表現を変えれば、豊橋聖堂では、聖所、啓蒙所、玄関の奥行の比は、5:3:2という具合にきれいな整数比であり、これは、平面形態の設計手法として、洗練された手法である。すなわち、先行した京都、松山、大阪の各聖堂に比べて、豊橋聖堂は洗練された手法によって平面形態が設計されたといえる。 

次に、立面について考えると、図4-5に示されるように聖所の平面における1辺の長さ30尺を基準に啓蒙所と玄関の南側外観がつくられていることがわかり、これも洗練された手法に依っているといえる。 

また、鐘楼の立面について、その外形は3層としてつくり、玄関を兼ねた1層目は正方形平面であるが、2層、3層は八角形平面として、塔としての存在感を示していることと、その外壁は、1階(玄関)⇒2階⇒3階に向かうにつれて、外壁が内側に0.7尺ずつに入っていることが際立った特徴である。前者について、大阪聖堂では、鐘楼を正方形平面の下層と八角形平面の上層という具合に2層で構成し、下層の軒高を聖所の軒高に合わせ、宝形屋根を架けた上に上層を載せている。また、下層の外観も聖所の外観に合わせて、下方に縦長の両開き窓、上方に八角形の窓を開けている。このように、大阪聖堂では、鐘楼の外観は聖所に合わせた形態を取っているが、豊橋聖堂では、鐘楼を3層として、さらに、上層に向かって平面寸法を逓減させることで、聖所とは切り離し、独立した塔として設計しているといえる。 

構造について、木造であることは、日本国内のハリストス正教会の聖堂としては普遍的な構造である。また、煉瓦造の建物が多い中国においても、19世紀末、帝政ロシアによる中国東北地方への支配が本格化したとき、その拠点となったハルビンでは、最初に建てられたロシア正教会の聖堂や、その後、ハルビンの中心街に建てられた中国におけるロシア正教会の総本山となった中央寺院は、いずれも木造の聖堂であった。したがって、木造であることは、東アジア地域のロシア正教会の聖堂として一般的なことである。 

構造として際立っていることは、聖所に無柱の空間をつくる工夫と金物や筋違の多用による耐震性能の向上に対する工夫である。前者について、聖所の小屋は、桁で作られた正方形の枠の各頂点から、成の大きな4本の隅木を対角線状に架け、隅木の先端が一点でもたれ合うようにして、屋根を支えている。そして、それぞれの隅木を支えている桁による枠が広がらないようにするため、桁に火打梁を渡しているが、この火打梁は単に屋根を支える構造としての役目だけでなく、この火打梁と桁によって作られた八角形の枠によって聖所の添乗が支えられ、かつ、聖所の天井をドーム状に似せるための役割も果たしている。したがって、このような小屋を中心とした構造は、聖所の空間表現も支えていることになる。 

一方、豊橋聖堂では、軸部の補強として随所に金物が用いられ、さらに筋違を入れることで耐震性能を確保している。平面や外観など形態的には豊橋聖堂とよく似ている京都聖堂の場合、現在、確認できる範囲では、金物の使用は非常に少なく、構造補強という点においては豊橋聖堂と大きく異なっている。筋違を入れることについては、大阪聖堂に関する『大阪至聖生神女庇護聖堂』において、その使用が推奨されたと考えられるが、金物の補強に関する記述はなく、それから判断すると、豊橋聖堂が筋違と金物による補強を大々的に併用した最初の聖堂ではないかと考えられ、見方を変えれば、木造建築における先進的な存在であったともいえよう。 

装飾について、平面や外観の類似している京都聖堂と比較した場合、特に、玄関ポーチの柱や窓廻りの装飾では、京都聖堂の装飾が西洋古典建築の意匠による繊細な装飾が施されているのに対して、豊橋聖堂の装飾は、それらが簡略化されている。玄関ポーチの柱では、京都聖堂の場合、柱は、柱身を円柱とし、柱頭にコリント式の装飾を載せた典型的な西洋古典建築様式の柱になっているのに対して、豊橋聖堂では、柱身を方形断面の立体の組み合わせでつくり、柱頭にも方形の枡を載せているだけで、装飾は施されていない。このような構成は、同時代のヨーロッパに出現した表現主義の建築や1920年代に出現するキュビズムの建築に通じる意匠であり、明らかに西洋古典建築を基にした意匠とは異なっている。同様の指摘が、聖所や啓蒙所の窓についても可能である。京都聖堂の窓では、窓台を支える持ち送りの間にアカンサスの葉をモチーフとした装飾が付いているのに対して、豊橋聖堂では、窓台を支える持ち送りを無くし、四角錘や直方体の組み合わせによる部材を張り出して窓台を支えている。 

このような豊橋聖堂における装飾の簡略化については、先行した京都聖堂において、繊細の施されたこれらの装飾を保護するためニス塗りが施されたが、耐久性に欠けたため、後に白ペンキ塗りとなったことを受けて、豊橋聖堂では、雨ざらしなる外部の装飾は、ペンキ塗りに耐える程度の簡略化したものが用いられたと解釈されている。この点も、設計をおこなった河村伊蔵が、先行した京都聖堂を参考にしながら、不都合な部分を改良していったことを示している。その結果として、できあがった柱や窓廻りの細部の意匠は、偶然ではあったが、当時の世界の最先端をゆく意匠と一致していた。 

以上に考えると、豊橋聖堂は、木造聖堂として先行した京都聖堂や大阪聖堂を参考にしながら、それらで生じた不都合な点を改良してつくられた聖堂であり、ハリストス正教会の木造聖堂建築として日本の頂点に立つ存在であったといえよう。 

注記

1)Alexander Opolovnikov and Yelena Opolovnikova, The wooden architecture of Russia : houses, fortifications, Thames and Hudson, 1989, p.125-135. 

2)内井昭蔵「特集 装飾の復権-1 装飾序論」、INAX REPORT No.173、1987年、5頁。 

「最初に建築家の目で祖父の仕事を確かめに出かけたのは豊橋であった。そのとき、私は自分の血の中に祖父を強く感じたものだ。ちょっとしたディテールに、そしてプロポーションに同質な感覚を強く感じ取ったのである。それは私にとって不思議な体験であった。」 

3)財団法人文化財建造物保存技術協会編『重要文化財函館ハリストス正教会復活聖堂保存修理工事報告書』宗教法人函館ハリストス正教会、1989年、23頁。 

4)財団法人文化財建造物保存技術協会編『重要文化財日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)保存修理工事報告書』宗教法人日本ハリストス正教会教団、1998年、5、12頁。 

5)『重要文化財函館ハリストス正教会復活聖堂保存修理工事報告書』前掲書、22頁。 

6)中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編『1891年濃尾地震報告書』中央防災会議、2006年、181~187頁。西澤泰彦「歴史の中の地震その十七の弐脳・濃尾地震(1891年)・事実と印象が混在した被害記録と冷静だった建築界の対応」『月刊地震レポートサイスモ』第11巻第1号、10~11頁、2007年1月。 

7)正教本会編纂所『大阪至聖生神女庇護聖堂』正教会事務所、1911年、8頁。 

おわりに 

ハリストス正教会の本格的聖堂は、地方では京都の木造聖堂からはじまった。それは日本人建築家によって実施設計と監理が行われたが、その後の経緯をみると教団として外部に頼むことをよしとしなかった。その理由は定かではないが、京都以後の松山、大阪、豊橋の三つ聖堂は教団信徒であり、請負師のフォマ尾林と、副輔祭を努める河村伊蔵の二人に任された。尾林は建築構造と施工に長けてはいたが、デザインに口出しするような人ではなかったようだ。一方、伊蔵はそれまで聖堂内部の聖器物のしつらいを担っていただけで、建築設計についてはまだ経験がなかった。 

日露戦争が終結するとすぐ、松山と大阪の両聖堂の建設が決まった。参考図があるにしても、実施設計を外部に頼まないとすると、その任は伊蔵が担わないわけにはいかなかったのであろう。はじめて一つの建築を設計することになり、伊蔵は大変な苦労をしたはずで、もし両聖堂に稚拙さがあったとしても、責められるべきものではない。残念なことに、伊蔵の設計の成長の跡を示すこの二つの建築は現存しない。 

試行錯誤の中で松山と大阪の聖堂を設計し、その経験は豊橋聖堂で最大限生きることになった。言い換えれば、伊蔵の聖堂建築の集大成が豊橋聖堂であり、その竣工は木造による聖堂建築が日本で確立したことを意味していた。その竣工した姿を目にして、彼は正教会建築家を自らの天職と認めた瞬間であったかも知れない。 

河村伊蔵は亡くなるまで聖堂の営繕を担う一方、息子の内井進氏を工手学校に通わせ、正教会建築家の育成をはかった。残念なことに、関東大震災と第二次世界大戦の際の東京空襲によって資料の多くが消失し、伊蔵の活動の全貌は明らかではない。幸運なことに、豊橋聖堂に関しては信徒の方が資料を所蔵しており、本調査に提供していただいた。 

竣工から百年がたとうとしており、多大な資金を出され、多くの困難の中で維持管理されてきた教会の皆様に感謝を申し上げるとともに、現在は愛知県指定文化財になっているが、調査団一同、今後重要文化財の指定を受け、国レベルで守っていくことを強く望んでいる。 

豊橋ハリストス正教会聖堂建築調査団 

豊橋創造大学短期大学部教授 伊藤晴康 

名古屋大学助教授 西澤泰彦 

豊橋技術科学大学助教授 泉田英雄(代表) 

アドバイサー 名古屋大学名誉教授 飯田喜四郎 

協 力 豊橋技術科学大学建設工学課程4年 西川嘉泰 

参考文献 

1.大館郷土博物館『秋田県指定有形文化財北鹿ハリストス正教会聖堂保存修理工事報告書』、大館郷土博物館、2000年。 

2.池田雅史「明治期小田原正教会の聖堂について」、日本建築学会東海支部研究報告集、1999年。 

3.池田雅史「ニコライ堂に前後する日本ハリストス正教会の建築について」、日本建築学会大会学術講演梗概集、1997年、pp.25-26. 

4.小田原ハリストス正教会著『小田原ハリストス正教会百二十年史』、小田原ハリストス正教会、2002年。 

5.仙台ハリストス正教会教会史編集委員会編『仙台ハリストス正教会史:仙台ハリストス正教会開教130年記念』、仙台ハリストス正教会、2004年。 

6.鈴木甲子男『日本ハリストス正教会の建築-日本におけるビザンチン様式の生成と展開について』、名古屋大学工学研究科修士論文、1980年。 

また、本論文の骨子は『正教時報』にも連載された。 

鈴木甲子男 「正教会の聖堂建築(一)(二)(三)(四)(五)(六)(七)(八)」、『正教時報』、1982年3月号、4月号、5月号、6月号、7月号、8月号、9月号。 

7.横浜国立大学工学部建築学科建築史建築芸術研究室『日本正教会旧箱根避暑館及び小田原ハリストス正教会旧聖堂調査報告』箱根町文化財研究紀要特集号、1982年 

8.財団法人文化財建造物保存技術協会編『重要文化財函館ハリストス正教会復活聖堂保存修理工事報告書』、宗教法人函館ハリストス正教会、1989年。 

9.財団法人文化財建造物保存技術協会編『重要文化財日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)保存修理工事報告書』、宗教法人日本ハリストス正教会教団、1998年。 

10.秦基「豊橋ハリストス正教会会誌」Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ、『豊橋美術博物館紀要2号、3号、4号、5号』、1995-1996年。 

11.豊橋ハリストス正教会100周年記念事業委員会編『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌』、豊橋ハリストス正教会、1979年。 

12.リシャット・ムラギルディン著『ロシア建築案内』、TOTO出版、2002年。 

13.浜野アーラ著・浜野道博訳『ロシア建築三つの旅』、東洋書店、2004年。 

14.A.B.オポローヴニコフ著 ;坂内徳明訳『ロシアの木造建築: 民家・付属小屋・橋・風車』、井上書院、1986年。 

15.ゲ・イ・メーホワ著・森田稔訳『露西亜之民家:ロシア木造建築』、緑の笛豆本の会、1968年。 

16.George Heard Hamilton "The art and architecture of Russia", Penguin, 1954. 

17.Alexander Opolovnikov and Yelena Opolovnikova "The wooden architecture of Russia : houses, fortifications, churches", Thames and Hudson, 1989.