Yozo Yamao, a Technocrat of Meiji Japan who started up Engineering Education

山尾庸三:工部省工学寮を掌し、工部大学校を開校させた明治政府技術官僚

commenced in January 20 2017, updated in April 15, 2020.

工学教育に最初から熱心であったというのは間違い。工部省を発足させると自らは造船製鉄部門の担当したかった。しかし、明治初期技術官僚たちは、鉄道、製鉄や造船などの現業部門に強い関心を示すものの、工部省の目玉であるはずの工学寮を率いる人材はいなかった。工部大輔の伊藤博文が岩倉使節団副使として外遊することに成り、工学寮長官は最終的に山尾が自ら就かざるをえなかったというのが真相。


I.人物像Profile, 1837-1917

I-1. 写真Photo

Fig.1 山尾庸三.Photo of Yozo Yamao. Courtesy: McVean Collection

Fig.2 工部卿山尾庸三の署名. "Minister of Public Works, Japan,"  Yamao presented something to McVean when he was appointed as minister of PW.  Courtesy: McVean Collection

-born at Chosyu幕末長州藩生

-one of Chosyu Fiveいわゆる長州五傑の一人

-studied science at London and apprenticed himself at Napier Shipyard, Glasgowロンドンで科学を勉学し、グラスゴーのネイピア造船所で技術研修

-entered public service for the Meiji Government明治政府に出仕、民部省横須賀・横浜製鉄所担当(権少丞から権大丞へ)

-kept long friendship with A.C. McVeanマクヴェインとの出会いと友情

-founded Public Works (Kobu-Sho), in charge of Building Division, Engineering Education Division and Surveyor's Office工部省の創設と工学寮・測量司を掌握

-founded School for the Deaf and Dumb聾唖学校の創設

I-2. 略伝Brief Biography

・『山尾庸三傳』より。Source from "Yamao Yozo Den (2003)"

(1) 生い立ちBirth and Education

・藤原氏二十二代時家、常陸国茨城郡山尾城主となり山尾家第一代となる

・山尾家五代家氏の頃、九州の大友氏の家臣となる。大友氏の没落とともに帰農。

・十三代廣繁から長門国・周防国に移住、十八代市五郎から周防国吉敷郡二島村に定住。萩藩主毛利家の塩田

・十九代忠治郎の三男として天保3(1837)年10月8日生まれる。大塩平八郎の乱、水野忠邦の天保の改革

・庸三、江戸に出て桂小五郎(1833-77)に師事。江川太郎左衛門に入門。(勝海舟(1823-88)、村田蔵八(1824-69、後の大村益次郎)らと親交を結ぶ?)

※江川塾では大鳥圭介(1833-1911)が安政から万延年間に教えていたから、彼とここで知り合うことになったのであろう]

(2) 技術への目覚めEarly Career

・箱館に行き、幕船亀田丸に乗船し武田斐三郎(1827-85)のロシア沿岸実施調査に参加。

・文久2(1862)年、高杉晋作、九坂玄瑞らとともに横浜外人館の襲撃を画策。山内容堂に知られ、襲撃中止。

・同年、品川御殿山のイギリス公使館を襲撃放火。

・文久3(1863)年、渡英を画策し、同年4月18日付けで庸三、聞多、弥吉の三藩士、5カ年の暇、江戸で遠藤謹助、伊藤俊輔も加わる。

・文久3(1863)年5月12日、横浜からCheiswick号で出港。JM商会のKeswickの助力で、上海からWhite Adder号に乗り、9月23日ロンドン着

(3) 技術の学習Engineering Training

・1864年、ロンドン大学で科学技術の課目を受講。

・1866年秋、グラスゴーに行き、ネピアー造船所に見習工として勤務。[マセソンの親友であるColin Brown宅に下宿]

夜間はアンダーソンズ・カレッジに通う。[Colin Brownはアンダーソンズ・カレッジの音楽教師である学校経営にも関わっていた]

・1867年秋、ロンドン在住の萩藩士に呼び出される。この時に河瀬真孝に会う(後に工部省少輔)

(4) 戊辰戦争Meiji Restoration and Civil War

・山尾が帰国すると戊辰戦争は終盤になり、旧知の榎本武揚や大鳥圭介が敵将として箱館の地で最後の決戦に臨もうとしていた。

※この時に大鳥圭輔、林董、長郷泰輔は箱館で一緒に官軍と対峙しており、お互い知り合い、明治維新後も交流が続いていたのであろう(長郷墓碑)

(5) 明治政府へPublic Service

・明治元年年6月、イギリス出発、12月横浜着

・明治2年2月、長州藩に帰藩し、藩船丁卯丸の修理監督

・明治2年3月、明治政府に出仕

※コリン・ブラウンに対する手紙で、山尾は権少丞として横須賀賀製鉄所担当なったと伝えている

・明治3年3月7日、モレルの「一大公共事業ノ省」の必要性、同年4月28日に建議書の提出

※一大公共事業ノ省」とは誰が翻訳したのだろうか?]

(6) 工部大学校の設立Foundation of Public Works

・山尾は、伊藤博文に聾唖学校を創設したいと語ったところ、それよりも工学校の方が先だと言われた。

※グラスゴー時代キリスト教に深く親しみ、聾唖学校創設の気持ちは持っていたかもしれないが、それが工学校創設よりも前にあったというのは作り話。

(7) 聾唖学校の開校Foundation of School for Deaf and Dumb

・グラスゴーのネイピア造船所で技術研修を受けているとき、聾唖の労働者が働いているのを目にして、日本にも作ろうとした。

※山尾はグラスゴーでクリスチャンとなり、休日、奉仕活動をしていたというコリン・ブラウンの記述と符合する。

II. 工部省での業績Career in Public Works

(1) 山尾庸三の工部省組織に関する建議『愚考』My Silly Consideration (My Idea for Organization of Public Works)

・エドモンド・モレルの提案を受け、伊藤博文の尽力により明治3年10月20日に太政官は工部省建置を決めた。

・工部省の部局編成には10ヶ月を要し、明治4年8月14日になって10寮1司として動き出した。いうなれば、工部というどんぶりを用意したのはいいが、そこに何を入れて、どんな料理として出そうというのか閣僚の間には合意はなかった。外国人を技術関係アドバイサーだけではなく実動技術者として雇用しなければならない事業を寄せ集め、どんぶりに入れたように見える。すなわち、御雇い技術者を可能なかぎり一つの部局にまとめたかったのだと思われる。そこには工部の理念はなかった。

・鉄道、鉱山、製鉄、灯台,電信などはすでに外国人のアドバイサーと実動技術者が雇用されており、

工部省建置の決定前の明治2年から3年にかけて、明治政府の中に2つの測量事業体が存在し、それぞれの別の部局で異なる目的のために始められていた。一つは民部省における量地掛で、幕臣技術員を用いて地租徴収のために実施しようとした。2つ目は兵部省がイギリス海軍水路局の協力の下で沿岸部や港湾を中心に行っていた。もう一つは部分的な測量であるが、民部省鉄道掛により鉄道敷設に伴い横浜=新橋間、ついで神戸=大阪間の測量が行われた。三角測量による国土全体の測地測量(等高線、地目など)はまだ実施母体がなかった。

・工部省の編成が滞っていた時、工部大丞となっていた山尾は次の『愚考』を大隈重信に建言する。工部省の部局とその担当者の私案である。作成年月は十八日とあるのみ。

"My Silly Consideration by Yozo Yamao" 山尾庸三「愚考」:早稲田大学蔵大隈文庫

愚行之廉々御含迄ニ左ニ申上候

右鉱山専務 井上

右灯明台専務 佐野

右庶務専務 小野

右諸規則取調並ニ学校専務 吉井

右造船製作専務 山尾

右会計専務 帰省中 松尾

右伝信掛専務 未タ奉命前 福谷

右之外有用之仁 二名

右エキスキューチンク専務 壱名

右同マネジャ専務 壱名

但マネジャを上野を待て可也乎

右要地測量専務 壱名

尤洋人壱名御雇入ニ而成年生徒数名手伝候ハ、修業ニも相成可然乎巳ニ灯明台之為の英政府より遣候仁ブラントンと不和ニて当時御暇ニ相成居ソ之仁壱ヶ年程御試ニ而ハ如何乎且東京ヨリ神奈川辺測量を手始めとして可也

(2) 『愚考』の中身Contents of "My Silly Consderation"

・山尾は、渡英前に江川塾を通して旧幕臣や薩長土肥藩士らと親交を結び、明治政府出仕後彼らとの関係を復活させた。そして、工部省を発足させるときにはこの人脈を活かして彼らを担当者に迎え入れようとした。しかし、官軍に最後まで対抗した幕府海軍人脈は生かし切れなかった。

・長州藩:井上勝、佐賀藩:佐野常民、土佐藩:小野義眞、長崎:吉井亨、佐賀藩:松尾清愼、薩摩藩:上野景範、福屋啓吉

・この『愚考』の作成日は18日としか記入されていない。工部省建置は太政官内で大変な議論の末に明治3年10月20日に決まったもので、その渦中の明治3年10月18日に山尾がこの愚考を提案したとは考えられない。また、マクヴェインが山尾と親しくなる時期としてはあまりにも早すぎる。明治4年4月頃、工部学校構想が矢継ぎ早に具体化し、同じ時期に認められたと考えられる。すると、明治4年4月18日の可能性が高い。

・現業部門は鉱山、灯台、学校、造船・製作、電信、事務部門は庶務、規則並び学校、会計としている。それ以外に、測量を含む3つの部局を付け加えることを想定している。

・測量部門の専務には、ブラントンと不仲になって燈明台お雇いを辞めた英国人を当てようと考えている。この人物はColin Alexander McVeanであることは間違いない。

・文中にいくつか確認すべき事項がある。

1)エキスキューチンクとマネジャはそれぞれExecutionとManagerであり、Executionは執行を、Managerは管理者を意味する。山尾は英語を十分に理解でき、それに相応しい和訳を当てはめることができたのに、なぜカタカナ表記にしたのだろうか。このような専門部局は幕府には前例がなく、イギリスから学んできたのであろう。そこでは事務局長Secretary/Commissionerと執行部長Engineer in Chief/Surveyor Generalがいた。事務局は日本人が担い、執行部トップは御雇いを当てるという考えだった。

2)学校とはモレル提案の教導部であると考えられるが、果たしてそうなのであろうか。

3)ここで山尾は造船製作部門の専務を希望しているが、工部省編成がなったときには彼は工学寮頭測量正となっている。山尾がグラスゴーでネピア造船所に勤務した経験があるから、自らは造船を希望したということなのだと思うが、学校専務はなぜ吉井を推薦したのだろうか。

(3) 工学頭Head of Engineering School

・工学寮工学校の開校

・校舎建設はマクヴェインに、教師団雇用はマセソンに任せる。

・河野通信を工学権助に就ける。

(4) 測量正Head of Survey Office

・すぐに同郷の河野通信(河野亀太郎)に譲る。河野は工学権助と兼務。

(5) 建築営繕

・銀座築地洋室築の再開発案の作成

・江戸城敷地内に新皇居の建設計画

III. 社会事業の業績Career of Social Works

(1).キリスト教徒?Christian?

・2年近くのグラスゴーでの徒弟制研修中、山尾はコリン・ブラウン宅に下宿し、彼の世話になっていた。ブラウンによれば、山尾はキリスト教聖書を深く理解し、敬虔なキリスト教徒としての生活を送っていたという。しかし、ブラウンは明治政府の中で山尾は自らの信仰を告白しないであろうと語っている。

・ブラウンは、ヒュー・マセソンの親友であり、アンダーソン・カレッジのユーイング記念音楽講師を勤め、また、経営にも携わっていた。吸気オルガンの発明者し、ピットマンとともに1874年『スコットランド民謡集』を出版を準備したことで知られている。当然その歌集の中に「蛍の光」も入っていた。

・ブラウンの子供達に竹とんぼや独楽をを作ってあげて、遊んでいたという。山尾から願い通り明治政府で仕事を始めたという連絡を受けた時には、ブラウンは子供達と大変喜んだ。

・明治政府の要職を務めながら、社会運動を主導し、また日本人キリスト教徒たちと深くつきあっていたことを考えると、公言はしなかったが、キリスト教徒だったのではなかろうか。

(2) 聾唖学校の開校に尽力

・伊藤博文の計らいで明治政府への出仕がきまり、伊藤に対して聾唖学校の建設を提案したら、その前に技術学校を創設すべしと返事されたという伝聞が残っているが、これはここに集めた様々な資料からあり得ないことが分かる。

(3) 「蛍の光」

Songs of Scotland Vol.1,1874, compilied by Pitman and Brown    "Auld Lang Syne

Songs of Scotland Vol.1,1874, compilied by Pitman and Brown    "Auld Lang Syne

V. 山尾庸三の家族

・妻種子との間に6男7女の子供をもうけた

(1) 種子:安政2年3月15日(1855)、肥前国長崎江戸町の岩瀬良應の長女として生まれた。岩瀬は阿蘭陀大通詞を勤めた。明治3年6月1日に庸三と結婚。明治25年2月7日没。

(2) 壽栄子:明治4年5月19日生まれ、木戸孝正と結婚。

※1872年、マクヴェイン夫妻とジョイナー夫妻は伊藤と山尾の両夫人としばしば会っており、山尾の妻をまだあどけない少女のようだ、また壽栄子を種子をそのまま縮小したようにそっくりだと述べている。

(3) 富士太郎:明治6年6月21日生まれ、明治8年12月14日没

※1875年12月23日、マクヴェインは友人知人の子供たちを集めてクリスマス・パーティを催した。翌日はジョイナー家で友人知人を招待してパーティを催しした。マクヴェインは、つい最近山尾家に不幸があり、そのため山尾のところから参加はなかったと日記に書いている。

(4) 竹治郎:明治8年7月17日生まれ、同年11月17日没

(5) 千代子:明治9年11月18日生まれ、広沢金次郎と結婚

(6) 三郎:明治10年11月25日生まれ、昭和21年1月28日没---信一:対象11年2月10日生まれ



参考

1) 兼清正徳『山尾庸三傳-明治の工業立国の父-』2003年

2) C.A. and M.C. McVean's Diaries, 1872~77.