Railway Construction in Early Meiji Japan, Tokyo=Yokohama and Kobe=Osaka

明治初期における鉄道建設:東京・横浜路線、神戸・大阪路線

commenced in June 10, 2023, revised in 

June 12, 2023 : Early 

Chapter 1. 明治鉄道の既往研究と課題

1. 問題点Points of Argument

・『日本鉄道史(上)』(鉄道省、1921年)が唯一無二の史料であり、本書に当時の公文書が載せてあれば信じるに値するが、証左のないものは関係者の記憶をもとに記述したと考えられる。それらは眉に唾を付けて読むべきであり、また、情報の集めきらなかった事項については何も書かれていない。記述の疑わしい箇所と、何も記されていない事項は、私の関心では以下の通りである。

(1) 横浜・東京間及び神戸・大阪・京都の敷設計画全般が不明Question of Planing Process of Yokohama-Tokyo and Kobe-Osaka-Kyoto Railway Line.

(2) イギリス人技師たちの任用過程が不明Question of How foreign engineers and artisans were employed.

(3) 工事工程が不明Question How works were executed.

(4) 日本人と外国人の協力関係が不明Question How Foreigners and Japanese Collaborated.


3. 議論を進めるための新資料New Sources for Further Arguments

(1) Japan Weekly Mail, 1870-1873"

+April 9, 1870, Yokohama Consular Trade Report

--Mr. Lowdee makes no mention of the declared intention of the Government to construct a Railway, the first steps towards which will be made within a few days ; but this work, though it will require some tenacity of purpose to carry it through, and though sure to meet with more or less opposition of more or less honesty, cannot be too strongly urged upon the Government, or supported by the best native opinion. 

+April, 30, 1870, Notes of the Week.

--In the first number of this Journal published in January last, it was stated that neither Mr. Trautmann nor Messrs. Trautmann & Co. of Shanghai had any direct or indirect interest in the Railway about to be constructed by the Japanese Government. 

+April, 30, 1870, Public Works.

+May 7, 1870. "Employment of Foreigners by the Japanese." 

+May 21, 1870. "Notes of the Week" related to Railways Construction.

--この記事が東京横浜間鉄道の敷設計画と工事進捗状況を伝える最重要記録であろう。

+May 28, 1870, "Notes of the Week." related to Railway Construction.

--東京・大坂間の鉄道と、敦賀支線の建設計画を紹介している。

+June 25, 1870. "The Loan and Railway."


2. 既往研究Existing Studies.

(1) 鉄道省『日本鉄道史(上)』(1921年)

第一章 明治以前の事績

第二章 鉄道の創始

第一節

-1. 明治2年3月横浜在留英国人「アレキサンドル・カンフル」は鉄道敷設の請願書(西暦1869年4月21日付け)を寺島神奈川県知事に提出

※この請願書の提出日は明記されているが、文書の内容要約を紹介するのみで、現物は示されていない。はそれを受け取ったが、政府はそれを拒否したとある。

-2. 政府は雇英国人燈台機械方「アール・ヘンリー・ブラントン」に鉄道に関する意見書を求める。

※この意見書の提出日は示されていないが、要約を紹介している。「まずは最短距離の模範鉄道を興すべし」

-3. 明治2年10月11日付けで、外務省は鉄道建設の政府に上申。「我邦に鉄道を起こすの急務なり、模範として東京横浜間に之を起こす」

※上申書の全文あり

-4. イギリス公使パークスは政府に鉄道建設を進言し、明治2年11月5日、日本政府の岩倉、澤、三条が相談し、大隈と伊藤も列席。鉄道と電信の起業の意あることを告げる

※パークスの進言書の要約のみ紹介され、また政府からの回答の公文書は示されず。

-5. パークスの紹介で、「ホレシオ・ネルソン・レー」は我政府の為鉄道に要する資金を供せんことを提言→大隈、伊藤、井上勝は11月10日に廟議によりレーに委任

※これに関する公文書は示されず

-6. レーの不正が発覚し、1870年12月14日、28日の公書をもってレーを解雇

※これに関する公文書は示されず

-7. 輿論の反抗と谷暢卿の建議

・弾正臺の反対意見→※戊辰戦争に多大な出費を行い、民衆は困窮に貧しているというのに鉄道建設の必要はない。軍艦製造ならまだましである。

・谷暢卿の建議→※建議文書を添えて、火輪車建設を指示する。

-8. 鉄道憶測

・前島密の鉄道収支予算書→※文書あり。

-9. 軌間の決定

・軌間決定事情、レーはロンドンでの資金調達と同時に、顧問と建設技術者の探した→顧問に「ブレストン・ホワイト」、技師長に「モレル」

・ホワイトは曾てインドに於いて技術上の経験あり、当時英国政府の顧問工師、西班牙政府の顧問工師、日本の鉄道を3フィート6インチとすることを進言し、レーに伝える

※「ブレストン・ホワイト」なる技師は本当にいたのか。以上の話には何の文書も示されていない。

第二節 東京横浜間鉄道

-1. 明治2年11月、鉄道起業の廟議決し東西両京を連絡とし東京横浜間その他を支線とし先つ東京横浜間の工事を起こすとを命ぜらる。

-2. 明治3年3月17日、東京府及び神奈川、品川の二県へ線路測量として雇外国人を率いて官員出張の旨を達し、19日鉄道掛を東京築地元尾張藩邸に創置す。

-3. 同年3月22日、横浜野毛町に於ける寒川県所轄の官舎(元修文館)に横浜出張所を置き。六鄕川を以て境界とし東西両端より起工することを定む。

-4. 同年3月25日、東京芝口汐留の近傍を量地す。

-5. 同年3月27日、監督正上野景範に鉄道掛を命じ

-6. 同年3月、英尺「フィート」を我が1尺4厘と定める。

-7. 同年4月3日、横浜野毛浦海岸より亦測量を始む。ダイアック、イングランド、セッパルド

※ダイアックの写真はないが、マクヴェイン文書にイングランドとシェパードの写真あり

-8. 同年4月14日、土木権正平井義十郎を副たらしむ。これより英国人建築師等来任し土木大属小林易知、准十等出仕小野友五郎等之と共に線路測量の業に勤しむ。

※この証拠となる文書は示されず。ただし、公文録『土木司回議留』に小林一知は鉄道掛に測量機器を貸し出したため、測量事業を開始できなかったと述べている。

-9. 同年4月12日、元龍野、仙台、会津の三邸を敷地として、蒸気車会所建築の為に地均工事の開始。同敷地は兵部省の浜殿海軍所拡張の予定地になっていた。

-10. 同年5月26日、兵部省は蒸気車解除を他に建築するか、または線路を西方に移すことを上申『会所の儀築地近傍へ、、、』の文書あり。

-11. 同年5月26日、横浜野毛町海岸地は前年2月以来埋め立てられ、当地を横浜停車場敷地とする。同所地続石崎より神奈川青樹町海岸まで築堤を造り、長さ770間、幅35間、中央5間を鉄道線路、幅6間を公道とす。

-12. 同年6月、橋梁工事を起こし、神奈川第19橋から始め、10月六鄕川本憍を起工しす。神奈川台の掘割に着手、八ッ山及び御殿山の掘割工事を起工し、11月以降諸所の盛り土を始める。

※神奈川台と御殿山の切り通し掘削工事は明治3年10月から始まり、すでに兵部省は品川高輪築堤建設を容認していた。

-13. 6月8 日、大蔵省は高縄町兵部省用地の内を鉄道用地として引き渡し方を上申→兵部省の抵抗

-14. 7月10日、太政官は高輪富士鑑宿陣所を民部省に引き渡すべき事を命じる→兵部省引き渡しに応ぜず

-15. 8月15日、鉄道掛は東京府庁を経て之を受領せり、

-16. 10月20日、工部省を設置し、鉄道は該省の所管に属せる。

-17.10月22日、兵部省は元尾張、安藝その他の邸地を海軍所用地として受くる、浜殿は宮内庁に帰す。

-18. 12月14日、鉄道掛の事務局を省内に移す。

-19. 明治3年12月工部省は掲旗を定める。その章白布紅書工字とする。

-20. 明治4年正月、品川七番砲台場の一部を取り壊しその石材を鉄道工事に使用船とを海軍所と協定する。

※御殿山・八ッ山の切り通し工事からでた土砂は、高輪築堤に埋め立てに使われ、あた築堤石は品川台場他から調達された。この工事は明治4年に入り本格化した。

-21. 同年9月、横浜停車場本屋落成

-22. 同年11月汐留停車場本屋落成

-23. 明治5年正月、品川停車場本屋落成

-24. 同年2月26日、鉄道寮を汐留停車場本屋に移す。更に8月、葵坂に新築したる工部省庁舎内に売れを移す。

-25. 同年5月3日、太政官布告「7日をもって品川横浜間を仮に開業する」

-26. 同年5月27日、汐留停車場を新橋と改称する。

-27. 同年8月14日、工部省下に鉄道寮を設置

-28. 同年9月、技師長モレルの死去

-29.同年9月29日、新橋横浜間工事全て落成する。距離18里、昼間停車場4箇所、家屋42棟、橋梁大小22箇所(皆木桁を用いた)、溝橋24箇所

-30. 同年



(4) 田中時彦『明治維新の政局と鉄道建設』(吉川弘文館、1963年)

第一章 幕末における鉄道導入の動き

第一節 鉄王に関する知識の摂取と導入の企画

・1830年、天保元年、マンチェスター・リバプール間鉄道の開通。※インドでは1853年、英領南オーストラリアで1854年、蘭領東インドで1864年、それぞれ開通。

・嘉永5年(1852)、備前藩主鍋島斉正が、出島を通じて蒸気車の知識を入手。

・嘉永6年、ロシアのプチャーチン使節が長崎来港し、肥前藩主鍋島ら蒸気車模型を見学。

・嘉永7年(1854)、薩摩藩の蘭医川本幸民が蒸気車の機構図を入手。鉄道模型製造

    同年、ペリー二度目の来航、幕府将軍に贈与品、蒸気車と電信の模型が含まれる。アメリカ側士官の中にポートマンがいた。幕府及び有力諸藩に蒸気車の情報が拡散

・文久2年、薩摩藩主島津斉彬は蒸気船購入の企て、慶応元年、ベルギー人モンブランの支援により京都・大坂間に鉄道建設の企て

・明治元年、イギリス留学から帰国した長州藩士野村弥吉は、新政府に登用され、鉄道責任者として外国人に鉄道建設の主導権を奪われるのを防いだ。

第二節 先進国側の鉄道建設勧誘と幕府側の対応

・慶応2年、幕府のフランス人顧問フリューリー=エラールの軍事的進言の中に、鉄道建設あり。

・慶応2年、エラールの進言に対し、勘定奉行小栗忠順は「国用多端」のため受け入れず

・慶応2年、英仏と幕府は「改税約書」を締結し、燈台築設を決める。

・慶応3年、横浜在住外国人ウェストウッドが江戸・横浜間の鉄道建設を幕府に出願。敷設主体は外国側→幕府は回答を作成したが、発送せず

・慶応3年、アメリカ公使館員ポートマンから江戸・東京間鉄道建設の請願→幕府は米が仏英ほど政局に対して露骨な介入はしなかったので好感を持った

・慶応3年12月23日、幕府老中・外国事務総裁小笠原長行から江戸・横浜間鉄道建設の許可状、「規則書」→東海交通を妨げない、敷設・経営権はアメリカ側、

第二章 明治政府における鉄道導入政策の形成過程

第一節 明治新政府に於ける自国管轄方針の確立

・慶応4年2月11日、新政府副総裁三条実美宛て、同年4月1日副総裁岩倉具視宛の肥前藩大木民平の両京間鉄道建設の建議→具体化せず

・明治元年7月、灯台建設のためブラントンが来日→日本政府に雇われたのだから、日本政府側に立って行動すべき、パークスからの指示で行動すべからず

・明治2年、ポートマンの許可状の行方、モンブラン他複数の外国人から敷設の請願→幕府政権下の約束は反故

・明治2年3月10日、横浜在住イギリス人某が、神奈川県知事寺島に対し東京・横浜間鉄道建設の上申書を提出→敷設・経営縁は外国側、後に日本政府の買い上げ

第二節 イギリス側の啓蒙と援助による促

・明治2年、パークスは日本政府に自国管轄方式を認めた上で鉄道建設の建議

・明治2年3月、ブラントンの鉄道建設の建議「方今御話中之鉄道之儀ニ付」→日本の自国管轄方式、見本鉄道を最初に敷設し、その後、鉄道網を整備、国営とすべし

※国営を意図していたと書いてあるが、そのような文言は何処にも見当たらず、民営でも日本側が資本と経営権を持つべきであるとブラントンは語っている。

・明治2年6月、伊藤博文が兵庫県知事から会計官権判事に就任、7月には大蔵少輔、民部兼任大蔵少輔→大隈と共にパークスと会見する機会に恵まれる。

第三章 明治政府における鉄道導入政策の国際的国内的背景

第一節 イギリス側による鉄道建設勧誘の意図とその性格

・明治2年6月、パークスの友人ホライショ・ネルソン・レイの来日→パークスと日本政府に鉄道建設の支援について話し合ったらしい。

・明治2年10月11日、外務省は太政官に対して鉄道建設の建議→国内紙本により外国人技術者を雇用し、自国管轄の方式→国内資本を集める目途立たず

・明治2年10月、パークスを介してレイは大隈と資金借款の内約を結ぶ→レイから利率1割2分、税関並びに鉄道運賃収入を担保として百万ポンドの借款

・同年11月5日、旧肥前藩主鍋島直正に推された大隈と、旧長州藩士木戸孝允の結託→外資借入の合意

第二節 日本政府における鉄道導入の意図とその性格

・同年11月11日、レイとの契約、レイとパークスは一枚板ではなかった。同月12日、正式な借款契約

・明治3年3月14日、民部大蔵省改正掛長渋沢篤太郎による「電信機蒸気車ヲ興隆スベキノ建議」、兵権確立のために東西両京を結ぶ

・同年6月、太政官は東海道沿線諸藩に対して鉄道建設のための測量を施行する旨の布告

第四章 鉄道建設における対外問題の処理とその背景

第一節 イレ借款契約の成立とその諸問題

・レイ借款以前の先例として、幕府抗戦派がフランスから600万ドルを借款する計画があった→返済不能となった場合、担保を奪われる

・慶応4年9月、明治政府は、幕府が横須賀製鉄所建設のためにフランスから借款の返済不能→フランス政府による同製鉄所の差し押さえ→新政府はオリエンタル銀行から50万ドルを借款

・明治2年11月、明治政府にレイ借款に関する覚書、政府の外債合計600万両(メキシコドル)を年利1割8分2厘から1割5分で借款中、レイから450万ドルを年利1割2分で借入れ、前者借款の返還に充てる。

・同年同月、パークスは技師長としてモレルを推挙し、彼は来日。

※パークスはどのようにモレルを知ったのか不明。すでに日本には鉄道建設の経験を持つ英吉利人技師がいた。大阪のキンダー。

・同年同月12日、正式にレイと借款契約、「鉄道建設資金壱百万磅借入方英吉利人レーニ委任ニ関スル命令書」「帝国政府ト英吉利人レートノ間ニ締結シタル鉄道建設資金壱百万磅調達ニ関スル契約書」。レイ個人は資金百万ポンド=450万ドルを1870年5月30日迄に用意し、明治政府は年利1割2分、明治5年から年10万ポンド10年間の返済、担保。「追加契約書」により100万ポンドの内、30万ポンドを鉄道建設に充てる。その30万ポンドはオリエンタル銀行に預けることになっていた。

・大隈・伊藤は、レイが自らを含む数人からの資金を調達すると理解していたのに対して、レイは一般公債募集とした。

第二節 借款の難航と自国管轄方針の貫徹

・明治2年12月9日、オリエンタル銀行横浜支店支配人ロバートソンは、伊藤の同席を得て、レイと借款契約の疑問点の解明を行った。その際、伊藤は担保と返済に関して規程が曖昧である事を知り、この契約をこのまますすめることに危険を感じた。→伊藤は契約改定の可能性をロバートソンと相談

・同年同月19日、レイは1870年1月20日付けで「別項約書」を大隈に送付。同月22日、借款を調達し、技師を雇用するために横浜港からイギリスに出港。

・明治3年2月3日、アメリカ公使デ=ロング、ポートマンに与えた許可状の実現の要求。

・明治3年1月、レイは帰国の途中にセイロンでモレルと面会し、同月21日付け書簡で技師長職に任命。

・同年3月9日、レイの代理人トロウトマンと、技師長のモレルの来日。

・同年3月17日、太政官は東京横浜間の鉄道建設のための測量実施を通達。民部省内に鉄道掛を設置し、土木監督正に上野景介をを任命。小野友五郎。

・同年3月25日、汐留付近を起点に測量開始。大蔵省からの「鉄道御手当金」5万両をもって、賃銀支払いと土地の買い上げ。

※デ=ロングとの交渉を経て、日本政府は自国管轄方式の意思を固める。信用できないレイに対し、オリエンタル銀行は資金を鉄道建設に適正に使用することを確約。測量に関しては『日本鉄道史』に完全に依拠しており、信頼性に乏しい。

・同年3月23日、1870年4月23日、レイはロンドンにおいて日本の鉄道建設借款の公募を開始。9分利率で公募しながら、レイは日本政府1割2分で利率操作

・同年5月20日、民部大蔵出仕塩田三郎が、レイによる鉄道借款債権公募を知り、民部大蔵省官僚に報告。

・同年5月24日、明治政府は、レイの違約行為により鉄道借款代理人をオリエンタル銀行に変更、委任状を発行。

第三節 オリエンタル銀行の協力による鉄道借款事業の運営

・明治3年5月5日、1870年6月3日付けレイ書簡、トロウトマンを代理人の地位から解任し、改めてオリエンタル銀行を代理人に任命。レイは、レーンとブライアンの二名の技師をモレルの次席に任命。

・同年10月14日、1870年12月6日付けでレイ解約の示談成立。明治政府は、解約費・募集費などとして計7万ポンドをレイとエルランジェ商会に支払う。

・技師長モレルは、パークスの庇護の下に、オリエンタル銀行と大隈・伊藤と協議しながら建設工事を準備し遂行していった。最初は明治3年暮れまでに東京・横浜間を完成させる予定だった。

・モレルが最初に副技師長に任命しようとしたのがウィリアム・シールドWilliam Shieldで、専門書を書くほどイギリスで有名な技師であった。当時、失業中であったが、最終的には任用には至らず。もう一人のジョン・イングランドは海外での鉄道建設の経験があった。レイはホワイトG.P. Whiteを推薦したが、任用に至らず。大隈・伊藤は最終的にオリエンタル銀行に相談して、これら技師たちの任用を決定した。

・同年9月24日付けで民部省がオリエンタル銀行に送った書簡で、モレルが見積もった鉄道線路と枕木を承認。

※この時点で東京横浜間の路線計画が完成し、それに基づいて工事総領と必要資材見積ができていたことになる。設計変更はなかった。木製枕木、木造橋梁、狭軌道

・同年10月25日(1870年11月28日)、レイの解任と共に、オリエンタル銀行はカーギルを鉄道差配に任命し、カーギルは日本に出港。

・明治4年3月1日(1871年4月20日)、カーギル発大隈宛私信の中で、日本側鉄道建設責任者の選出を要請。→大蔵省造幣頭から井上弥吉が民部権大丞に転属

※井上勝を「ロンドン大学で鉄道技術の習得に努めた人物」とするのは誤りで、ロンドン大学にはそのような学科・講義はなかった。applied scienceといって広範な工学科目を学んだに過ぎない。

・明治5年4月、カーギルがオリエンタル銀行から召喚命令を受けるが、井上勝はカーギルの慰留を政府と銀行に働きかける。

・同年5月、カーギルを5年契約で政府雇い。

・明治6年3月、な神奈川駐在イギリス副領事ロバートソンは「鉄道建設のための全ての作業を自らの運営に持ち込み、これまで大幅に外国側の技術と労力に依拠してきたものを有効に持ち替えようとする要求が、日本政府之川に次第に芽生えている」

第五章 鉄道導入過程における国内問題の処理とその背景

第一節 明治新政府内における鉄道導入反対の動きとその性格

・明治2年12月〜翌年3月、弾正台(後の司法省)、鉄道敷設のための冗費よりも、軍艦製造に国費を廻すべき

・明治3年4月3日、兵部省は浜離宮周辺を海軍用地とするよう太政官に請願→民部省は同月18日、浜離宮脇に鉄道停車場の建設開始。

・同年5月26日、兵部省は浜離宮周辺地を獲得するために太政官に再度採決を迫る。執筆者は兵部省大輔前原一誠。→

・同年6月3日、太政官は測量の必要上、築地の兵部省用地の引き渡しを申入れ→富士鑑宿陣所の引き渡し拒否、八ッ山下の兵部省用地の測量拒否

・同年6月14日、兵部省は太政官へ築地海軍所の拡張を要求。

・同年8月15日、兵部省は築地海軍所及び周辺地を民部省鉄道掛に引き渡し。

※兵部省は防御が整わない明治3年に東京湾西岸をへて鉄道が都心に入って来る事に軍事的危惧を唱えて反対したのであり、鉄道敷設そのものに反対したのではなかった。また、敷設計画は、鉄路が東海道と並走しないように高輪築堤建設を前提していた。

第二節 新政府外における鉄道導入反対の動き

・不平士族の新政府に対する不信感が鉄道建設反対運動に向かった

第三節 明治新政府改名派がとった国内的諸対策

・明治3年3月14日、太政官に対する民部省建議、

・土木事業問題では京浜地区の建築業者や土木業者の請け負いによって推進された。佐賀藩御用達、材木商高島嘉右衛門、薩摩藩御用達、土木請負業平野弥十郎ら。

明治5年2月、工部省「鉄道略則」

・明治5年9月、全工事の完了。同月23日、横濱に於いて天皇親臨の下に鉄道開業式

附録 レイ借款関係パークス書簡の翻訳とその解説


(5) 三崎重雄『物語明治鉄道史』、博文館、昭和17年

71-明治二年十一月、いよいよ鉄道建設を行うことに廟議が決せられ、東京・京都を結ぶ線を幹線とし、東京・横浜その他枝線とするということになり、まづ東京・横浜間の工事を起こすこととなった。そして六号川を境として東京・横浜の両方向から寄港されたのである。明治三年春四月のことである。

75-そのこの外人技師たちのことについて、「そのころ、外国人が自由に建築工事をした者ですから、卿の工事と全く趣を異にしまして、隠れた場所でも馬鹿丁寧に念を入れたもので、たとへば用水池のごときも小タタキにいたしました。また、はじめての工事ですから建築用の器械、器具その他コンベルトの型などでも一切輸入、また新調いたしました。ある外国人が、わが国の松を見て枕木にいたってよかろうというので東海寺あたりの松を伐って使ったが、後に松は雨露や日光にさらされると腐朽しやすく、永くもたないことがわかったので、栗、檜葉、栂などを使うようになりました。」

 わが鉄道創設のために傭聘された外国人は、明治三年末には十九名に過ぎなかったが、四年末には六十名となり、五年末には八十二名、六年末には百一名と増加している。

82-京浜間工事施工は政府直営が主であって、請負者に労力を供給せしめるという方法をとった。