泉田英雄 日本経済評論社刊『評論(2000 年 3 月号)』、4~5 頁

ニューホフ『東インド会社の航海と旅行』と邦芳『忠臣蔵』

Nieuhof’s “Voyages & Travels to the East Indies 1653-1670 and Kuniyosi’s “Chusingura” Woodcuts. Hideo Izumida

Abstract

Johan Nieuhof, the 17th century Dutch traveler, left several illustrated journals, one of which is “Voyages & Travels to the East Indies 1653-1670”. He illustrated Batavia scenery with perspective drawing method in this book. The Dutch East India Company presented this book to the Edo Shogunate government, and some of Japanese artists had a chance to see the book. Kuniyosi Utagawa, Ukiyoe artist saw it and was so surprised that he could not help tracing this method in his Chusingura Ukiyoe drawing around the 1830s.

 

1.はじめに

 今年は日蘭交流400 年記念に当たり、長崎では出島の建物が博物館として修復保存され、またオランダのライデン市にも日本に由来する博 物館が建設され、記念行事を盛り上げている。写真技術が発明される以前、風景など持ち運びのできない遠方の情報を伝えるには絵画に頼らなければならなかった。当然、東洋各地の建築も絵画としてヨーロッパに伝えられ、東洋建築理解の一媒体となった。ここでは中世から近代にかけて東洋建築がどのように描かれ、理解されてきたのかを概観し,その中でヨハン・ニューホフの旅行記が東西建築交流に果たした役割、特に日本の浮世絵画家歌川国芳への影響を議論する。

ニューホフ「東インド会社の職人宿舎」

歌川邦芳『忠臣蔵討入』

2.ヨーロッパの東洋建築絵図

 15 世紀末から始まるいわゆる大航海時代によって、大量の遠隔情報がヨーロッパにもたらされるようになるが、これは中世のものとは次の点で明らかに異なっていた。すなわち、マルコ・ポーロであれマンディビルであれ、中世ヨーロッパの東方旅行者は帰国後その類い希な体験を記憶にもとに書き表したのに対して、大航海以降は初めから情報収集を目的の一つにしていたことである。

 そのため、中世ヨーロッパの東方情報は断片的かつ独断的であり、建築情報は次の三つに単純化されることになった。一つは中近東地域のイスラームの城塞都市であり、十字軍に参加したヨーロッパ人がよく目にしたものであった。二つ目は中国帝国の天幕建築で、中世ヨーロッパ人旅行者は内陸を経て北京に到達したため、途中いたるところで天幕で野営する軍隊や、それに生活する一般の人々の姿を目にし、さらに北京の宮廷でも天幕で接待を受けた。モンゴル軍は,軍事力と迅速性によって恐れられており、天幕はそれを象徴するものとしてヨーロッパ人の脳裏に深く刻まれることになったのであろう。

 三つ目は今日の東南アジアから南アジアにおけるパゴダで、帰路途中のマルコ・ポーロや、海路東方を目指したオドリックがこの地域の都市で目にしたものである。これらの三つの典型化された東洋建築は、現実に再現するためには細部は描かれていなかったが、ポルトガルとスペインは王室の独占貿易を目指して大航海時代を切り開いていき、そこで集めた東方情報を機密事項としたため、それがヨーロッパ社会に共有されることにはならなかった。16 世紀末になると、オランダ人のリンスホーテンがポルトガルの目をかいくぐって渡印し、1594 年に『東方案内記』を出版した。それがイギリスとオランダの商人をいたく刺激し、彼らを東方貿易にかり出すことになったことはよく知られている。本書には十数枚の挿し絵が添付されているが、リンスホーテンのスケッチを出版に際して画家が描き直したもので、多くの想像が含まれているようだ。

 17世紀に入りイギリスとオランダは株式会社を仕立てて東方貿易に本格的に参入し、株主らに情報を公開するためにより組織的な情報収集 を行った。特にオランダは、17 世紀前半アフリカ大陸南端からインド亜大陸南端のセイロン島とジャワ島を経て日本に達する大貿易路を樹立し、それを2世紀以上にわたり維持したので、絵画を通した東西文化交渉史に果たした役割は大きい。また、この時代のオランダはレンブラン トをはじめ優れた画家を多数輩出しており、ヨハン・ニューホフが東方旅行記を著すのはまさにこの時代であった。

 

3.ヨハン・ニューホフについて

 オランダ東インド会社は、17 世紀半ば絵画をもとにした情報収集を目指して東方に使節団を派遣した。それに選ばれたのがヨハン・ニュー ホフで、彼はアジア関係の書物2冊(もう一冊はブラジルに関するもの)を出版することになった。一つは『中国皇帝への連合東インド会社使節団記(Het Gezantschap der Neêrlandtsche Oost-Indische Compagnie aan den grooten Tartarischen Cham, den tegenwoordigen keizer van China)』(初版、オランダ語、1665 年)と『東インドへの航海と旅行(Gedenkweerdige Brasiliaense Zee- en Lant-Reise und Zee- en Lant-Reize door verscheide Gewesten van Oostindien)』(初版、オランダ語、1682 年)であり、どちらもすぐに他の言語に翻訳され、さらに重版され、ヨーロッパの知識人に広く受け入れられた。

 スケッチの対象と画法を検討する前に、彼の経歴を振り返っておこう。ニューホフは、1618年にオランダ国境に近いドイツ北西部のオールセンの商家に生まれた。幼少の頃から文芸に秀でていたらしいが、どのように画法を学んだのかは不明である。成人すると、兄と同じように近辺で最も栄えていたアムステルダムに職を求めに出かけ、運良くオランダ西インド会社に勤めることになった。この株式会社は設立からすでに半世紀以上も経っており、海軍力を背景にポルトガルの海外領土を奪取しながら範図を広げていた。その一つであるブラジルのレシフェとオリンダに派遣され、ニューホフは7年間の滞在中仕事の傍らブラジルの風物をスケッチと見聞録を書き残した。この才能が、帰国後会社役員の目に留まり、1653 年に連合東インド会社から訪中使節団の記録係として派遣されることになった。

 中国と日本との貿易は東インド会社に多大な利益をもたらしていたが、両国とも朝貢体制下で管理貿易を許すだけであった。そのため、東インド会社は中国との通商関係拡大の交渉のためにこの使節団を派遣したが、ヨーロッパ諸国の公式使節団としては初めて広東から南京を経由して北京まで到達できたものの、目的は果たせなかった。1658年3月、ニューホフはアムステルダムに旅行記と150 枚のスケッチを携えて帰朝すると、会社はこの報告書を公開することにし、1665 年に初めてオランダ語で出版された。そして、オランダ国内だけではなく、ヨー ロッパ各国でこの本を求める声が高く、同年フランス語に、翌年ドイツ語に、1668年ラテン語に、そして1669 年には英語にそれぞれ翻訳された。

 

4.『中国皇帝への使節団記』について

 本書の挿絵を見ると、全150枚のうち9割が風景画と動植物画が占めており、旅行中、使節団は清朝官吏の監視下におかれ、ほとんど自由行動の時間がなかったのがわかる。中継地の南京でやっといくつかの市内近傍の景勝地を訪問することができ、そこで凱旋門、町並み、庭園、人工の崖、寺院、パゴダ、官衙施設、廟建築を、北京に到着して宮殿をスケッチすることができた。

 建築と庭園の近景画は合計15枚あり、基本的にはニューホフは画面中央に消点を置いて一点透視画法で描いた。建築の外部は隙間なく装飾タイルで覆われ、また庭園は奇怪な形態の岩石が配置され、実物に即して詳細にスケッチしたように見える。しかし、よく見れば、材料の模様や凹凸を正確に表現したではなくその質感を線や点で埋めたのに過ぎないし、軒の反り上がりには誇張が見られる。こうした描き方が見る人に強烈な印象を与え、そして、この二つの中国的要素は同時代のヨーロッパのバロック様式とロココ様式の建築と庭園に大きな影響を与えたといわれる。

 画法における唯一の例外は南京の町並みで、画面左端に消点を持っていき、通りの片側の建物の正面だけを詳しく見せている。寺院や宮殿の建築と違って、平屋建ての町家は統一感がなく貧相に見え、文章では次のように述べている。

 

「この帝国の建築は、確かに珍しいものではあるが、ヨーロッパのそれに匹敵するものではない。彼らの住宅にはお金がかかっておらず、また耐久的でもなく、建物に長い寿命を与えようとはしていない。中国では基礎を掘らずに、地面に石を置くだけである。その上に重くて高い建物を建てるので、すぐに壊れやすく、そして日々、修理をしなければならない。中国建築は大部分が木材で作られ、あるいは木の支柱の上に作られ、ヨーロッパと同じように瓦で葺かれ、内部は十分に広い。」


 17世紀の多くの西洋都市は、バロック様式によって幾何学的な配置により統一的に整備されていく過程にあり、ニューホフの眼には南京の町並みと住宅は魅力的なものには映らなかったようである。本書は幕府に献上され、文章だけは蘭学者の山村才助によって『奉使支那行程記』として邦訳された。新たな表現を求めていた絵師たちも原著の図版を眼にした可能性もあり、奥村政信は「芝居狂言浮絵根元」において不完全ながら一点透視画法を試みている。ニューホフの「北京の宮廷」が奥村の画法のヒントになったとも考えられるが、構図があまりにも異なる。


南京の町並みA Street of Nanking

北京の宮廷Palace in Peking

南京のパゴダA Pagoda in Nanking

奥村政信「芝居狂言浮絵根元」寛保3(1743)

5.『東インドへの航海と旅行』

 中国との貿易拡大が果たせなかったため,バタフィアを拠点にした東インド諸国との貿易がより重要になった。その情報を収集し,公開するために,東インド会社は中国から戻ってきて一年たらずのニューホフを今度はバタフィアに商務員として派遣することになった。初めの2年間、スマトラ、南中国、南インドの各地を巡り、1662年バタフィアに戻ると、その間の見聞記を整理した。彼自身は1672 年マダガスカルで消息を絶ってしまうが、死後兄のヘンドリックによって加筆・訂正され、1682年に『東インドへの航海と旅行』と題して出版された。

 中には71 枚の挿絵があり、動植物と民族のスケッチが約6割で、残り4割弱が都市のスケッチである。後者はサン・トーメ、コロンボ、プリカットなど17世紀半ばにオランダ商館があった9つの港町で、その中でバタフィアを描いたのが18 枚と最も多い。バタフィアは1611 年に運河の整備とともに建設が始まり、18世紀初頭まで運河を中心にした町並みは諸外国に誇るべきものであった。そのためニューホフは運河と諸施設を、中央に消点を置いた一点透視画法で描いた。同じような構図がアムステルダムの町並みと運河を描いた絵にも見え、オランダ人画家にとって典型的な画法であったと思われる。『中国皇帝への使節団記』に比べると、図版は細部まで注意深く正確に描かれており、当時のバタフィアを知るための第一級の史料である。 

 しかしならながら、所詮バタフィアはオランダ人が作った町であり、詳細に描かれた景観や文物はアムステルダムを想起させることになり、『中国皇帝への使節団記』ほど、ヨーロッパ人読者から好評を博さなかったと言われる。英語への翻訳出版は1704 年になってからで、また重版されたのも1801年になってからであった。

ニューホフ「バタフィア城」1682

ニューホフ「孤児院」1682

6.ニューホフと邦芳の透視画の比較

 『東インドへの航海と旅行』もまた幕府に献上され、蘭学者によって文章だけは『東西海陸紀行』と題して邦訳された。こちらの図版も絵師たちの眼に触れたはずで、驚くべきことに、歌川国芳は『忠臣蔵十一段目夜討之図(天保初期1830年代)』の場面に本書の挿絵をそのまま用いているように見える。具体的に両者を比較してみよう。

「東インド会社の職工宿舎」の一点透視画

国芳「夜討之図」の一点透視画(白線左図より)

 (1) 構図

 ニューホフの図版は「東インド会社の職工宿舎」と題され、その建物は高さ5メートルを超すほどの塀の中にあり、煉瓦造二階建て寄棟屋根の建物であった。通りを挟んだ向かい型には中庭を持つ町家らしきものがあり、そして通りの一番奥にピラミッド型の屋根を持つ建物に消点を据えて描いている。ここは図版の中心の下部に当たる。黒線が示すようにきれいな一点透視画法になっている。この建物の外郭線を国芳の「夜討之図」に重ね合わせると、ほぼ重なる。消点左側の建物配置が少しずれているのは、通りの奥をより広く見せるために工夫したのであろう。

(2) 建物と樹木

 両者の建物は同じように配置されているが、国芳はその細部は省略し平坦に描いている。具体的には、ニューホフの図版に見える塀の付柱や、建物のファンライトは省略された。当然ながら、椰子の木は松に替えられている。冬の夜討ちの情景にふさわしく、入道雲は月夜に替わっている。

 以上、国芳は間違いなくニューホフの「東インド会社の職工宿舎」挿絵を上からなぞって全体を描き、若干細部を調整した。元図の中央下部に消点があるおことは知っていたが、それに厳密にこだわることはしなかった。言い換えれば、国芳は自分の目で対象物を一点透視画法で描いたのではなく、あくまですでに描かれたものをなぞったに過ぎないということができる。

7. 結論

 国芳は、ニューホフが一点透視画法で描いた「東インド会社の職工宿舎」原画をおおよそ写し取り、忠臣蔵に討ち入りの場面にふさわしい人物を各所に配置し、「夜討之図」を完成させた。吉良の屋敷は二階建ての寄棟屋根の二階建て建物であり、その周りを高さ5メートルにもなろうという築地塀が取り囲んでいた。従って、国芳は討ち入りの現場をまったくの空想で作り上げたのであり、前代未聞の困難なミッションをやり遂げようとする場面を誇張するためにわざわざこの奇抜な構図を使ったのであろう。国芳は一点透視画法で描かれた図版を模写しただけであり、自分の目で情景をはじめから一点透視画法で描くことはしなかった。

 

 

参考資料Reference

1. Patrick Conner, Oriental Architecture in the West, Thames & Hudson, 1980.

2. 池田哲郎, 江戸時代のオランダ系「地理」, 福島大学芸学部論集第12号の1, 1961年.

3.Anthony Reid, Introduction to “Voyages and Travels to the East Indies 1653-1670,”Oxford University Press, 1988.