Civil Works in Early Meiji Period.

明治初期における土木事業及び土木行政

commenced in August 2015, revised in October 2, 2019, Updated in

June 6, 2023 : Early Japan Railways Described by the Japan Weekly Mail.『ジャパン・ウィークリー・メイル』誌に記された明治初期鉄道 October 20, 2022: IV.章オランダ人技術者の雇用についてAppointment of Dutch engineers.September 23, 2021: III.章『土木司回議録明治2年ー4年』についてArchives of Department of Civil Works 2nd year to 4th year of Meiji Japan.

I. PREFACE.はじめに

1-1.  Points of Argument問題の所在

(1) 江戸時代における民生施設の担い手は?

・民生施設とは人々が生活や経済活動のために用いる施設を指す。具体的には、道路や港など交通や運輸のための施設、河川の洪水や氾濫を治めるための工事などなど。江戸幕府は居館の建築営繕のために作事奉行を持ち、その下で作事方が実際の工事を施工した。しかし、城壁や河川の管理を担う普請奉行や、街道を管理する街道奉行は実働部隊を持たず、維持管理の仕事は諸藩に任せていた。また、複数藩に跨がるような河川氾濫による大水害があれば、有力諸藩にその河川改修を命じた。たとえば木曽川改修には薩摩藩が担った。

・幕府は天文暦学や地図作成を担う部局を持っており、天文方や蕃書調所には科学技術者らしき人たちがいた。また、有力諸藩も洋学を奨励した。幕末期、幕府と有力諸藩の洋学者は国防に駆り出され、特に海軍創設に係わった。江川太郎左衛門の反射炉、武田斐三郎の五稜郭、勝海舟主唱による台場建設、幕府の長崎海軍伝習所の開設などなど。

(2) 民部省下の土木司

・明治政府は、近代国家建設のために西洋流の軍事施設と民生施設の整備をすることになった。イギリスでは、前者はRoyal Engineerが担い、後者はCivil Engineerたちが担い、後者の業務はPublic Worksと呼ばれた。

・明治政府発足とともに民部官/民部省の下に土木司が置かれたが、これは幕府の築城や河川改修を担う部局がそのまま転属した。しかし、明治政府の近代化事業は幕府の旧事業を越えており、土木司はそれを担うことに消極的であったように見える。彼らにそれに関する技術的能力がなかったことと、近代化事業が薩長主導によるもので、彼らが造った政府に従順になれなかったのかもしれない。新しい近代化事業には、灯台、鉄道、電信、造船、組積造公共建築などが含まれる。造船については、幕府と有力諸藩による試みが見られるが、本格的稼働にはほど遠かったように見える。微妙なのが測地測量で、幕末には伊能忠敬による日本列島沿岸地図作成があり、測量技術者らしきものが誕生していたが、しかし、全領陸海域の形状と地目を数学的に測量し、地図にする知識は持っていなかったように思う。そこに外国人コンサルタントや技術者の雇用の必要があった。

・民部省土木司は幕府の建築営繕や河川改修などの技術者を抱えながら、外国人コンサルや技術者の下で、積極的役割を果たさなかった。薩長土肥に握られた官僚組織に対する不満もあったろうし、さらに彼らにまだその能力が無かったとも言える。それでも、土木司の一部は新設の燈明台掛、鉄道掛、電信掛、横須賀製鉄所などに奉職したが、本体は何を新政府の新事業にすべきかでくすぶっていた。たとえば鉄道掛では、幕臣の佐藤政養や大野誠などは積極的に入り、小野友五郎はしぶしぶ入り、小林一知は拒否した。治水・河川改修・新田開発は幕府からの継承事業であり、新政府の目玉事業ではなかったが、その必要性を訴えてオランダ人技術者の雇用に成功する。しかし、薩長土肥が占めていた新政府官僚の中でいったい誰が、この事業に積極的だったのだろうか、、後藤象二郎?

(3) 工部省下の土木寮

・1871年8月に工部省が発足し、土木司は民部省からそこに土木寮として転属したが、2ヶ月もしないうちに大蔵省に再転属してしまった。いったい何があったのであろうか。土木寮主力部隊にとって、工部省は近代諸施設を西洋人雇用によって日本に導入する事を目指す部局であり、日本国内にあるものを維持管理する部局であると自負していたように見える。

(3) 大蔵省下と内務省下の土木寮

・1871年10月に大蔵省ヘ転属し、土木寮の職制は安定しなかった。全国測量、建築営繕?

・1873年11月、大久保利通が内務省を設置すると、土木寮はそこに転属していったが、いったい何を目的に、誰が積極的だったのだろうか。


1-2. Previous Study and Research Materials.既往研究と資料

(1) 既往の研究とその資料

・工学会編『明治工業史・土木編』、昭和4(1929)年

・大蔵省編『工部省沿革報告』、1889年

・鉄道省編『日本鉄道史、上・中・下』、1921年

・『日本科学技術史大系第16巻土木技術』、1970年。Civil Works: Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, Volume 16, 1970.

※これらの既往研究において、明治初期の土木事業に関する議論は、公文書などの一次資料よりも当時の関係者の記憶や記録に多くを依拠している。また、工部大学校の土木学科の役割、測量、銀座築地再開発、鉄道についてはまったく触れられていない。

・田中時彦『明治維新の政局と鉄道建設』、1963年

※幕末から明治5年頃迄の鉄道敷設に関する最も信頼できる研究である。しかし、技術的考察は行われていない。

(2) 新資料

・Japan Weekly Mail

※同誌は1870年に創刊され、に日本の近代化を紹介する記事を多数載せている。日本政府の見解ばかりではなく、政府に雇われた外国人職員の活動も紹介している。


1-3. Terminology.用語

(1) Civil Engineering and Civil Works

・日本語ではCivil Engineeringは土木技術あるいは土木工学と訳されていますが、別項で述べたように、明治初期の誤訳です。明治政府は発足と共に民部省内に土木司を置きました。道路、橋梁、堤防などの維持管理を担い、民部・大蔵省を経て、1871年8月14日に工部省に土木寮として移管されました。同年10月にはどういうわけか土木寮は大蔵省に移管されます。さらに、1873年11月に内務省が創設されると、翌年1月に土木寮はそこに移管されます。このように、明治2年から7年までの間に土木事業は所轄が定まらず、非常に興味深い変遷をたどりました。本来は、工部省Ministry of Public Worksの中心事業部にならなければいけなかった。

・Civil Engineer/Civil Engineeringは工学寮工学校の1873-76年学則ですでに土木と訳されてるので、それ以前にCivil Engineeringは土木として訳されていたことになります。おそらく、長崎の海軍伝習所でオランダ語から訳されたのでしょうか。

・イギリスでは古くからRoyal Engineerという言葉があり、それは陸軍工兵(軍事技術者)を意味しました。さらに海軍Royal NavyにはNaval Engineerがいました。イギリス・シビル・エンジニア協会の公式出版物によれば、18世紀までのイギリスではエンジニアといえばRoyal Engineerを指していたと言われます。18世紀半ば、産業革命が進んでくると、港湾、鉄道、橋梁などの社会インフラや、蒸気機関や産業機械などの産業技術が求めら、それを担う専門職が誕生しました。その最初期の一人がスミートンJohn Smeatonであり、自らをCivil Engineerと称したのです。これを引き継いだのがトーマス・テルフォードThomas Telfordで、彼の広範な業績が社会にCivil Engineerを認知させることになりました。こうして、軍事技術ではない民生用技術にかかわる専門職がCivl Engineerと定着し、彼らが扱う職能領域がCivil Engineeringと呼ばれるようになったわけです。治水を中心にした幕府の「土木」という用語とは完全対応はしませんでした。

・しかし、19世紀末のイギリスではしだいにCivil Engineeringから電気Electricや機械Mechanicalが分離し、それぞれ職能団体を組織することになり、結果的にCivil Engineeringには水、土、空気などの自然環境を生活や産業のために作り直す技術だけが残りました。その意味では少し「土木」に近づいたわけです。

・Civil Engineeringが扱うのは民生用の総ての技術だったのが、次第に社会生活と経済活動の基盤に特化されていき、近代国家ではそれを公共事業Public Worksと呼ばれ、それを担う公共事業局が創設されました。イギリスではこの領域は産業革命期に民間資本で整備されてき経緯があり、現業組織として公共事業局はありませんでした。あったとしても、限定的なものでした。必要とされたのは、民間資本と技術者が十分に育っていなかったヨーロッパ大陸部や植民地でした。

II. Review of Previous Study.既往研究及び資料の検討

(1) 明治工業史・土木編

第一編 道路

第1章 総論

第2章 明治維新前に於ける道路事業

・徳川家康は慶長六年正月品川駅を置き、東海道五十三駅を定む。而して徳川幕府は萬治元年始めて道中奉行を置き、宿駅に関する事務を管掌せしむ。然れども実際の駅路事務を取扱いたるは、奈良屋市右衛門、樽谷三四郎の両人にて公用の伝馬、駄馬等は皆此の両人の発する伝符を証として仕立てたるものなりと云う。

第2章 明治維新前に於ける橋梁事業

・東海道筋の橋梁は濱名橋、矢作橋、吉田大橋最も古く、六郷橋之に次ぐ、而して東海道四大橋と称したるは勢多、矢作、吉田、六郷の四橋にして、徳川幕府は勢多五千石、矢作橋一萬石、吉田橋三千石を維持費として支給せり。

・江戸近傍並びに市内の橋梁中にて最も古きは千住大橋にして文禄三年九月の架設なり。次は六郷橋にして慶長五年六月の架設なり。日本橋は慶長八年、大橋即ち両国橋は満治二年、新大橋は元禄六年七月、永代橋は同十一年八月、大川橋即ち吾妻橋は安永三年十月の架設なり。

第4章 明治年間に於ける道路・橋梁事業

・明治の初年に当たって、土木事業の如きは殆ど重大視するものなかりしも、頻々たる水害の依り、河川工事行われければ、土木行事は悉河川工事なるやの観ありて、道路工事の如きは更に重きを置くもの無かりし。

・一般土木行政執行のため、明治元年以来、中央に土木掛を置き、二年四月民部官中に土木司を設けたりしが、同年七月民部官は民部省と改まり、次いで四年七月廃止せられ、土木事務は工部省に移り、その十月更に大蔵省に移管せられしが、六年十一月内務省新設せられ、省中に土木寮を置き、土木事務を掌理する事と為る。十年一月土木寮を廃止して土木局と改称し、局内に道路課を置き、治水事務等と区別せり。

・明治4年2月、布告第88号を以て、治水条目を定め、堤防費その他河川取り締まりに関する規定を設くる。明治元年より3年まで年平均151万円。

・同年12月、布告第631号を以て右条目を廃止し,更に堤防橋梁など費用の制8条を定める。

・明治6年8月、大蔵省番外達を以て河港道路修築規則を定める→これにより土木工事の方針を確立、5ヶ年の定額、明治7年春より実施

[河港道路修築規則]

・第1則

・明治9年6月の太政官達第59号を以て、明治6年8月の「河港道路修築規則」を廃止し、同達60号を以て国県里道を定める。

[太政官達第59号別紙]

・国道:一等は東京より各開港場に達するもの、二等は東京より伊勢の宗廟及び各府県鎮台に達するもの、

・国道、一等道幅7間、二等同6間、三等同5間

第5章 道路・橋梁工事費

第6章 国道・県道・及び主要道路の発達

・明治9年6月の太政官達第60号

第7章 北海道、朝鮮、台湾、樺太の道路

第二編 河川

第1章 緒言

・幕府時代の河川修築は,河川の大小と工事の軽重により普請と出費先は異にする。幕府の費をもって行うものを公儀御普請、諸侯に命じて助力せしむるものを御手傳普請という。通常の小破は慣例に従い、領主、地頭、或いは居村の民をして之を修理せしむ。治水の方針も亦、専ら自我を主とし壱も他を顧るの念なし。是を以て河川の状態愈々劣悪にとなり、年々歳々水害相次いで起こるを常とせり。

・維新後に至り、河川改修の如き国家経済上重要なる事業は、渋滞の慣習に委せべからずなし、その利害関係の特に至大なるものは国費を以て、政府自ら直轄施工せり。

・明治29年従来の法制を改め、河川法を制定して、内務大臣監督の下に、地方行政庁に於いてその管内に係わる部分の河川を管理せしめ。

第2章 内務省直轄線工事

・政府の直轄河川改修事業は淀川を嚆矢とする,明治6年に実測と各種調査、7年5月に工事着手。その後、利根川、信濃川、木曽川、北上川、富士川、庄川、阿武隈川、最上川、阿賀野川、筑後川、吉野川、大井川、天竜川と合わせて、直轄14河川と称せり。然れども、明治19年度に至るまでは未だ大体に亙改修計画確立するに至らず。

・利根川は、明治7年4月太政官に於いて利根川改修の議を決し、蘭人工師ファン・ドールン及びリンドーの両名をして本川の実測に従事せしめ、翌年8月6日関宿に土木寮出張所を置き、派川江戸川筋中松戸駅に於いてリンドーの計画に係わる制水工を試設せり。→低水工事であり、その後の高水工事とは異なる・

・信濃川は、明治9年実測調査、同11年より工事の着手

・木曽川は、明治11年木曽川、長良川及びえ美衣川の三川を分流せしむる方針を以て、測量に着手。

・明治元年夏、畿内大洪水あり、特に木津川の沿岸に於ける被害甚だしかりしを以て政府は同年10月28日治河使を置き、山城国綴喜郡八幡高町に出張所を置く。

・明治4年正月民部省達を以て、近畿府庁に伐木その他の取り締まりを命ぜり。

・明治5年より7年、内務省御雇工師蘭人ファン・ドールン及びデレーケは淀川流域殊に木津川筋右支不動川及び天神川付近山地の砂防工事に関する意見書を提出せり。

[ファン・ドールン・デレーケ意見書]

一禿げ山に樹木を繁殖せしむる能なざれば草を植えるべし。和蘭に於けると同様、草は日本に於いても繁茂すること疑いなし

・木曽川は明治10年同川修築工事の議起こると共に、工師デレーケは基礎、長良、枝費三川流域を巡視し、河川改良工事に先んじて山地の取り締まりを厳にし、且、砂防工事施行

※明治政府の民部省下の土木司、工部省下の土木寮、大蔵省下の土木寮における河川工事についてはまったく述べられていない。基本的に明治7年以降

第三編 築港

第1章 緒言

第2章 築港事業

・明治の初年、野蒜港は蘭人工師ファン・ドールンをして、その修築の設計を施さしめたり。

・明治11年7月、野蒜港の本工事の着手。17年に竣工したが、水流風流れ激しく、船舶は接岸ならず。

※野蒜港は完成と共に機能しない事が明確になる。それを改善するために長い突堤を造ることを決定するが、この工事の最中に大台風によって崩壊せられる。

第四編 上下水道

第1章 上水道総説

第2章 下水道総説

第3章 関東地方上水道の施設

第五編 軌道

第1章 総説

第2章 軌道の沿革

第3章 法規及び監督

第4章 主要軌道

第六編 運河

第1章 緒言

第2章 北上・阿武隈両川間の運河

第3章 琵琶湖疎水工事

第七編 発電水力

第1章 発電水力の発達の概況

第2章 水力工事改進の摘要

第八編 農業土木

第1章 緒言

第2章 開墾及び疎水事業

・明治2年3月10日、東京府は開墾役所を置き、府下無産の人民を下総国小金原に移し、その地の開墾に当たらせる。

・同年5月3日、民部省は開墾局を置き、東京府の小金原開墾を引き継ぐ。

・明治5年10月、福島県令安場保和、大槻原開墾の意見を大蔵省井上馨に上申する

・明治6年4月、開墾方法及び目論見書などを添えて、さらに開墾費七千円

・明治6年4月21日、開墾工事の開始、十三等出仕石井貞廉、加藤邦憲など事務を拠当

第九編 軍事土木

第1章 陸軍の部

第2章 海軍の部

第十編 航路標識

第1章 総説

第2章 古今沿革

第十一編 都市事業

第1章 総説

第2章 東京市に於ける市区改正

第十二編

第1章 総説

・明治以前の測量術に於いては三角測量或いは水準測量等の如きを用いることを知らず。隋って海岸線の如きも如何なる潮位を基準とせしや不明にしてその測量術たる甚だ姑息なるものなりき。然るに明治維新のなるや、盛に秦西の新知識を輸入し、測量術の如きも旧来の法を棄て、近代の進歩せる科学的測地学を採用するに至りしを以て、面目全く一新し、急速なる進歩をなせり。

・明治四年工部省に測量司を設け、英人マクウエン、他五名を聘して全国測量の業を企て、同五年測量師長マクウエンの指導の下に、東京府下に於いて始めて三角測量を開始し、宮城富士見櫓に一点を設け、順次十三点の三角網を作り、本所基線に閉塞せしめ、次いで東京全市を包容せり。その後、大阪京都並びに各開港場の三角測量に着手せしが、何れも完成の域に達せざるに、明治七年此の事業を内務省に移し、同省地理寮に於いて之を継承し、依然英国式に準じ、全国大三角測量に従事せり。ま

第2章 地形測量・陸地測量部

第3章 地形測量・地質調査部

第4章 海洋測量

・明治2年兵部少輔河村純義海軍主任たりし時、津藩士柳楢悦を徴し、倶に水路事業の創設に従事し、明治四年兵部省海軍部に水路局を設け、翌五年海軍水路寮に改められたるも、夫は徒に有名無実の感ありて、何等設備のみるべきものなかりしが、明治九年海軍条例に依り寮を局にあたら目、新たに庶務測量製図計算の四分課を置き始めて具体的に水路部なるものの成立せり。

・明治三年柳を測量主任に、伊藤を副主任に任じ、軍艦第一丁卯丸を用いて、英艦シルビアと共同し、的矢、尾鷲の諸港を測量せしめ、次いで内海の塩飽諸島、備讃瀬戸を測量せり。

・翌四年、柳は軍艦春日に艦長として搭乗し、英艦シルビアと聯合して北海道沿岸海測量を開始し、春日は野付牛錨地等を、英艦は室蘭港等を、相互に分離測量せり。

第5章 辺地測量

第6章 基本観測

第十三編 土木行政

第1章 総説

・明治元年正月17日、土木司官庁の嚆矢

・同年2月22日、内国事務局中に民政役所を設け、会計官を置き、七司を定める。その内、営繕司が土木の事務を管掌する事を定めたり

・同年5月19日、江戸に民政裁判所を置き、関東駿河以東十三国に於ける治水の事を掌管せしめ、同月、治河使を置く。

・明治2年6月4日、太政官に民部省を設置し、聴訴司、庶務司、駅逓司、土木司、物産司の五司を管轄する。同年7月27日、治河使を廃止

・明治2年8月、財務省営繕司を廃し、その事務を土木司の所管に移し、

・明治3年7月、民部大蔵省の事務を分離するに際し、地理、土木、駅逓の三司は依然として民部省所轄。

・明治3年10月工部省が発足し、4年7月27日には民部省ノ廃止→土木司を除いて工部省に移管

・明治4年7月、工部省の職制完成、10寮1司。一等寮:工学、勧工、鉱山、鉄道、第二寮:土木、燈台、造船、電信、製鉄、政策、一等司:測量司

・明治4年10月8日、土木寮を大蔵省に移管する

・明治6年11月10日、内務省が発足し、翌年1月9日に二等寮に駅逓、戸籍、土木、地理、一等司に測量を所管する。

・明治10月1月11日、各省中諸寮を廃止し、内務省に土木局を設ける。

第2章 道路行政

第3章 河川・砂防・運河及び公有水面

第4章 港湾

第5章 都市土木

第十四編

第1章 緒言

第2章 高等教育

(2) 日本科学技術史大系第16巻土木技術Civil Works: Encyclopedia of History of Science and Technology in Japan, Volume 16, 1970.

第一章富国強兵の土木技術

1-1. 土木行政の整備

1868年

2月10日(明治元年1月17日)明治政府に七科(神祇事務科、内国事務科、外国事務科、海陸軍事務科、会計事務科、刑法事務科、制度事務科)設置。内国事務総督が全国の水陸、運輸、駅路、開市、都城、港口、鎮台、市伊の事務を掌る。

2月25日(明治元年2月3日)七科を廃して八局(総裁局、神祇事務局、内国事務局、外国事務局、軍防事務局、会計事務局、刑法事務局、制度事務局)設置。

6月11日(明治元年4月21日)八局を廃して七官(議定官、行政官、会計官、神祇官、軍務官、外国官、刑法官)設置。会計官の下に七司が置かれ、そのうちの営繕司が土木の事務を掌った。

12月11日(明治元年10月28日)治河使の設置。

1869年

5月19日(明治2年4月8日)民部官が設けられ八官となる。民部官の下に五司が置かれ、土木司が通路、橋梁、堤防などの営作の事務を掌る。

8月15日(明治2年7月8日)八官を廃して二官(神祇官、太政官)六省(民部省、大蔵省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省)の設置。八官は対等で、それらの総称が太政官であった。治河使、大蔵省営繕司を廃止し、民部省土木司に統一

1870年

12月12日(明治3年10月20日)民部省の鉱山司、製鉄所掛、鉄道掛、燈明台掛、伝信機掛を移して工部省を設置。

1871年

8月24日(明治4年7月9日)土木司を民部省より工部省に移す。

9月28日(明治4年8月14日)土木司を土木寮と改める。

11月10日(明治4年10月8日)土木寮を工部省より大蔵省に移す。

1873年

11月10日、内務省の新設。

1874年

1月9日、大蔵省より勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮を、また司法省から警保寮を移す。「内務省職制及事務章程」1月10日、「土木寮ハ道路川海堤防橋梁修繕ノ事務及法則」

1877年

1月11日、土木寮を土木局と改める。

1-2. 外人技師と留学生

明治政府は近代国家にふさわしい土木行政を展開するために

(1) 先進国から優秀な技師を招いて高度の技術を早急に委嘱すること

・1870(明治3)年、任期を終えて帰国しようとするオランダ軍医のボードウィンに民部省土木司は土木技師を選んで派遣するように依頼した。その結果、1872年にファンドールン、リンドゥが、1873年にエッセル、チッセン、デレーケがやってきた。オランダ技師は、河川、港湾関係の土木工事で多くの成果を残した。淀川、利根川、木曽川、野蒜港、三国港、大阪港、新潟港、東京港、横浜港

(2) 有能な成年を先進国に留学させて自立を準備すること

・フランス留学の山田寅吉、古市公威、沖野忠雄、アメリカ留学の宮之原誠蔵、ドイツ留学の田辺義三郎、イギリス留学の石黒五十三、創業まもない内務省に入って土木行政の骨格を作った。

・古市公威

・沖野忠雄

1-3. 重点となった河川事業

第二章 殖産興業政策と鉄道建設

1868年(京王3年2月23日)、駐日アメリカ合衆国公使館書記官ポートマン、幕府老中外国事務総裁小笠原長信から江戸・横浜間鉄道建設の許可取得。

大政奉還のため、上記免許は無効に。

1868年(慶応4年2月)、佐賀藩士大木喬任は政府に江戸遷都と京都・江戸間に鉄道建設を建議。大隈と伊藤が同調。

1869年(明治2年3月)ヘンリー・ブラントンの参考意見書、11月10日に大隈は太政官で鉄道建設を決定。

・イギリス国内の鉄道を持ち込むのではなく、その植民地のそれと同系列のものを導入することになった。当初建設に着手した線路の区間、線路規格は、このことをよく物語っている。東京・京都・神戸間の幹線、琵琶湖沿岸・敦賀間の支線、都市と開港場とを結ぶ線路を建設することは植民地における鉄道建設の慣行であり、幕末以来外国人の出願がこれらの区間に集中し、ブラントンの意見書が東京・横浜間をまず着工すべきことを説いていたのも、すべてこのような視点に立つものであった。線路規格を3フィート6インチと定められた経緯は、不明な点を多く残しているが、エドモンド・モレルの提案でオーストラリアのものを採用したという。

2-1.

2.2.

(3) 日本鉄道史(上)

第一章 明治以前の事績

第二章 鉄道の創始

第一節

-1. 明治2年3月横浜在留英国人「アレキサンドル・カンフル」は鉄道敷設の請願書(西暦1869年4月21日付け)を寺島神奈川県知事に提出

※この請願書の提出日は明記されているが、文書の内容要約を紹介するのみで、現物は示されていない。はそれを受け取ったが、政府はそれを拒否したとある。

-2. 政府は雇英国人燈台機械方「アール・ヘンリー・ブラントン」に鉄道に関する意見書を求める。

※この意見書の提出日は示されていないが、要約を紹介している。「まずは最短距離の模範鉄道を興すべし」

-3. 明治2年10月11日付けで、外務省は鉄道建設の政府に上申。「我邦に鉄道を起こすの急務なり、模範として東京横浜間に之を起こす」

※上申書の全文あり

-4. イギリス公使パークスは政府に鉄道建設を進言し、明治2年11月5日、日本政府の岩倉、澤、三条が相談し、大隈と伊藤も列席。鉄道と電信の起業の意あることを告げる

※パークスの進言書の要約のみ紹介され、また政府からの回答の公文書は示されず。

-5. パークスの紹介で、「ホレシオ・ネルソン・レー」は我政府の為鉄道に要する資金を供せんことを提言→大隈、伊藤、井上勝は11月10日に廟議によりレーに委任

※これに関する公文書は示されず

-6. レーの不正が発覚し、1870年12月14日、28日の公書をもってレーを解雇

※これに関する公文書は示されず

-7. 輿論の反抗と谷暢卿の建議

・弾正臺の反対意見→※戊辰戦争に多大な出費を行い、民衆は困窮に貧しているというのに鉄道建設の必要はない。軍艦製造ならまだましである。

・谷暢卿の建議→※建議文書を添えて、火輪車建設を指示する。

-8. 鉄道憶測

・前島密の鉄道収支予算書→※文書あり。

-9. 軌間の決定

・軌間決定事情、レーはロンドンでの資金調達と同時に、顧問と建設技術者の探した→顧問に「ブレストン・ホワイト」、技師長に「モレル」

・ホワイトは曾てインドに於いて技術上の経験あり、当時英国政府の顧問工師、西班牙政府の顧問工師、日本の鉄道を3フィート6インチとすることを進言し、レーに伝える

※「ブレストン・ホワイト」なる技師は本当にいたのか。以上の話には何の文書も示されていない。

第二節 東京横浜間鉄道

-1. 明治2年11月、鉄道起業の廟議決し東西両京を連絡とし東京横浜間その他を支線とし先つ東京横浜間の工事を起こすとを命ぜらる。

-2. 明治3年3月17日、東京府及び神奈川、品川の二県へ線路測量として雇外国人を率いて官員出張の旨を達し、19日鉄道掛を東京築地元尾張藩邸に創置す。

-3. 同年3月22日、横浜野毛町に於ける寒川県所轄の官舎(元修文館)に横浜出張所を置き。六鄕川を以て境界とし東西両端より起工することを定む。

-4. 同年3月25日、東京芝口汐留の近傍を量地す。

-5. 同年3月27日、監督正上野景範に鉄道掛を命じ

-6. 同年3月、英尺「フィート」を我が1尺4厘と定める。

-7. 同年4月3日、横浜野毛浦海岸より亦測量を始む。ダイアック、イングランド、セッパルド

※ダイアックの写真はないが、マクヴェイン文書にイングランドとシェパードの写真あり

-8. 同年4月14日、土木権正平井義十郎を副たらしむ。これより英国人建築師等来任し土木大属小林易知、准十等出仕小野友五郎等之と共に線路測量の業に勤しむ。

※この証拠となる文書は示されず。ただし、公文録『土木司回議留』に小林一知は鉄道掛に測量機器を貸し出したため、測量事業を開始できなかったと述べている。

-9. 同年4月12日、元龍野、仙台、会津の三邸を敷地として、蒸気車会所建築の為に地均工事の開始。同敷地は兵部省の浜殿海軍所拡張の予定地になっていた。

-10. 同年5月26日、兵部省は蒸気車解除を他に建築するか、または線路を西方に移すことを上申『会所の儀築地近傍へ、、、』の文書あり。

-11. 同年5月26日、横浜野毛町海岸地は前年2月以来埋め立てられ、当地を横浜停車場敷地とする。同所地続石崎より神奈川青樹町海岸まで築堤を造り、長さ770間、幅35間、中央5間を鉄道線路、幅6間を公道とす。

-12. 同年6月、橋梁工事を起こし、神奈川第19橋から始め、10月六鄕川本憍を起工しす。神奈川台の掘割に着手、八ッ山及び御殿山の掘割工事を起工し、11月以降諸所の盛り土を始める。

※神奈川台と御殿山の切り通し掘削工事は明治3年10月から始まり、すでに兵部省は品川高輪築堤建設を容認していた。

-13. 6月8 日、大蔵省は高縄町兵部省用地の内を鉄道用地として引き渡し方を上申→兵部省の抵抗

-14. 7月10日、太政官は高輪富士鑑宿陣所を民部省に引き渡すべき事を命じる→兵部省引き渡しに応ぜず

-15. 8月15日、鉄道掛は東京府庁を経て之を受領せり、

-16. 10月20日、工部省を設置し、鉄道は該省の所管に属せる。

-17.10月22日、兵部省は元尾張、安藝その他の邸地を海軍所用地として受くる、浜殿は宮内庁に帰す。

-18. 12月14日、鉄道掛の事務局を省内に移す。

-19. 明治3年12月工部省は掲旗を定める。その章白布紅書工字とする。

-20. 明治4年正月、品川七番砲台場の一部を取り壊しその石材を鉄道工事に使用船とを海軍所と協定する。

※御殿山・八ッ山の切り通し工事からでた土砂は、高輪築堤に埋め立てに使われ、あた築堤石は品川台場他から調達された。この工事は明治4年に入り本格化した。

-21. 同年9月、横浜停車場本屋落成

-22. 同年11月汐留停車場本屋落成

-23. 明治5年正月、品川停車場本屋落成

-24. 同年2月26日、鉄道寮を汐留停車場本屋に移す。更に8月、葵坂に新築したる工部省庁舎内に売れを移す。

-25. 同年5月3日、太政官布告「7日をもって品川横浜間を仮に開業する」

-26. 同年5月27日、汐留停車場を新橋と改称する。

-27. 同年8月14日、工部省下に鉄道寮を設置

-28. 同年9月、技師長モレルの死去

-29.同年9月29日、新橋横浜間工事全て落成する。距離18里、昼間停車場4箇所、家屋42棟、橋梁大小22箇所(皆木桁を用いた)、溝橋24箇所

-30. 同年

(4) 明治維新の政局と鉄道建設(1963年)

第一章 幕末における鉄道導入の動き

第一節 鉄王に関する知識の摂取と導入の企画

・1830年、天保元年、マンチェスター・リバプール間鉄道の開通。※インドでは1853年、英領南オーストラリアで1854年、蘭領東インドで1864年、それぞれ開通。

・嘉永5年(1852)、備前藩主鍋島斉正が、出島を通じて蒸気車の知識を入手。

・嘉永6年、ロシアのプチャーチン使節が長崎来港し、肥前藩主鍋島ら蒸気車模型を見学。

・嘉永7年(1854)、薩摩藩の蘭医川本幸民が蒸気車の機構図を入手。鉄道模型製造

    同年、ペリー二度目の来航、幕府将軍に贈与品、蒸気車と電信の模型が含まれる。アメリカ側士官の中にポートマンがいた。幕府及び有力諸藩に蒸気車の情報が拡散

・文久2年、薩摩藩主島津斉彬は蒸気船購入の企て、慶応元年、ベルギー人モンブランの支援により京都・大坂間に鉄道建設の企て

・明治元年、イギリス留学から帰国した長州藩士野村弥吉は、新政府に登用され、鉄道責任者として外国人に鉄道建設の主導権を奪われるのを防いだ。

第二節 先進国側の鉄道建設勧誘と幕府側の対応

・慶応2年、幕府のフランス人顧問フリューリー=エラールの軍事的進言の中に、鉄道建設あり。

・慶応2年、エラールの進言に対し、勘定奉行小栗忠順は「国用多端」のため受け入れず

・慶応2年、英仏と幕府は「改税約書」を締結し、燈台築設を決める。

・慶応3年、横浜在住外国人ウェストウッドが江戸・横浜間の鉄道建設を幕府に出願。敷設主体は外国側→幕府は回答を作成したが、発送せず

・慶応3年、アメリカ公使館員ポートマンから江戸・東京間鉄道建設の請願→幕府は米が仏英ほど政局に対して露骨な介入はしなかったので好感を持った

・慶応3年12月23日、幕府老中・外国事務総裁小笠原長行から江戸・横浜間鉄道建設の許可状、「規則書」→東海交通を妨げない、敷設・経営権はアメリカ側、

第二章 明治政府における鉄道導入政策の形成過程

第一節 明治新政府に於ける自国管轄方針の確立

・慶応4年2月11日、新政府副総裁三条実美宛て、同年4月1日副総裁岩倉具視宛の肥前藩大木民平の両京間鉄道建設の建議→具体化せず

・明治元年7月、灯台建設のためブラントンが来日→日本政府に雇われたのだから、日本政府側に立って行動すべき、パークスからの指示で行動すべからず

・明治2年、ポートマンの許可状の行方、モンブラン他複数の外国人から敷設の請願→幕府政権下の約束は反故

・明治2年3月10日、横浜在住イギリス人某が、神奈川県知事寺島に対し東京・横浜間鉄道建設の上申書を提出→敷設・経営縁は外国側、後に日本政府の買い上げ

第二節 イギリス側の啓蒙と援助による促

・明治2年、パークスは日本政府に自国管轄方式を認めた上で鉄道建設の建議

・明治2年3月、ブラントンの鉄道建設の建議「方今御話中之鉄道之儀ニ付」→日本の自国管轄方式、見本鉄道を最初に敷設し、その後、鉄道網を整備、国営とすべし

※国営を意図していたと書いてあるが、そのような文言は何処にも見当たらず、民営でも日本側が資本と経営権を持つべきであるとブラントンは語っている。

・明治2年6月、伊藤博文が兵庫県知事から会計官権判事に就任、7月には大蔵少輔、民部兼任大蔵少輔→大隈と共にパークスと会見する機会に恵まれる。

第三章 明治政府における鉄道導入政策の国際的国内的背景

第一節 イギリス側による鉄道建設勧誘の意図とその性格

・明治2年6月、パークスの友人ホライショ・ネルソン・レイの来日→パークスと日本政府に鉄道建設の支援について話し合ったらしい。

・明治2年10月11日、外務省は太政官に対して鉄道建設の建議→国内紙本により外国人技術者を雇用し、自国管轄の方式→国内資本を集める目途立たず

・明治2年10月、パークスを介してレイは大隈と資金借款の内約を結ぶ→レイから利率1割2分、税関並びに鉄道運賃収入を担保として百万ポンドの借款

・同年11月5日、旧肥前藩主鍋島直正に推された大隈と、旧長州藩士木戸孝允の結託→外資借入の合意

第二節 日本政府における鉄道導入の意図とその性格

・同年11月11日、レイとの契約、レイとパークスは一枚板ではなかった。同月12日、正式な借款契約

・明治3年3月14日、民部大蔵省改正掛長渋沢篤太郎による「電信機蒸気車ヲ興隆スベキノ建議」、兵権確立のために東西両京を結ぶ

・同年6月、太政官は東海道沿線諸藩に対して鉄道建設のための測量を施行する旨の布告

第四章 鉄道建設における対外問題の処理とその背景

第一節 イレ借款契約の成立とその諸問題

・レイ借款以前の先例として、幕府抗戦派がフランスから600万ドルを借款する計画があった→返済不能となった場合、担保を奪われる

・慶応4年9月、明治政府は、幕府が横須賀製鉄所建設のためにフランスから借款の返済不能→フランス政府による同製鉄所の差し押さえ→新政府はオリエンタル銀行から50万ドルを借款

・明治2年11月、明治政府にレイ借款に関する覚書、政府の外債合計600万両(メキシコドル)を年利1割8分2厘から1割5分で借款中、レイから450万ドルを年利1割2分で借入れ、前者借款の返還に充てる。

・同年同月、パークスは技師長としてモレルを推挙し、彼は来日。

※パークスはどのようにモレルを知ったのか不明。すでに日本には鉄道建設の経験を持つ英吉利人技師がいた。大阪のキンダー。

・同年同月12日、正式にレイと借款契約、「鉄道建設資金壱百万借入方英吉利人レーニ委任ニ関スル命令書」「帝国政府ト英吉利人レートノ間ニ締結シタル鉄道建設資金壱百万調達ニ関スル契約書。レイ個人は資金百万ポンド=450万ドルを1870年5月30日迄に用意し、明治政府は年利1割2分、明治5年から年10万ポンド10年間の返済、担保。「追加契約書」により100万ポンドの内、30万ポンドを鉄道建設に充てる。その30万ポンドはオリエンタル銀行に預けることになっていた。

・大隈・伊藤は、レイが自らを含む数人からの資金を調達すると理解していたのに対して、レイは一般公債募集とした。

第二節 借款の難航と自国管轄方針の貫徹

・明治2年12月9日、オリエンタル銀行横浜支店支配人ロバートソンは、伊藤の同席を得て、レイと借款契約の疑問点の解明を行った。その際、伊藤は担保と返済に関して規程が曖昧である事を知り、この契約をこのまますすめることに危険を感じた。→伊藤は契約改定の可能性をロバートソンと相談

・同年同月19日、レイは1870年1月20日付けで「別項約書」を大隈に送付。同月22日、借款を調達し、技師を雇用するために横浜港からイギリスに出港。

・明治3年2月3日、アメリカ公使デ=ロング、ポートマンに与えた許可状の実現の要求。

・明治3年1月、レイは帰国の途中にセイロンでモレルと面会し、同月21日付け書簡で技師長職に任命。

・同年3月9日、レイの代理人トロウトマンと、技師長のモレルの来日。

・同年3月17日、太政官は東京横浜間の鉄道建設のための測量実施を通達。民部省内に鉄道掛を設置し、土木監督正に上野景介をを任命。小野友五郎。

・同年3月25日、汐留付近を起点に測量開始。大蔵省からの「鉄道御手当金」5万両をもって、賃銀支払いと土地の買い上げ。

※デ=ロングとの交渉を経て、日本政府は自国管轄方式の意思を固める。信用できないレイに対し、オリエンタル銀行は資金を鉄道建設に適正に使用することを確約。測量に関しては『日本鉄道史』に完全に依拠しており、信頼性に乏しい。

・同年3月23日、1870年4月23日、レイはロンドンにおいて日本の鉄道建設借款の公募を開始。9分利率で公募しながら、レイは日本政府1割2分で利率操作

・同年5月20日、民部大蔵出仕塩田三郎が、レイによる鉄道借款債権公募を知り、民部大蔵省官僚に報告。

・同年5月24日、明治政府は、レイの違約行為により鉄道借款代理人をオリエンタル銀行に変更、委任状を発行。

第三節 オリエンタル銀行の協力による鉄道借款事業の運営

・明治3年5月5日、1870年6月3日付けレイ書簡、トロウトマンを代理人の地位から解任し、改めてオリエンタル銀行を代理人に任命。レイは、レーンとブライアンの二名の技師をモレルの次席に任命。

・同年10月14日、1870年12月6日付けでレイ解約の示談成立。明治政府は、解約費・募集費などとして計7万ポンドをレイとエルランジェ商会に支払う。

・技師長モレルは、パークスの庇護の下に、オリエンタル銀行と大隈・伊藤と協議しながら建設工事を準備し遂行していった。最初は明治3年暮れまでに東京・横浜間を完成させる予定だった。

・モレルが最初に副技師長に任命しようとしたのがウィリアム・シールドWilliam Shieldで、専門書を書くほどイギリスで有名な技師であった。当時、失業中であったが、最終的には任用には至らず。もう一人のジョン・イングランドは海外での鉄道建設の経験があった。レイはホワイトG.P. Whiteを推薦したが、任用に至らず。大隈・伊藤は最終的にオリエンタル銀行に相談して、これら技師たちの任用を決定した。

・同年9月24日付けで民部省がオリエンタル銀行に送った書簡で、モレルが見積もった鉄道線路と枕木を承認。

※この時点で東京横浜間の路線計画が完成し、それに基づいて工事総領と必要資材見積ができていたことになる。設計変更はなかった。木製枕木、木造橋梁、狭軌道

・同年10月25日(1870年11月28日)、レイの解任と共に、オリエンタル銀行はカーギルを鉄道差配に任命し、カーギルは日本に出港。

・明治4年3月1日(1871年4月20日)、カーギル発大隈宛私信の中で、日本側鉄道建設責任者の選出を要請。→大蔵省造幣頭から井上弥吉が民部権大丞に転属

※井上勝を「ロンドン大学で鉄道技術の習得に努めた人物」とするのは誤りで、ロンドン大学にはそのような学科・講義はなかった。applied scienceといって広範な工学科目を学んだに過ぎない。

・明治5年4月、カーギルがオリエンタル銀行から召喚命令を受けるが、井上勝はカーギルの慰留を政府と銀行に働きかける。

・同年5月、カーギルを5年契約で政府雇い。

・明治6年3月、な神奈川駐在イギリス副領事ロバートソンは「鉄道建設のための全ての作業を自らの運営に持ち込み、これまで大幅に外国側の技術と労力に依拠してきたものを有効に持ち替えようとする要求が、日本政府之川に次第に芽生えている」

第五章 鉄道導入過程における国内問題の処理とその背景

第一節 明治新政府内における鉄道導入反対の動きとその性格

・明治2年12月〜翌年3月、弾正台(後の司法省)、鉄道敷設のための冗費よりも、軍艦製造に国費を廻すべき

・明治3年4月3日、兵部省は浜離宮周辺を海軍用地とするよう太政官に請願→民部省は同月18日、浜離宮脇に鉄道停車場の建設開始。

・同年5月26日、兵部省は浜離宮周辺地を獲得するために太政官に再度採決を迫る。執筆者は兵部省大輔前原一誠。→

・同年6月3日、太政官は測量の必要上、築地の兵部省用地の引き渡しを申入れ→富士鑑宿陣所の引き渡し拒否、八ッ山下の兵部省用地の測量拒否

・同年6月14日、兵部省は太政官へ築地海軍所の拡張を要求。

・同年8月15日、兵部省は築地海軍所及び周辺地を民部省鉄道掛に引き渡し。

※兵部省は防御が整わない明治3年に東京湾西岸をへて鉄道が都心に入って来る事に軍事的危惧を唱えて反対したのであり、鉄道敷設そのものに反対したのではなかった。また、敷設計画は、鉄路が東海道と並走しないように高輪築堤建設を前提していた。

第二節 新政府外における鉄道導入反対の動き

・不平士族の新政府に対する不信感が鉄道建設反対運動に向かった

第三節 明治新政府改名派がとった国内的諸対策

・明治3年3月14日、太政官に対する民部省建議、

・土木事業問題では京浜地区の建築業者や土木業者の請け負いによって推進された。佐賀藩御用達、材木商高島嘉右衛門、薩摩藩御用達、土木請負業平野弥十郎ら。

明治5年2月、工部省「鉄道略則」

・明治5年9月、全工事の完了。同月23日、横濱に於いて天皇親臨の下に鉄道開業式

附録 レイ借款関係パークス書簡の翻訳とその解説

III. New Research Sources and Arguments新たな史料と議論.

1.公文書Public Records

(1) 土木司回議録明治2年〜4年

(2) 民部省土木司営繕事務ヲ大蔵省営繕司ニ属ス、明治3年7月 

・明治2年8月大蔵省営繕司ヲ廃シ其ノ事務ヲ民部省土木司ニ併属ス

・明治3年7月17日大蔵省中ニ営繕司ヲ置ク

(3) 民部省土木司検査測量ノ二掛ヲ置ク、明治4年7月日不詳

2. 同時代の新聞や雑誌Contemporary Newspaper and Magazine

*既往研究が依拠した関係者の記憶と記録は真実を伝えているとはいえず、それに対して次のような同時代の英字新聞及び雑誌は生の状況を報告している。

・Japan Weekly Mail, 1870-1876.

・Transaction of Asiatic Society of Japan, 1873-1876,


IV. Civil Engineers and their Organization土木技術者と関連組織.

1. 土木司、土木寮、そして土木局への変遷経緯

(1) 民部官、民部省、民部・大蔵省

(2) 工部省

(3) 大蔵省

(4) 内務省

2. 関連官僚と技術者

(1) 新政府官僚:後藤象三郎(1838高知)、

(2) 旧幕臣:小野友五郎(1817)、佐藤政養(1821庄内)、小林一知(1838)、

(3) 工部大学校:田辺朔郎(1861)

(4) 大学南校:古市公威(1854姫路)、沖野忠雄(1854兵庫)

(5) 札幌農学校:室田(1850会津)、広井勇(1862高知)

(6) 留学経験者:(仏)古市公威、沖野忠雄

(7) 外国人技術者

V. Construction of Railways鉄道建設.

1. 問題点Points of Argument

・『日本鉄道史(上)』が唯一無二の史料であり、本書に当時の公文書が載せてあれば信じるに値するが、証左のないものは関係者の記憶をもとに記述したと考えられる。それらは眉に唾を付けて読むべきであり、また、情報の集めきらなかった事項については何も書かれていない。記述の疑わしい箇所と、何も記されていない事項は、私の関心では以下の通りである。

(1) 横浜・東京間の敷設計画全般が不明Question of Planing Process of Yokohama-Tokyo Railway Line.

(2) イギリス人技師たちの任用過程が不明

(3) 工事工程が不明Question of Execution Processes.

(4) 日本と外国人の協力関係が不明Question of Collaboration Between Japanese and British


2. 議論を進めるための新資料New Sources for Further Arguments

(1) Japan Weekly Mail, 1870-1873"

+April 9, 1870, Yokohama Consular Trade Report

--Mr. Lowdee makes no mention of the declared intention of the Government to construct a Railway, the first steps towards which will be made within a few days ; but this work, though it will require some tenacity of purpose to carry it through, and though sure to meet with more or less opposition of more or less honesty, cannot be too strongly urged upon the Government, or supported by the best native opinion. 

+April, 30, 1870, Notes of the Week.

--In the first number of this Journal published in January last, it was stated that neither Mr. Trautmann nor Messrs. Trautmann & Co. of Shanghai had any direct or indirect interest in the Railway about to be constructed by the Japanese Government. 

+April, 30, 1870, Public Works.

+May 7, 1870. "Employment of Foreigners by the Japanese." 

+May 21, 1870. "Notes of the Week" related to Railways Construction.

--この記事が東京横浜間鉄道の敷設計画と工事進捗状況を伝える最重要記録であろう。

+May 28, 1870, "Notes of the Week." related to Railway Construction.

--東京・大坂間の鉄道と、敦賀支線の建設計画を紹介している。

+June 25, 1870. "The Loan and Railway."

--

VI. Reconstruction of Ginza-Nihonbashi Burned Area1872年焼失銀座・日本橋の再開発.

1. 問題点Points of Argument

(1) 雇用される経緯が不明Question of Process of Appointment.

(2) イギリス人技師との軋轢Conflict with British Engineers


VII. Cooperation with Dutch Civil Engineers for Harbour Development and River Improvementオランダ人技術者と河川改修・港湾整備.

1. 問題点Points of Argument

(1) 雇用される経緯が不明Question of Process of Appointment.

(2) イギリス人技師との軋轢Conflict with British Engineers